説教「歓呼の中で最終目的地にて出迎えを受ける喜び」神学博士 吉村博明 宣教師、イザヤ書35章4-10節 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

 皆さんは、大勢の人から歓呼で迎えられたり歓声を受けた経験がありますか?スポーツの選手だったら、競技の最中とか、また試合や競争に勝った時は観客の歓声を浴びるでしょう。音楽を本格的にする人だったら、演奏や歌が終わった時、聴衆から拍手を受けるでしょう。そうなると、大勢の人の歓声を受けると言うのは、スポーツ選手や音楽家のように特別な才能ある人に限られて、普通の人はあまり機会がないかもしれません。それでも、小学校や中学校の運動会で走った時は応援の声を浴びたり、ゴールインした時は、たとえ一番でなくても誰かしら拍手してくれたり、「よく頑張った!」と言ってくれたのではないでしょうか?また学芸会の劇とか合唱コンクールにクラス全員で出て、観客から拍手を受けた時などは、たとえ自分は脇役くらいだったとしても、大勢の人たちから大きなこと成し遂げたと見てもらったような感じがしたのではないでしょうか?こうしたことは、大人になってしまったら、どんな感じだったかもう覚えていない人がほとんどかもしれません。しかし、大抵は誰でも歓声や拍手を受けた経験はあるものです。

本日の旧約聖書の箇所であるイザヤ書35章は、人は誰でも歓呼や歓声をもって出迎えられる可能性があることについて述べています。しかしながら、その歓呼や歓声の場所は、スポーツ競技場でもコンサート会場でもありません。それではどこでしょうか?イザヤ書35章は、神の国、別名天の御国、またの名を天国と言いますが、人がそこに迎えられる時の出迎えの様子について述べています。しかも、その歓呼や歓声たるや、大勢の天使たちが出迎えをしてあげるものです。10節に「とこしえの喜び」とあるように、永遠に続く喜びに満ち溢れた歓呼・歓声です。スポーツ競技場やコンサート会場の観客の一過性の歓声とは全く質が違う、天国に響き渡り、永遠に続く喜びに満ちた歓呼・歓声です。特別の才能があろうがなかろうが、またどんなに目立たない人生を送ってきた人でも、そのような盛大な出迎えを受けられる可能性がある、ということをイザヤ書の箇所は教えています。どうしてそのようなことが可能なのか、以下みてまいりましょう。

2.

イザヤ書35章を一読すると、渇いた荒れ地に水が溢れ出て草花が咲き乱れたりすることとか、またエルサレムに通じる道が現れて、そこを喜びに溢れて進んでいくことなどが書かれています。そうすると、この箇所は、イザヤ書40章から55章にかけて述べられている、ユダヤ民族のバビロン捕囚からの解放とエルサレム帰還を先取りする内容のように見えます。バビロン捕囚からの解放とエルサレム帰還というのは、紀元前500年代後半に起きた歴史的な出来事です。当時のイスラエルの民にとって、解放と帰還はそれこそ喜びに満ちた帰還でした。バビロンからエルサレムまでの荒野の道はそれこそ、水が溢れ出たり花が咲き乱れるような気分で歩むことができたでしょう。囚われの身だった人々が解放されたというのは、さぞかし歩けなかった人が鹿のように躍り上がったり、口の利けなかった人が喜び歌う、そういうイメージを彷彿させたでしょう。

 しかしながら、キリスト信仰者がこの箇所を読む時は、これを歴史的な出来事のイメージ豊かな描写という理解で終わってはいけません。5節と6節で「見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う」と言われていますが、これは、単なるイメージ描写ではありません。なぜなら、本日の福音書の箇所から明らかなように、こうしたことは、バビロン捕囚からの解放と帰還の500年後にイエス様が実際に全て行ったのです。本日の福音書の箇所では、耳と口が不自由な人が癒された奇跡が記されていますが、イエス様は盲目の人の目も見えるようにしたり、手足の萎えた人が自由に動けるようにする奇跡も行っています。そうしたことは単なるイメージだけでなく、実際に起きることがイエス様の事例で明らかなのです。

加えて、9節と10節をみると、「解き放たれた人々」とか「主に贖われた人々」が道を進むことが述べられています。「解き放たれた者」(9節)とは一見、バビロン捕囚から解放されたイスラエルの民を意味すると考えることができます。しかし、原語のヘブライ語ではそれこそ「贖われた者」( גאולימ< גאל )という意味の単語です。「贖われた」とは、囚われの身だった者が誰かが請け負ってくれたので自由の身にしてもらった、という意味です。10節の「主に贖われた人々」はもっと意味がはっきりしています。原語のヘブライ語( פדויי< פדה)では「主が身代金を払ってくれたので自由の身にしてもらった」という意味です。

「贖われる」とか「身代金を払ってもらって自由になる」という考え方は、キリスト信仰にとって要となるものです。なぜならキリスト信仰者は、人間は罪の汚れのために神聖な神との結びつきを失ってしまったが、イエス様がゴルゴタの十字架で人間の罪を請け負って神の罰をかわりに受けてくれたおかげで、神から罪の赦しを受けられるようになり、それで神との結びつきを回復できるようになったのだ、と信じます。まさにそれゆえにイエス様は真の救い主であり、彼が十字架の上で流した血こそが私を罪の奴隷状態から解放するための身代金になった、そのように自分のひとり子を犠牲にするのも厭わないくらいに神は私を大切な存在に扱ってくれたのだ、とわかります。それでキリスト信仰者は、神に感謝してひれ伏し、神の意思に沿うように生きようと志向するのです。さらに、そこまで自分を愛してくれる神なら自分の思いや悩みを真摯に受けとめて聞いてくれるだろうと信頼して、神に祈りを捧げ、思いと願いを全て打ち明けるのです。

道、真理、命

そういうわけで、イザヤ書35章9節10節にある「解き放たれた人々」、「主に贖われた人々」というのは、イエス・キリストの十字架の贖いの業が自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様を救い主と信じるようになった人たちを意味します。まさに、キリスト信仰者です。今から2500年以上前の歴史的出来事の人々にとどまりません。さらに、10節の最後をみると、「喜びと楽しみが彼らを迎え、嘆きと悲しみは逃げ去る」と言われています。同様なことが黙示録21章でも言われています。それは、最後の審判と死者の復活が起きる時に出現する新しい天と地についての預言です。その時、復活させられて神のもとに迎え入れられる者たちについて次のように言われています。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとく拭い取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである(3-4節)」。

ギリシャ語の新約聖書のテキストの欄外に編者の注のようなものがありますが、この黙示録の箇所はイザヤ書35章10節をもとにしていることが記されています。つまり、黙示録を書いたヨハネにとって、イザヤ書の35章は過去の歴史的出来事ではなく、新しい天と地が現れる将来の出来事を意味したのです。10節にはまた、「喜び歌いつつシオンに帰り着く」と言われています。シオンというのは、エルサレムを指す言葉ですが、ヨハネの黙示録では新しい天と地が出現する時に天から降ってくる天の御国のことをエルサレムと言っています。地上の町のことではありません。

ここで、旧約聖書の読み方について注意しなければならないことを述べておきます。旧約聖書は、もちろんイエス様以前のイスラエルの民の歴史やユダヤ民族の信仰について知る書物として読むこともできます。それはそれで意味があります。しかし、キリスト信仰者はそれにとどまってはいけません。旧約聖書には来るべき人間の救いとその救い主についての約束が随所に記されています。ルターが、旧約聖書を読む時はキリストを見いだすように読みなさい、と教えている通りです。従って、このイザヤ書35章の内容は以下のようなものと言うことができます。イエス様を救い主と信じる信仰のゆえに神から罪の赦しを得て罪の奴隷状態から解放された者たちが、この世の人生の歩みを経て天の御国という最終目的地に到達して、そこで歓呼と歓声をもって出迎えられるということです。以下、このことを踏まえて、35章を少し詳しく見ていきます。少し聖書研究会のようになってしまい恐縮ですが、皆様、お手元の聖書をお開き頂き、それを見ながら話をお聞き下さい。

3.

1-2節 私たちの用いる新共同訳では「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ」という具合に、「喜び躍れ」は命令文です。英語、スウェーデン語、フィンランド語の聖書をみると、「喜び躍ることになる」と未来の意味で訳され、命令の意味ではありません(ドイツ語の旧約聖書は手元にないので割愛します)。私としては、ヘブライ語の文法上、命令が正解と思われ、日本語訳に軍配があがるのですが、その後がよくない。最初を命令の意味に訳すと、文法上その後は目的とか結果の意味に訳さないといけないのです。つまり、こうです。「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ。砂漠が喜び花を咲かせるために(または、「そうすれば砂漠は喜び花を咲かせるであろう」)。

 「レバノンの栄光」とか「カルメルとシャロンの輝き」というのは、これらの場所が荒れ野と全く対称的な自然豊かな土地だったのでしょう。ただここは、荒廃した自然が緑豊かに回復するという意味ではなく、今ある天と地にかわる新しい天と地の出現を暗示しています。それがわかるのが、2節の終わり「人々は主の栄光と我らの神の輝きをみる」という節です。人間は誰も神の栄光や輝きをみることはできません。罪に汚れた人間が神聖な神の前に立つと、焼き尽かされてしまいます。人間と神との落差はそれほど絶望的なものです。しかし、イエス様を救い主と信じる者に神は次のように言います。「そうか、お前は私が送ったイエスを救い主と信じ、私が彼を用いて実現した罪の赦しの救いを受け入れるのだな。ならば、お前の罪はお前のその信仰のゆえに赦される。」このように言われた者は、最後の審判や死者の復活が起きる日に神の栄光や輝きをみることができ、見ても大丈夫なのです。

3-4節 「敵を打ち、悪に報いる神が来られる。」ヘブライ語の原文では「敵」とか「悪」という単語はありません。原文に忠実に訳すと、「報復が来る。神の報償が」です。この世で不正義、悪、不条理の犠牲になった者は何百倍にも償いを受けて完全な補償を受ける。逆にそのような犠牲をもたらした者は、この世の人生の段階で神の前にへりくだって赦しを乞わない限り、何百倍もの報いを受け永遠の苦しみを受けることになる。そういう人間の生前の行いが最終的に完璧に全て清算される時が来るということです。もちろんこの世の段階で、不正義、悪、不条理の問題はある程度は解決できて、被害者に償いや補償を行うこともできましょう。しかしながら、解決できないものも多く、解決できた場合も完全に正義を実現したのか疑わしい時も多々あります。だから、最後の審判の日に全ては神の意思に沿って完全かつ最終的に清算されるのです。

先ほど引用した黙示録21章4節に、神は涙をことごとく拭い取って下さる、とありましたが、それはまさに神の完全かつ最終的な清算を象徴しています。加えて、黙示録19章では天の御国は結婚式の盛大な祝宴にたとえられています。これは、この世での労苦に対する最上の労いを意味します。キリスト信仰者は、将来こういう時が待っていると知っているので、この世で悪に手を染めず、悪から試練を受けても「雄々しくあれ、恐れるな」という言葉が絶えず耳に響いているのです。およそ神の意思に沿うことなら、何事も無意味だったとか、無駄だったとかいうことは何もないとわかっているのです。

5-7節 見えない人が見えるようになり、聞こえない人が聞こえるようになり、歩けなかった人が躍り上がり、口の利けなかった人が喜び祝う。これは、死者の復活が起きる時、神の御国に迎えられる者が復活の体という特別な体を与えられることを意味します。復活の体について使徒パウロは、「蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです(第一コリント15章42-43節)」と教えます。イエス様は復活させられた者がどんなものかについて、ずばり「天使のようになる」と言っています(マルコ12章24節)。

 「口の利けなかった人が喜び歌う」の次ですが、ヘブライ語の原文では「なぜなら」という言葉があります。つまり、いろんな障害を抱えている人が輝かしい者に復活する。なぜなら、荒れ野に水が湧きいでて、荒れ地に川がながれるからだ、と言うのであります。この自然描写は、最後の審判と死者の復活が起こる時に出現する新しい天と地について述べています。

8節-9節 「そこに大路が敷かれる」の「そこに」というのは、ヘブライ語の言葉としては「そこに至る」と訳しても大丈夫な言葉です。新しい天と地のある場所、つまり神の御国に至る大路が敷かれたということです。イエス様を救い主と信じ、神から罪を赦してもらった人は、その道の上に置かれてあとは御国を目指して歩み続けます。「汚れた者」がその道を通れないと言われますが、これは罪の汚れを持つ者です。ただし、キリスト信仰者も肉を纏って生きている以上、罪の汚れを持っています。どこが違うかというと、信仰者の場合は信仰のゆえに罪を赦してもらっているが、信仰者でない場合はまだこの神からの赦しを得ておらず罪の汚れが汚れとして残っているのです。

8節で「主御自身がその民に先だって歩まれ、愚か者がそこに迷い入ることはない」と言われます。最初の部分を原文に忠実に訳すと、「その道は、その道を通る者のものである」。なんだか当たり前すぎてよくわかりません。しかし、次の行「愚か者がそこに迷い入ることはない」をよくみれば意味がわかります。「愚か者」とは、神の知恵からかけ離れた者のことです。神の意思を知らず、神の導きに自分を委ねたくない人です。翻って、「その道を通る者」とは神の意思を知っていて、神の導きに自分を委ねる、神の知恵に与った人です。「道」は、そのような者の道なのです。

 この天の御国に至る道は、獅子も獣も入り込めない道と言われます。つまり、しっかり守られ安全な道なのだという。しかし、御国に至る道を歩む者が危険や災難に一切遭遇しないとは言い切ることはできません。だったら、安全ではないでないか?と言われてしまうでしょう。使徒パウロが次のように教えていることを思い出しましょう。「死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主イエス・キリストによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことは出来ないのです(ローマ8章38-39節)」。危険や災難に遭遇しても、それらには信仰者から神の愛を引き離す力は持っていないのであります。それで安全なのです。

10節「主に贖われた人々は帰って来る」。「主に贖われた人々」とは、イエス様が十字架で犠牲の死を遂げたことで私の罪は赦され、イエス様のおかげで罪の奴隷状態から贖われた、と信じる者です。「帰って来る」というのは、神から罪の赦しを受けて神との結びつきを回復させた者が、最初の人間アダムとエヴァが堕罪前にいた楽園にまた帰って行く、という意味です。このようにイエス様の十字架の贖いの業というのは、最初の人間が失ったものを取り戻す意味があります。

「シオン」とは、先ほど申しましたようにエルサレムの別名で、エルサレムも地上にあった現実のエルサレムの町の意味の他に、天の御国も意味します。

「とこしえの喜びを先頭に立てて」。ヘブライ語の原文では、「とこしえの喜びは彼らの頭上にある」です。「喜びと楽しみが彼らを迎え」。「迎え」と言っているのは、原文では「取って替わる」という意味がある動詞です。「喜びと楽しみが取って替わる」というのははっきりしませんが、すぐ後で「嘆きと悲しみは逃げ去る」と言っているので、「贖われた人々にとって喜びと楽しみが全てに取って替わり、嘆きと悲しみはもう入り込む余地がなくなって退散せざるを得ない」という意味でしょう。

4.

