説教「新年 - イエス様の命名日に思う」神学博士 吉村博明 宣教師、ルカによる福音書2章21~24節、第二ペトロ1章1~11節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

西暦2017年の幕が開けました。新しい年が始まる日というのは、古いものが過ぎ去って新しいことが始まることを強く感じさせる時です。前の年に嫌なことがあったなら、新しい年は良いことがあってほしいと期待するでしょうし、前の年に良いことがあったならば、人によってはもっと良くなるようにと願うかも知れないし、またはそんなに欲張らないで前の年より悪くならなければ十分と思う控えめな人もいるでしょう。日本では大勢の人がお寺や神社に行って、そこで崇拝されている霊に向かって、手を合わせて新しい年に期待することをお願いします。その意味で新年の期間というのは、多くの日本人を崇拝の対象に強く結びつける期間と言えます。

 キリスト教では新年最初の日はイエス様の命名日に定められています。天地創造の神のひとり子がこの世に送られて乙女マリアから人の子として誕生したたことを記念してお祝いするクリスマスが12月25日に定められています。その日を含めて8日後が、このひとり子がイエスの名を付けられたことを記念する日となっていて、それが1月1日と重なります。キリスト教会によっては、この日礼拝を行ってイエス様の命名日を記念するところもありますが、行わないところもあるので、1月1日というのは、毎週必ず礼拝が行われる日曜日と比べて何か特別大きな意味があるというわけではないようです。当スオミ教会では、1月1日の礼拝は2年前から行うようになりました。日曜日の礼拝と同じように、イエス様の命名を記念する日にも、天地創造の神の御言葉を聴き、神を賛美し、神に祈りを捧げて、ちょうど始まった新しい年の歩みの上に神からの祝福をお願いするのは相応しいことと考えたからです。今年の1月1日はたまたま日曜日と重なりましたので、全世界のキリスト教会は今日礼拝を守っていることになります。

2.

 イエス様の命名日は同時に、彼が割礼を受けた日でもあります。割礼と言うのは、天地創造の神がかつてアブラハムに命じた儀式で、生まれて間もない男の赤ちゃんの性器の包皮を切るものです。律法の戒律の一つとなり、これを行うことで神の民に属する者の印となりました。こうしてユダヤ民族が誕生しました。イエス様は神のひとり子として天の御国の父なるみ神のもとにいらっしゃった方でしたが、この世に送られてきたときは、旧約聖書に約束されたメシア救世主として、その旧約聖書の伝統を守るユダヤ民族の只中に乙女マリアの胎内から生まれてきました。人間の救い主となる方がある特定の民族の伝統に従ったのは、その方が歴史的にその民族の一員として生まれてきたことによります。しかし、それだけではありませんでした。後で述べるように、人間を罪の呪縛から救うために一旦、神の定めた戒律に服する必要があったのです。

 神のひとり子が人間としてこの世に生まれてきたことや、彼がイエスの名を付けられて割礼を受けたということは歴史上の出来事です。それは、ローマ帝国が地中海世界に支配を拡大して、現在のパレスチナの地域とその地に住むユダヤ民族を支配下に治めていた時でした。アウグストゥスが帝国の皇帝で(治世は紀元前27年~紀元14年)、プブリウス・スルピキウス・キリニウスという人物が帝国のシリア州の総督に就いていた時代でした。さらに、同州のユダヤ地方を中心とする領域でヘロデ王という、ローマ皇帝に従属する王が一応ユダヤ民族の王としての地位を保っていた時代でした。

