2023年4月23日(日)復活節第三主日 主日礼拝

ルカによる福音書241335

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1、「はじめに」

 イエス様の復活は、ご自身が既に約束されていた通りに、死んで葬られてから三日目の日の朝に起こりました。ところがその時、弟子たちは、イエスが言われた通りになるだろう、つまり復活するだろう、と堅く信じて待っていたわけでもなければ、復活の後もすぐにそれを信じたわけではありませんでした。それはこの前の12節までのところでもそうでした。最初は、婦人たちが、墓にイエス様の遺体がないのを見つけます。そんな彼女たちが途方に暮れているところに御使いが現れ言います。「イエスはよみがえったのです。イエスがかつてよみがえるといったことを思い出しなさい」と。彼女たちは、その言葉によって、イエス様の言葉を思い出して、イエス様は本当によみがえったのだと信じるのです。そして彼女たちは、その良い知らせを伝えるために、急いで弟子たちのところに走ります。しかしその知らせを聞いても、それでも使徒たちは、11節「この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった」とあるように、その時はまだ、彼女たちの話を信じなかった、つまり、イエス様の復活を信じなかったのでした。

 もちろんこの後、彼らはイエス様の復活を信じます。しかし、大事な点ですが、このキリスト教信仰の核心である、イエス様の復活の事実を信じるということ、それは、この女性たちも、5−8節で、御使いから、

「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。 あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。 人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」5−8

 と言う言葉を受けて、それから「そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。」ともあるよう、彼ら彼女たちは、自分たちの力や、意思や、理性で信じることができたのではなく、まさに、御使いの告げるイエスのみ言葉と、み言葉に働く聖霊によって、そのイエスの言葉を思い出させられることによって信じるように導かれたのでした。そのように、「信仰」というのは、決して律法ではない、つまり、私たちの、行いや力や努力や決心で「信じなければいけない」、ではなくて、むしろ全くその逆、信仰はどこまでも福音である。つまり、神からの恵み、賜物、み言葉を通しての導きと働きとしての信仰であるのだということを、このところは私たちに伝えています。そのことは、単純で当たり前のようでありながら、しかし同時に私たちクリスチャンが一番誤解し、逸れていきやすいところであり、だからこそ何度も繰り返し教えられ、立ち返らされる福音の核心なのです。今日はそのことを見ていきますが、13節から見ていきましょう。

2、「エルサレムに背を向け」

「ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、

13

 とあります。女性たちが伝えに来たその同じ日、二人の弟子が、60スタディオンという距離、それは、エルサレムから11キロという距離ですが、エマオという村に向かっていました。この二人の弟子については一人は18節にある通り、クレオパという弟子です。彼らは、エルサレムに背を向け離れようとしていました。14節を見ますと、彼らは二人で「この一切の出来事について話し合っていた」とあります。どの出来事かというと、この後、書かれているのですが、イエス様が二人のもとに現れます。しかし、二人はそれがイエスであると気づかずに、その論じ合っている内容をイエスに話しています。それは1924節にある通り、この二人は、十字架の出来事だけでなく、その日の朝の出来事、つまり、女性たちが墓に行ったら、重い石の蓋が開いていて、中にはイエスの遺体がなかったこと、そして御使たちからの言葉を受けたことまでも、話しているのがわかるでしょう。

 しかしこの二人は、「それでも」エルサレムに背を向け離れていこうとするのです。11節で、弟子たちは女性たちの言うことを信じなかったことが書かれていますが、正しく、この二人も信じなかった弟子達であったのです。事実、23節、新改訳聖書や英語のESVバイブルを見ると、彼らの説明で女性たちは「御使たちの幻を見た」と言っていることがわかります。二人にとっては彼女達が見たのは「幻」だったのです。女性たちは「幻」ではなく、事実「御使い」を見たと伝えたはずなのにです。つまり信じていないのです。それだけでなく、この二人の明るい平安な思い、ではなく、沈んだ思いもここには現れています。まず、17節に「二人は暗い顔をして」と彼らの心の内、感情を表している言葉です。決して喜ばしい状況で、エマオに向かっていたのではないことがわかります。暗い顔つきで二人は、イエスの十字架からその日の朝の出来事まで語っていたのでした。さらに、イエスについては19節で、あたかも、もはや過去のこととして「預言者でした」とあります。21節でも二人は「私たちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。」という言い方をしているでしょう。このところは、新改訳聖書の方は「イスラエルを贖ってくださると望みをかけていた」とも訳されています。つまり、事実、イエス様による「イスラエルの贖い」は、十字架で完全に果たされたのですが、しかし、この二人にとっては、イエスの十字架は、躓きとなり、彼らにとっては、イエス様の十字架という結末は、彼らの期待していた解放や贖いの形ではなかったのでした。まさしく、彼らは、「政治的な解放」としか思っていなかったということを窺い知ることができます。何より「望みをかけていました」とやはり、もはや過去のことなのです。二人にとっては、その望みは過去のこと、そして、望みではなく失望に終わったということが暗い顔に現れているのです。ですから、女性たちの復活の知らせも「たわごと」のように思えて当然なのです。彼らは、まさに暗い顔つきで、望みを失って、イエスがよみがえったという女性達の知らせにもかかわらず、あえて、その復活の約束のエルサレムを離れエマオに向かっているのです。何より、後でそんな二人に発するイエス様の言葉が、彼らのその信じない頑なさを表しているのがわかります。25節にこうあります。

