説教「あなたの王がやってくる」吉村博明 宣教師、ルカによる福音書19章28-40節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日は待降節第1主日です。教会の暦では今日この日、新しい一年が始ります。これからまた、クリスマス、顕現主日、イースター、聖霊降臨主日などの大きな節目を一つ一つ迎えていくことになります。どうか、天の父なるみ神がスオミ教会と教会に繋がる皆様を顧みて下さり、皆様が神の愛と恵みのうちにしっかりとどまることができますように、そして皆様お一人お一人の日々の歩みの上に神が豊かな祝福を与えて下さいますように。

 本日の福音書の箇所は、イエス様が子ロバに乗って、エルサレムに「入城」する場面です。昨年もお話ししたのですが、フィンランドやスウェーデンのルター派教会では待降節第1主日の礼拝の時、この出来事について書かれた福音書の箇所が読まれる際に群衆の歓呼のところまでくると、そこで朗読はいったん止まります。するとパイプオルガンが威勢よくなり始め、会衆みんな一斉に「ダビデの子、ホサナ」を歌います。先ほどこの礼拝の初めに歌った歌です。フィンランドやスウェーデンでは実に讃美歌集の一番の歌です。普段は人気の少ない教会もこの日は人が多く集まり、国中の教会が新しい一年を元気よく始める雰囲気で満ち溢れます。

 

2.ルカの観点

 ところで、先ほど皆さんと一緒に歌った「ダビデの子、ホサナ」ですが、本日読まれたルカ福音書の中には「ホサナ」の言葉がありませんでした。マルコ11章、マタイ21章、ヨハネ12章に同じ出来事の記述がありますが、それらには群衆の歓呼には「ホサナ」があります。「ホサナ」というのは、アラム語の言葉で、もともとはヘブライ語の「ホーシィーアーンナァ(הושיעה נא)」から来ています。意味は「主よ、どうか救って下さい。どうか、栄えさせてください」です。ヘブライ語と言うのは旧約聖書の言葉で、アラム語というのはイエス様の時代の現在のパレスチナの地域で話されていた言葉です。ヘブライ語の「ホーシィーアーンナァ」がアラム語に訳されて「ホサナ」になったわけです。この言葉は今見たように、もともとは天と地と人間の造り主である神に救いをお願いする意味がありました。それが、古代イスラエルの伝統として群衆が王を迎える時の歓呼の言葉として使われるようになりました。さて、ルカ以外の福音書では、群衆はこの歓呼の言葉を叫んでいますが、ルカにはありません。どうしてでしょうか?ルカは書き忘れたのでしょうか?

 この問題は4つの福音書がどのようにして出来上がったかというとても大きな問題に関わるので、ここではそれには立ち入らないで、「ホサナ」がルカ福音書にないことをどう考えたらよいかについて述べておくだけにします。ルカ福音書の1章を見ますと、この福音書がどのようにして出来たかが言われています。福音書記者の手元に資料が山ほどある。まずイエス様の出来事の直接の目撃者の証言。次にその証言を聞いてイエス様を救い主と信じた人たちが聞いたことを口伝えに伝えた事柄。さらに、そうした人たちが記録として書き留めた事柄等々です。ルカ福音書は、それらの資料を編集して出来たというのであります。福音書の記者自身もイエス様を救い主と信じる人です。だから、受け取った資料は慎重に扱わなければならない。しかしながら、資料には重複があったり、同じ出来事を扱っても詳細が一致しないものもある。そういう時、優れた編集者は手元の資料を単に無修正でつなぎ合わせることはしません。自分の観点から取捨選択をして一つスムーズにまとまった全体をつくりだそうとします。ルカの観点は言うまでもなく、イエス様は神の子で旧約聖書に約束された全人類の救い主であるという信仰です。これが彼の観点です。その観点から見て、瑣末と思われることは背景に追いやられたり省略されたりしたでしょう。逆に重要と思われることは、表面に出されたり強調されたりしたでしょう。このようなことがあるので、4つの福音書の中で同じ出来事を扱っていても細かい点で違いは出てくるのは当然なことなのです。

