説教 「聖書からみた『本当に生きること』と『本当に死ぬこと』」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書15章1ー17節、エゼキエル37章1ー14節

主日礼拝説教 2019年11月3日(全聖徒主日)

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1.

 今日は全聖徒主日です。毎年お教えしていますが、キリスト教会では古くから11月1日を、キリスト信仰の故に命を落とした殉教者を聖徒とか聖人として覚える日としてきました。加えて11月2日を、キリスト信仰を抱いて亡くなった人を覚える日としてきました。ラテン語で、殉教者を覚える日はFestum omnium sanctorum、信仰者を覚える日はCommemoratio omnium fidelium defunctorumと呼ばれてきました。フィンランドでは、これら2つを合わせて11月最初の土曜日を「全聖徒の日」として両者を覚える日にしています。

日本のルター派教会のカレンダーでは11月1日が「全聖徒の日」と定められ、今年はこの間の金曜日でした。それに近い主日が「全聖徒主日」となり、今日11月3日がそれです。「全聖徒の日」に11月1日を選んでいるところを見ると、ラテン語の殉教者中心の伝統に立っているようにみえます。それでも多くの教会では私たちのもとを旅立った信仰の兄弟姉妹の遺影を飾ることが行われています。それで、フィンランドのように殉教者と信仰者両方を覚える日として定着しているのではないかと思います。

ここで、亡くなった方を「覚える」ということはどういうことかを注意しなければなりません。というのは、こうして遺影を飾っていると、さも亡くなった方が今見えない形で私たちと一緒に礼拝を守っているかのような感覚を持たれる方がいらっしゃるかもしれないからです。ルターが教えていますが、人は死ぬと、この世が終わりを告げて死者の復活が起きる日までは、神のみぞ知る場所にいて静かに眠ります。この世の終わりと死者の復活の日が来たら目覚めさせられて、神の目に相応しいとされた者は栄光に輝く復活の体を着せられて、天の御国の祝宴に迎え入れられます。それなので、復活の日まではただ眠るだけです。イエス様も、死んだ者を蘇らせる奇跡を行った時、「この者は死んではいない。眠っているだけだ」と言って蘇らせました(マルコ5章39節等共観箇所、ヨハネ11章11節)。

まことにキリスト信仰にとって、「生きる」とはこの世で肉の体を着て生きる日々だけではありません。復活の日に神の栄光に輝く体を着て生きる日々もあるのです。これら両方を合わせて生きることがキリスト信仰の「生きる」です。それから考えると、この世から去る「死」はまだ本当の死ではないことになります。本当の「死」は、この世で肉の体を着て生きたら、それで終わりということで、その後は輝く体を着せられることもなく祝宴に迎え入れられることもないことです。それでは、どうなるのか?本日の福音書の箇所のイエス様の言葉を借りれば、「枝のように外に投げ捨てられ枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう」(ヨハネ15章6節)ということです(後注1)。

 このように、亡くなった方は、復活の日まで安らかに眠っているとすれば、私たちを見守るとか導くとか助言するということはありません。私たちを見守り、導き、助言をするのは、私たちを造られて私たちに大事な命と人生を与えて下さった造り主の神以外にはいません。今見えない形で、礼拝を守るために集まった私たちと一緒にいるのは、他でもないこの神です。

そういうわけで、亡くなった方を「覚える」というのは、その方と共に過ごした日々を何ものにも換えがたい大切なものとして心に抱くことです。そして、そのような日々とそのような方を与えて下さった神に絶えず感謝し、御心でしたら復活の日に再会できますように、と神に祈ることです。このように過去の思い出を大切にして、それを神に感謝して将来の希望の日のことを神に委ねて今日を生きていく、これがこの世を生きるキリスト信仰者の亡くなった方との関わり方です。