以上、イザヤ書35章というのは、キリスト信仰者が歩むことになる道、永遠の命に至る道がどんな道でどこに至るかをよく教えている箇所であることが明らかになりました。その途上で信仰者は決して危険に遭遇しないとは言えないけれども、どんな危険や困難も、信仰者を神の愛から引き裂く力を全く持っていないのです。そしてこの世が終わりを告げて死者の復活が起こる時、信仰者は朽ちない復活の体を与えられ、天の御国にて神の天使たちの盛大な出迎えを受けます。到着する方も出迎える方も、ただただ喜びに満たされています。それこそ、天使たちが「おめでとうございます!よく頑張りましたね!」と叫ぶのが聞こえそうなくらいです。

本日の福音書の箇所で述べられているイエス様の奇跡の業について一言。イエス様は、イザヤ書35章や他の章にも預言されているいろんな癒しの奇跡を行いました。イザヤ書35章をよく見ると、難病が癒されるのはそれこそ終末の時、新しい天と地が出現する時の出来事として記されています。それがまだその時でない段階で、どうして奇跡の業を行ったのでしょうか?

それは、神の国がイエス様とともにあったからです。イエス様は活動開始の頃、「悔い改めよ。神の国は近づいた!」と宣べ伝えました。「近づいた」というのは、ギリシャ語の原文ではエンギケン(ηγγικεν)という言葉で、これは「近づいた」と言うよりは、ずばり「もう来た」とか「もうここにある」という意味です。神の国は、先ほども見ましたように、復活の体を与えられて朽ちない存在に変えられた者が集い、なんらの嘆きも悩みも苦しみもなく死もなく、病気も飢えもない世界です。そんな神の国がイエス様にくっつくようにして一緒にいたのです。だからイエス様が触れたりまたイエス様に触れれば、神の国の影響力が働いて病気が治ってしまう。イエス様が一声かければ嵐は静まり、わずかな食糧で数千人もの人たちを養ったりしました。つまり、当時の人たちは、まだ最後の審判や復活の日が来る前に神の国を垣間見たないし味わったのです。

しかしながら、いくらイエス様に癒してもらったり、空腹を満たしてもらったりして神の国の力や影響力を体験したとは言っても、これらの人々はまだ神の国の外部に留まっています。神の国の内部にはいれるようになるためには、これはイエス様のゴルゴタの十字架の贖いの業と死からの復活がなされるのを待たなければなりませんでした。それらが成就した後で、人はこれらの出来事が自分のためになされたとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、神の国に至る道に置かれてその道を歩み始めるのです。まさに、イエス様がイザヤ書35章で言われる大路、聖なる道を敷いたのです!キリスト信仰者は、この道がどこに向かって、最終目的地はどんな場所か、そしてそこでは歓呼と歓喜を持って出迎えを受けるということを知っています。

雄々しくあれ、恐れるな。חזקו  אל-תיראו
喜びと楽しみが彼らを迎え、嘆きと悲しみは逃げ去る。
ששון  ושמחה  ישיגו  ונסו  יגון  ואנחה

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメ

 


主日礼拝説教 聖霊降臨後第十六主日
2015年9月13日の聖書日課  イザヤ35章4-10節、ヤコブ1章19-27節、マルコ7章31-37節


説教「わたしは命のパンである」木村長政 名誉牧師、マルコによる福音書7章24~30節

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今日の福音書は、マルコ7章24~30節です。
表題に「シリア・フェニキアの女の信仰」とありますように、舞台はガリラヤではなくて、ず~っと北のティルスという地方です。口語訳の聖書では、「ツロ」と言われていたところです。つまりティルスという地方は、イエス様が伝道を始められた、ガリラヤやユダヤとはちがう、異邦人の地でありました。この異邦人の地に、イエス様と弟子たちが行かれた時に、起こった出来事であります。今日のみことばのカギは、異邦人の地で起こったカナン人の女と、イエス様のことであります。

イエス様は、少し落ち着いて静かな雰囲気で過ごされたかったことでしょう。
ガリラヤでは毎日群衆がおしよせ、ユダヤ教の律法学者たちと論争し、毎日がいわば戦争です。7章1~2節を見てもわかります。そこで、ず~っと北のほうにあるツロまで来られて、弟子たちと共に静かにしたいところでした。
24節、「ある家にはいり、誰にも知られたくないと思っておられたが」とありますように、ここにも人々がイエス様のうわさを聞いて、おしよせて来たわけです。ここで1つのハプニングが起こります。ギリシャ人でシリア・フェニキア生まれの女がイエス様の前にひれ伏し、悪霊にとりつかれて苦しんでいる娘を助けて下さい、と懇願するのであります。この女の願いに対してイエス様は意外にも、冷たいような言葉を返しておられます。

27節を見ますと「イエスは言われた。『まず子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない』」。この言葉はどういうことでしょうか。女は悪霊を追い出して下さい、とたのんでいるのに、何という言葉でしょうか。普通の人が聞いても、何のことをイエス様は仰っているのかわからない。病人を助けてほしいという女の、必死の願いの前に「まず、子供たちに食べさせなければならない」と言われるのです。これは衝撃を与えるような言葉です。27節でイエス様は言われました。子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」。
小犬にやってはいけないと言われた言葉から、この女には全てがわかって、イエス様の言葉に対応していくのです。イエス様は今、異邦人の地に来ておられるという事が前提にあって、悪霊を追い出して下さいという、病をいやす事がここに偶然に起こったのでしょうか。イエス様の言葉には、謎めいた重たい内容が女に返されています。
「小犬にやってはいけない。」と言われた「犬」というのは、愛される番犬等のことを言っているのではありません。ふつう、「犬」は不名誉の象徴として使われたのでした。ギリシャ人にとっては、犬と言えば「恥知らずのずうずうしい女」を意味しました。ギリシャ生まれの彼女には、ずしりとくる言葉でした。そして、その意味することも、すべて分かったのです。ユダヤ人にとっても、これは軽蔑的な言葉でありました。「聖なるものを犬にやるな」聖書にも出てくるくらいです。(ピリぴ3:2、黙示22:15)
それは異邦人を軽蔑する、ユダヤの言葉でありました。

ここに大事な点があります。
犬という言葉を用いる時の声の調子によって、全く同じ言葉がひどい軽蔑になるし、又、愛情あふれる呼びかけにもなるのでした。ここでのイエス様は、軽蔑の言葉から調子を変え、愛情のこもったペットの小犬を呼ぶような意味を、含ませておられたというのです。まず子供たちに食べさせるべきである、とイエスは言われた。しかし、ただ「まず」であって、家のペットたちのためにも肉は残されていた。つまり、まず神様は、イスラエルの民に最初に福音を与えられた。しかし、ただ最初であったにすぎない。

さて、この時代、食事をするのにナイフやフォーク等使っていません。両手で食べました。もし手が汚れていたら、彼らは手の汚れをパンのかたまりで拭いて捨てたのです。落ちたパンくずは、家で飼っていた犬がそれを食べたのです。この習慣をよく知っているギリシャ生まれの、かしこいカナンの女は、すぐさまイエス様に、精一杯の愛をもって答えていくのです。彼女は言いました。
「わたしは子供たちに、最初に食べさせるのを知っています。ごもっともです。しかし、子供たちが捨てたパンくずもいただけないのですか。」というのです。
たしかに神様はイスラエルの民に、まず信仰を恵まれました。マタイは書いています。「しかし、主よ、ダビデの子よ、わたしをあわれんで下さい」と、一番最初に口に出しているのです。神のあわれみも、あのパンくずのようにあるでしょう。

イエス様は彼女を受け止め、愛をもって言われます。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」この時、娘の病気はいやされた。ここに、信仰をダメだ、と拒絶するような答えというものはないのです。明るい信仰がある。あわれみによる、救いを信じる信仰があるのです。娘の苦しみを全身で我が身に受けて、苦難の中にいた彼女の心は、ほほえみをもって答えられました。彼女の信仰はためされ、機転のきいた賢い言葉をもって、イエス様とのやりとりの中で、異邦人の女の信仰を真実な信仰として、受け入れて、答えていかれた。彼女の祈りは答えられたのです。

イエス様に、壁のように立ちはだかっていた、まずユダヤの民だけが神の恵みにある、これを打ちくだかれています。ユダヤ人たちが異邦人を拒否して、遠くに投げ捨てた「天からのパンくず」を、彼女は受けていったのです。
「主よ、しかし食卓の下の小犬も、子供のパンくずはいただきます」と、イエス様を最大級の尊敬を込めて、「主よ」と叫んで、そして自分が小犬であることを認めているのです。その上でパンくずを求めるのであります。
救い主が、ユダヤの中にお生まれになることは、神の御計画による事実であります。しかし、神の救いはユダヤ人に限定されるべきものではない。彼女はギリシャ人であっても、小犬のようであっても、パンくずとして神の恵み、あわれみを受けるのでありました。主イエスからのパン、それにすべてがかかっていると、信じて求めるのでした。主イエス様が与えて下さるパンこそは、ユダヤ人によって、又、ローマ帝国の支配から開放されることでありました。罪の支配から、又、神に逆らう力からの開放を示すことでありました。

ヨハネ福音書6章41節に、主は御自信を「わたしは天から降ってきたパンである」と言われました。或いは6章48節では「わたしは命のパンである」と言われています。このようにヨハネでは、御自身をパンとして私たちに与え、罪による悲惨から救い出して下さったのであります。
異邦人の地において、ギリシャ人の女に、福音の救いはもたらされました。
異邦人の前に立ちはだかっていた壁は打ち砕かれ、神の福音は全ての異邦人世界へと、やがて広げられていった、その原点がここにあったということであります。    アーメン・ハレルヤ!


聖霊降臨後第15主日  
2015年9月6の聖書日課  マルコ7章24~30節


説教「福音は心を軽くするそよ風」神学博士 吉村博明 宣教師、マルコによる福音7章1~15節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

1.
先週末にフィンランドから戻ってきました。宣教師の留守中、スオミ教会の主日礼拝が教会の皆様のご奉仕に支えられて木村先生と田中先生のもとで猛暑の中でも無事に守られたことは大きな感謝です。

この夏のフィンランド滞在で今年特に印象に残った体験があります。それは、風が今年は何故かとても心地よく感じられたことでした。この夏のフィンランドは7月までは日本と全く逆の冷夏で20度以下の日が続きました。8月に入ってやっと20度を超える暖かさになり、ちょうどその頃、妻の実家に滞在しました。

実家は酪農業で、家の裏に牛が150頭位入る牛舎と大型トラクターが何台も入る大きな車庫があります。その後ろは広大な牧草地がなだらかな起伏をもって広がり、その周囲を森が延々と取り巻いています。牧草地わきに延びる小道を毎日散歩したりジョギングしたりしました。その時、いつも気持ちの良い風が吹いて来て、立ち止まってはそれを味わったのです。暖かいというのでもなく冷たいというほどでもなく、本当に丁度良い気温で、しかもほどほどの強さで、吹かれていると何か心に重く残っていたことや嫌なことを吹き消してくれるような感じがしました。それなので、風向きが変わるとこちらもそれに合わせて向きを変えて正面から受けるようにしました。誰かが見たら、何を風見鶏みたいなことをしているんだと思われたかもしれませんが、それほど気持ちがよかったのです。森の木々の間を吹き抜けて牧草の上をなでるようにして吹いてきた風に、本当に体中が清涼感に満たされるような感じがしました。東京に戻ったらこんな気持ちのいいことは味わえないだろうと思うと残念でしたが、意外にも先週は朝夕は20度位で、窓を開けると涼しい風が入って来て、もちろん森の木々ではなく家々の間を通り抜ける風でしたが、それでもとても心地よかったです。

フィンランドの田舎の道

聖書を読まれる方はご存知のことと思いますが、旧約聖書のヘブライ語と新約聖書のギリシャ語では「風」を意味する単語(רוח、πνευμα)は「霊」も意味します。ヨハネ福音書3章でイエス様は、「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」(8節)と言われます。これはどういう意味かと言うと、以下のようなことです。洗礼を受けて神の霊つまり聖霊を注がれて、その導きに身も心も委ねる者は新しく生まれた者である。その人の内面の変化は周囲の目には見えないが、外面の変化はその人が神の御心に従って生きようと志向するのが周囲にもわかるようになる。それはちょうど風の働きと同じで、空気が移動するのは誰の目にも見えないが、木の枝や葉がざわつくと風が吹いたことがわかるのと同じことである。

ここで注意しなければならないのは、北欧の心地良いそよ風を浴びて心が軽くなったというのは、これは霊的なことと何も関係はありません。そよ風が心を軽くしてくれたから、風に何か霊的な力が働いたなどと思ってはいけません。そんなことを考えたら、天と地と人間を造られた神に背を向けることになります。人を惑わす宗教の始まりです。

心配事や悩み事というのは心を重くするものですが、そうしたものは肉体にもストレスを与えます。ストレスを軽減できると、心も軽くなった感じがします。ストレスを減らせる方法として、適度な運動とか十分な休息とかいろいろありますが、自然の中でそよ風に当たるのも効果があると思います。

しかしながら、自然の風は心配事や悩み事そのものを吹き消してはくれません。心が軽くなった感じにはさせますが、本当に軽くはしません。心配事や悩み事を吹き消し、心を本当に軽くするのは、イエス・キリストの福音とそれを基盤とする聖書の神の御言葉だけです。こう言うと、じゃ聖書を読んだら悩みも憂いも消えうせるのか、と言われてしまいそうですが、消えてなくなるというのは単純すぎるでしょう。そうではなくて、福音や神の御言葉に接すると、心配事や悩み事に取り組む力が与えられる。あるいは、それらを今まで眺めていたのと違った角度から見られるようになって取り組みやすくなる、ということです。その意味では、それまで自分を押し潰すだけだった心配事や悩み事は消え去ると言ってもよいでしょう。

自然のそよ風で心が軽くなった感じが与えらえるとすれば、福音や神の御言葉は心を軽くする霊的なそよ風です。礼拝で説教をする者は、会衆の方々が聖書から吹いてくるこの霊的なそよ風を受けられるように、窓を開けて風通しを良くするような役割を持っていると言うことが出来ると思います。これからも、このことを心に留めて説教を行っていきたいと思います。

