説教「イエス様を心に迎えて、恐れを捨てよう」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書1章19-28節、第一テサロニケ5章16-24節、イザヤ61章1-4節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

今年は12月3日が待降節の第一主日となって、キリスト教会の暦の新しい一年が始まりました。そういうわけで、本日は教会新年の三回目の主日です。待降節とは、読んで字のごとく救い主のこの世への降臨を待つ期間です。この期間、私たちの心は、2千年以上の昔に現在のパレスチナの地で実際に起きた救世主誕生の出来事に向けられます。そして、私たちに救い主を送られた神に感謝し賛美しながら、降臨した救い主の誕生を祝う降誕祭、一般に言うクリスマスをお祝いします。

 待降節や降誕祭・クリスマスは、一見すると過去の出来事の記念行事のように見えます。しかし、私たちキリスト信仰者は、そこに未来に結びつく意味があることも忘れてはなりません。というのは、イエス様は、御自分で約束されたように、再び降臨する、つまり再臨するからです。私たちは、2千年以上前に救い主の到来を待ち望んだ人たちと同じように、その再到来を待ち望む立場にあるのです。その意味で、待降節という期間は、主の第一回目の降臨に心を向けることを通して、未来の再臨にも心を向ける期間でもあります。待降節やクリスマスを過ごして、ああ終わった、めでたし、めでたし、ですますのではなく、毎年過ごすたびに主の再臨を待ち望む心を呼び覚まして、身も心もそれに備えるようにしていかなければなりません。イエス様の再臨の日とは、今ある天と地が終わりを告げて新しい天と地に創造し直される日です。それはまた、最後の審判の日、死者の復活が起きる日でもあります。イエス様が教えられたように、その日がいつであるかは、父なるみ神以外には誰にも知らされていません。それゆえ、大切なのは「目を覚ましている」ことである、と。主の再臨を待ち望む心を呼び覚まし、身も心もそれに備えるようにする、というのが、この「目を覚ましている」ということです。

 本日の使徒書の日課である第一テサロニケ5章にも、イエス様の再臨の日にどういう状態でいなければならないかについて述べられています。

「どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つかけたところのないものとして、守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものにしてくださいますように。あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます。」(23ー24節)

「平和の神」というのは、神がひとり子イエス様の犠牲の上に人間との間に平和な関係を打ち立てたということを意味します。イエス様の犠牲とは何か?どうしてそれが神と人間の間に平和を打ち立てたのか?そのことは後ほどみていきます。パウロは、その平和の神が信仰者を頭のてっぺんから足のつま先まで全部を清めて、神聖な神の前に立たされても大丈夫なようにして下さいますように、と祈ります。神が人間を清めて神聖に相応しい者にするのがどうして大事なのかと言うと、次に「主イエス・キリストの来られるとき」と言われるようにイエス様の再臨があるからです。イエス様の再臨の時というのは最後の審判の時であり、そこで誰が神の御国に迎え入れられ、誰が迎え入れられないかという問題が起きてきます。神が人間を清めて神聖に相応しい者にしてくれると、人間は神の前に立たされた時、「この者の霊はパーフェクトで、魂と体も文句のつけようがない」と認めてもらえるのです。人間がそのようになることをパウロはここで祈っていて、神は約束をちゃんと守る忠実な方なので、祈られたことを必ず果たしてくれると言っているのです。どのようにして神は人間を清めて、最後の審判の時に神の前に立たされても大丈夫のようにしてくれるのかについては後ほどみていきます。

