2023年2月26日(日)四旬節第一主日 主日礼拝  説教 田口聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

本日の礼拝のストリーミングはウェブカメラの不調により途中で中断してしまいました。申し訳ありません。田口先生の説教文を掲載しますのでご覧下さい

マタイによる福音書4章1−11節。

「絶えることのない誘惑にあって勝利の恵みに与らせる唯一の救い主」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなた方にあるように。アーメン。

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1. 「はじめに」

 このところはイエス様が荒野で悪魔から誘惑を受けられる箇所です。これは、3章終わりのイエス様がバプテスマのヨハネから洗礼を受けられ、そして天から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声があった後、そして、12節以下、イエスが伝道を開始される前の出来事になります。この誘惑は、悪魔や天使が登場し、「聖霊に導かれて」とあったり、さらには、人から見れば、悪魔の誘惑があまりにも壮大で超自然的に見えたり聞こえたりするので、これは神であるイエス様だけの特別な出来事、特別な試練であり、私たち人間とは何も関係のない出来事であるかのように見えたり思えたりするかもしれません。あるいは、クリスチャンの中でも、このように書かれている「悪魔」や「天使」などは、人間の理性に反するからそんなのはいないんだと言う人たちもいますから、そのような人にはこの場面は単なる空想話や譬え話なんだと主張する人もいるでしょう。ゆえに、このところはただの人間が見習うべき律法であり、道徳律を教えているんだと結論づけられるかもしれません。しかし、このところは、空想話や道徳律でもなければ、律法だけに終わるものでもありません。人間に全く関係のないイエス様と悪魔だけの出来事でもありません。このところは、正しく人間とその罪の深さと大きさを何よりも表していると同時に、未信者というよりは、とりわけ、まさに洗礼を受けて伝道へと出ていくクリスチャン、教会を指しているメッセージでもあり、そのクリスチャンや教会が直面する誘惑はいかに巧妙で恐ろしいかを警告しています。しかし何より、まさに受難節に入るこの聖日にふさわしいところでもあり、イエス様の生涯は、この荒野だけではない、生涯、そして受難と十字架を頂点としての試練の歩みであり、この荒野の試練は、その公の歩みを始めるその最初の一歩であるということ、そして、何より、イエス様はそんな私たちのためにこそ、この誘惑を受けられるのであり、やはり、ここでも今日も、イエス様の十字架の福音が私たちに示されていることを教えられるのです。1節から見ていきましょう。

. 「霊によって導かれて」

「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、に導かれて荒れ野に行かれた」(1節)

 「悪魔から誘惑を受けるため」とありますが、同時に「「霊」に導かれて」とあります。これは聖霊のことであり、聖霊によって荒野に導かれてこの試練は始まります。ですから、これは試練が悪魔によるものか、それとも神によるものであるのか、どちらなのかと言うなら、悪魔ではなく神によって意図され導かれたものであり、ヨブ記の神との問答を思い出すのですが、悪魔がイエスを誘惑するのを、神はそれをそのままさせた、いや、その場にむしろ導いたのですから、神様の明確な目的があるのです。ここで、ある人は、「神は試みに会わせるのか?それは主の祈りに矛盾するのではないか」と思うかもしれません。しかし、悪魔の試みは、私たちに信仰を捨てさせ滅びに導くものであり殺すための試みですが、神の試みは、あくまでも試みるためそれだけの目的ではなく、ヘブル書12章に「訓練するため」「平安の義の実に与らせるため」「聖さに与らせるため」ともあるように、どこまでも相手を生かすためであり信仰に進ませ強める、救いのためのものです。この荒野の誘惑も、聖霊に導かれているとあることからも、それは、神様の私たちのための壮大な救いの計画のための一つの大事な出来事であり、つまり世のため、私たちのためのものであると言うことが見えてくるのです。

. 「苦難の生涯のはじめ」

そして「荒野」の誘惑や、2節の

「そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。」(2節)

 とあること。これは、まさに旧約聖書で、イスラエルが荒野に40年間導かれ、大きな試練に立たされたことや、空腹であったことなどを思い起こされるのです。よく言われるように、イエス様が空腹を覚えられとあるように、私たちと同じ肉体を持ったイエス様であることがわかるのですが、まさに聖書のヘブル書4章で「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。(4:15)」とある通りに、イエス様は空腹だけでなく、まさしく人となられ、私たちと同じように、つまり、イスラエルが荒野の40年で経験したのと同じように試練に遭われるし、むしろその試練の内容を吟味するなら、それはこの荒野の40日間や空腹だけでもない、「あらゆる点で」とあるように、そう、まさしく、その究極は十字架の受難と死で頂点に達するその苦難の全生涯で、イエス様はその言葉の通りに、私たちと同じくなられる、そこまでも低くなられ、全てを負われ、そして生きられることを、この洗礼を受けられて直後、まさにそのことを私たちに具現される出来事がこのところなのだと示されるのです。