「すると、イエスは言われた。「そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、

25

 イエス様はそのようにいうのです。

3、「人間の現実:自ら信じることはできない」 

 復活の良い知らせ。その新しさ。新しいいのち。それはまさに福音の真髄であり、そこにキリスト教の信仰も教会も始まっていますし、使徒達たちも全ての弟子達、キリスト者達も、その十字架と復活を福音として世界に伝えていきました。しかし、今日のところではっきりと伝えられているように、その素晴らしい福音を、復活を、自ら、自分の力で「信じる」ことにおいて、弟子たちはみな無力であることがはっきりとわかります。自分たちの力や理性や意志の力では、誰も決して信じることができなかったのです。イエスが前もって伝えていたことであったとしても、そして、女性たちが見て喜びをもって伝えたことであっても、彼らは信じることができませんでした。これは人間の、つまり私たちの紛れもない、否定できない、神の前の現実を伝えている大事な事実の記録です。つまり「信仰、信仰」と、聖書も教会も最も大事だと言うけれども、その「信仰」というのは、決して、私たちの側から、私たちにある私たちの肉の性質から出る力のわざ、行い、努力でも、意思の力でもないと言うことです。むしろそれはできません。誰一人できませんでした。誰一人、信じられませんでした。女性たちとて、最初は、遺体に香油を塗るために墓に行っていました。復活を期待して墓に行ったのでもありません。墓が空っぽでも、彼女らは途方にくれるだけでしたし、御使いを見ても恐れるだけでした。そんな彼女たちは、主が遣わした御使いの方から、イエスが言ったことを、もう一度語ってくださり、その言葉を思い出しなさいと、導かれることによって、そのイエスのみ言葉を思い出して、イエスはよみがえったのだと、初めて悟ったでしょう。悟らされたのです。つまり、人間の側からでは決してない、どこまでも主からの、主のみことばの働きと導きがあってこその、「信じる」であったでしょう。主から与えられた信仰であったのでした。

 この信じることができない、頑なな心の弟子たちの姿は、まさにそれこそ「人間のありのまま」を示しています。主イエスがいなければ、み言葉がなければ、主に導かれなければ、主の介入がなければ、誰も信じることができません。むしろ、どこまでも疑う。どこまでも背を向ける。そんな罪深い頑なな心の人間の現実こそ、真の人の「ありのまま」の現実なのです。

4、「主イエスの方から」

 しかしそんな二人に対して、まさに「主イエス様の方から」働かれているではありませんか。まず15節です。

「話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。 16しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。

15−16

A,「近づいて、話しかけられる」

 「イエスご自身が『近づいて来て』」とあるでしょう。「イエス様の方から」二人のところに来られ、そしてイエス様の方から二人と一緒に、ともに道を歩き始められているでしょう。「イエスの方から」なのです。むしろ、二人はそれがイエスだとわかりません。さらに、イエス様はただ来ただけではありません。「イエスの方から」話しかけられています17節「イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。」とあります。そして先ほども引用した25節の言葉で、確かに、イエス様は二人の不信仰さと頑なな心を嘆いてはいます。しかし、どうでしょうか。イエス様はそのまま嘆いたまま、彼らを裁くためだけ、嘆いて終わるだけのために、来られたのではないということが、ここでもはっきりとわかります。そのように不信仰で、分からない二人に対して、イエス様はこう続けています。

B,「何度でも繰り返し教える」

「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」 27そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。

26−27

 どうでしょうか。イエス様は、その二人が分からないからこそ、何度でも、聖書を、み言葉を、説き明かし、教えているでしょう。もちろん、これまでもイエス様は弟子達に「モーセおよび全ての預言者から始めて、聖書全体の中から」「彼らに説き明かされ」てきたことでしょう。事実、復活のことも十字架の前に、予め約束し伝えていたことです。しかしそれでも信じなかった、女性たちから復活の良い知らせを受けてもそれでもエルサレムを離れようとした、そんな二人を、イエス様は叱るのでもない、裁くのでもない、罰するのでもない、見捨てるのでもありません。み言葉から何度でも優しく教えているではありませんか。そして彼らは後で気づいているでしょう。