昨年、日本福音ルーテル教会の東海教区の信徒大会で復活の信仰について講演した時、参加者から「全聖徒主日」を祝ってもいいのか、という質問がありました。私は、以上述べたことをわきまえて、亡くなった方ではなく父なるみ神を拝めば問題ないと答えた次第です(後注2)。

全聖徒主日の意味を考えると、復活や終末というキリスト教の死生観の核心に触れることになると言えます。死生観という言葉には「死」と「生」の両方が含まれています。生を考える時、死というものを切り離さないで考えるということです。先ほど、キリスト信仰においてはこの世を去る死は一時の眠りに入る段階であって、本当の死はその後に問題になってくると申しました。また、人間にはこの世の肉の体を持って生きる日々だけではなく、神の栄光に輝く復活の体を持って生きられる可能性があることも申しました。キリスト信仰においては「本当に生きる」というのは、この二つの生きることを総合したものだとも。「本当に生きること」と「本当に死ぬこと」の二つのことについて、本日の日課の個所は三つとも深めてくれます。ただ、時間の関係で解き明かしはエゼキエル書37章とローマ6章が中心になることをご了承ください。

 

2.

 本日のエゼキエル書の箇所にある出来事は、紀元前500年以上も前のことです。かつて神に選ばれた民として誇らしげなイスラエルの民でしたが、次第に指導者も国民もこぞって神の意思に背く生き方をし続け、その結果ついに神から罰として強大なバビロン帝国を遣わされてしまい、その攻撃を受けて滅びてしまいました。国の主だった者たちは捕虜として異国の地バビロンに連行されてしまいました。世界史の教科書の古代オリエント史のところに「バビロン捕囚」として登場する有名な歴史的な事件です。連れて行かれた人たちの中に預言者エゼキエルがいました。本日の箇所は、エゼキエルが神の霊に導かれてある谷に連れて行かれ、そこに無数の枯れた骨を見る。ところが、それに肉や皮膚がついて人間として生き返り出す光景を見せつけられたという出来事です。なんだかハロウィーン向けの話みたいです。渋谷の交差点に集まる人たちは興味を持つでしょうか?実はこのエゼキエルの出来事には、紀元前500年代当時を生きる人々にとって有する意味と、歴史を越えて現代を生きる私たちにとって有する意味の二つの意味があります。当時の人々にとって有する意味がわかると、私たちにとって有する意味もわかってきます。これから、そのことを見ていきましょう。

 37章11節を見ると、天地創造の神はなぜエゼキエルにこのような光景を見せたのか、その理由が言われています。この大量の枯れた骨はバビロン捕囚の憂き目にあったイスラエルの民を象徴している。国滅びて自分たちは荒野に放置された枯れた骨そのものだ、希望はなく消滅するしかない、などと嘆いている。それに対して神は、否、お前たちは必ず祖国に帰還できる、と約束する。神は、まさに約束を本当に実現する力があることを示すために、枯れた骨が生身の人間になって生き返る様子をエゼキエルに見せたのです。ここまで見せつけられたら、神の約束を信じないわけにはいかないでしょう。

 このように、この光景は国が滅びてしまった民が復興するのだと確信させるために見せつけられたのでした。同時にここには、人間というものは神に造られた被造物であるという、聖書の人間観がよく出ています。そこにも注意しなければなりません。8節に言われるように、骨に肉や皮膚がついてもまだ生きてはいませんでした。なぜなら、霊がなかったからです。神は霊を「与える」と言います。新共同訳では「吹き込む」ですが、ここではヘブライ語の原文に即して「与える」にします(後注3)。神は霊を次のように与えました。エゼキエルに「霊に預言せよ」と命じ、霊に言うべき言葉を指示します。その内容は霊が風のように四方から来てこれらの肉の塊に吹きつけるということです。(「霊に預言せよ」というのは(הנבא)、辞書によれば「預言者として霊に語れ、命じろ」です。つまり「預言者の権威を持って命じろ」ということです。)その通りに言うと、横たわっていた肉の塊は霊を受けて生き返ります。ここで霊が風のように言われますが、これはヘブライ語の言葉רוחが「霊」と「風」の両方を意味することによります。これは絶妙な言葉だと思います。風は空気の移動ですので目には見えません。木の枝や葉がざわざわなって風の力が働いたのを見て、吹いたことがわかります。霊も人間の目には見えません。その力が働いた結果を見ることしかできません。このことは、イエス様もヨハネ3章8節の有名な「風は思いのままに吹く」と述べているところで教えています。

