説教「罪の負い目も、疑う人目も、吹き飛ばせ!」神学博士 吉村博明 宣教師

主日礼拝説教 2019年6月30日聖霊降臨後第三主日

 

 サムエル下11章26節-12章13節、ガラテア2章11-21節、ルカ7章36ー50節

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 本日の旧約聖書の日課サムエル記下11章から12章の個所は、ダビデ王が犯した罪について語られています。この個所は私たちに罪というものがどんなに重大なものであるかを教えています。大抵は、罪という言葉を聞いたら、犯罪のように他人を傷つけたり損害を与えたりすることを思い浮かべるのではないでしょうか?そういうことが起きたら、処罰や謝罪や補償ということが出て、それが罪の償いということになります。この理解でいくと罪は人と人との間の問題ということになります。キリスト信仰では、罪は神と人との間の問題になります。人間を造られた神と神に造られた人間の間の問題です。もし誰かを傷つけたり損害を与えてしまったら、それは十戒の「殺すなかれ」、「盗むなかれ」、「姦淫するな」、「偽証するな」、「隣人を妬んだり、そのものを狙おうとするな」等々、神が定めた掟に反することになります。人間に対して害を及ぼしたということに加えて、神の意思に背いたということになります。人間に対する害については法律に基づく処罰や償いがあるでしょう。神に対する害については、どんな処罰や償いがあるでしょうか?罰として神が災いや不幸を起こすということが頭に浮かぶかもしれません。

もちろん、聖書の神は、人間が神の意思に背けば、もちろん罰することを厭わない方ではありますが、もっと大事なことは罰と同時に人間が神の意思に従って生きられるようにしようとする方でもあります。お前はこの罪を犯した、だからこの不幸を与えてやる、地獄に落としてやる、思い知れ、と言って完結してしまうのではありません。そうではなくて、お前がもう罪を犯さないようにしてあげよう、犯した罪のためにお前が前に進めなくなってしまうことがないようにしてあげよう、というのが聖書の神です。そのことは、本日の旧約の日課のダビデ王の出来事からも福音書の日課の罪を犯した女性の出来事からもわかります。私たちが前に進めなくなるようにする重荷として、旧約の日課は罪の負い目、福音書の日課は人の非難する目について言っています。私たちの父なるみ神はそれらの重荷から私たちをどう解き放って下さるのかを見ていきましょう。

 

2.罪の負い目を吹き飛ばせ!

 まず、ダビデ王の罪の出来事をみていきましょう。何が起きたか出来事の全容を知るためには本日の個所の前の11章のはじめから見なければなりません。サウル王に続いてユダヤ民族の王となったダビデは、国の安全を脅かす周辺諸国との戦争は連戦連勝という破竹の勢いでした。それは、本日の個所の12章7

8節の中で言われるように天地創造の神の大いなる祝福があったからでした。神自身が言われるように、ダビデが国王の地位につけたのも、サウル王のものや王国の領域も受け継げたのもみんな神のおかげである、何か不足があれば神はかき集めるようにして与えるつもりだ、と言うくらいダビデを祝福したのです。

ところがある日、一人の軍人ウリヤの妻ベト・シェバに一目惚れして、夫が前線にいる間に関係を持ってしまいます。今の日本でよく耳にする不倫です。そしてベト・シェバは妊娠してしまいます。神から必要なもの欲しいものを欲しいだけもらえるような立場にいながら、それでもまだ足りないと言わんばかりに、ダビデは神の意思、「姦淫するな」に背いてしまったのです。宗教改革のルターも言っていますが、人間というのは神から与えられる物を享受していくうちに、心が贈ってくれた方から離れて贈られたもの自体に密着してしまう、そういう恩知らずになってしまう。まさにそのことがダビデにも起きてしまったのでしょう。神から与えられることに慣れてしまって、いつしか贈り主である神のことは忘れて贈られた物はあたかも自分の能力や偉大さのおかげで自分の懐に当然の如く流れ込むようになったのだ、そういう心境だったでしょう。そうなると、欲しいものは何でも手に入れて当然という気持ちになります。ダビデに限らず、名声を博した人、高い地位に昇りつめた人の多くはそうなる危険が高いです。贈り主なんてもう眼中にありませんから、贈り主の意思なんて関係ありません。遠慮なしにどんな手段を使っても手に入れればいいだけです。

