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説教「通常の生活を送る力はどこから来るか?」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書14章22-33節 | 日本福音ルーテルスオミ・キリスト教会 / 中野区 – 東京

説教「通常の生活を送る力はどこから来るか?」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書14章22-33節

主日礼拝説教 2017年9月3日 聖霊降臨後第13主日

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1. 
今年の夏のフィンランドは20度を超える日があまりない冷夏でした。夏を謳歌したい北欧の人たちにとって残念なことだったのは天候だけではありませんでした。それは、フィンランドでもテロ事件が起こったのです。8月17日にスペインのバルセロナなどで15人の犠牲者を出すテロ事件が起きた2日後、私たちが滞在していたトゥルク市の中心にあるマーケット広場で、スペインの時と同じ国出身の若者が刃物で無差別殺傷事件を起こし、2人が命を落とし8人が重軽傷者という犠牲者を出しました。スペインの事件ではISが犯行の関与の声明を出したということですが、フィンランドの方は捜査が進むにつれて、犯人がISの思想の影響を受けていたことが明らかになってきました。

 フィンランドは2年前欧州を揺るがした移民難民の大量流入の時、3万人近くを受け入れました。人口550万ほどで3万人とは、1億2500万の日本で考えたら70万近く入ったことになります。かつては他の北欧諸国に比べて移民難民の受け入れに消極的だったフィンランドでしたが、時代は変わったと思わせました。もちろん移民難民の受け入れに反対するポピュリスト政党も大きな勢力を持っています。ちょうど夏前に同党の強硬派と穏健派が分裂した後だっただけに、今回の事件が政治的にも影響を与えることが心配されます。

 さて、今回の事件の捜査や裁判の行方がどうなるか、またフィンランドの政治や社会がどのような方向に進むかという話しには立ち入らないことにします。それなら、なぜ説教の冒頭でこの事件を取り上げたのかというと、良識ある市民の対応を報道などを通して追っているうちに、本日の福音書の箇所が大きな意味を持っていることに気づいたからです。本日の箇所の、イエス様が溺れかけたペトロに手を差し出して引き上げて助けた場面です。

 テロ事件の後、世論の中でスローガン的に言われた言葉に次の二つのものが頭に残りました。一つは「憎しみを憎しみで返すな」です。もう一つは「出来る限り通常の生活を続けよう」というものです。この二つは真理だと思います。というのは、テロリズムの目指すところにあるものは、相手に憎しみを掻き立てて同じ土俵に引き込もうとすることであり、また相手が憎しみや恐怖に満たされて通常の生活が出来なくするようにすることだからです。それで、「憎しみを憎しみで返さない」、「出来る限り通常の生活を続ける」ことほど、テロリストを悔しがらせることはないのです。

とは言っても、「憎しみを憎しみで返すな」とか「悪に悪で報いるな、善で報いよ」というのは、なかなかできることではありません。こうしたことは、イエス様の教えにも、またそれを受け継ぐパウロの教えにもはっきり言われているのですが、キリスト教徒でも実践するのは困難です。それでも、キリスト信仰には、そういう教えに絶えず心と目を向けさせる力が働いているので、信仰者に大きな葛藤をもたらします。私は以前の説教でこの難しいテーマについて触れたことがありますが、そこで申し上げたことは、キリスト信仰の中の二つの要素が人間の心と目をそういう方向に向けさせる力を生み出している、二つの要素とは、一つはイエス様を救い主と信じる信仰であり、もう一つはそれと密接に結びついていて、最後の審判と死者の復活の信仰がそれです。このテーマは、この世が存在する限りは無くなることのないテーマですので、これからも繰り返し説教の中で取り上げられるでしょう。それで、本日の説教では、本日の福音書の箇所に関係する、もう一つのテーマに絞ってみます。それは、「出来る限り通常の生活を続ける」ということです。