 このような場所と時代に、人間として生まれた神のひとり子はイエスという名を付けられ、旧約聖書の律法の戒律に従い、生後8日後に割礼を受けました。ここで一つ注意すべきことは、このイエス様の命名と割礼はどこで起きたかということです。生後8日ということですが、マタイ福音書2章によると、ヘロデ王は、ベツレヘムに「ユダヤ人の王が誕生した」という知らせを聞いて、その命を狙おうとして兵を送り、その地域の幼児を虐殺する暴挙に出ます。生まれたばかりのイエス様と母マリアと育ての父ヨセフは、天使の告げ知らせのおかげで事が起こる前にエジプトに避難します。イエス様の命名と割礼は、ベツレヘムでなされたのか、避難先のエジプトか、避難する途中だったかのどれかが考えられます。旧約聖書レビ記12章を見ると、男子を出産した母親は血を流したことから清められなければならないとして、合計38日間が清めの期間として定められていました。その期間は外出禁止でしたから、その規定通りだったとすると、イエス様の命名と割礼はベツレヘムだった可能性が高くなります。そうなるとヘロデ王の兵隊が押し寄せてくる寸前だったのではないでしょうか。

 さらに、本日の福音書の箇所によると、イエス様は清めの儀式を受けるためにエルサレムの神殿に連れてこられます。この儀式は、今述べたレビ記12章にある律法の戒律によるものです。母親の清めの期間が終わったら、神殿の祭司に鳩などの動物の生け贄を捧げて、祭司が儀式を行って、母親は汚れから解放されるというものです。このエルサレムでの儀式がいつ起きたかということも、歴史的な確定が難しいところです。本日の福音書をみると、生後8日後の命名と割礼のすぐ後にこの儀式が来るので、二つの出来事が連続して起きたような印象を受けます。しかし、先ほども述べましたように、イエス様親子はヘロデ王の虐殺を逃れてエジプトに渡って、王が死ぬまでそこに滞在していたので、命名と割礼のすぐ後に神殿の訪問はありえません。ヘロデ王が死ぬのは紀元前4年です。イエス様の誕生の年は紀元前5年とか6年とか諸説があります。いずれにしても、エルサレムの神殿に連れてこられたイエス様は1歳とか2歳だったことになります。

 以上のように、聖書の中に記録されている出来事は正確な年代を確定することは困難なのですが、それでも、それぞれの記述や流れをよく見て、聖書以外の歴史の記録と突きあわせて見ると、大まかな時期はつかむことができます。

3.

ここで、人間として生まれた神のひとり子に付けられた、「イエス」という名前についてみていきましょう。乙女マリアが神の霊つまり聖霊の力を及ぼされて身ごもる前の段階で、天使から、生まれてくる子には「イエス」の名前を付けなさいとの指示がありました(マタイ1章21節、ルカ1章31節)。これは、ギリシャ語のἸησοῦϛを日本語に訳した名前です。そのἸησοῦϛは、もともとはヘブライ語のיהושעをギリシャ語に訳した名前で、יהושעというのは、日本語では「ヨシュア」、つまりヨシュア記のヨシュアです。יהושעという言葉には「主が救って下さる」という意味があります。יה「主が」יושע「救って下さる」。つまり、「イエス」の名前はヘブライ語のもとをたどれば「主が救って下さる」という意味があります。ヨセフにこの名を付けなさいと命じた天使は、その理由として、「彼は自分の民を罪から救うことになるからだ」と言いました(マタイ1章21節)。つまり、「主が救って下さる」のは何かということについて、「罪からの救い」であるとはっきりさせたのです。

 「神が民を救う」というのは、ユダヤ教の伝統的な考え方では、神が自分の民イスラエルを外敵から守るとか、侵略者から解放するという理解が普通でした。ところが、ここでは救われるものが国の外敵ではなく、罪であるということに注意する必要があります。「罪から救って下さる」というのは、端的に言えば、罪がもたらす神の罰から救って下さる、神罰がもたらす永遠の滅びから救って下さる、という意味です。創世記に記されているように、最初の人間アダムとエヴァが創造主の神に対して不従順になったことがきっかけで罪が人間の内に入り込み、人間は死する者になってしまいました。何も犯罪をおかしたわけではないのに、キリスト教はどうして「人間は全て罪びとだ」と強調するのか、と疑問をもたれるところですが、キリスト教でいう罪とは、個々の犯罪・悪事を超えた(もちろんそれらも含みますが)、すべての人間に当てはまる根本的なものをさします。自分の造り主である神への不従順がそれです。もちろん世界には悪い人だけでなくいい人もたくさんいます。しかし、いい人悪い人、犯罪歴の有無にかかわらず、全ての人間が死ぬということが、私たちは皆等しく神への不従順に染まっており、そこから抜け出られないということの証なのです。