2.
前置きが長くなりましたが、本日の福音書の箇所をみていきましょう。本日の箇所もわかりそうでわかりにくい内容です。ファリサイ派の人たちと律法学者のグループとイエス様のやりとりです。James Tissot The Pharisees Question Jesusファリサイ派とは、当時のユダヤ教社会にあった一大信仰運動で、旧約聖書に収められているモーセ律法だけでなく、そこに収められていない、口頭で伝承された教えをも遵守すべきだと唱道した派です。本日の箇所で、「昔の人の言い伝え」(3、5節)、「人間の言い伝え」(8節)、「受け継いだ言い伝え」(13節)と「言い伝え」(ギリシャ語παραδοσις)という言葉が何度も出て来ますが、これは、聖書に書き記された掟に対する「父祖伝来の言い伝えられた教え」のことです。その内容は、本日の箇所からも窺えるように、清めに関する規定が多くありました。食事の前に手を洗うこと、広場から帰ったら身を清めてから食事をすること、いろいろな食器類や寝台を洗うことなどが挙げられています。どうして清めにこだわるかと言うと、自分たちが住んでいる場所は神が約束した神聖な土地なので、自分たちも神聖さを保たなければならないという考えです。

ファリサイ派の人たちと一緒に律法学者もいたとあります。律法学者とは、文字通り聖書に書き記された律法の専門家で、律法の内容や解釈を人々に教え、またユダヤ教社会の訴訟や裁判で影響力を持っていました。律法学者たちの中でファリサイ派に同調する人は多かったようです。

そのファリサイ派の人たちと律法学者が、弟子たちのことでイエス様を批判しました。それは、手を洗わないで食事をしたことでした。それが、「言い伝えの教え」に反すると言うのです。手はきれいに洗って食べた方が衛生に良いので、ファリサイ派の言っていることは理に適っているように見えます。ところが、ここで問題になっているのは衛生管理ではないのです。「汚れた手」(2,5節)の「汚れた」とは、ギリシャ語ではコイノス(κοινοσ)と言います。それは「一般的な」とか「全てに共通する」という意味です。つまり神聖な神の民と不浄の異教徒・異邦人を分け隔てしなくなってしまうという意味で「一般的」、「全てに共通する」ので、それで「汚れた」という意味になるのです。衛生管理の問題ではなく、宗教的、霊的な汚れを言っているのです。

私たちの新共同訳の聖書では「念入りに手を洗ってから(3節)とありますが、この訳だととことん汚れを落とす洗い方を連想させます。ところが、原語のギリシャ語では「拳で」(πυγμη)という意味の単語で、それは手を握った状態で洗うのか、それとも拳ほどの少量の水で洗うのか解釈がわかれます。他の国ではどう訳されているかというと、ドイツ語とフィンランド語の聖書は「少量の水で洗う」でした。少量の水ですから、念入りに丁寧に洗う洗い方ではないでしょう。象徴的な洗いと言ってよく、そういうわけで衛生的でなくて宗教的儀式的な洗いなのでしょう。ちょうど、日本の神社やお寺に柄杓で水を手にかける場所がありますが、そんなものを考えてよいのかもしれません。英語の聖書(NIV)では、ずばり「儀式的な洗い」です。(スウェーデン語の聖書はただ単に「手を洗う」でした。)

ファリサイ派はこのような清めの規定、旧約聖書のモーセ律法に書かれていない言い伝えの教えをいくつも持っていて、その遵守を唱道していました。これらも律法同様に、人間が神聖な神の目に適う者となれるために必要だと考えたからです。ところが、イエス様がそのような規定の遵守を教えていないことが明らかになりました。イエス様は、それらが大事なものとは全然考えてなかったのです。

3.
なぜイエス様は、当時のユダヤ教社会の宗教エリートであるファリサイ派が重要視した「父祖伝来の言い伝えの教え」を全く顧みなかったのか?それは、8節のイエス様のファリサイ派に対する答えから明らかです。それは、そうした教えが、「人間の言い伝え」(8節)、つまり人間の編み出した教えであって、神に由来する掟とは何の関係もなかったからです。神に由来する掟は、書き記されて聖書として存在します。それ故、それ以外は人間の意思に由来するもので、神の意思に由来するものではない。V0034553 Christ curses the Pharisees. Etching by F.A. Ludy after J.F.ファリサイ派としては、神の意思を実現しなければならないと考えつつも、書かれた掟では不十分とばかり、書かれていない言い伝えも引っ張り出してきて、できるだけ多くの規定を持って守った方が、神の意思に沿った生き方になる、そういう考え方だったようです。しかし、神の意思をよくご存知である神の御子イエス様からすれば、それは大変な誤りだったのです。

その理由として、先ほど申しましたように、父祖伝来の言い伝えの教えが神の意思にではなく人間の意思に基づいていることがあります。それに加えて、そうした人間由来の教えが神の意思に反するものになっていくことをイエス様は指摘します。その具体例がコルバンについての規定です。

コルバンというのは、エルサレムの神殿に捧げる供え物を意味しますが、特に、私はこれこれのものを捧げます、と誓いを立てて捧げるものです。一度誓いを立てたらもうキャンセルはできません。イエス様が問題として取り上げたことは、人が自分の両親に役立つものを神殿に捧げますと両親に伝えたら、もう両親に何もする必要はないとファリサイ派が教えていたことです。「お父さん、お母さん、あなたがたは私から必要なものを得られるはずだったのですが、それらはみなコルバンにします。」そう言ったら、もう両親に何もしなくてもいい。宗教的な理由で親の扶養を放棄しても構わないというのは、まるでいかがわしい宗教団体のように聞こえますが、イエス様はそのような規定は、モーセ律法の十戒の第4の掟「汝の父母を敬え」を無効にしている、と批判するのです。そのような神の意思に反する規定が他にも多くある、とイエス様は指摘します(13節)。

ファリサイ派としては、自分たちの動機では神の意思をより確実に実現するつもりでやっていたことが、実は神の意思に反することに陥っていたのです。

4.
イエス様は、批判者に反論した後で、今度は群衆を前にして、一番肝要な問題について論じます。それは、宗教的な清さ、霊的な清さはどうやって実現できるかという問題です。

イエス様は教えます。「人間の外部からきて内部に入るもので、人間を宗教的霊的に汚すことができるものは何もない」(15節)。手を儀式的に洗わず、それで仮に食べ物が宗教的に汚れたとしても、それを食べた人間が宗教的霊的に汚れることはない。本日の箇所の後になりますが、マルコ7章19節でイエス様はこのことについて解説します。儀式的に洗わなかった手で食べたものは、人間の心には何の影響もなく、ただ単にお腹を通って排泄されるだけである、と。実に単純明快な答えです。

それでは、人間を宗教的霊的に汚すものはあるのか?イエス様はあると言います。15節の後半部分を見てみましょう。人間の内部から出てくるものが、人間を宗教的霊的に汚れたものにするのである。それでは、その人間内部から出て来るものとは、それは21節にリストアップされています。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、人間の心から出てくる悪いものです。

 ここで注意しなければならないことがあります。イエス様がここで言っていることは、人間Aから出てくるこうした悪いものが、人間Bを宗教的霊的に汚れたものにする、と言っているのではないということです。両者は同一人物を指しているのです。つまり、人間Aの心から出てくるこうした悪いものが、A自身を宗教的霊的に汚れたものにする、ということなのです。イエス様に言わせれば、人間はその存在自体が宗教的霊的に汚れたものなのです。キリスト教会の礼拝の初めの部分で会衆一同による罪の告白が行われますが、本スオミ教会の式文にも「私たちは生まれながら罪深く、汚れに満ち、思いと行いと言葉によって多くの罪を犯しました」と記されている通りです。この汚れは、最初の人間アダムとエヴァの堕罪の出来事以来全ての人間が受け継いできたもので、まさにDNAに組み込まれているとしか言いようがないくらい、全ての人間に根付き染みついているものなのです。

ルターは、国が法律を作って処罰を定めれば、こうした悪いことが行為に現れるのを防ぐ役割を果たす、けれども、それはあくまで外面的なことだけで、内面の悪までは立ち入らない、と教えています。神の掟である十戒はまさに、外面の行為についてそうであれと命じているだけでなく、内面の心の有り様までそうあれと命じているのです。だからイエス様は、殺人を犯していなくても兄弟を罵ったら同罪である(マタイ5章22節)、姦淫を犯していなくても異性をふしだらな目で見たら同罪である(マタイ5章28節)と教えたのです。

5.
そうなると、人間は生まれながらにして宗教的霊的に汚れたもの、神の目に相応しくなく、神聖な神の前に立とうものなら焼き尽くされてしまう存在ということになります。いくら宗教的な規定を作って守っても、何か修行をしても、この汚れを消すのには何の役にも立たないとイエス様は教えるのです。逆にそうした人間的な規定は、自分たちは汚れを取り除けていると錯覚させ、規定を守らなかったり、守れなかったりする人たちを見下すというような盲目さも生み出します。ヨハネ福音書9章41節でイエス様はファリサイ派の人たちがこうした盲目状態に陥っていることを指摘しています。

人間は自然のままでは、神の前に立てない救いようのない存在だというのがイエス様の主眼です。実に厳しい見解です。では人間はどうしたらよいのか?実はイエス様は、人間の汚れの問題の解決策を知っていました。知っていただけではなく、その解決自体をもたらしてくれました。救いようのない存在である人間を救いがある存在にするための解決をもたらしてくれたのです。

 イエス様はどのようにして人間の汚れの問題を解決してくれたのでしょうか?人間が神の目の前に立っても大丈夫な存在にしてくれたのでしょうか?してくれました。それは、神聖な神の意思に反するあらゆる悪いもの、霊的な汚れが引き起こす神の裁きや罰を、イエス様が人間の身代わりとなって、ゴルゴタの十字架の上で引き受けて下さったことです。人間が、神の裁きと罰を受けないで済むようになる手立てを整えてくれたのです。Fr_Pfettisheim_Chemin_de_croix_station_XII_Christ_head_detaiイエス様が身代わりに裁きと罰を受けたということは、私たち人間が持っている神の意思に反する悪いもの、すなわち罪を、彼が全て請け負って罰を受けたということです。私たち人間の代わりに罰を受けてもらったということは、張本人の私たちの罪が帳消しにされたということです。

もちろん、人間の霊的な汚れや罪は、イエス様の十字架の贖いがあった後も引き続き人間に取りついて受け継がれていきました。罪は残っています。帳消しではないではないか、と言われるかもしれません。しかし、「イエス様は本当に私の罪を請け負って罰を受けて下さったのだ。それで私は神から赦しをいただくことができるのだ。だからイエス様こそは私の真の救い主なのだ」と信じる者には、神の赦しは本当のことになるのです。罪は残っていても、イエス様を救い主と信じる信仰のゆえに、それはもはや神の裁きと罰をその人に引き寄せる力を持っていないのです。その意味で罪は帳消しされたことになるのです。それゆえ、キリスト信仰者が、まだ自分に内在する罪に気づかされる時があっても、それを認めて告白し神に赦しをお願いすれば、神は次のように言って下さいます。「わかった、私が遣わしたイエスを救い主と信じるお前の信仰のゆえに、イエスの犠牲の死に免じてお前を赦すことにする。イエスがあの罪の女に言ったように、私もお前に言う。『行きなさい。もう罪は犯さないように』(ヨハネ8章11節)」。このようにしてキリスト信仰者は絶えず罪の赦しを受けて、絶えず新しいスタートを切ることができるのです。

 人間の霊的な汚れは、手を洗ったり清めの儀式をしても落ちることはありません。人間は、イエス様が十字架で行った贖いの業とその彼を救い主と信じる信仰のおかげで、汚れが残っているにもかかわらず、神から目に適う者と見なされるようになったのです。「私は清くないのに、神はイエス様のおかげで私のことを清い者に見てくれている。イエス様、私のために犠牲になってくれたことを感謝します。神よ、イエス様を送って下さったことを感謝します。」こう言いながら、キリスト信仰者は生きて行くのです。

ところで、イエス様の救いの業は十字架の贖いだけにとどまりませんでした。神はイエス様を十字架の死から三日後に復活させて、永遠の命の扉を人間のために開かれました。その扉の向こうに神の御国があり、この世の旅路を終えてそこに迎え入れられる者は霊的に完全に清くされているのです。イエス様を救い主と信じる信仰に生きる者は、「今はまだ霊的な汚れは残ってはいるが、神はそれがさもないかのようにして見守って下さる、そして復活の日が来ればそれは本当になくなるのだ」という確信を持ってこの世を生きられます。

私たちの人生には一人一人皆、いろいろな課題や挑戦があって、その解決のために苦労しなければなりません。その中でイエス様は、私たちの生死に関わる課題を解決してくれました。これを人生最大の課題と言わずして何をそうだと言えましょう。イエス様を救い主と信じる信仰で、この解決が与えられたのです。ですから、兄弟姉妹の皆さん、人生最大の課題を解決してもらった者として、明日からもまた日々の課題や挑戦に取り組んでまいりましょう。今日は安息日なので、お休みしましょう。

Το πνευμα πνευσειεν εις τας καρδιας υμων.
皆様の心に霊的な風が吹きましたように!

