説教「力を頂く」マルッテイ・ポウッカ牧師、

マタイによる福音書9章35~10章15

 



人間には、それぞれ、いろいろな タレント、また、いろいろな職務があります。その一つ一つは、この社会のためにいいものです。教師も、運転手も、政治家など、どれもこの社会がうまく動くために必要なものだと思います。


始めに

イエス様ご自身も、神様のご計画に従うとても大切な仕事をして下さいました。



マタイ9:35
「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。」

イエスがなさった仕事の内容は、どんなものなのでしょうか。

イエスの御業というのは
まず、イエスは苦しむ者を助け、病める者を癒し、死者を甦らせました。また、神から与えられた権威をもって、人の罪を赦されました。これらの業は彼の愛を示すと同時に、神の国の力がすでに世の中に影響を及ぼしつつあることを示しているのです.
たとえば、イエスがナインの寡婦の息子を甦らせた出来事があります。これは、ルカ7:2-17を読んでみてください。 
また「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちところに来ているのだ」(ルカ11:20)とあります。



この青い空の下にいろいろな苦しみがあります。 けれども、イエスは人間の苦しみをお知りになりました。

マタイ9:36
「また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」

イエスは、愛をもって、弟子たちにこう言われました。

マタイ9:37
「そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。」

次に

そして、イエスは神様の計画に従うご自分の仕事を続け弟子たちをお選びになりました。

マタイ10:1−4
「イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。」
十二使徒の名は次のとおりである。

まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。」

この弟子たちのなかにも、いろいろな職務を持った人がいました。そして、イエス様に招かれて、イエスに従いました。性格も職業も違う弟子たちはイエスの教えを学んだり教えられたことを実行したりし始めました。

最後に

イエスのエンパワーです

イエスは神様のみ子として人間の弱さをよくご存知です。それにも、私たち罪人の弱い人間に仕事と、力と、助言を与えて下さいました。


 
マタイ10:8。
「病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」

ですから、神様に頂いたプレゼントを人々に分かち合いましょう、福音を伝えましょう。イエスのエンパワーによって。

このような教えが書いてあります。
救い主の命令によって、福音は全ての国の民に宣べ伝えられなければなりません。

教会はこの活動に、宣教の事業を通して参加します。
ルーテル教会は「彼らはみな一つになるように」との主の望みを成就するために、他の教会と協力しています。
「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16:15)。

また、
マタイ10:4。「あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。」


すべての人が福音の素晴らしいメセージを聞きたいわけではありませんが、神様はこの世の全ての人を大切にして下さって、愛して下さいます。そして、イエスは全ての人の救いのために死んで下さいました。これは永遠の命の希望の元です。それを分かち合いましょう。そのために、祈りつつ、神様の約束して下さった力を頂きましょう。




 祈りましょう  
天の父なる神様。二千年前イエスは12人の人々を弟子にしてくださいました。このことを通しても、あなたは弟子たちに対する、またはすべての人間に対する深い愛を表してくださいました。あなたの御前で私たちには価値があります。私たちは、どんな痛があっても、あなたのところに行くことが出来ます。そのことを感謝します。またあなたは教会の働きを通して私たちを招いてくださっています。この招きにしたがって、私たちがあなたの御国のためにできる仕事を教えてください 私たちは色々な才能と職務を頂いています。 どうすれば福音を世界へ伝えることができるのか私たち一人一人を導いてください。知恵と力も与えて下さい。どうか敵をも愛することができるように助けてください。よい僕になれるように導いてください。あなたの御言葉がわかるように、あなたの御心に従うことが出来るように私たちを教えてください。また、隣人を愛せるように、苦しんでいる人を助けられるように、互いに仕え合うことが出来るように私たちの愛を主イエスキリストによって強めてください。心の中にあなたの光を照らすことが出来ますよう に。 
この祈りを主イエスキリストによってお祈りいたします。アーメン。

 

説教「主が探される」マルッテイ・ポウッカ牧師、マタイによる福音書9:9-13

 


女性はたいてい洋服とか飾りが好きですが、道具の好きな人もいます。特に男性はたいていそうでしょう。私も、何も考えないで店に入って、少しすると、新しい スクリュードライバーとか「マきた」をもって出てきます。「あなたはもう道具をたくさん持っていますけれども、今度の買い物は本当に必要ですか。」と質問されたら、なかなか答えが見つかりません。新しい道具が本当に必要な場合もあることはありますが・・・。とにかく、時々ショッピングするのは楽しみです。新しい道具を見つけると嬉しいものです。 
では、神様は何を探されるでしょうか。 
神様は私たちを探していらっしゃいます。 
私たちが神を知り得るのは、神が私たちに御自身をお示し下さるからです。 
神は愛をもって私たちに近づき、私たちを御自身の御許に引き寄せられます。聖書にはこう書いてあります。 
「遠くから、主はわたしに現れた。/わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し/変わることなく慈しみを注ぐ」(エレミヤ31:3)。 
「この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に 話しているのか、分かるはずである」(ヨハネ7:17)。 
 
私は道具を店で探しましたが、今日の聖書の箇所で、イエスは人間を探していらっしゃいます。イエス様の愛というのは、私たちには理解できないほどすばらしいと思います。今日の聖書の個所を読みましょう。

9.9.イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。 
マタイは即座に立ち上がりました。『すばらしい先生が私を招待してくださいました』と思ったでしょう。そして、どんなに喜んだことでしょう。 
10.イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。 
みな大喜びでした。イエスは大勢の人々と共に食事をしておられました。 
彼らは、自分たちは愛されているという感じがしたに違いありません。 
 
しかし、他の人たちはそれが気に入りませんでした。 
11.ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。 
ファリサイ派の人々は『私たちは偉い』と考えていたでしょう。そして、イエスはそれをご存知でした。神様の御子だからです。 
12.イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。」 
 
さて、ある友達の話をいたしましょう。 
私が前に働いていた教会の友人のラッセという男性は私にこんな話をしてくれました。先ほどのみ言葉の意味がよくわかる具体的な例として、この話を考えてみてください。 
そのとき、ラッセはおおよそ四十歳で、外見は何も問題がないようでしたが、内心はとても暗く、酒癖が悪く、自分でも幸せな生活ではないと告白していました。 
ラッセはある日、信徒説教者の話をききました。その説教者は私の家内の父でした。その話の中にこの聖書の一節が出てきました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。」この言葉を聴いて以来、ラッセは自分は「別の世界」に入ったと言いました。彼は神様の国に入ったのです。そして、彼の生活はすっかり変わって、心の平安と人生の目的が見つかりました。奇跡でした。その後、ラッセは自分自身も神様の国のことを人々に話し始めました。心の希望が生まれたのです。 
   
聖書の箇所に戻りましょう。 
13.『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」 
こうしてイエスはファリサイ派の人々に答えて、神様の恵みについて教えてくださいました。 
イエスが教えられた神の御恵みはどんなものなのでしょうか。 
 
イ エスは特に失われた者や罪人と交際しました。このことは彼らにとっては大きな慰めでしたが、他の人々には躓きとなりました。しかしイエスはこれによって罪 人を求めてこれを救う神の言い尽くし難い愛を示したのです。このように私たちに何の価値も無いのに与えられる神の愛が恵みと呼ばれるのです。 
「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイ9:13)。 
「見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」(マタイ11:19)。 
イエスの考え方はファリサイ派の人々と全く違いましたね。 
 
イエスはマタイを友達として愛されました。そして、弟子にされました。マタイはそれからイエスと共に働きました。私の友人のラッセも神様のみ言葉によって神様の国のために働き始めました。そして、私たちも自身も、神様の道具としてイエスと共に働くことができるのです。 
 
今、神様の恵みによって、わたくしたちは喜ばしい自由な心をもっています。 
キリスト者は、強制の下にいやいやながらしたり、または報酬を目当てにしたりするのではなく、むしろ、自らすすんで「喜びのある自由な心」から、神の御旨を遂行します。 
「喜び祝い、主に仕え/喜び歌って御前に進み出よ」(詩篇100:2)。 
「喜ばしい自由な心をもって働け」

(マルティン・ルター)。 


イエスのみ業によって喜びましょう。 
ローマ5:11.それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して(とおして)和解させていただいたからです。 
 