ここで忘れてはならないとても大事なことがあります。それは、同じ出来事を扱って細かい点が違っているというのは、実は大元にある出来事の信ぴょう性を高めるということです。十字架の出来事にしろ、復活の出来事にしろ、大元にある出来事がまず直接の目撃者によって目撃される。これが動かせない事実としてある。それが口伝えに伝えられ、書き留められ、まとめられていく。その過程で、大元は核としてそのまま残り続けるが、周りの細かい点で違いが生じてくるというだけにすぎないのです。そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、福音書に記された事柄、イエス様の教え、業、彼に起きた出来事の全てを、昔の人の空想か作り話などと言って軽々しく扱わないように注意しましょう。イエス様の出来事の直接の目撃者である使徒たちは、権力者側からイエスの名を広めたら命はないぞと脅され警告されたにもかかわらず、広めて行ったのです。自分たちの目で見て耳で聞いた驚くべきことを黙っているわけにはいかなかったのです。それくらい見聞きしたことは驚くべきことだったのです。そういうわけで、福音書の土台にあるものは実は、使徒たちの命を賭した証言集なのです。

大元にあるものは動かせない事実としてあるが、それを4つの福音書が4つの観点から記述している。それゆえ、イエス・キリストによる救いの福音の全体像がわかるためには4つの福音書全てをしっかりみないといけないのです。ある福音書を読んだら、あとは適当でいいということでは不十分なのです。(注)

ここで、ルカ福音書に「ホサナ」の歓呼の声がないことについてどう考えたらよいかということについてみてみましょう。ルカという福音書と使徒言行録の記者は、イエス様についてイスラエルの民の枠を超えた全人類の救い主であるという観点を他の福音書より強く出す傾向があります。それがあるので、イエス様を「王」と呼ぶ時も、全世界にとっての「王」という意識が強くあったと思います。「ホサナ」というのは、先ほど申しましたようにイスラエルの民が自分たちの王の凱旋の時に使う歓呼の言葉です。それで、ルカにしてみれば、群衆の歓呼を記述する時、イエス様が神から祝福を受けて神の名において到来する王ということが読者に伝われば、それで十分、あえてイスラエルの民族性を出さなくても良いとしたと考えられます。もちろんマルコとマタイとヨハネも、イエス様を一民族の王に留める意図はなかったと思いますが、彼らは伝えられた史料にできるだけ忠実たろうとして「ホサナ」を削除しなかったのでしょう。

 

3.未完の預言

 いずれにしても、エルサレムに入城したイエス様は、群衆に王として迎えられました。しかし、これは奇妙な光景です。普通王たる者がお城のある自分の首都に入城する時は、大勢の家来や兵士を従えて、きっと白馬にでもまたがって堂々とした出で立ちで凱旋したでしょう。ところが、この王は群衆には取り囲まれていますが、子ロバに乗ってやってくるのです。読む人によっては、これは何かのパロディーではないかと思わせるかもしれません。本当にこの光景、出来事は一体何なのでしょうか?

加えて、イエス様は弟子たちに、まだ誰もまたがっていない子ロバを連れてくるようにと命じました。まだ誰にも乗られていないというのは、イエス様が乗るという目的に捧げられるという意味です。もし既に誰かに乗られていれば使用価値がないということです。これは、聖別と同じことです。神聖な目的のために捧げられるということです。イエス様は、子ロバに乗ってエルサレムに入城する行為を神聖なものと見なしたのです。つまり、この行為をもってこれから神の意志を実現するというのです。さあ、周りをとり囲む群衆から王様万歳という歓呼で迎えられつつも、これは神聖な行為、これから神の意思を実現するものであると、ひとり子ロバに乗ってエルサレムに入城するイエス様。これは一体何を意味する出来事なのでしょうか?

