2022年12月18日(日)待降節第4主日 主日礼拝

田口聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

マタイ11825

「神はご自分の民を罪から救うために」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1、はじめに

 アドベントの第4週を迎えました。この主の日の朝、主イエス様が私たちに与えてくださっているみ言葉は、使徒であるマタイを通して「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。」とはじめているように、主イエス・キリストご自身の誕生についての証しです。ルカの福音書が、母マリヤに起こった出来事を証言しているのに並行して、マタイは、父方ヨセフに起こった出来事を証言しています。いずれの箇所も、このイエス様の誕生が、人の思いや知恵によるものでなければ、人の計画や努力によるものでもなく、どこまでもそれは、神が遥か昔から約束された人類の救いの約束を、まさしくその通りに、神が、人のために、恵みとして実現してくださったのだという素晴らしいメッセージが、今日、私たちに伝えられています。

2、神の計画:罪人を用いて

A, 罪人マリヤを通して

 今日の箇所は「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。」と始まり、その後、ヨセフが婚約者マリヤが結婚前に妊娠したことを知り、マリヤを密かに去らせようとしたところに、天の使いが夢で現れ「その子は聖霊によるものである」と告げられていきます。その通り、イエス様は聖霊によって世に来られる真の神様であることがルカ、そしてマタイ、双方からもはっきりとわかるのですが、それは聖霊によって「一人の罪人」であるマリヤに妊って、人間の肉体を持った赤子として生まれるという方法を神様は取られました。そのように救い主イエス様は、私たちの神であり、真に神である方ですが、神の姿で、あるいは、目に見えない聖霊の幽霊のような姿であるとか、あるいは、人間が思い浮かべるような神の力に溢れたような姿、形で来たのではないということです。一人の罪人の胎に宿り、もちろん聖書にある通り、罪はない方ですが(ヘブル4章15節)、私たちと同じ弱さを持った人間の肉体をとり、赤ちゃんでお生まれになられたのです。これは人の思いや理性では信じられない思い付かない計り知れないことですが、聖書は私たちにはっきりとその事実を指し示しているのです。

B, 約束の系図

 ですからマタイは、この福音書を、1章1節から「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。」と言う言葉で始めていないでしょう。人間の側から見て導入として入りやすい書き方をすれば、1章1節を「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。」という書き始めた方がわかりやすかったかもしれません。しかし主はマタイを通じて、その言葉では始めないでしょう。むしろ今日の箇所の直前を見ていただくとわかるように、人間の側から見れば、単調で何の意味があるのかと思うかもしれない系図から主は語り出しているのです。そのことは何を伝えていますか?そう、まさしくそれは、イエス様、真の神であるお方が、人の家系の流れにおいて、つまり、人の間に生まれるのだという証です。ある人は言うかもしれません。これはヨセフの家系ではないか。イエスはマリヤに聖霊で宿ったとあるのだから、ヨセフの血筋ではないではないかと。しかし、イエス様はきちんとルカを通じて、マリヤの系譜も記してくれています。ルカの3章23節〜38節で、ぜひ確認していただきたいのですが、そのルカ3章23節に、ヨセフはエリの子と書かれています。マタイを見てわかる通り、ヨセフの父はヤコブという人物です。ではエリとは誰かというと、これはマリヤの父です。ですから義理の息子という意味でエリの子です。そのマリヤの父エリから遡って系図が書かれていて、しかも、ルカの場合は、最初の人アダムにまで遡って書かれているのです。ヨハネは福音書で証ししているでしょう。

「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」ヨハネ1章14節

 イエス・キリストの誕生。イエス・キリストは天地万物の創造者である真の神です。しかし同時に、その真の神である方が、罪深い人間の体を通して、肉体をとり、人となり、人と人との間に宿られた、来られた、お生まれになられたのです。これは実に不思議です。人の思いでは計り知れない、理解できない。信じられないことです。しかし神はこの聖書を通し、マタイ、ルカ、ヨハネを用いて、これが救い主イエス様の誕生なのだと、まず私たちにはっきりと伝えているのです。