私は新しい道具を探しました。そして、何か見つかったら喜びました。神様は、新しい人とか神様から離れて生き続けた人が見つかると天国で大喜びをされるのです。 
 
祈りましょう 
天の父なる神様。二千年前イエスはマタイを弟子にしてくださいました。このことを通しても、あなたはマタイに対する、またはすべての人間に対する深い愛を表してくださいました。あなたの御前で私たちには価値があります。どんな痛みやがあっても、あなたのところに行くことが出来ます。そのことを感謝します。またあなたは教会の働きを通して私たちを招いてくださっています。この招きにしたがって、私たちがあなたの御国のためにできる仕事を教えてください。どうすれば福音を世界へ伝えることができるのか私たち一人一人を導いてください。どうか敵をも愛することができるように助けてください。よい僕になれるように導いてくださ い。あなたの御言葉がわかるように、あなたの御心に従うことが出来るように私たちを教えてください。また、隣人を愛せるように、苦しんでいる人を助けられ るように、互いに仕え合うことが出来るように私たちの愛を主イエスキリストによって強めてください。心の中にあなたの光を照らすことが出来ますように。 
この祈りを主イエスキリストによってお祈りいたします。

アーメン。 
 
 
 


 

説教「良い実」 マルッテイ・ポウッカ牧師、マタイによる福音書7:15−29

 

 


私たちは毎日いろいろな話を聞きますね。ラジオでも、テレビでも、または商店街でも話が聞こえます。「これを買ってください」とか「私を選挙の時選んでください」というようことはいつものことです。 
 
イエスの時代にもいろいろな話が聞こえました。当時、ラジオとかテレビはまだ存在しませんでしたので、全部ライブだったでしょう。 
預言者たちも話しました。良い話も悪い話もありましたので、区別するのは非常に難しかったと思います。では、どうやって、それを区別すればいいのでしょうか。

 
イエス様はこのことについてこう教えられました。 
15。「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。」 
 
これはイエスの警告でした。何かを聞く時、よい話でも気をつけなければなりません。つづいで、イエスはこうアドバイスして下さっています。 
16−20。あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実 を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。このよう に、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」 
 
「実を見ると、分かります。」このアドバイスはリンゴについての話ではありませんね。では、どんな実がイエスの言われる良い実なのでしょうか。 
 
このような教えが書いてあります。 
 
御霊の結ぶ果実についての教えです。 
キリスト者は、なお罪人ですが、信仰によってキリストに連なっているために、御霊の実を結ぶことができるのです。愛はそれらの実のうち最も大きな実です。 
神はまた教会建設のためには特別な恵みの賜物を信者に与えられます。 
「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」(ガラテヤ5:22-23)。 
「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」(第一コリント13:13)。 
 
このような実があるなら、預言者は、自分の栄光とか利益のためではなくて、神様の栄光のために働いるということです。そして、神様の御心による実は当然にこのような良い実なのです。 
 
今日の聖書の個所に戻りましょう。 
21。「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」 
良い行いは、信仰の実です。信仰によって、神様の御心に従う行いがあらわれます。信仰によって、イエス様は、心の中に住んでいらっしゃるからです。 
 
信仰によって、奉仕への贖いの心が生まれます。 
 
神がその恩恵によって、私たちの罪を赦してくださったために、私たちの内に感謝と愛と信仰による服従心が生まれ、神と隣人とに奉仕するようになります。キリスト者の全生涯は奉仕の生涯であり、このような奉仕の生涯を私たちはキリスト教倫理と呼びます。 
「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです」(第一ヨハネ4:19)。 
 
そして、行いだけではなくて、心の態度も大切です。 
 
では、キリスト信者のあるべき態度はどのようなものでしょうか。 
 
キリスト者は、その行う行為が神の御心にかなうだけでなく、全生涯の方向において神の御心にかなうような生活を送らなければなりません。 
私たちは神の恵みによってのみ生きているのですから、謙遜でなくてはなりません。また全ての賜物および職務を、神からいただいているのですから、あらゆる点で、忠実でなければなりません。そして、自分の運命を神の御手から受け、試練と苦難との中に、忍耐を覚えなければなりません。 
キリスト者は、あらゆる点において、真理を守り、またその良心に神の御声を聞いているのですから、人の批判と審判とを気にかけません。 
「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる」(マタイ12:33)。 
 
神様のみ心が分かるために、または良いみを結ぶために、次のような生き方がふさわしいと思います。 
 
信仰生活において、 
 
まず、キリスト者は、その信仰を強め、信仰生活を続けていくために、神の御言、主の晩餐、祈り、そして聖徒の交わりを、忠実に重んじなければなりません。 
「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」(使徒言行録2:42)。 
「ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありません」(ヘブライ10:25)。 
それから、祈りを忘れませんように。すべての祈りに、神様は御心によって答えて下さいます。 
 
 
次に、建物を建てることを考えてみましょう。それは複雑なことです。この教会の皆様がご存知のように、建物を建てる時、間違えてしまう可能性も大きいでしょう。急ぎすぎると、悪い結果をもたらします。そして、後で直すのは厄介な事です。 
 
建物に比べると、人間の人生は比べられないほど複雑なものだと思います。では、どうすればいいのでしょうか。 
 
教の聖書の個所に戻りましょう。 
 
24−27。「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を 襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。 わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れ て、その倒れ方がひどかった。」 
 
 
御言葉の上に人生を建てるのは正しい案です。神様はこの世も私たちも作ってくださったからです。ですから神様は私たちの人生の出来事をよくご存知です。 
 
人生をみ言葉の上に建てれば、私たちは良いみを結ぶことが出来ますし、その上、何よりも大切な永遠の命の希望を持つことが出来ます。 
 
キリスト者の希望というのは時代の混乱の最中にあり、キリスト教会は神の国が栄光の中に現れる栄光の日を、神の御約束を信じて待ち望んでいます。その時に神は全てにおいて全てとなられるのです。 
「被造物だけでなく、『霊』の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです」(ローマ8:23-24)。 
「このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ」(ルカ21:28)。 
私たちは、信仰によって救われます。信仰は希望の元です。そして、希望を持って、この世の中で、良い実を結びましょう。そして、福音を伝えましょう。

 
祈りましょう。 
天の父なる神様。あなたのみ恵みを感謝します。あなたは愛する天の父でいらっしゃいます。私たちは、 どんな痛みや病(やまい)があっても、あなたのところに行くことが出来ます。感謝します。またあなたは教会の働きを通して私たちを招いてくださっていま す。この招きにしたがって、私たちがあなたの御国のためにできる仕事を教えてください。福音をどうすれば世界へ伝えることができるのか私たちを一人 一人を導いてください。どうか敵をも愛することができるように助けてください。よい僕になれるように導いてください。あなたの御言葉がわかるように、あな たの御心(みこころ)に従うことが出来るように私たちを教えてください。また、隣人を愛せるように、地震や津波からの復興のために苦しんでいる人を助けられるように、互いに仕え合うことが出来るように私たちの愛を主イエスキリストによって強めてください。心の中にあなたの光を照らすことが出来ますように。 
この祈りを主イエスキリストによってお祈りいたします。アーメン。

 

説教「世界宣教への宣言」木村長政 名誉牧師、マタイによる福音書28章16節~20節

今日の御言葉は、イエス様が弟子たちに与えられた、最後の言葉です。

マタイ福音書28章16節を見ますと、「さて、12人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った」と、あります。
弟子たちがガリラヤに行ったのはなぜか。弟子たちはこの時、主が復活されたと聞いて、さて、これから主人がいない生活をどう過ごしたらいいか。
自分の故郷に帰って、生きていくしかないじゃないか、そんな思いをそれぞれ持っていたでしょう。

イエス様が復活された時、すでに墓に来ていたマグダラのマリヤたちに、ガリラヤに行くようにいわれたのでした。
28章6節のところで天使が告げています。「あの方はここにはおられない。かねて言われていた通り復活なさったのだ」。「それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなた方より先にガリラヤへ行かれる。そこでお目にかかれる』」。

婦人たちは恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。するとイエスが、行く手に立って「おはよう」と言われたので、夫人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。
イエスは言われた。「恐れることはない。行ってわたしの弟子たちに、ガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」。

復活の直後のイエス様が、婦人たちに大事なこととして、ガリラヤへ行くように、弟子たちにしっかり伝えなさい、とはっきり言っておられるわけです。
ガリラヤへ集まるように命じて伝えておられる、ということは、大切な、大切な、弟子たちへの最後の宣言を、言おうとされてのことであります。
そして、話は今日のみことばの16節へと続くんですね。
弟子たちは、復活されたイエス様の指示どおり、ガリラヤへ行ったのです。
ガリラヤの地は、イエス様が福音宣教を始められた場所でありました。エルサレムはまだ、弟子たちの身の危険があるということもあったでしょう。
マタイ福音書には、イエス様が昇天されたことについては、書いていない。
マタイの最後は、イエス様が弟子たちへ、福音宣教の命令を下されたことで終わっています。ですからマタイにとって、この福音書の大事なことは、ここにあったのでしょう。