実は、これはパロディーでもなんでもないのです。まことに真面目で神聖なことそのものなのです。昨年の説教の時にも申し上げたのですが、このことについて少し振り返ってみます。

 このイエス様の行為は、旧約聖書の預言書のひとつ、ゼカリヤ書にある預言が成就したことを意味します。ゼカリヤ書9章9-10節には、来るべきメシア救世主の到来について次のような預言があります。

「娘シオンよ、大いに踊れ。/娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。/見よ、あなたの王が来る。/彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ロバの子であるろばに乗って。/わたしはエフライムから戦車を/エルサレムから軍馬を絶つ。/戦いの弓は絶たれ/諸国の民に平和が告げられる。/彼の支配は海から海へ/大河から地の果てにまで及ぶ。」

 「彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく」というのは、原語のヘブライ語の文を忠実に訳すと「彼は義なる者、勝利に満ちた者、へりくだった者」です。「義なる者」というのは、神の神聖な意志を体現した者ということです。「勝利に満ちた者」というのは、今引用した10節から明らかなように、神の力を受けて世界から軍事力を無力化するような、そういう世界を打ち立てる者であります。「へりくだった者」というのは、世界の軍事力を相手にしてそういうとてつもないことをする者が、大軍隊の元帥のように威風堂々と登場するのではなく、子ロバに乗ってやってくるというのであります。イエス様が弟子たちに子ロバを連れてくるように命じたのは、この壮大な預言を実現する第一弾だったのです。

 「神の神聖な意志を体現した義なる者」が「へりくだった者」であるにもかかわらず、最終的には全世界を神の意志に従わせる、そういう世界をもたらすという預言は、イザヤ書11章1-10節にも記されています。

「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち/その上に主の霊がとまる。/知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊。/彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。/目に見えるところによって裁きを行わず/耳にするところによって弁護することはない。/弱い人のために正当な裁きを行い/この地の貧しい人を公平に弁護する。/その口の鞭をもって地を打ち/唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。/正義をその腰の帯とし/真実をその身に帯びる。/狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。/子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。/牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。/乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/幼子は蝮の巣に手を入れる。/わたしの聖なる山においては/何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。/水が海を覆っているように/大地は主を知る知識で満たされる。/その日が来ればエッサイの根はすべての民の旗印として立てられ/国々はそれを求めて集う。/そのとどまるところは栄光に輝く。」

このように危害とか害悪というものが全く存在せず、あらゆることにおいて神の守りが行き渡っている世界はもうこの世のものではありません。今のこの世が終わった後に到来する新しい世です。イザヤ書や黙示録に預言されている、神が今ある天と地にかえて新しい天と地を創造された時の世です。その新しい世に相応しい完全な正義を実現する「エッサイの根」。それは何者か?エッサイはダビデの父親の名前なので、ダビデ王の家系に属する者です。つまり、イエス様を指します。やがては今ある天と地とこの世とにかわって、神の神聖な意志に完全に従う新しい世が新しい天と地と共に到来する。その時に完全な正義を実現するのがイエス様ということなのです。

そうすると、一つ疑問が起きます。確かにイエス様はこの世に送られてエッサイ・ダビデ家系の末裔に加えられた。また神の霊を受けて、神の目からみた正義や公平について人々に教えた。そして、子ロバに乗ってエルサレムに入城した。これらの預言は確かに成就されたとわかりますが、しかしながら、イエス様がこの世におられた時に軍事力が無力化する世界、危害も害悪もない世界、新しい天と地の世界はまだ起きなかったではないか?預言は完全には実現しなかったではないか?実はこれらの預言は、イエス様の再臨の時に実現するものなのです。まだ預言は未完なのです。イエス様が最初に来られた時、一部は実現しましたが、それは預言全体の実現が始ったということで、イエス様の再臨をもって全て完結するというものであります。最初に来られた時、イエス様は無数の奇跡の業を行いましたが、実はこれは害悪も危害もない世界、新しい天と地の世界がどういうものであるかを人間に垣間見せる意味があったのです。

 

