説教「創造主の神に造られた者で何が悪い!」吉村博明 宣教師、マタイによる福音書28章16-20節、創世記1章1-2章4a節

主日礼拝説教 2020年6月7日(三位一体主日)

創世記1章1-2章4a節、第二コリント13章11-13節、マタイ28章16-20節

説教題 「創造主の神に造られた者で何が悪い!」

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1. 神に造られた者としての自覚を持て

今日は教会のカレンダーでは「三位一体主日」です。先週の主日は聖霊降臨祭でした。聖霊がイエス様の弟子たちの上に降って、そのうちの一人ペトロが群衆の前で大説教をし、その結果3,000人の人が洗礼を受けてキリスト教会が形成され出したことを記念する日でした。父、御子、聖霊の三者がそろった後の主日ということで今日は三位一体を覚える主日です。

先週の説教でも申し上げましたが、キリスト信仰では神は、父、御子、聖霊という三つの人格が同時に一つの神であるという、三位一体の神として崇拝されます。日本語では聖霊のことを「それ」と呼ぶので何か物体みたいですが、英語、ドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語の聖書では「彼」と人格を持つ者として言い表されています。他の言語は確認していないですが、大体皆そうではないかと思います。三つの人格はそれぞれ果たすべき役割を持っていて、父は無から万物を造り上げる創造の神、子は人間を罪の支配下から救い出す贖いの神、そして聖霊はキリスト信仰者をこの世から聖別する役割を果たします。この世から聖別するとは、人間を神聖な神の御前に立たせても恥ずかしくない者にしていくということです。

本日の福音書の日課はマタイの最後のところ、復活されたイエス様が弟子たちに宣教命令を述べたところです。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」洗礼を父と子と聖霊の名によって授けるというのは、洗礼を受ける者が三位一体の神に結びつけられるということです。神は創造の業を行う父であり、また人間を罪の支配下から贖う御子であり、そしてキリスト信仰者をこの世から聖別する聖霊である、この三位一体の神に結びつけられるのです。結びつけられた後は、神に創造された者としての自覚を持って、また罪の支配から贖われた者として、絶えずこの世から聖別されてこの世を生きていきます。そして、この世が終わって次の世が始まる時に目覚めさせられて復活の体と永遠の命を与えられて天の御国に迎えられます。

この「神に創造された者としての自覚を持つ」というのは大事です。その自覚は、キリスト信仰に入れるか入れないか、また入ってもその後しっかり入った状態にいられるかどうかのカギになります。というのは、自分が神に造られた者であるとの自覚を持つと今度は、造られた自分は造り主と今どんな関係にあるかということを考えるようになるからです。何も問題ない、全てうまく行っている関係か、それとも何か問題があってうまく行っていないか?聖書の立場は、うまく行っていない、それなので問題を解決しないといけない、というものです。何がどううまく行っていないのかと言うと、造られた人間と造り主の神との結びつきが失われてしまった、それで人間はこの世では神との結びつきがないままで生きていかなければならなくなってしまったからです。どうしてそんなことが起きたかというと、人間は神に造られたという立場を静かに受け入れていればよかったのに、神と張り合おうという気持ちを悪魔にたきつけられて、その言うとおりにしてしまった。それは神がしてはならないと言っていたことで、そのために人間に神に対する不従順が生まれ、神の意思に反しようとする罪が備わってしまった。そのことが創世記に記されています。この堕罪の出来事の結果、人間は死ぬ存在となってしまい、この世では神との結びつきもないまま人生を送り、何もしないでいればこの世を去った後は神のもとに戻れることもなくなってしまったのです。パウロが教えるように、死というものは罪の報酬であり、人間が代々死んできたというのは代々罪を受け継いできたことの現れなのです。

そこで神は、人間がこの世では神との結びつきを持って生きられるようにして、この世を去った後は永遠に自分のもとに帰れるようにしてあげようと、罪の問題を人間に代わって解決することにしたのです。それが、ひとり子のイエス様をこの世に贈ったということであり、神のひとり子が人間の罪を全て背負ってゴルゴタの十字架の上にまで運び上げ、そこで人間に代わって神罰を受けて人間の罪を神に対して償って下さったことでした。さらに父なるみ神は、一度死なれたイエス様を最大級の力で復活させて、復活の体と永遠の命が待ち受ける天の御国への道を私たち人間のために切り開いて下さったのでした。

