説教「神に従属することで得られる自由」神学博士 吉村博明 宣教師 宣教師、ルカによる福音書16章1-13節 、コヘレト8章10-17節

主日礼拝説教 2019年9月22日(聖霊降臨後第15主日)

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.説教者泣かせの聖句

本日の旧約聖書の日課コヘレト8章10ー17節と福音書の日課ルカ16章1ー13節は両方ともとても難しいところです。まずコヘレトを見ると、まるで、神を畏れて正しく生きようとしても結局いいことは何もなく、悪を行っても罰せられずに逆にいいことが起こるのだから、快楽に身をまかせてしまった方が意味がある、とさえ受け取られるような内容です。聖書たるものがこんなことでいいのか、と言いたくなります。

ルカの方を見ると、イエス様がある出来事について話して、それをもとに教えを述べます。どんな出来事かと言うと、ある金持ちの財産を管理する人が主人の財産を「無駄遣い」していた、というより、ギリシャ語の動詞(ディアスコルピゾーδιασκορπιζω)は「使いまくっていた」と言っていいでしょう。それはやがて、主人に知られることとなり、主人は彼を解雇することに決め、その前に会計報告を出すよう命じます。報告書をまとめている間、管理人は身の振り方を考えます。困ったことになったぞ、これを主人に提出したら即、解雇だ。転職といっても肉体労働する力はないし、乞食になるのは嫌だ。そうだ、主人に負債がある人たちを呼んで、彼らの借金を主人に内緒で減額してしまおう。そうすれば、僕が失業した時、借金を減らしてもらった者たちは僕を家に迎え入れてくれるだろう。管理人は借用証書も管理しているので次のような芸当をやってのけます。油100バトスの負債がある人に、証書を新しいものに取り換えてやるから、ここに50バトスと記載しろ、と命じる。1バトスは39リットル位と言いますから、油3,900リットルの半分1,950リットルが帳消しになりました。2リットル入りのペットボトルが975本分の油です。負債者は喜んだでしょう。次に小麦100コロスの負債がある人を呼んで、80コロスと書かせる。1コロスは、393リットルということで、半分ではないにしても、小麦7,860リットル分が帳消しになりました。2リットル入りのペットボトルで3,930本分の小麦です。負債者は喜んだでしょう。

このように管理人は会計文書を偽造するわけですが、驚いたことに、イエス様は、この管理人が「賢く立ち振る舞った」などと褒めるのです。主人の財産を使い込むという不正を働いた者がさらに文書偽造までする、そういうさらなる不正があったのにイエス様が褒めるというのは一体どういうことか?こんなことでは、国会で公文書偽造で追及された関係者たちが喜んでしまうではありませんか!それ見ろ、あのイエス・キリストもいいと言っているじゃないか、と。

この話は、イエス様がよく使うたとえの話なのか、実際にあった話なのか、はっきりしません。たとえの話ならば作り話ですので、自分で作った話の登場人物を褒めるというのは少し変な感じがします。恐らく、これに類する事件があったのではないかと思われます。ただ、作り話にしろ、実際にあった話にしろ、この話と後に続くイエス様の教えの部分がどう結びつくのかとてもわかりにくいです。

教えの部分を見ますとイエス様は「不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値のあるものを任せられるだろうか」と言います(11節)。あれっ、管理人が借用証書を偽造したのは、富について忠実では無かったんじゃないのか?なぜイエス様は管理人を褒めたのか?と言いたくなります。さらに最後の13節では、神と富の両方に仕えることはできない、と教えています。その趣旨は明らかに、人は神のみに仕えなければならない、ということです。そうすると、富に対して忠実たれ、と教えていたこととかみ合わないではないか?なんだか本日の箇所は支離滅裂に見えてきます。