C, それは罪人の系図でもある

 さらにこの系図を見れば、実に、大いなる不思議と恵みがあります。その系図は、「神の系図」ではありません。「聖人の系図」でもありません。そう、それはまさしく「罪人の系図」であるということがわかるでしょう。確かに偉大な信仰者とも呼ばれるアブラハムやダビデの名前があり、マリヤもヨセフもアブラハム、ダビデの家系であることはわかります。しかし、旧約聖書は、ダビデが巨人ゴリアテを倒した武勇伝やいかにも敬虔な綺麗事だけを記録しているのではなく、ダビデが一度ならず何度も罪を犯したことも正直に記録しています。マタイの記した系図を見ると、1章6節「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ」とあります。つまりまさしく、読む人であれば誰でもわかる、あのダビデの罪と悔い改めの出来事さえも隠さず記しています。アブラハムも100%完全で、罪も穢れもない、信仰も完璧な人間としては決して描かれていません。何度も弱さに葛藤し、失敗し、それでも彼が信仰の父であるのは、彼が完全であったからではなく、神の約束とわざが完全であり、神がその約束のゆえに、アブラハムを絶えず教え、戒め、日々悔い改めに導きながらの、信仰に歩んだ生涯であったからではありませんか。その孫のヤコブしかりです。それだけではない、この系図にあるダビデの子孫のソロモンに始まる王達の歴史を見るなら、まさに罪人の歴史であり系図ではありませんか。神はその罪人の系図を知らなかったのでしょうか?そうではありません。わかっていてあえてその系図を私たちに示しています。聖書が「人の間に」と言われるとき、それは、「神の間」でもない。「神のような完全な人々の間でも、聖人君子の間」でもない、「罪人の間」にこそイエス様は宿られる。お生まれになるのです。そして、その罪人を用いて救い主の誕生という素晴らしことをなされるということを私たちに示しておられるのです。Luthran Study Bibleのこの聖書箇所の奨励がとても感謝なので紹介します。

「イエス・キリストの系図で、マタイは、罪人や恥ずべきことを隠そうとしていません。実際にマタイはそれらを目立たせています。イエスが生まれる家計には、売春婦、姦淫の罪を犯すもの、暴力的な人、そしてその他、説明できる他の罪を犯した人々をも含んでいます。このことは私たちを驚かせるかもしれませんが、事実は、キリストの系図を構成しているのは、罪人に他ならなかったということです。イエスの先祖は、私たちが救い主を必要とするのと同じくらい、救い主を必要としていたのです。もし神が、主の恵みにおいて、そのような欠点のある罪深い人々を用いることができるなら、今、救い主の罪のない生贄を証し、その主を信じている罪人を、主はどれだけ沢山、用いることができるでしょうか!主イエス・キリストよ、あなたが救うためにこられた人の間に、一人の罪人である私を加えてくださったことを感謝します。」(p1578、 Lutheran Study Bible(ESV), Concordia Publishing House, 2009

 イエス・キリストの誕生。それは、救い主は、止むを得ずにではない、知らなかったからでもない、あるいは、人間の側の計画や思いでもない。まさにその罪人の間、罪人を用いて、その罪人のために、つまり私たちのために、救いと罪の赦しを実現することこそを神の意図、ご計画とされた、その通りに神が100%なさった、その成就なのです。

3、神がなさった約束の成就

A, 人の側には恐れと戸惑い

 事実、この後、そのことこそ現れています。まず、罪人である人間の側には何があるでしょうか?何かそんな素晴らしいことをなせるものがあるでしょうか?いや、そこには、戸惑いと恐れしかありません。

「18:イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していおたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。

 「母マリヤとヨセフは婚約していたが」とあります。ユダヤ教の習慣では、婚約というのは、すでに法的に結び付けられている関係で、結婚の第一の段階でした。しかしそこには「二人が一緒になる前に」とあります。それは、マリヤは一緒に住んではおらず、性的な関係も持っていなかったことを証言しています。しかし、その状況で、妊娠しました。もちろんそれは書かれている通り聖霊によるものでした。しかしルカの1章には、マリヤに起こった出来事についても書かれていますが、マリヤはみつかいの「聖霊によって男の子を産む」という知らせを受けた時に、即座に信じて、もう驚き踊って感謝して、という状況ではありませんでした。その知らせに、恐れ、戸惑ったことが書かれています。そう、この出来事は人間の側、ヨセフにとってもマリヤにとっても、恐れであり戸惑いでした。ヨセフもこの知らせに戸惑っています。19節

