説教 「信仰者は実はみんな祭司なのだ」吉村博明 宣教師 、出エジプト記19章2-8a節、マタイによる福音書9章35節-10章23節

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.祭司たちの王国

本日の旧約聖書の日課は出エジプト記の出来事です。イスラエルの民がエジプトを脱出して3カ月が経ち、シナイ山のふもとまで来て宿営しました。そこでモーセはシナイ山上に現れた神のもとに登り、十戒をはじめ多くの律法を授かります。本日の個所は神が律法を授ける前に次の言葉を民に伝えよとモーセに命じたところです。その中に次のような驚くべき言葉がありました。

「今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちは全ての民の間にあってわたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」(出エジプト記19章5~6節)

ここのヘブライ語の原文には一見簡単そうでわかりにくいことがあります。「世界はすべてわたしのものである」に「なぜなら」כיがついていて、それが前文とどう結びつくのかがわかりにくいからです。もちろんכיには他の意味・用法もありますが、どれを採っても解決は難しいので取り敢えず基本的な意味の一つである「なぜなら」でやってみます。それから、前文の「全ての民」についている前置詞מןも考えさせられます。「~の中から」と起点・起源の意味で取るか、「~から見たら」と比較の視点で取るかというところではないかと考えました。「~から取る/選択する」の可能性も考えたのですが、その場合動詞がהיהであることが引っかかりました。新共同訳は「すべての民の間にあって」と「間にあって」ですが、それなら前置詞はמןよりもבの方がいいのではないでしょうか?以上のような次第で、次のような意味ではかと思われます。「今、お前たちが私の声に聞き従い、私の契約を守るならば、お前たちは私の守るべき財産となる。世界の全ての民族の中からそのような特別な地位に置かれるのである。このような選抜を行うのは、私が全世界にとっての神だからである。そのような地位に置かれるお前たちは『神の祭司たちの王国』になり、神聖な民族になる。」

イスラエルの民は「神の宝」だけではなく、「神の祭司の王国」や「神聖な民族」にもなれると言います。私たちの新共同訳では「祭司の王国」と祭司が単数形ですが、ヘブライ語原文では複数形で「祭司たちの王国」です。つまり、特定の祭司が国を治めているのではなく大勢の祭司から構成される王国です。お前たちがそうなるのだ、とお前たちはイスラエルの民を指して言っているので、イスラエルの民全員が祭司になっている王国です。

これは驚くべきことです。というのは、旧約聖書で祭司はモーセの兄弟のアロンから始まって、その家系に属する者がなりました。彼らは民を代表して神に対していろいろな捧げもの、罪の赦しの贖罪や神との和解のため、また神への感謝のしるしとして動物の生贄や収穫物を捧げました。そうなると今日の出エジプト記19章のところでユダヤ民族みんなが「祭司たちの王国」になるというのとは少し違ってきます。神が意図したのはイスラエルの民が全員祭司であるような王国だったのですが、実際には祭司は特定の家系に属する者の専門職業集団でした。

そうかと思えば、この「祭司たちの王国」は出エジプトの出来事から1300年位経った後の新約聖書の中にまた出てきます。使徒ペトロはその第一の手紙の2章9節でキリスト信仰者のことを「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民」と言います。「王の系統を引く祭司」などと言うと、あれっ、ダビデ王の系統のことかな?などと思ってしまうかもしれません。しかし、そうではありません。ここの「祭司」のギリシャ語の言葉は一人ひとりの祭司(ιερευς)ではなく祭司職の集団を意味する単語(ιερατευμα)です。それなので正確には「王的な祭司の集団」です。これは出エジプト19章の「祭司たちの王国」と同じことです。キリスト信仰者がそうなのだと言うのです。また、黙示録1章6節を見ると、使徒ヨハネが次のように言います。「わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が代々限りなくありますように。」ギリシャ語原文では、「私たちを王国とし、神のための祭司たち(複数形!)として下さった方」です。これも「祭司たちの王国」です。黙示録5章10節でも同じことが言われています。

このように「祭司たちの王国」が旧約聖書と新約聖書にまたがってあります。しかしながら、旧約聖書では「祭司たち」は実際には専門職業集団でした。しかし、出エジプト記19章での神の意図は民が全員祭司ということでした。それが神のさらなる命令で専門職業集団が形成されました。出エジプト記19章で神が言われたことは無効になったのでしょうか?ところが、新約聖書の時代になって、やっと全員が祭司になれた、これで出エジプト記19章の神の意図が実現したぞ、そうことをペトロやヨハネが言い出したのです。あとで見ていきますが、実はパウロも、「祭司たちの王国」という言葉は使いませんが、ペトロとヨハネと同じ見方を持っていました。