弟子たちは、イエス様が指示しておかれた山に登った。
ここにイエスが指示しておかれた山、というのは、どこのことか分からない。
とにかく山に行くように、という指示です。こういう場合の「山」というのは、ガリラヤ湖のほとりと全然ちがって、山には何となく神秘的な空気がある。
それは、神的顕現の場、といった意味が含まれているでしょう。神性な神がおられる山、という場所です。
モーセがシナイ山で、十戒を授けられました。
又、イエス様は、山上で重要な教えをされました。山上の垂訓といわれる山でした。
又、イエス様の姿が変貌をとげられたのも、高い山でした。
ですから復活のイエス様が、最後の弟子たちへの福音宣教の命令を下される場は、神の顕現を含んだ神秘的な山であった、ということです。

弟子たちは、復活のイエス様の顕現に接して、御前に拝聴したにもかかわらず、なお「疑う者もいた」と、マタイは記しています。
イエス様の弟子でさえ、心の中では疑う者もいた、ということ。それほどイエス様の復活を信じることは、容易なことではなかったということを、言外に語っているということでしょう。
この世の人間の中には、イエス様の復活を信じることができる人と、信じることのでいない人もいる、ということ。

この部分を少しくわしくみると、彼らはひれ伏したが「疑う人もいた」と読む説もあります。つまり、復活されたイエス・キリストの顕現によって、信仰に導かれる者と、なお、疑う人々もいる、ということです。
しかし大切なことは、使徒言行録1章13節によれば、この11人の弟子たちは、みな、エルサレムに再び集まっている。たとえそこに、まだ疑う人がいたとしても、最終的には全員が信仰に導かれたことが、暗黙のうちに前提されている、と考えた方がいい、ということです。

さて、18節には、「イエスは近寄って来て言われた。」とありますから、イエス様は、どこまでも弟子たちを愛してやまない、そして、彼らに重要な宣言を命令していかれるのでありました。
「わたしは、天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなた方は行ってすべての民を、わたしの弟子にしなさい」。
天の父なる神の御計画に従っていかれた、御子なるイエス様です。
人間の罪のあがないとなって、十字架の死をとげ、三日目に父なる神が、イエス様を死からよみがえらされた。
今度は、そのイエス様に神は、天と地の一切の権限を授けられたのです。
天と地の一切の権能です。天上の、すべての、諸々の霊たちも尊重するような権威と力です。又、地上のあらゆる支配と統治の力です。

主イエスは、十字架の死と復活を通って、あらゆることに勝利された。
その一切の権能を受けて今度は、「だから」あなた方は、イエス様の復活の勝利の福音を宣べ伝えていきなさい。これは、弟子たちへの課題です。
この、「だから」という接続詞が重要な言葉となって、弟子たちに与えられていったのです。
これは又、すべてのキリスト者、信徒への課題であります。
復活された主イエス様が、いつもいて下さる。
天の父なる神から授かった、天地一切の権能をもって働いて下さる。
だから、「あなた方は、これから、あらゆる国民を弟子としていきなさい」。

「弟子になる」ということは、イエス様に学び、その御旨に従う者になる、ということです。その内容は二つあります。第一は、「父と、子と、聖霊の名によって、バプテスマを授ける」ということ。
そして第二には、「わたしが、あなた方に命じた、すべての事を守るように教えなさい」ということです。
「父と子と聖霊の名によってバプテスマを授ける」という表現は、新約聖書の中では、ここにしか出てこない。これが後に、教会で行われるようになった洗礼式の定式となっていく言葉であり、神からの権能です。
しかも、「父、子、聖霊」という三位一体の神の教義学上の重要な要素となる言葉となっていった。

これは又、紀元325年の、ニカイア信条において、宣言されることになっていったのであります。キリスト教に対する、いろんな異端の宗教との戦いで、はっきり宣言される形となりました。
バプテスマが、信徒の間で行われるようになった当初は、「イエス・キリストの名によるバプテスマ」であったことを、使徒言行録に出ています。
たとえば2章38節、8章16節、10章48節、19章5節、22章16節などの記事が証言しています。
この定式は直訳すれば、「イエス・キリストの御名の中にバプテスマされる」となります。イエスと生死を共にする一体関係に導かれる、という趣旨であったということです。

そのことをパウロは、ローマ人への手紙6章3節以下で語っています。
「あなた方は知らないのか、キリスト・イエスに結ばれるために、バプテスマを受けたわたしたちが、皆、又その死にあずかるために、バプテスマを受けたことを。
わたしたちは、バプテスマによってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって、死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。
もし、わたしたちがキリストと一体となって、その死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかるでしょう」。

ここに、パウロによって簡潔に、的確に示されています。つまり、イエスの死に合わせられることによって、その復活の生命にあずかることが、福音の恵みである、ということであります。しかも、バプテスマによって新しい生命に生きるという望みは、死をこえた彼方への望みということにとどまらず、すでに、この地上の生活において「新しき生命に歩む」という内容をもつことを、パウロは示したのであります。

弟子たちは、洗礼と並んでもう一つ、すべての者にイエス様の言葉を与えなければならないという、命令を受けました。「わたしが、あなたがたに命じた、すべての事を守るように、教えなさい」。(20節)
福音書にしるされている、イエス様のすべての教えを守ることが、弟子となるということです。
そして、最後の最後の宣言は、「わたしは世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる。」と、言われました。
なんと言うすばらしい、マタイ福音書のむすびでしょうか。

人知では、とうてい測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

 

三位一体主日

説教「聖霊の働き」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書7章37-39節、使徒言行録2章1-21節

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1.聖霊降臨祭はペンテコステとも呼ばれますが、それはギリシャ語の50番目を意味するペンテーコステーπεντηκοστήという語に由来し、復活祭から(それを含めて)50日目に天の父なるみ神から聖霊がイエス様の弟子たちに下ったのであります。聖霊降臨祭は、キリスト教会にとって、クリスマスや復活祭に並ぶ大事な祝日です。クリスマスに、私たちは、私たちの救い主が乙女マリアから生まれ、私たちの救いのために神が人間となって来られたことを喜び祝います。復活祭には、イエス様が私たちを罪の奴隷状態から救い出すために、十字架の上で御自分を犠牲の生け贄として捧げて死なれるも、三日後に父なるみ神の力によって復活させられて、私たちのために永遠の命への扉を開いて下さったことを祝います。そして、聖霊降臨祭では、イエス様が約束されていた聖霊が、彼の昇天後に天のみ神のもとから送られたことを喜び祝います。聖霊は、ルターの小教理問答にもあるように、私たちがイエス・キリストの福音を読んだり聞いたりする時に、私たちの内に信仰を生み出す力を持つ方です。そして、私たちが神の御言葉に拠って立つ正しい信仰にとどまれるように私たちを日々守り導いて下さる方です。

 聖霊降臨祭は、またキリスト教会の誕生日と言われます。そのことは、先ほど朗読されました使徒言行録の2章を続けて読んでいきますとわかります。聖霊を注がれたイエス様直近の弟子たち、すなわち使徒たちの一人であるペトロが群衆の前で、イエス様の十字架の死と死からの復活について堂々と証しを行い、神のもとに立ち返る生き方をするように勧めます。これらの言葉を聞いて心を突き刺された(2章37節)群衆は、すぐさま洗礼を受け、その数は3千人にのぼりました(41節)。これらの人々は、「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心」(42節)な集団を形成したのです。これがキリスト教会の始まりとなりました。全ては、聖霊が使徒たちに注がれたことから始まったのです。

それにしても、聖霊が使徒たちに注がれた時、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ」(3節)た、というのは、本当に不可思議な現象です。このことについては、かつて洗礼者ヨハネが、自分の後に来る救世主は聖霊と火によって洗礼を授ける、と預言していましたが(マタイ3章11節、ルカ3章16節)、その通りになったのであります。マラキ書3章では、将来到来する救世主のことを、金や銀から汚れを除去する精錬の火である、とたとえられています(2~3節)。聖霊を受けるというのは、罪の汚れた力を除去することが一緒になっているので、それで汚れを除去する炎を浴びせることと同じと見なされます。

