説教「神ともにませば激動恐れるに足らず」吉村博明 宣教師、ルカによる福音書2章1-20節

クリスマスイブ礼拝、降誕祭前夜礼拝説教 2022年12月24日

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

1.今朗読されたルカ福音書の2章はイエス・キリストの誕生について記しています。世界で一番最初のクリスマスの出来事です。この聖書の個所はフィンランドでは「クリスマス福音」(jouluevankeliumi)とも呼ばれ、国を問わず世界中の教会でクリスマス・イブの礼拝の時に朗読されます。

ところでフィンランドでは、ちゃんと教会に通う家族なら、クリスマス・イブの晩は御馳走が並ぶテーブルに家族全員がついて、まず家族の誰かが「クリスマス福音」を朗読するのをみんなで聞いて、それから食べ始めたものです。我が家はそうしていますが、現在教会離れが急速に進むフィンランドで果たしてどのくらいの家庭がこの伝統を続けているでしょうか?

御馳走を頂く前に「クリスマス福音」を読み聞かるというのは、誰のおかげでこのようなお祝いが出来るのか、そもそもクリスマスとは誰の栄誉を称えるお祝いなのかをはっきりさせます。それは言うまでもなく、今から約2000年前に起きたイエス・キリストの誕生を記念するお祝いです。そのイエス様を私たち人間に贈って下さった天地創造の神の栄誉を称えるお祝いです。それでは、どうしてそんな昔の遥か遠い国で生まれた人物のことでお祝いをするのか?それは聖書に従えば、彼が天地創造の神のひとり子でありながら、全ての人間の救い主となるべく天上の神のもとからこの地上に送られて、マリアを通して人間として生まれたからです。話が昔の遠い国の人たちだけでなく、国と時代を超えて現代の日本に生きる私たちにとっても救い主となるために生まれたからです。そのような方のために祝われるお祝いなので、御馳走の前にお祝いするわけを思い返すためにクリスマス福音の読み聞かせをするのです。そして、イエス様を贈って下さった神に感謝して御馳走を頂きます。神がそんな贈り物をして下さったからには、私たちもそれにならって誰かに何かプレゼンする。また、神がひとり子を贈って下さったのは、国と時代を超えて全ての人間一人ひとりのことを気に留めて下さっているからです。それで私たちもカードに「良いクリスマスと新年を迎えて下さい」と書いて、あなたのこと忘れていませんよ、と伝える。そういうのが、本来の趣旨にそうクリスマスの祝い方です。もちろん、教会の礼拝に行って、神に賛美の歌を歌い、聖書の朗読と説教者のメッセージに耳を傾け、神に祈りを捧げることも忘れてはいけません。ちょうど今しているようにです。

近年はどこでも、クリスマスのお祝いの栄誉を称える面がどんどん脇に追いやられて、お楽しみの面が肥大化する傾向があります。そちらの方がお祝いの目的になっているのがほとんどかもしれません。しかし、いくらそういうふうになっていっても、イエス様の誕生がなかったらクリスマス自体も存在しなかったという事実は誰も否定することは出来ません。

2.「クリスマス福音」に記されている出来事は多くの人に何かロマンチックでおとぎ話のような印象を与えるのではないかと思います。真っ暗な夜に羊飼いたちが羊の群れと一緒に野原で野宿をしている。電気や照明などありません。空に輝く無数の星と地上の一つの小さなたき火が頼りの明かりです。そこに突然、神の栄光を受けて輝く天使が現われ、闇が一気に光に変わる。天使が救い主の誕生を告げ、それに続いて、さらに多くの天使たちが現れて一斉に神を賛美し、その声は天空に響き渡る。簡潔で詩のような賛美の言葉は次のことを言っていました。「神は天上で永遠の栄光に満ちておられる。神の御心に適う人たちは地上で神と平和な関係に入れる。」

賛美し終えた天使たちは姿を消し、あたりはまた闇に覆われる。しかし、羊飼いたちの心には何かともし火が灯されていました。もう外側の暗闇は目に入りません。彼らは何も躊躇せず何も疑わず、生まれたばかりの救い主を見つけようとベツレヘムに向かいました。そして、一つの馬小屋の中で布に包まれて飼い葉桶に寝かせられている赤ちゃんのイエス様を見つけます。