そこで人間が、これらのことは本当にその通りに起こったのであり、それでイエス様は救い主と信じて洗礼を受けると、彼がして下さった罪の償いがその人を覆い、罪の支配下から贖われたことがその人に起きます。それからはその人は、天の御国に向かう道に置かれてその道を進んでいきます。

ところが、この世には人間がその道に入れないようにしてやろうとする力、入ったら今度は踏み外させてやろうという力が働いています。そのような力に襲われた時は、洗礼の時に注がれた聖霊が大事な役割を果たします。人間が神に造られた者であることと、洗礼によって神との結びつきが出来ていることを思い出させてくれます。もし神に背を向けてしまったのであれば、聖霊はすぐに私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせてイエス様の犠牲の上に築かれた神との結びつきはしっかりあることを示してくれます。その時、私たちの内に神の意思に沿うように生きなければという気持ちが起きます。そして、また天の御国に向かう道を進んでいくことになります。

このように、父と子と聖霊の御名によって洗礼を受けるというのは、神に造られた人間が神と人間を引き離そうとする力から贖い出されることです。また、造られ、かつ贖われた者としてこの世を歩む時の支えや力を得ることです。さらに、歩み終えた後は復活の体と永遠の命が待つ天の御国に迎え入れられるという約束を神から頂くことです。

2. 天地創造の今日的意味

以上から明らかなように、キリスト信仰では神は創造主であり人間は造られた者ということが大前提にあります。それがなかったら、造り主との関係はどうなっているかという問いは起きません。その問いがなければ神のひとり子がこの世に贈られて十字架の死を遂げ死から復活されたことは何の意味も持ちません。それらが意味を持たなければ、聖霊が役割を果たそうとしても全然かみ合いません。それ位、人間が神に造られたというのは信仰の大前提なのです。

ところが、今日では神の創造ということを信じて受け入れることがますます難しくなっています。それは、進化論が生命について説得力ある説明をしていると支持される状況があるからではないかと思います。生物は長い年月をかけて単純なものが複雑なものに進化していく。そのプロセスで環境の変化についていけないものは消え、変化に適応できる力をつけたものが進化して続いていく、そのように説明すると、生き物に関しては神が一つ一つ造ったなどとは言えなくなります。

イスラエルのハラリという歴史学者の書いた「ホモデウス」という本が大きな話題になりました。私はまだ全部読み終えていないのですが、進化論に立っているのは明らかで、なぜキリスト教が進化論に否定的なのか?それは進化論が魂の存在を否定するからだ、と言っていた下りはなるほどと思いました。生物が人格と意志を持った創造主に造られるのではなく、無数の化学反応の集積から構成されて変化していくと見たら、魂などという科学的に説明できないものは入り込む余地はなくなります。人格を持った神なんか持ち出さなくてもいろんなことが説明できるようになります。もう人間は造り主がどう思っているかなんか考えないで、自分の好きなようにやればいい、自分こそ自分の主人であり、神なんかにとやかく言われる筋はない、ということになります。天地創造を出発点にする聖書とその聖書に基づいて生きる人たちにとって大変な時代になりました。

そこで、本説教の第二部として、ここから先は本日の旧約聖書の日課、創世記の初めの天地創造をもう一度振り返り、天地創造は本当に今では意味のない時代遅れの見方かどうか見てみたいと思います。この問題に関して近年では進化論に対抗するものとしてインテリジェント・デザインという考え方が注目されたようですが、私はおそらくその議論に加わられるインテリレベルに達していないので、ひたすら聖書をじっくり見ていくことにします。じっくり見る聖書とは、旧約聖書はヘブライ語のBiblia Hebraica Stuttgartensiaで(一部はアラム語で書かれていますが)、新約聖書はギリシャ語のNovum Testamentum Graeceです。私にとって大切な聖書のテキストです。

創世記1章について、本説教では2つのことを見て、聖書の天地創造は今日でも意味があることを確認したいと思います。一つは、天地創造の時間の流れについて。もう一つは、造られたものとしての人間と動物の立場についてです。

まず、天地創造の時間の流れについて。天地創造によると、神は6日間で天地とその中にあるものを造り上げ、7日目に休まれたとあります。これなどは、多くの人は真に受けないでしょう。物理学などで地球は何十億年前に誕生したと言っています。それなのに、最初の24時間で光が出来、次の24時間で空、次の24時間で海と陸と植物、次の24時間で太陽、月、星、次の24時間で魚と鳥、次の24時間で陸の生き物と人間、合計144時間、分にして8,640分、秒にして518,400秒、これで地球誕生から最初の人類まで間に合うのか、誰も見向きもしないでしょう。