以上から、人間が生きるためには神が与える霊を受けなければ生きられず、霊がなければ肉体はあってもただの塊にしかすぎないというのが聖書の立場であることが明らかになります。ここで一つ付け加えますと、霊がなければ動かないのは肉体だけではありません。人間には手足、目耳口、内臓や血管のような体の部分や器官の他に、感情や気持ちを生み出す「心」もあります。「心臓」と聞けば、それは血液を送り出すポンプのことを言うとわかります。血液循環に何か問題があって痛みを感じれば、「心臓」が痛いと言います。その時「心」が痛いとは言いません。「心」が痛いと言ったら、ジェスチャーとして心臓の部分に手をあてるかもしれませんが、それは気持ちや感情の問題で血液循環の問題ではありません。そういう心や精神の部分も、肉体と同じように、霊を受けないと作動しないのです。このように、人間が神に造られたというのは、肉体や心や精神の部分を造っていただいただけでなく、最後の仕上げとして霊を与えて下さったということです。

さて、霊とは人間を肉体や心や精神を持って生きるものにする決め手ということがわかりました。ところが、本日の箇所をよく見るともう一つ別の霊があることに注意しなければなりません。実は、これはヘブライ語の原文を見ないと気づくことができません。原文に即して言うと、14節で神は「また、わたしがお前たちに私の霊を与えると、お前たちは生きる」と言われます。新共同訳では「吹き込む」ですが、ここも原文は「与える」です。それよりも重要なことは、新共同訳では単に「霊を吹き込む」と言っていますが、原文では「私の」霊を与えると言っていて、与えるのが「神の霊」であることがはっきりしています。14節の前までは、枯れた骨の生き返りに与えられる「霊」は全部、「私の」はなく単に「霊」だけです。何が違うのか?14節で焦点になっていることを見るとわかります。それは枯れた骨の生き返りではなくて、イスラエルの民の祖国帰還です。骨肉は霊を与えられて生き返ったわけですが、民は「神の霊」を与えられて帰還するというのです。そうなると、二つの異なる霊があることになります。両方とも神から与えられるものですが、一つは人間を生きるものにする時に与えられる霊、もう一つはイスラエルの民が祖国帰還と復興を遂げる時に与えられる神の霊です。神が与えられる霊には二つあるということは、どう理解したらよいのでしょうか?

 

3.

 理解の鍵は、使徒パウロが「ローマの信徒への手紙」8章14‐16節で次のように教えているところにあります。以前お教えしたことがありますが、少しおさらいしてみましょう。

「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になってあかしして下さいます。

いろんな霊が出て来るので、こんがらがってしまいますが、解きほぐしていきましょう。3つの霊があります。まず「神の霊」、それは人間を「神の子とする霊」とも言われます。それから、人間を「奴隷として再び恐れに陥れる霊」、そして、「わたしたちの霊」というのもあり、それは「神の霊」と一緒になって私たちが神の子であることを証しすると言われます。

まず、「神の霊」について。これは、父、御子、御霊の三位一体の神の御霊つまり聖霊を指します。人間は、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、この神の霊、聖霊を受けます。聖霊を受ける受けないで何が違ってくるかと言うと、こういうことです。もし人がイエス様のことを現在のイスラエルがある地域で2000年前に活動した歴史的人物だと言ったら、その人には聖霊は働いていません。ところが、イエス様のことを歴史的人物のみならず、彼のゴルゴタの十字架の死や死からの復活というのは現代を生きる自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様は自分の救い主だと信じるというようになれば、それは聖霊が働いたからということになります。