この話を聞いた人は、闇を光に変える神の栄光、天使の告げ知らせと賛美の合唱、飼い葉桶の中で静かに眠る赤ちゃん、それを幸せそうに見つめるマリアとヨセフと動物たち、ああ、なんとロマンチックな話だろう、本当に「聖夜」にふさわしい物語だなぁ、とみんなしみじみしてしまうでしょう。

3.ところが、この「クリスマス福音」はよく注意して読むと、そんな淡い甘い期待を踏みにじるような非情さがあることに気づかされます。それは、その当時の政治状況がこの出来事の上に重い暗い影を落としているということです。人の人生や運命は権力を持つ者が牛耳ってもてあそび、普通の人はそれに対して何もなしえないということです。民主主義の時代になっても権力に抑制を効かせることはなかなか難しいのに、ましては民主主義のない昔だったらなおさらです。権力の言われるままになり、もてあそばれてしまいます。そういうことを「クリスマス福音」は明らかにしているのです。

それがわかるために、ヨセフとマリアはなぜ自分たちが住むナザレの町でイエス様を出産させないで、わざわざ150キロ離れたベツレヘムまで旅しなければならなかったのかを考えてみるとよいでしょう。答えはクリスマス福音書から明らかです。ローマ帝国の初代皇帝(在位紀元前27年から紀元14年)アウグストゥスが支配下にある地域の住民に、出身地で登録せよと勅令を出したからです。これは納税者登録で、税金を漏れることなく取り立てるための施策でした。その当時、ヨセフとマリアが属するユダヤ民族はローマ帝国の占領下にあり、王様はいましたがローマに服従する属国でした。ヨセフはかつてのダビデ王の家系の末裔です。ダビデの家系はもともとはベツレヘム出身なので、それでそこに旅立ったのでした。出産間近のマリアを連れて行くのはリスクを伴うものでしたが、占領国の命令には従わなければなりません。当時の地中海世界は人の移動が盛んな、今で言うグローバル世界だったので故郷を離れて仕事や生活をしていた人たちは多かったと思われます。皇帝のお触れが出たということで大勢の人たちが慌てて旅立ったことは想像に難くありません。

やっとベツレヘムに到着したマリアとヨセフでしたが、そこで彼らを待っていたのはまた不運でした。宿屋が一杯で寝る場所がなかったのです。町には登録のために来た旅行者が大勢いたのでしょう。そうこうしているうちにマリアの陣痛が始まってしまいました。どこで赤ちゃんを出産させたらよいのか?ヨセフは宿屋の主人に必死にお願いしたことでしょう。馬小屋なら空いているよ、一応屋根があるから星の下よりはましだろ、と。生まれた赤ちゃんはすぐ布に包まれてました。飼い葉桶にそのまま寝かせると硬くて痛いから、馬の餌の干し草をクッション代わりに敷いたでしょう。以上がイエス様がベツレヘムの馬小屋で生まれた真相です。

子供向けの絵本聖書を見ると、この場面の挿絵は大抵、嬉しそうにすやすや眠る赤ちゃんを幸せそうに見つめるマリアとヨセフがいて、その周りをロバや馬や牛たちが可愛らしく微笑み顔で見つめているというものです。羊飼いたちも馬小屋の近くまで来ています。東の国の博士たちももうすぐ貢物を持ってやってきます。ああ、なんとロマンチックな場面なんだろう!でも、本当にそうでしょうか?皆さんは馬小屋か家畜小屋がどんな所かご存知ですか?私は、妻の実家が酪農をやっているので、よく牛舎を覗きに行きました。それはとても臭いところです。牛はトイレに行って用足しなどしないので、全て足元に垂れ流しです。馬やロバも同じでしょう。藁や飼い葉桶だって、馬の涎がついていたに違いありません。なにがロマンチックな「聖夜」なことか。天地創造の神のひとり子で神の栄光に包まれていた方、そして全ての人間の救い主になる方はこの地上に贈られた時、こういう不潔で不衛生きわまりない環境の中で、まさに辱められたような状態で人間としてお生まれになったのでした。

