2023年8月27日(日)聖霊降臨後第13主日 主日礼拝 司式・説教 司式 田口聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

2023827日スオミ教会礼拝説教

マタイによる福音書161320

説教題「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

1、「初めに」

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様。 

 さて、これまで13章から15章に渡って、イエス様の伝える天の国とその福音の素晴らしさを見てきています。その天の国、あるいは神の国とも言いますが、それはこの地上でもイエス様の言葉が語られ、福音が宣言されているところにはすでに実現しており、つまり、この罪の世にあって、まさにイエス・キリストがおられ福音が宣言される教会こそが、その神の国の先取りであり、私たちは今まさにその恵みに与っている素晴らしさを教えられてきました。そして、今日のところでは、その神の国の先取りである、教会の礎、根拠、あるいは土台は何であるのか、そしてその土台があるからこそ、教会はいかに素晴らしい使命に与っているのかを、教えられています。13節から20節までが今日の箇所にはなっていますが、いつものように、前後の文脈が必ず関連しています。前後も踏まえてともに見ていきましょう。まず13節をもう一度お読みします。

2、「人々はイエスを誰だと言っているかー誰も自らでは正しく言えない」

13イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。

A,「誰も自ら正しくイエスは誰であるのかいうことはできない」

 フィリポ・カイサリアは、ガリラヤ地方の北、ヘルモン山麓南の高台にある、ヘロデ大王の息子フィリポによって建てられた新しい町でした。そこに来た時に、イエス様は弟子達に「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」と尋ねます。この質問は、この後15節の、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」という質問の導入とも言える質問ですが、意味深い質問です。人々は人の子、イエスを誰だと言っているか。弟子達は、14節で、ある人々は『洗礼者ヨハネだ』と言い、ある人は『エリヤだ』と言い、また他のある人は『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言っている、と、その人々が口にするイエスの評判や評価を答えています。大勢の人々にとって、イエス様の存在は、とても注目と関心の的でした。多くの奇跡を行い、病人を癒したその情報は、ユダヤ、ガリラヤ、イスラエル全土の異邦人に至るまで知られていました。しかし、イエスが誰であるのか。それは否定的な評価であっても、肯定的な評価であっても、誰も正しくイエスは誰であるのかを、いうことはできませんでした。

B, 「人間中心の判断:目に見え期待する「しるし」に判断しようとする」

 1節からは、ファリサイ派とサドカイ派の人々のことが書かれています。彼らは、イエスを試そうとしてやってきますが、「天からのしるしを見せてほしい」とあるように、彼らは、イエス様が、何か目にみえる奇跡的な現象を行うかどうかと、試そうとしています。「奇跡など、目に見えるすごいことを」それは、ファリサイ派やサドカイ派の人たちだけではなく他の多くの人々のイエスへの注目点ですし、評価の基準でした。まさに人間の目に見える、見たいもの、しかも「天からの」とあるように、普通ではない驚くべきしるしを、見せてくれれば、イエスを評価しよう、信じよう、認めよう、そのような人々が多かったのです。現代でも、何か目に見える、期待する偉大な行いやわざがあれば、あるいは、してくれれば、それを自分の信仰の根拠にしよう、信じようという声はよくあるでしょう。「こうであるなら、私は信じます。」「これを見せてくれれば私は信じます」と。しかし、それは、神を判断する基準、あるいは信仰の基準は、どこまでも自分です。ご利益信仰というのは、日本人に限らず、どの国や文化にもあると思いますが、それは人間の側で、期待する通り、願う通り、その通りになれば、神を評価しよう、信じようという、信仰や、神様への評価です。しかし、それは、どこまでも実は、人間が中心、ある意味、自分が神になっていて、信仰の対象を評価しているという大きな矛盾、皮肉、そして身勝手さがあります。それは、キリスト教会やクリスチャンの中でも様々あることで、例えば、文化的な変化や、社会の価値観の変化によって、聖書の解釈や神への理解を巧妙に都合よく変えていこうとすることも同じです。それは、まさに、しるしや目に見えるもので、神の国や救い主やみ言葉を測ろう、判断しようということですが、人間中心の価値判断であるために、人間の都合や好みで、例えそこに隣人愛などの崇高な思いがあったとしても、聖書の教えが巧妙に変えられていってしまっているのです。教会で、キリストの名を叫びながらも、人間や人間の理性が神となっているという皮肉です。

