説教「地の塩、世の光として生きよ」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書5章13ー16節

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 当たり前のことですが、塩は有用かつ不可欠なものです。料理になくてはならないし、生ものの保存剤としても使えるし、消毒の役割も果たすし、また体には塩分が必要です。イエス様は、教えを受けに集まってきた群衆に「あなたたちは地の塩である」と言います。この言葉は、聖書のなかにこのように収録されているので、それを読んだり聞いたりする人に対しても、また今まさにこの礼拝に集う私たちにも向けられている言葉です。「地」というのは、天の反対、地上の意味です。そうすると、イエス様は、私たちが地上において塩のように有用かつ不可欠なものであると言っていることになりますが、果たして私たちはそのようなものでしょうか?

 イエス様はまた、私たちがこの世の光である、とも言われます。どんな光かというと、ちょうど山の上にある町が隠れることができないのと同じように隠すことの出来ない光、また燭台の上において家の中を照らす蝋燭のように人前で輝かざるを得ない光だと言うのです。そのように人々に見える光が私たちの光であると言うのですが、それでは何が私たちの光かというと、「立派な行い」がそれだと言うのです。それが周りの人たちに見える目的は何かと言うと、見た人たちが神様を崇めるようになるためであると言うのです。私たちは、神をまだ知らない人たちが神を崇めるようになる、そんな目に見える立派な行いをしているでしょうか?

以前、私はキリスト教系の病院に通ったことがあります。受付の横の壁には、その病院がキリスト教の精神で運営されているとか、待合室には聖句が書かれた額縁が飾ってありました。その病院に来て、病気を治してもらったり、命を助けてもらったりしたら、きっと神様を崇める人もでてくるかもしれません。キリスト信仰者の医師や看護婦や職員が地域医療のために貢献する、これこそ地の塩、世の光の良い例と皆思うでしょう。もちろん、医者や看護婦にならないで、別の仕方で社会のために貢献して地の塩、世の光になっている方も大勢いらっしゃるでしょう。

このように見ていくと、本日の福音書の箇所は、キリスト信仰者たる者は世の人々にとって有用かつ不可欠な存在となって、立派な行いをして、人々が神を信じるように励みなさい、そうしないと信仰者失格で味を失った塩のように捨てられて踏んづけられて終わってしまうぞ、と教えているように聞こえます。もちろん、世のため人のために尽くしている人を見ると、そういう人は輝いている印象を受けるでしょう。しかし、別にキリスト信仰者でなくとも、人助けの大切さは誰でもわかるし、立派な行いをしている人も大勢います。そうなると、キリスト信仰者はもっと頑張って立派な行いで他を抜きんでていなければならない、ということでしょうか?そうなると、世のため人のために尽くすことが出来ない、病気とか障害とか失業とか貧困等のために、したくとも出来ない人たちは、地の塩、世の光にはなれない、ということになるのでしょうか?キリスト信仰者の中にもそういう弱者は大勢います。

本説教では、キリスト信仰にとって「立派な行い」とはどんなものかを少し考えてみようと思います。それが明らかになれば、地の塩、世の光である、ということがどんなことかもわかってくると思います。結論を先に申し上げると、キリスト信仰者の「立派な行い」というのは、神の国/天の国というものを本人にとっても他人にとっても本当にあるものだと証するものだ、ということです。以下、そのことを見ていきましょう。

 

2. イエス様が地の塩と世の光について述べた時、「立派な行い」は世の光と結びつけて述べられています。それでまず、世の光とはどんな光なのかということを見ていきたいと思います。

世の光は、まず、山の上に建てられて隠れることのできない町のようであると言われます。これは、一見わかりにくいたとえですが、どういうことかと言うと、イエス様の時代、ガリラヤ湖のカペルナウムの対岸から20~30キロ程のところにヒッポスとかガダラというギリシャ風の都市が丘や崖の上に建てられていました。神殿や多くの柱石を有したこれらの町は朝日や夕焼けの時は遠方からでも町全体が輝いて見えたと伝えられています。つまり、私たちが放つ世の光というのは、これらの都市のように自ら光を発するのではなく、光の本当の源から光を受けて輝くことができる光ということです。