「19:夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。

 ヨセフは神の律法に従って生きることを望んでいた人でした。ですから、まだ夫婦としての関係を持っていない状況で、マリヤが子を宿したと聞いて、ヨセフはマリヤがヨセフに不誠実を犯したのだと始めは思ったのでした。そこで、彼は彼女との婚約関係を解消しようとするのです。しかしそこに「ひそかに」とあるでしょう。英語の聖書(ESV)ですと”quietly”ともあり、黙って、そっと、静かに去らせようともわかります。なぜなら、律法(申命記22章23−24節)は、婚約した女性が、姦淫の罪を犯したなら、石打ちにされなければならないも教えていたからであり、それほどまでに社会においては恥ずべき重大なことであったからでした。ヨセフはマリヤのためにも、静かに人知れず、婚約を解消し、マリヤを静かにさらせることで解決しようとしたのでした。

B, 人の決心がなるのではない、神の約束を神がなさる

 しかし、人間の心配や恐れと人間のそのような知恵を絞った解決が、神の計画を覆したり、邪魔したり、ならないようにしたりすることは決してできないのです。まさに19節では「決心した」ともある固い決意にあるヨセフ、そのままでは、ヨセフとマリヤは夫婦にならず、イエスはナザレの大工の家の子としても育たなかったかもしれない、そんなヨセフの決心に、主は介入されます。

「 20このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。 21マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」

 御使いがヨセフの夢の中で現れて言います。「夢」とありますが、旧約聖書では、一般的な啓示の方法であり、有名なのは、創世記のヤコブ(イスラエル)の子ヨセフの夢を通じての啓示があるでしょう。ここで神は御使いを通してヨセフに語りかけます。「恐れず」つまり「恐れてはいけない」と。ルカの福音書でも、御使いは、マリヤに「恐れなくても良い」と語りかけています。御使いというのは、神ではありませんが、神のメッセンジャーであり、神の言葉を伝える、被造物です。もちろん、旧約聖書を見ると、御使いが裁きのために遣わされる場面はありますが、神が御使いを通して私たちに働く基本的な様がここにはあります。それは、メッセンジャーは、みことばを携え、恐れを取り除くというその役割です。世の中は罪の世ですから、人には恐れや不安が満ちています。しかし、神と神の言葉、何よりそのイエス・キリストの約束は、その罪の世に不安と恐れで生き、罪に刺し通され悔いる私たちに、さらに重荷を負わせ恐れさせ心配させるのではなく、「恐れなくて良い」とどこまでも平安を与えてくださるお方であり、その言葉であることが、ここにも教えられます。

C, 御使いは律法で導かない

 そんな恐れるヨセフ、密かに婚約を解消しようとするするヨセフに、神は御使いを通して告げます。「その子は聖霊によるのだ」と。さらには具体的なことも約束しています。それは男の子だと。名前はイエスとつけなさい。皆さん、この箇所も物凄く幸いな事実を教えられます。この「恐れず」という言葉。あるいは「恐れるな」と言う言葉。聖書には多いですが、それは「命令」のようですから一歩間違うと律法になります。つまり私たちが自分の力で頑張って、恐れないようにしなければいけない。頑張って恐れないようにしようとか、人間の意志の力でその神に応えなければいけないかのように、人は考えやすいです。それは例えば「いつも喜んでいなさい」(第一テサロニケ5章16節)とかも命令だからと、律法と理解する人がいます。自分の力や意志の力で神のために、いつでも喜んでいなければいけないのだと。つまり律法なんだと。それは救いや信仰は、神の恵みだけでなく、数パーセントの人間の意志の力の協力が必要なんだと教えるような教会の人々はそう考えたり教えたりします。しかしそうではありません。なぜ恐れるな、または、恐れなくて良いと神様は私たちに言われるのでしょうか?それは、神様の、神様がこれから実現するという計画と約束がそこにあるがゆえでしょう。ここでもそのことがわかります。恐れなくていいのは、それが人ではなく聖霊によるものであり、人ではなく「神が」聖霊によって、男の子をマリヤに産ませるのであり、名前も人が決めるのではなく、「神が」イエスと決めているからであり、そして何と幸いではありませんか。その子がなす救いの計画がはっきりと告げられています。「この子は自分の民を罪から救うからである。」と。そう「恐るな」、あるいは、「恐れなくていい」のは、神が確かにその通りに実現する神ご自身の約束があるからこそ「恐れなくていい」なのです。恐れからの解放、平安、喜び、何であっても、神がそのように励ますのは、人間の側が自分の力や意志の力でそうしなければいけないという律法ではなく、イエス様の約束が100%真実であり、その通りに実現するから、心配しなくていい。恐れなくていい。喜んでいなさい。なのであり、平安はそのようにしてイエス様が、その約束によってもたらす平安だということなのです。ですから恐れるなも、喜んでいなさいも、そして信じるという信仰も、決して「人がなさなければならない」「律法」ではない。紛れもなくそれは「神がなす」「福音」だということなのです。