5、「信仰は律法ではない」

「二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。

32

 と。このようにイエス様は、あんなに教えたのに、伝えたのに、それでも分からない、信じない、背を向けるそんな二人のためにこそ、イエスの方から来られ、聖書から何度でも話し、教え、説教をし、心を燃やしてくださる方だと分かるのです。ですから、皆さん。誤解しないでください。「まず私たちの方で、聖書の全て、信仰の全てがわかるから、信仰がいつでも完全であるから、なんでも自分の強い意志と力で神の命令に完全に従えるから、あるいは、罪も犯さず立派に生き、証ができているから、だから、自分には信仰があるんだ、信仰は立派なんだ、そのように自分の何かや自分の完全さで信仰を立派だと誇れるから、礼拝に集う資格がある、だから、み言葉を聞く資格がある、聖餐に与る資格がある、クリスチャンになることができる、立派なクリスチャンなんだ」、と、クリスチャンは考えるかもしれませんし、ある教会ではそう教えるかもしれません。しかし、これは完全に間違いです。それは、せっかくイエス様が私たちに与えてくださった素晴らしい福音の賜物、平安のための喜びの信仰を、律法にし、重荷にしてしまっています。イエス様の恵みの働き、福音の力を、自分の手柄や功績にしてしまっています。それは何より私たちに平安がなくなるし、どこまでも重荷でもあるし、神の前に傲慢でもあります。みなさん、信仰は、そうではありません。

6、「信仰は福音」

A、「信仰は神がみ言葉を通して与える恵み」

 皆さん。むしろ、私たちの日々は、第一の聖書日課にあるように、ペンテコステの日の朝に律法と福音の説教を聞いた人々のように、聖書の律法の言葉から自分の罪を責められ毎日刺し通される(新改訳)、悔い改めに導かれる日々ではないでしょうか。私自身がそうです。しかし、私たちの救い主イエス様は、律法で指し通して重荷を負わせるために来た方ではないでしょう。日々、悔い改めてもまた肉の弱さを覚え、何度でも罪を悔い、そのように、私たちがどこまでも弱さを覚えさせられるからこそ、罪深さを覚えるからこそ、信仰の弱さを覚えるからこそ、そして、何度教えられても、わかならないからこそ、まさにエマオへ向かう二人に現れたように、イエス様は毎週、この私たちのために語りかけられ、平安を与えてくださる、聖なる安息日、礼拝を備え、み言葉を語って、何度でも解き明かし、教えてくださっているのだということをこのところは教えているのではないでしょうか。

B、「礼拝も律法ではなく福音(「人が仕える」ではなく、神が仕えてくださる)」

 だからこそ、礼拝も、聖書のみ言葉も、聖餐式もそのためのものです。礼拝は、神であるイエス様が、弱く不完全な私たちのためにこそ、備えてくださっており、私たちが神に仕えるのではない、神ご自身が私たちのために仕えてくださる、そして悔い改める私たちに、救いの恵みと平安を与える時なのです。それは、何を通してですか?それは、聖書、み言葉を通して、何度でも教えてくださり、何度も刺し通し、そして、何度でも、十字架と復活に立ち返らせ、力づけてくださり、何度でも心を燃やしてくださるのです。だからこそ、信仰も、礼拝も、洗礼も聖餐も、それは決して「まず私たちの方から何かをしなければならない」「律法」では決して、ない。それはどこまでも「イエス様から私たちへの」「福音」であるのです。

 この後もそのことは一貫しています。2人は、イエス様から聖書の解き明かしを受けながらエマオに着きます。その時に、目を閉ざされていた二人の目を、イエス様が開くのですが、それはどのようにしてでしょう。

C、「み言葉と、イエスが裂いて与えてくださるものを通して」

「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。 31すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。

30

パンを取り、それを割いて渡したその時、二人は目を開かれます。二人がイエスを招いて泊まらせたのですから、二人が食事のホストでした。しかしイエス様がパンを取って祝福し、裂いて渡された。それはまさにあの最後の晩餐の日の、主の聖餐と同じでした。二人は、いわば、み言葉とそしてこの裂き与えるパンによって目が開かれ、それがイエスだとわかるのです。それもまさに「目が開かれた」ともある通り、どこまでもイエス様の方から、イエス様によって、その言葉とイエスが仕え祝福し与えるものによって導かれている完全な恵みではあることがわかります。そのようにして二人は、32節の彼らの信仰告白に導かれているのです。

