説教「神の正義には天国と地獄はつきもの」神学博士 吉村博明 宣教師、ルカによる福音書 16章19-31節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

本日は、「神の正義には天国と地獄はつきもの」という題で説教をします。私が見聞きしうる範囲ですが、最近のキリスト教会の説教では地獄について語ることはほとんどなく、天国ばかりについて語られているように思います。しかし、私は、天国について語るのであれば、地獄についても語らねばならないと考える者です。それは、赦しについて語るならば、罪についても語らねばならないのと同じように。また、福音について語るならば、律法についても語らねばならないのと同じように。

先週の主日の福音書の箇所は、イエス様の「不正な管理人」のたとえでした。そこで明らかになったことは、人は神と富の両方に仕えることはできないが、もし神にしっかり従い仕えるならば、富に対しては主人となることができ、それを神の意思に沿うように用いることができる、その意味で富を持ちながら神に仕えることはできる、ということでした。「不正な管理人」のたとえが話された背景として考えられるのは、当時の人々の考え方として、一方では富を持てば神にではなく富に従属してしまう人がおり、他方では神に仕えるために富を捨てなければならないと、信仰のために富を否定したり距離を置く人たちがいました。そこで、イエス様は、富に対して主人となってそれを神の意思に沿うように用いるのであれば、それでも永遠の命に与ることができる、と教えたのであります。神の意思に沿うように、というのは、神を全身全霊で愛することと隣人を自分を愛するが如く愛すること、それらを実現するために富を用いるということです。

本日の福音書の箇所もイエス様のたとえですが、ここに登場する金持ちは、まさに富を持ちながら神にではなく富に従属してしまった人の典型例であります。「紫の衣」πορφυραというのは、アクキガイという熱帯の巻貝の分泌液が紫色でそれを染料として染め上げた布で作った衣です。上着一着を染めるのに何千もの貝が必要とされたので、服は相当な値段になります。それに高価な亜麻でできた服も着ている。このように着飾って、毎日ぜいたくに遊び暮らしていたというから、億万長者です。その大邸宅の門の前に、全身傷だらけの乞食が横たわっていた。名前はラザロ。ヨハネ福音書に登場するイエス様に生き返らされたラザロとは関係はないでしょう。ヨハネ福音書の場合は現実に起きた出来事に登場する現実の人であり、本日の箇所はたとえ話の中に出てくる架空の人物です。ラザロΛαζαροςという名前は、旧約聖書のあちこちに登場するヘブライ語のエルアザルאלעזךという名前に由来します。「神は助ける」という意味があります。門の前を通りかかった人は、きっと、この男は神の助けからほど遠いと思ったことでしょう。ラザロは、金持ちの食卓から落ちてゴミになるものでいいから食べたいと思っていたが、それにすら与れない。彼のもとにやってくるのは傷を舐めてくれる野良犬だけです。「横たわる」という動詞は過去完了形(εβεβλητο)ですので、ラザロはかなり以前から金持ちの家の門の前に横たわっていたことになります。ということは、金持ちはラザロの存在をずっと知っていたことになります。しかし、こんなに近くに助けを求めている人がいるのに、それを全く無視して、贅沢三昧な生活を続けていたのであります。金や品物が人の心を麻痺させてしまった典型例と言えましょう。

さて、金持ちは死にました。「葬られた」とはっきり書いてあるので、葬式が挙行されました。さぞかし、盛大な葬儀だったでしょう。ラザロも死にましたが、埋葬については何も触れられていません。きっと、彼の遺体はどこかに打ち捨てられたのでしょう。

しかし、話はここで終わりませんでした。実はこれまでの出来事は序章にしかすぎないと言えるくらいの本章がここから始まるのです。金持ちは、陰府の世界に堕ち、そこで永遠の火に毎日焼かれ続けなければならない。ラザロの方は、天使たちによって天の神の御国に上げられ、そこでアブラハムと共に宴席についている。ギリシャ語では「宴席につく」という言葉はなく、「アブラハムの胸元にいる、アブラハムに抱きかかえられるようにしている(κολπος Αβρααμ)」というような意味です。しかし、天の御国は、黙示録19章や21章に記されているように、結婚式の祝宴にたとえられます。つまりそれは、今の世の労苦が最終的に全て報われ労われる場所です。流さなければならなかった涙も完全に拭われ(黙示録21章4節)、喜びが全身全霊に満ち溢れる場所です。そういうわけで、日本語訳の付け足し「宴席につく」は結構な訳だと思います。

