2022年1月8日(日)顕現節第1主日 主日礼拝

「天からの御声」         202318(日) 木村長政 名誉牧師

マタイ福音書 31317

2023年新しい年を迎えました。

今日の福音書はマタイ313節から17節です。イエス様がバプテスマのヨハネから洗礼を受けられた話です。ユダヤの国の北から南へとヨルダン川が流れています。行く先は”死海”と言う湖です。さて、マタイ3章を見ますとバプテスマのヨハネはユダヤの民に「悔い改めよ」と叫んだ。そうするとエルサレムとユダヤ全土から、ヨルダン川沿いの地方一帯から人々がヨハネのもとに来て罪を告白し彼の質問にパスした者にはヨルダン川で洗礼を授けました。この洗礼を受けようと集まっていた民衆の中にイエスも混じって順番を待っておられた。ヨハネはイエスを発見してびっくりしたでしょう。どうして、びっくりしたかと言いますとイエスの方が自分より優れた人物であることに気づいたので言いました。「イエス様、わたしこそあなたからバプテスマを受けるはずですのに。」と思いとどまらせています。しかし、今は受けさせてもらいたいと、イエスの強い願いに負けて、ついに洗礼を授けました。イエスが岸辺に上がって祈っていると突然天が開け神の霊が下って神の御声が聞こえて来ました。「このイエスこそ、神の心にかなった救い主である。」と宣言しました。この時からイエスの救い主として活動が公に始まるわけです。この出来事について、他のマルコもルカもヨハネも福音書で記録しています。それほど、この出来事は大事な意味を持っていますので、しっかりとそれぞれの福音記者の独自の立場からイエス様の宣教の始めを計画的に書き記しているわけです。

考えてみてください。イエス様がこの洗礼を受けられた時30才でありました。ナザレの田舎で父ヨセフと大工の仕事を一緒にして家族の大きな助けをされていたのでした。ところが突如としてナザレを出てガリラヤで神の国を宣べ伝え始められました。そして、わずか3年後十字架の死をとげ、3日後に復活された。イエス様の地上に於ける生涯33年のうちの30年というほとんどの年月はナザレ村で神の福音を実行に移されるまでの大事な大事な準備の期間であったろうと思われます。その深い準備の期間、何をどう過ごされたか聖書には何も記していない。バプテスマのヨハネから洗礼を受けられ、神の計画は準備を整えて、いよいよ天からの神の御声があったのです。この天からの声がどういう重要な内容を含んでイエス様の上に下ったのか、少しづつ見て行きましょう。

まず第1には、天の声はナザレ村で大工の長男として育って家族の中心であったイエスに対して「これからは、お前は大工の子ではない、神の子であって民衆を救うべき救い主だ。ナザレ村を出て公に神の子本来の働きをしなさい。」という神のご命令であった。神の霊が鳩のように、ご自分の上に下って来るのをご覧になった。「これは私の愛する子、私の心に適う者。」これはマルコが書いている、天の声です。ルカ福音書の方はマタイと同じような意味を込めて322節でイエスが洗礼を受けられ、祈っておられると、その祈りに答えて天からの声があった。「あなたは、私の愛する子。」と2人称で語りかけています。ヨハネ福音書によると、この出来事はイエスにバプテスマを授けた預言者ヨハネに対して<この、イエスこそお前の待ち望んだメシアだ>ということを教えている天の声であった、というのです。そこではヨハネ福音書で言っています。133節で「私はこの人を知らなかった。しかし、水でバプテスマを授けるようにと、私をお遣わしになった方が私に言われた。ある人の上に『み霊が下って、留まるのを見たら、その方こそみ霊によってバプテスマを授ける方である』私はその方を見たので、この方こそ神の子である、と証したのである。」この出来事に出会って見た多くの人々も又イエスは、ただの人ではない、神の子である、と教えられたと思います。

では、マタイはこの出来事を、どの点に力説しようと、したのでしょうか。マタイ317節の最後の部分で、天からのみ声があった、「これは、私の愛する子、私の心に適う者」と言う声が天から聞こえた。この、天の声の仕方に秘密があるのかも知れません。マタイの言うのは、マルコやルカによる記録のように、「あなたは・・・・私の愛する子だ」と2人称で語りかける父親の声ではありません。マタイの言うのは、言ってみれば「これが、こういうのが、私の愛する子である」と言う客観的な宣言文です。日本語訳によると,マルコもルカも「あなたは、私の愛する子、私の心に適う者である」と一気に言われた文章を記してあるかのように見えますが、実はこれは二つの文章に切れていて「あなたは私の子、愛する者である。私は、あなたを喜ぶ」となっています。これは、父親が子に対する率直な気持ちを伝える親子の語らいなのです。ところが、マタイだけはこれを一つの文章で 書いています。つまり「こういうのが、私の喜ぶところの、私の子、愛する者なのである」と。ここではイエスが神と、どういう続柄にあるか、神はどういう気持ちを抱いておられるか、というような問題ではなくて、神が喜ぶ、愛する子、とはどういう者なのか、という定義が述べられているのです。神からの宣言です。この声によって、イエスが神の子だ、という事が言われているのです。同時に、だから神の子はどういう性質のものなのか、という事までわかるのだ、とマタイは言いたげであります。