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

フィンランド、牧草の刈り入れ冬の牛の飼料の貯蔵のため、8月は牧草の刈り入れがピークになります。

 


主日礼拝説教 聖霊降臨後第十四主日
2015年8月30日の聖書日課  申命記4章1~8節、エフェソ6章10~20節、マルコ7章1~15節


説教「キリストにあって成長していく」木村長政 名誉牧師、マルコによる福音書6章45~52節

 今日の福音書は、マルコ6章45~52節の御言葉です。イエス様がガリラヤ湖の上を歩いて、弟子たちに近づいて来られるという、有名な奇跡の出来事です。45節からみますと、「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ向こう岸のベトサイダへ先に行かせた、その間に御自分は群衆を解散させられた。群衆と分かれてから、祈るために山へ行かれた。」とあります。ここでイエス様は弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ行きなさい、と命じておられる。そして、イエス様は群衆を解散させられました。なぜ、群衆を解散させ、弟子たちだけを舟に乗せて、分かれさせておられるのでしょうか。そして、御自分は祈るため山へ行かれたのです。

45節の一番はじめに、つなぎの言葉があります。「それから、すぐに・・・・」そこで、6章30~44節を見ますと、マルコは5000人以上の人々に、五つのパンと二匹の魚をもって人々を満腹するまでに食べ物を与えられた。という奇跡の出来事が記してあります。そのパンの奇跡に続いて、今日の奇跡が起こるのです。ともかく、パン五つと二匹の魚から次々とイエス様によって食べ物が与えられていく。なんという、驚くべき、ことが起こっていたのでしょうか。これを目の当たりに体験した群衆はイエス様をあがめ、今度は自分たちの王になってほしいと、いうような、群衆の叫びに変わりそうになったのを、イエス様は察知して、この群衆を解散させられたのでした。

いつの時代でも、この世の人々が救いを求めるのは政治の貧困から救われたい。そして、パンの問題からの救いであります。人間にとって、ほんとうに必要な救いが何であるか、ということがわかっていないのです。イエス様によって、もたらされる本当の「救い」というものが、どういうものであるか、ということです。人々は、目の前に直面する、病気の苦しみ、飢えや貧困、社会的抑圧から開放されたい、とイエス様のもとに集まって来るのであります。神の御子のイエス様がもたらしてくださる、「まことの救い」が何であるか、神から離れた「人間の罪」の解決と滅びの問題であります。群衆は何もわかっていない、とイエス様は言いたいのでありましょう。本当に必要な「救い」は、神様との正しい関係が回復されること、神の恵みによって罪から開放されることであります。

群衆は、このイエスという方が真に誰であり、彼によってもたらされる十字架の死の罪のあがない、と復活によってもたらされる、永遠の命の救い、がいかなるものであるのか、今では全くわからないのであります。イエス様は悩まれ天の父なる神に祈るため、山へと行かれたのでしょう。シュラッターという神学者は46節の御言葉のところを次のように言っているのです。「イエス様は群衆を解散させ、群衆と分かれて祈るため、山へ入って行かれた」。イエスは、いつも守っている原則に従って群衆から離れられた。つまり、5000人以上の群衆を五つのパンと二つの魚で満腹させたという奇跡が民衆を深くとらえた。まさに、この時イエスは群衆から離れたのである。そして奇跡のしるしのことを人々が深くかんがえるように。このしるしが神を指す、働きとなって、いくようにと祈られたのである。

しかし、満腹した群衆は、神への思いなど全くない。差し迫った肉的欲望を満たした情熱が、この方を王にしようと民衆がさわぎ出していく、そのことでイエスの目指される道を妨げてしまうことになっては、ならないのです。そこで弟子たちを強いて舟に乗せて向こう岸へ行くように命じられたのです。弟子たちは思ったでしょう。なぜ自分たちだけ舟で行くように命じられたのか、イエス様といっしょではないのか。弟子たちには、よくわからなかった。彼らが、ガリラヤ湖の真ん中あたりに来た頃、風は強くなり舟はなかなか進まない。イエス様はこの逆風の中で漕ぎ悩んでいる弟子たちを遠くから、ごらんになり夜の明ける頃、湖の上を歩いて彼らのところに近づかれ、そばを通りすぎようとされた、と記されています。

弟子たちは、イエスから遠く、はなれたところで、逆風に妨げられ、どこにも頼るところがない。不安の中に投げ出されていたのであります。このことは、私どもがどんなに神から遠く引き離され、神にすてられたような、恐れと不安の中に置かれましょうとも、イエス様は決して私どもから目をはなすことなく遠くから、絶えず見守ってくださる、ということです。そして私どものところに近づいてくださるのであります。風が静まることが救いではない。主イエス様が私たちのところに来て、私たちと共に、いてくださることが、救いであります。ヨハネ福音書14章18節を見ますと、イエス様は弟子との最後の別れにあたって、言われました。「わたしは、あなた方を、みなし子には、しておかない。あなた方のところに戻って来る。」

このイエス様の約束を信じて生きるのが救いであります。湖の上を歩いて、弟子たちに近づいて来られたイエス様は、そのまま、そばを通りすぎようとされた。「通りすぎようとされた」というのは、弟子たちが困っているのを、見すごしにされた、ということではありません。ヨブ記9章11節に「神がそばを通られても、私は気づかず、過ぎ行かれても、それと悟らない」とあります。列王記上19章11節には、ホレブの山に逃れた預言者エリヤのそばを「主が通り過ぎて行かれた、」とあります。「通り過ぎる」という言葉は神が現臨しておられることを意味しています。しかし、私どもは弟子たちと同じように心が鈍くなっているので、主が私どものそばに生きて、共に存すことに気がつかないのです。

ですから、弟子たちは波を踏んで近づいて来られる方を幽霊かと思っておびえたのです。恐らく弟子たちは、後になって復活の主との出合いを経験したときに、はじめて、彼らに近づいて来られた方が誰であったかを正しく悟ることができたのです。イエス様がそばを通られても、気づかずに過ぎ行かれても、それと悟らない鈍い弟子に向かって「安心しなさい。私だ、恐れることはない」とお語りになります。この短い言葉によって、イエス様は神が御自身において、弟子たちと共に存すことを、彼らに気づかせようとされているのです。シュラッターはこう言います。イエスの突然の出現を前にして、弟子たちは驚愕した。そして波の上でイエスがなさった業の力に対して驚嘆した。この恐れと驚きの中から徐々に彼らの中に信仰が育って行くのであります。また、それはどこまでも高く、重すぎるものになっていたことはあきらかである。以上はシュラッターの理解です。深い信仰の真理の世界に導いてくれます。

さあ、これで、湖の上を歩かれた、奇跡の出来事は弟子たちが非常に驚いたことで終わりのようですが、それで終わらない。この奇跡でイエス様は何を弟子たちに示そうとされたのだろうか。逆巻く嵐の恐怖と戦う弟子たちにイエスは驚かせるために、波の上を歩かれたのか、それでは単なる現象です。福音書は、この事件を弟子たちが経験した、ということで終わらない。マルコは52節に、突然に、湖のイエスのこととは全く関係のないことを記しているのです。「パンの出来事を理解せず、心が鈍っていたからである。」ここに、5000人に食べ物を与えられた軌跡の出来事に続いて、マルコは湖の上を歩いて行かれた奇跡を記しているのです。そしてその最後に、パンの出来事で、イエス様が示そうとされたことも、続いて起こされた幽霊だと恐れたイエス様の湖上での出来事で示そうとされたイエス様の意図は弟子たちには理解されなかった。心が鈍くなっていたからである。

イエス様がなさった奇跡の中には、弟子たちが見たり聞いたり食べたりした経験の世界で驚いたことよりも、もっともっと奥の深い神の御国の真理と、イエス様御自身の神の御子の内に秘められた神の御力の神秘は弟子たちには理解できない。イエス様は弟子たちに「いったい、あなた方には信仰がないのか」と言っておられる、そのことをマルコは記しているのです。シュラッターの表現で言いますと、イエスは弟子たちに対して行われたすべてのこと、教えや奇跡のしるし、それらのすべてを通して弟子たちへ内的な永続する贈り物を与えられた。イエスというお方を通して、弟子たちにとって「神が何であられるのか」という洞察を与えようとされたのである。

ところが、彼らは恐れたり驚いたりの思いにいっぱいで天の御父との交わりで起こされていることを目の前で見ていながら、その鈍い心では理解することができない。ここにマルコは弟子たちの弱さが明らかになり、へりくだりを促すことになった次第を語っているのです。それは、また、イエスの計り知れない豊かさの前で弟子たちの貧しさを示している、ということです。イエス様は私たちに対しても、どんなに慈しみを持って忍耐してくださっておられることか、またご自分を信じるようになるまで、どんなに待っておられることかを、私たちに分かるようにしてくださるのであります。 アーメン、ハレルヤ

 


聖霊降臨後第13主日  2015年8月23日

聖書日課 マルコ6章45~52節


説教「神の豊かな恵みによって」-無限の恵みと小さな奉仕、 田中良弘 牧師

※ 父なる神さまとみ子主イエス・キリストからの恵みと平安が皆様の上に豊かにありますように!

 

※ 今日の礼拝の讃美唱は、詩編23編(特に1節~4節前半)です。それは今日の日課の主題にふさわしいのでお読みいたしましょう。

「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行く時も、わたしは災いを恐れない。・・・・・

 

序 今日の旧約聖書の日課は、預言者エレミヤ(紀元前7世紀)の言葉です。

 この時代はイスラエル(神の民)は腐敗、混乱していました。(5章)。

 「恐ろしいこと、おぞましいことが、この国に起こっている。預言者は偽りの預言をし、祭司はその手に富をかき集め、わたしの民はそれを喜んでいる。その果てに、お前たちはどうするつもりか。」(30~31)(霊的指導者の腐敗)。

 祭司も預言者たちは「平和がないのに、平和、平和という」(6:13~14)。と記されています。

 

ですからこの時代神の民イスラエルは絶望的な状態にありました。しかし、ここでエレミヤは希望の預言「ユダ(神の国)回復の預言」を語ります。

 「彼らを牧する牧者をわたしは立てる。群れはもはや恐れることも、おびえることもなく、また迷い出ることもない」と主は言われる。見よ、このような日が来る、と主は言われる。わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。王は治め、栄え、この国に正義と恵みの業を行う。」と。まさに預言者イザヤ(11章参照)による「キリスト(救い主)到来の預言」であります。

 

1 さて今日の福音は『5千人に食べ物を与える』という奇跡物語です。

 先ず状況としては、弟子たちが帰って来ての報告し、主は休養するように

お命じになりました(6:30~32)、それにも拘らず群衆は、先回りして大挙して集って来ました。そしてイエスはさらに教えを継続されたのです。(6:33~34)。宣教の主の実際のお姿がここに描かれています!

使徒パウロも「時が良くても悪くても、御言葉を宣べ伝えなさい」(Ⅱテモテ4:2)と教えていますが、主自ら先行して実践されています。決して自らの状況によらないのです!

 

2 注目すべきことは、集まっている群衆に対する食べ物について、弟子たちの思いと主イエスの配慮(6:35~38)の違いが描かれていることです。

 弟子たちは「人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」これに対してイエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。」のです。

 

 ◎本質的に「食べることは生きること」であります。

  弟子たちは、それは人間各個人のものと考えた。けれども主イエスは

  「(弟子たちに)あなたがたが与えなさい」とお命じになりました。

  この集う人々が食べ物を得て、生きることの責任を、主は弟子たちに持つように言われたのであります。それは如何に困難なことでしょうか!

  <人は食物を摂ることができなくなると、人生は終わりになります。>

  <人の思いと神の思いは、天地ほど違う。(イザヤ55:8~9)>

 

3 主イエスの奇跡的な給食(6:39~44)

※主イエスは「パンはいくつあるか?」とお尋ねになった。四つ福音書では、それぞれ以下のように異なる状況が記されています。

 マルコ「(パンは)五つあります、それに魚が二匹です。」(6:38)

  マタイ「パン五つと魚二匹しかありません」(14:17)

ルカ マタイと同じ表現です。

ヨハネ「大麦のパン五つと魚二匹をもっている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」(6:9)。

 

 ※さてこの後の出来事の推移が次のように記されています。

  「主イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。

イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。すべての人が食べて満腹した。そしてパンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。 パンを食べた人は男が五千人であった。」(マルコ6:39~44)。

 ◎五つのパンと二匹の魚が主イエスの「讃美と祈り」という祝福によって豊かな、“無限の食物”(皆が満腹するまで)へと変えられました。

 ◎パンと残りの魚は12(部族数)の籠にいっぱいになるほどでありました。

  実に「神の恵みは無限」であることを意味しています!

 

4 さて、この給食は一体何を意味しているでしょうか?

① それは「少年のように僅かな物でもささげること。(ヨハネ福音書6章)」の重要性でしょう。人の目には取るに足りない物に見えます!しかし主はささげられたものを限りなく大きくされるのです!

  その信仰的な極致は、「やもめのささげもの」にも語られています。聖書

(マルコ12:44~44)を参照してください。大勢の人は多くの献金  

を献げていました。けれども「やもめの献げた献金」は僅かレプトン銅貨2枚(デナリの64分の一)。それは今のお金でデナリを1万円とする場合、そのレプトン銅貨二枚は156 円であります!

そのやもめの献金を、主イエスは「誰よりもたくさん」ささげた、とおっしゃっているのです。神さまにささげることの重要性がここにあります。

 

② 続いてここでは「分かち合うことの大切さ」を学ぶことができるでしょう。

男の人だけで5千人、女性も子供も加えると7、8千人から1万人にもなったであろう群衆が、主イエスの祝福してお与えくださったパンと魚を奪いあうことをせず、互いに分かちあったのです。

 

世界には未だに食糧の欠乏している場所があります。貧しい物でも互いに分かち合うことは大切です。持っている者と持っていない者の<いわゆる貧富の格差>は、現在でも目に見る形で増大しています。衣食住の問題は、現代社会の絶えざる現実的な課題です。如何に和解と一致、また平和が説かれても、もしそこに衣食住の歴然とした差別が残るならば、その意図は決して満たされないでしょう。私たちの社会、世界は、共に生きる社会であり、共に生きる世界なのですから。

 

③ この点について、根源的に言えば、「主イエス・キリストが必要なものはすべてを与えてくださる!」ということです。

「先ず、神の国と神の義を求めよ。そうすれば(あなたがたに必要なものは)すべて(祝福に)加えて(添えて)与えられるであろう(マタイ6:33)。という、神さまの恵みに対する私たちの素朴な信仰です。

④ このパンと魚の奇跡物語は、究極的に「主イエス・キリストの自己投与」を表わしています。ヨハネ6:33によれば、この物語の中で主は「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」と語られています。これは具体的に、主イエス・キリストの十字架の上でご自身のお体をさかれ、血を流された出来事(主イエスの自己投与)を表わしています。ですからこの物語は「聖餐」を意味するものとして理解できるでしょう。こうして私たちは、十字架において具現化された主イエスの「自己投与―聖餐―」を感謝と喜びをもってうけるのです。ですから初代教会から聖餐は、「ユーカリスト」(感謝の祭儀)と呼ばれて来ました。

 

また私たちは聖餐は「個人の救いの原点」である同時に、「共同体の祝宴」でもあることを覚えたいと思います。

「主にあって共に生きる」ための根源的な視点がここにある。また初代教会では礼拝の行われる時にアガペー・ミール(愛餐)があり、共同体の会食と同時に貧しい人々と分かち合う食事の集いがもたれていたことを忘れてはなりません。

  

※ 最後に、私が今チャプレンとして働いているブース記念病院のことをお話ししましょう。ここの食堂の名称は『五つのパンと二匹の魚』です。

  そして食堂は患者さん、職員のみならず、近隣の人々にも開かれています。先週私が他のスタッフと一緒に食事をしていると、一人のアメリカの婦人が入ってきて、一人で食事を始めました。とうとう食事の終りまで、誰も声をかけなかったので、私は声をかけました。すると、その方は喜んで英語で話だしました。日本にはもう35、6年もいること、日本人のご主人のことアメリカやタイにいる娘さんたちのこと等を尽きることなく話してくれました。そしてご主人も家族も皆、クリスチャンだけれども、今は教会に行っていないと言いました。そして時々一人ぼっちで、淋しさを感じることがあると話してくれました。最後に私は自分の名刺を渡して、同時に彼女の名前を住所をいただきました。そして教会の礼拝にお誘いしたのです。・・・・・

  彼女やご家族が、再び主イエス・キリストの恵みと祝福に与ることが出来れば幸いだと、私は祈りつつ、願っています。

  (後日談:彼女は先週の礼拝に出席したと連絡を受けました。感謝!)

