説教「いと高き方の力に包まれて」神学博士 吉村博明 宣教師、ルカによる福音書1章26-38節

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.2020年の待降節ももう第四主日です。今度の木曜日がクリスマス・イブ、金曜日がクリスマスです。この期間、私たちの心は2千年以上の昔に現在のイスラエルの地で実際に起きたメシア・救世主の誕生の出来事に向けられます。そして、私たちに救い主を贈られた父なるみ神に感謝してクリスマスをお祝いします。今年の待降節の礼拝の説教で私は特に、キリスト信仰者にとってクリスマスというのは過去の出来事を記念するお祝いに留まってはいけないということを強調してきました。というのは、イエス様は、御自分で約束されたように、再び降臨する、再臨するからです。そういうわけで私たちは、2000年以上前に救世主の到来を待ち望んだ人たちと同じように、その再到来を待ち望む立場にあるのです。その意味で待降節という期間は、イエス様の第一回目の降臨に心を向けつつも、未来の再臨にも心を向ける期間でもあります。毎年過ごすたびに、ああ、主の再臨がまた一年近づいたんだ、と身も心もそれに備えるようにしていかなければならないのです。イエス様が再臨する日というのは、聖書によれば今のこの世が終わる日で、今ある天と地が新しい天と地にとってかわられる日です。それは、また、最後の審判の日、死者の復活が起きる日でもあります。その日がいつなのかは、父なるみ神以外は誰もわからないのだとイエス様は言われました。それで大切なことは、「目を覚ましている」ことであると教えられました。

とは言っても、イエス様の再臨というのは気が重いものです。最初の降臨は神のひとり子が人となってベツレヘムの馬小屋で赤ちゃんになって生まれたという、なんだか微笑ましい話に聞こえますが、再臨となるとこの世の終わりとか最後の審判とか死者の復活とか物騒なことがつきまといます。誰もそんな日を待ち望まないでしょう。

しかし、キリスト信仰者は、その日は特別な意味を持つ日だと考えます。先週の説教でもお教えしましたが、キリスト信仰者の人生はこの世を去るまでは罪の自覚と赦しの繰り返しの人生です。キリスト信仰者というのは、イエス様を救い主と信じて洗礼を通して聖霊を注がれたので自分には神の意思に反するもの、すなわち罪があると自覚しています。それで、それを神の前で認めて赦しと清めを願います。そうすると神は、イエス様の十字架の犠牲の死に免じて赦して下さいます。これを繰り返していくことで神との結びつきが強まっていき、内にある罪が圧し潰されていきます。そして、その繰り返しが終わる日が来ます。それがイエス様の再臨の日なのです。神から、お前は罪を圧し潰す側についていた、と認められると、神の栄光を映し出す復活の体を着せられて神の御国に迎え入れられます。そこではもう罪の自覚を持つ必要はありません。それなので、キリスト信仰者は主の再臨が待ち望むに値するものであるとわかるのです。

以上から、主の再臨を目を覚まして待ち望む者は次のことを肝に銘じていなければならないとわかります。自分には神の意思に反する罪があるという事実から目を背けないで、たえず神のもとに立ち返る生き方をすることです。たえず神のもとに立ち返るとは、洗礼を受けた時の自分に何度も戻り、そこから何度も再出発することです。

 

2.主の再臨を待ち望む者が肝に銘じておきべきもう一つのことを本日の福音書の個所から学んでみようと思います。本日の箇所で天使ガブリエルがマリアに、お前は救い主の母となると告げていました。天使が言わんとしていることは、神がそうなると言われたことは必ずそうなる、だから、それを信じそうなることを受け入れなさいということです。たとえ、自分の思いや考えと合わなかったり、あまりにもかけ離れていて受け入れ難いものでも、神がそう言われる以上はそうなる、だから、それを受け入れて、それを全てに優先させなさいということです。人間の本心としては、たとえ神のためとは言え、自分の意思を脇に置くというのはあまりしたくないものです。ましてや、そうすることで余計な困難や試練を抱えてしまってはなおさらです。しかし、神はまさに人の都合よりも神の意志を優先させる人と共に一緒におられるのです。この真理が本日の福音書の箇所の説き明かしから明らかになります。