このようにイエス様の誕生の出来事は実はロマンチックなおとぎ話なんかではないのです。クリスマス福音書に書いてあることを注意して読めば、マリアとヨセフがベツレヘムに旅したことも、また誕生したばかりのイエス様が馬小屋の飼い葉桶に寝かせられたのも、全ては当時の政治状況のなせる業だったことがわかります。普通の人の上に影響力を行使する者たちがいて、人々の人生や運命を牛耳ってもてあそんだことに翻弄されたことだったのです。

4.しかしながら、聖書を本当に読み込める人はこれよりももっと深く広い視点を持って読むことが出来ます。どんな視点かと言うと、普通の人の上に影響力を行使する者たちがいても、実はそのまた上にそれらの者に影響力を行使する方がおられるという視点です。その上の上におられる方がその下にいる影響力の行使者の運命を牛耳っているという視点です。この究極の影響力の行使者こそ、天地創造の神、天の父なるみ神です。神は既に旧約聖書の中で、救い主がベツレヘムで誕生することも、それがダビデ家系に属する者であり、処女から生まれることも全て前もって宣言していました。それで神は、ローマ帝国がユダヤ民族を支配していた時代を見て、この約束を実現する条件が出そろったと見なしてひとり子を贈られたのでした。あるいはこうかもしれません。神はその当時存在していたいろんな要素を自分で組み合わせて、約束実現の条件を自分で整備したのかもしれません。いずれにしても、この世の影響力行使者たちが我こそはこの世の主人なり、お前たちの人生や運命を牛耳ってやると得意がっていた時に、実は彼らの上におられる神が彼らを目的達成の道具か小細工にしていたのです。

人間的な目で見たら、マリアとヨセフは上に立つ影響力行使者に引きずり回されもてあそばれたかのように見えます。しかしながら、彼らはただ単に神の計画の中で動いていただけなのです。引きずりまわされるとか、もてあそばれるとかいうことは全然なかったのです。なぜなら、神の計画の中で動けるというのは、神の守りと導きを受ける確実な方法だからです。そういうわけで、イエス様誕生にまつわる惨めさは、実は神の目から見たら惨めでもなんでもなく、神の祝福を豊かに受けたものだったのです。そのようにして二人には究極の影響力行使者である天地創造の神がついておられ、その神に一緒に歩んでもらえる者として、彼らはこの世の影響力行使者たちの上に立つ立場にあったのです。

実は私たちもまた、マリアとヨセフと同じように、究極の影響力行使者の神がついて神に一緒に歩んでもらえる者になることが出来ます。どういうふうにして出来るかと言うと、マリアから人間としてお生まれになったイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることによってです。どうしてイエス様が救い主なのかと言うと、彼が十字架の死を引き受けることで私たちの罪を全て神に対して償って下さったからです。それに加えて、死から復活されたことで死を滅ぼして永遠の命への道を切り開いて下さったからです。このイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで、人間は神の愛する子となり神の守りと導きの中で生きることになります。究極の影響力行使者の神が共におられる者になるので、この世の影響力行使者たちの上に立つ立場になります。しかしながら、この世の影響力行使者はローマの皇帝のような目に見える具体的な行使者だけではありません。使徒パウロが教えるように、影響力行使者には目には見えない霊的なものもあります。それらは、人間が罪の償いがされない状態に留まることを望んで、人間と神との間を引き裂こうと躍起になるものです。しかし、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は、彼がして下さった罪の償いを自分の内に取り込んでしまったので、見えない影響力行使者はもう何もなしえません。

そのように神の愛する子となり神が共におられる人は、目に見える影響力行使者と目に見えない行使者双方の上に立つ者となります。それなので、人間的な目では惨めな状態にあっても、心が騒いだり慌てふためくことはありません。なぜならそのような者の目は遮られないので、この世の影響力行使者の上に本物の影響力行使者をいつも見ることができます。この世の影響力行使者と戦争状態にあっても、究極の影響力行使者とは永遠の平和があります。それでキリスト信仰者の心は人間の理解を超えた平安を持てるのです。世界で一番最初のクリスマスの夜に神を賛美した天使たちの言葉は信仰者にとって真理です。

「神は天上で永遠の栄光に満ちておられる。神の御心に適う人たちは地上で神と平和な関係に入れる。」

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

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