2023年11月12日(日)聖霊降臨後第24主日 主日礼拝

私たちの父なる神と、主イエス・キリストから、恵と平安とが、あなた方にあるように。  アーメン

                                           20231112日(日)

題:「救い主えお迎える用意」

マタイ福音書25113

来年は、たつ年となります。私の年です。「人生100歳の時代」と言われています。年を重ねて行くと、自分の人生の最後の幕引きを考えるものです。人は誰でも、この世での人生を終え、肉体は死んでも霊魂は、次の新たな世界へと、新しい出発を始めます。聖書の言葉を通して、次の世界への道を神様が示してくださいます。

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天の御国はどういうものか、イエス様は様々な譬えを用いて語っておられます。今日の聖書で「1

人の「おとめ」の譬えを話しておられます。マタイ福音書25章を見ますと、「そこで、天の国は、次のように譬えられる」こう言ってユダヤでの婚姻の状況で花婿を迎える10人のおとめの譬えが語られます。さて、この譬えを理解するには、ユダヤの結婚手続きを知っておく事が必要です。ユダヤでは男女が結婚するのには三段階の手続きがありました。題1は、男性と女性の双方の両親が息子、娘らの結婚の約束を取り交わすものです。題2は、ユダヤの結婚式です。それは通常、花婿の家で幾人かの証人たちの前で行われ、その席上、花婿から花嫁の父に結納が贈られました。

この日から二人は法律上の正式の夫婦ですが、まだ一緒にすごしません一年の後、一緒にすごし始めることになります。いよいよ第3段階で二人の目出度い喜びの婚宴です。普通は大勢参加できるよう、夕刻から始まります。まず、花婿は親族か友人の家で身支度を整えます、その間、自宅は女中たちの手で婚宴の会場をしつらえます。夕刻、花婿と花婿の友だちは花嫁の家へ迎えに行きます。そこで花嫁の友だちは花嫁を美しく着飾り花婿の家の婚宴の席へと導きます。その行列は松明とランプとで照らし出され沿道の家々から花嫁の美しさをたたえ祝います。賑やかな行列が会場に着くと宴会が開かれ、幾日もの間、歌と踊りと酒とで目出度い時を祝いました。これが通常行われていたのです。ところで、イエス様の譬えでは「10人のおとめ」は花婿を迎え出る女たちです。その場面について、色々議論がありますが、通常とは違って花嫁の家で宴会が開かれる場合もありました。ここでも花婿が花嫁の家に来て婚宴を催すので、花嫁の家の玄関で花嫁の

代理として花婿を迎えようとしていた花嫁の友人たちのことが「10人のおとめ」であります。(なぜ、おとめが10人であったか、は当時の習慣であったかもしれません。)この譬えで大事なことは「10人のおとめ」のうち5人は思慮が浅く、5人は思慮深い者であったことです。では、5人の「思慮深さ」はどこにあったのでしょうか。イエス様譬えの終わりに「だから、目を覚ましていなさい。その日、その時があなた方にはわからないからである。。」と結んでおられます。(13節) これは2442節でも言われている言葉ですが、この「思慮深さ、賢さ」が文字通り「目を覚ましていた」ことにあると、考えると。255節を見ますと10人が10人とも居眠りをして寝てしまった、とあります。無理もありません、花婿が来るのが遅すぎて「夜中」になってしまったからです。ですから、「寝てしまった」こと自体は非難の的として語られていません。恐らく、ここでは、花婿の到着が予想以上に遅かったことを強調しているのです。そして、突然、出迎えの支度をしなくてはならなかった、この驚きを力説するための表現です。イエス様は2442節で「目を覚ましていなさい」と言ったのを「用意をしていなさい」と言い換えらえています。「だから、あなた方も、用意していなさい、人の子は思いがけない時に来られるからである」。

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2510節でも「思慮深いおとめ」は「用意の出来ていた、おとめ」と言い換えられています。ですから、おとめたちの「思慮深さ、賢さ」とは、たとえ、一時は居眠りするにせよ、よそ事に心を奪われるにせよ、ともかく「花婿だ、出迎えに出なさい!}と言う、叫びが、終末前兆として告げ示された時、出迎えられる「用意をしている賢さ」の事です。では、「用意」は、どういう点にあったのでしょうか。それは、思慮の浅い女たちは、あかりを持っていたが「油を用意していなかった」といことです。しかし、思慮深い女たちは、自分たちのあかり、と一緒に入れ物の中に「油を用意していた」この点にあります。<もう少し申しますと>5人のおとめの賢さは、二つの点に現れています。第1には、花嫁の友として、花婿を迎えるには「あかり」を灯す事が絶対必要であり、それが結局、油があるか、無いか、にかかっている、と理解していた点です。よくわかって実行しています。第2には、花婿が何時来るか、わからないので別の器に油を用意した、それほど花婿の来る時、出迎える時、に対して慎重な備えをとっていた、ということです。では、「あかり」や「油」は何の比喩なのでしょうか。明らかに「あかり」というのは花嫁の代理として花婿を迎える資格を与えられている者です、それが、彼女たちを、他の女たちから区別する目印なのです。さて、私たちキリスト者として、他の人たちと区別できる印といったら何でしょうか。私どもは、日曜日に教会に行って礼拝します。又教会が洗礼を受け聖餐式にあずかったりします。目に見える印でしょう。それに対して、その「あかり」を照らす根源となる力、たとえで言う「油」は言うまでもなく、内的な目に見えない信仰です。聖書で言われる「聖霊」のことと言っていいでしょう。<つまり>賢いキリスト者は主の再臨を待つ、日々の生活において、まず目に見える信仰生活、教会生活をし、そして目に見えない聖霊が働いて下さる信仰に生かされている実感を感謝することでしょう。次に賢さの第2は、いくら再臨が遅れても、いつでも備えをしていること、それの忍耐と希望をいだいて待つことであります。