このガブリエルという天使ですが、ダニエル書にも登場します(8章と9章)。神に敵対する者が跋扈する時代が来るが、それは必ず終焉を迎える、とダニエルに告げ知らせます。ガブリエルはまたマリアのところに来る6カ月前にエルサレムの神殿の祭司であるザカリアにも現れ、高齢の妻エリザベトが男の子を産むと告げます。この子が将来の洗礼者ヨハネです。

ガブリエルがマリアに告げたことは、彼女がまだ婚約者のヨセフと正式に結婚する前に、神の霊すなわち聖霊の働きで神の力が及んで男の子を産むということでした。さらに、その子は神の子であり、神はその子にダビデの王座を与え、その国は永遠に続くということも告げました。その子につける名前として「イエス」が言われます。「イエス」と言うのは、ルカ福音書が書かれているギリシャ語ではイェースースΙησουςと言います。ところでマリアがガブリエルと会話した言葉は恐らくアラム語というヘブライ語に似た言語です。その言葉ではィエーシューアישועといいます。それは旧約聖書のヘブライ語ではユホーシェアיהושעといい、これはモーセの後を継いでイスラエルの民をカナンの地に導いた指導者の名前です。日本語ではヨシュアと言います。それは文字通り「主が救って下さる」という意味です。つまり、旧約聖書の「ヨシュア記」のユホーシェアがアラム語でィエーシューアになって、その後でルカが福音書をギリシャ語に書いた時にイェースースになって、それが日本語ではイエス、英語ではジーザスになったということです。以上、キリスト教雑学辞典でした。

さて、ダビデ家系の王が君臨する王国が永遠に続くということについてですが、世界史の教科書にも出てきますが、ダビデ家系の王国は紀元前6世紀のバビロン捕囚の時に潰えてしまいました。捕囚が終わってユダヤ民族が祖国に帰還した後はもうダビデ家系の王国は実現しませんでした。しかし、旧約聖書の中にダビデの王国は永遠に続くという神の約束があるため(サムエル下7章16節、詩篇45章7節、イザヤ9章6節、ダニエル7章14節)、ユダヤ民族の間では、いつかダビデの家系に属する者が王となって国を再興するという期待がいつもありました。

しかしながら、神がダビデの家系に属する者に与えると約束した永遠の王国とは実は、地上に建設される国家ではなく、天の御国のことだったのです。ヘブライ12章や黙示録21章で言われているように、今のこの世が終わりを告げて、今ある天と地が新しい天と地にとってかわられる時、唯一揺るがないものとして立ち現われる神の国がその永遠の王国だったのです。私たちが「主の祈り」を祈る時に、「御国を来たらせたまえ」と唱える、あの永遠の御国のことだったのです。そこで王として君臨するのは、まさしく死から復活した後に天に上げられて今のところは父なるみ神の右に座して、この世の終わりの日に再臨する主イエス・キリストなのです。

イエス様は、人間として見た場合どこの家系に属するかと言えば、ダビデの子孫のヨセフが育ての父親だったので、ダビデの家系に属することになります。しかし、イエス様の本当の父親は、被造物である人間ではありませんでした。イエス様はマリアから誕生する以前から既に父なるみ神のもとに神のひとり子として存在していました。そのことはヨハネ福音書1章に述べられています。「イエス」という名前はマリアのお腹を通って人間の体を持って付けられた名前です。父なるみ神のもとにいた時には人間的な名前は何もありません。それでヨハネはそのひとり子をギリシャ語でロゴスと呼んだのです。ロゴスは「言葉」を意味します。つまり、神のひとり子は神の言葉としての役割を果たすというのです。天地創造の時、神は「光よ、あれ」と言葉を発していって全てのものを創造しました。それで神の言葉の役割を果たすひとり子は天地創造の時に既に存在していて父と共に創造の業を行っていたのです。そのことがヨハネ1章で語られています。その神の言葉の役割を果たす方が人間の体を持ってマリアのお腹から生まれてきたというのがクリスマスです。マリアが処女のままイエス様を産むことになったのは、神の言葉の役割を果たす方が人間の体を持ってこの世に登場できるようにするためだったのです。

 

