2023年4月16日(日)復活節第2主日礼拝

「聖霊を受けよ」                      2023年4月16日(日)   スオミ教会説教

ヨハネ20章19~31節

キリスト教信仰の真髄は何であるか、教会の一番大事な中心は神の御子イエス・キリストが私たちの罪のため、十字架に死んで蘇られたことです。

パウロはコリントの教会への手紙第1:15章3節で「最も大切な事として、私があなた方に伝えたのは私も受けたものです。すなわちキリストが聖書に書いてある通り、私たちの罪のため、死んだこと、葬られたこと、また聖書に書いてある通り三日目に復活したこと、ケファに現れその後12人に現れたことです。」と書いています。

イエス様は私たちの罪を全部負って身代わりとなって十字架につけられました。その時十字架のもとにいたのは、母マリヤ、そしてマグダラのマリア、他数名の女性たちでした。ほとんどの弟子たちはどこへ行ったのでしょう。3年間共に働いてきた、あの弟子たちは恐ろしくなって逃げたのです。主であるイエス様が捕らえられ十字架で殺された。次は弟子たちも捕らえられ同じように殺される。もう、その恐怖で十字架から逃げたのです。

その後、彼らはどうしたのでしょうか。今日の聖書であるヨハネ福音書は次のように記しています。20章19節から見ますと。「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。」彼らは恐ろしくて恐ろしくて家中の戸に鍵をかけ外から誰も入れないようにして、密かに震えていたことでしょう。週の初めの夕方、この時イエス様はもう復活されています。朝にマグダラのマリアが墓を訪れていた時、既にイエス様の姿はなかったのです。

マルコ福音書の方では14章4節で、「弟子たちは11人で食卓についている所に復活されたイエス様が現れた。」と正確に書いています。この夕食はもう遅い夕食でした。ルカ福音書によりますと24章に弟子の一人クレオパという人がゴルゴダの丘の十字架の死の出来事を聞いて、あんなに偉大な尊敬していたイエス様が死んでしまわれた。これから、自分はどう生きようか、と失望して自分の故郷のエマオに帰っていた、その道すがら復活されたイエス様が現れ、はじめはイエス様だと分からず夕食を共にしてパンを割く時、パッとわかった。もう、びっくりしてイエス様は蘇っておられる。そのことを他の弟子たちに知らせようとエルサレムに引き返し集まっていた弟子たちに知らせています。ですから、もう相当遅い夕食であったことがわかります。

その夕食の食卓に突然、復活のイエス様が現れて下さった。絶望と恐怖から一転して彼らは大喜びでありました。十字架に死なれた愛するイエス様が蘇って生きておられる。だれもが考えられない奇跡の出来事であります。そうして、20節から見ますと、蘇られたイエス様は弟子たちの中に立ち「安かれ」と言われた。新共同訳には「あなた方に平和があるように」とあります。弟子たちの喜び、騒ぐ心を先ず落ち着かせて「安かれ」と言われたのです。そう言って手と脇腹とをお見せになった。

そうして、弟子たちにこれから、ずうっと一生をかけて死ぬまで、大切な働きを命掛けでしてゆかねばならない。神からの使命を話してゆかれるのでした。この使命は11人の直弟子だけではなく、他の弟子たち全員に語られているのです。もっと言えば、これから後、世界の歴史の中で神の使命を負って福音を宣べ伝えてゆく、すべての教会のキリスト者に向けて語っておられる使命でありました。

イエス様は言われた。「安かれ。父が私をお遣わしになったように、私も又あなた方を遣わす」そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。あなた方が許す罪は誰をの罪も許され、あなた方が許さずにおく罪は、そのまま残るであろう。」

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この重大な使命を果たすのには並大抵のことではないでしょう。いくら強い弟子といっても所詮人は弱いものです。「いつも神の平安があるように」と言われたイエス様はご自分の十字架上で受けられた手と脇腹の傷をしかと見せて、死から蘇られたイエス様がいつも一緒にいる。蘇りの主をしかと受けとめて、これからの使命に生きねばならない。この使命は彼らの持てる力では到底やって行けない。だから、イエス様は「聖霊を受けよ」と言われる。「聖霊を受けて、神の力をいただいて行くのだよ」と、言うことです。福音書の中で、彼らに息を吹きかけて、「聖霊を受けよ」とお授けになったのは此処だけです。

ルカ福音書と使徒言行録によりますと、この聖霊は約束されていたもので、その聖霊が下るまで、弟子たちは待っていなければならなかった。そして、やがて50日後、あのペンテコステの日にどーんと一度に聖霊が降って、彼らは伝道を始めた、と言われています。ところが、ヨハネ福音書だけは、そうではない。イエス様が復活なさった夜、もう早々と弟子たちに「聖霊を受けよ」と言って息を吹きかけられている。そこで、昔から多くの学者の間でいろいろ言われてきました。一つには此処で「息を吹きかけられた」と言うのは一つの象徴的な真似事であって、本当に聖霊を授けられたわけではない。ペンテコステの日に起こった聖霊降臨を約束するシンボルであった、考える説です。ところが、AD553年の第二コンスタンティノポリス会議に於いて、この考えは退けられました。どうしても、ここで復活の主は息を吹きかけて、「聖霊を受けよ」と言われたからには、確かに聖霊は下ったのである。

