説教「見よ、これぞ世の罪を取り除く神の小羊」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書1章29-42節 

主日礼拝説教 2020年1月19日顕現後第二主日

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1.

「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」イエス様のことを洗礼者ヨハネはそう呼びました。小羊とは可愛らしいですね。皆さんも、動物園や農村で見たことがあれば、白い毛の衣に身を包み、まだ大人の羊になっていない段階で親羊に寄り添うようにしている姿を思い浮かべただけで純で無垢な感じがします。それが、小羊は小羊でも世の罪を取り除く小羊で、しかもイエス様がそれだと言う。それは一体どういうことか?世の罪を取り除くとは何なのか?世の中には悪いことが沢山ある。人を傷つけたり騙したり、自分のことだけを優先して他の人のことを顧みないということが沢山ある。それらが犯罪までになって法律に基づいて処罰されるということが沢山ある。「世の罪を取り除く」というのは、そういう悪や犯罪を取り除くということなのか?イエス様が取り除きをされるのか?される時、小羊のようにされるというのは、どういうことか?悪や犯罪を取り除くのならば、例える動物としてはライオンとかもっと雄々しいものを考えた方がピッタリなのでは?けな気で可愛らしいが弱々しい小羊に例えるのはどういうことなのか?洗礼者ヨハネの言葉は、字面だけ追えば、分かったような気になりますが、実は考えれば考えるほどわからなくなります。 

そういうわけで、本日の説教はこの「イエス様は世の罪を取り除く神の小羊」ということを徹底的に見ていきたいと思います。

 

2.

 「神の小羊」と言っているので、まず「神」について考えます。聖書の話ですので、あくまで聖書の神です。聖書の神は、何と言っても、天と地とその間にあるもの全て、見えるものと見えないもの全ての造り主、創造主です。私たち人間も神の手に造られたというのが聖書の立場です。人間一人ひとりに命と人生を与えた。しかも、母親の胎内に宿った時から、私たちのことを知っておられた。そのことが旧約聖書と新約聖書の至るところで言われています。本日の旧約の日課イザヤ49章1節でも、「主は私が胎内にいる時から声をかけ、母のお腹の中にいる時から私を名前で呼んでいた」(後注)と言っていますし、5節でも「母の胎内にいる時から私を御自分の僕として形作られた」と言っています。胎内にいるときからこうですから、生まれ出てきた後も、私たちのことをよく見て全て知っています。私たちは気づきませんが、私たちが何をしているか、何を考えているか、神は全てお見通しです。人には隠し立て出来ても、神に対しては出来ません。何しろ、私たちの造り主だからです。

聖書の神は造り主であるほかに、自分の意思をはっきり示される方でもあります。十戒という掟があります。それは、造り主である以上は、その方が拝む対象であるとか、その方の名を汚すようなことをしてはいけないとか、週一日は仕事の手を休めてその方に心を傾ける日とせよとか、神との関係でこうしろああしろという掟があります。まだこの他に、父母に敬意を払えとか、殺すなとか、自分のであれ他人のであれ夫婦関係を損なうことはするな不倫などもってもほかとか、盗むなとか、他人を陥れるようなことは言ってはならないとか、他人に属するものを妬んだり自分のものにしようとしてはいけない、というふうに人間との関係でこうしろああしろ(というか、こうしてはいけない、ああしてはいけない)という掟があります。これらの掟に従っていれば、神の意思に沿っていて、神の目に適うということになります。

ところが、人間ですから完全ではなく弱さや隙があります。それで、掟を破ってしまったらどうなるか?神の意思に反し、神の目に適わなくなってしまい、神の失望と怒りを買って罰を受けてしまう。それで、神の意思に反したことの償いをしなければならなくなります。償いを神が受け入れれば、罪を赦してもらったことになります。それで、神との関係が改善されます。私たちは悔いていますと言うのなら、その気持ちを動物を生贄に捧げることで表しなさいということになりました。旧約聖書のレビ記の4章をみると、掟を破ったのが祭司だったり、共同体全体だったり、その代表者だったり、個人だったりに応じて、牛や山羊を犠牲の生贄に捧げることが定められています。生贄を捧げると神から罪が赦されるとあります。まさに罪の償いのための生贄です。レビ記の16章をみると、第七の月の10日に贖罪日という国民的な儀式の日が定められ、この時も罪の赦しを得るために動物の生贄が捧げられます。

