聖金曜日の説教「神の救いは今も成し遂げられたままである」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書19章17-30節

主日礼拝説教 2020年4月10日 聖金曜日

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

イエス様が十字架刑に処せられました。十字架刑は、当時最も残酷な処刑方法の一つでした。処刑される者の両手の手首のところと両足の甲を大釘で木に打ちつけて、あとは苦しみもだえながら死にゆく姿を長時間公衆の面前に晒すというものでした。イエス様は、十字架に掛けられる前に既に、ローマ帝国軍の兵隊たちに容赦ない暴行を受けていました。加えて、自分が掛けられることになる十字架の木材を自ら運ばされることになり、エルサレム市内から郊外の処刑地までそれを担いで歩かされました。そして、やっとたどり着いたところで無残な釘打ちが始ったのでした。この一連の出来事は、一般に言う「受難」という短い言葉では言い尽くせない多くの苦しみや激痛で満ちています。

イエス様の両脇には二人の本当の犯罪人が十字架に掛けられました。罪を持たない清い神聖な神の御子が犯罪者にされたのです。釘打ちをした兵隊たちは処刑者の背景や境遇に全く無関心で、彼らが息を引き取るのをただ待っています。こともあろうに、彼らはイエス様の着ていた衣服を戦利品のように分捕り始め、くじ引きまでしました。少し距離をおいて大勢の人たちが見守っています。近くを通りがかった人たちも立ち止って様子を見ています。そのほとんどの者はイエス様に嘲笑を浴びせかけました。民族の解放者のように振る舞いながら、なんだあのざまは、なんという期待外れだったか、と。群衆の中にはイエス様に付き従った人たちもいて彼らは嘆き悲しんでいました。これらが、苦痛と激痛の中でイエス様が目にした光景でした。

息を引き取る寸前、イエス様は「成し遂げられた」と述べました。そして、息を引き取りました。後で述べるように言葉はとても象徴的です。イエス様は十字架で死なれた時、何を成し遂げられたのでしょうか?このことを見ていきましょう。

この福音書を書いたヨハネはイエス様の母マリアとともに十字架の近くにいて一部始終を目撃していました。彼はこの時の様子をこう書いています。「この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた。こうして聖書の言葉が実現した」28節)。イエス様が「渇く」と言われたことが旧約聖書の預言が実現するというのは、詩篇6922節に次にように記されていることによります。「人はわたしに苦いものを食べさせようとし渇く私に酢を飲ませようとします」。十字架の近くにいた人たちが竿のようなものでイエス様の口元に酸いぶどう酒を含ませた海綿を差し出しました。その人たちはその時、自分たちが詩篇の預言を実行していると意識していたでしょうか?実は兵隊たちがイエス様の服を分け合ったことも預言されていました。詩篇221819節です。「骨が数えられる程になったわたしのからだを彼らはさらしものにして眺め、わたしの着物を分け衣を取ろうとしてくじを引く。」ローマ帝国の兵隊たちに旧約聖書の知識などなかったでしょうから、彼らは自分たちが預言を実行していることなど知らずにその通りのことをしていたのです。神の意思の前では人間の自由や意志などちっぽけなものにすぎないと思い知らされる出来事ではないでしょうか?

しかしながら、イエス様の受難と死によって実現した旧約聖書の預言はこれらのことに限られません。本日の旧約聖書の日課であるイザヤ書の箇所は、イエス様の受難と死の出来事だけでなく、その目的についても詳しく預言しています。イエス様の時代の数百年前に彼の受難と死について見事に言い当てている預言です。以下、イザヤ書5213節から5312節までの箇所から、イエス様の受難と死の目的がなんであったかを見てみましょう。