金持ちは、罪の罰を受けたのであります。何の罪かというと、まず「隣人を自分を愛するが如く愛せよ」という隣人愛にあからさまに反する生き方をしたのです。それだけではありません。なぜ隣人愛を踏みにじったかというと、それは、神に従属せず富に従属して仕えたからで、それは「神を全身全霊で愛せよ」という神への愛に反する生き方だからです。つまり、二重の大罪というわけです。もし、金持ちが富にではなく神に従属して、富の主人となって、富を神の意思に沿うように用いていれば、罰は避けられたのであります。

以上が本日の福音書の箇所の要旨ですが、本説教では、このたとえからさらに三つのことを学びたいと思います。その三つとは、まず、神は最終的に次の世で正義を実現されるが、今の世の不正義に対してはどのような態度をとっているのか?次に、ラザロは天の御国に迎え入れられたが、彼の信仰にはついて何も言われていないので、救済と信仰の関係をどう考えたらよいのか?三つ目は、イエス様が本日の箇所の最後で「モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」と言います。モーセと預言者とは旧約聖書を指しますが、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けてキリスト信仰者になるとき、最初、旧約聖書がわからないとだめなのか?これらの質問に答えてみようと思います。

2.

この三つの質問に取り掛かる前に、少し横道にそれますが、重要な言葉の意味について少し見ていきます。「陰府」という言葉です。ギリシャ語ではハーデースαδηςという言葉で、人間が死んで肉体も魂も滅びた状態になって安置される場所です。本来そこは、本日の箇所のように永遠の火の海の世界ではありません。火の海は、ギリシャ語でゲエンナγεενναと言い、文字通り「地獄」です。黙示録20章を見ると、「イエスの証しと神の言葉のために」命を落とした人たちが最初に死から復活させられます(4節)。その次に、これ以外の人たちが復活させられますが、彼らは前世での行いに基づいて裁きにかけられます。神のもとにあるいろんな書物に彼らの行いが全て記されており、それらに名前が載っていない人は、地獄に落とされてしまう。その時、神の御国が具体的な見える形をとって現われ、「新しいエルサレム」と呼ばれ(21章2節)、そこに地獄に落とされなかった人たちが迎え入れられる。こうしてみると、神の御国と地獄は、将来、今の世の天と地が終わって新しい天と地にとって変わられる時に出現するものと言えます。そうならば、陰府とは、まだ今の世が存在している段階にあるものと考えることができます。それは、どこか神のみが知る場所にあって、死んだ者が安置されている場所と考えることができます。ルターは、人が死んだ後は、復活の日までは安らかな眠りにはいるも、たとえそれが何百年の眠りであっても本人にとってはほんの束の間のことにしか感じられない、目を閉じたと思って次に開けた瞬間にもう壮大な復活の出来事が目の前で始まっている、と述べました。この復活の出来事が起きる前の安らかな眠りの場所が、陰府になると言ってよいでしょう。

つまり、安らかな眠りの場所である陰府とは、今の天と地が存在する段階にどこかにあるものでが、天の神の御国と地獄は新しい天と地が生まれる将来のものとなります。そうすると、金持ちが落ちた火の海をイエス様が陰府と言っているのは、将来の地獄の間違えではないかと思われます。しかしながら、ここはそんなに厳密に考えなくてもよいと思います。なぜなら、イエス様のたとえは、何か大事なことを教えるために話され、歴史の正確な流れは二の次になっているからです。金持ちが地獄にいて、ラザロが天国にいるということは、正確に言えば、今の天と地がなくなって、復活の出来事が起きる将来のことです。ところが、たとえの中で、金持ちはラザロを自分の家の兄弟のもとに送ってくれと頼みます。つまり、まだ今の世は終わってはおらず、火の海の地獄は将来のものであるということと矛盾が生じるのであります。それが、イエス様が火の海を陰府と言った理由と考えられます。しかし、このようなことは、たとえの自由な創作から起きることで、そんなに厳密に考える必要はないと思います。繰り返しますが、イエス様はたとえで何か大事なことを教えようとした、それで歴史の正確な流れにはこだわらなかった、ということです。それでは、イエス様が教えようとした大事なことを、先に掲げた三つの質問を通して順々に見ていきましょう。

3.

