説教「神は人を憐れみ救い給う」神学博士 吉村博明 宣教師、ルカによる福音書 7章11-17節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

本日の福音書の箇所は、イエス様がナインという名の町で一度死んだ若者を生き返らせたという出来事についてです。ナインの町はガリラヤ地方にありますが、ユダヤ地方との境界線に近い所にありますので、そこでそのような奇跡を行えば、結果として17節に記されているように、イエス様のうわさはユダヤ地方全域にも広がることになります。イエス様が死者を生き返らせる奇跡は、他には、ガリラヤ地方のカペルナウムという町で、ユダヤ教会堂の会堂長ヤイロの娘を生き返らせたこと(ルカ8章40-56節、マタイ9章18-26節、マルコ5章21-43節)があります。さらに、エルサレムの近くにあるベタニアという町で、マルタ、マリア二姉妹の兄弟ラザロを、息を引き取ってから4日後に生き返らせました(ヨハネ11章1-44節)。

ナインでの奇跡の出来事の事の次第を追っていきますと、まず、イエス様が弟子たちや他に付き従う大勢の人たちと一緒に町の門の近くまで来ます。門があるということは、町は城壁かそこまではいかなくても壁で囲まれたれっきとした町、都市だったのでしょう(ギリシャ語原文でもポリスπολιςと言っています)。ちょうどその時、町の中から門を通って外の墓地に向かう葬列が出てきました。亡くなったのは若者で、それは母親にとっては一人息子、さらに、その母親は未亡人であったと記されています。町の人たちが大勢葬列に加わって歩いて行きます。未亡人の一人息子が死んだということであれば、婦人は最愛の肉親を失ったと同時に自分を養ってくれる人も失ったということになります。この婦人の受けた打撃は相当なものだったでしょう。かなりの悲嘆にくれていたでしょう。この光景を目にしたイエス様は、次のような反応をして、葬列の婦人に向かって声をかけます。「主はこの母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた」(13節)。きっと婦人は、歩きながら本当にひどく泣いていたのでしょう。イエス様は葬列に近寄っていき、棺に手を触れます。棺を担ぐ人も、葬列自体も立ち止まりました。そこで誰も思いもよらないことが起こります。「イエスは、『若者よ、あなたに言う。起きなさい』と言われた。すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった」(14-15節)。母親は、一度死んで失った息子を生きて取り戻すことができたのでした。

この出来事が示すように、イエス様は「起きなさい」という言葉をかけるだけで、死んだ若者を生き返らせました。先週の主日の福音書の箇所(ルカ7章1-10節)に登場したローマ帝国軍の百人歩兵部隊の隊長は、イエス様のかける言葉には死の力を上回る力があると信じていました。イエス様の言葉の力をそのように信じるというのは、イエス様のことを、言葉をかけるだけで万物を創造していった神と同等に置くということでした。さらに、イエス様の言葉には死の力を上回る力があるというのは、その言葉に人間を罪の支配力から解放する力がある、ということでもあります。どういうことかと言うと、先週の説教でも述べましたように、最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順となり罪に陥ったために、人間は死ぬ存在となってしまいました。使徒パウロがローマの信徒への手紙」6章23節で、死とは罪の報酬である、と言っている通りです。人間は代々死んできたように、代々罪を受け継いできたのであります。死ぬということが、人間が罪の支配力に服しているということの現れなのであります。百人隊長が示した信仰、つまり、イエス様の言葉には死の力を上回る力があると信じるのは、死をもたらす罪の力を上回るということであり、イエス様こそ人間を罪の支配力の下から解放する方だと信じる信仰であります。神の民であるユダヤ民族に属さない者がそのような信仰を示したため、イエス様が驚かれたのも無理はない、というのが前回の箇所でした。