 それでは、神は人間をどのようにして罪から救い出すのでしょうか?神はそれをひとり子イエス様を用いて行われました。イエス様は、人間に向けられている罪の罰を全部人間に代わって請け負って、私たちの身代わりとして十字架にかけられて死なれました。神のひとり子として、神の意思を体現する方であったにもかかわらず、神の意思に反する者全ての代表者であるかのようにされたのです。誰かが身代わりとなって神罰を本気で神罰として受けられるためには、その誰かは私たちと同じ人間でなければなりません。そうでないと、罰を受けたと言っても、見せかけのものになります。これが、神のひとり子が人間としてこの世に生まれて、神の定めた律法に服するようにさせられた理由です。私たち人間が罪の呪縛から解放されるために、御自分のひとり子を犠牲にするのも厭わなかった父なるみ神と、神と同質の身分であることに固執せず、父の御心を実現して私たちに救いをもたらして下さった御子イエス様は永遠にほめたたえられますように。

イエス様が十字架の死で成し遂げられたことは、たとえを用いて言うと、次のようになります。私たちが身にまとっている罪の汚れた衣をとって御自分にまとい、御自分の汚れなき白い衣はそれを取って私たちにかぶせてくれたということです。神はその汚れた衣を着たイエス様を神罰の死の苦しみに委ね - これは一人分の苦しみでなく全人類の分です - 白い衣を着せられた私たちの罪は問わないと宣されたのです。普通、聖書や教会で「神の恵み」と言っているのは、まさに「罪の赦しの恵み

を意味します。まさに御自分のひとり子が流した尊い血を代価として、私たちを罪に支配された状態から解放して下さったのです。しかし、それだけでは終わりませんでした。神は今度はイエス様を三日後に死から復活させることで、死を超えた永遠の命に導く扉を私たちのために開かれたのです。このようにして神は、イエス様を用いて人間の救いを全部整えてしまいました。救いは神の方で完成させてしまったのです。

 しかしながら、イエス様が十字架にかかり、死から復活したことで全てが解決したかというと、それはまだ解決の一歩 - 決定的な一歩ではありますが - なのです。今度は人間のほうが、そうした神が全部整えた救いを自分のものとしないと、この完成済みの救いは人間の外側によそよそしくあるだけです。では、どうしたら自分のものにできるのか?それは、まず、「2000年前に神がイエス様を通して行われたことは、実は現代の今を生きる自分のためになされたのだ」と気づき、そのイエス様を真の救い主と信じて洗礼をうけることです。その時、人間はイエス様の白い衣を頭から被せられたことになります。

4.

 洗礼は、天地創造の神の民の一員であることの印として、割礼にとってかわるものになりました。実は、キリスト信仰者にとって割礼は必要ないということは、当初は自明のことではありませんでした。イエス様はユダヤ民族の一員としてこの世に来た、旧約聖書に約束された人間の救いをイエス様が実現したわけだが、それを受け取ることができるのは旧約の伝統を受け継ぐユダヤ民族である、だからそれに属さない異邦人は救いを受け取れるためにまずユダヤ民族人ならなければならない、つまり割礼を受けなければならない、そのように考えらえたのでした。

 初期のキリスト教会の中で、この考え方に異議を唱えたのが使徒パウロでした。彼の主張の主旨は、人間が罪の呪縛から救われるのは律法の戒律を守ることによってではなく、イエス様を救い主と信じる信仰によってである、というものでした。彼の主張は、「ガラテアの信徒の手紙」の中に展開されていますが、割礼不要論の中で、このように信仰と律法を対比させる議論はとても有名なものです。