4.イエス様は「王」

 ところでイエス様を歓呼で迎えた弟子たちや民衆は、実は神の大事業が全人類の救いに関わるとまでは見通せていませんでした。彼らは、子ロバに乗って凱旋するイエス様をみてゼガリア書の預言の成就とはわかっても、彼らにとってイエス様はあくまでもユダヤ民族をローマ帝国の支配から解放してくれる王でしかありませんでした。旧約聖書の本当の意図することと当時実際に理解されたことのギャップはとても大きなものでしたが、それはいたしかたのないことでした。というのも、一方でバビロン捕囚後のユダヤ民族が辿った歴史があり、他方で旧約聖書にメシアについての預言があり、そうなると民族解放の願望がメシアに結びつけられてしまうのは容易なことでありました。メシアというのは実は、全人類を罪と死の支配から解放してくれる王であるという正しい理解は、イエス様の十字架と復活の出来事を待たねばならなかったのです。

イエス様が全人類を罪と死の支配から解放してくれる王という時、それはどのようにして実現したのでしょうか?イエス様は、自分自身神の子でありながら、否、神の子であるがゆえに、これ以上のものはないというくらい神聖な生け贄になって十字架にかけられて自分の命を捧げて、人間の罪を人間にかわって償いました。人間の罪の償いにこれ以上の犠牲の生け贄は存在しないのです。人間は自分の身代わりになって死んでくださったイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、神はイエス様の犠牲に免じて人間の罪を赦される。神から罪の赦しを受けることで人間は、それまで罪のゆえに断ち切れていた神との結びつきを回復する。まさにこれで罪が人間に対して持っていた力、神との結びつきを引き裂く力は無力化されたのです。

それだけではありません。神は一度死なれたイエス様を死から復活させることで、永遠の命に至る扉を人間に開かれたのです。こうして神から罪の赦しを受けて神との結びつきを回復した者は永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩み始めるようになりました。その間神から絶えず守りと良い導きを得られ、万が一この世から死んでもその時は自分の造り主である神の御許に永遠に戻ることができるようになったのです。このようにイエス様は、罪と死が人間に揮っていた圧倒的な力を完膚なきまで無力化しました。イエス様は真に罪と死の上に立つ方です。何ものにも支配されない方です。

そのような計り知れない権威と支配力を持つイエス様が王と呼ばれるのですが、現代ではこの呼び名は大丈夫でしょうか?民主主義が確立する前の歴史の段階では、王は国の実際の支配者でした。王冠をかぶって支配権を象徴する杖をもって王座に座っていました。そして、国の重要事項の決定は取り巻き連中に諮りながらも自分の責任で行い、戦争があれば軍隊の先頭に立って出陣しました。そういう時代であれば、イエス様は王と呼ぶのは、イエス様の権威を理解する上でよかったと思います。

しかしながら、民主主義が確立すると、君主制は廃止されるか、残っても実際の支配権は持たないというのがほとんどです。権力は、国民が選挙で選ぶ大統領に委ねられたり、または選挙で選ばれた国会や国会が選ぶ政府や首相に委ねられたりします。そういうところでは、王は国会の開会を宣言したり、国会が可決した法案に署名して法律の体裁を整えたりするなど、極めて形式的儀礼的な役割しか持っていません。それなら、イエス様を王と呼ばずに首相とか大統領と呼んだ方が実態に即しているでしょうか?

実は即していないのです。イエス様はやはり王と呼ぶのが相応しいのです。どうしてかというと、首相とか大統領は国民が選挙で選ぶものです。国民の多数の支持がなければ、選出されません。イエス様がメシア救世主というのは、彼が神のひとり子だからそうなのであり、選挙で選ばれたからではありません。イエス様がメシアでいられるために国民の多数の支持など必要ないのです。国民の多数が嫌いになろうが背を向けようが、イエス様が神のひとり子でメシアであるということには何の影響もないのです。