ところで、今ある天と地が新しい天と地に取って代わられるとか、最後の審判とか言うと怖くなって、誰もそんな日は待ち望みたくないと思うでしょう。確かに聖書というのは、今ある世は初めがあったように終わりもあるという立場に立っているのはわかるが、そんな世の終わりなどというものを考えていたら、今生きていることが意味のないものに感じられてやる気がなくなってしまうじゃないか、と。しかし、キリスト信仰にあっては、そのような無力感に陥ることはありません。キリスト信仰者は、今ある命と人生は自分の造り主である神から与えられたものであるという自覚に立っています。それで、各自、自分が置かれた立場、境遇、直面する課題というものは、取り組むために神から与えられたものという認識があります。それらはまさに神由来であるがゆえに、世話したり守るべきものがあれば、忠実に誠実にそうする。改善が必要なものがあれば、そうする。解決が必要な問題は、解決に向けて努力していく。こうした世話や改善や解決をしていく際には、判断の基準として常に、自分は神を唯一の主として全身全霊で愛しながらそうしているかどうか、ということを考えます。それと同時に、神への全身全霊の愛に基づいて、隣人を愛しながらやっているかどうか、ということを考えます。

このようにキリスト信仰者は、現実世界の中にしっかり留まり、それとしっかり向き合い取り組みながら、なおかつ、心の中では主の再臨を待ち望むのです。無力感に浸ってなどいられません。(また、新しい天地創造だとか最後の審判などと言っても、その時まで生きていなければ関係ないだろうと言う人もいるかもしれません。しかし、キリスト信仰には復活の信仰というものがありまして、その日まで生きていなくとも、その日目覚めさせられて神の前に立たせられるので、結局は同じことになります。)

さて、主を待ち望む信仰者が心得ておくべきことがいろいろあります。本日の福音書の箇所は、そのことについてひとつ大切なことを教えています。今日は、そのことを見てまいりましょう。

 2.

 本日の福音書の日課は、洗礼者ヨハネが来るべきメシア救世主のために道を整える役割を果たしたというところです。ヨハネは、人々に「悔い改めよ」と説いて、来るべきメシア救世主を受け入れる準備としての洗礼を施し始めました。当時のユダヤ教社会の宗教指導者たちは、ヨハネのことを、神の裁きが始まる前に神から送られる預言者エリアではないかと心配しました。というのは、旧約聖書のマラキ書3章にそのことについての預言があるからです。エリアというのは、列王記下2章に記録されていますが、生きたまま天に上げられた預言者です。ユダヤ教社会では、マラキ書の預言のゆえに、神は来るべき日にエリアを御自分のもとから地上に送ると信じられていました。しかし、洗礼者ヨハネは、自分はエリアではなく、ましてはメシア救世主などでもない、自分は、イザヤ書40章に預言されている「主の道を整えよ」と叫ぶ荒野の声である、と自分について証します。つまり、神の裁きの日、この世の終わりの日は実はまだ先のことで、その前に、本日の旧約の日課イザヤ書61章に預言されている「神の僕」が来なければならない。自分はその方のために道を整えるものだ。そう、ヨハネは自分の役割について証をします。そのために、人々に罪の告白をさせて、身も心も神に立ち返られるようにする手助けとして洗礼を授けたのです。ただ、これはまだイエス様がもたらすことになる、「罪の赦しの救い」そのものを与える洗礼ではありませんでした。ヨハネの洗礼は、人々を「罪の赦しの救い」に導くための出発点だったのです。

「主の道をまっすぐにせよ」とは、ギリシャ語の単語ευθυνατεは「平らにせよ」とも訳せますが、要は道を整えなさいということです。主が遠方から私たちのところにやってくるので、私たちのところに来やすいように曲がりくねっている道を真っ直ぐにし、道の上の障害物を取り除きなさいということです。バリアフリーにしなさいということです。ここで一つ注意しなければならないのは、天の父なるみ神も、また神が送られるメシア救い主も、もし本気で私たちのところに来ようと思えば、障害物などものともせずに到達できます。もし到達できないとすれば、それは彼らに障害物を超えられない弱さがあるからではありません。私たちが自分で障害物をおいているか、または取り除かないままにして、ここから先は来ないで下さいと決めてかかるので、神の方でそのままほっておかれるのです。

 私たちの内にある、神と救い主の近づきを妨げる障害物とは何でしょうか?それを考えてみたく思います。それがわかったら次は、どうやったら私たちはそうした障害物を取り除くことができるかを考えてみます。そもそも、神と救い主が私たちに近づくというのは、どういうことなのでしょうか?私たちは、その近づきが本当に良いものであるとわからなければ、何が障害になっているのか、それはいかにして取り除くことができるのか、そういうことには興味を持たないでしょう。そういうわけで、最初に、神と救い主が私たちに近づくということはどういうことなのか、どうしてそれが良いことなのか、ということについて考えてみます。