キリスト信仰者がみんな祭司であるとすると、何か儀式めいたことをしなければならないのか、でもそれは牧師や神父や司祭の仕事ではないかと思われてしまうかもしれません。そこで本説教では、キリスト信仰者が祭司ならば、どんな祭司で何をしなければならないのかについて見ていきたいと思います。

2.神の御言葉を正確に忠実に宣べ伝える職務

ユダヤ民族の専門職業集団の祭司は、エルサレムの神殿が出来る以前は臨在の幕屋が置かれていたところで捧げものの儀式を行い、神殿が出来てからはそこが儀式の場所になりました。神殿での儀式は、紀元前6世紀初めにバビロン帝国の攻撃によるユダヤ国家滅亡の後、一時中断されます。しかし、同世紀の終わりに民族が祖国に帰還出来て神殿が再建されると儀式も再開されます。しかし、これも西暦70年に今度はローマ帝国の攻撃で破壊されて終焉します。それ以後は神殿は再建されず今日に至っています。

エルサレムの神殿での儀式は、律法の掟に従って忠実に執り行われてはいましたが、決して問題なしということではありませんでした。神殿での神崇拝についてのいろいろな批判が預言書に現れるようになりました。なかでもバビロン帰還後に再建された神殿の時代に記されたマラキ書という預言書の中に次のような言葉があります。

「祭司の唇は知識を守り、人々は彼の口から教えを求める。彼こそ万軍の主の使者である。だが、あなたたちは道を踏み外し、教えによって多くの人をつまずかせ」てしまった(マラキ2章7~8節)。

祭司たちは、確かにカレンダーに従って神殿にて儀式を行い、定められた目的に応じて定められた捧げものとをきちんと捧げてはいたのだが、肝心なことが抜け落ちていた。何かと言うと、神の意思が記された聖書についての知識を口を通して人々に宣べ伝えることでした。それこそが人々が祭司に求めていたことだと言うのです。「万軍の主の使者」の「使者」は少しピンときませんが、ヘブライ語の単語(מלאק)の意味はメッセンジャー、つまり神の言葉を神が述べた通りに正確に伝える役目を持つ者です。それが実際には神が述べた通りのことを伝えず、聖書について正しく教えなかったということが起きていたのでした。

キリスト教会では、神の御言葉を正確に忠実に宣べ伝え教えるということは、そのために設置された職務があって、その人たちに委ねられます。聖霊降臨後に形成されたキリスト教会の歴史を新約聖書の時代に限ってみていくと、それに関連して三つの職務が出現します。それはどれも祭司という名は持っていません。祭司はヘブライ語ではコーヘーンכהן、ギリシャ語ではヒエレウスιερευςですが、全く違う言葉で呼ばれる職務が誕生します。それらを少し見てみます。

まず、ディアコノスδιακονοςと呼ばれる職務があります。奉仕者という意味があります。もともとは使徒たちが御言葉の教えと祈りに専念できるようにと、食べ物などの信徒たちの必要を満たす仕事を行うために設置された職務でした。ただし、賄いや給仕が専門というわけではありませんでした。使徒言行録6章にあるように、選考基準は信仰と知恵と聖霊に満ちていることでした。実際、選ばれた者の一人ステファノは御言葉もしっかり教えることが出来、キリスト信仰に反対するユダヤ人たちに対して大説教をしたことが原因で殉教してしまいます。彼はキリスト教会最初の殉教者です。

もう一つの職務はプレスビュテロスπρεσβυτεροςというのがあります。単語の意味は年長者で、日本語では長老と訳されます。これは第一テモテ5章17節から明らかなように御言葉を教える職務です。ヤコブ5章14節から伺えるように教会の代表者として信徒のために祈ることもします。プレスビュテロスがこのような職務を持つことがもとで、後にドイツ語で牧師を意味するPriest、スウェーデン語でもPrästになっていきます。英語のPastorはプレスビュテロスと違うところから来ていると思われます。