ダビデはまさにそのようにして人妻を手に入れました。ウリヤをわざと戦闘の激しい前線に送り込んで戦死させて、ベト・シェバを自分の妻にしました。前線から知らせを告げに来た使者とのやり取りを見ても、ウリヤの戦死に何か不自然なことがあると気づかれないようにする話しぶりです。しらじらしいと言ったらありません。

ところが、神は自分の意思が踏みにじられたことをそのまま見過ごすことはしませんでした。踏みにじったのは、自分が民の指導者に選んで祝福を与え続けた男です。神は早速、ダビデの目を覚まさせるために預言者ナタンを送りました。ナタンは王に一つのたとえを聞かせます。ある町に羊・牛の大きな群れを所有する金持ちの男と、雌羊一匹しか持たずそれを大事に育てた貧しい男の二人がいた。金持ちは客に食事を振る舞わなければならなくなった時、自分の所有する群れを惜しく思って、貧しい男から雌羊を取り上げて、それを食事に提供してしまいました。この話を聞いたダビデは自分のことを言われているとも気づかず激怒し、その金持ちは神の意思に背くもので死に値するとさえ言います。これは奇妙なことです。自分は人妻を強奪するようなことを仕出かしても、他人の卑怯なやり方に関しては神の意思に背くなどと言って憤慨するくらいの倫理観は持ち合わせていたのです。これが救いになりました。「王よ、その金持ちはほかでもない、あなたです」と言われ、ダビデは目の前に鏡を突き付けられたのも同然でした。そこには自分がそう叫んだ、「死に値する」男が映っていました。自分の激怒は神の思いなのだということがわかりました。

ダビデは自分がしたことは自分の造り主である神を失望させ怒らせることであると真剣に分かりました。「私は神に対して罪を犯しました」と告白します。神はダビデが罪を悔いていることを受け入れ、これから彼に何をするかをナタンを通して告げます。「神自らがあなたの罪を不問にされる。あなたは死ぬことはない。」(新共同訳では「罪を取り除く」ですが、ヘブライ語の単語עברは「見過ごす」、「なかったことにする」の意味があります。辞書(W.L.HolladayのConciseですが)もここのところは「見過ごす」、「なかったことにする」の意味と言っています。)神はダビデが罪を悔いていることを偽りがない、真実と認めて彼の罪を不問にすることにしました。神がダビデの罪を不問にしたことがどこでわかるかと言うと、本当ならダビデの犯した罪は神に対する罪として命を落とさなければならない性質のものであったが、それは免れるというのです。つまり、神はダビデの罪を赦すことにしたのです。

これで一件落着のように見えますが、実はそうではありませんでした。本日の日課の個所は13節で終わって、ダビデは罪を赦されて死を免れてめでたしめでたしですが、実は次の14節でダビデの罪の赦しは限定的だったことを思い知らせることが起こります。ナタンの口を通して語られる神の言葉は14節まで続きますので、そこまで見ていきます。せっかくのハッピーエンドを興ざめにしてしまい恐縮なのですが、より深い真実に到達できるために敢えてそうする者です。

