説教題 「この世の統治者 vs. この次に到来する世の統治者」吉村博明 宣教師、ルカによる福音書19章28-40節

主日礼拝説教 2022年4月10日(枝の主日)

私たちの父なるみ神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

.はじめに

 今年の受難節/四旬節も、もう「枝の主日」となりました。復活祭の前のこの主日が「枝の主日」と呼ばれるのは、イエス様が受難を受けることになるエルサレムにろばに乗って入城した時に、群衆が自分の服と木の枝を道に敷きつめたことに由来します。本日用いておりますルカ福音書では、群衆が道に敷いたのは衣服だけですが、マタイ福音書では衣服と木の枝(218節)、マルコ福音書では衣服と葉の付いた枝(118節)と少し詳しく記されています。ヨハネ福音書では、道に敷かれたことは言われていませんが、群衆がなつめやしの枝を持ってきたと記されています(1213節)。いずれにしても、私たちは、今日から始まって聖金曜日を経て復活祭に至るこの1週間、約2000年前に起きた人類の救い主の受難の出来事について、聖書の御言葉をもとに思い起こし、彼がゴルゴタの丘の十字架まで歩んだ受難の道を心の中で辿らなければなりません。

さて、ルカ以外の三つの福音書を見ると、ろばに乗ったイエス様がエルサレムに入城する時、群衆は「ホサナ」という歓呼の言葉を叫びます。これは、もともとは旧約聖書が書かれたヘブライ語で「ホーシーアーンナー」という言葉が、イエス様の時代のイスラエルの地で話されていたアラム語「ホーシャーナー」に訳されたものです。どちらも神に、救って下さいとお願いする意味があります。それが古代イスラエルの伝統では、群衆が王様を迎える時の歓呼の言葉としても使われました。従って群衆は、子ろばに乗ったイエス様を王として迎えたことになります。しかし、これは奇妙な光景です。普通王たる者がお城のある自分の町に入城する時は、大勢の家来や兵士を従えて堂々とした出で立ちだったしょう。ところが、この「ユダヤ人の王」は群衆には取り囲まれていますが、子ろばに乗ってやってくるのです。

 またイエス様は、子ろばを連れてくるようにと弟子たちに命じた時、まだ誰も乗っていないのを持ってくるようにと言いました。まだ誰にも乗られていない、つまりイエス様が乗るという目的に捧げられるという意味であり、もし既に誰かに乗られていたら使用価値がないということです。これは、聖別と同じことです。神聖な目的のために捧げられるということです。イエス様は、子ろばに乗ってエルサレムに入城する行為を神聖なもの、神の計画を実現するものと言うのです。さて、周りをとり囲む群衆から王様万歳という歓呼で迎えられつつも、これは神聖な行為であると、一人子ろばに乗ってやってくるイエス様。この出来事は一体何を意味するのでしょうか?

 本日の説教では、イエス様が子ロバに乗ってしかも王様としてエルサレムに入城したことが一体なんだったのか?しかも、それがどうして神の計画を実現する神聖な行為だったのか、それらを明らかにしようと思います。それらが明らかになると、イエス様は私たちにとって何かとてつもない統治者であることが見えてきます。

 「統治者」という言葉を使いましたが、昔の時代では統治者というのは王とか皇帝とかいわゆる君主が普通でした。現代では、王は存在しても統治権を持っていないのがほとんどです。大抵は、国民が選挙して国会に代表者を送り、その国会が政府の構成を決め、そして裁判所がこれらがちゃんと憲法や法律に従って働いているかをチェックします。現代では統治権は、こんなふうに機能別に分かれているのが普通です。昔の王の場合だと統治権は一極集中だったと言ってよいでしょう。それなので、現代の私たちがイエス様のことを王と呼ぶ時は、現代の王のイメージは捨てて、昔のように統治権の行使者として捉えなければなりません。イエス様は統治をする王であると。

 しかしながら、統治する王ではあっても、イエス様の場合は特殊な事情があります。それについて、イエス様がヨハネ1836節で自らお話しして下さいます。イエス様がローマの総督ピラトに向かって言った言葉です。「私の国はこの世には属していない。」ここのギリシャ語の原文をもう少し正確に見ると、「私の国はこの世に起源を持たない」です。

 昔、王が統治していた国も、現代、国家機関が統治している国もみなこの世に起源を持ちます。当たり前です。しかし、イエス様が統治する国はこの世に起源を持たないのです。それはどんな国でしょうか?その国と私たちとの関係はあるでしょうか?そのようなことも以下に一緒に考えてみましょう。