もちろん、神に不可能なことはないというのが聖書の立場なので、144時間で完結したという可能性も残しておきますが、ここは次のように考えることも出来ます。毎日の終わりに「夕べがあり、朝があった。第何の日である」という締めの言葉があります。ヘブライ語で意味するところを見ると、「そして日の入りとなり、そして日の出となった。以上が第何の日である」という意味です。つまり、一日というのは、日の出で始まり、次の日の出までという考え方です。それで、「日の入りとなって日の出となった」と言うのは、これでその日は暗くなったので仕事は終わりですという、その日の終わりを告げる合図的な文句のようなものです。

つまり、聖書の観点は、造られたものを6つの段階的なグループにわけて、それぞれの段階の長さは私たちの時間の観念ではどれくらいなのかはわからないが、とにかくそれぞれの段階の終わりに「これで一日が終わりました」と言って、それぞれの段階が1日という扱いになって全部で6日になるように見せようとしていると考えることができます。それぞれの段階の長さは、私たちの時間の観念でひょっとしたら何億年もかかっているかもしれないが、それぞれに一日の終わりを意味する締めの言葉をつけることで1段階を一日と言っていると考えることができます。それでは、どうして6段階を6日とすることにこだわるのかと言うと、それは神が人間に1週間7日というリズムを与えて、7日目は安息日に定めるという意図があるからです。以上のように6日というのは6段階と考えれば、天地創造は時間的流れに関しては受け入れるのに問題はなくなります。

次に造られたものとしての人間と動物の立場について。先ほどのハラリは進化論に立つので霊の存在を否定するので、そうすれば人間と動物は能力の差はあるが、同じ種類になって決定的な差はなくなります。それなので進化論から見ると、キリスト教というのは人間を霊的な存在にはするが動物はそうせず、それで人間を優、動物を劣にしているというふうに見えます。ところが、聖書をよく見ると、動物も実はある意味では霊的な存在で、進化論が言うのとは逆の意味で人間と動物が同じ種類に入りうるということがあるのです。ひょっとしたら、これはあまり注意されてこなかったことかもしれません。少し注意しながら聖句を見てみましょう。

5日目に神は魚と鳥を祝福します。そのまま続けて読んでいくと、6日目に人間も祝福します。あれ、人間と同じ日に造られた動物は祝福されないのか?やはり動物は神の祝福に与れない、人間より劣ったものなのかと思わされます。しかし、それならば、なぜ魚と鳥は祝福を受けられるのか?動物は人間より劣っているが、魚と鳥は動物以上、人間並みということなのか?

これは、ヘブライ語の原文の厄介さがあります。複数形と単数形が入り乱れて、どれが何を指しているかよく考えないといけません。問題となるのは27節と28節で、28節を逐語訳すると、「神は彼らを祝福した。そして神は彼らに言われた。『お前たちは産めよ、増えよ、地に満ちよ。そして、お前は地を従わせよ』」となります。最後の「地を従わせよ」と命令されている相手は単数形なので「お前は」です。その前の「産めよ、増えよ、地に満ちよ」の相手は全部複数形です。それで「お前たちは」です。それが突然「お前は」になるのです。これはどういうことか?可能な考え方として、神が祝福した「彼ら」は人間だけではなく、同じ日に造られた動物も含まれる。そして両者に対して「産めよ、増えよ、満ちよ」と言った。ところが、「地を従わせよ」のところで相手を人間に絞ったということです(後注)。鳥や魚が祝福を受けて「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と言われるのなら、動物も祝福を受けられて同じように「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と言われてもおかしくなく、それが文法的にも可能なのです。つまり、動物も魚も鳥も人間と同じように神の祝福を受けられ、みな「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と言われるのです。

動物が霊的な存在ということを考える時、民数記22章でバラムが乗ったロバが行く手に天使を見て立ち止まり、それが見えないバラムに人間の言葉で話し出した出来事を思い出すと良いでしょう。人間には見えなくても動物には天使が見えたということが聖書には削除されずちゃんと記載されているのです。

そこで、26節と28節に人間に動物、魚、鳥を「支配させる」と言われていることを考えます。それは、聖書が人間に優越的な地位を与えていると考えられるところです。ところが、この「支配する」というヘブライ語の動詞רדהですが、詩篇72篇8節でも使われています。そこを見ると、正義を守る理想的な王の支配について言われています。力や数に任せた身勝手な権力行使ではないのです。そのように動物や魚や鳥に対しても、神の創造ということを念頭において何か注意深さが必要ということになります。