本日の箇所では、イエス様は文字通り、言葉をかけることで死人を生き返らせます。そうすることで、自分の言葉には人間を死と罪の呪縛から解放する力があることを如実に示しました。ただし、この奇跡を目撃した人々の反応はどうだったかと言うと、16節に記されているように、イエス様を神の子ではなく、預言者の再来と考えたようです。そのような理解がされたのには背景がありました。例えば、先ほど読んでいただいた列王記上17章17-24節には預言者エリヤが死人を生き返らせた奇跡が語られていました。また、列王記下4章32-37節では、預言者エリシャによる同様な奇跡が語られています。それゆえ、イエス様の奇跡の業を目撃したナインの人たちが、この方は旧約の預言者の再来だと思ったのは無理もありません。死者を生き返らせる奇跡を見ても、イエス様が神の子で全世界の全人類を罪と死の支配力から解放する救い主である、ということはまだわからなかったのであります。それがわかるようになるのは、十字架と復活の出来事を待たなければならなかったのであります。

百人隊長の時は、隊長が家来を死に至る病から救ってほしいとお願いし、イエス様はそれを聞き入れる形で奇跡を行いました。ナインの町の出来事では、誰もイエス様にお願いをしていません。イエス様は、お願いされる前にさっさと奇跡を行ったと言えます。お願いされなくてもイエス様が奇跡を行うに至るきっかけが、本日の箇所の中で言われています。それは、「母親を見て、憐れに思った」ということです。目の前に悲劇の現実があることを御自分の目で確認され、それに対して憐れに思われた。憐れに思う、というのは、ギリシャ語のσπλαγχνιζομαιスプランクニゾマイという動詞ですが、憐れむ、可哀そうに思う、気の毒に思う、他人の不幸や悲しみに心を傾ける、同情する、という意味です。イエス様が嘆き悲しむ母親を見て、本当に可哀そうに思った、それがイエス様をして奇跡の業を行わせしめたということであります。私たちも、苦難や困難に陥った人を助ける時は、そうした人たちの苦しみや悲しみに自分たちの心を傾けることから始まります。可哀そうに思う、気の毒に思う、憐れむ、こうした心の有り様が他者を助ける出発点になります。その点については、イエス様も全く同じでした。私たちが救い主と信じる神のひとり子は、私たちが苦難や困難に陥った時に、御自分の心を本当に私たちの苦しみや悲しみに傾けて下さる方なのであります。私たちが苦難や困難に陥るというのは、イエス様に見放されたということではありません。実はその時、イエス様の心は騒ぎ、ナインの町の未亡人を可哀そうに思ったと同じように、私たちをも可哀そうに思っているのです。

私たちが遭遇する苦難や困難というものは、もし天の父なる御神から助けと良い導きが得られるとひたすら信じて取り組んでいけば、本当に神から助けと良い導きが与えられて乗り越えていくことができるものと、私は信じます。もちろん、苦難や困難の真っただ中にいる時とか、またそれが長引いて出口の明かりがなかなか見えない時などは、神の御子イエス様も父なる御神自身も私たちのことなど全然気に留めていないのではないか、と疑うことが起きてきます。さらに、もしイエス様や神が心を傾けてくれていると言うのなら、なぜ苦難や困難がなくならないのだ、きっと神やイエス様には助ける力がないのだ、ただ可哀そうに思うだけで手をこまねいているだけだ、という非難も出てきたりします。しかし、それは誤った見解です。イエス様は、間違いなく苦難困難にある者を心に留め、かつその人を助ける力がある方です。以下そのことをみていきながら、私たちの信仰を今一度確認してまいりましょう。

2.

イエス様が「他者の苦しみや悲しみに心を傾ける」、憐れむ、可哀そうに思う、気の毒に思う、同情する、ということを意味する先ほど申しましたギリシャ語の言葉σπλαγχνιζομαιスプランクニゾマイは、奇跡を行う場面でよく使われます。例えば、マタイ14章で、イエス様を追ってきた大勢の群衆を「見て深く憐れみ」(14節)、彼らの中にいた病人たちを癒されました。15章では、三日三晩飲まず食わずにいた4000人の群衆のことを、イエス様が「かわいそうだ」と言って(32節)、手元にあった7つのパンと少量の魚で全員を満腹にする奇跡を行いました。20章では、イエス様はエリコの町で二人の盲人から、目が見えるようにして下さい、と執拗に嘆願されます。その時、「深く憐れ」んだ(34節)イエス様は二人の目を見えるようにします。さらに、同じギリシャ語の言葉は使ってはいないのですが、イエス様がとても深く憐れんだ、可哀そうに思った、ということが、ヨハネ11章で死んだラザロを生き返らせる奇跡の前に起こります。ラザロの姉妹マリアと彼女と一緒にいた者たちがさめざめと泣くのを目のあたりにして、イエス様は、気が動転し、本当に動転してしまいました(33節、ενεβριμησατο τω πνευματι και εταραξεν εαυτον)。(新共同訳では「心に憤りを覚えて、興奮した」とありますが、何に憤ったのかわからないし、すぐ後でイエス様も一緒に泣いてしまうので(35節)、ここはやはりイエス様が本当に可哀そうに思ったのだと考えた方がいいと思います。)