イエス様が「担ったのはわたしたちの病」であり、「彼が負ったのはわたしたちの痛み」でした。「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のため」でした。どうしてこのようなことが起きたかと言うと、それは、イエス様の「受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされ」るためでした。神は、私たち人間の罪をすべて彼に負わせたのです。人間の神に対する背きのゆえに、イエス様がかわりに神の手にかかって、命ある者の地から断たれたのです。イエス様は不法を働かず、その口に偽りもありませんでした。それなのに、その墓は神に逆らう者と一緒にされました。苦しむイエス様を神は打ち砕き、こうしてイエス様は自らを償いの捧げ物としたのです。神の僕であるイエス様が、「多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負ったのです。イエス様は自らをなげうち、死んで罪人のひとりに数えられたけれども、実はそれは多くの人の過ちを担って、背いた者のために執り成しをしたのでした。

このイザヤ書の預言から、イエス様が私たち人間のかわりに神から罰を受けて、苦しみ死んだことが明らかになります。それではなぜ他でもない神のひとり子であるイエス様そのような身代わりの死を遂げなければならなかったのでしょうか?私たちに人間に一体、何が神に対して落ち度があったというのでしょうか?「多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った」と言うが、私たちのどこが正しくないというのか?自分らしく生きようとして何が悪いのか?余計なお世話ではないか?また、イエス様の受けた傷によって私たちが癒されるというのは、何か私たちが病気を持っているということなのか?それは一体どんな病気なのか?いろんな疑問が生じてきます。しかしながら、聖書は教えます、私たち人間は天と地と人間を造られ、人間に命と人生を与えた造り主の神の前に正しい者ではありえず、落ち度だらけの者であると。しかも、イエス様の犠牲がなければ癒されない病気を持っているということも。どういうことか、以下に見ていきましょう。

2.

人間はもともと神聖な神の意思に沿う良いものとして神の手で造られました。しかし、創世記3章にあるように、「これを食べたら神のようになれるぞ」という悪魔の言葉が決め手となって、禁じられていたことをしてしまう。このように造り主である神と張り合いたいと思ったことが、人間が神に対して不従順となり、罪が人間の内に入り込む原因になったのです。この結果、人間は死ぬ存在となってしまいました。こうして、人間と造り主である神との結びつきが失われてしまいました。神との平和な関係が失われて、ある意味で敵対関係になってしまいました。

しかしながら、神は人間に対して、全部身から出た錆だ、勝手にしろ、と冷たく見捨てることはしませんでした。そうではなくて反対に、なんとか人間との結びつきを取り戻してあげようと考えたのです。そのためには、人間の内に宿って人間を神の意思と反対方向に向かわせようとする罪の力を無力にしなければなりません。しかし、人間は内に宿っている罪を自分の力で除去することはできず、その力を無力にする力もありません。そこで神が編み出した解決策は次のものでした。誰かに人間の罪を全部請け負ってもらい、その者を神の意思に反する全責任者にして、神罰を受けさせる。罪の償いは全部済んだと言える位に罰をその者に下し尽くす。そして人間は、この身代わりの犠牲を本当だと信じる時に、文字通りこの犠牲に免じて罪を赦された者となれる。そのようにして神との結びつきを回復させて敵対関係を終わらせ神との間に平和をもたらそう。そのような解決策を神は立てたのです。

それでは、誰がこの身代わりの犠牲を引き受けるのか?一人の人間に内在している罪はその人を死なせるに十分な力がある。それゆえ、人間の誰かに全ての人間の罪を請け負わせることは不可能である。自分の分さえ背負いきれず、死に至ってしまうのだから。この重い役目を引き受ける者として罪を持たない神のひとり子に白羽の矢が当たったのでした。

ところで、この身代わりの犠牲の役目は人間の具体的な歴史状況の中で実行されなければなりません。そうしないと、目撃者も証言者も記録も生まれず、同時代の人々も後世の人々も神の救いを信じる手がかりがなくなってしまいます。神のひとり子が人間の歴史状況に入って行くというのは、彼が人間の形を取るということになります。いくら、罪を持たない者とはいえ、人間の体と心を持てば、痛みも苦しみも人間と同じように感じることになります。しかし、彼が全ての人間の罪を請け負い、罰を受けなければ、人間は神との結びつきを回復するチャンスを持てないのです。