これに対して「人を奴隷として再び恐れに陥れる霊」とは、人間に罪を吹き込んで、人間を神聖な神から切り離して神罰を受ける存在にしてしまった悪魔のことです。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は、この霊から守られています。これが、本日の使徒書の日課「ローマの信徒への手紙」6章の中で使徒パウロが、洗礼を受けた者は「罪に対して死んでいる」と言っていることなのです(2節)。「罪に対して死んでいる」と言うのはどういうことか?当教会の聖書研究でローマ書を学んでいますが、既に終わったところですが、これもおさらいしておきましょう。

パウロは5章の終わりで次のように述べました。神の意思を表す律法がある。律法は、人間が罪を持つ存在であることを暴露する。しかし、神のひとり子のイエス様が十字架の上で神罰を受けることで、人間の罪を全て人間に代わって神に対して償って下さった。だからイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、罪の償いを純白な衣のように頭から被せられて、神から罪を赦された者に見なされるようになった。つまり罪の赦しが神からの「お恵み」として与えられた。それなので、律法を通して罪がますます暴露されようとも、罪の赦しのお恵みは常にそれを上回ってある。以前は罪が人間を永遠の死に陥れていたが、イエス様の十字架と復活の出来事の後は罪の赦しのお恵みが人間を永遠の命に導くようになった。

そのように教えると今度は、罪の赦しがお恵みとしてあるのなら別に罪にとどまってもいいじゃないか、どうせ赦されるのだから、などと言う人も出てくる。パウロは、勘違いするな!と反論します。ここで、「我々キリスト信仰者は罪に対して死んでしまったので、罪にとどまって生きるなど不可能なのだ」と言って、ここで「罪に対して死んでいる」ということが出てきます。さあ、どういうことでしょうか?パウロは、そのことが洗礼の時に起きたと言います。どういうふうに起きたかと言うと、人間は洗礼を受けることで、イエス様の死に結びつけられると同時に彼の復活にも結びつけられる。つまり、洗礼にはイエス様の十字架の死と死からの復活が表裏一体としてあって、受けた人はこの二つに結びつけられる。イエス様の死に結びつけられると、我々の内にある罪に結びつく古い人間が十字架につけられて無力化する。そうなると、我々は罪にお仕えする生き方から離脱する。さらにイエス様は死から復活されたので、もう死は彼に力を及ぼせない。死が力を及ぼせないというのは、人間を死に陥れようとする罪も力を失ったということだ。イエス様が十字架で死なれた時、それは罪と死が彼に勝ったのではなく、事実は全く逆で、イエス様の死は罪と死が壊滅的な打撃を受ける出来事であったのだ。日本語訳で「罪に対して死なれた」というのは、このように罪に対して壊滅的な打撃を与えて死なれたということです(後注4)。そのことが十字架という一度限りの出来事をもって未来永劫にわたって起きたというのです。さてイエス様は罪に対して壊滅的な打撃を与えて死なれた後、復活されました。それからは生きることは、神の栄光を現わす器として生きることになります。このように、罪に壊滅的な打撃を与えて神の栄光を現わす器として生きることは、イエス様だけでなく、洗礼を受けたキリスト信仰者にもそのまま当てはまる、とパウロは教えます。