D, 御使いは確信を得させるためにどうするか?

 そしてこのところ、マタイは、まさしくイエス様に用いられている誠実な真の宣教師です。ここで、この福音書を読む人達に確信を得させるために、彼は、現代間違って流行りがちな、自分の理性や知識や人間の巧みな説得力で確信させるとか、文化的な手段や適用とか魅力的なアトラクションとか例話など、そんなものは用いいません。マタイははっきりと私たちに証しします。

「22このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。23「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」

この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。

 と。まさしく今日の第一の聖書朗読の箇所、イザヤ書1014節の預言です。マタイは、その聖書を引用して、その主が預言者を通して言われたことが実現するためであったと、聖書がこう言っている。聖書がこう約束してきた。指し示してきた。そのことが実現するのだと主の約束は真実であるということこそを指し示し、マタイはイエスの復活の後にもちろんこの福音書を書いていますから、それは、その約束の通りに実現したのだというメッセージも同時にあると言えるでしょう。マタイははっきりとしています。系図もそうですが、それは神が約束した通り、聖書の通り、みことばの通りにその通りになったのだ。聖書がそう言っているからその通りそれは事実、真実なのだ、というメッセージなのです。

 残念なことに、聖書をそのまま信じることは理性に照らせば馬鹿馬鹿しいことであるという教えが流行って、イエス様の処女懐胎などを神話と言ったり、色々、人間的な理屈で説明をつけて、聖霊によって身籠るなどないんだ、処女が聖霊によって妊娠するなんてないんだ、それは、弟子達の作り話なんだという教えや説教があるかもしれません。しかしそのような教えは、神もなければ、神の言葉の力や真実さもありません。信仰もありません。信仰があったとしても、それは人間の理性や知識を根拠とした、神の前ではなんの力のないものであり、その辺の新興宗教となんら変わりありません。それは、福音と恵みに生かされる真の平安の信仰ではなく、キリストは結局は優れた模範者や偉人で、それにならって生きていくのが福音なんだという、結局、律法による信仰、道徳しか教えられず、それは何より平安はないのです。

4 結び:神はご自分の民、私たちを罪から救うために

 イエス様がマタイを通して私たちに語りかけるメッセージは、真実な福音がその通りあなた方一人一人のために実現したのだ、そして今日も約束は実現する、だから安心して行きなさいと遣わすメッセージです。私たちは、どこまでも罪人です。生まれながらに神を信じない神に背を向けて生まれ、育ち、大人になるだけではない、自らでも聖書の言葉もイエス・キリストも見出すことも、信じることもできない。そして、神の創造の時の御心を一つも行えず、自らでは、神の戒めの第一の戒め、心をつくし、思いを尽くし、精神を尽くして神を愛することができない、そればかりではなく、隣人さえを愛することできない存在です。隣人を愛していると思っているようで実は、自分自身しか愛することができないことに気付かされる存在。それは私自身が、聖書の律法に照らされるときに、刺し通される自分自身の惨めな姿であり、救いようない罪人は私自身です。