では、「私が喜ぶところの、私の子、愛する者とは」何のことでしょうか。マタイは121718節のところでこう記しています。「これは、預言者イザヤの言った言葉が成就するためである。見よ、私が選んだ僕、私の心に適う愛する者。私は彼に私の霊を授け、そして彼は正義を異邦人に宣べ伝えるであろう」。ここに、今の31317節を思い出させる重要な言葉が次々と出て来ることに気づくでしょう。「私の心に適う」とか「愛する者」という二つの言葉は天の声と同じ用語です。「私は彼に私の霊を授け」という言葉も、イエスが受洗された時の天から下ったみ霊を思い出させます。「正義」という言葉も315節の」「正しいこと」と同じ言葉です。すなわち、マタイが317節に記している天からのみ声は、マタイが1218節で引用している旧約聖書イザヤ書421節に他ならないのです。正確に調べると、イザヤ書42章を開いて読むと、マタイが引用した天からの声と全く同じでは、と感じられるかもしれません。それは、旧約聖書のヘブル語をギリシャ語に訳したために多少変わってしまったからです。要するに、マタイによれば、この時天からの声は旧約聖書の預言したメシア、とりわけイザヤが預言していたメシアとはこういう方である、と説明したのです。

イエスが神の子だと言うが、彼と神との父子関係がどういうものであるか、そんなことは論じられていません。むしろ、マタイが今までイエスはメシアである、と論証してきた、そのメシアというのはどんな性格の方であるかをマタイは言おうろしているのです。私たちは誰が救世主であるかを知ればそれで充分なのではありません。彼が、どういう性格の救い主であるか、が分からなければ信じる事が出来ません。神信仰と言うのは、神がおられることを信じるだけでなく、どういう神がおられるか、という事まで含む信仰です。イエス・キリスト信仰もイエスという方を救い主と信ずるだけでなく、イエスという方がどういう者かという事まで含む信仰です。

では、真のメシアとはどういう性格の方でしょうか。それを、明らかにするためにマタイは他の福音書記者の切り捨てたものをちゃんと保存しています。すなわち、ヨルダン川でイエスがバプテスマを受けられる前にイエスとヨハネとの間で交わされた言葉のやり取りが、このメシアの特色をよく伝えてくれるのです。マタイ31415節を見ますと「ところがヨハネは、それを思いとどまらせよう�として言った。私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが私の所においでになるのですか。しかし、イエスは答えられた、今は受けさせてもらいたい。このままにして論じないままにしておいて欲しい。このように、すべての正しいことを成就するのは、我々に相応しい事である。これまで、預言者としてのヨハネは人々に説教をしてきました。「私の後から来る方は、私より力のある方で、聖霊によってお前たちにバプテスマを、お授けなるであろう」と。それが、今、イエスの方から何故バプテスマを授けて欲しいと言われるのでしょうか。イエスの答えは明快でした。「このように、すべての正しいこと義を成就するのは我々に相応しい事であるから」と言っておられる。理由はただ一つ、「正しい事を果たす」のが我々に相応しい、適切だからだよ。もっと言えば、この事はメシアであるイエスにとって適切だ、とか言うのではない、又、預言者ヨハネに有利だ、と言うものでもない。

◎ ただ神を信じ、神に仕える「我々に」適切なことなのです、ということです。

◎ 神様が喜ばれるのは、そうした真理と正義への率直な服従と熱心であります。」イエス様は人の肉体をとり人の心を持って、この世に来られました。十字架にかかられる前日には血の汗を流して祈られました。出来ることな ら、十字架の死の盃を取り除いて下さい。正真正銘の人の子として生きられました。

◎ しかし、彼は真理のため、正義のためには、どんな事も果たされたのです。それが十字架の死

  であっても、神の、み心であれば相手が誰であれ服従されたのです。

◎ 神の喜ぶメシアとは、こういう方なのであります。イエスがヨハネに「このことは我々に相応しい」

  と言われた、この言葉使いの中にはイエスご自身を民衆の中に徹底的に身を置こうとされる

  考えがにじみ出ています。

驚くべき事は、ヨルダン川に出て来て、神の子として活動して行こうとされるイエスが、このように人々の列の中に行列に加わることによって、悔い改めのバプテスマを受けようとする、罪びとの中にその身を置かれた、というこの事実です。告白すべき罪などない神の子がバプテスマを受けることは一体、何でありましょうか。彼はメシアでありながら、神に背く罪が自分にもある、と言いたげに、今、人生の出直しを新しく決意されているのです。彼は罪びとの最も身近な友、最も親しき罪の共犯者になろうとしておられる。バプテスマのヨハネは、どうかと言うと、もし、メシアが来られたら、きっと聖霊の火を持って罪びとを焼き滅ぼすに違いないと思っていました。しかし、そうではない。聖霊は恐ろしい、滅ぼす火のようではなく。鳩のように、ひっそりと下られました。ヨハネの後から来る方は力ある裁き主ではなかった。むしろ、力なき者の友、罪びとの友、悔い改めて泣き崩れる者の味方であった。彼こそ真の救い主なのであります。神の喜ぶメシアはイザヤの預言どおりの救い主なのだ、と天の声は断言しているのです。ナザレから出て、洗礼を受けられたイエスは、天の声で断言されたメシア、神の子の使命をこれからいよいよスタートして行かれる。天から神のみ声は大きな霊の力となってイエス様に下ったのでありました。   アーメン

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