最初の質問は、神は最終的に次の世で正義を実現されるが、今の世の不正義に対してはどのような態度をとっているのか、というものです。本日のたとえから、この世で起きた不正義で解決されないものがあっても、最終的に次の世で必ず解決されるということが明らかになります。先ほども見ましたように、黙示録20章4節に「イエスの証しと神の言葉のために」命を落とした者たちが最初に復活することが述べられています。12節に、その次に復活させられる者たちについて述べられており、彼らは前世の行いの基づいて裁きを受けることになっています。キリスト信仰を守る人たちを殺害した者たちは間違いなく罰の対象になると言ってよいでしょう。そうなると罰を受けるのはキリスト信仰に反対する人だけかと思われますが、そうではなく、本日のたとえが示唆するように、キリスト教のメンバーでも神の意思に反する生き方をし続けた人はやはり罰の対象になります。(本日のたとえの金持ちとラザロは、まだキリスト教が誕生する前の世界の登場人物ですが、金持ちはアブラハムを「父」と呼ぶくらいに、またラザロはヘブライ語の名前から明らかなように、れっきとした神の民の末裔です。)

人間の全ての行いが記されている書物が存在するということは、神はどんな小さな不正も見過ごさない決意でいることを示します。仮にこの世で不正義がまかり通ってしまったとしても、いつか必ず償いはしてもらうということです。この世で数多くの不正義が解決されず、多くの人たちが無念の涙を流さなければならなかったという現実があります。そういう時に、来世で全てが償われるというのは、この世での解決努力を軽視していると思われるかもしれません。しかし、神は、人間が神の意思に従うように、つまり神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するが如く愛するようにと命じておられます。このことを忘れてはなりません。つまり、たとえ解決が結果的に来世に持ち越されてしまうような場合でも、この世にいる限り神の意思に反する不正義や不正には対抗していかなければならないのであります。それで解決がもたらされれば神への感謝ですが、力及ばず解決をもたらすことが出来ない時もある。しかし、その解決努力をした事実は神にとって無意味でもなんでもない。神はあとあとのために全部のことを全て記録して、事の一部始終を細部にわたるまで正確に覚えていて下さるからです。たとえ人間の側で事実を歪めたり真実を知ろうとしなくても、神は事実と真実を全て把握しているのであります。そして、神の意思に忠実であろうとして失ってしまったものについて、神は後で何百倍にして埋め合わせて下さるのです。それゆえ、およそ、人がこの世で行うことで、神の意思に沿わせようとするものならば、どんな小さなことでも、また目標達成に程遠くても、無意味だったというものは何ひとつないのです。

ところで、キリスト教信仰に地獄のような裁きや罰の考えが強くあるのは、多くの人にとって意外に思われるかもしれません。「キリスト教って確か赦しの宗教じゃなかったの?」と思われるからです。その通り、キリスト信仰は罪の赦しを土台とする信仰です。しかし、取り違えをしてはなりません。キリスト信仰の罪の赦しとは、それまで神に背を向けて生きていたことを間違いと認め、これからは神のもとへ立ち返る生き方をしようと悔い改めれば罪の赦しが得られるということであります。つまり、どんな極悪非道の悪人でも、このような神への立ち返りをすれば、たとえ世間は赦さないと言っていても、神は赦し、受け入れて下さるのです。反対に、本日の箇所のような金持ちの場合は、たとえ世間は貧乏人の死因は金持ちのせいではないと言っても、神は赦さず、受け入れないのであります。

4.

二つ目の質問は、ラザロは天の御国に迎え入れられたが、彼の信仰にはついて何も言われていないので、救済と信仰の関係をどう考えたらよいのか?