三つ目の職務はエピスコポスεπισκοποςです。管理者とか監督者という意味があります。使徒言行録20章28節を見ると、プレスビュテロスからエピスコポスに任命されるのでプレスビュテロスより位が高い感じがします。実際、時代が下るにつれてエピスコポスはディアコノスやプレスビュテロスを任命する権限を持つようになります。しかしながら、両者の資格についてのパウロの記述を見ると(第一テモテ3章1~7節、テトス1章6~9節)質的な違いはないのではないかと思います。実際、4世紀から5世紀に活動した教父ヒエロニムスも、また宗教改革のルターも両者の位に優劣はないと言っています。いずれにしても、エピスコポスも御言葉の職務を務めることにはかわりありません。

以上のように、キリスト教会で、ディアコノス、プレスビュテロス、エピスコポスという三つの専門職業集団が現れます。興味深いことにフィンランドのルター派国教会はディアコニア、牧師、監督の三つの職務があり、初期のキリスト教会の体制がよく受け継がれていると言えます。さて、キリスト教会でこれらの三つの専門職業集団が現れたのですが、他方でユダヤ教にあった祭司ヒエレウスは姿を消します。それは、祭司が神殿の儀式に特化した専門職業集団だったので、肝心の神殿が破壊されてしまった後は祭司も存在しなくなってしまったことによります。しかし、それにもかかわらず使徒たちはキリスト信仰者のことを「祭司たちの王国」と呼ぶのです。祭司ヒエレウスは死後ではないのです。牧師や神父や司祭はちゃんといるのに、キリスト信仰者である私たちのどこが祭司なのでしょうか?

3.キリスト信仰者は感謝の捧げものをする祭司である

それは、私たちキリスト信仰者は、牧師や神父や司祭であろうがなかろうが、全員がかつての祭司と同じように神に対して捧げものをしなければならないからです。それでは何を捧げるのでしょうか?かつての祭司は、罪の赦しの贖罪の捧げもの、神との和解の捧げもの、収穫の感謝の捧げものなどいろんな捧げものをしていました。

結論から言うと、キリスト信仰者にとっては罪の赦しの贖罪の捧げものと神との和解の捧げものは不要になりました。というのは、神のひとり子イエス様が私たち人間に代わって自らを犠牲の生贄として捧げて私たちの罪を神に対して償って下さったからです。この犠牲の生贄は完全無欠なものでした。それは、エルサレムの神殿で毎年の贖罪日に捧げられていた夥しい数の動物の生贄と比べればわかります。贖罪日ではまず最初に祭司たちが自分の罪の償いのために捧げものをし、そのようにして自分を罪から清めてから今度は民全体の罪の償いのために捧げました。これを毎年行わなければならなかったというのは、言うなれば罪の赦しの有効期限と言うか賞味期限は1年だっということになります。

ところが、イエス様が行った贖罪は、まさに神の神聖なひとり子を犠牲に供するもので、これ以上の犠牲はないという位のものでした。それなので今後はもう罪の償いのために犠牲をささげる必要は一切なくなったという、それ位の犠牲だったのです。それなのに、もしまだ何か追加で捧げものをしないといけない、そうしないと神は自分を受け入れてくれない、なんて考えたら、それは神のひとり子の犠牲では不足だと言っていることになり、逆に神の怒りを買うことになってしまいます。それなので神との和解を果たせるためには、イエス様がゴルゴタの十字架にかけられたのはまさに自分の罪の償いのためだったとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、もう十分なのです。そうすれば、あとはイエス様のおかげで罪の償いが済んだ者となって、それで神から罪を赦された者として扱ってもらえるようになります。そのあとは、これからはもう罪を犯さないようにしなければ、神を全身全霊で愛し、その愛に立って隣人を自分を愛するが如く愛さなければと心が新しくされます。なにしろ、ひとり子を犠牲に供してもいいと言い位に天地創造の神がこの私を価値ある者と見なして下さるんですから。そういう畏れ多い気持ちに加え感謝の気持ちに満たされてこの世の人生を歩むことになります。

以上申し上げたことが本日の使徒書の日課ローマ5章によく言い表されています。イエス様を救い主と信じる信仰により、神の目に義とされる、つまり神聖な神の前に立たされても大丈夫でいられるようになる。それで神との間に敵対関係はもうなく、ただただ平和な関係にある。神と平和な関係にあれば、もう無敵で何も恐いものはない。このような信仰に立っていれば、試練があっても忍耐に転化する。忍耐は鍛えられた心に転化する。そして鍛えられた心は希望に転化する。ここで言う「希望」とは、神の栄光に与るという希望です。その意味するところは、復活の日に死の眠りから目覚めさせられて復活の体と永遠の命を着せられて神の御国に迎え入れられるということです。私たちがまだ罪びとであった時に、私たちがそのように神の栄光に与れるようにとイエス様は自らを十字架の死に委ねられたのでした。これが神の愛です。この神の愛はイエス様を救い主と信じる者の心に注がれているのです。