ナタンは、ダビデが死を免れることに加えて、ベト・シェバが産んだ赤子は死ぬと告げます。実際、赤子は誕生七日目に死んでしまいます。ダビデは神が考えを変えることを期待して祈り断食をしますが、無駄に終わりました。これは一体どういうことでしょうか?罪を犯した本人は死を免れるのに、まるで子供が親の罪の犠牲になったようです。確かに神にとって罪というのは償いのためには本人に犠牲になってもらわなければならないほどのものです。それにしても子供を犠牲にするというのは、神は少し無慈悲で残酷にすぎませんか?赤子の死の事実はダビデに罪の赦しは限定的だったと思い知らせたでしょう。確かに生きることは許されたが、自分の罪の償いのために誰かが犠牲にならなければならないことは動かなかったのです。そして、それを赤子が引き受けなければならなかったのです。赤子の死はダビデに罪の負い目を痕跡のように残したでしょう。神がこのように罪を罰せずにはおられない方であるならば、私たちが神の意思に背いた後で何か不幸が起きたら、それは私たちの心に罪の負い目を残すでしょう。また、特に背いたことに思い当たりがなくても何か不幸が起きたら、これは何の罰だろうか?自分の何の罪が原因でこのようなことが起きてしまったのか?と悩み、影のような罪悪感を抱え込むことになります。

兄弟姉妹の皆さん、ここで忘れてはならない大事なことがあります。それは、まさにこの無慈悲で残酷に見える神がひとり子のイエス様を私たちに贈って、私たちが罪悪感や負い目から解放されるようにして下さったということです。確かに神は罪に対して完全な償いを求める非常に厳しい方です。しかし、その神がイエス様を私たちに贈って、彼に全ての人間の罪を背負わせて十字架の上まで運ばせて、そこで罪の罰を受けさせたのです。これは、私たちが罪の罰を受けないで済むようにするためでした。無慈悲で残酷に見える神は実はひとり子を犠牲にしてもいいと思うくらいに私たち人間のことを大切に思って下さるのです。これが私たち人間に対する神の愛です。無慈悲で残酷に見えるのは罪に対して罰を下そうとするからですが、私たちを愛して罰を免れさせたいから、ひとり子を犠牲にしたのでした。そうすることで、私たちが罪に染まらない、かつ罪を引きずらない者に生まれ変わる道を開いて下さったのでした。

イエス様の十字架と復活の出来事が起きた後は、罪を不問にして赦すことは限定的ではなく、全面的なものになりました。イエス様の償いの業はそれくらい徹底したものだったからです。そこで、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は、たとえ不幸に遭遇しても、イエス様の償いに基づく罪の赦しの中にいる限り、不幸は罪の罰ではないというスタンスになります。そうなると、自分の責任を詮索して前に進めないということがなくなります。これは神の業が現わされる起点なのだというスタンスになり、苦難困難の中に乗り出していき、そこに神の業を一つ一つ見出していきます。ここにはもう罪悪感も負い目もありません。また、キリスト信仰者が罪を犯してしまい、それが不幸の発生に結びついてしまった場合でも変りはありません。イエス様の償いに基づく罪の赦しの中にいる限り、不幸は神の罰ではなくなって、神の業が現わされる起点になります。

以上から無慈悲で残酷に見える神が、実はひとり子を犠牲にしてもいいと思う位に私たちのことを愛しているということわかったのではないかとが思います。この愛を注がれた者が今度は感謝に満たされて人目を気にせずに前に進もうとすることが、本日の福音書の日課の出来事によく示されています。次にそれを見てまいりましょう。

 

3.疑う人目を吹き飛ばせ!

 イエス様が、ユダヤ教ファリサイ派のシモンという人の家に食事に招かれました。ファリサイ派と言えば、福音書の中ではイエス様に敵対するグループとして描かれています。これは一体どういうことでしょうか?イエス様と激しく対立するファリサイ派でしたが、同派の中にはイエス様に一目おく人たちもいました。例えば、ヨハネ福音書に出てくるニコデモというユダヤ教社会の最高法院議員などは、ある夜人目を避けてイエス様に教えを受けに行きます。本日の箇所のファリサイ派シモンもおそらく、イエス様を家に招いていろいろ質問してみよう、ファリサイ派には口うるさいことばかり言っているが、今や奇跡と権威ある教えで一世を風靡しているイエスを呼んで、本当に尊敬と畏敬に値する者かみてみようと考えたと思われます。