このように、本日のコヘレトの個所とルカの個所は説教者泣かせの聖句で、そんなのが二つもあってダブルパンチです。しかしながら、どんなに難しい個所でもイエス様を救い主と信じる信仰の目をもってこの何度も何度も読み返し、あわせて聖書の他の箇所で何が言われていたかということも思い出しながら読んでいくとだんだん理解できてきます。もちろん父なるみ神に知恵をお願いしながらですが。ヘブライ語やギリシャ語の知識も理解に役立ちますが、理解を助けるのはあくまでも信仰の目を持って読むかどうかにかかっています。

6年前はルカの個所を中心に解き明かししました。3年前はコヘレトを中心にしました。その時、「コヘレトの言葉」は神を畏れて生きるのは意味がない、だから快楽主義でいいんだ、と言っている書物ではない、全く逆のことを言っているのだ、ということを明らかにしました。どうしてそんなことが言えるのか驚かれる方は教会HPで以前の説教(2016年9月18日)をご覧くださればと思います。今回はルカを中心に見ていきます。

イエス様は恐らく現実にあった出来事をもとに何かそこに弟子たちが学び取るべきものがあると考えて、それを取り上げたと考えられます。富について弟子たちに何かまだ考えが足りないことがあって、それをわからせるためにそうした。では、その考えが足りなかったこととは何か?そのように見ていくと、管理人が文書を書き換えたことは本質的なことではなくなってきます。イエス様がそれについてとやかく言わなかったのは、恐らく金持ちの主人が言われている位の借金減額ではびくともしない大金持ちだったからと考えられます。それで弟子たちに学び取ってもらうことを教えるのに都合がよい題材として選んだのでしょう。それでは弟子たちが学び取るべきものとは何だったのか?以下に見てまいりましょう。

 

2.神から救いを頂いて神に従属する者になり富の主人となる

本日のルカの箇所をよく理解できるためには、この箇所で一番重要なポイントになっていることを見つけて、そこから箇所全体を見渡して理解するようにするとよいでしょう。本日の箇所の一番重要なポイントとは、最後の13節です。聖書を読む時に、たいていの場合、ひとつのまとまった箇所のポイントは終わりの部分にあると覚えておくとよいでしょう。

「どんな召使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」

 ここでイエス様は、神と富の両方に仕えることはできないと教えます。「仕える」という動詞は、ギリシャ語で見ると、正確には「奴隷として仕える」(δουλευω)という意味です。奴隷は主人の所有物ですから、所有物である奴隷には二人の所有者がつくことは不可能なわけです。イエス様は、人間と神と富の関係も同じだと言います。どっちか一つにしか従属できない。どっちかに従属したら他方とは無関係になる。

 ここでひとつ注意したいのは、イエス様は、神に仕える者は財産を持ってはいけない、とは教えていないことです。イエス様が言っていることは、神と富の双方にお仕えする、従属することはできない、ということです。富には従属しないで神に従属することが出来れば、富を持つことは問題ないのです。富を持つことがそのまま従属することになってしまい神への従属がなくなってしまえば、その時は持つべきではないということです。人間が富に従属せず神に従属して富を持つというのは一体どういうことか?ルターが次のように明らかにしています。

「神は、我々が出し惜しみしたり欲張ったり、減ったら困るなどと心配して、お金や財産にお仕えする者にならないようにと望んでおられる。神が我々に望んでおられるのは、心配事は全部、神に心配してもらえばいいという心意気で、自分はただ与えられた課題に取り組んでいくということだ。財産に仕える者はその奴隷であり、その時、彼は財産を所有するというよりは、財産に所有されているのである。そういう人は、財産を使うのが必要な時が来ても、使う勇気を持てず、財産を使って他の人に仕えることもできない。つまり、お金に旅立たせる勇気がないのである。ところが、もし人が財産の主人であれば、財産はその人に仕えることとなり、その人はもう財産には仕えない。例えば、君が着る物に困っている人を目にしたとする。すると君はお金に向かって次のように言う。『敬愛する金貨君!あそこに貧しくて上着がなく震えている人がいる。さあ、ここから出て行って、彼に仕えなさい!』また、次のようにも言う。『価値あるお金君、あそこに病人が助けも慰めも与えられないでいる。ここから出て行って、急いで彼を助けに行きなさい!』財産の主人とは、このように財産を扱うことが出来る者のことを言う。