 


聖霊降臨後第12主日礼拝  2015年8月16日

聖書日課 エレミヤ23:1~6、エフェソ 2:11~22、マルコ6:30~44


説教「キリストの力が私の内に宿るように」木村長政 名誉牧師、 コリントの信徒への手紙Ⅱ12章1節~10節

今日は、コリント人への第二の手紙12章1~10のみことばから聞いていきたいと思います。

パウロは、自分が伝道したコリントの教会の中に、いろんな、多くの問題が起こっているのを知って、この第二の手紙を書いています。

そしてパウロは、神の和解を受けなさいと強く命じ、困難な問題の中にあるコリントの教会を、「私は誇りにしている」と述べたのでありました。

 

今日の12章からも、パウロが誇りとしていることを、更に深く展開していきます。1節を見ますと、「わたしは誇らずにいられません。誇っても無益ですが、主が見せて下さった事と、啓示して下さった事について語りましょう」とあります。パウロは、誇っても何の益にもならないと思うだろうが、どうしても誇らずにいられない、と言うのです。

実は11章からも誇りたいことをいっぱい言ってきました。

又、突然に何ですか、と言いたい思いです。

それで11章16節から見てみますと、パウロは「私を愚か者あつかいにされてもいいから、私にも少し誇らせてほしい」と言って、誇るのをためらいながら、少しずつ自分のことを誇りに語ってきて、最後には「もし、誇らねばならないなら、わたしは自分の弱さを誇ろう」と言いました。

 

それで17節から29節にわたって、ここにパウロの伝道の苦難の数々を、命がけで激しく戦ってきた生涯を記しています。

「わたしが、これから話すことは、主の御心に従ってではなく、愚か者のように誇れると、確信して話すのです。多くの者が、肉に従って誇っているので、わたしも誇ることにしよう」。

実際に、コリントの教会の人々も迫害にあっている。誰もが奴隷にされたり、食い物にされたりしたローマ帝国の権力のもとで、又ユダヤ教等からも不当にふみにじられてきたでしょう。

横柄な態度に出られても、顔を殴りつけられても我慢しています。

・・・彼らはヘブライ人ということで、あんなに強い態度になるのか、私だってヘブライ人だ。イスラエル人ということで高慢になっているのか、わたしもイスラエル人である。エルサレム最高議会の最高の地にあった議員であった。

アブラハムの子孫というだけでユダヤ教徒なのか、わたしもそうである。

キリストに仕える者ときくのか、わたしは気が変になったように言うが、わたしは彼ら以上にそうなのだ。

 

今や、パウロはキリスト者となって、ダマスコ途上での回心の出来事を身に受けて、キリストの福音、気が狂ったようになって伝道しているのです。

この伝道していく中で、誰よりも苦労多く、投獄された事もずっと多く、鞭打たれたことは比較できない程多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。

ユダヤ人から、40に一つ足りない鞭を受けたことが五度、鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたこと、難船したことが三度、一昼夜海上に漂ったこともあった。

しばしば旅を、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽兄弟たちからの難、苦労し骨折って、しばしば眠らずにすごし、飢え、渇き、しばしば食べずにおり、寒さにこごえ、裸でいたこともあった。

この他にも、まだまだ沢山あった。と延々とパウロの伝道の生涯は、苦難の連続であったことを述べて、30節に「神のみ前で告白するなら、誇る必要があるのなら『わたしの弱さ』を誇ろう」と言って、そうして今度は12章に突然、ここに主がパウロにお見せ下さった、とてもとても、言葉では言いあらわせない幻と、主が啓示して下さったことについて誇ろう、と言い出すのです。

 

これまで、肉に従って言うならと、苦難の数々をえんえんと誇った上で、そうしたレベルの低い、足もとにも及ばない、霊の世界の高いレベルの、崇高な出来事に遭った。神の栄光の中で直接神から啓示を受けた、このことを誇らずにおられない。

ペテロやヤコブと言った12弟子の使徒たちに比べて、自分は「信仰について」何が言えるか、ということであります。

「パウロの誇り」とするものの、宝とするものがここにあります。だから今は無駄であっても、誇らざるを得ないというのです。

自分の受けた苦難の話しであるなら、黙っていてものだが、ここに語り出すことは沈黙するわけにはいかない、と言いたいのであります。

なぜなら、それは神が自分にお与え下さったことで、神が積極的にして下さることに対しては、自分も積極的にならないわけにはいかないでしょう、と言いたいのであります。そこで主の幻と啓示について語る、と申します。

この「語る」という字ですが、これは、ただ話をしている、というようなものではないのです。

自分が、その幻を見た時、その啓示を受けた時、自分はどんなにそれに打たれたことか。自分はその中に、没入してしまうような思いであったのであります。

今、それを語る時には、その思いを再現するような気持ちに、ならざるを得ないのです。

 

神からの幻を見、神の啓示、それは格別神秘的な神から、明らかに示されることです。これは、そう軽々しいことではありません。パウロにとって、どんなに大切なことであったかが、書き方からわかります。

ある人がパウロのことについて本を書きました。その本の題名は「キリストにある人」という本です。つまり「キリストにあるひとりの人」という意味です。

そうすると、このように、キリストにあるひとりの人、というのは、パウロのことにちがいありません。

しかし、このコリントの手紙では、彼はここに来てもな、お自分のことをはっきりと、言おうとしないのであります。

パウロは、「キリストにある」という喜びを、手紙のあちこちで沢山用いています。彼にとっては、キリストにあることが、すべてでありました。

信仰生活をするというのは、キリストのうちにあるということです。

キリストの、御支配の中に生きることであります。

いつでもキリストの影響を受け、キリストの命に生かされる生活をすることであります。

 

パウロの見た幻と啓示について、2節から4節に記しています。

その人が、第三の天にまで上げられた、というのです。

第三の天といのは、いろいろ説明もありますが、ともかく最も高い所ということでしょう。

パウロは、自分が人の行き得る最も高いところにまで、引き上げられる経験をした、ということでしょう。

しかもパウロは、その事について「からだのままであったか、わたしは知らない。からだを離れてであったか、だれも知らない。神が御存知である」ということを、二度も繰り返しいっています。

これは、彼の経験がどんなに特別なことであったかを、示しています。

彼はパラダイスにまで引き上げられた、というのです。

パラダイスは、第三の天とはちがいます。しかし、神の特別な交わり、ということでは同じでしょう。

彼は、人間が口にするのも畏れ多い言葉を聞いたのでありました。つまり、神の御言葉を直接に聞いたことになりましょう。

これは、彼に与えられた恵みであります。又、そのように人にはそれぞれに、神様から与えられる恵み、というものがあるということです。

 

まぼろしも啓示も、実はただ、神がお与え下さったものでしかなかった。パウロは、ただ、それを受けただけであります。

本来、信仰というものも、そうであります。信仰も信仰の業も、ただ神がお与えになったものであります。

それを受ける者には、ただ一つだけ条件があります。それは、自分はその恵みに価しない、ということであります。

恵みを受け取ることのできる人が、ただ一つ誇り得ることは、自分の貧しさ、自分のいたらなさ、すなわち自分の弱さであります。

パウロはそれを言いたかったのであります。

 

7節以下を見ますと、パウロの天上での特別の経験のことで、パウロをとりまく問題が起こったり、おごり高ぶったりしないように、パウロの身に一つのとげが与えられました。

そのとげは神様からではない、サタンから送られた天使が、パウロを痛めつけるのでした。苦痛の問題は、人間の永遠の謎であります。

パウロは三度も神様にお願いしました。

9節以下にありますように、「すると神様の答えは『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました」。

何んという神さまの言葉でしょうか。

その苦痛で神様をうらむことではなく、信仰を持って受けることでありましょう。だから、キリストの力がわたしの内に宿って下さるように、自分の弱さを誇ろう。

それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのためにご満足しています。

なぜなら、わたしは弱い時にこそ、強いからです。  アーメン・ハレルヤ

 


 聖霊降臨後第10主日  2015年8(日) 


説教「神におまかせして生きる-生と死の権威をもつキリストー」田中良浩 牧師、マルコによる福音書5章21~43節

本日の礼拝は吉村博明宣教師のフインランドへの一時帰国のために田中良浩牧師にご奉仕をお願いいたしました。

序 旧約聖書は、主イエス・キリストの「福音の源流」である。

 「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。

  それは朝ごとに新たになる。「あなたの真実はそれほど深い。

  主こそわたしの受ける分」とわたしの魂は言い、わたしは主を待ち望む。

  主に望みをおき尋ね求める魂に 主は幸いをお与えになる。

  主の救いを黙して待てば幸いを得る。 若い時に軛を負った人は、幸いを得る。」

 <この主のみ心(神の意志)は私たちの生活に主イエスによって実現する>

 

 この主題「慈しみ・憐れみ」は旧約聖書全体を貫く神のみ心である。

 例を挙げれば:―

① 律法の書=出エジプト20:6

「わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。」

② 預言の書(1)=初期の預言者ホセア 2:21

「わたしは、あなたととこしえの契りを結ぶ。わたしは、あなたと契りを結び、正義と公平を与え、慈しみ憐れむ。」

特に、ホセアの場合、この慈しみと憐みを“愛(へセド)”という言葉で表現した。しかし神の民イスラエルはこの神の愛の真実を理解できず、

不信の民となった。それゆえこの愛は日本語で“悲愛”と訳されている。

預言の書(2)=イザヤ54:8~10

「ひととき、激しく怒って顔をあなたから隠したが、とこしえの慈しみをもってあなたを憐れむとあなたを贖う主は言われる。・・・

山が移り、丘が揺らぐこともあろう。しかし、わたしの慈しみはあなたから移らず、わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはないと、なたを憐れむ主は言われる。」

③ 聖文書の詩編に慈しみ、憐みは、実に多くの詩編にある。詩編86:15

「主よ、あなたは情け深い神、憐れみに富み、忍耐強く、慈しみと

まことに満ちておられる。」

 

 これらの慈しみ深い神、憐み深い神は、主イエス・キリストによって

 私たちの生活に実現し、具体化するのである。

※ 今日の福音書には二つの物語(慈しみと憐みの現在化)が記されている。

 ―共通していることは、いずれも共感福音書にあること。

 

1ヤイロの娘の復活の物語

 マルコ、(ルカ)は“ヤイロ”という名をあげている。名前は象徴的である。

 ヤイロとは「神は輝かせられる!」の意味。(民数記32:41 マナセの子)

 神はその愛する者に救いを与え、栄光を現される、のである

 

この物語でマルコはマタイやルカにない、信仰の応答の状況が記されている。

 先ず、このヤイロは「イエスを見ると、ひれ伏した」と記されている。

 いずれも重要な言葉である。

◎見ることとは、信じることである。(ヨハネ福音書も同様)。

 英語でも、Seeing is believing! 日本語では「百聞一見にしかず」。

 しかし、実際の意味は、ヨハネ1:29、36に明らかである。

 洗礼者ヨハネはアンデレとペトロに叫んだ。

 「その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。

見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」と。

この“見よ”の意味は、「イエスを信じよ、そして彼に従え」である。

 ◎ひれ伏すことは、実際に、祈りと礼拝である。(娘の癒しを願った)

  主イエス・キリストのお姿もはっきりと描かれている。

  ◎そこで、「イエスはヤイロと一緒に出かけて行った」のである!

 ※ 物語はここで“中断する”。けれども“それで充分”である!

   その会堂長ヤイロと主イエス・キリストの関係は明らかである。

 

2 12年間、出血に悩まされた婦人の癒しの物語

 会堂長ヤイロの場合も「大勢の群衆が(イエスの)そばに集まって来た」と記されているが、それに続く物語にも、さらにその描写は強いものがある。

「そこでイエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。」そういう中で、出来事が起きたのである。

 

『主イエスが神の国活動をされる時には、いつも群衆が集まっていた。』

12年間、出血に悩まされていた婦人がいた。マルコは状況を明記している。

「多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった」と。絶望の状態であった。

続いて、この婦人の隠れた行為が記されている。

この婦人は「イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。『この方の服にでも触れればいやしていただける』と思ったからである。―これがこの婦人の信仰である!

 

※ここで「触れる」ことの目的は、関係の深化である。触れなければ、関係は次第に希薄になって行く。マルコは繰り返し「イエスに触れる」という表現を記述している。(他にマルコ3:10、6:56、8:22)。

 特に、マルコ6:55~56

 「その地方をくまなく走り回り、どこでもイエスがおられると聞けば、そこへ病人を床に乗せて運び始めた。村でも町でも里でも、イエスが入って

行かれると、病人を広場に置き、せめてその服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。」

 

この長年、出血に悩まされ、絶望していた女は「イエスの服に触れた」のであ

るが、この個所のギリシャ語(ハプトウ)は、一般には、触れるである。

しかし同時に“しがみつく”(grasp)という意味も持っている。

私はこの婦人は群衆の中で「主イエスの服にしがみついた」と理解している。

 

主イエス・キリストは、この婦人を癒し、言われた。

「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい」と。

この婦人は、平安と希望を与えられたのである。

 

3 この婦人の癒しの最中、会堂長ヤイロの家から「娘が亡くなった」との

知らせが来た。しかし主イエスは「恐れることはない。ただ信じなさい」と

言われた。そしてペトロ、ヤコブ、ヨハネと共に家に入り、子供の手を取って

「タリタ・クム」(少女よ、起きなさい)と言われ、少女を起こされた。

 

※主イエスの死の理解:「死んだのではない。眠っているのだ。」

これは“永眠”でない。神の国で主イエス・キリストともに眠る。→復活。

 

※「主イエスはこのことを誰にも知らせるな」(厳命)=“メシアの秘密”

 主イエスは繰り返し:出来事(尊厳と権威)を知らせるなとは何故か?

ルターの「隠された神」=マタイ6:4、6、18-神の愛に理解の真髄がある。

 

初代教会の教父アウグスチヌスは「信仰はイエスに触れることである」と言う。

主イエス・キリストこそ病と死を命に導くお方である!

絶望的な状況の中にあって、主イエスを信じることこそ肝心なことである!

主イエスは、生と死の権威を持つお方である。全面的にお任せして生きよう!