出来事の流れを一つ一つ注意して見ていきましょう。45節で、イエス様が、女性は彼が家の中に入った時点から足に接吻をし続けていた、と言っていますが、女性はイエス様が来るのを家の前で待っていて、彼が来るやしがみつくようにして一緒に入ったのでしょう。舗装道路がない昔は、足はすぐ汚くなる部分です。接吻というのは、日本ではなじみがないので多少違和感があるかもしれませんが、敬意や愛情を示す行為として捉えて下さい。体の汚い部分に接吻するというのは、自分をとてつもなく低い者とし相手をとてつもなく高い者として敬意を表しています。とめどなくあふれ出る涙でどの程度足がきれいになるかは疑問ですが、これはむしろ象徴的な行為としてみたほうがいいのかもしれません。水気を含んだ汚れを髪の毛で拭えば、髪の毛はたちまち汚れるでしょう。女性は、そんなことは意に介さず、イエス様のために今出来ることを精一杯するだけです。そして、仕上げに高価な香油を塗りました。女性がしていることを一部始終見たシモンは内心呟きます。39節の仮定法過去で書かれたギリシャ語文の趣旨は以下のようになります。もしこの男が本当に預言者ならば、今何やらちょっかいをだしている女が罪を犯した者だとわかって、汚れた者はあっちに行けとでも言って、追い出すだろうに。ところが、女にさせるままにしているというのは、わかっていない証拠だ、だから預言者でもなんでもなかったんだ、期待外れだ、という具合です。

シモンの心の呟きを見て取ったイエス様は、この女性の行為が何を意味するのかを教えようと、一つのたとえを話します。多額の借金を抱えた人と少額の借金を抱えた人が返済に困ってしまった時、貸主から借金を帳消しにしてもらった。さて、どちらの負債者がより多く貸主を愛することになるだろうか。言葉を換えて言うと、どちらが、沢山の恩恵を受けたという念をもち、より多く感謝の念に満ちて、貸主のために尽くしてもいいと強く思うのはどちらだろうか、ということです。シモンは、大きな借金を帳消しにされた人の方が、小さい借金を見逃してもらった人よりも、より多く貸主を愛することになる、と答えます。

そこで、イエス様は、同じことがこの目の前の女性にも起こったのだ、と明らかにします。この女性は、「過去に罪を犯していた女性(ην αμαρτωλος)」と言われていますが、具体的にどんな罪を犯したのかは述べられていません。これについてよく言われるのは、夫婦関係を壊す不倫を犯したのではと十戒の第六の掟に関わる罪が考えられています。その可能性が高いと思われつつも、具体的に述べられていないので断定できません。しかし、いずれにしても、神の意思に反することを公然と行っていたか、また隠れてやっていたのが公けに明るみに出てしまった、ということです。

イエス様は、この女性の献身的な行為は、たとえの中に出てきた、沢山の負債を帳消しにされて貸主に一層敬愛の念を抱く人と同じである、と教えます。つまり、イエス様に沢山の罪を赦されたので、イエス様に一層敬愛の念を抱き、それが献身的な行為に現れた、というのです。