ここで、神に背いたのは人間だから人間が罰せられるべきで、動物を生贄に捧げるなんてちょっと身勝手で動物が可哀そうと思われるかもしれません。しかし、人間が神から赦しを得てもう一度やり直すことができることが目指されているのです。罰を受けて死んでしまったら、やり直しなど出来ず、元も子もありません。人間が死なないでやり直しできるためには誰かに代わりに死んでもらわないといけない、神の意思に背くというのはそれくらい命に係わる重大なことだというのです。

聖書の世界の外を見ても、人間が何か超自然的な相手に捧げものをするということはあります。例えば、何か不幸が起これば、そういう超自然的な相手の怒りを買ったとか祟られたなどと解釈して、その相手を宥めたりご愛顧を引き出すために、動物の生贄とまでは行かなくとも、何か捧げものをしたり、お祓いや清めの儀式をします。もちろん、不幸が起こる前に、起こらないようにと前もってそういうことをします。旧約聖書みたいに動物を犠牲の生贄に供することをしない宗教であれば残酷ではないと言えるかもしれません。しかし、その場合、神の意思が重大なものとしてある、ということはどうやってわかるでしょうか?それに背くことは命に係わる重大なことなのだ、というような重大さはどうやってわかるでしょうか?

こういう、創造主というものがあって人間はその意思に背くと創造主との関係がだめになる、それで背いてしまったら償いをして関係修復をしなければならないということが聖書の神と人間の間にあります。また、聖書の世界の外でも、不幸が起きないように超自然的な相手を宥めるということがあります。こうしたことは現代を生きる人たちにとっては、未開の人間のやることで馬鹿馬鹿しいものに見えるかもしれません。でも、そう思っている現代人でも、これをしないと、霊か何かの機嫌を損ねて良からぬことが起きる、などと言われたら、やはり不安になってやるのではないでしょうか?

 

3.

 聖書の中で犠牲の生贄を捧げるというのは、他の宗教と同じように不幸が起きないようにするという側面もあります。しかし、それよりも、もっと深い側面があります。神に造られた自分と造り主との関係はうまくいっているのか、関係がしっかり保たれているのか、ということを見つめ直す時、自分は果たして神の意思に沿うように生きているのか、と自分を神の意思に照らし合わせて見つめ直します。自分は神をしっかり拝んでいるか、その名を汚すようなことはしていないか、週一日を神のことに心を割く日としていているか、父母に敬意を表しているか、殺していないか、自分のにしろ他人のにしろ夫婦関係を守っているか、盗んでいないか、他人を陥れるようなことは言っていないか、他人に属するものを妬んだり自分のものにしようとしていないか、それらの型にしっかりはまっているかどうかということがとても大事になります。不幸が起きませんように、ということよりも、神の意思に沿う人間でいられますように、というのが大事なのです。造り主の意思に背くというのは、造り主と一緒にいられなくなることを意味します。造り主あっての自分です。造り主と離れ離れになることほど恐ろしいことはありません。それなので、痛みや不幸を伴うものであっても、神の意思に沿うように生きることが出来るのであれば、それでいいのだ、という心構えになります。

動物の生贄の話に戻りましょう。イスラエルの民は罪の赦しを得るために律義に動物の生贄を捧げ続けました。ところが、神との関係を保つ方法として、それは持続可能なものでないことが明らかになりました。イスラエルの民が罪の赦しのためと言って生贄を捧げても、神の意思への背きは繰り返されてしまいました。贖罪の儀式が形式的、表面的になって、儀式を行った人の心は何も変わっていないということが明らかになっていきます。心は変わっていなくても儀式をこなせば赦されるのだというようことは、聖書の世界に限りません。はじめは心をこめて儀式が華やかで大掛かりなものになったかもしれません。それが、心はこもっていないくせに、儀式が華やかで大掛かりなこと自体が心がこもっていることの証しのようになるということがあると思います。そういう心の変化を伴わない儀式を目の当たりにした神ははっきりと、生贄を捧げても何の意味があるのか、そんなものを持ってこられてもうんざりだ、と言うようになります(イザヤ書1章11~17節、エレミア書6章20節、7章21~23節、アモス書4章4~5節、21~27節などにあります)。つまり神は、外見上だけでは意味がない、内面が変わらなければ意味がない、と言われるのです。このことは、後にイエス様が、十戒の掟は外面上守れても、内面までも守れなければ守ったことにならないと教えたことに重なります。例えば、人を殺していなくても、罵ったら同罪であるとか、不倫をしていなくても、ふしだらな目で異性を見たら、同罪である、と。