キリスト信仰者とは、このように考えて行動する者を言うのである。使徒パウロは、欲張りや出し惜しみは偶像崇拝とまで言った。キリストは、それを富に従属することと言った。君が主人を選ぶ時、何もできない死んだも同然の金属のかけらに仕えるのか?それとも、生きて君を見守り導いてくれる神に仕えるのか?生ける神は、君のために喜んで用いられる心の方である。主は言われる。全身全霊で私のものになるか、さもなければ、私と全く関係のない者にとどまっていなさい、と。」

以上ルターの教えから、キリスト信仰者というのは、本当は神以外に従属するものがなく、他のものに対しては自由で束縛されていない者であり、それは富に対してもそうなのだ、富に対してはまさに主人なのだ、ということが明らかになったと思います。それでは、そのようなことはどのようにして可能なのでしょうか?それは、人間が神からとてつもなく高価なものをいただいたので、もうそれに比べたら他のものはみんな、どんな多額の財産であっても色あせてしまう、それくらい高価なものをいただいた、そういうことがあって可能になります。それでは、その神から頂いた高価なものとは何か?それは、神のひとり子イエス様が本当なら人間が受けてしかるべき神罰を自ら引き受けて十字架の上で死なれたこと。そして一度死なれたが神の力で復活させられて永遠の命が本当にあることを示されたこと。人間は、これらのことが全て自分のためになされたとわかってイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、断ち切れていた神との関係を回復させることができ、それからは神との結びつきの中で生きられるようになること。そしてこの世を去ることになっても、神は御手をもって御許に引き上げて下さること。これらが何ものにも代えがたい高価なものとわかればわかるほど、神以外のものに従属しなくなって他のものに対しては自由になっていきます。他のものに対しては人間の物差しで計るのではなく、神の物差しで計るようになっていきます。富に従属するというのは、要するに、人間の物差しで計って生きるということなのでしょう。

 

3.人間を神から引き離す富、それを神に従属する者が用いる

 本日の箇所のポイントである13節を要約するとこうなります。キリスト信仰者は神から計り知れない高価なものをいただいたので、神に従属して仕える者であり、富に対しては自由で束縛されず主人としてふるまう者であるということ。富を手にしている者は、それを人間の物差しで計らず神の物差しで計るので、「神を全身全霊で愛せよ」という神への愛と、「隣人を自分を愛するが如く愛せよ」という隣人愛のために用いるようになる。そうすれば、富を持っていても、神に従属して仕えることは出来るということです。このポイントを念頭に置いて本日の箇所を眺めていくといろいろなことがわかってきます。

まず、11節「不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せられるだろうか」。「不正にまみれた富について忠実たれ」という教えには戸惑います。この「不正にまみれた富」は、9節にも出てきます。「不正にまみれた富で友達を作りなさい」。これにも戸惑います。ギリシャ語の言葉はアディコスαδικος(形容詞)、アディキアαδικια(名詞)ですが、「不正な」という意味は辞書にある代表的な意味です。ところが、言葉の使い方は、「不正な」という意味から派生していろいろあります。ルカ18章に、やもめにしつこく訴えられる裁判官のたとえがあります。イエス様はこの裁判官を「不正な裁判官」と呼びますが(6節)、同じ言葉(アディキアαδικια)が使われています。しかし、この裁判官の何が不正なのかは明らかでありません。明らかなのは、この裁判官が「神をも畏れず、人を人とも思わない」ということだけです。つまり、「不正な」と言っているのは、本当は「神からかけ離れた」とか「神を顧みない」という意味です。本日の個所の「不正にまみれた富」の「不正」も同じように理解するといろいろわかってきます。

