説教「『汝の敵を愛せよ』という教えから見えてくるもの」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書5章38~48節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1.

マタイ福音書の5章から7章にかけてのイエス様の教えは、彼が山の上で群衆の前で宣べたことから、「山上の説教」と呼ばれます。その中でイエス様は、十戒をはじめとするモーセ律法の正しい理解の仕方について教えます。十戒や律法を正しく理解するというのは、それらを与えた方、つまり天地創造の神の意思を正しく理解することになります。かつてイスラエルの民は全人類を代表して十戒や律法を与えられたにもかかわらず、神の意思を正しく理解していなかったことは明らかでした。それでイエス様は、「あなたたちは、神が次のように命じたと言われるのを聞いてきた。私はそれらについて次のように教えよう」と前置きをして、一つ一つ正しい理解を教えていきます。それができたのは、もちろんイエス様が神のひとり子だからで、父である神の意思を正確に知る立場にあったからです。

38節と39節で、イエス様は、律法では「目には目を、歯には歯を」と言われているが、悪人には手向かってはならない、と教えます。これは、一体どういうことでしょうか?悪人が何か悪さをしようとして、それをそのままにせよとは?また、右の頬を打たれたら左を差し出せ、とか、下着を取ろうとする者には上着を取らせよ、とか。イエス様は、悪がしたい放題するにまかせよ、悪をそのままのさばらせておけ、と言っているのでしょうか?

さらに44節を見ると、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われます。イエス様は、私たちに何か崇高な道徳を実践しろ、と命じているようにみえます。45節を見ると、敵を愛し、迫害する者のために祈る理由が言われます。それは、私たちが「天の父の子となるためである」とか、父なるみ神は「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」などと言われます。こう聞くと、なるほど神は悪人にも気前よくしてくれるのか、悪さをしようが善をしようが神は恵んでくれるのなら、別に悪をやめなくてもいいわけだ、という理解がされる危険があります。さて、イエス様の意図が、悪はしたい放題で構わないと主張するものではないことは誰でもわかります。それならイエス様は何を教えようとしておられるのか?本日は、この問いに対する答えを見つけて参りましょう。

 

2.

  まず初めに、38節の「目には目を、歯には歯を」という掟について。これは、出エジプト記21章22~25節やレビ記24章17~20節に出てきますが、申命記19章16~21節を見ると、どうしてこのような掟が必要なのか理由が記されています。それによると、裁判沙汰で一方が他方を陥れようとして嘘の訴えをしたとする。訴えが嘘であると判明したら、嘘をついた側が嘘をつくことで相手を陥れようとしたのと同じ損害を嘘つきに味あわせなければならない。つまり、目には目を、ということです。そして20節で言われます。「ほかの者たちは聞いて恐れを抱き、このような悪事をあなたの中で二度と繰り返すことはないであろう。」つまり、「目には目を、歯には歯を」というのは、こういうことをしたらこういう報いが来るぞ、他人の目を失明させた者は自分の目を失明させねばならなくなるぞ、ということで、同じ悪が自分にも跳ね返ってくるとはっきりさせることを通して悪を控えさせるという、人間が悪に手を出さないようにする抑止力だったのです。

しかしながら、もともとは悪に対する抑止力の意図があったとしても、この掟は反対の結果をもたらしてきたことも事実です。損害を被ったら仕返しをしてもよい、あるいは、仕返しをしなければならない、というふうに理解されるからです。「これは当然の報いだ」と言って報復が正当化されます。こういう考え方はどこの世界にもあります。

掟が仕返しを正当化するものとして理解されたがために、イエス様は、それは本当の意図ではないとして、それで、悪を成す者に対して仕返しをしてはならないと教えます。報復を正当なものとしません。悪を成す者に仕返ししないとは、それじゃ、悪がなされるままにほおっておけ、ということなのかという疑問が起きると思います。ところが、イエス様の教えをよく見るとそういうことでないことに気づかされます。右の頬を打たれたら、左を出せ、と言います。下着を取られたら、上着を差し出せ、1ミリオン(約1,5キロ)歩かされたら、させた者と一緒にさらに1ミリオン歩け、と言います。ただの打たれっぱなし、取られっぱなし、歩かされっぱなしの泣き寝入りとは違います。悪を被った方はとても能動的です。受動的ではありません。能動的と言っても、打たれたら打ち返す、取られたら奪い取るというような仕返しでもありません。お返しはするが、そのお返しは普通考えられるような仕返しとは違います。