D、「福音が証しを生む」

「二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。

32

 二人は、まさにイエス様の方から現れてくださり、イエス様によって導かれ、イエス様のみ言葉、イエス様の与えるもので、心燃やされ、目が開かれ、復活のイエス様のその働きによって、自分達の信仰もよみがえらせれたことを告白しているのがわかるでしょう。そして最後、31節の「イエスが彼らには見えなくなった」とある言葉も非常に重要な言葉です。

7、「信仰は確信と平安」

A、「見える必要がない」

 なぜ「見えなくなるのか」と皆さん、思うのではありませんか?「見えている方がいい」のに「なぜ消えるの?」と思うでしょうか?しかし実は、もはや見えなくなっていいのです。なぜなら、信仰を与えられた人は、もはや見えることに依り頼まなくてもいいからです。たとえイエス様が見えなくなっても、姿が見えなくても、彼らはまた「信じない」になりましたか?なっていないでしょう。もはや信仰が与えられたので、見えなくても、二人は信じています。心は燃えています。見えなくても、イエスはよみがった、生きていると、二人の信仰はイエスを見ているでしょう。信仰が与えられたなら、見えなくてもいいのです。なぜなら聖書の言葉も言っているでしょう。信仰は見える事柄ではなく、「目に見えないものを確信させる」(ヘブル111節)素晴らしい天の賜物だからです。

 事実、どうでしょう。女性たちと同様に、イエス様から恵みとしてこの二人に与えられた「イエスはよみがえった、生きている」という信仰は、イエスが見えなくなっても、それまでは暗く沈んで望みを失っていた心から180度変わっているでしょう。

B、「証し、宣教も福音」

「そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、 34本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。 35二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。

33−35

 失望のうちにエルサレムを去り、エマオに向かっていた二人ですが、着いてすぐにエルサレムに引き返すのです。そして弟子たちのところに戻ります。イエス様は、その間に、イエスの方から、シモン・ペテロにも現れてくださったようで、弟子たちの間でも、イエス様がよみがえって、自分たちのところに来てくださったことで話が持ちきりでした。この二人の弟子も、同じように、その日のイエス様の恵みの証しをしたのでした。

 このように、信仰と同じように、礼拝と同じように、そして、キリストを証しすることも、つまり福音の伝道や宣教も、それは人の力でしなければいけないからする「律法」では決してないということがわかります。どこまでもまず、イエス様の方からの、福音のことば、解き明かし、聖餐の恵みによって、いつでも、繰り返し教えられ、目を開かれ、信仰を与えられ燃やされ、その福音と恵みによって与えらえた信仰こそが、このように「喜び」のうちに再びエルサレムへと向かわせ、つまり、派遣させられ、そのようにして、その口に、イエス様とその福音が、証しと福音の伝道や宣教を溢れさせていることがここにわかります。みなさん、証しすること、福音の伝道も宣教も、とても大事です。しかし、それは、決して律法ではありません。律法の動機による律法の行い、重荷では決してありません。その逆です。福音の証しも伝道も宣教も、それは福音であり、福音を受けるからこそ、福音から生まれ、その恵みと福音から湧き出る信仰と平安と喜びの行動が、このように、伝える、証する、という、証しの原点だということを聖書は私たちに伝えているのです。

8、「結び:派遣の言葉、最後の言葉は、律法ではなく、福音」

 皆さん、信仰も証も宣教も、私たちがイエス様から与えられた新しい生き方は、どこまでも福音から生まれ、福音がなす主のわざです。もちろんそこにはまず律法によって教えられ罪を示され、日々、罪を刺し通され死ぬこと、悔い改めが必要です。しかしその律法が私たちを遣わす最後の言葉では決してありません。それでは重荷を負わされ疲れるだけであり、信仰は苦痛でしかなくなるでしょう。しかしそんなことがイエス様が私たちに与えた救いなのですか?イエス様はそんなことをなされないのです。まさにイエス様は、そのように罪を悔いる私たちこそを、十字架と復活の福音で、日々、その罪と死から助け出し、日々、私たちを新しく生まれさせてくださるというのが聖書が伝える真の約束であり恵みなのです。ですから、真のキリスト教会の最後の派遣のことばは、律法ではない。どこまでも福音です。イエス様は福音で私たちを日々、遣わすのです。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と言うイエス様の言葉がイエス様の派遣の言葉なのです。今日もイエス様は、私たちに語ってくださっているのです。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひ、今日も、イエス様から福音を受け、重荷ではなく、平安のうちに遣わされましょう。その時に、イエス様は恵みのうちに、私たちをキリストの証人として、豊かに用いてくださり、それこそ真の宣教として、イエス様の御心と計画のうちに、復活の良い知らせ、真の福音が、私たちを通して広がって行くのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

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