では、ペンテコステの日の聖霊降臨とイースターの夜の聖霊とは、どういう関係があるのか、という難しい問題となりました。いろいろな説が出ましたが多くの学者たちの考えている結論を申しますと、ここでヨハネが示していますのは、まさに、あのペンテコステの日に下った、同じ聖霊降臨である。復活された朝、マグダラのマリアが、嬉しさの余りか、イエス様にすがろうとした時、主は言われました。今、私は父の身許に上がって行く・・・上がっている最中である。イエス様の昇天がこの日の朝、既に起こっておりました。弟子たちに夜、現れたイエス様は既に昇天を終えて主となられた、キリストが聖霊を授けておられる。この点でペンテコステと同じであってペンテコステの聖霊降臨は多くの国々から集まっていた人々の上に降った。それまで、待っていなければならなかった。ヨハネはルカの描いた、ペンテコステの聖霊降臨は、もう、復活の日の夜に起こっていた、と教えているのです。つまり、ペンテコステから起こった教会の命は働いていたのです。教会の命と力とはペンテコステの前から主の復活の日から、既に息づいていた、という事をヨハネはここで教えたいのです。この日、弟子たちは主の「手と脇腹」とを見ました。あの、十字架上で流された血と水の脇の傷であります。主が十字架上で血と水を流し給う時、そこから聖霊の水が流れる、という事を象徴的に示しておりました.「手と脇」とを見て、そして十字架の死を終えた主から直ちに弟子たちが聖霊を受けている、という事をヨハネは教えたいわけであります。

旧約聖書、創世記2章7節には、創り主である神様が「土の塵で人を造り、命の息を、その鼻に吹き入れられた」そこで人は生きた者となった。とあります。イエス様が十字架で死なれた後の弟子たちはユダヤ人を恐れて死んだも同然の彼らに、創世記に示されている同じ聖霊の息を吹きかけて、再び新しく造られた者、生きる者とされたのです。死んでいた弟子たちを蘇らせ、弟子たちは新しい命の仕事へと遣わされて行くわけであります。

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さて、この聖霊を受けたならば23節にあります、「あなた方が許す罪は、誰の罪でも許され、あなた方が許さずにおく罪はそのまま残るであろう」と言われた。これは大変な特権を弟子たちに与えておられる、光栄ある約束です。マタイ福音書では、16章19節でも同じような事が記されています。「私はあなた方に天の国の鍵を授ける、あなた方が地上で繋ぐ事は天上でも繋がれる。あなた方が地上で解く事は、天上でも解かれる」。これは、その後、教会が出来て、教会の規則を定めて行く事になります。地上のあなた方が教会規則を設けると、それが、そのまま天国でも通じます。そこまで、イエス様は権限を与えて言っておられるわけです。

マルコ福音書16章16節を見ますと、「信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる。」とあります。ここでは弟子たちが信じた者に洗礼を執行することによって救われる人と、罪に定められる人とをふるい分けてゆく、という約束が語られています。

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ルカ福音書の方では、24章47節に、こうあります。「メシアの名によって罪の許しを得させる悔い改めがエルサレムから始まって、諸々の国民に宣べ伝えられる」とあります。三つの福音書で、それぞれニュアンスの違う言い方をしていますが、ヨハネの場合は、もっと大変な言い方です。「あなた方が許す罪は誰の罪でも許され、あなた方が許さずにおく罪はそのまま残る」。これは単なる教会の規則を作る時、とか洗礼を授ける時の事以上の強い宣言です。そのため、これらの言葉をめぐって教会内で論争されてまいりました。カトリック教会内の司祭の権限をめぐってプロテスタントっとカトリックの解釈に激しい反対が起こったりもしました。

<注意すべき大切な事は>

ここで言われた「誰の罪でも許される」とか「そのまま残される」と、いう受け身の形で語られている、のはユダヤの一つの言い回しであった。ということです。「神様によって赦される」「神様によって留められる」と言うところを「神様」とむき出しに言うのは余りにも畏れ多いいことなので「神様」の部分を隠して遠回しの表現で言われた、ということであります。それで、「あなた方が許す罪」というのはあなた方の力で勝手に赦せる、と言っているのではなくて、あくまでも、それが赦される、とすれば神によって、赦されるのである。又、神によって、そのまま留められるのである。となります。マルコ福音書2章7節の言葉に「神一人の他に誰が罪を赦す事が出来るだろうか」と聖書が明らかに示していいます。

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このように、ヨハネが強い言葉で宣言しているのは、キリストの弟子たち、或いは現代の教会の福音宣教に遣わされている全ての者に、信仰にある力と希望を与えられているのであります。伝道の困難な中で忍耐と、この世の敵と立ち向かう勇気を与えられているのであります。何度も何度も祈り、何度も聖霊を受けなければならない。アメリカの牧師によって、次のような言葉があります。「キリストに祈り、祈り続けて祈り抜かれると、霊の世界では、たちまち、ふるい立ち色めき立って天使たちや天からの力が反動してキリストは応答されます。」復活されたキリストは天に昇って再び来て死人のように絶望していた弟子たちに直接「聖霊を受けよ」と息を吹きかけられて最大の使命を宣言されたのであります。

人知ではとうてい測り知ることのできない、神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

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