説教「キリスト信仰者と心配事」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書6章24ー34節

主日礼拝説教 2017年6月18日 聖霊降臨後第二主日

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.本日の福音書の箇所のイエス様の教えはよく知られているところの一つです。特に、思い悩んではいけない、と教えるところでは、空の鳥をよく見なさい。天の父なるみ神が空の鳥と野の花をいかに養い飾って下さっているかを見なさい、と言います。空の鳥は種を蒔かず、刈り入れもせず、刈り入れたものを倉に納めることもしない。それなのに神はちゃんと養って下さる。あなたがたは鳥よりも価値あるものではないか。また、野の草花もあくせく働かず、糸紡ぎもしない。枯れてしまえば炉に投げ込まれて燃やされてしまうだけなのに、それを神はこんなにきれいに装って下さる。あなたがたにはなおさらのことではないか。このイエス様の言葉を聞いてどれだけ多くの人が感動して思い悩むことから解放されたでしょうか?本日の箇所の終りにある言葉野の花も有名です。「だから明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」この言葉を聞いて、どれだけ多くの人が勇気づけられたでしょうか?

 こういう励ましや力づけの言葉は、もちろんイエス様は沢山語りました。しかし、イエス様以外にも励ましや力づけの言葉を話したり書いたりした人は歴史上、古今東西大勢います。そこで、そういう言葉を沢山知っていれば、悩みから解放され、絶望に陥ることもないかもしれません。キリスト教会の礼拝の説教は、聞く人に励ましや勇気づけを与えることが期待されています。それでか説教者によっては、イエス様の言葉や聖書以外のものを並べて、あの哲学者はこう言った、あの宗教の創始者や実践者はこう言った、とちりばめて、最後に、結局人間の知恵というものは言い方や立場は違っていても深い所では皆共通しているのだ、というような持っていき方をする人もいます。本説教では、話をそういうふうに拡げないで、あくまでイエス様を中心に話を進めて行こうと思います。どうしてかと言うと、「思い悩むな」というイエス様の教えの中には、キリスト信仰に特殊なものがあるからで、それを明らかにしないで、人類皆共通というのはちょっと早急すぎると思います。共通のものがあるかどうかは、その特殊なものを明らかにしてから考えても遅くはないでしょう。

 それでは、そのキリスト信仰に特殊なものとは何かと言うと、イエス様が思い悩むなと教える根拠に、「神の国と神の義を求めよ」という教えが関係していることがあります。ここでのイエス様の教えは一見すると、鳥や花は思い悩むことなく食べていけて着飾っていられる、だから鳥や花より優れた人間はなおさらそうなので思い悩む必要はないという、自分を鳥の立場に置き換えることで思い悩みの観点を無効にする、そういうレトリックの技法があるように見えます。ところが、イエス様の教えをよく注意して読むと、神が鳥を養い花を着飾って下さる、それと同じように神は人間も養って下さる、と言っていて、要するに面倒を見て下さる神が土台にあります。思い悩みをしないですませられるのは、自分を鳥に置き換えるだけでは全く不十分で、神が養って下さるということを信じられないと出来ないのです。神が鳥を養い花を飾って下さるのと同じように自分をも養って下さると信じられれば、思い悩まないですむことになるのです。でも、何をもって神がそこまで面倒見のよい方であると信じられる根拠になるでしょうか?

 さらにイエス様は、何よりもまず、神の国と神の義を求めよ、そうすれば必要なものはみな加えて与えられる、と教えられます。つまり、私たちが神の国と神の義なるものを求めることがあって、それで神が養って下さるということがある。神が養って下さると信じられるのは、自分たちの方で神の国と神の義を求めることがあって、それで信じられるということです。神が養って下さると信じることができるためには、神の国と神の義を求めなければならない。さあ、大変なことになりました。神の国、神の義とは何なのでしょうか?それを求めるとはどういうことなのでしょうか?それらがわからないと、神が養って下さるということもわからず、心配事から解放されることもないのです。これから、そうしたことを明らかにしていきたく思います。

 

2.まず初めに、本日の福音の箇所の出だしである24節でイエス様は、神と富の両方に仕えることはできないと教えられていることを見てみます。「仕える」というのは、ギリシャ語では「奴隷として仕える」という意味の単語です(δουλευειν)。奴隷というのは主人の所有物ですから、所有物である奴隷には二人の所有者がつくことは不可能です。イエス様は、神ないし富に対する人間の関係も同じだと教えるわけです。つまり、どっちか一つにしか従属できない。どっちかに従属したら他方とは無関係になるのです。