. 「三つの誘惑」

 そして、三つの誘惑です。このところは思い巡らすほど、実に深く心刺されるものを感じさせられるところです。まず3

「すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」」(3節)

A.「悪魔の誘惑は巧妙に」

 皆さんは、試練や誘惑はどのようにくると思いますか?多くの人は、明かな目に見える迫害の形でわかりやすいように来ると考えるかもしれません。もちろん、そこにも誘惑や試練は当然あります。あるいは、十戒の中の明らかに「〜しては行けない」と言う言葉に反するよう迫ってくるはっきりと認識できる罪への誘惑も確かにあります。それも誘惑であり、試練であり、私たちは、祈りとみ言葉と聖霊の助けによって悔い改めと克服に導かれなければならないことはとても大切なことです。しかし、悪魔の神への信仰を捨てさせよう、救いを疑わせ捨てさせよう、滅ぼそうとする誘惑は、目に見えるような形でわかりやすくくるものだけでは実はありません。むしろ真の悪魔の誘惑は、その信仰と福音のために重要な教会とみ言葉こそを責めてきます。しかもあからさまに攻撃するようにではなく、非常に巧妙であり、「偽預言者は羊の形をしてやってくる」と聖書にあるように、むしろ聖い姿さえ装ってやってくる、恐ろしいものであると言うことがまさにここで教えられているでしょう。まずこの3節です。

B.「みことばを用いて」

「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」

 皆さん。悪魔は「神の子なら」と語りかけています。この意味がわかるでしょうか?この直前の3章17節で天からの声はこう言っています。

「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と。そう、悪魔は、その天からの神の声、イエスは神の愛する子であるという、そのみ言葉を明らかに知っているのです。「神の子なら」と。つまり、悪魔はその3章17節の天の声、神のみ言葉さえも誘惑に用いているという事実です。天の声がそう言っているのならと。これは第二の誘惑でも同じです。6節以下ご覧ください。こうあります。

6節〜「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、

あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』

と書いてある。」

 ここでも「神の子なら」とありますが、それだけではありません。今度はもっとはっきりと、悪魔は聖書を用いるでしょう。旧約の詩篇の言葉(9111−12節)を用いて誘惑するのです。聖書にこう書いてあるではないかと。悪魔は、私たちに聖書を否定させようと試みる存在です。しかし、彼らは明かに聖書の言葉を否定し侮辱し嘲るようにして誘惑し試みてきません。もちろんいつの時代も外側から、そのようにして明確に聖書を否定して誘惑してくる誘惑や試練はあり、今の時代も溢れているでしょう。しかし悪魔の誘惑は、むしろクリスチャンの間で、教会の中で、実に巧妙に働き、しかもわかりにくく現れるのです。むしろ聖書の言葉さえ敬虔そうに用いてきます。「聖書はこう言っているでしょう?」と。そのように聖さを装ってさえ悪魔は教会を荒らすことは実は少なくないし、それは外側からの迫害と同じくらい、いやそれ以上に多いと言うことを神学や教会の歴史は物語っていますし、この教会ではなくとも、世界中、日本中の教会内で今もあることです。

C. 「「もし〜なら」によってみ言葉を条件化する誘惑」

 そして、それだけではありません。注目したいのは、悪魔は「どのようにして」み言葉を悪用するのかということです。それは「もし〜なら」という言い方が隠されていることです。「神の子なら」「天の声がそう言うなら」「みことばにそう書いてあるなら」と。この「もし〜なら」は実に私たちが誘惑されやすい言葉でありますが、その「もし」という意味には「本当にそうなのか」「本当にその通りなら」、つまり、裏返せば「そうではないのでないか」という「疑い」が実は必ず含まれている質問だということに気付かされるはずです。いわば、「もし」には、質問する側、求める側の条件付けが必ずなされているということであり、神やその言葉を条件付けることが起こります。つまり、神ではなく、こちらが人間が、主導権の質問や願いになるということです。