ここで、注意しなければならない大事なことがあります。それは、女性が献身的な行為をしたので、それが受け入れられて赦された、ということではないということです。そうではなくて、女性は初めに赦さて、それで感謝と敬愛の念に満ちて献身的な行為に及んだ、ということです。47節でイエス様は、「この人が多くの罪を赦されたことは、私に示した愛の大きさで分かる」と言っていますが、この「赦された」という動詞のギリシャ語は現在完了形(αφεωνται)で、ギリシャ語の現在完了形の意味に従えば、「この人は、ある過去の時点で罪を赦されて、現在に至るまでずっと罪を赦された状態にある」という意味です。過去のある時点で罪を赦されたというのは、以前にイエス様が女性に罪の赦しの宣言を行っていた、ということです。「罪を赦す」というのはどういうことか?先にも述べましたが、繰り返しますと、人が神聖な神の意思に反する行いをしたり、言葉を発したり、考えを持ったりして、神の怒りを買ってしまう。その時、その人が神の怒りを買うことをしてしまったと認めて悔いる。これを神が受け入れると、神はその罪を不問にする。事実としては残るが、あたかもなかったかのように忘れることにする、だから、あなたはもうしない新しい生き方をすぐ始めなさい、私はそれを支援するから。そう神に言われること、これが罪の赦しです。

ところが、赦す神とは逆に、女性の悔い改めを認めず、彼女の犯した罪をいつまでもねちねち問い続けて、新しい生き方に踏み出すのを妨げようとするのが、周囲の人たちの赦しのない情けのない態度です。37節で、「この町に一人の罪深い女がいた」というのは、ギリシャ語の原文では過去形(ην αμαρτωλος)なので、「この女は、以前この町で罪を犯していた者であった」という意味です。それなのに、ファリサイ派のシモンは心の中で、この預言者と騒がれているイエスは気が付かないのか、「この女は罪深い女なのに」(39節)、と呟きます。これは、ギリシャ語の原文では現在形(αμαρτωλος εστιν)なので、「この女は現在も罪びとでいるのに」という意味です。このように周囲の人たちは、女性が悔い改め、罪の赦しを得て、新しい生き方を始めようとしていることを認めず、赦されてなどいない、まだ同じ罪びとだ、と後ろ指をさして、顔と背を背け続けます。

しかしながら、イエス様は、女性の悔い改めを受け入れ、罪の赦しを宣言して、もう同じ罪を犯さないで生きようという新しい生き方を応援する方に回ります。イエス様は女性に言います。「あなたの罪は赦された」(48節)。これもギリシャ語では現在完了形なので、「あの時赦されたあなたの罪は今も赦され続けていて何ら変更はない」という意味で、周囲がなんと言おうが、神のみ子イエス様と父なるみ神の目から見れば、事実は確定しているから何も心配するな、ということです。さらに、会食の席に同席していた人たちが、イエス様が神しかできない罪の赦しを公然と行うことに驚き始めた時に、イエス様はさらに太鼓判となる言葉を女性に述べます。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」(50節)。ここの「救った」というのも、現在完了形なので、正確には次のような意味になります。「あなたはわたしこそ罪の赦しを与えることができる者であると信じて赦しを得た。そうして、神との関係が回復して救われた者となった。それ以来、あなたは現在に至るまでずっと救われた状態にいる。」

以上、かつて罪を犯していた女性がイエス様を救い主と信じる信仰に入って、罪の赦しを得て、神との関係が回復して、救われた者となったことをみました。女性は、周囲の赦しのない、辛い荒波の中ではあるが、父なるみ神と御子の支援と応援を受けて新しい人生を始めることができるようになりました。そのために心も体も魂も恩恵と感謝の念に満ち溢れて、それが献身的な行為に現れました。

 

4. おわりに

 兄弟姉妹の皆さん、ダビデの罪の赦しは限定的になってしまい罪の負い目を残してしまいました。しかし、イエス様の十字架と復活の出来事の後は罪の赦しは全体的で完全なものになり、イエス様を救い主と信じて洗礼を受ける者は罪の負い目を持たないで済むようになりました。

イエス様に罪の赦しを宣言された女性は、感謝と献身の気持ちに満たされ、疑う周囲の目を意に介しない勇気を持つようになりました。十字架と復活の出来事が起きる前でもこのような勇気を得たのです。その後でイエス様を救い主と信じ洗礼を受けた私たちに同じ勇気が与えられないことがありうるでしょうか?

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         
アーメン

 

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