 

4 ホスピスでの体験:

◎ピースハウスから、ブース病院(ホスピス)での奉仕をしている。

 ブース病院のパンフレットを送付した。救世軍(キリスト教)の施設。

今でも週に3回(現在は月、火、木)。

礼拝、患者さんやそのご家族とお会いしている。

ごく最近、「悪いことをしていないのに、何故こんな病気に・・・・」。

その方は、非常に失望して、周囲に痛みを訴え、不満を漏らしていた。

けれどもこのがは、自宅に聖書をもっていらっしゃることを聞いたので

マタイ6:25~34を共に読み平安をお祈りすると穏やかな表情が戻った。

 

 傾聴と同時に、必要とされる人々に福音を伝えている。


聖霊降臨後第9主日礼拝  2015年7月26(日)
聖書日課   哀歌3:22~33、Ⅱコリント8:1~15、マルコ 5:21~43


説教「喜びに満ち溢れて」木村長政 名誉牧師、コリントの信徒への手紙Ⅱ7章1節~16節

今日の礼拝では、パウロが書きましたコリントの信徒への手紙第Ⅱ、7章1~16節の御言葉から聞いていきたいと思います。

 

新約聖書の中には手紙が多くあります。

その中でもパウロの書いた手紙は13もあります。

 手紙にも種類がありますが、ことに新約聖書で言えば、ローマ人への手紙のように、よく考えて計画を練った上で書いたものもあります。

しかし、もともと手紙は、どちらかと言えば思いにまかせて、その時の気分で

自由に書くことが多いのであります。

 特に、コリント人への手紙のように、宛先の教会にも多くの問題があり、パウロとの間に、複雑なものがあったでしょう。その気持ちが、いきおい手紙にあらわれてくるのは、当然でありましょう。このコリント人への手紙第Ⅱは、その特徴が一番著しいものの一つであると言えます。

行きあたりばったりの、人間的な書き方の中に、神の言が啓示されるのであります。神の言も、人間の言葉と、離れて別に考えることはできません。

私たちが用いているこの言葉で、私たちの生活の真っ只中で書かれるのであります。

その言葉とその事実とが、信仰を証しするように、語られているのであります。

 さて、7章の2節から見ますと、パウロは「私たちに心を開いて下さい」と言っています。それは6章11~12節から関係して書いています。

パウロは、何をしたいと願っているのでしょうか。福音の宣教者としての牧師と、教会の信徒との関係を考えているのです。それは、コリントの教会の中で問題になっていることが、いくつもあったからです。

その一つは、コリント人への手紙第1、3章3節~5節を見てもわかります。

「お互いの間に、ねたみや争いが絶えない以上、あなた方は肉の人であり、ただの人として歩んでいる、という事になりはしませんか。ある人が『わたしはパウロにつく』と言い、他の人が『わたしはアポロに』などと言っているとすれば、あなた方はただの人にすぎないではありませんか。アポロとは何者か、パウロとは何ものか。この二人はあなた方を信仰に導くために、それぞれ主がお与えになった、分に応じて仕えた者です」。ここで見られるように、教会の中で分派や党派が起こり、混乱しているのでした。

 教会の特長は、みんなが親しい生活をしたいと思っていることです。

聖徒の交わりを、パウロは求めておるのです。

それでは、パウロはそれを、どのように求めているのでしょうか。

第Ⅱコリントへの手紙5章17~20節に書いています。

「キリストと結ばれる人は、だれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて、神から出ることであって、神はキリストを通して、私たちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務を、わたしたちにお授けになりました。

19節、つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉を私たちにゆだねられたのです。

20節、ですから、神が私たちを通して勧めておられるので、私たちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させて下さい」。

パウロはこのように訴えつづけたいのです。パウロは和解の伝道者でありたいのです。それが聖徒の交わりというものの基にあるのです。

聖徒の交わり、又、信仰者の交わりというのは、ただ人間がお互いに親しくなる、ということではありません。そんなことは出来ることでもありません。それは、人間には愛がないからです。

愛し合う、といっても、それが教会の中であっても難しいものです。

もし、それが出来る方法があるとすれば、それは、互いに赦し合うことが出来た時だけであります。赦す、というのは和解することであります。

私たちは、和解の福音をもって神と和解しなさい、と宣べるのであります。

信仰を持っているお互い同士が、その福音に基づいて和解するのです。別に喧嘩しているわけではありません。

しかし、愛がなくて人を赦すことが出来ないということが、既に和解が必要であるということではありませんか。

パウロは、コリントの教会の人に、心を広げてほしいと言っています。

心という字は、はらわた、という意味です。

そうすると、自分の一切をさらけ出すほどに、心を広げるのであります。

それはどうしたらできるのでしょうか。それは、赦し合うことであります。

他の人を赦し、自分も赦してもらう。

そう言う事が信仰者の交わりの基になっているのです。

 大切なことは、自分が自分の隣人と、又自分と同じ信仰を持っている者と和解することであります。

もとより、それは、わざとらしい方法でするのではありません。

しかし、いつでも和解する用意があることです。

いつでも、人に赦してもらい、人を赦す用意があることです。そうすればその群れは、別に何もしなくても変わっていくのではないでしょうか。

もし、聖徒たちの群れがあるとすれば、そういうものであるはずであります。

パウロは7章2節に「私たちは、だれにも不義をしたことがなく、だれをも破滅におとしいれたことがなく、だれからも騙し取ったことがない」と言っています。ここに、敢えてこういうことを書いているということは、パウロに対する非難があったのかもしれません。

例えば、自分は金の問題でだれかを騙し取ったことはない、というのは、パウロが金のことで非難された、ということかもしれません。もちろんパウロはそんなことはなかった、といっているのです。

 和解と言う時には、いつも和解を妨げるものを問題にしなければなりません。

お互いに非難し合っては、和解になりません。

和解のためには、お互いの間違いをはっきりさせる必要があります。悪口を言い合うことではありません。

しかし、自分の不充分なこと、罪などをよく知って、それの赦しを求めなければならないでしょう。それは、決して自分の罪を公に言うことではありません。

しかし、自分の罪を赦してもらいたいということがなければ、和解は有り得ないことでしょう。

 次にパウロは、和解による生活の力をあげていきます。

それは慰めであります。

パウロは言っています。「あなた方を大いに信頼し、大いに誇っている」。これはどういう事でしょう。

コリントの教会は、教会内で争い合い、分裂し、ねたみや不道徳なことなど、多くの問題がありました。

コリント第1の手紙、1:11~12・17、22~24、2:1~5、3:3~5,5:1~2等に書いているとおりです。

そのような混乱と堕落におちいっているコリントの教会を、パウロは、どうして信頼することができたのでしょうか。

教会を誇る、とまで言わせたのは何があったのでしょうか。

彼がこの教会を誇ったのは、キリストにおいて誇ったのでありましょう。

パウロから言えば、それは嘘でも何でもないのです。

コリントの教会を、あるがままに誇り、信頼したのです。どうしてでしょう。

それは、彼がこの教会に対しても「和解の福音」を宣べたからであります。

神の和解を受けよ、と訴えたからであります。

その結果、この教会も、神の赦しを信じるようになったからであります。

神から罪を赦されたものは、罪の赦しを知らない者よりも、はるかに信頼できると思ったのではないでしょうか。

人間も、教会も、罪あるものであります。

弱さを持つ人であっても、又教会であっても、自分の弱さを悔いることを知っており、神によって救われていることを知っているとしたら、その方がはるかに信頼出来るでありましょう。コリントの教会は、そういう教会でありました。

パウロは、この教会を信頼しただけでなく、誇りとしたのです。

そこにパウロの慰めがありました。

 慰めには、いつも悲しみが伴っています。不幸が伴っています。喜ぶことの難しい者が慰められるのであります。自分には何一つ不自由なものはない、不足するものはないと感じる者には、慰めはありません。

誰の生活にも悩みは満ちています。人に言えない苦しみ、悩みをもっています。

和解の福音は、どんな事情の中にあっても、神は私たちを赦し、救って下さる・・・と告げて止みません。そこに慰めがあります。

神と私たちの関係は、慰める者と慰められる者の関係であります。

パウロは生涯、この慰めを経験した人でありました。

しかしその慰めは、彼にはいつも、溢れるばかりでありました。

神の御業は、いつも圧倒的で、それを受ける者には溢れるばかりに与えられるのであります。

そして、溢れるばかりの喜びとなっていったのであります。

 パウロは4節で書いています。

「わたしは慰めに満たされており、どんな苦難のうちにあっても、喜びに満ち溢れています」。 
アーメン・ハレルヤ。

 


聖霊降臨後第八主日  2015年7月19(日)
聖書日課   コリントの信徒への手紙Ⅱ7章1節~16節


説教「神の御言葉という驚異の種」神学博士 吉村博明 宣教師、マルコによる福音書4章26-34節

 

主日礼拝説教2015年7月12日 聖霊降臨後第七主日

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

皆さんは自分で種を植えて草花を育てたことがありますか?私は生まれてからずっと集合住宅で、庭付きの家に住んだことがなかったので、あまりそういう経験がありません。それでも小学校の頃、夏休みの課題で朝顔の種を買ってそれを団地のベランダの植木鉢で育てたことがあります。黒くて少しでこぼこした形で固めだったでしょうか、1センチ程もない種から芽が出て、茎が伸びて葉も出て、身の丈50センチから1メートル位になったでしょうか。やがて、花のつぼみも出てきて、もうそろそろかなと朝早く起きて見ると朝日を浴びるようにして咲いている。それを、どんな気持ちだったかは覚えていませんが、ベランダに腰かけて感慨深くしばらく眺めていたことを覚えています。まだほんのり涼しさが漂う夏の朝の、今から思えば、ちょっとした非日常的な体験を味わったのではないかと思います。

からし種本日の福音書の箇所でイエス様は、神の国について教える際にそれを種の成長にたとえて話します。二つあるたとえのうち後のもの、「からし種」のたとえはイエス様のたとえの中で良く知られたものの一つです。蒔かれる時は地上のどんな種よりも小さいが、成長するとどんな野菜よりも大きくなる、これが神の国を連想させるというのであります。ここで言われている「からし種」とは、日本語でクロガラシ、ラテン語の学名でブラッシカ・ニグラと考えられています。その種はほんの1ミリ位で、成長すると大きな葉っぱを伴って2~3メートル位になるそうです。

イエス様のたとえの中では、大きな枝を出してその葉の陰の下に空の鳥が巣を作れるくらいになると言われています。クロガラシは、大きな葉っぱは出てきますが、大きな枝というのはどうでしょうか?少し誇張がないでしょうか?実は、イエス様がそう言われた動機として、先ほど朗読して頂いたエゼキエル書17章が背景にあって、イエス様はそれをたとえに結びつけているのです。

「わたしは高いレバノン杉の梢を切り取って植え、その柔らかい若枝を折って、高くそびえる山の上に移し植える。イスラエルの高い山にそれを移し植えると、それは枝を伸ばし実をつけ、うっそうとしたレバノン杉となり、あらゆる鳥がそのもとに宿り、翼のあるものはすべてその枝の陰に住むようになる」(22-23節)。

このエゼキエル書の預言に言われている、大きく育ったレバノン杉というのは、今ある世が終わりを告げて新しい世が到来する時に現れる神の国を意味します。(注 エゼキエル書31章やダニエル書4章のように、大きな木がイスラエルの民に敵対する大国を指すこともありますが、それらは切り倒されるとも預言されています。)この預言はもともとは、イスラエルの民がバビロン捕囚から解放されて祖国帰還と復興を遂げることを預言するものと考えられていました。ところが、民が帰還してエルサレムの町や神殿を再建しても、取り巻く状況は預言の実現には程遠いことが次第に多くの人々の目に明らかになってくる。そうすると、そうした将来の希望についての預言は実はバビロン捕囚からの帰還ではなくて、さらに後の、この世が終わりを告げて新しい世が到来する時のことを指すのだと気づき出されるようになります。

イエス様自身、神の国というのはこの世が終わりを告げて新しい世が到来する時に現れるものであるとの立場をとります(マルコ13章27-27節など、マタイ25章31-46節も)。それにしても神の国をレバノン杉の大木にたとえず、高さ2,3メートルほどのクロガラシにたとえるのはどうしてでしょうか?それは、イエス様がここで神の国について教える時、主眼としていることは、からし種のように砂粒のような種が2,3メートル位の大きさの植物を生み出すという、そういう変化の大きさを強調したいからなのです。もし最終的な大きさだけを強調したければ、レバノン杉の大木がうってつけですが、イエス様としては、最初取るに足らない小さかったものが、そこからまさかこんなに大きな葉や茎が出るとは考えられないという位のものを生み出す、ということを強調したかったのです。それを現実にあるもので誰もが知っているからし種を題材に選んで、イメージがわきやすくなるようにして話をしたのです。

それでは、最初は取るに足らない小さいものがとても大きなものに変化する場合、大きなものとは神の国を指すとして、そうしたら、取るに足らない小さなものとは何を指すでしょうか?からし種にたとえられているものは何なのでしょうか?答えは、マルコ4章を初めからみていくと見つかります。マルコ4章の最初にイエス様のたとえの教えの中で最も有名なものの一つである「種まき人」のたとえがあります(3-8節)。少し後でイエス様は、そのたとえの解き明しをします(14-20節)。そこで、「種まき人は言葉を蒔く」と言います(14節)。つまり、種とは、神の御言葉を指すのです。

これで、からし種のたとえの意味が少し見えてきました。最初に取るに足らないように見える神の御言葉があり、それが出発点となって、最初の小ささからすれば比較にならない大きなものが現れてくる。それが神の国である。神の国とは、そのような見かけは取るに足らない神の御言葉から、そういう大きなものとして現れてくる、というのがたとえの趣旨となります。(注)

本日の福音書の箇所にもう一つ種に因んだたとえがあります。それは、種というのは、一度蒔いたら、蒔いた人が毎日普通に寝起きしている間にも成長していく。種の内部でいろいろ変化が起きて、その変化が外部に現れて、芽になり茎になり葉になり穂が出て実が出来る。蒔いた人は、いちいちその過程を知らなくても、そんなことにおかまいなしに育っていく、という話です。私も今思い起こせば、朝顔の成長も同じだったと思います。ここで、最後に収穫の時が来て「鎌を送る」(29節)と言っていることに注目しましょう。新共同訳では「鎌を入れる」ですが、ギリシャ語の動詞(αποστελλω)は「送る」です。この原文の意味にこだわると、イエス様はヨエル書4章13節を引用していることがわかります。そこでは、「鎌を送れ、刈り入れの時は熟した」という神の託宣があります(新共同訳では「鎌を入れよ」ですが、ヘブライ語の動詞(שלח)は「送る」です)。ヨエル書のこの箇所は終末の日の預言です。イエス様もマタイ13章で、「刈り入れ」とは世の終わりの日を意味し、そこで良い麦は倉に収められると言って、神の目に適う者たちが神の国に迎え入れられることについて教えています(24-30節、36-43節)。

そういうわけで、この蒔かれた土地で「ひとりでに」(αυτοματος)成長して実を結ぶ種のたとえでは、まず種とは、これまで同様に神の御言葉を指します。そして、刈り入れの時というのは、今の世が終わりを告げて新しい世が到来して神の国が現れる時を指します。そこに迎え入れられる人たちが刈り入れられる実にたとえられているのです。このたとえでは、先ほどのからし種のたとえと違って、小さなものが大きなものに変化することがポイントではありません。ここでポイントになっているのは、神の国が到来する日までは、迎え入れられる人は迎え入れられるのに相応しくなるよう成長していく、その成長のもとには神の御言葉が種のようにある。人が神の国に相応しくなるように成長するのは、その人の力や努力によるのではなく、種としての神の御言葉に宿る生命力によるのである、ということです。これで、このたとえの趣旨もわかりました。

 

2.

