2021年11月21日(日)聖霊降臨後最終主日 主日礼拝 司式・説教 浅野直樹 牧師(むさしの教会)

説教題「真理を証しする者」

2021年11月21日 聖霊降臨後最終主日礼拝説教(スオミ教会)

聖書箇所:ヨハネによる福音書18章33〜37節

説教題:「真理を証しする者」

 お久しぶりです。もう何年振りでしょうか。スオミ教会がこの地に移転した時には来させて頂きましたが、まだこの会堂ではお話ししたことがなかったと思います。

 今日は、聖霊降臨後最終主日です。教会の暦としては、今年一年の最後の主日となる。ですので、聖書のテキストも、終末、つまり世界の終わりに関わる箇所が取り上げられていました(毎年のことですが)。先週もそうでした。マルコ福音書にある「終末の徴」についてでした。そこでお話しした一部を、ここスオミ教会でもまずはじめにお話ししたいと思います。

 言わずと知れたこのコロナ禍で、私たちは大変な生活を強いられました。もちろん、そうです。未曾有の出来事。多くの方々が職を失い、精神的にも追い詰められてしまいました。そのこと自体を決して軽視するつもりはありませんが、私の中ではどうしてもこういった問いが生まれてならなかったのです。このコロナ禍だけなのだろうか、と。ある方の一言が、そんな私の問いを後押ししてくれたようにも思います。「私は全然危機感を抱いていない。戦争はこんなものではなかった」、そう戦争を体験された方が告げられたからです。

 繰り返しますが、決して軽視するつもりはありません。本当に大変な方々が多くおられるのも事実です。そういった方々に対するセーフティーネットをもっともっと拡充していく必要があるのではないか、それこそが政府・政治の役割ではないか、とも思う。私たちにも出来ることがあるのではないか、とも問われる。反省も無力さも感じる。そうです。本当にそうです。しかし、私自身は、どうしてももう一つのことに思いが向かうのです。私たちは「終末論」の信仰をどうも見失ってしまっていたのではないか。この「終末論」の信仰を伝えるのを怠ってしまっていたのではないかと、今更ながら反省させられてもいるのです。

 「終末論」とは、世界の終わりのことです。この世界はやがて終わりを迎える。そこに向かって、戦争、天変地異、飢饉、迫害などの徴が現れる。そう聖書は語ります。確かにそれは、あまり触れたくないところです。しかし、「終末論」とは、それだけを伝えるのではありません。新しい世界の到来を告げるものです。その新しき世界とは、まさに愛なる神さまが御支配されておられる世界。救いの完成の時。死も苦しみも悩みも痛みもなく、全てから解き放たれて、祝福だけが満ち溢れている世界。そう、この世の労苦が報われる世界です。

 現代社会の課題は、希望が見えなくなっているところです。非正規雇用は非正規雇用のまま、どうせ未来などない。こんな給料じゃ家庭なんか持てない。子どもなんて育てられない。どうせ先が見えているなら、何も変わらないなら生き続ける意味などあるのだろうか。そんな世界。気持ちが分からない訳じゃない。しかし、最初にお話した問いが私の中に浮かんでくるのです。このコロナ禍だけなのだろうか。人類の歴史とは、ずっとそうだったのではなかったか。むしろ、もっと過酷な世界を生きてきたのではなかったか。では、それらの人々は希望を持つことができなかったのだろうか。いいや、違う。たとえ、今は、この世では恵まれない人生だとしても、満たされない人生だとしても、不遇の人生だとしても、必ず救ってくださる方が、報いてくださる方がいてくださる。この私を、幸いな世界へと招き入れてくださる方がいてくださる。だから、耐えていける。我慢していける。今を生きていける。そういった希望があったのではないか、と思うのです。

 もちろん、この社会はもっと改善されるべきです。弱者に優しい世界へと変革されるべきです。しかし、いくら社会が変わっても、どうしても恵まれない人は生まれてしまうのだと思う。だからこそ、その視点が、その信仰が今でも必要なのだと思えてならないのです。新しき世界を見つめる目が。今の労苦が必ず報われるという信仰が。

 今朝の福音書で、イエスさまはこう語られました。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない」。ここについては、さまざまな理解の仕方があるでしょうが、要は、この世界であっても、あるいは新しき世界であっても、イエスさまの国は、この世とは全く一線を画するということでしょう。イエスさまの国は、この世とは相容れないもの。なぜならば、それは神さまの国でもあるからです。神さまが御支配されている世界。この私たちの世界は「武力」に代表されるように、弱肉強食の世界です。いくら社会が変革し、制度が変わっても弱者の上に強者が君臨するといった図式は変わらないのです。そこに、現代社会の歪みも起こっている。しかし、イエスさまが目指される国は、決してそうではないのです。イエスさまが目指される国は、99匹をたとえ野に残しておいても、見失われた1匹を探し求められる世界です。一人一人が真に尊重され、愛される世界です。だから、必ず報われるのです。たとえ、どんな些細なことであったとしても。たったいっぱいの水を差し出したに過ぎないとしても。

 そのイエスさまはこうも語られる。「わたしは真理について証しするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」。ヨハネ福音書では、この「真理」という言葉がよく出てきます。それほど重視している、ということでしょう。では、「真理」とは何でしょうか。カトリックの雨宮神父はこのように語っておられました。「聖書にとって『真理』とは、『いつでも、どこでも通用する妥当な知識や認識』(おそらく、これが日本人が抱く「真理」の意味ということだと思いますが)というよりは、『堅固で、信頼ができ、永続するもの』を指します」。「真理」とは堅固・確かで、信頼ができ、永続するもの、つまり、イエスさまそのものであり、福音ということです。

 先ほど、ヨハネ福音書ではこの「真理」という言葉が多用されていると言いましたが、皆さんはこの言葉も思い浮かべられたのではないでしょうか。ヨハネ14章6節「イエスは言われた。『わたしは道であり、真理であり、命である』」。ここでイエスさまは、ご自身で「わたしこそが真理である」と言っておられる訳です。しかし、注意していただきたいのは、この言葉には続きがある、ということです。「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と言われていることです。先ほどの「道」「真理」「命」はよく耳にしたり目にしたりしますが、個人的にはこの句が外されていることに大変違和感を感じています。ともかく、イエスさまはご自身のことを、神さまへと通じる道であり、真理であり、命なのだ、と告げておられる、ということです。そうです。イエスさまを通してでなければ、私たちは本当の神さまのお姿には出会えないのです。神さまのお姿がボケてしまうか、間違えてしまうか、だけです。

 今日の福音書の箇所は、イエスさまが十字架にかかられる前の裁判の席でのことでした。つまり、「真理」である方がこれから十字架の上で死なれるのです。そして、三日目に復活なされる。それが、私たちを唯一神さまの御許へと導いてくださる「真理」である方なのです。この方が示される「終末」だからこそ希望が持てる。この方が約束してくださった新しい世界だからこそ待ち焦がれることができる。この方がご自身の身をもって明らかにしてくださったからこそ、私たちは忍耐していける。必ず報いられることを信じて励んでいける。現実の中をも生きていける。そうではないでしょうか。

 私たちは、もう一度、苦難の中に生きた人々が仰ぎ望んだ希望の世界を見つめ直したいと思うのです。そして、この世界の中だけでは希望を見出せなくなってしまっておられる方々に、少しでもこの希望を届けていければと願わされています。

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

クリスマスの準備も済みました。

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