 もちろん、人間が富の奴隷にではなく、富の主人になることもできます。そのことについて、ルターは次のように教えます。「もし人が財産の主人ならば、財産が人に仕えるのであり、人が財産に仕えることはない。どのようにして財産が人に仕えるかと言うと、こういうことである。君が服の無い人を見つけたとする。すると君はお金にこう命ずる。『親愛なる金貨君、出発しなさい。あそこに服の無い貧しい裸の男がいる。行って彼に仕えなさい。』また次のようにも命ずる。『お前たち価値あるお金よ、あそこに治療を受けられない病人がいる。彼のところに急行し、すぐ助けてあげなさい。』財産をこのように扱える者が、財産の主人なのである。」

 そういうわけで、もし財産が人を束縛して虜にしてしまい、ルターの教えるように財産を扱えない人はもうその奴隷であり、もはや神に従属していないことになります。イエス様の意図ははっきりしています。神と富の双方に仕えることはできない、どっちか一方にしか仕えることができない以上は、あなたたちは神に仕えなさい、神に仕えることで富の主人になりなさい、と教えているのです。それを受けて、25節の「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか云々と思い悩むな」と続いて行きます。つまり、ここの流れは「お前たちは富にではなく神に仕えなさい。だから、神に仕える者である以上は、お前たちは何を食べようか云々と思い悩んではならない」というふうになります。食べ物や着る物など生活の必要物は、もちろん、なくてはならないものです。しかし、それが心や頭を支配してはいけない、と言うのです。天の父なるみ神こそはお前たちの造り主であり、お前たちが何を必要としているかご存知で、お前たちの生活の必要物を準備して下さる方である。なのに、自分の造り主を忘れる位に心と頭を必要物のことで一杯にしてしまっている。そうであってはならない。また必要物のことを心配しすぎるあまり、神がそれを準備してくれることを忘れたり、疑ったりしてはならない、神を信頼しなければならない、というのがイエス様の教えの主旨です。

 ここのイエス様の教えで一つ注意しなければならないことがあります。それは、この有名な「空の鳥」「野の花」のたとえは誤解されることがあって、「空の鳥が種まきもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもせず、それでいて神は養って下さる」と聞くと、人によっては、「ああ、働かなくても神様は養ってくれるのか」と理解する向きがあります。イエス様は、働く必要はないと教えてはいません。イエス様が教えていることは、「種まきもせず、刈り入れもせず、倉にも納めることもしない鳥たちを神は十分に養って下さるのだから、お前たちのように種まきをし、刈り入れをし、倉に納めている者たちは、もっと養って下さるのだ。だから、なおさら心配の必要はないのだ」ということです。同じように、「働きもせず、紡ぎもしない野の花を神はきれいに装って下さるのだから、働いて、紡いでいるお前たちは、もっと素晴らしく装って下さるのだ。だから思い悩む必要は何もないのだ」ということです。つまり、働くことが前提されているのです。もちろん、働きたくても働けない人もいます。その場合は、仕事を探すことが働きになります。また病気が原因で仕事に就けない人は治療や闘病が働きになります。引退した人は、現役の人たちや子供たちを見守ったり励ましたり、祈ったりすることが働きになります。このように人には、置かれた立場に応じて、いろいろな働きがあります。

 もう一つ注釈したいことは、「命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか」(25節)というところです。ギリシャ語の原文の単語の意味が広いので難しいのですが、直訳すると「命は食べ物以上のものであり、体は衣服以上のものである」で、フィンランド語やスウェーデン語の聖書ではそうなっています。英語、ドイツ語の聖書は日本語と同じで「よりも大切」となっています。いずれにしても、生活の必要物に対する心配が心と魂を支配、コントロールしてはならないということを教えています。余談ですが、今の日本で長時間労働が原因で命を落とす悲劇があるというのは、働くことと神の養いの調和がなくなっている状態です。必要物を得る手段であったはずの仕事が命よりも大切になってしまうのは本末転倒です。