ところで、私たちが洗礼を受ける時にも聖霊を授かりますが、その時私たちは、洗礼を受ける者が炎をあてられるような現象は普通目にしません。しかしながら、洗礼が授けられる時、私たち人間の目にはそう見えなくとも、父なるみ神の目からは、まさに炎で精錬をするようなことが起きていると見えるのでしょう。罪の汚れた力が焼き尽くされると見えるのでしょう。それでは、そうした神の目ではなく、私たち人間の目から見た場合、聖霊を授かった者にはどんな変化が起きたと見えるでしょうか?それについては、イエス様の次の言葉があります。

「風は思いのままに吹く、あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」(ヨハネ3章8節)。

ここでは、風の作用と聖霊の働きが似ているということが言われています。(興味深いことに、ギリシャ語でもヘブライ語でも、風を意味する単語と霊を意味する単語は同じです。)私たちの目には空気は見えません。しかし、空気が移動して風となって、木々を吹き抜けていくと、枝がしなり、葉がざわめいて、ああ、風が吹いたんだな、と空気が移動したことがわかります。聖霊を授けられた人も同じで、それまではイエス・キリストとか天のみ神とか、口にもしなかったり考えもしなかった人がある日突然、考えたり話題にするようになる。また、それまではイエス・キリストと聞いても、世界史の授業や教科書から、ああ、そういう人物が歴史上存在していたんだな、と知識として知っていた人が、ある日突然、実はイエス様は自分の救い主だったのだ、とわかるようになる。そのようにして、イエス様が現代を生きる自分と直接関係のある存在になる。そういう時、その人に聖霊が働いたことがわかるのです。人間は誰も、聖霊が働くことなくしてはイエス様を自分の救い主とわかることはできないのです。聖霊が働かなければ、単なる知識に留まるのです。

さらに、「ヨハネの第一の手紙」4章で、何が天のみ神に由来する霊で何がそうではない霊であるかを判別する決め手になるかというと、それは、イエス様のことを正確に教えているかどうかにかかっている、と教えています。例えば、イエス様は、もともとは天の父なるみ神のもとにいて神と同質であったひとり子で、それが人間と同じ肉をまとってこの世に来た、この真理を公けに言い表す霊が神に由来する霊であります(2節)。

 以上のように、聖霊とは、私たちを罪の汚れから洗い清めてくれたり、神の意思やイエス様のことについて、正確な知識を与えて下さる方であります。本日の福音書の箇所では、こうした聖霊の働きについて、別の視点から教えていますので、それを見ていきたいと思います。

 

2.本日の福音書の箇所で、イエス様は、「生きた水」について語ります。ギリシャ語の言葉を直訳すると「生きている水」です。生きている水とはどんな水でしょうか?何か不思議な水です。その意味を明らかにしましょう。

 まず、「渇いている人」はイエス様のところに来て彼から飲むことができる、と言われる。つまり、イエス様が渇きを癒して下さるということです。「渇いている」と言うのは、霊的に何かを熱望しているということ、つまり救いを求めているということです。それでは、救いとは何かと言うと、端的に言えば、天の父なるみ神としっかり結びついて生きられるということです。天と地と人間を造り人間に命と人生を与えた、まさに自分の造り主としっかり結びついていることで、この世の人生の歩みで神から守りと良い導きを与えられ、万が一この世から死ぬことになっても、その時は神のもとに永遠に戻ることができる、これが救いです。

イエス様が渇きを癒して下さるというのは、彼がそうした霊的な熱望である救いを叶えてくれるということであります。救いが叶えられるというのは、まさにイエス様の十字架の死と死からの復活によって実現しました。イエス様は、人間と神の結びつきを壊していた原因である罪を全部自分一人で請け負って、十字架の上でその罰を全て受けて、人間の身代わりとなって死なれたのです。さらに、死から復活させられたことによって、永遠の命に至る扉を人間のために開かれました。こうして人間は、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けることで、神からはイエス様の犠牲に免じて罪を赦しを得られ、こうして神との結びつきを取り戻すことができるようになったのであります。

本日の福音書の箇所はまた、このようにしてイエス様によって渇きを癒され救いが叶えられた人は、今度はその人自身から「生きた水」の急流がほとばしるようになると言います。それでは、その「生きた水」とは何か?これについては、ヨハネ福音書の4章に理解の鍵があります。イエス様とサマリア人の女性が水について問答するところです。イエス様が自分は「生きた水」を与えることが出来ると言うと、女性はそれを井戸から汲める水と勘違いしている。そこでイエス様は言われます。「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(4章14節)。ギリシャ語の原文に忠実に訳すと、「私が与える水はその人の内で、永遠の命を目指して流れ続ける水の水源となる」です。つまり、人がイエス様から「生きた水」を受けると、今度は、その「生きた水」がその人のなかで水源となって、そこから流れ出る水は永遠の命に向かって流れゆくというのであります。そういうわけで、「生きた水」、「生きている水」というのは、人を「永遠の命に向かわせる水」であり、その意味で「永遠の命を与える水」であります。

本日の福音書の箇所によれば、このイエス様が与える「生きた水」は、イエス様を救い主と信じる人たちに与えられる聖霊を意味するということでした。そこで、「生ける水」と聖霊を結びつけて考えると、イエス様の教えは次のように要約することができます。人がイエス様から「生ける水」を受けて霊的な渇きを癒される。つまり、イエス様によって救いを叶えられて、イエス様を救い主と信じるようになり、聖霊を受けることになる。すると今度は、聖霊がその人の中で水源となって、そこから流れ出る水は永遠の命を目指して流れ続ける。つまり、聖霊は、信じる者を霊的に潤しながら、渇きそうになったらすぐ癒してくれて、まるで信じる者を永遠の命まで押し流してくれる。以上がイエス様の教えの主旨です。まさに、イエス様を救い主と信じる者においては、聖霊は、その人の核心ないし要のようなものとなって、その人を内側から永遠の命という目標に向かわせようとする働きをしている、ということであります。それはそれで素晴らしいことではあります。しかし、キリスト信仰者の人生はそんな結構な水の流れに乗って、この世をすいすいと渡って永遠の命に向かって進んでいくものでしょうか?どうもそうとも思えません。しかし、天の父なるみ神の目から見れば、一度聖霊を受け取って信仰を持って生きる者は、外面上はどんなことが起きても、聖霊を水源としてその人の内面から湧き出る水は、永遠の命を目指して絶えることなく流れていくのであります。そうしたことが、どうして可能なのか、以下に見てみましょう。

 

3.人間は、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて聖霊を授かっても、まだ肉を纏って生きています。そうである以上、実はまだ神への不従順と罪を内にもったままです。それでは、洗礼を受ける前と何も変わってはいないではないか、キリスト教では「あなたの罪は赦された」とか「罪は帳消しにされた」などと言うが、それは一体何なのか?そういう疑問を抱かれると思います。罪と不従順を相変らず抱えているのに何が決定的に変わったかというと、それは次のようなことです。人が父なるみ神の御前で、「はい、あなたの御ひとり子イエス様は私の罪を請け負って私が受けるべき罰を受けられて私の身代わりとなって死なれました。彼の身代わりの死の上に私の今の命があります。だから彼こそ真に私の救い主です。」こう信じて告白すれば、神はその人に、「よくぞ、私がイエスを用いて整えた救いを信じて受け入れてくれた。お前は罪びとだが、イエスの犠牲に免じてお前の罪を赦そう」と言って、その人を永遠の命に至る道に置いて下さります。そして、それからは神から良い導きと助けを得られながら、この世の人生を歩んでいくこととなります。罪というものを人間が神に対して抱えていた借金や負債のように考えると、神はそれを一方的に、イエスの犠牲に免じてなかったことにしてやる、と言って帳消しにして下さったのです。私たちの神に対する負債は、言わばイエス様の流した血が代償となって帳消しにされたのですから、私たちの新しい命はとても高い値がつけられているのです。

こうして、神と人間との結びつきが回復することになりました。罪と不従順は残っているにもかかわらず、罪を赦されて神との結びつきができた以上、罪にはもはや人間を最終的に牛耳る力はないのです。私たちを最終的に牛耳る方は、本来は私たちの造り主である神なのです。イエス様を救い主と信じることで、人間は罪の支配下から神の庇護下に戻させられるのです。