以上のように、神のひとり子であるイエス様は、おとめマリアから肉体を受けて人となって、天の父なるみ神のもとから人間の具体的な歴史状況のなかに飛び込んできました。時は約2千年前、場所は現在のイスラエルの地域、そしてこの地域に住むユダヤ民族がローマ帝国の支配に服しているという歴史状況の中でした。ところで、他でもないこのユダヤ民族が天地創造の神の意思を記した神聖な書物、旧約聖書を託されていました。この神聖な書物の趣旨は全人類の救いということでしたが、ユダヤ民族は長い歴史の経験から、書物の趣旨を自民族の解放という利害関心に結びつけて考えていました。まさにそのような時、イエス様が歴史の舞台に登場し、神の意思について正しく教え始めました。また、無数の奇跡の業を行って、今の世が終わった後に到来する神の国がどんな世界であるか、その一端を人々に垣間見せました。イエス様の活動は、ユダヤ教社会の宗教エリートたちの反発を生み出し、それがやがて彼の十字架刑をもたらしてしまうこととなりました。しかし、まさにそれが起こったおかげで、神のひとり子が全ての人間の罪を請け負ってその罰を全て身代わりに引き受けることが具体的な形を取ったのでした。

このようなわけで、十字架に掛けられたイエス様というのは、神が人間との結びつきを回復しようとした計画が成就したことを示しているのです。人間に向けられるべき神の怒りや罰は全てイエス様に投げつけられました。人間を死ぬ存在に陥れていた罪は神がイエス様ともども刺し貫いてしまいました。このようにして人間の罪の償いが神に対して果たされて、罪と死は人間に対する優位性を失いました。このようにして神の人間救済計画はひとり子イエス様を用いて実現されました。あとは、この救いの実現が時空を超えてこの現代の日本に生きる自分のためにもなされたのだとわかり、イエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受けると、この救いはその人の内になだれ込んできます。こうしてその人は神との結びつきが回復してその結びつきを持ってこの世を生き始めます。順境の時も逆境の時もいつも神から良い導きと助けを得て、万が一この世から別れても、復活の日に目覚めさせられて神の御許に永遠に迎え入れられます。

3.

終わりに、このイエス様が最後に述べた言葉「成し遂げられた」について、一つ不思議なことをお話しします。ギリシャ語で書かれたヨハネ福音書ではこの言葉はテテレスタイτετελεσταιと書かれています。イエス様はこの言葉を口にした時はギリシャ語ではなくアラム語だったでしょう。それがどんな言葉なのかは記録がないのでわかりません。アラム語の言葉を十字架の近くにいて耳で聞いたヨハネが後に、イエス様の全記録をギリシャ語で書いた時に翻訳したのです。このギリシャ語の言葉の正確な意味は、「かつて成し遂げられたことが現在も成し遂げられた状態にある」という意味です(アオリストετελεσθηでなく現在完了τετελεσταιであることに注意)。つまり、「成し遂げられた」とは、神の救いがイエス様の十字架で実現したのであるが、それはそれでハイ終わりましたということではない。ヨハネが何十年後にこの記録を書いている時にも「成し遂げられた」状態が続いているということであり、さらに彼の書物を手にして読む者にとっても「成し遂げられた状態」が続いているということです。まさに時空を超えて私たちにとってもです。ヨハネの翻訳は真に的確であり、父なるみ神の意思に適うものです。なぜなら、神の意思は、彼が造られた人間の誰もがひとり子を用いて実現させた救いを受け取ってほしいというものだからです。そしてこの意思は2000年前も今も変わらないのです。神の救いは現在も「成し遂げられた状態」にあるのです。今も新鮮なものです。それなので、ゴルゴタの十字架上のイエス様というのは、まだ救いを受け取っていない人たちにとっては、人生に新しい息吹を与えて新しい命を生きられるようにするものです。既に受け取った人たちには、かつて与えられた新しい命が今も変わらず新しいままでいることを忘れさせない原点です。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

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