そこで、右の頬を打った側が左を出されたらどうするか考えてみましょう。下着を取った者が上着を差し出されたらどうするでしょうか?せっかく相手をひれ伏してやったと得意気になったのに、そんなことされたら、今自分がしたことが全く取るに足らないものであったとこれ見よがしに見せつけられた思いがするのではないでしょうか?そうなると、ここで恥じ入ってそれ以上の悪に進むことを躊躇するか、それとも、逆上してさらなる悪に踏み込むか、どちらかだと思います。

このように見ていくと、ここでのイエス様の教えの趣旨というのは次のように言うことができます。まず、悪を被ってしまった者は悪と同じ土俵に立たず悪と同じ手口を用いてはならないということ。そして、悪を行った者を、大げさに言えば人生の運命の分岐点に立たせるような、そういうお返しをしなさいということ、この二つを教えていることが見えてきます。

さらに42節を見ると、イエス様は「求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない」と言われます。ここで言う「求める者」と「借りようとする者」は、38節からの文脈に沿ってみれば、悪を成す者です。困っている人一般ではありません。つまり、悪を成す者が困って求めてきたら与えなさい、借りようとしたら、背を向けないで貸してあげなさい、ということです。悪を成す者が困ったら、いい気味だ、自業自得だ、などと言うのではなく、助けてあげなさい、ということです。実は、使徒パウロがこのイエス様の教えを受け継いで教えているところがあります。「ローマへの信徒の手紙」12章17~21節です。少し、それを見てみましょう。

17~18節 だれに対しても悪に悪を返せず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。

「だれに対しても悪に悪を返せず」というのは、先ほど述べたイエス様の教えの趣旨に合致します。「せめてあなたがたは」の意味ですが、まず、このパウロの手紙はキリスト信仰者に向けて書かれています。それで、キリスト信仰者というのは他の者たちが平和共存を損なおうとして何かしでかしてきても、決してそれを受けて立ってはいけない、挑発に乗ってはいけない、相手が何をしようがどう言おうがこちらとしては平和共存路線に訴えていきなさい、ということです。

19節 愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。

「復讐はわたしのすること、わたしが報復する」というのは、裁くのは神の仕事であって、起きた不正義に対しては神が報いと償いをする。それは最終的に最後の審判の日に実現する。だから、審判が起きる復活の日を信じるキリスト信仰者は不正義の報いと償いは神に任せて、以下のことに専念しなさいと言われます。

20節 あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。

善をもって悪に報いてあげた敵の頭の上に燃える炭火を積むというのは、一つには敵が自分の悪行を恥じ入る意味があります。もう一つは、敵が考えを改めない限り、ただただ最後の審判で受ける裁きを自ら確定してしまうことを意味します。

21節 悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。

悪に対抗するのに悪をもってすると、結局は悪の力に頼ったことになり、悪に屈したことになる。悪に本当に勝つためには善をもって悪に立ち向かうしかない。その時、敵は恥じ入って悔い改めるかもしれない。悔い改めない場合は、あとは神がその者を完璧に裁くことになる。どっちにしても、悪は打ち負かされる運命にあるのだから、善をもって悪に立ち向かうしか道はないのである。

以上、使徒パウロの教えを見てみましたが、悪に対して悪を返さない、善をもって悪に勝つ、などとは、一見崇高な道徳に見え、誰か立派な人がやればいいのだと思われるかもしれません。しかしながら、キリスト信仰には復活の信仰があるので、悪と不正義に対する報いと償いはどんなに遅くとも最終的には最後の審判と復活の日に起きるとみんな知っています。それでキリスト信仰者は、イエス様やパウロが教えていることはそんなにかけ離れたものではないと気づくことができるのです。逆に、復活とか最後の審判とか最終的な報いや償いなどない、全てはこの世止まりで、その先は何もないと言う人から見たら、善をもって悪に立ち向かうなどというのは崇高な道徳で何か英雄的な人でないと無理ということになってしまうでしょう。

以上、「目には目を、歯には歯を」という掟の意図についてイエス様が教えたことを見てみました。それは、仕返しを正当化するものではないということ、じゃ、悪に対してどう振る舞えばよいかと言うと、悪と同じ手口を使わないで悪を一瞬たじろがせることをしなさいということでした。キリスト信仰者にはそういうことが出来る可能性があります。復活や最後の審判が起こると信じているからです。それがなければ、仕返しもせずに善をもって悪に報いるなどとは本当に道徳的な英雄しか出来ないことになってしまいます。

 

3.