今回のフィンランドのテロ事件は、犠牲者の遺族や関係者だけでなく、全国民的なショックを与えました。受けたショックに対しては、「一人でとじこもったり、一人で考え込んではいけない、思いを言葉にして他の人に聞いてもらいなさい、思いを語られたら聞いてあげなさい」ということをよく耳にしました。事件のあったマーケット広場の一角は沢山の蝋燭と花束が置かれ、連日多くの人が取りまいていました。その中に赤十字の職員やボランティアが何人も出ていて、思いを打ち明けたい人たちの話を聞いている場面を目にしました。また、事件が起きたのが金曜日だったので、週明けの月曜日は市内の学校では最初の授業時間に先生が事件について明らかになっていることを話し、生徒の思いを聞くことをしました。これは、ネットなどで根も葉もない情報が飛び交って、恐怖や憎しみを煽り、子供たちが惑わされないようにするために重要な指導でした。事件当日は本当にデマ情報も流れたのです。月曜日のテレビ・ニュースのインタビューで中学生の生徒が「話し合いをして良かった。これからどうなるか心配したが、話し合いの後クラスのみんなは授業に集中できたと思う。クラスの雰囲気は前と同じに戻ったと思う」と話していたのが印象的でした。

2.

テロ事件に限らず、大惨事とか悲劇的なことが起きると、悲しみや恐怖が人々に拡がります。その時、通常の生活がもろく崩れやすいものに感じられ、確かなものを失ったという喪失感に襲われます。テロ事件のようなことが起こると、これからは危険と隣り合わせに生きなければならないということを否が応でも意識します。そうなると「出来る限り通常の生活を続ける」というのは、自然に出来ることではなくなって、本当に意識して努力してしなければならないものになってしまいます。一人で籠っていろんな感情の虜にならないようにするために、話をする、聞いてあげる、というのは基本的なことです。それでも、危険と隣り合わせということを意識して、出来る限り通常の生活を続けるというのは、何か足かせをして前に頑張って前に進まなければならないような重々しさがあります。大人や親は、子供がのびのびと自然に通常の生活を送れるように守る責務があると思います。しかし、子供も大人になれば、通常の生活というものは空気のようにあるのではなくて、意識して送るもの、場合によっては努力して送らなければならないということを学ぶ必要があると思います。それは子供を守るためでもあり、自分自身のためだからです。人間は誰でもいつかは死を迎えるのだから、テロ事件があるかどうかにかかわらず、これは学ばなければならないことだと思います。もちろん、悲しみを生み出す出来事が大きすぎて、意識して努力するなどと言っても、通常の生活を続けるということが非常に困難になる場合もあります。意識するにも、努力するにも、力の源が必要です。どこにそんな力があるでしょうか?

少し脇道に入りますが、ドイツの有名な作家トーマス・マンの小説に「魔の山」というものがあります。主人公の青年が雪山で遭難しそうになって、吹雪の中で睡魔に襲われて夢を見ます。平和に満ちた海辺の町があって、そこには礼儀正しく思いやりに満ちて互いに敬意を表し合う、とても高潔な人たちが住んでいる。そこの若者たちもとても健康的で、見ていて思わず憧れてしまう。ところが、町の背後の山には不気味な神殿があって、そこでは血に飢えた鬼のような者たちが幼児を八つ裂きにしている。海辺の人たちは、実はそういう残酷で悲惨な世界が紙一重にあることを知っていて高潔に生きている。そう気づいた主人公の青年は、彼らはそういう世界があるのを知って、どう生きていこうかと考えて、結論として高潔に生きることを選んだのだと推論する。自分も彼らのように善良になりたい、と思った青年は、そのためには思考を死に服従させてはいけないのだ、と気づき、そこで目が覚める、そういう場面です。

それでは、危険や死と隣り合わせでも、それらに押し潰されない力はどこから来るのか?思考を死に服従させないのが鍵ならば、その具体的な手引きは何で、それを行える力はどこから来るのか?マンの小説に答えはないのではないかというのが、2回読んだだけの私の見解です。もしそうだとしたら、マンの意図というのは、世界にはいろんな宗教や信条があるのだから、答えはそれぞれが自分で見つけなさい、という、読む人に問題点がどこにあるのかを明らかにして示すことにあったのでは、というのが現在の私の解釈です。それが的を得ているか得ていないかという議論はしませんが、危険や死と隣り合わせでも、それらに押し潰されない力、出来る限り通常の生活を送る力はどこから来るかという問いに対しては、キリスト信仰者は聖書から答えを見出します。本日の福音書の箇所も答えを与えています。

3.