 次に、私たちが放つ世の光とは、燭台に灯した蝋燭の明かりのように暗かった家の中を照らし出す光であるということ。家の中の事物は、蝋燭の光を受けてそれなりに輝くので目に見えるようになるわけです。つまり、もともとは他から光を譲り受けなければならなかった私たちが、いったん光を受けて輝きだすと、今度は他のものにも輝きを与えていく、そういう光が私たちであるというのです。

 第三に、私たちの光は、「立派な行い」と不可分に結びついているということです。あえて言えば、私たちの「立派な行い」そのものが私たちの光であるということです。イエス様は言われます。燭台の上に置いて家の中を照らし出す蝋燭のように、「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々があなた方の立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」つまり、人々が目にする私たちの光とは、実に私たちの「立派な行い」なのです。イエス様はさらに、その「立派な行い」には、見る人をして神を崇めるようになる影響力があると教えられます。

 ここで要約しますと、私たちは世の光ですが、それは本源的な光から光を受けて輝くことができる光であるということです。そして、そうした私たちの光は、実は私たちの「立派な行い」であり、それを見た人たちが私たちと同じように神を崇めるようになるという潜在力を持っているということです。それはあたかも、暗かった家の中で何の輝きもなくたたずんでいた事物が蝋燭の光を受けて輝きを持つようになるのと同じだというのです。

 さて、このイエス様の教えを理解できる鍵は、「立派な行い」とは何かということにありますが、「立派な行い」とは、ちょっと捉えどころのない言葉です。ギリシャ語ではκαλαεργαと言いますが、同じ言葉が「テトスへの手紙」では「良い行い」などと訳されています(2章14節、3章8節、14節)。「行い」と訳されている単語εργαは「業」とも訳されます。ここではギリシャ語の言葉の正しい訳は何かということには深入りしないで、ここで問題になっている「行い」ないし「業」とはどんな特徴をもった行い、業なのかを明らかにしたいと思います。

 「立派な行い」はどんな特徴を持った行いかと言うと、それは「光を放つ」ということです。その光はと言えば、前にも申し上げましたように、本源的な光を受けて光ることの出来る光です。本源的な光とは、これは神の栄光の光です。神の国はこの光に満たされた国です。そのことは黙示録の終りの方でも述べられています。「この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりだからである」(黙示録22章5節)。「もはや、夜はなく、ともし火の光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らす」(同21章23節)。

 本日の旧約の日課であるイザヤ書58章でも同じことが言われています。「飢えている人に心を配り、苦しめられている人の願いを満たすなら、あなたの光は、闇の中に輝き出で、あなたを包む闇は、真昼のようになる」(10節)。6節から8節までを見ると、悪による束縛を経ち、軛の結び目をほどいて、虐げられた人を解放し、軛をことごとく折り、飢えた人にパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまなければ、「あなたの光は曙のように指し出で」る、と言われています。

 苦難や困難にある者、困窮した者、悪に囚われた者、そういう助けを必要とする人を助ける時に光が輝くということですが、それは神の国の栄光から来る光です。そういう「立派な行い」をする時に、神の国の栄光の光がその行いをする人に反射するのです。つまり、「立派な行い」というのは光ることを通して神の国が存在することを証するものなのです。

 助けを必要とする人を助けることが神の国の存在を証しした例として、イエス様の奇跡の業があります。イエス様は、洗礼者ヨハネから洗礼を受けて公けに活動を開始した時、「悔い改めよ、神の国は近づいた」と大々的に宣べ伝えました。実際にイエス様が行ったことは、まず、神の人間に対する思いと神の国について、神のひとり子という立場から人々に教えたことがあります。具体的には旧約聖書を正確かつ権威をもって教えました。それから、イエス様は無数とも言えるくらい奇跡の業を行いました。数多くの難病や不治の病を癒したり、悪霊を退治したり、群衆の空腹を僅かな食糧で満たしたり、自然の猛威を静めたりしました。これらを通してイエス様は、神の国が自分と一体となって来たことを示したのです。それで「神の国は近づいた」と述べたのです。