 先ほどのローマ8章に戻ります。ここでのパウロの教えで興味深いのは、キリスト信仰者の内には二種類の霊があるということです。一つは先ほど申し上げた神の霊、聖霊ですが、もう一つは、信仰者が神の子であることを聖霊と一緒に証する「わたしたちの霊」です。これは、私たちが肉体や心や精神を持った生き物になるために神から与えられる霊です。キリスト信仰者もそうでない者も、生き物として持っていなければならない、神から与えられた霊です。それがキリスト信仰者になると、聖霊がその上に被せられるように与えられます。聖霊がなくてただの霊だけでも、もちろん生きられます。肉体や心や精神を用いた活動を行うことが出来ます。ただ、イエス様が歴史上の人物とは知ってはいても、自分の救い主にはなっていません。ひとり子を犠牲にすることをいとわないくらい人間のことを思って下さった神を慈愛に満ちた父であるということもわかりません。神がひとり子イエス様を犠牲にしてまでもたらしてくれた罪の赦しもまだ受け取っておらず、罪が償われたという解放の喜びや安堵もありません。さらに、人間を罪の支配下に留めたがる悪魔の霊に対して不注意で隙だらけになってしまいます。

 

4.

 以上、人間は生き者になるために天地創造の神から「霊」を与えられなければならないこと、さらに神のことを慈愛に満ちた父親と抱ける「神の子」となるためには「神の霊」、「聖霊」が与えられなければならないことが明らかになりました。この二つの異なる霊は、エゼキエル書の二つの霊に重なります。37章の1節から10節までは、枯れた骨が生身の人間に生き返ることを言っていました。そのために神から与えられる霊が必要とされました。この光景を見せられたエゼキエルは、枯れた骨みたいになったイスラエルの民ではあるが、神はこれを生き返らせて下さる、つまり祖国に帰還させて復興させて下さると確信できました。そして、それは実際に紀元前538年に歴史的出来事として実現しました。37章の14節で「私の霊」として出て来るのは、祖国に帰還するイスラエルの民が受ける特別な霊を示しています。ここで注意しなければならないことは、実際に祖国に帰還したのは、旧約聖書のネヘミア記やエズラ記を見てもわかるように生身の人たちです。枯れた骨に肉と皮膚がついて霊が与えられて生き返った者たちが帰還したのではありません。実際に帰還した人たちはもともと生き者でしたので、生きるための霊は既に持っていました。そういうわけで、帰還の時に与えられる「私の霊」、神の霊というのは、生き物にする霊ではなくて、「神の子」にする聖霊を指します。

さて、歴史的事実としてイスラエルの民は祖国帰還を果たしエルサレムの町と神殿を再建しました。しかし、それらを本当に聖霊を受けて神の子となって果たしたのかというと、そこには複雑な問題がありました。聖霊を受けて神の子となって祖国に帰還・復興するというのがエゼキエルの預言でした。ところが帰還と復興は遂げても、民は神の意思に沿う生き方が出来ていないということが次第に明らかになってきました。国民は復興したとは言っても、国は相変わらずペルシャ帝国、アレキサンダー帝国そしてローマ帝国に支配され続けていました。イザヤ書2章にあるように異邦人がこぞって天地創造の神を拝みにエルサレムに上ってくるという預言からほど遠い現実がありました。そうなると、民に聖霊が与えられて神の子とされるのはまだ実現していないのではないか?そういう疑問が生まれてもおかしくはありません。預言書に言われる祖国帰還と復興というものも実は別のものを指し、それはまだ実現していないのではないか?そう考えられるようになります。つまり、預言はまだ未完だという理解です。

どうしてこのようなことになったかと言うと、神は天地創造の後に起きてしまった人間の罪の問題の解決を図ることを第一に考えていたのでした。一民族の歴史的復興でそれが果たされるとは考えていませんでした。問題は全人類にかかわる問題です。一民族の復興で解決される類のものではありません。神としては全人類の問題の解決を視野に入れて預言者に言葉を話しますが、特定の歴史状況の中で話され、またそれを聞いた預言者も自分の置かれた状況を手掛かりにしてしか理解できません。その結果、イスラエルの民の祖国帰還や復興という一民族の歴史的出来事は、預言実現そのものではなく、なにかそのミニチュアないし模型のようなものになります。