先ほど13節のポイントで見たように、富には人間の心を従属させ、神への従属を妨げる力があります。「不正にまみれた富」というのは、まさに富というものが人を神からかけ離れたものにする、神を顧みないものにする、という意味です。要するに、「性質上、人間を神から遠ざける力を持つ富」ということです。そのような富に「忠実」であれ、というのはどういうことか?「忠実」というのは「神から遠ざかる」ことの反対のことを意味します。それで、神に対して忠実、神に従属して仕えるという意味になります(「忠実な」ピストスπιστοςは「信仰を持った」という意味もあります)。こうして見ると、「不正な富に忠実たれ」というのは、「人間の心を支配して神から遠ざける力を持つ富(不正な富)を、神に従属してお仕えする者として用いる」ことになります。これはまさに先ほどのルターの教え、神に従属して富の主人となってそれを隣人の必要に用いる、という教えと見事に一致します。そうなると神が「本当に価値あるものを任せる」というのは、神に従属する者は、神がイエス様を用いて実現した高価な救いを持つに値する者になっているということです。

12節「他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがた自身のものを与えてくれるだろうか」。これも、富・財産は自分の私有物のようでありながら、実は神という他人から預かっているものなので神の御心に従って取り扱わなければならない、と考えればよいでしょう。神に従属している時、「あなたがたのもの」が与えられるというのは、イエス様を救い主と信じる信仰に生きるあなたは神に従属しているので、神が実現した救いを自分のものにしているということです。

10節「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である」。「ごく小さな事」(ελαχιστος)とは、別に大きさの大小のことだけでなく、価値のあるなしにも使われる言葉ですので、「ささいなこと、取るに足らない事」です。つまり、「人を神から引き離す力を持つ不正な富」を指します。その富に対して、神の御心に従うように立ち振る舞う者は、より価値あることにも同じように立ち振る舞う。しかし、富に対して、「不忠実に」立ち振る舞う者、つまり神の御心に従わないで立ち振る舞う者は、より価値あることに対しても同じである、ということです。(日本語で「不忠実」と言っているのは、ギリシャ語でアディコスαδικος、つまり先ほども見たところですが、神を顧みないという意味です。)

次に9節。「そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる」。「不正にまみれた富」というのは、先ほど見ましたように、「性質上、人間を神から引き離して従属させようとする力を持っている不正な富」ということです。ここで問題になるのは、永遠の住まいに迎え入れてくれる友達とは誰か、ということです。永遠の住まいに迎え入れるというのは、この世の人生を歩み終えて、復活の日に復活させられて父なるみ神のもとに迎え入れられることです。そうなると、この友達はもう人間ではありません。復活の日、今の天と地が新しい天と地にとってかわられる最後の審判の日に主イエス様と共に到来する天使たちを指します。富は人間を神から引き離そうとする力を持っているが、神に従属する者はそれを神の物差しで計って用いる。先ほどルターの教えに見たように、富の主人として立ち振る舞い、神への愛と隣人愛の手段として富を用いる。天使というものは、当時のユダヤ教社会の考えでは、人間の行ったことや人間に起きたことを全て詳細に記録して神に報告する役割を持つ存在でした。このようにして、「人間を神から引き離す力を持つ富」を神の物差しで計って用いて、人間には別に見られなくても注目されなくても、「いいね!」をたくさん押してもらわなくても、天使たちがちゃんと記録してくれて、「永遠の住まい」に迎え入れられるその日、神から「全部ちゃんと知っていたよ」と言われるのです。