他の奇跡の場面では、苦難困難に陥っている人たちを前にしたイエス様の心の動きは詳しくは記されていませんが、以上の例からだけでも、イエス様はそうした人たちに対して、いつも深い憐れみの心、可哀そうに思う心を持って、それに突き動かされて奇跡の業を行っていたことは否定できないと思います。私たちの主は、まことに私たちのことを心に留められる方で、私たちの苦しみや悲しみをさも自分自身の苦しみ・悲しみのように受け止めて下さる方なのです。

3.

それでは、なぜイエス様は、私たちが苦難や困難に遭遇することを回避できるようにしてくれないのか。遭遇してしまった時は、どうして少しでも早くそれから抜け出られるようにして下さらないのか。イエス様には助ける力はないのか。このことを考える時に、ひとつ注意しなければならないことがあります。それは、もし、イエス様の任務が、苦難や困難に陥った人たちを深く憐れんで奇跡を用いて助けてあげることだとすれば、なぜ彼はそれを途中でやめてしまったのか、ということです。イエス様はガリラヤ地方とユダヤ地方とそれらの周辺地域で実に多くの人々を奇跡の業をもって助けました。不治の病を治し、飢えを満たし、無数の悪霊を追い出しました。ところが突然、彼はこうした巡回救援活動を止めて、行けば死が待っていると自分でもわかっているエルサレムを目指して歩み始めるのです。イエス様が十字架に架けられたのが大体西暦30年頃とすると、年齢的に30少しいった位です。まだまだ働き盛りです。もっともっとあちこちを回って、救援活動を続けられた筈です。それこそ、弟子たちと地中海地域のあちこちを訪れて、各地で病人を癒し、飢えを満たし、悪霊を追い払っていた方が、はやばやとエルサレムで死刑になってしまうよりは、人類のためになったのではないでしょうか?ところがそうではないのです。ゴルガタの十字架に架けられることの方が、人類のためになったのです。そっちを実行するために、イエス様はエルサレムに向かう道を歩み出したのです。それは、病気や飢えや他のあらゆる苦しみが癒したり助けたりするのに値しない、ということではありません。そうではなくて、そうした苦しみ全ての根底にある苦しみから人間を救い出すということが、イエス様の任務としてあったのです。イエス様のおかげでその根底的な苦しみから癒された人は、今度はイエス様を救い主と信じる信仰を持って生きることとなり、それからはたとえ苦難や困難に遭遇することになっても、自分にはイエス様がたえず目を注がれて心を傾けられているのだとわかっているので、心配と不安はほどほどにとどめることができる。そして、今歩んでいる道は必ず出口に通じていると確信を持って暗闇の中を進んでいける。期待に反して暗闇が深ければ深いほど、また長ければ長いほど、逆にそれだけ一層イエス様からの目の注がれと心の傾けられも強まって長期にわたっていく、とますますわかる。それなので、心配と不安はたえずほどほどにとどまる。そのような生き方を全ての人が持てるようにと神は望んでおられるのです。