ここで、この世に働くいろいろな力とその背後にある悪魔は、このような神と人間の麗しい関係を壊さないではいられません。これは、堕罪の時からそうでした。悪魔のやり口として、まずキリスト信仰者をやっぱり救いようのない罪びとであることを思い知らせようとします。信仰者は、自分と神との結びつきは大丈夫かどうかということを気にして生きますから、結びつきを危うくする罪の問題には敏感です。そこを付け狙ってくるのです。もし悪魔が、「ほれ見ろ、お前はやっぱり罪びとだったのだ。神はお前に呆れ返っているぞ」と暴露戦術で攻撃をしかけてきた時は、ルターは次のように答えなさいと言っています。「そう、確かに私は罪びとだ。だが、まさにこのような私が神と結びつきを持てるようになるために、あの方は十字架の上で死なれたのだ。だからあの方は私の真の救い主であり、あの方を送られた神は私の愛すべき父なのだ。」これこそ、天の父なるみ神が私たちから一番聞きたい言葉なのです。

ところで、この世に働く力が、罪とは別の問題で、信仰者を惑わして神への疑念を抱かせることもあります。それは、信仰者が自分の罪が原因でないのに大きな苦難に陥ってしまった場合がそうです。その時、「これこそ、お前が神に見捨てられた証拠だ」とか、「神はお前に背を向けている。いつまで神に対して無垢を気取っているんだ。そんな神などお前もさっさと袂を別てば良いではないか」というようなこちらの痛みと弱みに付け込む攻撃が仕掛けられます。

確かに、神としっかり結びついて生きるなどというと、順風満帆の人生が保証された感じがします。なにしろ、全知全能で天地を創造した神が味方についていると言うのですから。そうなれば、こわいものなしです。しかし現実は、キリスト信仰者と言えども、不幸や苦難に陥ることにかけては、信仰者でない人たちとあまり大差はありません。それにもかかわらず、信仰者はどうして、苦難困難の時でも神との結びつきを信じられるのでしょうか?それは、キリスト信仰者は、命や人生というものを、今生きているこの世の人生とこの後に来る天の御国の人生の二つをセットにした大きな人生を生きているという自覚があるからです。この世では絶体絶命の状態になっても、それで全てが終わってしまうということにはならない、とわかっているのです。イエス様を救い主と信じ、彼の十字架の死と死からの復活のおかげで大きな人生を歩めているとわかれば、神は苦難困難の時にも目を離さずに見守っていて下さるということが当たり前になるのです。そして、神は時宜にかなった助けを与え下さる、と心静かに忍耐して待てるようになるのです。

以上のように、イエス様を救い主と信じる信仰によって回復した神との結びつきは、信仰人生の途上で、小さくなったり弱まったり感じてしまうことがありますが、それは人間の目から見て勝手に感じられることであって、神の目から見れば何にもかわっていないのです。イエス様を自分の救い主と信じる信仰に立ち続ける限り、周りでどんなに嵐が吹き荒れようと、神との結びつきには何の変更もありません。人間は、目で見たこと耳で聞いたこと肌で感じたことが判断の元になりがちです。しかしながら、こと救いとか罪の赦しとか神との関係のような事柄に関しては、目や耳で捉えたり感じたりしたことを超える把握ができないといけません。しかし、それは人間の力ではできないことです。それを可能にしてくれるのが聖霊の働きなのです。最初にも申し上げましたように、知識として知っていた歴史上の人物のイエス・キリストが、突然今を生きる自分の人生をつかさどる救い主になったというのは、これは聖霊の働きによるのです。ところで聖霊は、聖書の御言葉と密着して私たちに働きかけますから、兄弟姉妹の皆さん、聖霊の働きかけをこれからもしっかり受けることが出来るために、聖書はしっかり読んでまいりましょう。

 

4.ルターは、イエス様の言葉「わたしはあなたがたを休ませてあげよう」(マタイ11章28節)の解き明しで、聖霊の働きを受けた者は重荷が軽くされるということを教えていますので、それを引用して本説教の締めとしたく思います。

「イエス様は、『わたしはあなたがたを休ませてあげよう』と言われた。これは、まさにあらゆるものの上に君臨する方が口にすることができる言葉である。いかなる天使も、この言葉で言われていることは自分には果たせないと認めざるを得ないであろう。人間は言うに及ばず、である。この言葉をもって、イエス様は、自分が罪も死も律法も義も命も至福も全てを支配していることを宣言しているのである。そのようなことが可能なのは、まさに神だけである。神は、我々の罪という重荷を、赦しを与えることで取り除いて下さる。さらに、我々の抱えるその他の労苦をも軽くして、我々に喜びと安心を与えて下さる。

我々の良心が罪のために苦しめられる時、神から罪の赦しを与えられて天の御国を継ぐ者にしていただいと告げ知らされること以上に、我々の魂が平安を得ることはない。さらに、神が我々に平安を与えて下さるのは、罪が我々を重苦しくしたり我々の心を引き裂こうとする時だけに限らない。神は、我々が陥る他のあらゆる苦難困難の時にも、我々の傍から離れるつもりはないと言われるのである。神は、飢饉の時も、戦争の時も、絶体絶命の時も、その他我々が直面するであろうありとあらゆる過酷な試練においても、我々を見捨てることはないと言われるのである。

罪が人間を天の御国と正反対の方向に沈めようとする力は、人間が背負う重荷の中で最も重いものである。もし神の御子イエス・キリストが聖霊の働きをもって助けて下さらなければ、誰もこの重荷から解放されることはない。聖霊は、イエス様が父なるみ神にお願いして私たちに送っていただいた方である。聖霊が我々に働く時、我々の心は喜びに溢れ、罪が我々の心を引き裂こうとした事柄はどうでもよいこととなり、また、神が我々にしなさいと言われることをしっかり行わなくてはという気持ちにしてくれるのである。」

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように       アーメン

 

2014年6月8日 聖霊降臨祭の聖書日課 ヨハネ7章37-39節、ヨエル3章1-5節、使徒言行録2章1-21節

説教「天の御国からこの世への働きかけ」神学博士 吉村博明 宣教師、ルカによる福音書24章44-53節

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1.十字架の死から復活したイエス様が40日間、弟子たちをはじめとする大勢の人たちの前に姿を現した後で、天の父なるみ神のもとに上げられた。これがイエス様の昇天と言われる出来事です。私たちが用いる新共同訳の使徒言行録では、イエス様は弟子たちが見ている前で、みるみると天高く上げられて、しまいには上空の雲に覆われて見えなくなってしまったというふうに理解できます(1章9節)。ところがギリシャ語の原文をよくみると、雲はイエス様を上空で覆ったのではなく、彼を下から支えるようにして運び去ったという表現です(υπολαμβανω)。つまり、イエス様が上げられ始めた時、雲かそれとも雲と表現される現象がイエス様を下から支えるようにして一緒に上がっていった。地面にいる者から見れば、下から見上げるのですから、見えるのは雲の底だけで、その上にいる筈のイエス様は見えません「彼らの目から見えなくなった」とはこのことを指します。各国の訳も今申し上げたことに沿っています。フィンランド語では、雲がイエス様を運び去って弟子たちの視野から消えた、という訳です。スウェーデン語の訳は、雲がイエス様を取ったので視野から消えた、です。ルター版のドイツ語訳も、雲がイエス様を拾い上げるように弟子たちの目の前から運び去った、という表現です。英語訳のNIVを見ると、イエス様は弟子たちの目の前で上げられて、雲が隠してしまった、という訳です。雲が隠したのは天に舞い上がった後とは言っていないので、上げられ始めた段階で雲が出現したのでしょう。新共同訳では、「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられた」と言うので、イエス様はまず、スーパーマンのように空高く天に上がって、それから雲に覆い隠された、という訳です。しかし、原文には「天に」という言葉はありません。それを付け加えてしまったので、天に到達した後に雲が出てくるような理解が生まれてしまいます。正確な訳とは言えません。

さて、前置きが長くなってしまいましたが、イエス様を下から支えるように運び去ったのが通常の雲であるにせよ、雲と表現されるような現象であったにせよ、昇天とは真に奇想天外な出来事です。ただ、大方のキリスト信仰者だったら、ああ、そのような普通では考えられないことが起こったんだな、とすんなり受け入れられることでしょう。しかし、信仰者でない人はきっと、馬鹿馬鹿しい、こんなのを本当だと信じるのはハリーポッターか何かの映画に出てくるようなSFX特殊視覚効果技術による撮影を現実のものと信じるのと同じだ、と一笑に付すでしょう。もっとも、最近のキリスト教徒も、同じように考える人が多いかもしれません。

天に上げられたイエス様は今、天のみ国の父なるみ神の右に座している、と普通のキリスト教会の礼拝で信仰告白の時に唱えられますが、それじゃ、どうやってそんな天空の国の存在が確認できるのか、と問われるでしょう。地球を取り巻く大気圏は、地表から11キロメートルまでが対流圏と呼ばれ、雲が存在するのはこの範囲です。その上に行くと、成層圏、中間圏、熱圏、外気圏となって、それから先は大気圏外、すなわち宇宙空間となります。世界最初の人工衛星スプートニクが1957年に打ち上げられて以後、無数の人工衛星や人間衛星やスペースシャトルが打ち上げられましたが、今までのところ、天空に聖書で言われているような国は見つかっていません。もっとロケット技術を発達させて、宇宙ステーションを随所に常駐させて、くまなく観測すれば、天の御国とか天国は見つかるのでしょうか?それとも見つからないと結論づけられるのでしょうか?