2.ゼカリア預言の成就の意味

 イエス様が子ろばに乗ってエルサレムに入城したのは神聖な行為であったということについて。この出来事は、旧約聖書ゼカリヤ書にある預言が成就したことでした。ゼカリヤ書99ー10節には、来るべきメシア、救世主の到来について次のように預言していました。

「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗って来る 雌ロバの子であるろばに乗って。わたしはエフライムから戦車を エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ 諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ 大河から地の果てにまで及ぶ。」

 「彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく」というのは、ヘブライ語の原文を直訳すると「彼は義なる者、勝利者、へりくだった者」です。直訳の方がイエス様のことを指していることがよく見えてきます。

 まず、「義なる者」について。「義」という難しい言葉がありますが、簡単に言うと、神の意思を体現できている、それで神の目に相応しい者です。先月の説教でもお教えしましたが、私たち人間はそのままの状態では神の意思に反する罪を持っているので「義なる者」になれません。しかし、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼があれば神から義を与えられて義なる者とされます。イエス様の場合は、彼は神のひとり子なのでそのままの状態で神の意思を体現している「義なる者」です。

 「勝利者」というのは、ゼカリア書の預言から明らかなように、神の力によって世界から軍事力をなくして神主導の平和を打ち立てる者です。そのような勝利と平和はどうやって打ち立てられるでしょうか?人間の力で世界から軍事力をなくして人間主導の平和を打ち立てることが出来るでしょうか?今次のウクライナの戦争を見ても世界中の他の火種のある地域を見ても難しそうです。もちろんそうする努力はしなければなりません。

 イエス様が勝利者というのは、彼が軍隊を率いて外国を打ち破るという戦争勝利ではありませんでした。彼の勝利は、ゴルゴタの十字架の死と死からの復活を遂げたことで罪と死を滅ぼしたという勝利でした。人間はイエス様を救い主と信じる信仰と洗礼を通してイエス様と結びつくことが出来、それで彼の勝利を自分のものにすることが出来ます。そうすると今度は、天と地が新しく再創造される時にイエス様のように死から復活させられて永遠の神の御国に迎え入れられます。今の次に到来する世の有り様は今の世と異なります。それは罪と死に対する勝利に与った者たちのある世です。そこは神主導の平和が打ち立てられています。当然のことながら人間の軍事力などは藻屑になっています。

 そして、「へりくだった者」というのは、まさに本日の使徒書の日課フィリピ2章でイエス様について言われていることです。その個所ではイエス様のへりくだりが見事に描かれています。「キリストは、神と一体にありながら、神と等しいことを戦利品と見なさず、それを放棄して奴隷の形を取り、人間の姿形を取り、人間のように現れ、自分をヘリ下させ、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順でした。」このように「高ぶらず」などと訳さないで「ヘリ下った」と直訳すればイエス様のことを言っていることがよくわかります。

 以上から明らかなように、ゼカリア書の預言にある「義なる者、勝利者、ヘリ下った者」とは、義なる神のひとり子が罪と死に勝利するためにヘリ下って十字架の道を歩むことが預言されていたのです。イエス様が子ロバに乗ってエルサレムに入城したというのは、このゼカリア書の預言がこれから成就することを人々に知らせる出来事だったのです。

3.民衆が期待し、宗教指導者が望まなかった王

 ところが、これを見た当時の人たちはイエス様のことを罪と死に勝利するために出陣する王とは考えていませんでした。それでは、この出来事をどう考えたのでしょうか?彼らにとって、旧約の預言に登場するダビデの家系の王とは、なによりもローマ帝国の支配を打ち破って民族の王国を再興する王でした。このような期待があるところには、今の世が新しい世に取って代わるということは視野に入っていません。再興される王国は今の世の中にあります。

他方で旧約聖書には、イザヤ書6517ー20節とか6622節、ダニエル書121ー3節などには(他にゼカリア147節、ヨエル34節など)、今の世は終わりを告げて今ある天と地が新しく再創造される日が来る、その時、死者の復活が起きるという預言があります。これに注目した人たちもいました。その場合は、ダビデ王の末裔が統治する王国とは、今のこの世のものではなく新しい世の王国と理解されます。