「神が近づく」とは、神が遠く離れたところにいる、だから、私たちに近づくということです。神はなぜ離れたところにいるのか?実を言うと神は、もともとは人間から離れた方ではありませんでした。創世記の初めに明らかにされているように、人間は神に造られた当初は神のもとにいられたのです。それが、最初の人間アダムとエヴァが悪魔の言うことに耳を貸したことがきっかけで、神の言葉を疑い、神が取ってはならないと命じた実を食べてしまいました。この神への不従順が原因で人間の内に、神の意思に背こうとする罪が入り込み、その罪の呪いの力が働いて、人間は死ぬ存在になってしまいました。「ローマの信徒への手紙」6章23節で使徒パウロが、罪がもたらす報酬は死である、と言っている通りです。人間は、代々死んできたことから明らかなように、代々罪を受け継いできたのです。このように、神が人間から離れていったのではなく、人間が自分で離別を生み出してしまったのです。人間は神との結びつきを失ってしまっただけでなく、罪のゆえに神との間に敵対関係が生まれてしまいました。神は、罪を目の前にすると焼き尽くせずにはおられないほどの神聖さを持つ方なのです。

 人間がこうした状態に陥ったことに対して、神はどう思ったでしょうか?身から出た錆だ、勝手にするがいい、と冷たく引き離したでしょうか?いいえ、そうではありませんでした。神は、人間が再び自分との結びつきを持って生きられるようにしてあげよう、たとえこの世から死ぬことになっても、その時は永遠に自分のところに戻ることができるようにしてあげよう、と考えて人間救済の計画をたてました。そして、それを実行するために、ひとり子のイエス様をこの世に送られたのです。神のこの救済計画は、旧約聖書を通して、その都度その都度預言されてきました。実に旧約聖書というのは、来るべき救世主について証する書物群なのです。

 さて、神が人間の救いのために行ったことは以下のことです。人間は自分の力で罪を心身から除去することができません。それが出来ないと、罪の呪いの力の下に留まるしかありません。そこで神は、人間の全ての罪を全部イエス様に背負わせて、彼があたかも全ての責任者であるかのように仕立てて、十字架の上で全ての罰を受けさせて死なせました。このイエス様の身代わりの犠牲に免じて、人間の罪を赦すという手法を取ったのです。罪の赦しを受けた者はもう罰を免れるので、罪の支配下にいないことになります。さらに神は、一度死なれたイエス様を死から復活させて、堕罪以来閉ざされていた永遠の命への扉を人間に開かれました。このように神は、ひとり子イエス様を用いて、人間を罪の支配下から解放し、死を超える永遠の命の可能性を開いて下さったのです。これが、天地創造の神による人間救済です。

 このように、遠いところにおられる神は、ひとり子イエス様を人間のいる地上に送ることで私たちに近づかれたのです。それは、私たち人間が神との結びつきを回復して、再び永遠の命を持つことができるようにするためでした。このことは、ヨハネ福音書3章16節にイエス様の言葉として凝縮されています。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

 3.

それでは、神がこのように私たちに素晴らしく近づかれた時、私たちの方で神の近づきを妨げるものは何でしょうか?この問いに答える前に、まず逆に、どうやったら神の近づきを受けることができるのかを見てみましょう。

私たちは、十字架に架けられたイエス様が全ての人間の全ての罪を背負われたと聞きました。その時、まさに自分の罪が他の全ての人たちの分と一緒に十字架上のイエス様の肩に重くのしかかっていることに気づくことができるでしょうか?それが決め手になります。ああ、あそこに血まみれになって苦しみあえいでいるイエス様の肩と頭に、私の罪がはりつけられている、と直視することができるでしょうか?それができた瞬間、それまでは歴史の教科書か何かの本で言われていたこと、2000年前の彼の地である歴史上の人物が処刑されたという遠い国の遠い昔の事件が、突然、現代のこの日本の地に生きる自分のためになされたのだということが明らかになります。それはもう、異国の宗教の話などではなく、まさに天と地と人間を造り、自分にも命と人生を与えて下さった造り主である神の計らいだったということが明らかになります。あのおぼろげだった歴史上の人物が、突然自分の目の前に自分の救い主として立ち現われてきます。

