2022年7月24日(日)聖霊降臨後第7主日 主日礼拝

今日の説教

ルカによる福音書11章1〜13節

「イエスが教える祈りの恵み」

202224

説教者:田 口  聖

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1、「はじめに」

 このところはイエス様がイエスご自身の祈りである「主の祈り」を教えられるところです。マタイの福音書でも主の祈りを教えられる場面が書かれていますが、今日のこのルカの福音書と違いがあります。マタイの福音書では、山上の説教の場面ですし、内容はほぼ同じなのですが、言葉がすこし長めです。しかしそれはマタイとルカで一つの出来事を矛盾して述べているということではありません。イエス様は一回だけでなく様々なところで、この主の祈りを教えていたとも言われています。それぞれ場面が違うところで、イエス様は、この祈りを繰り返し教えられたということです。そして何より大事なのは、イエス様がこの祈りを教えた目的、つまり、この祈りを教えることで、何をイエス様は私たちに語りかけているかということです。それが今日のところではよくわかるのです。

2、「祈るとき、こう祈りなさい」(2〜4節)

 まずこの状況ですが、イエス様がある所で祈っていました。そして祈りから帰ってきたときに、弟子の一人がイエス様にいます。イエス様、「私たちにも祈りを教えてください。」と。しかしそれは「ヨハネが弟子たちに教えたように」ともあります。それはバプテスマのヨハネのことを指しています。彼にもたくさんの弟子がいました。当時のユダヤ教では、定ったことばの祈りが一般的でした。製本された本などはありませんので、そのような定まった祈りを暗記していたのでした。現在のユダヤ教には、祈祷書というのがあります。キリスト教にも祈祷書はあります。初代教会から、教父達の時代も、ルターの時代にいたるまでもありましたし、ルター自身も、祈祷書を書いていますし、今でも聖公会やルーテル教会にも祈祷書の類が使われています。そのような本の形ではなかったのですが、ヨハネも定まったことばの祈りを教えていたようです。同じようにイエスの弟子達も祈りを覚えたかたったのでした。イエス様は、それを拒まず、喜んで弟子達に祈りを教えるのです。

「そこでイエスは、彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。私たちを試みに会わせないでください。」2〜4節

 ルカでは「罪」と「負い目」と両方のことばが使われていて、同じ意味として用いています。私たちは人に対してだけでなく、何より神に対しても重い負い目を負っているという意味が、「罪」にも「負い目」にもあるということでしょう。

 イエス様はこの主の祈りを、あらゆる場面で、様々な人に教えました。こう祈りなさいと。マタイの福音書の「山上の説教」のことろでは、見れられたくて祈るような律法学者やパリサイ人達のようではなく、あるいは同じことばを繰り返すような祈りでもなく、「あなたがたがお願いする先に、あなたたがたに必要なものを知っておられる」神に、こう祈りなさいと言って、この主の祈りを教えています。つまり、私たちの必要なものをすでに知っておられる神に、祈りなさい。願いなさい。求めなさい。イエス様はいつでも人々にそのようにこの祈りを勧めていたのでした。そして、この主の祈りは、すべて「〜なるように。与えてください。してください。」と「願い求める」ことばで書かれているでしょう。このことからも、イエス様がこのように教えるように、父なる神に「願い求める」ということは、むしろ主ご自身が求めておられることなのだということがわかるのです。

 そこで、その主の祈りを教えることに込められているイエス様の思い、そして、祈り求めることの素晴らしさ、大切さをさらに説明するために、イエス様は、弟子達にこのようなたとえ話を始めるのです。

3、「あくまで頼み続けるなら」(5〜8節)

 「また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。 旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』 すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』

5〜7節

 まずこの話は、人間同士の営みとして語っていることは重要な点です。その前提で見ていきますが、3人の友人同士のやりとりです。しかもすべて真夜中です。旅の途中にやってきた友人も突然だったようです。家には何も食べるものがありません。当時の食事は、店にパンなどが売っているのではなく、材料を買ってきて作って食べます。しかし夜中、その材料自体がなく、買いに行くこともできません。そこで別の友人に真夜中にお願いにくのです。パンを三つ貸してくれないかと。それに対して頼まれた方も「面倒かけないでくれ。もう子供達も寝ている」といいます。当時の人々はそれぞれに個室や寝室があるのではなく、皆一緒に寝ていたとも言われていますので、そこでパンを準備することは、作り始めるのですから、家族じゅうが起こされることになります。まさに面倒なことです。ですから断るのです。しかし、8節でイエス様はいいます。

「しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。」8

 「しつように頼めば」とあります。別の聖書の訳ですと、「あくまでも頼み続けるなら」とあります。これは「なおもずうずうしく頼み続けるなら」という意味合いのことばです。そこまでも頼み続けるなら、とりあえず何か必要なものを与えて行かせるでしょう。とイエス様は言うのです。イエス様は、人間同士、友人同士のやりとりとして話していますが、あくまでも頼み続けるなら、それが不本意でも不機嫌でも迷惑でも、してあげることがあるのではないか。そのようにいうのです。

4、「求めなさい」(9〜13節)

この例をもとにイエス様はこう続けます。

「そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」9〜13

 先ほどの例えを、イエス様は人間同士、友人同士のこととして話し、人間同士であっても、あくまでも頼み続けるなら、それがずうずうしくてもしてあげることは沢山あるということでしたが、イエス様はここで強調するのです人間同士でもそうであるなら、人よりもはるかに大きな愛に満ち溢れる父なる神は尚更ではありませんかと。イエス様がここで私たちに伝えたい大事な点の一つです。神様は人以上の方です。その愛も憐れみも深く計り知れません。それは一人子を私たちの罪のために十字架にかけるほどの愛だと聖書は伝えているでしょう。このところは、神は決して人間とイコール。人間がこうだから神もこうだというメッセージではありません。人間でさえもそうなのだから、神はそれ以上ではないか。というのがイエス様が主の祈りの説明にこの例えを用い、そして「求めなさい」と続く、大切な点に他なりません。そして、イエス様はここで「父」と「子」の関係を取り上げ語っているでしょう。その祈りの関係にあるのは父と子の関係であり、父と子の愛です。そこでも人間であってもそうなのだから、それほどまでも世を愛し、私たちのような罪人でさえも、子供と呼んでくださる神なのだから、その求める子供に良いものを与えないはずがあろうか。子供が魚をくださいと言っているのに、蛇を与えるような父があろうか。父は当然、蛇を与えないのです。しかもその父は、天の父を指しています。神はあなたがにとって、蛇を与えるようなそんな神、お父さんであろうか。子供が卵をくださいといっているのに、さそりを与えるようなそんな父、そんな神だろうか。イエス様は問いかけているのです。蛇は、ご存知のように狡猾な存在だと聖書では言われ、まさに罪の誘惑の象徴です。毒をもっています。サソリも毒で人を殺すことができます。まさに悪いもの、誘惑、死、滅びを象徴するのが蛇でありサソリです。しかし、子が求めているのに、そのような良くないものを、悪いものを、父なる神は与えるのだろうか。人間の父でさえもそんなことはしない。まして人間と比べ物にならない遥かに優れて完全で計り知れないほど大きな愛で満ちている、天の父なる神は、そんなことをするはずは全くないということをイエス様は私たちに伝えています。求める先から、必要なものをしっていてくださる神様です。魚が欲しいと言っている子に、卵が欲しいと言っている子に、そのものを、良いものを与えてくださるのが父なる神様である。イエス様は言っています。そのような人間の愛にはるかに勝って与えてくださる父なる神様にこう祈りなさいと、イエス様ご自身が教えてくださっているのが、この主の祈りであるのです。そして、それは決して、ただ祈るための祈り、定式化した文面をただ繰り返したり人に見せたりする祈りではなく、子がお父さんに求めるように祈る祈りであることを、イエス様は私たちに教えていると言えるでしょう。ですから、いいます。9〜10

そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。

 「求めなさい。」「探しなさい。」「叩きなさい。」と。そうすれば「誰であっても」、「与えられます。開かれます。見つかります。」と。そう言います。

5、「そうすれば、与えられる」

 そしてこの言葉に鍵があります。求めなさい。叩きなさい。探しなさい。そうすれば「得ます」「開きます」「見つけます」とはありません。つまり、求め、探し、叩くとき、「私たち自身がて、見出し、開くのではないということがわかるのです。世の精神論や自己啓発論や、根性論は、むしろ夢や目標を追い求めるとき、自分自身がその努力で得る、開く、見出すことができると教えるでしょうもしかしたら、律法的な教会や、福音を道徳に上手く変えて教えるようなキリスト教会でも、そのように宣教や生き方を、教えるようなところがあるかもしれません。しかし聖書はそのようなことを言っているのではありません。求めなさい。探しなさい。叩きなさい。そうすれば、「与えられます」「受ける」「開かれます」です。受動態で書かれていて、つまり、与える方がいること、開いてくださる方がいることを示唆しているでしょう。そして「見つけます」も、それは答えを与える方がいて、その与えられた答えをみつけるという意味であることがわかるのです。ではそれは誰でしょう。それは言うまでもなく、父なる神様のことを言っていますですから、11〜12節の言葉があるのです。父が与えるのだと。このように主の祈りにある幸いは、その父に求めるよう主ご自身が律法としてではなく、福音として恵みとして教えているという幸いです。そして求めるときに、「父なる主が必ず与えてくださり、開いてくださる。必要なものを与えてくださる。その約束と成就がこの祈りにはあるのであり、そのように主にどこまでも求めなさい。それが主の祈りの意味です。ですから、このイエス様が教えるイエス様の祈りの願いの一つ一つは、イエス様が既にご存知である、本当に私たちに必要なことを示唆する祈りとしても教えられています。最初の「御名が崇められるように」「御国が来ますように」という願いー事実、なんでも私たちの欲のまま、思い通りになることが、本当の真の幸せや平安につながるとは言い切れません。むしろ、御名があがめられること、御国が来ることこそ、私たちの救いであり平安となります。「日毎の糧を与えたまえ」という願いー日ごとの糧も必要な大事なもの、神様はそのことを知っているし、神は与えてくださるという約束です。そして「罪の赦し」を祈るようにイエス様は教えています。罪の赦しは救いの核心です。罪赦されなければ天国に行けません。しかし神は悔い改めるものに、必ず「罪の赦し」を与えてくださることをイエス様はこの祈りに示唆していますが、それは何よりイエス様はそのために来られた、その十字架に立ち返らせる言葉でもあるでしょう。そして更には、そこには、私たちも互いに赦し合うことができる希望と幸いもあります。その互いに愛し合うこと、赦しあう事は中々難しいことでありますが、その全ても、求める時に、神が私たちに与える福音の力で、今はできないと思えることをするようにしてくださるという約束でもあるでしょう。さらには、「試みに合わせず悪から救い出したまえ」という言葉ー神は試みから、試練から、悪から、助け出してくださる約束があるのですこの全てが「祈り」であり、「与えられます」なのですから、つまり、主の祈りは、私たちが、自らそれを達成しなければいけないという律法ではなく、神が助けてくださるのだから、こう祈りなさいなのです。つまり福音です。主の祈りの一つ一つの請願は、本当に私たちの人生、新しいいのちの歩みにおいても大事な大事な必要な一つ一つのことです。それを神は知っておられ、与えてくださる。その神に、父に求めなさい。探しなさい。叩きなさい。そうすれば、神は答えてくださる。与えてくださる。開いてくださる、と約束してくださっているのです。事実、今日の最初の朗読、アブラハムは、主の使いがソドムを滅ぼしに行くということを知った時に、甥のロトのことを思い、ロトの赦しと救いのことを願います。ソドムの圧倒的な堕落とそこには信仰者はわずかしかいないのを知っていながらも、アブラハムは何度でも繰り返し、主にしがみつくように、「50人では?」、「45人では?」〜「10人では?」と、ロトの救い、赦しを求めるでしょう。その求めに対して、主は10人の信仰者がいるなら滅さないと約束してくださったでしょう。もちろん、5人さえもいなかったので、ソドムは滅ぼされましたが、アブラハムの心配を主は知り、ロト家族を赦し助け出してくださいました。主にすがり、主に求めることは主によって与えられている素晴らしい恵みであり、とても素晴らしい勧めなのです。祈ること、求めること、そして神が、私たちの必要を知り、備えてくださる良いものを受けること、これが、私たちの新しい歩みの素晴らしいさに他なりません。それがイエス様が教え与えてくださっている主の祈りにあるのです。