 以上、本日のイエス様の二つのたとえの趣旨がわかりました。一つは、神の御言葉には、人が神の国に迎え入れられるのに相応しくなるように成長させる力があるということ。もう一つは、最初見かけは取るに足らないように見える神の御言葉であるが、それが出発点となって、最後は大いなるものとして神の国が現れるということです。実は、こうした趣旨がわかっても、もし「神の御言葉」とは何だ、「神の国」とは何だ、ということがわからなければ、この二つのたとえの正確な意味はまだわからないことになります。そういうわけで、まず「神の国」とは何かについてみていきましょう。

 神の国とは、「ヘブライ人への手紙」12章にあるように、今あるこの世が終わりを告げて全てのものが揺り動かされて取り除かれるという時、唯一揺り動かされず、取り除かれないものとして現れるものです(26-29節)。この世が終わりを告げるというのは、あまり明るい話に聞こえません。しかし、聖書が伝えていることは、この世が終わりを告げるというのは、同時に次の新しい世が始まることを意味しています。イザヤ書の終わりの方で、神が今ある天と地にとってかわる新しい天と地を創造するという預言が出てきます(65章17節、66章22節)。そのような新しい天と地の創造の時というのは同時に、最後の審判の時であり死者の復活が起きる時でもある、そのことが黙示録の21章と22章の中で預言されています。その時既に死んでいて眠っていた者たちは起こされて、その時に生きている者たちと一緒に神の審判を受け、神の目に適う者は神の国に迎え入れられるというのであります。

そこで目を神の国の中に転じると、それは黙示録21章に言われるように、「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」ところで、そこに迎え入れた人たちの目から神は涙をことごとく拭い取って下さるところ(4節)です。使徒パウロによれば、そこに迎え入れられる人たちは、朽ち果てる体から朽ちない復活の体に変えられます(第一コリント15章42-55節)。イエス様はそのような者たちを「天使のような者」と呼んでいます(マルコ12章25節)。神の国はまた、黙示録19章にあるように、結婚式の盛大な祝宴にもたとえられます。イエス様も神の国を結婚式の祝宴にたとえています(マタイ22章1-14節)。

これらのことを総合して見ると、神の国とは、そこに迎えられた者は朽ち果てない復活の体を与えられ、死も病気もなく皆健康で、前の世の労苦を全て労われ、また前の世で被った不正や不正義が全て神自らの手で最終的に清算されてすっきりするところ、その意味で道徳的倫理的に完成された状態と言うことができます。

本日の旧約の日課の中で、神が「高い木を低くし、低い木を高くし、また生き生きとした木を枯らし、枯れた木を茂らせる」(エゼキエル17章24節)と言われていますが、イエス様も多くの箇所で、高いものは低くされ、低いものは高くされる、先のものは後にされ、後のものは先にされる、と教えています(マタイ19章30節、23章12節など多数)。今この世で神の意思に沿わない仕方で高いところにいる者や一番前にいる者は、最終的には全く逆の立場に置かれる。今はそうした者のために低くされ一番後にされている者は、これも最終的には全く逆の立場に置かれる、ということです。イエス様の有名な「山上の説教」のはじめに「悲しむ人々は幸いである、その人たちは慰められる」(マタイ5章4節)という教えがあります。これも、ギリシャ語の原文に即して訳せば、今悲しんでいる人たちは幸いである、彼らは将来慰められることになる、という約束の言葉です。この世で起きた不正や不正義は、うまく行けばこの世の段階で補償や救済がなされるかもしれません。もちろん、それは目指さなければならないことですが、いつも実現するとは限りません。また、なされた補償や救済も正義の尺度にぴったり当てはまるものかどうかということも難しい問題です。それで、神の意思が隅から隅まで貫徹されている神の国では、そうした無数の不均衡が最終的にぴったり清算されるところと考えてよいと思います。

神の国は、イエス様が教えたというだけではありません。イエス様が地上にいた時、それはイエス様とくっつくようにして一緒にありました。そのことは、イエス様が起こした無数の奇跡の業に窺えます。イエス様が一声かければ、病は治り、悪霊は出て行き、息を引き取った人が生き返り、大勢の人たちは飢えを免れ、自然の猛威は静まりました。果ては、一声かけなくても、イエス様の服に触っただけで病気が治りました。イエス様から奇跡の業を受けた人たちというのは、神の国の中での存在の仕方が身に降りかかったと言うことができます。病気などないという存在の仕方が身に降りかかって病気が消えてしまった、飢えなどないという存在の仕方が身に降りかかって空腹が解消された、自然の猛威の危険などないという存在の仕方が身に降りかかって舟が沈まないですんだという具合です。そのようなことが起きたのは、まさに神の国がイエス様とくっつくようにしてあったからですが、奇跡を受けた人たちというのは、自分で気づいていたかどうかはともかく、遠い将来見える形で現れる神の国を垣間見たとか、味わったことになるのです。2週間前の説教でも申し上げましたように、神の国では奇跡でもなんでもない当たり前のことがこの世で起きて奇跡になったのです。

しかしながら、イエス様が神の国に関して人間に行ったことで最も大切なことは、奇跡の業を通して味あわせたということではありません。そうではなくて、イエス様が行った最も大切なことは、人間が神の国に入れないように邪魔していたものを取り除いて、入れるようにしてくれたということです。それを可能にしたのが、イエス様の十字架の死と死からの復活でした。人間と神との結びつきを断ち切っていた原因であった人間の罪を、イエス様が全て請け負ってその罰を全て代わりに受けて死なれた。そして今度は三日後に復活させられることで、死を超えた永遠の命に至る扉を人間に開かれた。人間は、これらのことが本当に自分のために起こったのだとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、神から「罪の赦しの救い」を得られて、神との結びつきが回復し、永遠の命に至る道の上に置かれて、それを歩み始めるようになるのです。今はまだ見えない神の国と目には見えない結びつきができたことになるのです。

 
3.

 2週間前の説教でも申し上げたところですが、キリスト信仰者というのは、この世の人生の出口とその次の永遠の命の人生の入り口の両方がセットになって定まった者です。しかし、それでめでたしめでたしということではない、ということも申し上げました。その出入り口の時までをどう生きるかが大事になってくるからです。永遠の命に至る道に置かれたとは言っても、それで道を踏み外さないという保証は何もありません。踏み外さないで歩めるためにはどうすればいいのか?それは、神の意思に沿う生き方をすることです。それは、どんな生き方か?2週間前の説教でお教えしましたことは、自分は神を全身全霊で愛しているかどうか、またその愛の上に立って隣人を自分を愛する如く愛しているか、絶えずしっかり自己吟味しなさい、ということでした。そして自己吟味の際に、洗礼の時に神が私たちに覆いかけて下さったイエス様の義という、白い神聖な衣を肌身離さずしっかり纏っていなさい、ということを教えました。本説教では、その白い衣をしっかり纏う時に神の御言葉が大切になってくるということをお話しします。

神の御言葉とは何でしょうか?それは、とりもなおさず聖書にある言葉です。聖書にある言葉には、神自身が述べた言葉、神のひとり子イエス様の述べた言葉があり、また預言者や使徒たちの言葉もあります。預言者や使徒は人間なのに、これも神の言葉にしてしまうのか?そうです。それらは、神の霊である聖霊の働きかけによって述べられたり書かれたりしたので、それらも神の言葉です。

それならば、誰かが自分は聖霊に働きかけられたと言って述べた言葉も預言者や使徒に並ぶ神の言葉になるのでしょうか?それはなりません。どうしてか?聖書が今の形にまとまった後も、もちろん聖霊に働きかけられて述べられた言葉はあるでしょう。しかし、注意しなければならないのは、聖書がまとめられた後は、神の意思を伝える言葉は全て、聖書に則っていなければならないということです。聖書の言葉に即しているかどうかを見て、それで、あの人の言葉は聖霊が働いて述べられた、ということがわかるのです。そうでないと、今ある聖書では不足と言わんばかりに、付け足すようなことが行われて聖書が拡大して収拾がつかなくなります。(また逆に、今ある聖書にはいらない余計なことが書いてあると言わんばかりに、削除するようなことが行われて混乱を招きます。)そういうわけで、聖書がまとめられた後で聖霊の働きかけがあったと言って述べられた言葉というものは、実は聖書の確認にしかすぎないのです。まことに聖書は、神の意思を人間に伝える最高の権威なのです。

次に、聖書にある神の御言葉の役割について見てみます。それは一言で言えば、人間に神の意思を伝えることです。天と地と人間を造り、人間一人一人に命と人生を与えた神の意思を、造られた側の人間に知らせることです。それでは、神が伝えようとしている意思とは何か?これも一言で言えば、人間は造り主の神との結びつきを失ってしまったので、それを回復させようとすることを神は一番に考えているということです。それで聖書は、罪が人間の内に入り込んで神との結びつきを失ってしまったかということについてずっと述べるのです。そこから始まって神は、結びつきの回復が中途半端なものにならないように人間に律法を与えたこと、そしてイエス様の十字架の死と死からの復活が律法の要求することを全て完全に満たしたということを聖書は明らかにします。さらに聖書は、この結びつきの回復ということがイエス様を救い主と信じる者に起こることを約束します。そして、神との結びつきを回復した者はどう生きなければならないか、また何を覚悟しなければならないかを、そしてそのような時神はどう助け導いてくれるか、励まし慰めてくれるかについても聖書は教えてくれます。実に奥が深い人生の書物です。

ただ神の御言葉というものは、その本質上、人間に罪の自覚を呼び覚ますことをします。そのため、人間に自分は神から遠ざかってしまったことを気づかせます。しかしまさにその瞬間、そのような自分が神のもとに戻れるようにするためにイエス様が十字架にかけられたということを思い起こさせます。なぜなら、神の御言葉の重点はそこにあるからです。それを思い起こせば、神がどれだけ自分を愛しているかがわかって、遠ざかりは消えてなくなります。聖書の神の御言葉を読んだり聞いたりしながら神との結びつきがこのようにして強まっていけば、それは御言葉を「読んだ」というよりは、「摂取した」ということになります。

このように神の御言葉を摂取する時、それは信仰者が神の国に迎え入れられるように成長させる力を発揮します。まさに本日のたとえにあるようにです。神の御言葉は、目に見える形としては、文字が印刷された紙を束ねた本の中にあるだけです(最近は印刷しなくても電子的に見ることが出来ますが)。そこから神の国というとてつもない国が現れるなどとは想像もつきません。GDPとか軍事力とか、そういうものがないのに揺り動かされないというのです。どうして神の御言葉からそのような国が生まれることができるのか?神の国は今既に神のもとにありますが、将来(私たちが生きている状態にいてか復活した状態にいてかどちらで目にするかはわかりませんが)、目に見える形で現れます。神の御言葉で成長を遂げた人たちがそこに迎え入れられますが、その人たちは朽ち果てない復活の体を持ち、死も病苦も何も被らない、永遠に朽ち果てない復活の体を持つ人たちです。そういう人たちを構成員とする国ですから、これは世界最大のGDPや軍事力をもってしても太刀打ちできない史上最強の国です。

そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、私たちにはこのような国が約束されていることをいつも忘れないようにしましょう。そして神の御言葉には、私たちをそのような国に迎え入れられるように成長させる力があることも忘れないようにしましょう。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン


(注 マルコ4章の構成やそれぞれの内容の意味ついて、学界でもいろいろな見解があります。4章に出てくる数々のたとえは、イエス様がもともと話されたそのままの形なのか、それともバラバラにあったのをマルコかその前の人が編集して今の形にしたのか、あるいは、もともとはイエス様が違う順番で言っていたのを並び替えたのか、さまざまです。しかし、学者がそれぞれ再構成したものはどれをとっても本当の歴史的事実という保証はありません。ある理論、ある方法論に基づけばこういう結論になります、というだけのことです。そこで、本説教では、私たちが確かなものとして目にすることが出来るのは、今目にしているテキストだけですので、それをもとにして話を進めて行きたいと思います。)

 


主日礼拝説教2015年7月12日 聖霊降臨後第七主日
聖書日課   エゼキエル17章22-24節、第二コリント6章1-18節、マルコ4章26-34節


説教「何が赦されない罪か」神学博士 吉村博明 宣教師、マルコによる福音書3章20-30節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1. はじめに

 本日の福音書の箇所は、心を重苦しくする内容かもしれません。というのは、28節でイエス様は、全ての罪は赦される、と言った後すぐ、29節で、永遠に赦されない罪がある、と言います。聖霊を冒涜することがそれである、と言うのです。「罪が赦される」と言う時、新約聖書のギリシャ語で受け身の形は普通、天の父なるみ神を隠れた主語とします。それで、神は全ての罪を赦すが、聖霊を冒涜する罪は赦さない、ということになります。神が罪を赦すというのは、どういうことでしょうか?それは、神と人間の間にある断絶が解消されて両者の結びつきが回復すること。そして人間はこの世の人生を神との結びつきを持って生きられるようになること。順境の時も逆境の時も絶えず神から助けと良い導きを得られ、万が一この世から死ぬことになっても、その時は自分の造り主である神のもとに永遠に戻れるようになること。こうしたことが罪を赦された人に起こります。罪が赦されないと、逆のことが起こります。人間は神との結びつきを持てないまま、この世を生きることになり、この世から死んだ後も、自分の造り主である神のもとに永遠に戻ることができなくなってしまいます。

 それでは、神によって赦されない罪、聖霊を冒涜する罪とは、どういう罪でしょうか?また、それ以外の罪は全て赦されると言う時、赦しというものはどのようにして得られるのでしょうか?今日は、そういったことを考えてみたいと思います。

 

2. イエス様の怒り

 その前に、聖霊を冒涜することがどんなに重大なことか、それが本日の福音書の箇所のイエス様の反応によく表れているので、それを見てみましょう。

 イエス様は、不治の病を癒したり、悪霊に苦しめられている人たちからそれらを追い出したりして、大勢の人々を助けていました。その噂は方々に広がって、各地からもっと大勢の人たちが助けてもらおうとやって来て、大変な騒ぎになりました。悪霊というのは、先週の説教でもお話ししましたように、人間を様々な仕方で苦しめることで、自分は神から見放されたとか、また神など何の役にも立たないとか存在しないと思わせて、人間と神との間を引き裂くことを目的とする霊的な存在です。イエス様がそのような霊に苦しめられている人の前に立つと、霊は皆パニック状態に陥って、命じられるままに出て行ったことが福音書の中で多く伝えられています。

 さて、モーセの律法の専門家たちが来て、イエス様の活動が神の意思に則ったものかどうかを調査しました。そして、あれは、悪霊のボス、ベルゼブルを内に持っていて、その力で悪霊を追い払っているのだ、という結論を下しました。ベルゼブルというのは、もともとはカナンの民族が信じた神で、列王記下1章にバアル・ゼブブという名で出てきます。それがイエス様の時代には、悪霊の首領を意味するようになっていました。