 それでは、富に対しては主人として、神に対しては従属する者として生きる者は、あとは働きさえすれば、必要物は満たされてくるかというと、ここでイエス様はひとつ大事な事柄を付け加えます。神に仕える者には追い求めているものがある。それは生活の必要物ではないが、それを追い求めているからこそ、必要物があとから付いてくるものである。それでは、神に仕える者が追い求めるものは何かというと、それが「神の国と神の義」なのです。33節「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」「加えて与えられる」というのは、ギリシャ語の動詞に忠実に訳せば「付け足される」とか「付け加えられる」です。「求めなさい」というのは、ギリシャ語のニュアンスでは「求めることを常としなさい」、「求めることを常態としなさい」です(動詞が現在形のため)。つまり、ここは「富ではなく神に仕える者であるお前たちは、働きつつも、いつも神の国と神の義を求めていなさい。そうすれば、生活の必要物は神の国と神の義の付け足しのようについてくる。だから、必要物のことを心配する必要はない。神に仕える者とは、それくらいに神を信頼する者である。この間、お前たちの心と頭を支配するものは、神の国と神の義でなければならない。」これがイエス様の教えの主旨です。それでは、神に仕える者が心と頭を一杯にし、追い求めなければならない「神の国と神の義」とは何かを見てみましょう。

 

3.イエス様が活動を開始する直前、洗礼者ヨハネが現れて、「神の国が近づいた」と宣べ伝えました。そして実際に神の国は、イエス様と一体となって到来しました。神の国がイエス様と一体となってきたというのは、彼の行った無数の奇跡の業に明らかに示されています。イエス様は、難病や不治の病の人たちを完治したり、群衆の空腹を僅かな食糧で満たしたり、嵐のような自然の猛威を静めたり、悪霊を追い出したりしました。そうした業を通して神の国が彼と一緒にあるということを示されました。神の国とは、要約すると、あらゆる邪悪なもの危険なものの力が及ばない国、神の意思と力で満たされた、奇跡が奇跡でなく普通になっている空間ないし領域です。今は天の父なるみ神のところにありますが、将来この世が終わりを告げる日、今ある天と地が新しい天と地にとってかわられる時に、「ヘブライ人への手紙」に記されているように、全ての被造物が崩れ去って、唯一崩れ去らないものとして現れてくるものが神の国です。黙示録によれば、そこに迎え入れられる者は神から目の涙を全て拭ってもらい、死も悲しみも嘆きも労苦もない国です(21章4節)。 

2000年前に神の国がイエス様と共に到来したというのは、彼の奇跡の業を通して人々に前もって神の国を少し身近に体験させる意味がありました。しかしながら、体験させてくれたとは言っても、人間はまだ神の国と繋がっていませんでした。難病や不治の病を治してもらったり、悪霊を追い出してもらったり、自然の猛威から助けられても、助けられた人たちはまだ神の国の外側に留まっていました。なぜなら、神の国に入れるためには、人間が神の目から見てふさわしい者になっていなければならないからです。神の意思を100%実現できる者でなければならないからです。つまり、そういう神の義を持っていなければならないのです。しかし、そんなことは罪の汚れに満ち、神聖な神から切り離された人間には不可能です。

神は、この憐れな人間が神の国に迎え入れられるようにして下さいました。どのようにしてかというと、ひとり子イエス様をこの世に送って、本来なら罪の汚れに満ちた人間が受けるべき罰を全てイエス様に負わせて十字架の上で死なせました。神は、このイエス様の身代わりの死に免じて人間の罪を赦すことにしたのです。私たち人間は、これらのこと全てが自分のためになされたのだとわかって、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで、神から罪の赦しの救いを受け取ることができるようになりました。こうして人間は、イエス様を救い主と信じる信仰によって罪の赦しの中で生きられるようになり、神の国に迎え入れられる資格を得られるのです。神は、私たちに残っている罪の汚れには目を留めず、私たちが洗礼の時に被せられたイエス様の清さを見られるのです。このようにまさにイエス様のおかげで、私たちは神の目に適う者とされて、神の義を持つことができるようになりました。

ここから「神の国と神の義を求める」、それも「常に求める」というのはどういうことかがはっきりします。それは、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によって罪の赦しを得て、神の目に適う者にされることです。その後はこの罪の赦しの中にしっかり留って神の国の資格を失わないようにすることです。そうすることが神の国と神の義を常に求めることです。万が一神の意思に反するようなことを考えたり行ったりしてしまった場合には、すぐ心の目をゴルゴタの十字架に向け、そこに罪の赦しが変わることなく打ち立てられていることを確認します。自分の命が神のひとり子の犠牲の上に成り立っているとわかればわかるほど、軽々しいことはどんどん出来なくなります。このようにして、神の与えて下さった罪の赦しから外れないようにしよう、その中にしっかり留まろうとする者は、神の国と神の義を常に求めているのです。