 皆さんこれは実は、先ほど第一の聖書朗読でも読みました。創世記3章の悪魔の誘惑と同じなのです。悪魔はエバに言うでしょう「神は本当にそう言ったのか」「もし食べても死なない」「もしそれを食べるなら〜神はご存知である」と。ここでも同じです。もし天の声が言うように、あなたが神の子なら、「これらの石がパンになるように命じたらどうだ。神殿の頂から飛び降りたらどうだ。そうすれば、空腹は満たされる。そうすれば、みことばの通り、天使たちがあなたを助けるだろう」。悪魔はイエスはそれができないと思って言っているのでもないし、天使がみことばの通りには助けに来ないとも思っていません。できることはわかっているのです。実際に、イエス様は石をパンに変えることもできますし、神がみことばにある通りに、イエスを助けることもできるのです。しかし、このみことばを用いてまでの「もし〜なら」には深刻な落とし穴があるでしょう。「もし〜なら」と投げかけているその問いかけは、それがどれだけ敬虔な祈りや願いであったとしても、その通りになることを願う悪魔中心、人間の思いや願望が中心、土台にあって、その通りになることで、結局は、人間の思いや願望に神を従わせようとする思いが隠されているのです。悪魔の言う通りにイエスがするのなら、イエスは自分自身の栄光を自分で自分のために得ることにはなりますが、悪魔の「もし」への同意することになります。そしてその結果は、人に、救いとは神の恵みのわざではなく、「自分自身の栄光を自分で自分のために果たすことだ」と言うその偽りの模範をまさに示すことになります。そして人間の救いの道はまさにそのようなものになり、恵みも信仰義認も何もなくなり、ただ自分で果たす律法になっていたことでしょう。悪魔の問いかけの狙いはそこにあります。実に巧妙です。しかしそれはずっと変わらない手法なのです。堕落の時も、悪魔の「神は本当にそう言ったのか、〜もしその身を食べるなら生きるようになる」という言葉の通りになっていくところには、アダムとエバの、神の言葉や御心よりも「神にようになれる」「賢くなれる」「見るに慕わしい」という彼らの思いや願望が優先し、それにみ言葉を勝手に解釈し当てはめ、従わせようとして堕落するでしょう。その過程と結果は、どこまでも罪人で救いようのない私たちの現実ではありませんか。堕落の時の「もし」の手法に悪魔は成功し、初めからいつまでも変わらない。狙いも常に変わりません。この狙いによって教会はどうなるでしょう。「もし〜なら」とみことばを用いて、結局は、神中心のみことばではなく、罪人である人中心でみ言葉を理解しようとする、解釈しようとする、人の思いや願望にみ言葉を当てはめよう、従わせようとすることが起こっていないでしょうか?それは正しく悪魔の思いのまま、狙い通りの誘惑に、人が陥ることです。そのようにして、教会で、福音は律法にすり替えられ、律法があたかも福音であるかのように語られるようになったり、理性や道徳やヒューマニズムが語られるようになりますが、しかし大事なことです。そこには救いも平安もありません。そうなってしまうと正しく、悪魔の勝利に他なりません。実はそれが教会にとっても、クリスチャンにとっても、つまり、宣教や伝道にとっても何よりも恐ろしいことであり、悪魔はいつでも巧妙に教会に入り込み、混乱させようとしているのです。

D. 「人中心の解釈で歪められるみことば」

 皆さん、聖書の言葉、確かに私たちにとって大事です。誰も否定しません。しかしただ

「聖書の言葉、聖書の言葉」と掲げていれば、それだけで安心でもなければ、正しいキリストの救いの教えかどうかは実は判断できません。なぜなら、異端でも「聖書の言葉」を掲げ「聖書は何より大事だ」と声高に言うからです。自分達は聖書の言葉を第一にしているのだと。リベラルでも熱狂主義者でも律法主義者でも「聖書は大事」「聖書は第一」と聖書の言葉を掲げます。「聖書は第一、大事」と、聖書を掲げているだけなら、世界中のキリスト教のどんな団体も、異端でさえも、誰も意義を挟まないことでしょう。しかし、「みことば」を掲げても、「神が私たちに真に何を伝えたいのか、神が何を伝えているのか」ではなくて、まさに「もし〜なら」の人間中心の土台で聖書を人間の思いに従わせ、人間の都合に合わせ、文化や流行りに合わせ、世界の潮流に合わせるようにして聖書を解釈して、それが、間違った解釈なのに、文化や潮流がそうだから正しい神の教えなんだと、教会で説教されたり教えられたりするようなことはいつの時代も常にあるし、この現代は人間中心主義のもとでなおのこと顕著になってきています。それは多くの人々には心地よい教えなのかもしれません。人間の「もし〜なら」に聖書を当てはめ都合よく解釈しているのですから。しかし、それが本当に神が、イエス様が私たちに伝えていることではなく、単に人間が聞きたいことを聞いているだけであるなら、まさにそれは、イエスが悪魔の声に従って石をパンに変えてしまったこと、神殿の頂上から飛び降りたこととと、同じです。究極的にはイエスも十字架もなきものにしているのです。人の前では上手くいっているように思えても、神の前では、悪魔への敗北であり、そこで「みことば」と幾ら掲げても、真のキリストはいない、真のみことばもない教会のような建物や集まりであり、そこに真の宣教も伝道もないと言えるでしょう。