以上のような福音の真理を宣べ伝え教えることがどれだけ大切なことであるか、本日の福音書マタイ9章にてイエス様が述べられています。群衆が羊飼いのない羊のように打ちひしがれて見捨てられた状態にあるというのは、神との平和な関係を持たず、罪の支配の力に服してしまっている状態のことを意味します。人々がそこから脱せられて神との平和な関係を持てるように、そのために福音の真理を宣べ伝え教える働き人が必要なのです。まさにマラキ書で言われているメッセンジャーです。本当に私たちは聖書を正しく忠実に宣べ伝え教えられる働き人が多く与えられるように祈らなければなりません。

少し話が脇道に逸れました。私たちキリスト信仰者がする捧げものについて見ていきます。イエス様が私たちのために贖罪と和解の捧げものとなって下さいました。それなので私たちはその捧げものをする必要がなくなりました。そうすると捧げるものとして残るのは感謝の捧げものになります。神のひとり子の尊い犠牲の上に自分が新しくされたということに対する感謝です。それでは、一体何を捧げたらよいのでしょうか?

そのことをパウロはローマ12章で明らかにします。まず、冒頭で度肝を抜くような主題を掲げます。
「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして捧げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」

「なすべき礼拝」などとそつなく訳していますが、正確には「理にかなった礼拝」です。難しい表現です。どういうことかと言うと、動物の生贄を捧げる礼拝はもう理に適った礼拝ではないということです。それで自分の体を生贄として捧げる礼拝が理に適っているというのです。これを読んだ人は皆ぎょっとしてしまうでしょう。体を生ける生贄として捧げるだなんて、まるで人身御供ではないかと。ところが、そういうことではないのです。パウロはこの12章で、イエス様の贖いと償いの業のおかげで神から罪を赦しを受けて和解を頂いた者はどんな生き方が当然になってくるかを述べていきます。その生き方をすることが「聖なるいけるいけにえとして自分の体を神に捧げる」ことになるのです。どんな生き方でしょうか?

まず2節で生き方の総まとめを最初に掲げます。生き方のコンセプトのようなものです。

「自分をこの世に合わせていってはいけません。神から罪を赦して頂いて心も考えも新しくされたのだから、あとは自分を神に変えてもらうに任せなさい。変えてもらうにつれ、何が神の意思であるか何が善であり神に喜ばれることか何が完全なことかを常に吟味するようになりなさい。」

そして3節からあとは、何が神の意思か、善か、神に喜ばれることか、完全なことかについてパウロが吟味したことの具体的な内容が続きます。ざっと見ますと、自分を過大評価するな、悪を憎み、善から離れるな、兄弟愛を持って互いに愛せよ、互いに尊敬を持って相手を優れた者と思え、迫害する者のために祝福を祈れ、呪ってはいけない、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣け、高ぶらないで身分の低い人と交われ、自分を賢い者とうぬぼれるな、悪に悪を返すな、全ての人の前で善を行え、他の人と平和に暮らせるかどうかがあなたがた次第ということであれば迷わずそうせよ、自分で復讐するな、神の怒りに任せよ、敵が飢えていたら食べさせ乾いていたら飲ませよ等々、そうそうたるものです。これらを聞くと、同じようなことは他の宗教でも言っているではないかと思われるかもしれません。しかし、根元は違います。自分で復讐してはいけない理由に神の怒りに任せるということがありました。これは、最後の審判とそれに続く復活が土台にあります。先ほどローマ5章のところで、「神の栄光に与る希望」とは、復活の日に死の眠りから目覚めさせられて復活の体と永遠の命を着せられて神の御国に迎え入れられる希望のことであると申しました。キリスト信仰者の全希望はそこに集約されています。

以上が、キリスト信仰者が自分の体を生贄として捧げる生き方です。これができる、これが当然という心意気になるのには、まずイエス様のおかげで罪の赦しがあることを信じる信仰がなければいけません。そうしないと何も始まりません。全ては信仰から始まるのです。このような生き方をすることが神に感謝の捧げものをしていることの現れであり、感謝の捧げものをしていることが祭司であるということです。これは、牧師、司祭、神父であろうが信徒であろうが、キリスト信仰者みんなの課題であり、みんなが感謝の捧げものをする祭司なのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

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