焦点となる場面をよく見てみましょう。イエス様は、5千人以上の人たちの空腹を満たす奇跡を行った後、弟子たちに舟に乗ってガリラヤ湖の対岸に先に行っていなさい、と命じます。弟子たちは出発し、イエス様は群衆を解散させると、山に登って一人で祈りを捧げます。時刻はすっかり夜でした。強風がガリラヤ湖一帯に吹き始めます。弟子たちが乗った舟は、向かい風とそれがもたらす波に進行を妨げられて悪戦苦闘します。新共同訳によると舟は陸から「何スタディオン」離れていたとありますが、ギリシャ語原文では「何」どころか「たくさんの(πολλους)」スタディオンです。2,3スタディオン程度ではありません。1スタディオンは約192メートルということなので、仮に10スタディオンとすれば、大体2キロ程離れていたことになります。その時、山を下りたイエス様が、湖の上を歩いて舟に接近します。弟子たちは「幽霊だ」と言って「おびえた」とありますが、おびえたと言うよりは、ギリシャ語では「驚愕した」という位の強い意味の動詞(εταραχθησαν)で、恐怖のあまり叫び出すくらいのパニック状態に陥りました。

さて、水の上を歩いて来た者が幽霊ではなくイエス様とわかって、皆がホッとした時、ペトロがイエス様にあえて命じさせて水の上に乗り出します。新共同訳では「イエスの方に進んだ」(29節)と訳されていますが、これもギリシャ語原文を忠実に見ると、イエス様のところにほぼ到達した表現です(ηλθεν προς τον Ιησουν)。実際、ペトロが溺れ出した時にイエス様は手を差し出して引き上げたのだから、それくらい近くまで行っていたのです。それでは、ペトロが水の上を歩いた距離がどれくらいだったか推測できるでしょうか?水の上に立っているイエス様と舟の間の距離はどれくらいだったかということから考えると、夜明けの薄暗さと強風と波がある中でイエス様の声が聞き分けられたということなので、50メートルというのはどうでしょうか?長すぎますか?それなら30メートルはどうでしょう?30メートルでも、ペトロはそれをほぼ完歩したのです。しかも強風と波の中を、です。さて、溺れかけたペトロをイエス様は手で支えるようにしてか、または両腕で抱きかかえるようにしてかは、ギリシャ語の表現でははっきりしませんが、いずれにしても二人が舟に乗り込むと、風は止み、平穏な湖が戻ります。以上が本日の福音書の箇所の出来事の流れです。

4.

ペトロの一件をよく見ると、3つの段階があることに気づきます。初めにペトロは、イエス様が水の上を歩ける方だとわかり、そのイエス様がひと言命じて、それに聞き従えば、自分も歩けると信じて、実際そうなりました。イエス様が水の上を歩いたというのは、重力に関する自然法則を超えていたからです。天地創造の神が造られた天と地の中で効力を持つ自然法則、これをイエス様が超えたというのは、ヨハネ福音書1章や「コロサイ人への手紙」1章に言われるように、イエス様が神のひとり子として、乙女マリアから生まれる前は永遠の存在として天地創造の場面にも居合わせて創造の役割を担っていたのです。まさに父なるみ神と同様の万物の創造者なので、造られたもの、自然法則をも含む被造物を超えているのです。水の上を歩くというのは、まさに神の子としての一面を現わしたということです。ペトロは、この方の言葉を信じて従えば、同じことが出来ると信じました。そして、まさにそうなりました。しかし、それが出来たのはペトロの力ではありません。それは、完全にイエス様の力によるもの、「来なさい」という言葉に秘められたイエス様の力によるものでした。その言葉をそのまま受け入れたので、言葉に秘められた力がそのまま働いたのです。これが第一の段階です。