 イエス様が行った奇跡の業は神の国がどんなものであるか、その一端を明らかにするものでした。それでは、その全貌は何かというと、黙示録の20章から21章にかけて描かれています。そこで神の国は、大きな結婚式の祝宴にたとえられ、そこに迎え入れられた人は、目の涙を神からことごとく拭い取ってもらい、もはや死も、悲しみも嘆きも労苦もないところです。ここで注意しなければならないことは、神の国は、今ある天と地が新しい天と地にとってかわるという、そういう今の世が終わる時に唯一残るものとし現れるものということです。「ヘブライ人への手紙」12章に、今の世が終わりを告げ、全てのものが揺り動かされて取り除かれるとき、ただ一つ揺り動かされないものとして神の国が現れることが預言されている通りです。神の国が結婚式の祝宴にたとえられるというのは、この世での信仰の戦いや人生の労苦が全て労われることを意味しています。さらに、神の国で涙が全て拭われるというのは、この世の人生で被ったり、解決に至らなかった不正義が最終的に全て償われるということです。そうであるからこそ、キリスト信仰者は、この世の人生では、神の意思に反することに手を染めない、不正や不正義には対抗する、という努力をとにかくする、たとえ実を結ばなくても、最終的には神の国で実を結ぶので、無駄や無意味に終わることはないと知っているのです。

 ところで、この神の国はまだ世の終わりなどとは無関係に、2000年前に一度、イエス様と共にやって来ました。その時、イエス様の奇跡の業の恩恵に与った人々や、それを目のあたりにした人々は、将来この世が終わりを告げる時に現れる神の国とは、この世では奇跡であることが普通の当たり前になっているところなのだ、と身をもって体験することができました。しかしながら、神の国がイエス様と共に到来したといっても、人間はまだ神の国と何の関係もありませんでした。最初の人間アダムとエヴァ以来、神への不従順と罪を代々受け継いできた人間は、神聖な神の国に入ることはできないのです。罪と不従順の汚れを持つ人間は神聖なものとあまりにもかけ離れた存在になってしまったからです。この汚れが消えない限り、神聖な神の国に迎え入れられません。いくら、難病や不治の病を治してもらっても、悪霊を追い出してもらっても、空腹を満たしてもらっても、自然の猛威から助けられても、人間はまだ神の国の外側にとどまっています。

この問題を最終的に解決したのが、イエス様の十字架の死と死からの復活でした。神は、本来なら人間が受けるべき罪の罰を全てひとり子のイエス様に請け負わせて、あたかも彼が全ての罪の責任者であるかのようにして十字架の上で死なせ、その身代わりの死に免じて人間の罪を赦すという解決策に打って出たのです。そこで人間の方が、「あの、2000年前の昔の彼の地で天地創造の神がひとり子を用いて人間のために罪の赦しを実現したのは、現代を生きる自分のためにも行われたのだ」とわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様の死がもたらした罪の赦しがその人に効力を持ちます。そして、その人は罪が赦されるので神の目に適う者となり、そのようにして神の国に迎え入れられる者に変えられます。そのように変えてもらった以上はそれを汚すようなことはしてはならない、と思うようになり、そのように生まれ変わって新しい命を生きるようになるのです。

 

3. 以上のように、イエス様は奇跡の業を通して神の国の実在を証しただけではなく、実に十字架の業を成し遂げることで、私たち人間が神の国に迎え入れられるようにもして下さいました。イエス様を救い主と信じ洗礼を受けた者は、神がイエス様を用いて実現した罪の赦しを受け取って、神の国に迎え入れられる者に変えられます。神の国に至る道に置かれて、その道を歩み始めます。そういうわけで、キリスト信仰者として生きるということは、奇跡と正義に満ちた神の国が実在することを、好むと好まざるとにかかわらず証するものにならざるを得ないのです。