 しかし、皆さん。神の計画は、そんな罪人を滅ぼすことでも見捨てることでもありませんでした。事実、創世記3章、イエス様は、すでにアダムの堕落の時から女の子孫が悪魔を滅ぼすとも約束しておられましたが、その約束の通り、堕落した罪深い女の子孫の罪人の系図の先に、ヨセフとマリヤがいます。その二人の罪人の間に、約束の通りに、女の子孫を、神は与えてくださいました。預言者の約束の通り以上に、その神の最初の約束の通りに、その神の言葉は、実現しました。その通りに、罪人の間に生まれ、その救い主は、罪人の間に育ち、罪はありませんでしたが、罪人と一緒に食事を、友となり、そして、その罪とその結果である、苦しみ、悲しみ、絶望、そして何より死を背負って、つまり、それは私たちが負わなければならない全てのものをその身に負って、私たちのために十字架にかけられ死なれるでしょう。その十字架のために、つまり私たち一人一人のためにこの御子は生まれるのです。「この子は自分の民を罪から救うからである。」とある通りに。その身代わりの十字架のゆえに、私たちの罪が赦されるため、そして罪赦され、義と認められ、私たちの義ではなくイエス様の義を受けて、そして、復活の新しいいのちによって、今日も私たちが新しくされ平安のうちにここから出ていくことができるためです。

 私はクリスチャンホームで生まれ育ちましたが、先日、年老いたクリスチャンの母から電話があり、母は色々な不安や恐れに生きる中で、それは人間ですから当然あるのですが、あるクリスチャンから、「信仰者なんだから、もっと一生懸命、心配しないで、熱心に信じないと天国に行けないよ」と言われので、自分は天国に行けないのかと不安になっていると話してくれました。私はそれを聞いて切なくなりました。皆さん。そういう考えや励ましは間違いであり福音を律法に混同し歪めています。皆さんは心配しないでください。皆さんは確実に天国に行けます。なぜなら、私たちの何かではなく、神の約束、神のみ言葉によって信仰が与えられ、人の名前ではなくキリストの名で洗礼を授けられ、その私らちを新しく生まれさせたイエス・キリストの福音によって、今日も明日もいつまでも、日々悔い改める私たちに、イエス様が、その十字架と復活のゆえに「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と言ってくださるからです。救いの確信は、私たちが律法を一所懸命、自分の力や理性で実現するから確信があるのではありませんし、それでは一生確信はありません。救いの確信は、イエス様の揺るぎない、朽ちることのない、真実のみことば、約束、福音のゆえです。今日もイエス様は悔い改めを持って主の前にいる一人一人に、この十字架のゆえに言ってくださっています。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひ救いの確信を持って、安心して、今日もここから遣わされて行きましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

新規の投稿
  • 2024年4月21日(日)復活節第四主日 主日礼拝 説教 木村長政 名誉牧師
    [私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と、平安とが、あなた方にあるように。アーメン]                           2024年4月21日(日)スオミ教会  「私は、まことの羊飼い。」 […もっと見る]
  • 牧師の週報コラム
    遠藤周作「沈黙」から帚木蓬生「守教」へ (先週の週報コラムで和辻哲郎の「鎖国」と渡辺京二の「バテレンの世紀」について書いたら、礼拝後のコーヒータイムの席で遠藤周作の「沈黙」が話題になりました。それで今回はその時の話の続きとして) […もっと見る]
  • 手芸クラブの報告
    4月の手芸クラブは24日に開催しました。朝から雨がしとしと降り少し涼しい日になりましたが、季節はまだ新緑がきれいな春です。 […もっと見る]
  • スオミ教会・家庭料理クラブの報告
    4月の料理クラブは桜もそろそろ終わり始めの13日、爽やかな春の陽気の中で開催しました。今回はこの季節にピッタリのフィンランドのコーヒーブレッド、アウリンコ・プッラを作りました。 料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。 […もっと見る]
  • 歳時記
    杜若・カキツバタ 近くの谷戸池に今年も杜若が咲き出しました。まだ二輪だけですが間もなく満開になるでしょう。 […もっと見る]
  • 牧師の週報コラム
     和辻哲郎「鎖国」から渡辺京二「バテレンの世紀」へ 和辻哲郎の「鎖国」は驚くべき本である。中心テーマは室町時代末期から江戸時代初期にかけてのキリシタン盛衰記だが、序説がなんとローマ帝国の崩壊から始まる。 […もっと見る]