さて、今のこの世の中に樹立される王国か、新しい世に現れる超越的な国か?しかし、どっちをとっても、当時の人々は、ユダヤ民族の王国が再興されるというイメージを持っていたことに変わりはありません。先ほど見たゼカリア書9章の他に、ゼカリア書14章やイザヤ書2章にも、世界の国々の軍事力が無力化されて、神の力を思い知った諸国民が神を崇拝するようになってエルサレムに上ってくるという預言があります。それだけを見ると、ユダヤ民族の国家が勝利者になり全世界に大号令をかけるという理解が生まれます。しかしながら、これは旧約聖書の一面的すぎる理解でした。旧約聖書の奥義は、こういう一民族中心主義を超えたところにありました。イエス様が成し遂げたことがそれを明らかにしました。そのイエス様がエルサレムに乗り込めば、そこでユダヤ民族の宗教指導者たちと真っ向から衝突するのは火を見るより明らかでした。この衝突がエスカレートして、イエス様は逮捕され、迫害され、十字架刑に処せられてしまったのでした。宗教指導層がイエス様を生かしてはおけないと考えるに至った理由は以下の3がありました。

まず、イエス様が自分のことを、ダニエル書7章に出てくる、この世の終わりの時に現れる救世主「人の子」であると公言していたことがありました。つまり自分を神に並ぶ者とし、さらにはもっと直接に自分を神の子と言っている。これは、宗教指導層にとっては神に対する冒涜以外の何ものでもありませんでした。しかし、イエス様は、本当に神のひとり子だったのです。

 もう一つの理由は、イエス様が群衆の支持と歓呼を受けて公然と王として立ち振る舞ったことも問題視されました。そんなことをすれば、ユダヤ地域を占領しているローマ帝国当局に反乱の疑いを抱かせることになってしまいます。宗教指導層としては、ユダヤは占領されてはいるが安逸を得られ、エルサレムの神殿を中心とする宗教システムも機能している。それなのに、イエスに好き勝手をさせたら、ローマ帝国の軍事介入を招いてしまう、と危惧したのです。

 さらに、宗教指導層の憎悪に油を注いだのが、本日の福音書の箇所の後にある出来事、神殿から商人を追い出したところです。宗教指導層は、現行の神殿が神の意思に適うものと考えていました。商人たちも、神殿での礼拝をスムーズにするために生け贄用の鳩を売ったり、各国から来る参拝者のために両替をしていました。しかし、神のひとり子イエス様からみれば、現行の神殿は神の意思からはほど遠いものでした。イザヤ書567節の預言「私の家(神殿)は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」からかけ離れていました。イエス様が商人たちを叩き出した時、それは、ゼカリヤ書1421節の預言「万軍の主の神殿に商人はいなくなる」を実現するものでした。しかし、商人の追い出しは、現行の宗教システムに対するあからさまな挑戦と受け取られたのです。

イエス様は、神のひとり子ですから、旧約聖書に記された神の御心を正確にわかります。それなのに、わかっていない宗教指導層が彼を殺すために占領者の官憲に引き渡してしまったのです。そればかりか、それまでイエス様のことを、民族のスーパー・ヒーローと祀り上げていた人々も、いざ彼が逮捕されると、直近の弟子たちから逃げ去り、群衆も背を向けてしまいました。この時、誰の目にも、この男が民族の王国を再興する王になるとは思えなくなっていました。王国を再興するメシアはこの男ではなかったのだと。これは、旧約聖書を一面的にしか見ていなかったことによる理解不足でした。ところが、イエス様が十字架にかけられた後に旧約聖書の奥義が全て事後的に理解できるという、そんな出来事が起きました。イエス様の死からの復活がそれです。

4.この世の統治者 vs. この次に到来するの世の統治者

 イエス様が死から復活したことで、死を超えた永遠の命が存在することが世に示されました。同時にそこに至る扉が人間に開かれたことも明らかになりました。その扉は、最初の人間アダムとエヴァが創造主の神に対して不従順になって、神の意思に反しようとする性向すなわち罪を持つようになって閉ざされてしまいました。同時に人間は死する存在になってしまいました。しかし、閉ざされてしまっていた扉が今、開かれたのです。さあ、これで人間は死を超えた永遠の命に入ることが出来るでしょうか?ここで、人間が死を超えられなくなってしまったもともとの原因である罪の問題はどう解決できるのか?これを考えなければなりません。