全人類に関わる罪の問題が解決したのは、イエス様が十字架の死をもって人間を罪の支配から解放した時、そして死から復活されることで永遠の命への扉を開いた時でした。そういうわけでエゼキエルの預言は実は、罪の支配下にあって枯れた骨同然の人間一般が、イエス様の十字架と復活のおかげで罪の支配から解放されて聖霊を与えられて神の子とされて「新しい命に生きる」(ローマ6章4節)ようになることを見通した預言だったのです。さらに「墓が開かれ、墓から引き上げられる」(エゼキエル37章12ー13節)というのは、神の子となった者たちがまさに復活の体を着せられて、神の御国に「帰還」するという、まさに復活の日をも見通す預言だったのです。このように旧約聖書の預言を見る時はいつも、預言が一旦実現したかに見える歴史的事実だけに注目するのではなく、イエス様の十字架と復活の出来事そして将来起こる復活の出来事にこそ真の実現があるということを忘れてはいけません。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

(後注1)礼拝後のコーヒータイムの交わりの時に信徒から次のような質問がありました。「地獄の火に投げ込まれたら、そのまま燃えて消滅するのか、それとも永遠に燃やされ続けるのか?」私は、永遠に燃やされる、と答えました。それは聖書の随所から明らかだからです(黙示録20章10節と14節、14章10~11節、ダニエル12章2節、マタイ25章46節)。すると信徒は、「永遠に燃やされるのなら、その者は死んでおらず生きているのでは?生きているから地獄の苦しみを永遠に味わうことになるのでは?だから、その者に関しては、生きることはこの世の生で終わるということにはならなないのでは?」

それに対して私は、イエス様の言葉の使い方を見ると「生きる」というのは「永遠の命」に結びつけて言われる、それで彼の用法に従えば地獄で永遠に焼かれる状態を「生きる」と呼ぶことはできない、とお答えしました。その時、参照したのはヨハネ11章25~26節のイエス様の言葉でした。「私は復活であり命である。私を信じる者は、たとえ死んでも生きることになる。また、生きて私を信じる者は永遠に死ぬことはない。」イエス様を信じる者は死んでも生きることになるというのは、信じない者は死んだら生きることにならない、ということです。たとえ、永遠に地獄の火で焼かれても生きることにならないのです。生きてイエス様を信じる者は永遠に死ぬことはないというのも、同じように考えることが出来ます。永遠の死とは、地獄の炎で焼かれても死んでいるから何も感じないというのではなく、永遠に苦痛を味わうということです。それじゃ、やっぱり生きているんだ、と言われるかもしれませんが、イエス様の言葉遣いはそうではないということです。「生きる」はあくまで「永遠の命」に結びつけて言われます。

- このようにスオミ教会は、信徒の方々が説教について鋭い質問をされるところですので、説教者は説教者の地位に甘んじることなく緊張感を持って説教を準備することができます。

 (後注2)「復活信仰と日本的霊性の挑戦」(2018年11月2日、於日本福音ルーテル名古屋希望教会)https://www.bibletoolbox.net/ja/seisho/fukkatsushinkou

(後注3)霊は吹き込まれるのか、与えられるのか、日本語の背後にあるヘブライ語を見てみます。

5節「見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む(ヘブライ語は「もたらす、来させる」)。

 6節「わたしは、お前たちの上に筋をおき、(…..)霊を吹き込む(ヘブライ語は「与える」)。」

9節「霊よ、四方から吹き来たれ(ヘブライ語は「来たれ」)。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ(ここはヘブライ語も「吹きつけよ」)。」

10節「わたしは命じられたように預言した。すると、霊が彼らの中に入り(ヘブライ語も「入り」)。」

14節「また、わたしはお前たちの中に霊を吹き込むと(ヘブライ語は「与える」)。

 (後注4)大学のギリシャ語新約読解の授業で先生が、ここの与格はdativus incommodi(~にとって不利になるように)であるとよく強調されたものでした。

 

 

 

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