神は、御自分が造られた人間がなんとかして自分の意思に沿うようになって、造り主である自分と一緒にいることができるようになるために、つまり心が変わるように、何か別の方法を採らなければならなくなりました。それは、イザヤ書53章で予告されました。そこでは、人間の罪を自ら負って自分を罪の償いの捧げ物にして命を捨てる「主の僕」なる人物について述べられています。彼は屠り場に引かれる小羊のようであったと言われています。そして、このイザヤ書の予告は全てイエス様が具体化させました。彼は罪となんのかかわりもない、神聖な神のひとり子だったのに、私たち人間の罪を全部引き取って、それを全部十字架の上にまで運び上げ、そこで人間の罪の責任は全部自分にあるかのように神の罰を私たちに代わって受けられたのでした。実にイエス様は、かつての動物の生贄のように、人間の罪を償う犠牲の生贄となったのでした。

しかも、犠牲に供されたのは動物ではなく、神聖な神のひとり子でした。これ以上の犠牲はないという位の完璧な犠牲でした。それゆえ、神に罪を赦して頂くための犠牲はこれで完了しました。エルサレムの神殿で行われていた動物を生贄に捧げる儀式は根拠を失いました。神聖な神のひとり子が人間の罪を償う犠牲の生贄になった、これは本当のことであり、そのひとり子イエス様は本当に救い主だった、そう分かって、彼をそのような者と信じると、神から彼の犠牲に免じて罪の赦しを頂けるようになりました。そこで聖書の世界の外に対しても、不幸の原因を取り除こうとして超自然的な相手のご機嫌を宥めようと捧げものや儀式をしている人たちに、天地創造の神のご機嫌を未来永劫に宥める捧げものがなされた、それがイエス様である、彼を救い主と信じれば、天地創造の神がいつもそばについていてくれるようになる、と言うことができるのです。

 

4.

 かつて動物の生贄を捧げていた時は、儀式が外面的、表面的なものになって心の変化が伴わなくなってしまい、神の批判の的になったと申しました。それでは、イエス様を救い主と信じて神から罪の赦しを頂いたら、心の変化はしっかりあって神の意思に沿うように生きることが本当にできるのでしょうか?

それは本当にできます。まず、イエス様が十字架の上で死なれた時、罪が力を失ったことを知りましょう。動物の生贄の場合は、毎年捧げなければならないものでしたので、それで得られる罪の赦しは有効期限というか、賞味期限があったことになります。動物の贖罪の効力は限定的でした。翻って、イエス様の犠牲は未来永劫に渡って罪が赦される桁違いの償いでした。罪は本当に人間を神から引き離す力を失ったのです。それだけではありません。一度死なれたイエス様を父なるみ神は死から復活させました。これで死を超えた永遠の命があることが示されました。しかもその時のイエス様の有り様は、永遠の命を包み込む復活の体でした。遠い将来、死者の復活が起こる時、復活させられる者はこういう有り様なのだということが示されたのです。なんと楽しみなことではありませんか!

こうした、罪が力を失ったこと、永遠の命と復活の体というものが、自分のものになるということは、これは頭で考えて理解しようとしても、受け取ることは難しいです。それらのものは、あまりにも大きすぎて、理解という小さな門を通り抜けることは出来ません。あたかも、駱駝が針の穴を通過できないようにです。それでは、これらのものを受け取って自分のものに出来るためにはどうしたらよいのか?そのために洗礼があります。ルター派の立場で言えば、正当に按手を受けて牧師として立てられた者が儀式の時に水に対して聖書の御言葉を語ると、水はただの水でなくなって洗礼を実現する手段になります。それを用いて洗礼をすると、罪が力を失ったこと、永遠の命と復活の体がすっと自分のものになります。まるで駱駝が針の穴を通ったようにです。正確を期して言うと、永遠の命と復活の体に変わるのは将来の復活の日ですので、洗礼ではそれが約束されるということです。洗礼を通して、永遠の命と復活の体をゴールにする道に置かれて、その道を歩み始めるということです。