 イエス様が救い主として立ち現われたら、それはもう彼を救い主と受け入れていることになります。人間は、イエス様を自分の救い主と信じた時、神から相応しい者、義なる者と認められます。「お前は私がお前に送ったイエスを救い主と信じた、だから彼の身代わりの犠牲に免じて、お前の罪を赦そう。」そう神は言ってくれるのです。私たち人間は肉を纏っている以上は誰もが罪を内に宿しています。それにもかかわらず神は、イエス様を救い主と信じる以上は罪を赦す、と言われるのです。罪が赦されるというのは、先ほども申しましたように、神の裁きがなくなったということです。神の裁きがなくなったということは、人間をなんとしてでも裁かれるようにしようと必死だった罪があわれにも、イエス様を信じる者に対してはそうする力を失ってしまったということです。まさに人間は、罪の赦しを受けることで神との結びつきを回復でき、神との敵対関係がなくなって平和な関係になります。イエス様のおかげで罪から解放され、神との平和な関係に入った者は今度は、これからは神から頂いた愛と恵みに相応しい生き方をしよう、自分の命はイエス様の犠牲によって新しくされたのだから、何が神の意思に沿うかよく注意しよう、という心になります。使徒パウロは、本日の使徒書の箇所でも他の箇所でも、命を新しくされた者たちの心得を何度も何度も説いています。「全てを吟味して、良いものにしっかり留まり、悪いものを遠ざけなさい。」(第一テサロニケ5章21ー22節)。

しかしながら、罪の支配力が無になったとは言っても、力を無にされた罪は怒り狂って、あたかもまだ力を持っているように見せかけて、隙を見つけては信仰者を惑わし、再び罪の支配下に置いて、神との結びつきや平和を失わせようとします。これが悪魔の仕事です。人間は、イエス様を唯一の救い主と信じる信仰で「罪の赦しの救い」を受け取ることができるのですが、それが一過性のもので終わってしまったら、それは救いではありません。この救いを持続的に持てるために、洗礼が必要なのです。なぜなら、洗礼によって、人間に神の霊、聖霊が注ぎ込まれるからです。聖霊は、私たちがこの世の人生の歩みの中で、ややもするとイエス様が唯一の救い主であることを忘れたり、自分が救われた者であることを忘れてしまう時に、いつも私たちをイエス様のもとに連れ戻す働きをします。救い主がついていて下さることを忘れさせようとするのは、私たちに残存する罪や悪魔だけではありません。私たちが人生の中で遭遇する様々な苦難や困難も忘れさせようとします。そのような時でも、イエス様が私たちの救い主であることになんら変更はない、私たちが救われていることは洗礼の時からそのままである、としっかり応じられるのは、これは聖霊が働いている証拠です。使徒パウロも同じ聖霊の働きを受けて次のように述べたのです。

「死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない。」(ローマ8章38ー39節)

 4.

 以上から、神とひとり子イエス様の近づきを受けるためには、人間の方で自分には罪がある、たとえ行いに現れなくても心の中に神の意思に反するものがある、と認めなければならないことが明らかになります。そうしてみると、罪を認めることが神とイエス様の近づきの妨げを取り除くことになります。これは少し変な感じがします。というのは、自分には罪がある、神の意思に逆らうものがあると認めたら、かえって神やイエス様は近づいてくれないのではないかと思われるからです。しかし、そうではないのです。これまで見てきたように、本当は罪を認めたら、イエス様が私たちの心に入って来て、私たちは新しく生まれ変わるのです。そうすると、イエス様の近づきを妨げるものは何かと言うと、ずばり、それは罪を認めないことになります。それが、道を整えないことになります。