イエス様の純白な衣を離さないようにしっかり纏い、罪の赦しの中に留まるということは、神の一番望まれていることです。神の一番望まれていることですので、神の方からそれを止めさせるようなことは絶対にありません。何か困難や誘惑が起こって、イエス様の衣を手放しそうになったり、罪の赦しの外に出て行ってしまいそうになったら、そうならないようにと神は助けて下さいます。神が助けて下さる方であることは、神が三位一体の方であることを思い出すだけでもわかります。先週の主日は三位一体主日だったので、その時の説教でお教えしました。それを繰り返しますと、神には三つの人格とそれに応じた役割がある。まず、私たちが永遠の命を持てるようにと願って私たちを造られたという、造り主としての人格がある。そして、永遠の命を持てなくなるようにしようとする悪い力から私たちを買い戻して下さったという、贖い主としての人格がある。さらに、私たちがこの贖われた状態にしっかり留まれるようにといつも清めて下さるという、神聖化の人格がある。これら三つの人格は別々のようなものでも全部繋がっていて、一つでも欠けたら全体が成り立たなくなるもので、この全体こそは大いなる愛そのものとしか言いようがないものである。そういったことをお話ししました。

このような大いなる愛の神が私たちの側についていて下さるので、私たちはイエス様の衣をしっかり纏い続け、罪の赦しの中に留まることができます。そのような神がたえず傍にいて下されば、自分を押し潰そうとするかのような心配事や思い悩みはしぼんで影が薄くなります。イエス様が「思い悩むな」と言うのは、自分の力で無理して頑張って心配事を忘れろ、ということではありません。忘れようと頑張っても心配事は消えません。まず、神の愛と恵みを受け取りなさい、そして受け取った愛と恵みがどれほどのものかがわかれば、そっちの方が重みをもって、心配事の方は軽くなって自分を圧倒する力を失うのだ、ということです。心配事が力を失って軽くなったら、解決の大きな第一歩を踏み出したことになります。ほとんど解決したのも同然と言っていいのかもしれません。なんだか信じられない話ですが、それが聖書の神なのです。逆に、罪の赦しの救いを受け取っていない人は、自分を圧倒するような心配事にどう対処できるのでしょうか?圧倒しようとする力はそのままで、その力と格闘することから始めなければなりません。それだからこそ、多くの人が、イエス・キリストの罪の赦しの救いの福音を聞いて、その救いを受け取ることができるようにと願ってやみません。

 

4.ルターは、キリスト信仰者は心配事にどう向き合ったらよいのかについていろいろ教えています。本説教の終りにその一つを紹介したく思います。それは第一ペトロ5章7節の聖句「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」についてのルターの解き明しです。この聖句は日本語では今言った通りの訳なのですが、フィンランド語訳の聖書では、「心配事は全て神に投げつけなさい。なぜなら神があなたがたの面倒を見てくれるからです」になります。そちらの方がギリシャ語の原文のニュアンスがよく出ていると思うので、そちらに基づいてルターの教えを紹介したく思います。

「課題を自分の重荷にするな。なぜなら、君たちはそれを運びきれないからだ。そうしようとするならば、最後には重荷に押し潰されてしまうだろう。そうではなくて、それをかなぐり捨てて、喜んで安心してそれを神の御手に放り投げなさい。その時、次のように言いなさい。『天の父なるみ神よ。あなたは紛れもなく私の主であり神です。あなたは、私がまだ存在しなかった時に私を造って下さり、それだけでなく、御子イエス様を通して私を罪の支配から贖いだして下さいました。そのあなたが私にこの課題を成し遂げるようにとお与えになりました。しかし、それは自分が望んでいたようには成功しませんでした。多くの事柄が私に押しかかり、心配事を生み出しています。どこからも助言や助けを得らなくなってしまいました。それで、全てのことをあなたの御手にお委ねします。あなたが助言と助けを与えて下さい。この課題の中の隅々にあなたがいて、あなたの意志が働かなければ何も動かないようにして下さい。』

 このように言うことは、まことに神の意思に適うものである。神が我々に求めているのは、我々は義務さえ果たせばそれでいいということである。どんな結果が出るかについての心配は神がしてくれることなのである。

 こういうわけで、キリスト信仰者の理解力と巧みさというのは、そうでない者たちのよりも優れたものになる。それは、キリスト信仰者はどのようにして心配事から距離を置くかを知っているからである。他の者たちは、心配事の虜となって、自分を不幸な状態にとどめて、自分を痛めつけるだけである。最後には希望のない状態に陥ってしまう。これとは反対に(イエス様を救い主と信じる)信仰はこの御言葉『神はあなたたちの面倒を見て下さる』を捉えて離さい。離さないばかりか、とことん信頼するのである。」

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

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