根底的な苦しみからの癒しとはどういうことかと言うと、人間が長く失っていた造り主である神との結びつきをイエス様が回復して下さったということです。人間は、堕罪以来、自分の造り主である神との関係が断ちきれた状態にありました。従って、この世の人生の段階では、神との結びつきをもって生きることができず、この世から死んだ後も、神との関係は断ち切れたままで、造り主である神のもとに戻ることができず、永遠に滅びの状態に陥ってしまうのであります。しかし、神の方では、人間をそういう状態に陥らせないようにしようと思われました。つまり、人間が神との関係を回復できて、この世の人生の段階では、神との結びつきをもって生きられるようにしてあげよう。たえず神から守りと導きを得られるようにしてあげよう。仮にこの世から死ぬことになっても、その時はすぐ人間の手を取って自分のもとに引き上げて、人間の造り主である自分のもとに永遠に戻ることができるようにしてあげよう。しかしながら、神聖な神と罪を受け継ぐ人間の断ち切れた関係を回復させるためには、神から人間を切り離す原因となった罪の支配力から人間を解放しなければなりません。しかし、人間の肉から罪と不従順を取り除くことは不可能です。そこで、神がやったことは、神のひとり子をこの世に送り、彼に人間の罪からくる罰を全て負わせて身代わりとして死なせ、その身代わりに免じて人間を赦すことにする、ということでした。さらに、一度死んだイエス様を死から復活させることで、死の力を無力にして、人間に永遠の命、復活の命への扉を開きました。そうして、人間は、イエス様が自分の救い主であると信じて洗礼を受けることで、この神の整えた「罪の赦しの救い」を自分のものとすることができるのであります。神がイエス様を用いて用意された救い、「罪の赦しの救い」が信仰者に対して効力を持ち始めるのであります。

このように、エルサレムに向かう道を歩み出したイエス様は、人間を助けることを途中でやめたのではなかったのでした。そうではなくて、本当に人間を助けるために十字架の道を選んだのでした。もちろん、病気や飢えや悪霊から人間を助けることも大事です。しかし、イエス様は、そうした直に出会う一人一人の人に対する助けを超えて、御自分が直接出会う可能性のない遠くの国々の人々それに遠い未来の人々を全部一まとめにして助けることを考えました。病気や飢えや悪霊という個々の人間の苦しみの根底にある人類全体に共通の苦しみ、つまり造り主である神との関係が断ちきれたという状態から助けることを、イエス様は目指した。

4.

ナインの町での出来事をはじめ、イエス様が奇跡を行う直前にいつも起きた「憐れむ、可哀そうに思う等々」を意味するギリシャ語の単語σπλαγχνιζομαιスプランクニゾマイは、マタイ9章36-38節で少し違った使われ方をします。そこを読んでみますと、イエス様は、「また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。そこで、弟子たちに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから収穫のために働き手を送って下さるように、収穫の主に願いなさい』。」ここでは、イエス様は、「深く憐れまれた」後で奇跡は行わず、弟子たちに、神の収穫と働き手について話をします。

イエス様が深く憐れまれた群衆は、「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれて」いました。飼い主のいない羊とは、救い主を持たず神との関係が断ちきれたままでこの世の人生を歩まなければならない者で、神から守りも導きも得られない人のことを意味します。それが「弱り果て、打ちひしがれていた」というのは、まさに造り主である神との関係が断ちきれたままでこの世の人生を歩む者の状態を表しています(ギリシャ語原文を忠実に訳すと、「打ちひしがれて、打ち捨てられていた」の方がいいでしょう)。イエス様がこのように深く憐れまれた群衆はただ病人だけからなる集団ではなく、健康な人も多く含まれていたでしょう。つまり、健康な人もそうでない人も、神との関係が断ちきれた同じ状態にあり、それで皆「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれていた」というのであります。まさにそうした者たちを、イエス様は「深く憐れまれた」のであります。

ここで、イエス様が神の収穫と働き手のことを話すのは、十字架と復活の後に「罪の赦しの救い」が実現したあかつきには、全ての人がこの救いを与えられる対象となる、それが収穫ということであります。全ての人が対象ですから、収穫は多すぎるほど多いということになります。しかし、働き手があまりにも少ない。働き手とは、この実現した救いをまだ受け取っていない人が受け取ることが出来るように働く人、つまり福音を宣べ伝える人を意味します。牧師や宣教師の仕事のように考えられますが、基本的には既に救いを受け取った人たち皆に関わる仕事です。そういうわけで、キリスト信仰者が苦難・困難にある人を助ける時は、もちろん苦難・困難がもたらす苦しみに心を傾けることは大事です。イエス様もそうなさいました。しかし、それと同時に、イエス様は、人が神との関係が断ち切れた状態にあることからくる苦しみにも心を傾けました。イエス・キリストを救い主と信じる兄弟姉妹の皆さん、そのことを忘れないようにしましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように

アーメン

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