 次に、43―44節のイエス様の教え、「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい

について見てみましょう。

「隣人を愛せよ」という掟は、先ほど読んで頂いた本日の旧約の日課レビ記17章18節にあります。一つ注意すべきことは、レビ記の文脈の中ではこの「隣人」というのはイスラエルの民に属する同胞を意味します。「敵を憎め」という掟はモーセ律法の中には見当たりません。どうして律法にない掟が律法にあるものと一緒に対になって教えられてきたのか?レビ記の文脈では隣人愛は同胞愛ですので、同胞に属さない者、敵国に属する者は愛の対象ではないという考え方がつきまとったことによると考えられます。

ところがイエス様は、「敵を愛せよ」と教えました。つまり、隣人愛を向ける相手がイスラエルの民の外にも及ぶということです。これで、隣人愛を向ける相手である隣人の概念が一つの民族集団の枠を超えて全人類に及ぶものになりました。しかしながら、概念を拡大したところで、現実には敵対して来たり迫害してくる者も出て来ます。そういう者に対してはイエス様は、「迫害する者のために祈りなさい」と命じられます。「ために」と訳されているギリシャ語の前置詞υπερは「利益になるように」という意味があります。迫害する者の利益になるように祈りなさい、とは一体どんな祈りなのでしょうか?

それがわかるために、イエス様が迫害する者の利益になるように祈ったことがありますので、それを見てみると良いと思います。ルカ23章34節です。十字架にかけられたイエス様が天の神に向かって「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と言われたところです。自分を十字架にかけた者たちが神の厳罰を受けないようにと、まさに迫害する者の利益のために祈ったのです。同じような祈りは、ステファノが大胆に信仰を証しした後で石打ちの刑を受け、息を引き取る寸前に唱えました。「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」(使徒言行録7章60節)。悪と不正義に対する報いと償いは必ず復活と最後の審判の日に果たされるのに、なぜ、悪を吹っかける者が罰を受けないで済みますように、などと悪を被る側の方が祈らなければならないのか?イエス様もステファノも崇高な道徳を追求しすぎて、少しやりすぎたのでしょうか?

いいえ、そういうことではないのです。イエス様とステファノの祈りの意味がわかるために、あるキリスト信仰者が以前私に話してくれたことを振り返ってみたく思います。その方の高齢の親御さんが病気で入院して、原因不明の痛みが体中にあって苦しんでいました。医者もいろいろ調べてみたけれど原因がつかめず困っていました。見舞いに行った息子さんが、励ましの言葉が尽いてしまって、黙って見ているだけということに耐えきれなくなり、ついに意を決して「イエス様にお祈りしてあげます」と言って、ベッドの脇で少し声に出してお祈りを始めました。実はその親御さんというのは、元気な頃から、神や仏などに頼らない、宗教などは弱い人間がすがりつくものだという考えを持っていました。案の定、「やめろ、やめろ、そんなものは聞きたくない!」と叫び出してしまい、せっかくのお祈りは中断されてしまいました。息子さんが落胆したのは無理もありません。しかし、ちょうどその時、頭の中にある言葉が響き渡りました。それは、あのイエス様が十字架の上で述べた言葉でした。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」

その息子さんが願ったことは、イエス様が癒しを与えて親がイエス様と出会え、彼を救い主として受け入れられるようになることでした。あるいは、たとえ癒しが与えられなくとも、少なくともイエス様とは出会えて、痛みがあっても心に平安を持てることでした。もちろん、洗礼を受けるまでになればベストなのですが、たとえそこまで行かない場合でも、少なくとも、あのルカ23章40

43節に出て来る、改心した強盗のように最後の瞬間にイエス様を救い主と受け入れて、この世から次の世への移行を全てイエス様に任せられるようになることでした。それが拒否されてしまった時、息子さんに残されたのは「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」という祈りだけでした。

この親のケースは、迫害はありませんが、それでもイエス様を拒否するという点では迫害者の場合と共通しています。そのような人たちでさえも、神が与えて下さる救いを受け取られるようになるというのが、まさに神が望まれていることなのです。

ここで、神が与えて下さる救いとは何かということを思い出さなければなりません。それは、人間が自分の造り主であり天地の造り主である神との結びつきを回復させてこの世の人生を歩むことができるようになるということです。そして、万が一この世から死ぬことになっても、その時は永遠に自分の造り主である神のもとに戻ることができるようなるということです。この、神との結びつきの回復という救いはどのようにして起こったのか?それは、神がひとり子イエス様をこの世に送って、本来人間が受けるべき罪の罰を全部彼に請け負わせて十字架の上で死なせて、その身代わりの死に免じて人間の罪を赦すことで始まりました。そして人間の方で、この、イエス様が命を捨ててまでして成し遂げた償いと贖いの業を聞いて、イエス様こそ救い主と信じて洗礼を受けると、罪の赦しはその人に全くその通りになります。罪が赦されたのですから、神との結びつきが回復するのです。