ここで立ち止まって考えなければならないことがあります。それは、これまで述べてきたロケット技術とか、成層圏とか大気圏とか、そういうものは、信仰とは全く別の世界の話であるということです。成層圏とか大気圏というようなものは、人間の目や耳や鼻や口や手足などを使って確認できたり、また長さを測ったり、重さを量ったり、計算したりして確認できるものです。科学技術とは、そのように明確明瞭に確認や計測できることを土台にして築かれるものです。今、私たちが地球や宇宙について知っている事柄は、こうした確認・計測できるものの蓄積です。しかし、科学上の発見が絶えず生まれることからわかるように、蓄積はいつも発展途上で、その意味で人類はまだ森羅万象のことを全て確認し終えていません。果たして確認し終えることなどできるでしょうか?

信仰とは、こうした目や耳や鼻や口や手足で確認できたり計測できたりする事柄を超える事柄に関係しています。私たちが目や耳などで確認できる周りの世界は、私たちにとって現実の世界です。しかし、私たちが確認できることには限りがあります。その意味で、私たちの現実の世界も実は森羅万象の全てではなくて、この現実の世界の裏側には、目や耳などで確認も計測もできない、もう一つの世界が存在すると考えることができます。信仰は、そっちの世界に関わりを持っています。天の御国も、この確認や計測ができる現実の世界ではない、もう一つの世界のものと言ってよいでしょう。今、天の御国はこの現実世界の裏側にあると申しましたが、聖書によれば、天のみ神がこの確認や計測ができる世界を造り上げたのですから、造り主のいる方が表側でこちらが裏側と言ってもいいのかもしれません。

他方で、目や耳などで確認でき計測できるこの現実の世界こそが森羅万象の全てで、それ以外に世界などない、と考える人たちもいます。そのような人たちにとって、天と地と人間を造られた創造主などは存在しません。従って、自然界・人間界の物事に創造主の意思が働くなどということも全く考えられません。自然も人間も、無数の化学反応や物理的現象の連鎖が積み重なって生じて出て来たもので、死ねば腐敗して分解し消散して跡かたもなくなってしまうだけです。確認や計測できないものは存在しないという立場なので、魂とか霊もなく、死ねば本当に消滅だけです。もちろん、このような唯物的・無神論的な立場を取る人も、亡くなった人が思い出として心や頭に残るということは認めるでしょう。しかし、それは亡くなった人が何らかの形で存在しているのではなく、単に思い出す人の心の有り様だと言うでしょう。

信仰に生きる者にとっては、人間を含めてこの現実の世界にあるもの全て、現実の世界そのものは全て創造主に造られものになります。それで、自然界や人間界に起きることには、神の意思が働いていると考えます。もし起きた出来事が大災害のように大きな不幸をもたらす場合、神の意思は人間の思いと理解をあまりにも超えすぎてとてもついて行けない、ということが起こります。しかし、このような場合でも、人間の命と人生というのは、本当はこの現実の世界と神のいる天の御国の二つにまたがっていて、この二つを一緒にしたものが自分の命と人生の全体なのだと思い返す時、神に対する反発や疑いは静まり始めます。さらに、人間の命と人生から天の御国が欠け落ちてしまわないために、また、人間が今の現実の世界の人生と天の御国の人生を一緒にした一つの大きな人生を形作れるようになるために、まさにそのために父なるみ神は御子イエス様を私たちに送って下さったのだ、このことを思い返す時、神を愛し慕う心も戻ってきます。

 イエス様の昇天の出来事とは、まさに、人間がこの現実の世界の人生と天の御国の人生を一緒にした一つの大きな人生を持てるようにするという、神の意思が働いている出来事なのです。以下、このことを見てまいりましょう。

 

2.イエス様が天に上げられなければならなかったのは、一つの理由として、死から復活したイエス様は復活の体を持っており、それは神の栄光を体現する神聖な体でもあるので、存在するには、この罪深い世よりも、神のいる天の御国のほうが相応しいと言えます。復活の体の神聖さについては、復活祭の礼拝の説教でもお教えしたことですので、ここでは振り返らずに先に進みましょう。

 ここで少し脱線しますが、神のいる天の御国が存在するのに相応しい場所だったら、なぜ復活後すぐ天に上げられず、40日間も留まっていたのか、と疑問を抱かれるかもしれません。この短い期間の地上の滞在には重要な意味があります。まず、この期間にイエス様は弟子たちに、十字架の死と復活の出来事をもって旧約聖書の預言が実現したということ、旧約聖書はそもそも自分について予告する書物であることを明らかにしました。本日の福音書の箇所であるルカ24章45節「イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて」、これをギリシャ語原文に密着して理解すると、「イエス様は、弟子たちが旧約聖書をこのように理解できるようにと、彼らの理解力を曇らせていたものを取り除いた」という意味です。イエス様の十字架の死と復活がなかったならば、誰も旧約聖書の意味も目的もわからなかったでしょう。それが、死も復活も両方行った方が、まさに身をもって、旧約聖書の意味と目的を明らかにしたのです。

イエス様が地上に留まることは、また、大勢の人たちに復活というものがあるということをわからせる意味がありました。「コリントの信徒への第一の手紙」の中で使徒パウロは、どれくらいの人たちが復活した主を目撃したかを記しています。直近の弟子たちの次には、500人以上の人たちの前に現れた、そのうちの大部分は今なお生き残っている、と述べています(15章6節)。つまり、目撃者の多くはまだ生き残っているのだから、疑う者は彼らのところに行って直に聞くがよい、ということであります。もし、復活したイエス様が即、天に上げられてしまっていたら、弟子たちは旧約聖書の意味も目的もわからないままで、復活はあると言ってもなかなか信じられなかったでしょう。

 こうして、弟子たちに旧約聖書の意味と目的を理解させ、大勢の人に復活があることをわからせた後で、イエス様は復活した者に相応しい場所である天のみ神のもとへ上げられました。イエス様の昇天から10日して、今度は彼が送ると約束されていた聖霊が天から地上に送られることになります。これが聖霊降臨と呼ばれるもので、次主日は世界中のキリスト教会でこのことがお祝いされます。

さて、イエス様が天に上げられた理由を考える時、一つにはそれが復活の体を持つ者にとって相応しい場所だからだと申し上げました。それだけではありません。イエス様が天に上げられることで、人間の歴史は新しい局面を迎えることとなったのです。イエス様の昇天とは、実は、人間の歴史にとって一つの大きな分水嶺なのです。どういうことかと言うと、天に上げられる前の人間の歴史とは大体次のようなものでした。堕罪の時に壊れてしまっていた神と人間の結びつきを神が回復しようとして、相応しい時が来るまで歴史を進めさせ、その都度その都度、自分の意思と計画を人間に知らしめた。この知らしめたことが旧約聖書になりました。やがて相応しい時が来た時、神はひとり子をこの世に送って、彼を用いて神と人間の結びつきを回復させる可能性を打ち立てた。それは、人間と神の結びつきを壊していた原因であった人間の罪を全部イエス様に請け負わせて、罪の罰を全部彼に受けさせて、彼を十字架の上で死なせて、彼の身代わりの死に免じて人間を赦すことにしたということです。神から罪の赦しを受けた人間は神との結びつきを回復することとなります。神との結びつきを回復した人間は、天の御国に至る道に置かれてその道を歩むようになり、順境の時も逆境の時も絶えず神から良い導きと守りを得られて、万が一この世から死ぬことになっても、その時は神の御手によって引き上げられて、神のもとに永遠に戻れるようになります。このように、神は、イエス様を用いて人間の救いを準備完了にしたのであります。あとは人間の方がそれを受け取ればよい、という状態にしたのであります。この状態をもたらしたところまでが、イエス様の昇天までの人間の歴史でした。