次の段階は、場面の描写をよく注意してみる必要があります。新共同訳ですと、ペトロはイエス様に向かっている最中に風に気づいて、それで怖くなって溺れ出した、という訳です。つまり、最初は風に気づいていなかったが、歩いている最中に突然気づいてしまったという表現です。ところが、ギリシャ語原文をよく見ると、そうではなく、「風に気づいた」の「気づいた」は「見る」(βλεπω)という動詞で、その用法は、水の上を歩き出してからイエス様の所に到達するまで、そして怖くなって溺れ出すまで、ずっと一貫して「見ている」(現在分詞、あとの動詞は全部アオリスト)という意味です。ペトロは途中で気づいたのではなく、ずっと風も波もイエス様と同じくらい眼中にあったのです。それで危険な状態があるということは頭のどこかにあるはずなのですが、イエス様の力を信じることが恐怖を上回っていて、「来なさい」というイエス様の言葉が耳に大きく響き、風の音は気にならない雑音にしかすぎなかったのです。ところが時間が経つうちに、雑音が大きく響きだし、イエス様よりも波風の方が強く目に入いるようになって、信じることと恐怖が逆転してしまいました。この、恐怖と信じることの力関係が逆転したことが第二段階です。

この逆転が起きると、自然法則を超えるイエス様の力が働かなくなってしまい、ペトロはその法則の中に吸収されてしまいました。そうなると今度は、被造物である人間の能力や努力で水の上に立たなければなりません。しかし、自然法則の圏内に置かれれば、どんなに踏ん張っても力を込めても、沈むものは沈んでしまいます。

溺れ出したペトロはイエス様に「助けて下さい」と叫びます。イエス様は手を差し出してペトロを引き上げます。これが第三段階です。ここで、「助けて下さい」というのは、ギリシャ語の原文では「救う」という意味の動詞(σωζω)、キリスト信仰で言う、罪の支配からの「救い」、神の罰からの「救い」、死を超えた永遠の命に与る「救い」というような、個々の困難からの脱出を超えた広い意味を持つ言葉です。溺れることから「助かる」という直近のことだけでなく、人間の「救い」に関係する言葉です。

このことからこの出来事を捉えなおすと次のようになります。ペトロが溺れ出したというのは、人間が自分の力で神聖な神のもとに自分を引き上げようとするとどうなるか、ということを象徴しています。人間は自分に内在する罪をそのままにしては父なるみ神のもとに引き上げてもらうことはできません。なぜなら、神は罪の汚れとは全く対極にある神聖な方だからです。ペトロが溺れ出したというのは、人間は自分の力で罪の汚れを拭い去ることができないことを如実に象徴しているのです。

そこでペトロがイエス様に叫んですぐ手を出してもらって引き上げてもらったというのは、まさにイエス様が人間に代わって罪の問題を解決して下さったということ、そのイエス様に全身全霊に委ねることでイエス様がしてくれた解決を自分の解決のように頂けて、それで神の御許に引き上げてもらえることを象徴しています。イエス様が人間に代わって罪の問題を解決してくれたというのは、十字架の出来事として歴史上の出来事としてあります。神話とか作り話ではありません。そこで、十字架の出来事とは何かと言うと、神のひとり子が人間に代わって人間の受けるべき神罰を全部引き受けて下さった、まさに神聖な生け贄になった、ということです。それで話は終わりません。イエス様は一度死なれたが、三日後に父なるみ神の力で復活し、そのようにして死を超えた永遠の命があることを示され、その扉を人間のために開かれました。人間は、これらのことが全部自分のために行われたとわかってイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、イエス様に全身全霊で「私を助けて下さい、救って下さい」と叫べるようになり、ペトロのように引き上げてもらえるようになったのです。