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パウロは、聖霊の油によって、照らされる「あかり」を聖霊そのものに見立てて、テサロニケ第1の手紙で519節に「御霊を消してはいけない」と警告しています。更に、テモテへの第2の手紙31節と5節には「終わりの日には、人々は信心深い様子をしながら、その実、信心の力を否定するようになります」とあります。聖霊の油の切れた人は、今は信仰を形の上だけ、保っているが、中身はギスギスした、戒律主義的な、見せかけにすぎません。次に他の浅はかな5人のおとめたちの会話を見ますと、「その日、その時がわからない」と言っても、前触れがないわけではない。」6節には「さあ!花婿だ!迎えに出なさい」と叫ぶ声がした、ことによって暗示されています。その時、5人の愚かな女はランプの油がなくなりつつ、あるのを見て、他の5人に油を求めます。すると、賢い女の返事はこうでした。「私たちと、あなた方とに足りるだけは多分ないでしょう。店に行ってあなた方の分をお買いになる方が良いでしょう」(19節)彼女たちの言葉は、いかにも意地悪な返事のようにも聞こえます。この返事の言葉は、率直に言って、こう訳すべきだ、と言います。「いいえ、駄目です。私たちとあなた方とには足りません」。このように、はっきり、足りない、と分かっているので、買いに行ってもらう外に仕方がないのです。たとえ同情心があっても、油を分けてあげるほどの余裕がないのです。だから、言われた方も、そう意地悪とはおこらないでしょう。自分たちが明らかに不注意でしたから。早速、買いに走りますが、もう夜中です、店など開いていません。彼女たちは,締め出されるほか仕方がありません。<言い換えますと>聖霊は信者から信者へと、おいそれと分け与えられるものでは」ありません。使徒言行録820節には「神の賜物が金で得られる等と思っているのか」。と言っています。「神の賜物は、金では買えないし、兄弟姉妹の間で取引する事もできません。」直接、神の言葉に従って神に祈りを求めることによってだけ、恵が与えられるものです。パウロはロマ書123節でこう言っています。神が各自に与えられた信仰の量(はかり)に従って慎み深く思うべきである。(口語訳)「つまり、それぞれに、聖霊の賜物を量(はかり)に従って分け与えられておられます。」つまり、一人びとり、神からいただいている油はその人自身になくてはならぬものです。「私たちとあなた方とには足りない、余りはないのです。聖霊の油は信者一人びとりが、各自養い、育て、貯えておかねばならないものです。マタイ福音書714節には、「命の至る門は狭く、その道は細い」とあります。つまり、富を抱えたままで、そこに入るより、駱駝が針の穴をくぐる方がたやすい。それほど門は狭い、ということです。聖霊の油を豊かに持つ友に兄弟姉妹のよしみで、一緒に連れ込んでもらう事は出来ない、それほど狭いということです。クリスチャンの信仰はこの点、徹底的に個人的であります。11人の神との関係です11人立たねばならないのです。ですから、主を迎える備えに於いては11人が自分自身に信仰を確かめていなければなりません。ヨハネ黙示録311節、フィラデルフィアにあてた手紙にこうあります。「私はすぐに来る。あなたの栄冠を誰にも奪われないように、持っているものを固く守りなさい」。信仰は命、宝のような命、それを他人をあてにして、眠ってはならない。人に分けてやろう等とうぬぼれてもならない。1人びとりが誰にも頼れない。誰にも奪われてはならない。これなしには、私は生きてはいけない。そういうものを宝のように固く守って、用意すべきであります。次に、愚かな点は神の賜物の不足を女たちが終わりの時まで忘れていて、そのために求め始めたのが遅すぎた、という点です。終末の日まで、今は恵みの日、救いの日です。終末には確かに前触れがあります。マタイ福音書2433節に「すべて、これらの事を見たなら人の子が戸口まで近づいていると知りなさい」。前触れがあってから何とかしようと思って眠っていてはなりません。店の閉まらない間、光のある内に油を買い求めておくべきです。この意味するところは、普段から、み言葉を聞き、神に祈ることであります。終わりの日では遅すぎます。終わりの日、はまだまだ先のことと思ったりします。

若い人は自分がいつ死ぬか、考えてもいません。元気なお年寄りは、自分はこんなに元気だ、自分が死ぬなんて考えたくない、そうすぐには来ないと思いたい。しかし、いつ、どんな状況で、その日、その時が来るか誰にもわからない。この世での終わりの日,死はその人にとっての終末であります。今日のみ言葉の譬えの終わりに2510節「愚かなおとめたちが買いに行っている間に花婿は到着し5人の花婿と一緒に婚宴の席に着き、戸が閉められた。後になって他のおとめたちが来て「ご主人様、ご主人様開けて下さい」と言ってもわたしはお前たちを知らない。と言われる。神様の恵みの手段は用意の出来ていない者には戸が閉められる。今日という日、終わりの日がいつ来ても用意が整えられ聖霊を求めていることこそが私たちにも警告されているのであります。

人知ではとうてい測り知ることの出来ない、神の平安が、あなた方の心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。   アーメン

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

 

 

 

 

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