2023年12月10日(日)待降節第二主日 主日礼拝  

  説教:木村長政 名誉牧師

「神の国は近づいた、悔い改めよ」       20231210

   マルコによる福音書1章1~8節

 今日の聖書は、マルコによる福音書1:1~8です。まず「マルコによる福音書」について見てみます。ふつうは、福音書は、主イエス様の伝記が書かれているように言います。確かにルカによる福音書などは、なるべく歴史の順を追って、手元にある資料と、ルカが聞いた事をなるべく詳しく書こうとしたでしょう。しかし、専門家の間では福音書は伝記とは言えない。そればかりか、イエス伝を書くことは不可能だ、とさえ言われています。イエス様のご生涯を誰も初めから記録したわけではありません。恐らく、あの時、こう言われた、とか驚くべき奇跡の業をなさって、人々の心に強く印象に残っていて、初代教会の中で語り継がれていった。と見るほうが良いようです。それを、マルコは集めて編集をしていったようです。また、マルコは、ペテロの通訳であったらしいので、ペテロからも、イエス様と生活を一緒にしていた話を聞いてメモしていたでしょう。或いはまた、初代教会の代表的人物にバナルバという人がいて、マルコとは従兄弟同士で、パウロの伝道旅行にバナルバとマルコは同行しています。ですからパウロとの関係もありました。マルコはペテロとローマに行っている間、ローマの信徒たちから、ペテロが語ったことを記憶に従って書述するように求めたようです。こうして、ペテロとパウロの死後ローマでマルコはペテロの説いた福音を文章として残したようです。この福音書がいつ頃書かれたか、と言いますと紀元65年頃と言われています。福音書は福音を読むべきもので、歴史的興味で読んでも、それは無理なことです。そこには福音書の霊的な不思議な性質があるのです。マルコ福音書1章1節はこれだけ独立していて2節以下の本文と直接結びつけることは出来ない。初代教会の人々はイエス様の生涯について、どのように見ていたのでしょうか。洗礼者ヨハネの出現と、ヨルダン川での洗礼に始まって、最後はイエス様の昇天で終るのでした。ですから1章1節は2~8節に対する標題というふうに見られます。まず、1節のみ言葉について見てゆきます。塚本訳では「イエス・キリストの福音はこうして始まった。」と訳しています。共同訳では「神の子、イエス・キリストの福音のはじめ」と訳されています。神の子イエス・キリストの言葉と業とにより神の国が来る。そのイエスを信ずるだけで、救われる、という嬉しい音ずれは洗礼者ヨハネの活動をもって始まった、と考えたのです。福音という言葉には喜ばしい音ずれ、という古典ギリシャ語でユーアンゲリオンと言いますが元々は戦いに勝った、喜ばしい知らせを使者が報告することを意味したものです。紀元元年頃ローマ皇帝を礼拝する時代には人類に平和と救いをもたらす皇帝の出現は、よき音ずれであり、その誕生は「喜ばしい音ずれ」という意味で福音が用いられた。今の時代に「人類に平和と救い」をもたらす福音が本当に求められているのではないでしょうか。イザヤ書40章9節には、うるわしい喜びを歌い上げています。「高い山に登れ、良い知らせをシオンに伝える者よ。力をふるって声をあげよ、良い知らせをエルサレムに伝える者よ。声をあげよ、恐れるな、ユダの町々に告げよ。見よあなたたちの神、見よ主なる、神、彼は力を帯びて来られ、み腕を持って統治される。」「福音」と言う言葉を最初にキリスト教に取り入れたのはパウロで、ロマ書1章16節に「福音はユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じる者全てに救いをもたらす、神の力だからです」。という特別の意味を持たせた。さらに2世紀の中頃になるとパウロが用いた内容と同時に「イエス様の生涯の物語」を指して言うようになった。さて、この2節以下の本文は聖書の引用から始まります。またこの部分の結びの11節はイエス様がヨハネから洗礼を受けられ、その時天から神の言葉が臨んだ、言葉で終ります。このように主イエス・キリストの出来事は聖書に書いてあるとおりのことでありました。主イエス・キリストの福音はまさしく聖書が伝える神の言葉に従って起こった救いであることを喜びを持って語るのです。