イエス様の昇天後は、今度はこの神の準備した救いを人間が実際に受け取っていく時代となりました。ここでは、イエス様はこの現実の世界から天の御国に移られてしまったのですが、かわりに天の御国から聖霊が送られて、これ聖霊を洗礼を通して注がれた者たちが重要な役割を担うようになりました。彼らの働きを通して、多くの人たちがイエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受けて、神の準備した救いを受け取っていくこととなったのです。救いを受け取った者たちが、今度は他の人たちが救いを受け取ることができるように働いていくことになりますが、この時、無理解や反対にも多く遭遇します。ひどい時には迫害も起こります。しかし、多くのキリスト信仰者たちは、この現実の世界の人生と天の御国の人生を一緒にした大きな人生を歩んでいることを思い出して、迫害の最中にあっても、また現実の世界の最後の瞬間にも神への感謝と賛美を絶やさなかったのであります。

この信仰者の働きの時代は、イエス様が再び来ると約束された再臨の日まで続きます。イザヤ書65章17節や66章22節(60章19~20節も)それに黙示録21章1節に、神は終わりの日に今ある天と地に変わって新しい天と地を造られると預言されています。これは、今のこの現実の世界が崩れ去って、天の御国が目に見える形で現れる日です。その時にイエス様が再臨されるのです。

3.そういうわけで、イエス様の昇天から再臨までの間の時代を生きる私たちは、信仰者の働きの時代を生きているのです。その時代の始まりの部分は、新約聖書の使徒言行録によく描かれています。実に私たちは、使徒言行録の続編の時代を生きているのです。無理解や反対や迫害に遭遇しても、イエス様を救い主と信じて大きな命と人生を獲得する人たちは増えていきました。しかし、信仰者の群れが躍進しようが停滞ないしは沈滞しようが、無理解、反対、迫害は決してなくなることがありません。どうして、イエス様の福音に対して無理解、反対、迫害が生じてくるのでしょうか?

それは、この現実の世界の中には、どうしても、人間がこの現実の世界の命と人生しか持てないようにしてやろうという力が堕罪の時から働いているのです。大きな人生など持てないようにしてやろう、とか、人間が自分の真の造り主に目と心を向けられないようにしてやろう、とか、そのようにして人間が自分の造り主である神と結びつきが持てないようにしてやろうとか、そういう力が働いているからなのです。この力は、堕罪の時からずっと今もこれからも、イエス様の再臨の日に完全に滅ぼされるまでは働き続けるのです。しかし、この現実の世界の人生と天の御国の人生を一緒にした大きな人生を歩んでいる者にとっては、絶えず天のみ神からの助けと良い導きを得られるので、心配は無用です。悪い力は、神との結びつきを壊そうとして私たちの人生を引っ掻き回そうとするでしょうが、引っ掻き回せるのはせいぜいこの現実の世界の人生だけです。イエス様を救い主と信じる限り、大きな人生そのものには何の影響も害もありません。

 最後に、キリスト信仰者の人生には悪魔の引っ掻き回しはつきものであるが、信仰者はその引っ掻き回しを受けても大丈夫なくらい強い守りの中にいるということを、ルターが教えていますので、それを引用して本説教の締めとしたく思います。それは、マタイ11章27節のイエス様の言葉「私の父は全てのものを私の手に委ねた」のルターの解き明しです。

 「『全てのもの』とは文字通りに全てのものである。全てのものが、我々の主イエス・キリストの手に委ねられているのである。すなわち、天使も悪魔も罪も義も死も命も侮辱も栄誉も全部、主の手に引き渡されているのである。何ものも、このことの例外になりえないのである。本当に全てのものが主の下に従属させられているのである。

 このことからも、キリストの御国に繋がっていることがどんなに安全なことかがわかるであろう。彼を通してのみ、我々に真の知識と真の光が与えられる。もし、キリストが全てのものを手中に収め、また父なるみ神と同じ全知全能な方であるならば、彼自身述べているように(ヨハネ10章28~29節)、いかなる者が来ても、彼の手から何一つ取り上げることは出来ないのである。確かに悪魔は、機会を見つけては、キリスト信仰者をありとあらゆる悪に手を染めさせようとするだろう。結婚を壊して不倫を犯させようとしたり、盗みを働かせようとしたり、人を傷つけようとしたり、妬むことや憎むことに心を燃やさせようとしたり、その他考えうるあらゆる罪を犯させようと悪魔は仕向けてくるであろう。しかし、悪魔の攻撃に遭遇しても、キリスト信仰者はたじろぐ理由も必要もない。なぜなら、我々には、悪魔をも足蹴にしている最強の王がついていて下さるからだ。その方こそ我々を真にお守り下さる方なのだ。

もちろん、悪魔の攻撃は君をとことん苦しめ追い詰めるかもしれず、それは考えただけでも身の毛がよだつ恐ろしいことだ。だからこそ、君は祈らなければならないのだ。君が堂々と勇敢に悪魔に対抗できるようになれるためには、信仰の兄弟姉妹たちも君のために祈らなければならないのだ。どんなことがあっても神が君を見捨てることはない。これは揺るがないことである。キリストは、必ず君を苦境から救って下さる。そうである以上、君の方から簡単に神の御国を離脱するようなことはあってはならないのだ。」

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように     アーメン

 

 2014年6月1日 昇天主日の聖書日課 ルカ24章44-53節、使徒言行録1章1~11節、エフェソ1章15-23節

説教「キリスト信仰者の希望」、神学博士 吉村博明 宣教師、第一ペトロ3章8-17節、ヨハネによる福音書14章15-21節

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1.本日の使徒書である「ペトロの第一の手紙」3章15節に、「心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい」とありました。「あなたがたの抱いている希望」というのは、ギリシャ語の原文に忠実にみると「あなたがたの間に存在している希望」で、要はキリスト信仰者がひとつの同じ希望に与っているという意味です。「あなた方が共有している希望」と言ってもよいでしょう。キリスト信仰者たるものはそうした共有する希望を他の人たちに説明できなければならない、もし誤解されたり疑問を抱かれたりしたら弁明できなければならない、と使徒ペトロは勧めます。私たちは、キリスト信仰者の共有する希望を他の人たちに説明したり弁明したりすることができるでしょうか?そもそもキリスト信仰者の希望とは何なのでしょうか?本日は、このキリスト信仰者の希望について、本日の日課の箇所に基づいて明らかにしたいと思います。希望とは、一般的には、こうなったらいいな、とか、こうなってほしいとか、何か願ったり望んだりする事柄です。似ている言葉に「期待」があります。しかし、「希望」は「期待」より、ずっと深くて広い事柄です。期待していたことが叶うと、「期待通りになった」と言います。叶わなければ、「期待外れだった」です。希望についても、「希望通りになった」とは言いますが、「希望外れだった」とはあまり聞きません。希望していた事柄がその通りにならなかったり、そうならないことがもう火を見るよりも明らかになると、希望が失われ、「絶望」になります。この場合、事態は「期待外れ」よりも重大かつ深刻です。そのような時、「生きる希望を失った」という言葉さえ口にしたりします。例えば、大切な人、愛する人に先立たれた時の気持ちは、この言葉の通りだと多くの人が感じるでしょう。大切なものを失ったという喪失感が大きいと、生きる意味自体がなくなってしまった感じがするのです。しかし、喪失感をあくまで感情の問題と捉えて、周りの人がしっかり支援すれば、感情は大きくなったり小さくなったりするものですから、支援を通して感情を落ち着かせることは可能です。これが出来れば、たとえ喪失の事実は消えなくとも、生きる新しい意味を見いだすことも可能です。

キリスト教では、葬儀や墓地で行う礼拝で、「復活の日における再会の希望」を強調します。どういう希望かというと、人間は死ぬと外見は肉体が滅びて朽ち果てた状態になるが、人間の造り主である神のみぞ知る場所に安置されて安らかに眠る。そして、復活の日が来ると目覚めさせられて、朽ちない復活の体を与えられて永遠に生き始める。そこで懐かしい人たちと再会する。そういう希望です。キリスト信仰では、この「復活の日における再会の希望」が喪失感の感情を肥大化させない抑止力になっていると言えます。ただし、キリスト信仰者といえども、喪失感に陥っている人に対して、いきなりこの希望を説くことは禁物です。まず、その人の喪失感をしっかり受け止めてあげなければいけません。そうでないと、いくら希望を説かれても空虚な言葉にしか聞こえなくなってしまうでしょう。また逆に、感情を無理やり押し殺すようなことをすると、問題の先送りのようなことになって後でいろいろな弊害が出てくる危険があります。過酷な現実のために信仰が揺らいでしまった時、それを再び確固とした基盤にのせられるためには、それなりの時間と多くの祈りが必要なのです。