3.それではなぜ天の御国におられる方がわざわざ人間の体を持ってこの地上に来なければならなかったのでしょうか?それはひと言で言えば、人間の救いのためでした。「救い」というからには、何からの救いなのかをはっきりさせなければなりません。聖書によれば、人間と創造主の神との結びつきが失われてしまったので、それを取り戻すことが救いです。それではなぜ失われてしまったかと言うと、創世記3章にあるように最初の人間が造り主である神の意思に反して罪を持つようになってしまったからでした。その結果、使徒パウロが「罪の報酬は死である」と述べる通り(ローマ6章23節)、人間は罪がもたらす死に服従する存在になってしまいました。詩篇49篇に言われるように、人間はどんなに大金を積んでも死から自分を買い戻すことはできません。そこで創造主の神は人間が再び造り主である自分のもとに戻れるようにと計画を立ててそれを実行しました。これが神による人間の救いです。

それがどのような計画でどのように実行されたかと言うと、神はひとり子をこの世に贈り、彼に人間の罪から来る神罰を全て受けさせました。それがイエス様のゴルゴタの丘での十字架の死でした。父なるみ神はイエス様に人間の罪の償いをさせたのです。この、神のひとり子が十字架の上で血みどろになって流した血が私たちを罪と死のもとから神のもとに買い戻す代価となったのです(マルコ10章45節、エフェソ1章7節、1テモテ2章6節、1ペトロ1章18~19節)。さらに神は一度死んだイエス様を復活させて死を超えた永遠の命があることをこの世に示され、そこに至る扉を人間のために開かれました。それで今度は人間の方がイエス様こそ救い主であると信じて洗礼を受けると、この神のひとり子が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになって、神からは罪を赦された者として扱われるようになります。神から罪を赦されたので、もう神との結びつきを持ててこの世を生きるようになります。神との結びつきを持ってこの世を生きるというのは、永遠の命が待つ神の御国に至る道に置かれてその道を歩むことです。順境の時にも逆境の時にもいつも変わらぬ神との結びつきを持って歩みます。この世を去った後も、新しい天地創造の日に目覚めさせられて復活の体と永遠の命を付与されて神の御国に迎え入れられることになります。

人間が罪の償いと赦しを得られて神との結びつきを持てるようなることが神の救いの計画だとわかったとしても、そのためになぜ神のひとり子が人間として生まれてこなければならなかったのでしょうか?それは、償いが果たされるために誰かが犠牲にならなければならなかったからです。その償いは人間には不可能です。人間が神罰を受けてしまったらもうそれでお終いです。他人の罪を償ってあげるどころか自分の罪さえも償って生き続けることは出来ません。それで神は人間の罪の償いを人間にさせるのではなく、自分のひとり子を神聖な生贄として捧げることにしたのです。

ひとり子が犠牲を引き受けるとき、天の御国にいたままでは行えません。人間の罪の神罰を全て受けるという以上は、罰を罰として受けられなければなりません。そのためには、律法が効力を有しているところにいる存在にならなければなりません。律法とは神の意思を表す掟です。それは神がいかに神聖で、人間はいかにその正反対であるかを暴露します。律法を人間に与えた神は当然、律法の上に立つ方です。上に立ったままでは罰を罰として受けられません。罰を受けられなければ罪の償いもありません。罰を罰として受けられるためには、律法の効力の下にいる人間と同じ立場に置かれなければなりません。それで神のひとり子は人間の子として人間の母親を通して生まれなければならなかったのです。まさに使徒パウロが言うように、「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出して」下さったということが起こったのです(ガラテア3章13節)。フィリピ2章6~8節には、次のように謳われています。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」。このように、私たちの救いのためにひとり子を惜しまなかった父なるみ神と、その救いの実現のために御自身を捧げられた御子イエス様、そして私たちが神との結びつきを持って生きられるように日々、支えて下さる聖霊はとこしえにほめたたえられますように。

 

4.天使ガブリエルから神の計画を告知されたマリアは、最初それを信じられませんでした。しかし、ガブリエルは、天と地に存在する真理の中で最も真理なことを述べます。「神にできないことは何一つない」(37節)です。ギリシャ語原文をもう少し直訳すると、「神が言われることは(ρημα)神の方から全て不可能ではなくなる」です。どうしてそんなに自信満々でいられるかというと、神の力というものは34節で言われるように「いと高き方の力」だからです。これももう少し直訳すると「最も高いところの方の力」です。最も高いところの方ですので、他のものは全てこの方より低いものとなります。そうなると、あらゆるものの力はこの方の力に及びません。そのような私たちの想像をはるかに超える力を「最も高いところの方の力」と呼ぶのです。そのような力がマリアを「包んだので」(ギリシャ語では「覆った」)、神の言葉の役割を果たす方が人間として生み出されることが出来たのです。