実は罪の問題は既に解決しているのです。正確に言えば、解決してもらっているのです。どうやって?それは、イエス様が十字架の上で、罪が引き起こす神罰を全部私たち人間に代わって引き受けて下さったことで解決しました。イエス様がこの私の罪の罰も全部引き受けて下さった、だからイエス様は私の救い主なのだ、そう信じて洗礼を受ければ、神はイエス様の犠牲に免じて罪を赦して下さいます。「赦す」というのは許可するという意味ではありません。罪を持ってしまっているために、あるいは罪を犯してしまった時、神に赦しを祈れば、神は不問にして罰に定めない、これが赦すということです。その時、安心して復活と永遠の命に至る道を歩み続けることができます。このように罪の赦しを受けた人は自分の命と人生は神のひとり子の犠牲の上に成り立っていると自覚しています。それで襟を正してヘリ下ります。罪を許可する許しならば、このような自覚は生まれません。罪の問題を未解決に戻してしまい、復活と永遠の命に至る道から離れていってしまいます。

 実にイエス様の十字架の死と死からの復活は、ユダヤ民族の境界を超えて人類すべてに「罪の赦しの救い」が提供されることになりました。イエス様の神聖なエルサレム入城は、この救いの大事業が始まったことだったのです。このことは、当時、歓呼の声をあげた人々も、エルサレムで衝突することになる人たちも誰ひとりわかりませんでした。

 ここで、ルターが統治者イエス様とこの世の統治者の違いについて教えていますので、それを紹介したく思います。彼が説き明かす聖句は冒頭で申し上げたヨハネ1836節「私の国はこの世に起源を持たない」です。

十字架を喜んで背負うことが出来るのは誰か?それは、この統治者/ 王がどんな方で彼の国がどんな国であるかをよく知っている者である。 その人は、主自身が十字架を背負われたことを知っているだけでは満 足しない。その人には、天の御国に到達した時に大いなる喜びと至福 に与れる、たとえ今のこの世では苦難や困難があっても、必ず与れる、 ということが大きな望みと励ましになっている。

   ところが、そのような望みと励ましがあることを知らない者たちは、 苦難や困難に遭遇すると右往左往するだけで、最後には絶望に陥って しまう。彼らの考えはこうだ。もし、神が憐れみ深い方ならば、こん なに多くの不幸を起こるままにさせないのではないか?起こっても直 ぐに助け出して下さるのではないか?そういう考えでいるのは、キリ ストの御国がこの世に起源を持たないものであることを信じていない からだ。この世の統治者たちは、国民の生命や財産を守ろうとする。 しかし、神の栄光を映し出す統治者、キリストは、身体、生命、財産 その他この世的なもの全てを危険に晒すことも厭わない。

   それゆえ、この世ではキリスト信仰を、ものが溢れるようにするた めに用いてはならない。見よ、我らの統治者はどのような道を歩まれ たのかを。苦しみを受け、侮辱されるがままにし、辱めを受けて死な れたということ以外に何があろうか?それゆえ、彼の国に繋がる者は、 彼が黄金や品物を与えてくれるとか、この世の統治者のように福利を もたらしてくれるなどとは期待しないことだ。そのかわり、彼が御声 を聞いて従う者に対して、罪を赦して永遠の死から救い出して聖霊と 永遠の命を与えてくれることに心を向けるべきだ。

 皆さんはこれを聞いてどう思われたでしょうか?やはり黄金や品物を与えてくれる統治者がいいと思われたでしょうか?罪を赦して永遠の死から救い出してくれる統治者も悪くないが、ただ黄金や品物を意に介さない、場合によってはそれらを危険に晒してしまうというのは嫌だなと思われたでしょうか?そう思われたら、本日の旧約の日課イザヤ書50章の個所をみるとよいでしょう。そこは、神の僕つまりイエス様のことを預言していると普通見なされます。日本語訳の聖書もこの箇所に「主の僕の忍耐」という見出しをつけています。しかし、ここで言われていることはキリスト信仰者にも当てはまります。キリスト信仰者も、自分には自分の正しさを認めてくれる方がおられる、罪はないと言ってくれる方がおられると確信を持って言えるからです。

 イエス様を救い主と信じて生きる者は十戒を自然に備わるように持っています。イヤイヤ守るものでもなく無理して頑張って守るものでもなく、心に沁み込んで自分の一部のようになっているので神の意思に沿うように生きることが当然のことになっています。ところがこの世の人間関係の中でいろんな人に出会うといろいろ誤解されたり悪く言われたりすることがあります。しかし、キリスト信仰者には、天から全てを正しく正確に把握して下さる方がいて、大丈夫、あなたは悪くないと言って下さる方がおられるのです。そしていつの日かその方の御前に立たされる時、あなたは義なる者だ、と言って下さるのです!そのような方がいればこの世の黄金や品物など何ほどのものか、です!

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

 

 

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