それでは、キリスト信仰者はどのように神の国の実在を証していくのか?私たちもイエス様のように奇跡を起こさなければならないのか?神の国の栄光を現わすような「立派な行い」をしなければならないが、それは社会的に有用で不可欠なことをすることなのか?いろいろ疑問が起きます。ここで、答えの手がかりとして、使徒パウロが「ガラテアの信徒への手紙」5章で教えている、キリスト信仰者に育っていく聖霊の実ということを考えてみたいと思います。パウロはその実の内容として、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制をあげています(ガラテア5章22

23節)。このパウロの教えは実は、当スオミ教会の昨年度の年間主題聖句でした。先々週の主日礼拝の後のコーヒー・ティータイムの時に残られた教会員の方たちに1年間の歩みを、この主題聖句の観点から振り返ってもらう時を持ちました。ずっと以前から気にかけていた聖句だったとか、職場や家庭という実際の生活の場で聖霊の結ぶ実を意識したこと、意識したがゆえに至らない自分に気づかされたこと、それぞれにいろいろな思いをお話しいただきました。本日礼拝後の年次総会にて主題聖句は新しいものにとってかわるので少し名残惜しい気がします。

昨年、この聖霊の結ぶ実を年間主題聖句にすることを決めた際に私が強調したことは、以下のことでした。愛、喜び等々の徳性は、イエス様を救い主と信じた時点で一気に備わるものではなく、実なので育ち始めるもの、そして各自の性格、個性、置かれた環境に影響されて、それぞれの仕方で次第に育っていくものであることがまず第一点としてありました。第二点は、これらの徳性は、自分の努力で達成しようとか、獲得しようとするものでなく、イエス様を救い主と信じる信仰が中心にあることで、天の父なるみ神が育ててくれるものであるということです。どういうことかと言うと、自分に罪の思いがあることがわかって、神の意思に反する自分を知った時、心の目をゴルゴタの十字架に向ける、すると、そこで首をうなだれた救世主の全身に自分の罪が貼り付けられているのを目にする。その時、「お前の罪はあそこで赦されている。だから、心配しなくても良い。もう罪は犯さないように」と言う神の声が心に響きます。私たちが生きている現実では、そのようなことは残念ながら繰り返されてしまいます。しかし、繰り返すごとに次第に、自分は神の前に立たされても潔癖でいられるのだ、やましいところはないのだ、という、そんな大それたことがイエス様のおかげで言えるのだということがわかってきます。それがわかればわかるほど、良心は責任感と安心に支えられていきます。このようなプロセスを経るうちに、聖霊の実が、自分では追い求めたわけではないのに育っていく、そのような実り方でいきましょう、ということを申し上げた次第です。

愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制などの聖霊の実は、力ある人、余裕のある人の場合には、苦難困難に陥っている人や困窮している人を助けたり、悪に束縛された人を解放してあげる行動として現れるでしょう。(注 「聖霊の実」とは別に「聖霊の賜物」という、特別な力が特定の人に与えられて、助けることができる場合もありますが、ここでは全てのキリスト信仰者にあてはまる「聖霊の実」を中心にお話しします。)そのような行動は、本日のイザヤ書の日課に言われるように光を放ち、世の光として神の国の実在を証しします。しかし注意しなければならないのは、それは聖霊の実が具体的な行動として現われたものなので、あくまで聖霊の実の方が「立派な行い」そのものということになります。

そこで、自身が病気その他の事情のために力も余裕もなく、助けてあげたくとも出来ない人たちの場合はどうなるでしょうか?彼らは、神の国の栄光を輝かせることは出来ないのでしょうか?いいえそんなことはありません。そのような人たちの場合も、イエス様を救い主と信じる信仰に生きる限り、力ある人、余裕ある人と全く同じ聖霊の実を結ぶ成長を辿っているので「立派な行い」をします。病床にあるキリスト信仰者でも、自分のことだけでなく他人のために祈り続けている人も大勢います。彼らも世の光として、神の国の実在を証しているのです。兄弟姉妹の皆さん、余裕がある場合でもない場合でも、隣人のために祈ることは神の国の実在を証することになりますので、それを絶やさないようにしましょう。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

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