神はこの、イエス様を用いて実現された「罪の赦しの救い」を全ての人間にどうぞと言って差し出してくれているのです。神がこの救いを善人にも悪人にも等しく与えたがっていることは、45節のイエス様の教えからも明らかです。神は善人にも悪人にも太陽を昇らせ雨を降らせると言うと、悪を働こうが善を行おうが神にとってはどうでもいいと言っているように聞こえます。しかし、そうではないのです。悪人にも太陽を昇らせ雨を降らせるというのは、彼らが神の差し出している救いを受け取ることができるようにするという意図があります。それで、善人だけでなく悪人にも太陽を昇らせ雨を降らせるのです。もし、太陽が善人にしか昇らず、雨が義人にしか降らないとしたら、悪人はすぐ滅びてしまいます。神が彼らにも太陽を昇らせ雨を降らせるのは、彼らが一日も早く救いを受け取るようにと猶予の時間を与えているのです。もし悪人が、神は自分にも太陽を昇らせてくれるのだから、自分の悪を認めてくれているんだ、だから悪のし放題でいいんだ、と思ったら、それはとんでもない誤解で、神の善意を裏切ることになります。そのままで行けば、この世の段階で何か罰が下るか、そうでなくても最終的には最後の審判の日に罰を下されてしまいます。

神としては、悪人も自分との結びつきを回復してほしいというのが御心です。それなので、既に結びつきを回復した者は神の御心に従って、悪人や敵に対してどんな働きができるかを考えなければなりません。悪人だから敵だから滅びてしまえ、というのは神の意思に反することです。悪人や敵のために祈らなければなりません。自分を迫害する者のために祈れというのは、「神よ、迫害を終わらせて私を助けて下さい」という自分のための祈りではありません。そうではなくて、「神よ、あの迫害する者がイエス様を救い主と信じてあなたの用意された『罪の赦しの救い』を受け取ることができるようにして下さい」とまさに悪人や敵の利益のために祈ることです。言うまでもないことですが、悪人や敵がイエス様を信じて救いを受け入れることになったら、迫害もなくなります。悪人や敵が神との結びつきを回復できるように働きかけ、またそう祈ること、これがキリスト信仰者にとって敵を愛するということになります。

以上みてきたように、汝の敵を愛せよ、迫害する者のために祈れ、という教えは、キリスト信仰にあっては、まさに「罪の赦しの救い」を受け取って既に神との結びつきを回復した者が、まだ受け取っていない、回復していない者たちに働きかけ、神に祈りを捧げて、その者たちも受け取れるようにする、そういう内容です。もし、「罪の赦しの救い」とか神との結びつきの回復ということと全く無関係に、敵を愛することや迫害する者のために祈ることが目指されるならば、それはもう、道徳的な英雄にやってもらうしかなくなるでしょう。

 

4.

 このように、キリスト信仰の観点に立ってみると、イエス様とステファノが行った迫害者のための祈りは、何か崇高な道徳を追求した、とか、やりすぎな祈りであったというのは当たりません。もちろん、そうは言っても、自分を迫害する者が本当にイエス様を救い主と信じて「罪の赦しの救い」を受け入れられますようにと祈ることは、やはり現実離れしているような感じを受けるかもしれません。

 ところが、二人の祈りは現実離れしているとか、崇高な道徳の飾り物ではなかったことを示す証拠があります。それは、パウロです。彼は、自分でも語っているように、ステファノの石打ち刑に加担していました。それくらいイエス・キリストを拒否していたのに、「罪の赦しの救い」を受け取って、その後は使徒として福音伝道に一生を捧げました。イエス様やステファノの祈りの結果、迫害者が救いを受け取ったという例はパウロ以外にもあったかどうかについては、聖書には記されていないのでわかりません。ひょっとしたら、迫害者の中から福音伝道者が現れたかもしれません。または、あの十字架の強盗のように息を引き取る直前にイエス様を救い主と告白した人がいたかもしれません。もちろん、イエス様も救いも拒否し続けて、神との結びつきを回復しないままこの世を去ってしまったケースもあるでしょう。それぞれどれくらいいたのか、それは神のみぞ知る、ですので、これ以上詮索はしません。いずれにしても、兄弟姉妹の皆さん、私たちは「罪の赦しの救い」を受け取って神との結びつきを回復したキリスト信仰者ですので、まだ受け取っていない、回復していない人たちがそうできるように、働きかけと祈りを忘れないようにしましょう。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

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