C,「真のしるしは、人が思いもしない、キリストと、そして十字架と復活のみ」

 イエス様は、そのようなしるし、つまり、何か自分が期待するような奇跡的なことで、神を試そうという姿勢を皮肉ります。4節「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがる」と。イエス様は、その前に人間は、自然のしるしから天気を予測することを挙げていますが、しかし、そこでヨナのしるしの他にはしるしを与えられない、と答えて立ち去っています。そのヨナのしるしについては遡って1238節以下で彼らに既に述べたことで、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中で過ごして出てきたという旧約聖書の言葉から、ここにヨナに勝るものがいると、イエス様は示したのでした。つまりそれは、明らかにイエス様がこれから受けられる十字架の死と3日目に復活されることを示した「しるし」なのですが、しるしは、そのしるしだけだとイエス様は言っています。しかし思い出してください。その十字架という「しるし」は、人間が期待し、望むような、しるしではなく、人には理解も予想もできない、人の思いを超えたしるしであったでしょう。このことは、まさに人間の、期待や予想ができ、願うような、そんなしるしで、神を図り、評価できるほど、救い主キリストも神の国も、決して小さくないし、むしろ、計り知れなく大きく、人間の力では、神の正しい理解や霊的な悟りには至らないことを示しているのです。

D,「人間中心の判断:過去の栄光や偉人に見ようとする判断」

 それでも、ある人々は、イエスを見て、『洗礼者ヨハネだ』『エリヤだ』『エレミヤだ』あるいは『預言者の一人だ』とある意味、一見良い評価をします。しかし、その評価も、これまでに過去に存在し、偉大な功績を残し尊敬され、著名な優れた人間を超えるものではありませんでした。それも、また彼らが期待し待ち望んでいた、実在した過去の偉大な存在であり、むしろ、かつて、バビロンやアッシリアの囚われから解放してくれた時のように、国をローマの圧政や抑圧から解放してくる立派な指導者を超えるものではなかったのでした。そう、このように、神の国も、救い主キリストを、そのような、過去の栄光や、成功者、偉大な指導者や貢献者を基準に、同じようなものに追い求め、同じようなものを見ようとしても、正しく、見ることができず、間違って見てしまうのです。それは、現代でもありうることで、聖書よりも、過去の繁栄していた時代の教会を基準に、つまり人間の経験を基準にして、あるいは、その過去の栄光に囚われ、その時代の優れた功績を残した人をある意味、神のごとく崇め奉っているかのように、その通りの、それを基準とし、その基準や期待に合致した教会や指導者を求めたり、再度、同じ栄光や繁栄を実現することが何か宣教であるかのように勘違いして熱心に律法的に活動している教会を目にすることがありますが、しかし、過去の栄光や繁栄、そしてその時のエリヤの如き優れた預言者、説教社、指導者を追い求めるあまり、キリストとその福音がわからない、見えない、あるいは見失ってしまうのです。

 「イエスは誰であるのか」、それは、罪深い人間の価値基準や経験や判断では、それを正しく答えることはできないのです。ここで、イエスは、弟子達にまさに核心となる問いかけをします。15

3、「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ

15イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」

それに対して、ペテロが答えます。

16シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。

A,「ペテロの告白:ペテロも弟子達も自ら告白できる力はない」

 ここで言う人がいるかもしれません。「ペテロは、きちんと答えているではないか。イエス様もそれを賞賛しているではないか。そら、人間は、きちんと修行を積めば、経験を積めば、イエスはメシアだ、生ける神の子だと告白できるではないか、だから、人間の経験の力、意志の力、なんだ、人間の力で信仰を告白できるんだ」と。そういうかもしれません。

 しかし、それは違います。この後の17節を見ればわかるのですが、5節以下の弟子達のことを見ても、イエス様の言葉の意味を悟ることのできない弟子達の姿があります。イエス様は、6節で「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」といったことを、弟子たちは、パンを持ってこなかったことを注意されたのだと思い込み論じ合いました。その前のイエス様とファリサイ派達とのやり取りのことなども忘れてしまったかのように、目先のパンがないこと、食べるものがないことを、忘れてしまったことをどうしようかということに囚われ心配しています。弟子達も、ヨナのしるしが何を意味しているか当然ですが、理解できていませんし、しるしを欲しがるよこしまな時代の警告の意味もわかっていないのです。そればかりではなく、食べるもの、パンのことを、心配する必要がないことは、見てきた5千人の給食からも、その前の山上の説教からも教えられてきたことでした。しかしそれでも悟るのに遅い弟子達です。いや弟子達でさえも自らの力では、イエス様の真理には至ることができないのです。この16章でも8節以下イエス様に教えられて初めて、彼らは、最後にパン種の意味を悟っているのです。そう、弟子達がイエスと長く過ごし、経験を積んできたことによって、何か神の真理や知識や悟りに至るということでは決してないのです。事実、この後、十字架の直前まで、彼らは、誰が偉いかと論じ、イエスが誰かが裏切ることを伝えたときも、口では立派に「他の誰が裏切っても自分は裏切らない」と豪語しても、彼らは皆裏切って行きます。人間の意思の力はその通りにならないのです。そして復活の日の朝も、イエスの約束を忘れて、恐れて失望のうちに部屋に閉じこもっていたでしょう。彼らが経験を積んで、意志が訓練され強くなり、自分の意志や行いで悟り告白したにはならないのです。