 これに対してイエス様は、悪霊が悪霊を追い払うことなど出来ないと反論します。そんなことしたら、国が二分して内乱状態に陥って自滅するのと同じことになるではないか。また家が内輪もめになって成り立たなくなるのと同じことになるではないか。サタンだって内輪争いに陥ったら共倒れになるのだ、と。

そのように、イエス様の悪霊追い出しは同じレベルの者同士がやりあっているのではないとすると、一体どういうことなのか?イエス様は次にそれを説明します。強い者がいる家に入り込んでそこから物を奪い取ろうとする時、最初にその強い者を縛り上げないと成功しない。つまり、イエス様が悪霊を追い出すことができるのは、それを既に縛り上げてしまったからだ。強い者とみられる悪霊よりもはるかに強い者がそれを縛り上げで、手足が出ない状態にしてあるからだ。自分がそのはるかに強い者なのだ、と言うのであります。イエス様が他人の家に入り込んで物を奪い取ると言うのは、相手が悪魔とは言え、あまりいいたとえに聞こえませんが、実は、奪い取るものとして言われている「家財道具」とは、ギリシャ語のもとの単語はスケウオスσκευοςと言います。原文にあるように複数形の時は家財道具の意味も持ちますが、基本の意味は「道具」とか「器」です。その意味をもとにして、「肉体を持つ人間」も意味します。つまり、奪い取るというのは、悪魔に囚われた状態の人間を奪い返すという意味なのです。

このようにイエス様は、自分が悪霊を追い出すことができるのは、自分が悪霊なんかをはるかに上回る力を持っているからだと証します。では、その力はどこから来るのか?律法学者はイエス様の内に悪霊がいると言った、それが聖霊を冒涜したことになる。ということは、聖霊がイエス様の内にいて働いていたことになります。聖霊の働きを悪魔の働きと言ったことが、聖霊に対する冒涜になって、それが赦されない罪である、というのであります。赦されない罪というのは、情け容赦が通用しないということです。イエス様がこんな非情なことを言うのは意外な感じがしますが、この下りは読めば読むほど、イエス様の苛立ちや怒りが伝わってきます。悪魔同士の内紛と共倒れを言うために、同じようなたとえを三回も言うのはくどい位です。そして、たとえを言った後で「はっきり言っておく」と前置きして、律法学者が言ったことは聖霊に対する冒涜で、それは赦されない罪になると断罪するのです。この「はっきり言っておく」というのは、ギリシャ語原文では「まことにお前たちに言う」Αμην λεγω θμινですが、感じを出そうとすると、「これから言うことは、脅しでもなんでもないんだぞ」という訳になるでしょう。そう言ってから、聖霊に対する冒涜は赦されない罪になると警告するのであります。

 

3. 罪の赦しについて

 イエス様は、聖霊に対する冒涜以外の罪や冒涜は赦されると言います。赦されない罪についてみる前に、罪が赦されるということはどのようにして起こるかを見てみます。先ほど述べましたが、罪が赦されるというのは、人間と神との間の断絶が解消されて、人間が神との結びつきを持ってこの世を生きられるようになり、万が一この世から死んだ後も神のもとに永遠に戻ることができるようになることだと申しました。従って、罪とは、人間と神との間に断絶をもたらして、人間が神との結びつきを持てなくするようにするものです。

神はこの断絶状態を悲しみ、これをなんとかしようと思いました。もともと自分が創造した人間ですので当然です。そこで何をしたかと言うと、ひとり子イエス様をこの世に送り、人間と神との結びつきを断ちきる原因であった人間の罪を全部イエス様に請け負わせて、人間の代わりにその罰を十字架の上で受けさせて死なせた。そして三日後に死から復活させて、死を超えた永遠の命に至る扉を人間に開かれた。そこで人間は、これらのことが自分のために起こったとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、神から「罪の赦しの救い」を得て、神との結びつきが回復し、永遠の命に至る道に置かれて、それを歩み始めることとなります。

ここで、「罪」とか「罪を犯した」いう言葉を聞くと、私たちはとかく他人に危害を加えるような行為を思い浮かべます。しかし、天の父なるみ神が問題にする罪とは、そういう外面的な行為に限られません。たとえ行為として罪を犯さなくても、人間の内には罪の種のようなものがあるのです。誰からも非の打ちどころのない人と言われるような人でも、もし境遇や環境の変化があれば、行為に現れてしまうかもしれないし、また現れなくても思考の中で形を取るかもしれない。そういう罪の種を原罪と言います。先ほど朗読していただいた旧約聖書の箇所は堕罪の出来事についてでしたが、最初の人間アダムとエヴァの堕罪の時にこの原罪が人間の内に入り込み、それ以後全ての人間が受け継いできたのです。そのような奥深くて除去不可能なものが、洗礼を受けることで、イエス様の神聖さを衣のように頭から被せられて覆い隠されます。そして神は、そのような衣をまとった者としてキリスト信仰者を見て下さるのです。

そういうわけで、神が罪を赦すというのは、大体神が次のように言ってくれることと言ってよいでしょう。「もちろん、お前が罪を犯したという事実は消えないし、またこの世で肉を纏って生きる限り原罪も消えない。しかし、お前は、私のひとり子イエスが身代わりになって死んだと信じ、それで彼を救い主と信じる信仰がある。だから、私はイエスの犠牲に免じてお前を赦そう。お前が纏っている白い衣に私は目を留めよう。それゆえ、お前が犯した罪は、もう不問にする。あたかもなかったかのようにする。だから、お前は心配せず新しい命の道をしっかり歩みなさい。」

ここで一つ難しい問題を考えてみましょう。それは、人が殺人のような何か大きな罪を犯した時、もしその人がキリスト信仰者で、自分は「汝殺すなかれ」や「隣人を自分を愛するが如く愛せよ」という神の掟に背いてしまったと認めて悔いて、神に赦しを乞えば、神は本当に赦してくれるのだろうか?また、もしその人がキリスト信仰者でなくても、その後魂の変遷があってイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、犯した罪を悔いて神に赦しを乞うならば、神はそれも赦して下さるのだろうか?被害者の肉親が納得しないというような時でも、神は赦してしまうのか、という疑問です。

難しい問題ですが、考えの出発点として、キリスト信仰においては、他人に何か害悪を及ぼすと言うのは、その人に対してだけでなく神に対しても罪を犯すことになる、ということを思い起こします。ルカ15章の有名な「放蕩息子」の話で、父親の財産を愚かなことに使い切ってしまった息子は、自分は天に対しても父に対しても罪を犯した、と告白します(18節、21節)。「天に対して」というのは「神に対して」ということです。両親を大切にせよ、という神の掟を破ったことを認めて悔いているのです(他に金の使い方で「姦淫するな」も破っています)。親を単に自分の欲望を満たすための手段にしたことで、親に対して罪を犯した。それはまた神の意思に背くことなので、神に対しても罪を犯したことになるのです。

もし悔いる心を神が本物と認めて赦しの乞いを受け入れれば、神は直ちにその人の罪を赦します。神がその人の罪を赦すというのは、先ほども述べたように、神が罪を不問にすると言って、永遠の命に至る道に戻してあげること、その人と神との結びつきが回復して、その人が再び神の子とされることです。もちろん、国や社会の法律の規定に従って刑に服したり賠償をしなければならないということがあります。しかし、受刑者であっても賠償責任者であっても、神から赦しを得たら、法律上は犯罪者でも、その人は神の子なのです。

ところで、罪を犯した人が悔いて赦しを乞うても、あれは本物だろうか、と疑いを持たれることがあるかもしれません。しかし、悔いる心と赦しの乞いが本物かどうか、それを見極めて判断できるのは神だけです。私たち人間の判断力や人の心を見る目は神のものと比較して、あまりにも小さく限られています。では、私たちはどうしたらよいのでしょうか?もし、悔いる心と赦しの乞いは本物ではないと決めつけて、後で実は本物だったとわかったら、罪を犯した人が立ち直るのを妨げてしまったことになるでしょう。そこで、最低限しなければならないこととして考えられるのは、悔いる心や赦しの乞いが表明されたら、それがその人にとって本物になるように周りが手助けすることです。具体的にはどういうことか言うのは難しいのですが、ひとつはっきりしているのは、最初から頭から疑ってかかるのは悔いる心が本物になるのを最初から妨げてしまうことになるので、それは避けなければなりません。

そこで、もし犯された罪があまりにも大きて、その被害も甚大であった場合、いくら神の方で悔いる心を本物と認めて赦したとしても、人間の方はそう簡単に赦すことはできないということがあるかと思います。その場合、キリスト信仰に即して言えば、兄弟が罪を犯して赦すのは7回までかというペトロの問いに対するイエス様の答え「7の70倍」ということが原則としてあることを思い返します(マタイ18章22節)。そのような気前がよすぎると見なされてしまうような赦しはどのようにして可能でしょうか?それは、私たち自身が、神から、お前の罪を不問にする、とか、お前が纏っている白い衣に目を留める、と言ってもらっているからで、それで私たちも同じようにしなければならない。悔いる心を示されて赦しを乞われたら、私たちも神が私たちにしてくれたように赦して、なかったことにしなければならないということであります。

神のひとり子が自分を犠牲に供したおかげで私たちは神の罰を免れて神の子とされたのだとわかると、今度は私たちが被った危害というものも心の中では、法律がこのくらいの大きさだと言っているよりも縮小されたものになるのではないかと思います。いずれにしても、キリスト信仰にあっては、「神は赦しても、自分は赦せない」というのは、自分を神の上に立てることになるので絶対に言ってはならないことです。

これまでは、加害者が罪を悔い神と被害者に赦しを乞う場合のことを言ってきました。それでは、もし加害者がそのようなことをしない場合は、どうすればよいのでしょうか?特に、被った危害が甚大なものである場合は?それでも、キリスト信仰者は赦さなければならないのでしょうか?イエス様が「7の70倍」と言う時、何も条件が付されていないだけに気になるところです。ここは、使徒パウロの教えによるしかないのではないかと思います。つまり、復讐は神に任せよ、です(ローマ12章19節)。私たちは、心に復讐心を抱かない。加害者に何が起きるか、この世で何か罰を受けるのか、それとも、たとえこの世で起きなくとも、最終的には最後の審判の日に「命の書」が開かれて、全ての人間の全ての所業がその人の目の前に示されて、それに基づいて最終的にプラス・マイナスが清算される。それだから、その人の処遇は神に任せて、自分では復讐心を持たないようにする。復讐心を持たないとはどういう心の有り様かと言いますと、これもパウロの続く教えが大事になると思います。つまり、もし加害者が目の前に現れて、飢えていたら食べ物をあげ、渇いていたら水を上げる、という態度です(ローマ12章20節)。それはその人が愛おしくて愛しているからそうするのではなく、ただ神がそうしなさいと言っているからするだけです。それでも復讐を神に任せていることになります。もし、水も食べ物も与えなかったら、それは自分で復讐することになってしまいます。この、食べ物と水を与えて復讐は神に任せるという態度を持てないと、被害を被った人も事件が心身にもたらす呪縛からなかなか解放されないのではないでしょうか?

それでは、イエス様が敵を愛せよ(マタイ5章44節)と言っていることはどうなるのでしょうか?難しいですが、これも、イエス様が十戒を二つの掟に要約したことを考えてみたらよいと思います。つまり、「神を全身全霊で愛せよ」がはじめにあって、それを土台にして「隣人を自分を愛するが如く愛せよ」が来ます(マタイ22章37-38節)。そうなので、敵なる者がそれこそ罪を犯したことを悔い、神にも人にも赦しを乞うような者に変わるようにその人を導くこと、これがその人に対する隣人愛と言うことができると思います。もし聞く耳も持たないとか、顔を合わせられる状況でない場合には、その人がそうなるように私たちが神に祈りに祈ることではないかと思います。イエス様が、神というのは善人にも悪人にも太陽を昇らせ雨を降らせる方(マタイ5章45節)と言っているのも全く同じことです。これは、神が無原則な見境のない気前のよさを持っていると言っているのではありません。神は、悪人が神のもとに立ち返る日を待っているからそうするのです。もし、悪人に太陽を昇らせず雨も降らせなかったら、悪人はすぐ滅びてしまって神のもとに立ち返るチャンスを失ってしまいます。ここから、キリスト信仰者に課せられた使命、役割は明白でしょう。

 

4.赦しに至らせない最悪の罪

 以上、神が罪を赦すというのはどういうことか、どのようにして起こるのか、また私たちはそれにどのように従っていったらよいのかについて述べてみました。これらは難しい問題なので、一回の説教で全てが納得できることを期待せず、これからも何度も何度も立ち止まって考えたり、聖書を繙いたり、祈ったりしなければならないことを心に留めておきましょう。

さて、最後に、神が赦さないという罪、聖霊に対する冒涜についてみてみましょう。なぜ、聖霊に対する冒涜がこんなに大きな罪になるのかについて、まず聖霊はどんな働きをするのかを振り返ってみる必要があります。

まず、聖霊は「弁護者」(ヨハネ15章26節、16章7節)としての役割を果たします。それは、悪魔が神の前で信仰者を指さして、この者は罪の汚れを持つ者です、情け容赦は無用です、と神に訴える時、聖霊は、この人はイエス様を救い主と信じる信仰を持っています、その証拠に白い衣を手放さないでしっかり纏っています、と弁護してくれます。

それから、聖霊は「真理の霊」(ヨハネ15章26節、16章13節)とも呼ばれます。どういうことかと言うと、もし人が、神の意思に背くことをしてしまった時、また背くようなものが自分の内にあることに気づいた時、神との結びつきが失われてしまったという恐れや心配に陥ります。その瞬間、聖霊は次のように言います。「あなたは今、心の目をゴルゴタの丘の十字架に向けなさい。あそこにいるのは誰ですか?あの方の両肩に重くのしかかっている全ての人間の罪の中にあなたのものも入っているのをしっかり見届けなさい。」

人間の内に罪があるという真理をわからせるのも、また、このように救いの真理を告げて人間を罪の底から絶えず引き上げてくれるのも聖霊です。このような聖霊を侮辱するというのは、人間を神のもとに立ち返らせる働きそのものを侮辱することです。十字架と復活の出来事の前の段階では聖霊に対する侮辱とは、本日の福音書の箇所にあるように、イエス様が聖霊の力を得て行ったことを悪霊の力と言ったことでした。十字架と復活の出来事の後の聖霊に対する侮辱は、人間が罪の赦しを持てなくなるようにすることが明白になりました。

愛する兄弟姉妹の皆さん、そういうわけで、自分の罪を白日の下に晒しだされるようなことがあっても、すぐ十字架の主のもとに立ち戻れば、私たちはそれで聖霊の働きの中に入っていますので、何の心配もありません。イエス様を救い主と信じる信仰にとどまる限り、聖霊を冒涜するということはありえないので安心して行きましょう。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 


主日礼拝説教 2015年7月5日 聖霊降臨後第六主日
聖書日課   創世記3章8-15節、第二コリント5章11-15節、マルコ3章20-30節