さらに29節を見ると神は人間に食べ物として植物から採れるものを与えると言い、鳥や動物にも植物を食べ物として与えると言います。神が与える食べ物に関して、人間も鳥や動物もかわりません。ところが、現実は、人間は動物や鳥も食べるし、鳥や動物の中には他の鳥や動物そして人間を食べるものもいます。それなので、神が人間、動物、鳥の食べ物について言ったことは、天地創造当初の理想状態の時のもので、それが堕罪の後で変わってしまったというふうに考えられます。そこで興味深いのは、イザヤ書11章にエッサイの切り株から出てくる若枝が世界をこの世の権力者とは全く異なる仕方で治めるという預言があります。エッサイはダビデの父親なので、エッサイの末裔から出る若枝とはイエス様のことです。イエス様が世界を治めるというのは、これは今の世が終わった次の世に現れる天の御国のことです。そこでは猛獣たちも他者を傷をつけることなく家畜と一緒に仲良く並んで草を食べています。これは、まさに堕罪が起きる前の天地創造の理想的な世界が戻って来ることを示しています。つまり、動物たちも天の御国にいられるのです。

それならばなぜ、聖書は動物のことをもっと出さないのか、もっと踏み込んで動物の救いについて言わないのかという疑問を持たれるかもしれません。それはやはり、救いということは神の意思に反するということが人間に起こったために人間の問題になったことがあります。人間がどれだけ神の意思に反するものか示すものとして十戒が与えられました。人間が罪から贖われて神との結びつきを回復できるために、イエス様の十字架の死と死からの復活があって、洗礼と聖餐を受けることが必要になりました。これらは動物には関係のないことです。しかし、恵みの手段は人間だけに関係するものだと言っても、だからと言って動物が神から祝福を受けられないということにもならない。じゃ、動物の救いは何かと言うと、それは聖書にはそれ以上のことはないのでわからない。聖書は本当に人間の問題が中心なので、動物のことは書いてある以上のことは何も言えないのです。人間としては、書いていないことについては神に任せて、神の創造の業と祝福が動物に及んでいることを覚えつつ、自分たちの救いに専念するしかないのです。

3.神に造られた者よ、自信を持て!

以上、創世記の天地創造は、時間の流れについてみても受け入れるのに問題がないこと、人間と動物の立場についても神の創造に属するものとして同じ祝福に与っていることを見ました。もちろん、聖書は人間の問題に集中しているので動物のことは書いてある以外のことはわからず、神に任せるしかありません。人間は動物を「支配する」ことを神から委ねられていますが、その内容も注意深く考えないといけないこともわかりました。いずれにしても天地創造は、救いということを人間を超えて生態系にも関わらせていることを予感させるだけで十分です。それで、それは時代遅れなんかではなく、ある意味では今日ますます意味を持つものになっていると言えます。この世が、造り主がどう思っているなんか考える必要などない、自分の好きなようにやればいい、自分こそ自分の主人なのだから、神なんかにとやかく言われる筋はない、などと言ってきたら、私たちは自信を持って、否!否!否!と応じてよいのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

(後注)

ここで厄介なことがいろいろありますが、解決策を考え出すことも可能だと思います。

一つの厄介なことは、「お前は地を従わせよ」と言った後すぐ、今度は「お前たちは海の魚、空の鳥(etc)を支配せよ」と言います。つまり、「支配する」人間が単数から複数に変わるのです。そうなると、その前で「お前たちは産めよ、増えよ、地に満ちよ」と言っていたのは、人間プラス動物ではなく、やはり人間だけなのではないかと思えてきます。しかし、26節と27節では人間は単数扱いになったり複数扱いになったり目まぐるしいのです。27節で「神は自分に似せて彼を(אתו単数)造った。男と女とに彼らを(複数אתם)造った。」とあります。28節の「支配する」が複数なのは、26節で複数形で言われている文をそのままそこにコピー&ペーストしたことで起こったのではないかと思います。

もう一つ厄介なことは、「支配する」動詞のרדהですが、詩篇8篇で神が人間に他の被造物を支配することを委ねたというところで、このרדהを期待したのですが、なんとמשלでした。実はこのמשלは創世記1章18節で「太陽が日中を支配し、月が夜を支配するために」のところでも使われています。秩序だった支配を意味すると考えれば、詩篇72篇8節の正義の支配と重なりますが、משלは現在分詞で「暴君」の意味もあるということで、頭が痛いところです。今回は解決策の模索はここで休止します。またいつの日か考えなければならない時が来ると思います。

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