5. 「イエスの答え」

A. 「〜と書いてある」

 イエス様はどう答えるでしょうか。4

「イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」

 そして7

「イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。

 そして、世のすべての繁栄が見えるところで、もし私にひれ伏せばこの繁栄を全て与えようという最後の誘惑に対しても、10

「すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」

 イエス様はこれら三つの誘惑への答えとともに、まさに真の教会とは何かを私たちに示しています。それは、もちろんみことばです。しかしそこには人間の側の「もし〜なら」などの条件付けは何もない、「こう書いてある」「神はこう言われる。聖書にはこうある。」それだけです。人の側が「もしこうであれば」「もしこうでなければ」「こうであったなら」と、みことばを人間の思いや願いや文化で捻じ曲げてでも聞きやすいように、わかりやすいように、受け入れやすいように教える、伝える、説教する、では決してない。神が私たちに何を伝えているか、何を伝えたいのか、そのまま、神はこう言っている、神はこう言われた、聖書はこう書いてある。教会の宣教、説教、教えは、これに尽きる、そしてイエス様や使徒たちがしたように「こう書いてある」ことの正確な解き明かしに尽きるのだとイエス様は私たちに教えているのです。そのようにみ言葉の正しい福音を受けて救われ聖霊に導かれているものは、「もし〜なら」の人間中心で条件付け神を従わせるみ言葉利用ではなく、「神はこう言われる」の福音にこそ聞くのであり、その言葉にこそ、日々、罪を示され、悔い改めを与えられると共に、そこに、十字架の救いの光をはっきりと見せられ真の平安を経験するのです。

B. 「全ては私たちのために」

 そしてここでもう一つ大事な点があります。イエス様の試練の道は、この後も続き、イエス様はあのゲッセマネの祈りでも、もちろんイエス様も「この杯を取り除けてください」と、その思いをあからさまに祈っています。願うことは決して悪いことではありません。しかし、イエス様は、その自分の人としての肉体の苦しみの願いに神の計画や御心までも従わせようとせずに、最後にこう祈りを結んでいます。しかし「父の御心のなる通りに」と。そして、イエス様は、まさに十字架に至るまで、私たちの経験する以上の大いなる苦しみと死を受けられました。しかし何よりそれは私たちが受けるべきものの身代わりとして、私たちの罪のためであり、その罪とその結果から救うためであったでしょう。この荒野の悪魔の三つの誘惑から始まる、イエス様の試練の道、苦難の道、それは私達への律法でもなければ模範や道徳律でもない。どこまでも私たちのために神はイエス様を導いています。その道を、イエス様は悪魔の「もし〜なら」の願望を刺激する誘惑の通りに、自分自身の栄光を自分のための自分で果たすようなことはせず、むしろ、イエス様は、どこまでも、神を神とし、神のみ言葉そのまま、神のなさることにそのまま黙って従い、仕える者の姿となり、十字架にまで従われます。イザヤ書にはそれが私たちのための神の御心であったとあるでしょう。苦難や重荷を私たちに負わせるのではない、それらを私たちのために担い背負ってくださる救い主が私たちに示されているのです。

. 「福音によって遣わされる」

 皆さん。ここでも福音によって私たちは遣わされています。私たちは、自らの力では、決して誘惑に打ち勝つのことできないものです。最初の人は、その誘惑に負けました。イスラエルも誘惑や試練に負けました。弟子たちも負けました。私たち人間は誰も生まれながらの力でも理性でも、この誘惑と試練に打ち勝つことはできません。罪人だからです。しかしこの箇所は、あなた方罪人が自らの力で誘惑に勝ちなさいという道徳や律法の教えでは決してありません。イエス様が言いたいのはそんな私たちに重荷を負わせることではありません。絶えることのない荒野の世の、悪魔の目に見える誘惑と巧妙な目に見えない両方の誘惑に対して、私たちはあまりにも弱いのですが、しかし、何よりイエス様が私たちのために、この十字架と復活で、打ち勝ってくださった。みことばで、そして十字架で。そしてその事実とそれが恵みとして私たちに与えられるこそがこの聖書に「こう書いてある」と今日もいつまでも変わらず、何よりも私たちに示されている救いの約束の核心ではありませんか?そして、事実、イエス様こそが同じようにこれからもこのみことばを持って誘惑を退けてくださるお方であり、十字架のイエス様こそが、今日も変わらず私たちに宣言してくださいるでしょう。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。

 私たちは今日も罪を悔い改め、「あなたの罪は赦されています。安心して生きなさい」と豊かに罪を赦してくださるこの十字架のイエス様の福音を受け、安心してここから出ていきましょう。そのような私たちをイエス様は新しい週も主の勝利の器として豊かに用いてくださるのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

新規の投稿