B, 「ペテロの告白:人間ではなく、わたしの天の父なのだ」

イエス様は、16節のシモン・ペトロの

「あなたはメシア、生ける神の子です」

 と答えたのに対して、はっきりとその告白がどこからきたのかを教えてくれています。 17すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。

「あなたはメシア、生ける神の子です」ーそのイエスは誰であるのかの告白、信仰の告白は、それを現し、明らかにしたのは、「人間ではない」とはっきりといっています。ペテロのこれまで過ごしてきた修行の賜物、経験の積み重ねから出た人間の力や意志のわざ、ではないとはっきりと言っています。あるいは「人間ではない」ということは、それは、誰か他の人間が説得してくれた、信じさせてくれた、誰かがこれだけのことをして、貢献してくれたから、その人と自分の力で信じることができた、でもないということです。もちろん、誰かが信仰を告白するに至るまで、多くのクリスチャンの証しが用いられます。しかし人は用いられるだけです。信仰の告白は人間によるのでないのです。イエス様は言います。「わたしの天の父なのだ」と。そう、天の父である、神こそが、信仰を与え、告白を与えてくださったのだと、イエス様は言っています。さらに言えば、そこに働いていたのは、まさに8節以下でも、イエス様に教えられて、つまりイエス様のみ言葉によって教えられて、目が開かれたように、天の父が、御子イエス様のみ言葉を通して、その信仰を、その告白を現してくださったと、言っているのです。人間によるのではないのです。

 パウロもはっきりと言っています。エペソ289節にこうあります。

「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。 9行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。

C,「み言葉を通し恵みのゆえに悔い改めと信仰が今日もある素晴らしさと救いの確信」 

 皆さん、感謝なことです。皆さんは、今日もみ言葉の律法によって罪を示され、心を刺し通され、悔い改めを持ってこの前に集められています。そして、今日も十字架と復活のイエス様の前にイエス様によって集めれています。信仰を持って、神のみ言葉に聞いています。そして今日も、信仰によってイエス様の罪の赦しの宣言を受けて、平安をもらってここから信仰にあって遣わされようとしています。しかし、その信仰は、皆さんが自分の努力で、自分の力で得たものではない、それは、天の父なる神の賜物、贈り物、プレゼント、神が下さった恵みなんだと、今日もイエス様ははっきりと教えてくれています。皆さんが、今日もイエス・キリストを救い主と告白し、祈ることができるのは、天の父が現してくださった、与えてくださった、神の賜物であり、人間によるのではないのです。つまり、私たちには決してできない、天の神が今日も私たちに明らかにしてくださった信仰という素晴らしい真の奇跡が今日もここに、私たちに起こっているのです。ですから、今日もここに恵みに生かされている事実、自ら信じることのできなかった私たちがここに今、神の言葉から、キリストを信じ告白している事実、出来事が、今日のこの時にもある。そうであるなら、ぜひ喜んでください。安心してください。なぜなら、私たちは天の父によって与えられ、今確かにイエス様と共にあり、確かに救われている。救いの道、新しいいのちの道を私たちは確実に導かれていると、主キリストにあって、約束の言葉にあって確信できるのですから。