このように洗礼は本当に奇跡的なことですが、聖餐式も同じです。正当に按手を受けて牧師として立てられた者が儀式の時にパンと葡萄酒に対して聖書の御言葉を語ると、パンと葡萄酒はただのパンと葡萄酒でなくなって聖餐を実現する手段になります。これを「私は洗礼を通して罪が力を失ったことと、永遠の命と復活の体を受け取りました」と洗礼の賜物をわかっている人が聖餐を受けると、それらの受け取ったものはしっかり根をおろします。罪は力を失ったままで、永遠の命と復活の体に向かう道を踏み外さずに歩み続ける力を得ます。

このように生きる者にとって、神の意思に沿うというのは体の一部になっています。それで、神の意思に背くというのは、体や心に傷がつくようなもので、健康が失われたのと同じです。そこで、洗礼を受けてイエス様を救い主と信じる者はもう神の意思から離れることが全くないのか、と問われると、やはりあると言わざるを得ません。それは、肉や心の弱さのためであり、また自分の中の罪は力を失ったとは言っても、この世には人間と神の間を引き離そうとする力が沢山働いているという現実があります。隙があれば、いつでも弱さにつけこまれます。そこで、神の意思に沿わないことがあると気がついたら、すぐ神に赦しを願います。すると神は私たちの心の目をゴルゴタの十字架にかけられた主に向けさせて下さいます。そしてこう言われます。「お前の罪はあそこで償われている。お前が犯した罪にはもうお前を私から引き離す力はない。わが子イエスを救い主と信じるお前の信仰とイエスの犠牲に免じてお前は罪を赦され、私としっかり結びついている。だから安心して行きなさい。もう罪を犯さないように。」神はそうおっしゃって下さるのです。

 

5.

 兄弟姉妹の皆さん、イエス様は真に世の罪を取り除く神の小羊です。私たちの罪を償い、私たちを罪の支配から贖い出して下さった犠牲の小羊です。旧約聖書の世界の犠牲の生贄は人間が準備するものでしたが、この小羊は神が準備したので真に「神の小羊」です。また、以前の犠牲では罪の力を消すことはできませんでしたが、この犠牲はそれを消すことができました。それが神聖で完璧な犠牲だったからでした。それで真に「神の小羊」です。この小羊の償いと贖いの業により、罪からは神と人間の間を引き裂く力が失われて、永遠の命と復活の体に向かう道が人間に開かれました。イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼により、罪が力を失った状況に置かれて、その道を歩む人たちが出てきました。罪は完全に面目を失い、世の罪が取り除かれた状況が打ち立てられました。しかし、まだ大勢の人が罪が無力の状況に置かれていません。永遠の命と復活の体に至る道も歩んでもいません。せっかく、その状況と道が打ち立てられたという現実があるにもかかわらず。問題は、人々がその状況の外側に留まることをやめて、その中に入って来れるかどうかです。それで、福音伝道の必要性は決してなくなりません。「世の罪を取り除く」と言う時、「取り除く」はギリシャ語原文では現在形なので常態として行っているということです。2000年経った今も「取り除く」ことは続いているのです。「取り除いて下さった」と言ったら、過去か完了の形にしなければなりませんが、それは気の早い話です(後注2)。それなので今も世の中には神の意思に反することが沢山あるわけで、その意思に沿うように世を変えていこうとする働きが続けられていきます。神の意思に反することをやめてそれに沿うようにしようと方向転換する人たちはいつも現れてきます。神の意思に沿う生き方をすることは、反する生き方からあざ笑われますが、「かの日にはこの自分も復活させられるんだ」という希望を持つ人にはこの世の嘲りなどどうでも良いことです。兄弟姉妹の皆さん、真にイエス様は「世の罪を取り除く神の小羊」です!

ιδε ο αμνος του θεου ο αιρων την αμαρτιαν του κοσμου.

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

(後注 ヘブライ語分かる人に)細かいことかもしれませんが、1節でも5節でも前置詞はבではなく、מןが使われています。大学のヘブライ語の先生がこういう細かいことをうるさく言う人だったので。

(後注2 ギリシャ語分かる人に)これをアオリストの分詞を用いて、ο αρας την αμαρτιαν του κοσμουにすれば、「世の罪を取り除かれた」ですが、「取り除かれた」のは将来のことでもよいわけで、その場合は「(将来)取り除きを完了させる」という意味になります。でも、ここはαιρων現在の分詞ですので、常態として「取り除いている」です。

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