4月2日(金)聖金曜日 礼拝 19時から。 司式・説教 吉村博明SLEY(フィンランド・ルーテル福音協会)宣教師

聖書日課 イザヤ52章13節〜53章12節、ヘブライ10章16〜25節、ヨハネ18〜19章(全部)
説教題「永遠の命の恩人」
讃美歌 71(1)、309(4)、85(1)、81(2)

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

主日礼拝説教 2021年4月2日 聖金曜日

イザヤ52章13節~53章12節

ヘブライ10章16~25節

ヨハネ18章1節~19章42節

説教題「永遠の命の恩人」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

もし、あなたが誰かのおかげで命にかかわる危険から助けられたとしたら、その命の恩人に対しては感謝以外のなにものでもないでしょう。例えば、道路を渡っている時、よく見なかった反対側から急に車が出てきて、しまったと思った瞬間、素早く走り寄ってきた誰かがドンと跳ねのけてくれたので車に引かれないで済んだら、その方に本当に大きな感謝でしょう。

ところが、もし跳ね除けてくれたその人が車に引かれて死んでしまったら、助かった人は感謝もあるかもしれないが自分の不注意のせいでこんなことになってしまったと申し訳ない気持ちで一杯になってしまうでしょう。自分が生きていられるのはその人の犠牲の上に立っていると思っただけで、それからの人生はもう軽々しい生き方はできなくなるでしょう。

イエス様の十字架の死は犠牲の死でした。そのことは本日の旧約の日課イザヤ書の個所からも明らかです。その個所はイエス様の受難を預言しています。「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった」(53章4節)と言われていました。また、「彼が受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちは癒された」(同)とも言われていました。さらに、「多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った」(11節)とはっきり述べられていました。

しかしながら、イエス様の犠牲の死は、先ほどの交通事故で誰かが自分を犠牲にしたおかげで自分が助かるという出来事に比べたら、あまり身近な出来事に感じられないかもしれません。交通事故の事例では、今自分が生きていられるのは、あの人が身を投げ出してくれたからだとはっきりわかります。それに対して、今自分が生きていられるのはイエス様が自分を犠牲にしたからだとわかることが出来るでしょうか?

イエス様が自分を犠牲にしたのは、人間が内に持ってしまっている罪すなわち創造主の神の意思に反しようとする性向、その罪のせいで人間が造り主との結びつきを失っている、それを取り戻してあげようとしたからでした。人間が罪の罰を受けて滅びてしまわないように、それで神罰を人間に代わって受けて罪の償いを代わりに神に対して果たして下さったのでした。これがゴルゴタの十字架の出来事の真相だったのです。

「今自分が生きていられるのは、イエス様が自分を犠牲にしたからだ」と言うと、それは交通事故の事例に比べて遠い感じがします。そこで、視野を拡大してこう言い換えます。「今自分が神との結びつきを持って生きられるのは、イエス様が自分を犠牲にしたからだ

と。さらに続けて、「この結びつきがあるおかげで私には順境の時も逆境の時も常に変わらぬ神の守りと導きがあり、万が一この世を去らねばならない時が来ても復活の日に目覚めさせられて神の御許に永遠に迎え入れられるようになった。これらのことは全てイエス様が自分を犠牲にしたから可能になったのだ。」こうすると遠い感じがしなくなり、イエス様も身近な「命の恩人」になります。正確には「『永遠の命』の恩人」です。

このように、命というものを今のこの世での命に留めず、この世が終わった後に到来する次の世にまでまたがるものと考えると、イエス様が「永遠の命の恩人」であることがはっきりします。

加えてイエス様は、受難を受けることは大きな苦痛を伴うものと知りつつ、敢えて受難の道に入って行かれました。ゲッセマネの園で、これから受けることになる痛みと苦しみを何か飲み干すべき杯に例え、出来ることなら飲まないで済ませたいと祈るくらいでした(マタイ26章39節)。結局は杯を受けることにしますと父なるみ神に打ち明けますが、その時のイエス様は苦しみもだえ汗を血が滴り落ちるように地面に落としていたと伝えられています(ルカ22章44節)。これから起こることは、神と人間の間を引き裂いている罪を全て人間に代わって償い、そのために罪の罰を全て受けることであると自分でわかっていたのです。全知全能の神のひとり子である方がこれほどまでの苦悩と葛藤を通り抜けなければならない位に人間の罪の償い、罪からの贖いというのは途方もないことなのです。そのことを私たちはイエス様の苦悩からわからなければなりません。これは本当に神と同質である方の純粋な苦悩です。本当なら私たちが苦悩しなければならなかったことを神がひとり子にさせたのです。イエス様はそれを全部引き受けて下さいました。だから「永遠の命の恩人」なのです。

イエス様が受けた苦しみについてルターが次のように教えているので、最後にそれを引用して本説教の締めといたします。

「イエス様はなぜこのような苦しみを受けなければならないのか?彼は、神の意思に反する罪を持たない、まさに神聖で神の義を持つお方ではないか。しかし、全てはこの世の罪のために起こらなければならなかったのだ!父なるみ神は、この世の罪を全て彼の両肩に押し付けて彼を圧し潰されたのだ。この事実を前にして私たちはどうすればよいのだろうか?次のことを本当のことと信じて受け入れるしかない。すなわち、神が私の罪を私から取り去ってイエス様に押し付けた、それで私は罪から自由な身にされた、ということだ。どうかこのことが、主の受難を聞く私たちにとって深い慰めとなるように。なにしろ、イエス様が私たちの罪を代わりに引き受けて下さって、私たちに代わってそれを背負って神に対して償って下さったからだ。このことは彼の十字架を心の目で見つめる時にはっきりとわかる。イエス様自身、この世の全ての罪を背負うことがどんな痛みと苦しみをもたらすかを前もって全てご存じだったのだ。

 そこで、もし君の罪がイエス様の両肩に圧し掛かっているのなら、君は本当は安心してよいのだ。なぜなら、その時、罪は正しい場所に置かれているからだ。君の両肩は正しい場所ではない。なぜなら、君も他の全ての人もそれらを背負う力はないからだ。もしひとかけらの罪でも背負ったら、その重みで永遠の滅びに落ちてしまうだろう。だから、君の罪々は全部イエス様の両肩に圧し掛かっていていいのだ。そして、見よ、彼が全力を尽くしてそれらをどこに運び上げたかを。十字架の上にだ。そこで我々の罪の罰を受けられたのだ。

 しかし、イエス様は三日後に罪と死と悪魔を凌駕する者として、それらに対する完全な勝利者として立ち現われた。それらのものが主を滅ぼそうと力を奮ったが、全ては無駄に終わった。この事実は君を慰め勇気づけてくれる。ここに言葉では言い尽くせない神の恵みがある。だから神に感謝するのだ!君を地獄の深みに落そうとした罪という重荷を君から取り去って、御自分のひとり子に背負わせて下さった神を。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 


特別の祈り
全知全能の父なるみ神よ。
 私たちの主イエス様の十字架の受難を覚えるこの日、どうか私たちの心からあらゆる妬みや憎しみを取り去り、あなたのみ前にへりくだることが出来るように清めて下さい。
 あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
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