6、「真に「必要なもの」を与える

 そして、そう祈るためには何より信仰を持って祈るのですが、イエス様はその必要な信仰さえもきちんと配慮してここでは教えています。13節では、そうであるならと、私たちにとっての何より必要なもの、最高の宝物を備えてくださり与えてくださることを示しています。求める子供に良いもを与える神は、子供たちも思いもしない、自らでは決して手に入れることもできない、最高の必要、真の必要、本当の必要、本当の良いものを用意してくださり与えてくださるというのです。それは正しく、み言葉を通して信仰を与え、信仰を支え、常に助ける聖霊のことであるであることを伝えているでしょう。聖霊は何よりも素晴らしい神様からの贈り物であり私たちの本当の必要ですヨハネ14章では「助け主」ともあります。世には数々物質的な素晴らしい恵みがあり、神はそれらも与えてくださり、私たちはその恵みを受けています。しかし目に見えるもの形あるものは、やがて必ず朽ちていくものであり、永遠の希望や平安をもたらすものでは決してありません。しかし、それらにはるかに勝り、そのひと時のものではない、比べ物にならないほど大きく永遠のものを確かに与える最高の存在が私たちに与えられていることをイエス様は私たちに伝えています。それは聖霊であると。皆さん、聖霊が与えられているということは、一番です。最高です。なぜなら、聖霊こそ福音を通して私たちに信仰を与え、救いを完成するからです。どのようにしてでしょうか?聖霊こそ、み言葉に働き、み言葉を通して真理を教え、まず私たちに罪を気づかせ、悔い改めに導き、そして、福音の素晴らしさ、救いの素晴らしさ、罪赦されていることの素晴らしさ、十字架と復活が私たちのものとされているその奇跡と恵みを信じさせ、確信させるからです。そのように、私たちの何かではなくて、神が、キリストが、そして聖霊が、どこまでも私たちに働き、聖め、まさにその恵みのうちに、イエス様が与えると言われた、確信と特別な平安の義の実に与らせる。それは救われた私たちにとって何よりの必要であり、それが真の幸いと喜び、平安になるでしょう。それが私たちの新しいいのちの歩みです。それを実現する聖霊が、洗礼を受けた一人一人には与えられているのです。ですから、洗礼を授けられているなら、皆さん、安心してください。皆さんは、既に救われているし、既に祝福されているのです。まず私たちの側で一生懸命何かを達成するから祝福されるのではないのです。信仰が与えられ、洗礼を授けられ、聖霊が与えられていること自体が、もう祝福なのです。そして、私たちの日頃の不信仰さや不完全さがあるとか、自分の罪深さを見て救われていないのではないかと思う必要もありません。その救いは神の約束のゆえであり、私たちの何らかの行いのゆえではないのですから、今、信じて洗礼を授けられているのなら、私たちには救いの確信があるのです。神の約束のゆえ、み言葉のゆえに、安心していいのです。そしてその信仰の歩みは、聖霊がみ言葉の約束と力を持って、天の御国に入れられるまで、私たちに確かにしてくださるのです。

7、「キリストに結ばれ:新しいいのちを平安のうちに」

 第二の朗読コロサイ書に「キリストに結ばれて歩みなさい。キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、溢れるばかりに感謝しなさい」(コロサイ267節)とあるように、私たちは、この新しい週も、主イエス様の十字架と復活の罪の赦しと新しいいのちの宣言を受け、平安のうちに遣わされていきます。それは、主イエス様にあっての新しいいのちの歩みです。その新しいいのちの日々を聖霊が助けてくださいます。イエス様は今日も、私たちの日々新しい命の歩みのために、何より必要な罪の赦しと平安を宣言し与えてくださるのです。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひ主の祈りの幸い、求めることができる幸いを覚えながら、イエス様の名によって祈り求めるつつ、希望のうちに歩んでいきましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

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