この「最も高いところの方」の力はイエス様の死からの復活の時にも働きました。そのことがエフェソ1章19~21節で言われています。「また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ」ました。ここで「力」という言葉が2回出てきますが、ギリシャ語原文では4回出てきます。そのうち3つは力を意味する3つの別々の言葉です。ドュナミス、クラトス、イスキュスです(もう一つは関係代名詞)。それらの力が働いてイエス様を死から復活させたという言い方です。日本語に訳すのは大変です。「神が力の力の作用をもって、私たち信仰者に向けられる力の強大さがどれだけ桁外れのものであるかを悟らせて下さるように。その力の力の作用をもって、神はキリストを死者の中から復活させたのです」。

いずれにしても、マリアの処女受胎もイエス様の死からの復活も、何か、ちちんぷいぷいのおまじないで起きたというようないい加減な話ではないのです。当時の人たちは、本当に想像を絶する力が働いて起きたということがよくわかっていたのです。それが記述の仕方に出ているのです。そして、私たちにとって重大なことは、エフェソ書の中で言われているように、この想像を絶する力が神との結びつきを持って生きるキリスト信仰者に向けられているということです。

そう言うと、神の想像を絶する力が自分に向けられているのなら、どうして自分や自分の周囲にそんな力が働いていると感じさせないことばかりなのか?そういう疑問が出てくると思います。神の力など本当は何も働いていないのではないかと疑う人も出てきます。この問題は、マリアに何が起こったかを見ていくと神の力に包まれる(覆われる)というのはどういうことか分かってくると思います。

マリアはガブリエルに対して「わたしは主のはしためです。お言葉通り、この身に成りますように」と答え、神の意思に従うと言います。この従いは、天地創造の神のひとり子の母親になれるという意味では大変名誉なことではありますが、別の面ではマリアのその後の人生に深刻な影響をもたらすものでもありました。というのは、ユダヤ教社会では、婚約中の女性が婚約者以外の男性の子供を身ごもるという事態は、申命記22章にある掟に鑑みて、場合によっては死罪に処せられるほどの罪でした。そのため、マリアの妊娠に気づいたヨセフは婚約破棄を考えたのでした(マタイ1章19節)。しかし、ヨセフも天使から事の真相を伝えられて、神の計画の実現のために言われた通りにすることに決めました。

神の人間救済計画の実現のために特別な役割を与えられるというのは最高の名誉である反面、人間の目からすれば、最悪の恥になることもあるという一例になったのです。さらにイエス様の出産後、マリアとヨセフはヘロデ大王の迫害のため、赤ちゃんイエスを連れて大王が死ぬまでエジプトに逃れなければなりませんでした。その後で三人はナザレに戻りますが、そこで人々にどのような目で見られたかは知る由はありません。仮に「この子は神の子です、天使がそう告げたんです!」と弁明したところで人々は真に受けないでしょうから、一層立場を悪くしないためにも黙って言われるままにした方が賢明ということになったかもしれません。

いずれにしても、マリアとヨセフは社会的に辛い立場に置かれたのです。このように、天使から「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられる」(28節)と言われて、本当に神から目を注がれて一緒にいてくださることになっても、それが必ずしも人間的にはおめでたいことにはならないことがあるのです。しかし、そのようなおめでたくない場合にも、神の意思に従っていれば、神は共におられのです。神の意思に従う時、人間的には辛い状況になっても、実はその状況そのものが、神が共におられ神の力に包まれている(覆われている)ことの証しなのです。マリアは順境の時にも逆境の時にも常に神が共にいるという生き方に入っていったのです。「神様が一緒にいてくれても逆境になるんだったらイヤ!」とか、「神様が一緒にいなくても順境でいられるなら、そっちの方がいい」という生き方は選びませんでした。たとえ逆境を伴うことになっても神が常に共にいる生き方を選びました。ここに、私たちの信仰人生にとって学ぶべきことがあります。

キリスト信仰者といえども、この世にいる限り、神の力に包まれている(覆われている)とは感じられないことばかりです。しかし、神の意思に従う限りは、そう感じられない状態にあるということが逆に神の力に包まれている(覆われている)ことの証しになっている、このことがマリアの生き方から明らかになります。この逆説的な状況は、復活の日にきれいに解消されます。というのは、神の想像を絶せする力に包まれて(覆われて)生きた者は、その日その力によって復活させられるからです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように

アーメン

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