たいていの人は、イエス様に手を差し出してもらって引き上げてもらえると聞くと、人生のいろんな困難や危機において「助けて」もらえることを考えるかもしれません。もちろん、それもあります。しかしながら、人間の命にとって一番重要で決定的なことは、この世を去る時に自分の造り主のもとに引き上げてもらえるかどうかということです。このような命の決定的な場面でも「救って」下さる神のひとり子を救い主として信じる信仰、この信仰があれば、人生の中で嵐が吹き荒れ大波が荒れる時でも、いつもイエス様は手の届くところにおられるのだと安心することができます。イエス様は「助けて下さい、救って下さい」という叫びに必ず応じて手を差し出して引き上げて下さいます。それは、この世の人生の中の個々のいろんな困難や危機の時もそうだし、一番重要で決定的な、この世を去る時にも手を差し出して引き上げて下さいます。これが確実なことだ、と信じられるのは、何といっても、イエス様の十字架と復活の出来事があるためですが、その出来事が起きる前にも、ペトロを水の中から引き上げことで、そうして下さる方であることを具体的に示していました。この世を去る時にそうして下さるのなら、この世の人生の中でも個々のいろんなことでも引き上げて下さると信じられるのです。このことが、死や危険と隣り合わせにいる緊張感があっても、重々しくならず、出来るだけ普通の生活を続けることを意識し、努力する力を生み出すのです。まさに聖書を通してその力が与えられるのです。

5.

終わりに、フィンランドのテロ事件から1週間後、国教会のトゥルク市とその近郊の有志の呼びかけで、事件の場所に集まって讃美歌を一緒に歌うということがあったので、それについて触れておきましょう。トゥルク市交響楽団の団員が伴奏を担当し、集まった人たちが歌ったのはフィンランドの教会讃美歌600番「善の力の驚くべき守りに」でした。それは、悪の力に襲われた時、父なるみ神に身を寄せることの大切さを歌う内容です。曲はフィンランドの作曲家によるものですが、作詞は誰のものかというと、これがかの有名なドイツの神学者ディートリッヒ・ボンヘッファーによるものなのです。あの、ナチス・ドイツの時代に反体制の態度を示して強制収容所に送られて処刑された悲劇の神学者です。その彼が処刑される前年に書いたテキストがフィンランド語に訳されて讃美歌になりました。ドイツ語の原文が手に入らなかったので、ここではフィンランド語訳を紹介します。神から差し出される手にしっかり掴まることが言われています。危機や悲惨なことが起きて心がかき乱されて、これからどうなるかと不安に陥る時、父なるみ神とみ子イエス・キリストへの信頼を今一度思い起こさせ心を落ち着かせ、通常の生活を送れる力を与えてくれる讃美歌だと思います。

 

「善の力の驚くべき守りに」フィンランド教会讃美歌600番

1.善の力の驚くべき守りに
我らは皆静かに包まれている。
忠実な創造主に信頼して
今ともに新しい時に進み行かん

2.苦難の道、我らの前に立ちはだかるなら、
キリストはその時も我らを運び往かん。
我ら命を父なるみ神のみ手に委ね、
神自ら我らに平安を備えたまう。

3.主よ、希望の蝋燭に輝きを与えたまえ。
ともし火に安らかな、温かな光を与えたまえ。
闇に光を投じ、恐れを取り除きたまえ。
キリストよ、我らの間に留まりて平和を来たらせたまえ!

4.悪の支配が周囲で勢いを増すとき、
御国の声を轟かせたまえ。
御国の民が新しい賛美の調べで今もう歌っているのを
我らが聞き入ることができるようにしたまえ。

5.善の力の忠実な源である方
何が起ころうとも我らを覆い包んで下さる。
夕べから朝まで闇の時もずっと共にいて下さる創造主
彼から我らは新しい日を受け取る。

フィンランド語で聞く

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

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このサイトに引用されているのは聖書新共同訳です。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会

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(c)日本聖書協会 Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988
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  • 1月 27日 10:30 am
    主日礼拝
    司式・説教吉村博明宣教師(ルカ5章1~11),礼拝後交わり。
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