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「預言者イザヤの書に、こう書いてある」。マルコはそう書き始めました。しかし、ここで引用されているのは厳密にはイザヤ書の言葉ばだけではありません。この当時、自分たちが待ち望む、救いの約束を告げてくれる聖書の言葉のエッセンスを集めた書物が愛用されていたようです。「証言集」と呼ばれていました。そこに収められていた言葉が此処に引用されているのではないかと言われています。「見よ、わたしはあなたの前に使いを遣わし」。とありますが、これはイスラエルの民の歴史を語り始める、出エジプト記2320節からの引用です。ここでの「あなた」というのはエジプトをようやく脱出することが出来たがまだ荒野の旅を続けておりました神の民のことです。主なる神が、この荒野を旅するイスラエルの民にみ使いをおくって導くとの約束です。神の民はその導きに従って行けばよいのです。次に「あなたの道を準備させよう」。これは旧約のマラキ書3章1節の言葉です。マルコの引用と少し違います。「見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。」となっています。マラキ書ではイスラエルの民でなく神ご自身がいよいよ登場なさる、その道備えをする使者を送る、というのです。また、マラキ書3章23節を見ますと「見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に預言者エリヤをあなたたちに遣わす」とあります。神の勝利が明らかになる、終わりの日に先立って力あるエリヤが登場するのです。エリヤは最後の救いをもたらす神ご自身の到来の先駆けをなす者でした。さらに、列王記下1章8節によれば、エリヤは駱駝の毛布を着て皮の帯を腰にしておりその服装でエリヤだとわかったそうです。と言うことは洗礼者ヨハネが此処に現れた時、まさにエリヤと同じ格好をして登場して来た、と言うことです。3節の「荒野で叫ぶ者の声がする、主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」、これはイザヤ書40章3節の言葉です。第二イザヤと呼ばれる部分の最初の言葉です。第二イザヤは、イスラエルの歴史の中でも最も悲劇的な時代であったバビロン捕囚の時代に記された。「荒野」とはバビロンの地の事であり、また故郷イスラエルと自分たちを隔てる荒野のことでしょう。バビロンに捕らえられている人々が望郷の思いに駆られ帰国を切望しながら故国への遥かな道のり、そこに横たわる荒野をみるのです。その荒野で声が聞こえた。「主の道を整えよ、主の道をまっすぐにせよ」。と荒野には道がありません。そこへ道をつけ神がイスラエルに帰られる道を備えよう。そう叫ぶのです。もちろん神お一人ではない。神の民も解き放たれて、それに従う。その自由解放の日が来る、と言う望みの歌であります。このように、出エジプト記、イザヤ書、それとマラキ書が引用されています。旧約聖書全体を貫いて語られてきた望みの言葉が要約されて、それが今ここに成就する、という喜びが語られるのです。どのように成就するのか。神が来られるのです。他の何事でもありません。神が私どものところに来られる、それが始まるのです。洗礼者ヨハネはその先駆けです。これは神の救いの新しいみ業が始まった、というしるしなのです。そのヨハネが立っている荒野です。荒れ野には人が住んでいません。住もうとも思わないところです。しかし、そこはまた神の民が神に導かれて歩むことが出来たところです。預言者エリヤは自分の弱さを嘆き途方に暮れた時、荒れ野に導かれて神の声を新しく聞き直しました。荒れ野、それは神と共にあるという、神の声を聞くところでもありました。<考えてみますと>この教会も日本へ伝道されて以来、今の時代がまさに弱さと嘆きの途方に暮れた荒れ野ではないでしょうか。

この荒れ野に神が共にいてくださっている、私たちは神の声を聞く時でありましょう。4節、5節を見ますと「洗礼者ヨハネが荒れ野に現れれて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を述べ伝えた」しかし、ヨハネはそこでただ1人ではありませんでした。5節「ユダヤの全地方とエレサレムの住民は皆ヨハネの下に来て罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。」誰もが来たのです。全ての人が差別の扱いなく、皆が受けられる罪の赦しの洗礼を受けたのです。罪の赦しがなければ、誰も生きられないからです。誰もが罪の赦しを得るために悔い改めなければならないからです。悔い改めが出来るのは鋭い良心が求められるのではありません。悔い改める、それは向きを変えて帰る、ということです。今までの道の歩き方が間違っていた事を知り、神の身許に帰るのです。洗礼を受けるのはそのためでした。そこに、ヨハネのバプテスマの意味がありました。そして、ヨハネは言いました。「私よりも優れた方が後から来られる」と「優れた」というのは「より力がある」という意味です。「この方は聖霊でバプテスマを授ける」方です。ヨハネは「この方の靴ひもを解くにも値しないと言いました。靴のひもを解く務めを与えられた奴隷にも値しないのです。主イエス様が、いかに高い存在か。神なのですから比べようがありません。そのイエス様が此処に来て下さって聖霊による業を始めて下さるのであります。

人知ではとうてい測り知ることのできない

神の平安があなた方の心と思いを

キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

 

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

 

 

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