D,「しかし信仰が律法、私たちの行いや意思の力だとするなら〜平安も確信もない」

 しかしもしそうでないと言うなら、つまり、信仰は行いであり、人のわざ、意思の力であり、告白も、私たちのわざ、功績であり、経験の積み重ねであり、意志の力、決心の一歩であると言うなら、どうでしょうか。全ては私たちの行いや力や意思にかかっているというのなら、どうでしょうか。そうであるならば、私たちは、どこまでも不完全で、罪深い、自分の現実の前に、絶対に安心も確信もなく、いつでも、救われているのだろうか、天国に行けるだろうかという、不安と曖昧さの中で、生き続けなければなりません。その上、さらに努力をしなければという、達成できないおろすことのできない重荷に苦しんで生きていくことになります。それは、救いではありませんね。「重荷を下ろせ」と言われ、「平安があるように」と言われ、「いつもあなたと共にある」と言われたイエス様に矛盾するのではありませんか。しかしそのように福音ではなく律法によって派遣され矛盾に苦しむ、いやその矛盾と苦しみにさえ気づかないクリスチャンはいかに多いことでしょう。そうであってはいけません。信仰は、素晴らしい恵み、賜物、父子聖なる神様が、み言葉を通して与えてくださった贈り物、プレゼントなのです。だからこそ、あのルカ10章でイエス様は、忙しなく動き回って平安なく、ただみ言葉を聞いているだけの妹マルタを裁き、イエス様を裁く、マリヤに優しくいうでしょう。

41主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。 42しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」ルカ10

 感謝を持ってみ言葉に聞き、信仰の告白が与えられている恵みを感謝しましょう。

4、「教会は、キリストが建てたキリストの教会」

そして、最後、結びたいと思いますが、イエス様はとても大事なことを伝えます。18節以下

18わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。 19わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」

A,「神が与えた岩のごとき信仰告白の上に:キリストが福音で建てる」

 イエス様は「この岩の上にわたしの教会を建てる」と言われました。この岩というのは、岩という名のペテロのことだとよく言われます。しかし、そうではありません。この岩とは、このペテロに現された、神から与えられた岩の如き信仰の上にという意味になります。つまり、大事な点は、その信仰は、律法としての信仰ではなく、先ほど伝えてきた、神が明らかにし現した賜物としての恵みの信仰、つまり福音としての信仰のことであるということです。皆さん、世の中の多くの教会は、ここを間違えて、律法としての信仰の上に、自らの力で教会を建てようと躍起になっています。一生懸命で熱心であるかもしれません。明るく楽しく見せはしますが、それさえ律法になり、そうすることに信仰があるかのように考えて、教会員を信仰に律法的に駆り立てます。それは、人間的に期待する成果も出し、数的にも見た目にも大きくはなり、見せることもできるかもしれません。しかし、それは神の恵みである福音による信仰の上ではなく、どこまでも人間の力の上に立つ教会ですから、砂の上に建てられた教会と同じです。それは、イエス様がいう「わたしの教会」ではなく、「人の教会」に過ぎません。真の教会は、律法ではなく、福音からくる賜物としての信仰の上に立つのです。

B,「神が与えた岩のごとき信仰告白の上に:わたし(キリスト)の教会」

 そして、イエス様は「わたしの教会」と言います。つまり「イエス・キリストの」教会であることを忘れてはいけません。正統的なコンフェッショナルなルーテル教会ではあり得ないことなんですが、福音派の教会などでは、看板はキリストとか福音とかついていても、何の疑問も抵抗もなく、牧師先生や功績のある指導者の名前をとって、「〜先生の教会」という言い方をするのをよく聞きます。実際に、キリストよりも、「その先生が建て、大きくした、その先生の教会である」と正論で当然であるかのように理解した発言を聞くと、「キリストはどこへ?」と首を傾げたくなる、そんな教会さえもあります。しかし、そのような言い方も考えも間違いです。「〜先生の教会」ではないのです。厳密に言えば、教会は、ルターの教会でも、カルヴァンの教会でも、ウェスレーの教会でもありません。どこまでもキリストが建てキリストがその言葉で成長させる「イエス・キリストの教会」なのです。イエス・キリストのものなのです。実際ルター自身が「私は、人々が私の名前に言及しないようにお願いします。自らをルター派ではなく、クリスチャンと呼ぶように」と言って、自分の名前の教会と呼ばないように言っているのです。事実、聖書は、他の誰かや有名な実績ある牧師、教皇、あるいはルターやカルヴァンが、ではなく、イエス・キリストが、そして、イエス・キリストこそ、世に与えられた罪から贖い出す約束の子羊として、私たちの罪のために、私たちが受けるべき罰の代わりに、十字架にかかって死なれ3日目に復活されたと、はっきりと伝えているでしょう。そのキリストのゆえに、その十字架と復活のゆえに、神は今日も律法によって悔い改める私たちに「あなたの罪はもう赦されています。安心して生きなさい」と福音の宣言をしてくださり、私たちは、今日も、日々新しく、罪赦された喜びと新しく生かされたことに、喜び、安心して、出ていくことができるのです。今日もイエス様は私たち一人ひとりに言ってくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心して生きなさい」と。ぜひ今日も。安心してここから出て行きましょう。今日のところの鍵の権能のことは、来週のところとと併せて続けて見て行きます。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

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