民主主義が確立する前の時代では民衆は王に「お仕えする」ということがありました。私たちが国会や政府や首相に「仕える」ということはありません。私たちがそれらの決めたことに従うのは、それらにお仕えするからではなく、それらは国民のためにいろいろなことを決めなさいと国民から選ばれたという建前があるからです。もちろん、そうした権力機関の決めたことが、果たして国民のためになっているのかどうか怪しいと多くの人が疑問視するようになると、この建前は機能が難しくなります。いずれにしても、この民主主義の時代に国民が「お仕えする」ような権威を設けることは難しいのではないかと思われます。それなのに、イエス様をいつまでも「王」と呼ぶのはどうしてなのでしょうか?

よく考えてみると、「お仕え」したのは私たちではなく、イエス様の方であったことに気づかされます。私たちを罪と死の支配から贖い出すために御自分の命を犠牲にされたのです。人間が受ける「お仕え」でこれ以上のものはあるでしょうか?大統領や首相や人間の王様のだれも、人間を罪と死の支配から贖い出すことなど出来ません。また、国民の福利厚生のために自分の命を犠牲にするということもまずありえないでしょう。とにかく私たちは、それくらいの「お仕え」をイエス様にしていただいたことがわかれば、私たちが王であるイエス様に対して行う「お仕え」というのも、怠けるのも恥ずかしいくらい取るに足らないものであることがわかるでしょう。私たちの「お仕え」は何かと言うと、イエス様によって罪と死の支配から贖い出された者としてしっかり生きることです。具体的にどういうことかと言うと、もし罪の考えを抱くようなことがあれば、それが行為や口に出てしまって罪の支配下に戻らないようにしなければなりません。その時はすぐ神に罪の赦しを乞います。すると神はイエス様の犠牲に免じて赦して下さいます。その赦しが本当であることを確信させるために、神は私たちの心の目をいつもゴルゴタの十字架の上で死なれたイエス様に向けさせます。

そういうわけで兄弟姉妹の皆さん、私たちはイエス様によって罪と死の支配から贖われた者ですので、そのような者としてしっかり歩んでまいりましょう。私たちのイエス様に対する「お仕え」は、以上のような自分自身の生き方に関することだけではありません。それと併せて、出来るだけ多くの人が罪と死の支配からの贖いを持てるように祈ったり働きかけたりすることもあります。そのことも忘れないようにしましょう。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

(注)そうすると、トマス福音書とかユダ福音書とか、聖書には収められていない福音書はどうするのか、という疑問が起きてきます。福音の全体像がわかるためにこれらの書物には意味はないのか?答えは、意味なしです。というのは、こういう「福音書」の名がつく書物は、使徒たちの教えや伝えたことと相いれない、つまり使徒的な伝統から外れているのです。それで聖書には載せられなかったのです。それでは、何の書物を聖書に載せることができて何を載せないとする基準にある使徒的な伝統とは何か?それは、簡単に言えば、新約聖書の使徒書の部分が使徒的な伝統を表しています。何の書物を聖書に載せることができて何を載せないというのは、別の言い方をすれば、聖霊のコントロールが働いていたということですが、使徒書を書いた人たちは本当に聖霊の力を受けて書いたとしか言いようがないのです。

そういうわけで私は、イエス・キリストによる救いの福音の全体像がわかるために聖書は次のような順序で読むのがいいのではないかと、最近強く考えるようになってきました。まず使徒書を通して使徒的伝統の基本を学ぶ。次に旧約聖書に行って、なぜ人間は神からの救いが必要なのか、そのために神は何を計画されたかを学ぶ。その次に4つの福音書と使徒言行録が来て、神の計画が実際どのように実現されたかを学ぶ。そんな順序です。最後はもちろん、黙示録です。ただし、これは、旧約新約両方の書物で、終末の出来事やイエス様の再臨について述べているものを復習しながら読むのがいいと思います。


主日礼拝説教 待降節第1主日
2015年11月22日の聖書日課 エレミア33章14-16節、第2テサロニケ3章6-13節、ルカ19章28-40節

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