それでは、どうして自分には罪、神の意思に反するものがある、と認めないということが起こるのでしょうか?キリスト信仰で罪が強調されることが反発を生み出すことが考えられます。「完璧な人間などいないのだから、絶対で神聖な神など持ち出さず、あくまで人間同士の問題にとどめて、事を必要以上に大きくしなくてもいいではないか?全て善い悪いは、人間の考えや感情を基準にして決めて行けばいいのだ。神など持ち出されるといつも後ろめたくなってしまう」と。しかし、逆説的ですが、キリスト信仰では一瞬後ろめたさが起きても、すぐ大きな安心が来てそれを吹き飛ばしてしまうのです。そういう大きな安心がいつも控えているのです。そんな安心感はどこから来るのか?キリスト信仰者は、自分の命はイエス様に支えられていると知っています。そして、このイエス様のおかげでいつか神の前に立たせられても大丈夫でいられるということも知っています。なぜなら、自分を造ってくれた神がこの自分を、神の意思にそぐわなくなってしまったにもかかわらず、ひとり子イエス様の犠牲のゆえに受け入れてくれたということが土台になっているからです。この神の私たちに対する愛は私たちを驚かせ、私たちを謙虚な者に変え、感謝の気持ちで満たします。そこから私たちは、神の意思に沿う生き方をしよう、と志します。しかし、それはいつも限界にぶつかり、挫折もします。それゆえ、主日礼拝で罪の告白を相も変らず唱え続けなければなりません。告白に続く罪の赦しは、「洗礼でお前に与えられたものは何も失われていないから安心して行きなさい」と確証を与えます。

このように、主の道を整えるとは、障害物を取り除き道を整えるとは、洗礼を受ける前だけではなく、洗礼を受けた後も続きます。ルターは、人間が完全なキリスト教徒になるのは、死ぬ時に朽ち果てる肉体を脱ぎ去って、復活の日に朽ちない体をまとう時になってからだと教えます。その日までは、神の意思に反することが自分自身にも自分の周囲にも沢山現れて、私たちを気落ちさせて、神の愛などない、神の意思に沿うように生きるなど無駄なことだと思わせようとするでしょう。本説教の初めに申しましたように、キリスト信仰者とは世話したり改善したり解決したりするものがあれば、忠実に誠実にそうする。しかし、本当は良い結果をもたらしたかったのだが、力不足でできなかったということがあります。あるいは周囲から「クリスチャンのくせに、大したことないな」などと失格者のように言われることもあります。しかし、あなたが世話や改善や解決に努力した時に、忠実に誠実に行ったことは天の父なるみ神はちゃんと見て知っています。真実を知らないでとやかく言う者がいても、それは神でもなんでもありません。そういう人に対して慌てる必要はありません。イエス様が共にいて下さる限り神に対してやましいところは何もないということであれば、何も恐れる必要はないのです。

そういうふうに考えると、上手い言い方ではないかもしれませんが、キリスト信仰者には「ふてぶてしさ」があると思います。本日の旧約の日課イザヤ書61章では、神に遣わされた者が人々に自由と解放をもたらすという預言がありました。神に遣わされた者とは、もちろんイエス様を指します。罪の束縛から解放された者は「神の栄光を現わすために植えられた正義の樫の木と呼ばれる」とあります(3節)。「樫の木」アイルאילとは、ヘブライ語の辞書では特に何の木か特定されておらず、単に「巨大な木」です。「正義」も、神に相応しいとされるという意味で「義」צדקと訳した方が良いと思います。「罪の赦しの救い」を受けた者は、神が植えられた義の大木である、ということです。どーんと構えている大きな木です。しかも、この世に神の慈愛に満ちた栄光を現すために植えられたというのです。自分の栄光を現わすためではありません。それで、「ふてぶてしさ」とは言っても、とても謙虚なふてぶてしさなのです。不思議なことですが、そうならざるを得ないのです。

そういうわけで兄弟姉妹の皆さん、私たちは神が植えられた義の大木であることを忘れずに進んで行きましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

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