割礼不要論には、もう一つ大事なポイントがあります。これは信仰と律法の対比に比べてあまり目立たたないものかもしれませんが、やはり重要なものです。そのポイントは、使徒パウロの「コロサイ人への手紙」2章11~12節に言い表されています。

「あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。」

 割礼の儀式の底にある意味は、それを行うことで血が出るわけですが、血を流すことで神の民の一員に迎えられるということ、つまり神に受け入れられるために血を流したという意味がありました。ところが、洗礼では、天地創造の神の民の一員に受け入れられるために、もう血を流すどころか何も犠牲を払う必要はなくなりました。なぜなら、その神のひとり子が私たち人間の代わりに十字架の上で血を流して下さったからです。今引用したパウロの言葉にあるように、洗礼を受けた者には、イエス様に起こった死が起きて、罪に結びつく古い人間が死んだように無力になります。同時にイエス様に起こった復活も起きて、聖霊に結びつく新しい人間が生まれ、その人は文字通り新しい命を持って生き始めます。

洗礼を受けた者は、こうした洗礼の意味を絶えず思い起こすことで、新しい命を与えられていることを確かめることができます。洗礼の意味を思い起こすことは、天地創造の神がひとり子を用いて成し遂げた罪の赦しの救いを思い起こすことです。これは毎日思い起こすべきことですが、今日のような全てを一新したい気持ちに満たされる日には、特に思い起こしてよいことでしょう。

5.

本日の使徒書である「ペトロの第二の手紙」の中に「神とわたしたちの主イエスを知ることによって、恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように」という祈りがありました(1章2節)。これまで申してきたことは、私たちの造り主なる父なるみ神と救い主であるひとり子イエス様を知ることを目指して話したことです。神と主イエス様を知ることによって、本当に罪の赦しの恵みと良心の平安が皆さんにますます豊かに与えられるように、このペトロの祈りに合わせたく思います。

 最後にこの聖句について、ルターが解き明しをしていますので、それを引用して、本説教の締めにしたく思います。

「『恵み』と『平和』という二つの言葉は、キリスト信仰がそもそも何であるかを言い表す言葉である。『恵み』は罪の赦しを与えるものであり、『平和』は安心と喜びを良心に与えるものである。

 それに対して、『罪』と『不安に怯える良心』は、私たちを苦しめる二つの悪い霊を言い表している。しかし、キリストがこれらの恐るべき敵に打ち勝って、今のこの世においても次の世においても完全に滅ぼして下さったのである。罪が赦されないところには、良心の平安はありえない。罪の赦しというものは、人間が律法の戒律を守ることによっては得られない。誰も律法の掟を完全に守れる者はいないからだ。律法というものは、罪を暴露し、良心を不安に怯えさせ、神の怒りを宣言し、人間を絶望に陥らせることをその本分とするものだからだ。

 罪というものは、神が与えた律法の掟を守ることをもってしても除去できない。そうである以上、人間が作りだした営みや業を持ってしても、なおさら除去できるものではない。そうしたものは、すればするほど神に対して罪を増やすことになってしまう。見せかけの聖人たちは、罪を取り除こうと努力して、すればするほど逆効果になってしまっている。罪を除去できるのは、神が与える罪の赦しの恵み以外にはない。このことをしっかり心に留めておかなければならない。多くの人は、たいてい聖書の御言葉を簡単に理解する。しかし、誘惑や試練の時になるとどうか。そのような時、果たして我々は、罪の赦しの恵み以外には何の手段もこの地上にも天にも必要ないということを、本当に神の一方的な恵みのみで、罪の赦しと良心の平安を持つことができるという真理にしっかり踏みとどまれるであろうか。

主にあって兄弟姉妹の皆さん、このように神が与える罪の赦しの恵みを心にしっかり留めていけば、毎日罪の赦しと良心の平安のしっかり持てて、父なるみ神の見守りが日々あることがわかります。この一年も神と主イエス様を知ることを怠らないようにしましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

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