ここは、説教者にとって、一つの誘惑になるところです。ラザロの信仰について何も言われていない、ということは、神は信仰のあるなしに関係なく、全ての人を天の御国に迎えられるのだ、と考える人が結構多いからです。キリスト教信仰の基本中の基本は、人はイエス様を救い主と信じる信仰によって天の御国に迎えられる、ということですが、ラザロにはそのような信仰があったのか?しかしながら、ラザロが信仰にあったとか、なかったとか、また、信仰があってもなくても天国に行くのには関係がないとか、そういう問題提起は、イエス様がこのたとえで教えようとしていることと何の関係もありません。

このたとえで問題となっていることは、イスラエルの民、つまり神の民に属する二人の人がいて、一人は神の意思に反する生き方を徹底的に追求し、もう一人は完璧にその犠牲になってしまった、そのようにして、この大きな不正義が未解決のまま来るべき世に持ち越されてしまった、ということ。そして、事の一部始終全てをご存知である神はこの未解決の問題を来るべき世において最終的に解決した、ということです。神にとって、自分の民に属するラザロが神の意思に反する行動の犠牲者になってしまった、ということが、彼を天の御国に迎え入れる十分な理由になったのです。ラザロの信仰には何も言われていないから、このたとえは信仰がなくても天国に行けることを意味している、というのは単なる問題のすげ替えです。ここで中心になっていることは、神の正義に関わる問題です。神は正義の問題、つまり御自分の意思が人間の間で実現しているかいないかという問題に必ず決着をつけられる方である、ということです。そういうわけで、このたとえは、むしろ神の意思に反する行動をとっている人たちに向けられて語られたと言ってよいでしょう。

4.

三つ目の質問は、イエス様が「モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」と言っていることに関連します。モーセと預言者とは旧約聖書を指します。そこで、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けてキリスト信仰者になるとき、最初旧約聖書がわからないといけないのか?

確かに、旧約聖書を知らず、天と地と人間を造られた神、人間一人一人に命と人生を与えた神を知らずして、死者から生き返った者を見たら、特に日本人だったら、自分の伝統的な宗教の考えの枠内で出来事を解釈するか、または新しい宗教団体を結成することに終わる可能性があります。そのようにして、聖書の神からますます遠ざかってしまうでしょう。しかし、死から復活したのがイエス様である場合は、人間を聖書の神に引き戻す力が働くのです。イエス様の十字架の死と死からの復活を目撃した者たち、そして彼らの証言を聞いて信じた人たちは皆、本当にモーセと預言者に立ち戻ることになったのです。天地を創造し人間を造られた神に立ち戻ることになったのです。どうしてそのようなことが起きたのでしょうか?

それは、イエス様の十字架の死と死からの復活を出発点として、遡るように旧約聖書の意味が明らかになっていったことがあります。死からの復活が現実に起きたことを知った人たちは、みんなが預言者と騒いでいたあのナザレのイエスは真に神の子だったのだ、と。そう言えば、彼は自分でも自分のことを神の子と言っていたし、またメシアとか、ダニエル書で預言されている「人の子」とも言っていたが、全て本当だったのだ、と。なぜ神の子が死ななければならなかったのか?それは、イザヤ53章に預言されているように、人間が受けるべき罪と不従順の罰を全て引き受けられたのだ、と。イエス様が罰を全部引き受けて下さったので、私たちは罰を免れる状態にあるのだ、と。まさにこれで、アダムとエヴァの堕罪の時に私たち人間の造り主である神と造られた私たちの間にできてしまった断絶は埋められたのだ、と。私たちの身代わりとなって私たちを罪と死の奴隷状態から贖い出して下さったイエス様を自分自身の救い主と信じる信仰、この信仰によって私たちは神との結びつきを取り戻すことができ、この結びつきの中でこの世の人生を歩むことができることになったのだ、と。イエス様を死から復活させたことで、神は永遠の命、復活の命の扉を私たちのために開かれた。だから、私たちは、万が一この世から死ぬことになっても、信仰によって神と結びついた者として、神は御手をもって御許に引き上げて下さるのだ、と。

このように、イエス様を救い主と信じる信仰に生きる人は、既に旧約聖書に貫いている神の人間救済計画を体得しているのであります。天と地と人間を造り、私に命と人生を与えて下さった神は、私がこの世に誕生するはるか以前に、このようなことをずっと計画していて、それをイエス様をこの世に送られることで実現されたのだ、と。このようにして、イエス様を救い主と信じる信仰に生きる者は、この神の意思に沿って生きようとすることが当然という心意気になり、神の意思をちゃんと知ろうとして、旧約も新約も同様に日々繙いて、そこから神の御言葉に聞こうとするのです。このようにして私たちに新しい人生を与えて下さった父なる御神は永遠にほめたたえられますように。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

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