ところで、本日の箇所は全て、弟子たちを相手にして話されています(1節)。従って、この「永遠の住みかに迎え入れられる」ことについての教えも弟子たちに言われています。なぜイエス様は、弟子たちにこのようなことを教えなければならなかったのでしょうか?それは、弟子たちの間には、神に仕える者は財産を持ってはならない、富と関係を持ってはならない、という雰囲気が支配的だったからです。イエス様自身、富が人間の心を神から引き離す力を持っている危険をよく知っていたので、金持ちに対してはとても厳しい意見を持っていました。金持ちが神の国に入れることは、駱駝が針の穴を通るよりも難しいとさえ言いました。その時、ペトロは、自分たちは何もかも捨てて主に従って来ました、と強調しました(マルコ10章23ー31節、マタイ19章23ー30節、ルカ18章24ー30節)。ペテロの発言には、財産を捨てることが神の国に入れる条件という考えが見え隠れしています。しかし、イエス様は本日の箇所で、神を唯一の主人として従属して仕えることは、財産を持っていても可能であるということを教えようとしたのです。8節でイエス様は、「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている」と言います。「この世の子ら」とは、神よりも富に仕えてしまう人たち、「光の子ら」とは、富よりも神に仕える人たちです。「光の子ら」は、すぐ財産を遠ざけようとする傾向がある。しかし、財産を持っていても、神を唯一の主人として従属して仕え、財産に対しては主人となることができるのだ。それを神への愛と隣人愛の手段として用いて、永遠の住まいに向って歩むことは可能なのだ、と。このことを教えるために、身近に起きた出来事を題材にして具体的に教えたのです。

イエス様がこの出来事で着目したのは、もう後がない状況に陥った管理人が自分を受け入れてくれるところを確保するために主人の財産をどう用いたかということでした。その例にならえば、富を持つ「光の子」が将来の受け入れ先、神の国という永遠の住まいを確保するには、まず、自分が所有している財産は神からの預かりものと考え、自分は管理人と考えなければならない。次に、神から預かった財産の管理を任されたというのは、財産を神の御心に沿うように用いなければならない。神への愛と隣人愛の手段として用いなければならない。管理人の事例では、主人の財産を用いて負債者の負担を軽減しました。それが結果として、彼の将来の受け入れ先を決めました。「光の子」の管理人も、神から預かった財産を神への愛と隣人愛の手段として用い、重荷に喘ぐ人の負担を軽くすることに用いれば、それが神の国という永遠の住まいへの受け入れ準備になるというわけです。まさに天に宝を積むということです。ただし、それが出来るためには、まず神に従属していなければ出来ません。そして、神に従属できるためには、神がイエス様を用いて実現した救いを先に受け取っていなければなりません。

もう一つ付け加えますと、管理人が負債ある人たちの負債を彼らに代わって軽減してやったというのは、イエス様が罪という人間が神に対して負っている負債を人間に代わって帳消しにしたことを暗示しています。人間の救いを人間の努力や業や修行に基づかせる諸々の宗教から見たら、キリスト教はずるい宗教に見えるかもしれません。

 

4.高価な救いを頂くことが全ての出発点

 以上みてきましたように、神を主人とし富を奴隷にすることは、神からとてつもなく高価なものをいただいたので、それに比したら他のものはどんな多額の財産であっても色あせてしまう、それくらい高価なものをいただいた、そういうことがあって可能になります。エイっと、かけ声の下、財産を丸投げして、さぁ、神は見返りに何をくれるか、と言うことではありません。こちらからそんなことする前に私たちは神から非常に高価なものを頂いたのです。私たちのために十字架上の贖いの業と死からの復活を成し遂げて下さったイエス様を超える頂きものはありません。この高価なものが色あせてしまわないために、主日の礼拝があることを忘れないようにしましょう。その高価なものは自分から色あせることはありません。ボーっとしていると私たちの方で色あせてしまうのです。私たちの方でも色あせないために、本来の高価さを私たちの内で保てるように、兄弟姉妹の皆さん、主日の礼拝を大切にして守ってまいりましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         
アーメン

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