いずれにしても、キリスト信仰者の希望は、「死からの復活」ということに結びついています。「ペトロの第一の手紙」のはじめをみると、「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え」て下さったと記されています(1章3節)。「生き生きとした希望」というのは、ギリシャ語の原文に忠実にみると、「生きている希望」です。つまり、「死なない希望」とか「潰えることのない希望」とか「朽ち果てない希望」ということです。そのような希望が、イエス様の死からの復活を通して私たちに与えられたと言うのであります。

このようにキリスト信仰者は、「死からの復活」に結びついた、潰えることのない希望を持っている。そのような希望を持つと一体どうなるかということが、「ペトロの第一の手紙」の本日の箇所に明確に述べられています。その部分を今一度引用します。

「もし、善いことに熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。心の中でキリストを主とあがめなさあい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです。神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい」(3章13~17節)。

ここで言われていることは、善いことを一生懸命しても、ほめられたり評価されるどころが、逆に自分たちがキリスト信仰者であるということのために、危害を加えられることがある。一生懸命善いことをしても、平穏無事な生活をもたらすことに全く役に立たないことがある。しかし、キリスト信仰者にとって、善いことはするのは、自分の何かの役に立つとか立たないとかいうことに全く関係がない。なぜなら、善いことをするのは、自分が救い主と信じてやまないイエス様の意思だからである。それで、自分が善いことをするのは、周りの人たちが自分にどんな態度を示すかということと全く関係がないのである。本日のペトロの教えの初めにはこうありました。「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい」(9節)。使徒パウロも同じように、「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい」(ローマ12章17節)と勧めます。善を行うことが、自分に害を及ぼす者に対してもそうだと言うのは、納得しがたいものがあるかもしれません。しかし、どんな状況に置かれても、心が神のみに向けられていれば、神の意思と自分に及ぼされる害の二つの天秤皿は、すぐ神の意思の皿がストンと落ち、自分に及ぼされる害の皿はふわっと上昇します。それ位、キリスト信仰者にとっては、神の意思は重く、自分に及ぼされる害は軽いのです。

そこで、自分に害を及ぼす者が、おかしいなあ、これだけ害を及ぼしても、平気で善いことを続けられるのは一体どうしてなのだろう、普通だったら動揺して善いことをするどころではなくなるのに、と不思議がり始める。キリスト信仰者は感覚がずれているのか鈍感なのか?それとも、及ぼされる害を痛くも痒くもないように感じさせる、何か大きなものを心に持っているのだろうか?そうだとしたら、それは一体何なのだ?もしそのように聞いてきたら、信仰者はただ、信仰者が共通して持っている希望について、「穏やかに、敬意をもって、正しい良心で」弁明しなければならない。つまり、害を及ぼす者に対して、害が自分を委縮させたとか恨み憎しみを抱かせとか、自分の心を引っ掻き回すことは全くなかった、それ位、自分の心は神に向けられていたことを示す。「正しい良心」というのは、自分はただ神の意思に沿おうとしているだけで他に動機はないので神に対してなんのやましいところはない、という心の平安です。これがあると、害を及ぼす者が騒ぎ立てても、心は平安のまま保たれます。

周囲の者がどんな態度で来ようとも、自分の心は神の意思に向けられているので、周囲の者の態度と無関係に善を行うことができる、それがキリスト信仰者の心意気だ、とペトロは教えるわけです。害を及ぼされるのは残念で嫌なことだが、まあ、それはそれとして、神は、そんなことにいちいち注意を逸らされていてはいけない、お前はただ私の命ずることに聞き従っていればよいのだ、すなわち、全ての人に善を行いなさい、と命じられる。このような神の意思にキリスト信仰者の心がしっかり向けられているのは、信仰者が「死からの復活」に結びついた、潰えることのない希望を持っているからに他なりません。以下、その希望をもう少し具体的に見ていくことにします。そのためには、本日の福音書の箇所が役立ちます。

 

2.本日の福音書の箇所の初めは、「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟をまもる」というイエス様の言葉です。「掟をまもる」という動詞は、ギリシャ語の原文では、「わたしを愛しているのならば、わたしの掟を守らねばならない」という命令文にもなるし、または、「わたしを愛しているのであれば、私の掟を守ることになる」という未来の意味にもなります(ギリシャ語の未来形)。いずれにしても、私たちがイエス様の掟を守るということは、彼を愛することの当然の帰結として出てくるということです。掟を守るというと、なにか強制されているような感じがします。果たして私たちは、強制を強いる者を愛することができるでしょうか?しかし、ここで言われていることは、掟を守れ、そして掟を与えた者を愛せ、ということではありません。そうではなくて、イエス様を愛するならば掟を守るのが当然になるということです。ルターはまさにこの箇所について、「いかにしたらそのようなイエス様を愛する愛が持てるようになれるか」と問い、次のように答えます。それは、「人間の心は惨めなものなので、何か外部から来る素晴らしいものを味わうことがなければ、人間は愛することなどできない」というものです。それでは、外部からくる素晴らしいものとは何なのでしょうか?

 それを知るために、キリスト信仰者は、どうしてイエス様を自分の救い主として信じるようになったかを振り返る必要があります。

 イエス様が私たちの救い主となったのは、言うまでもなく、彼のおかげで、私たちが天と地と人間の造り主である神と結びつきを回復できて、この結びつきを持ってこの世を生きることができるようになったためです。神との結びつきをもってこの世の人生を歩むことになると、順境の時にも逆境の時にも絶えず神から良い導きと助けを得られるようになり、万が一この世から死ぬことになっても、その時は自分の造り主のもとに永遠に迎え入れられるようになります。

イエス様はどのようにして私たちが神との結びつきを持てるようにして下さったかと言うと、それは、その結びつきを持てなくなるようにしていた原因であった、人間に内在する罪と神への不従順を無力化したのです。罪や不従順が無力化されたというのは、それらが力を持っていたからですが、どんな力を持っていたかと言うと、人間が神と結びつきを持てないようにする力、この世の人生の歩みでは神との結びつきがない状態にとどめて、この世から死んだ後も自分の造り主のもとに戻れなくするような力です。

それでは、罪と不従順のそうした力が、どのように無力化されたかと言うと、神はイエス様に人間の全ての罪を請け負わせて、本来人間が受けるべき罪の罰を全部イエス様に受けさせて十字架の上で死なせられたのです。そこで神は、イエス様の犠牲の死に免じて人間を赦すこととしました。人間は、このことが真に自分のために行われたのだとわかって、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けると、この神の罪の赦しがその通りになります。神から罪の赦しを受けるということは、神との結びつきができたということになります。こうしたことが、神のひとり子の犠牲の死によって実現したのです。

そればかりではありません。神は一度死んだイエス様を復活させることで、今度は永遠の命、復活の命に至る扉を人間に開かれたのです。こうして神との結びつきを持つことになった者は、永遠の命に至る道に置かれることにもなり、今の世の命と次の世の命を両方合わせた一つの大きな命を生き始めることになるのです。私たちがこのような新しい命を生きられるようになったのは、自分のひとり子を犠牲にしてまでも人間を救おうと決心された神の愛と、その神の決心を受け入れて実行されたイエス様の愛があったからでした。

このような神とイエス様の愛を知った時、人間の心はどう変わっていくかということについて、ルターが次のように明らかにします。「こうして、イエス様をこの世に送り、彼を用いて罪の赦しによる人間の救いを実現した神は、我々にとって愛すべき父親となった。御子を犠牲に供しなければならなかったのは、我々が罪の支配から抜け出すことができないでいる弱さのためであった。しかし神は、弱さの塊にしかすぎない我々を受け入れて下さり、死に至る病から癒して下さった。この父なるみ神に対して今度は、我々の方が心の底から愛を注ぐようになるのは当然のことである。加えて、このような神の愛を受けた以上は、我々もまた、神が我々にして下さったのと同じように隣人に対しても振る舞うようになるのは当然なことである。このようにして、我々は神と御子の意思とその掟を守るのが当然という心意気になっていくのである。そうなると我々はもはや、他に仕える神々などを持たなくなる。こうして、十戒の第一の掟は当然のこととなる。また、神の御名にのみ祈りを捧げ、神の御名のみを賛美するようになり、こうして第二の掟も当然になる。さらに、我々は、神が自ら決定し実行することを認め受け入れようという心になっていく。神よ、あなたが善かれと思われることを成し遂げ給え。それに対して我々は騒ぎ立てず異議も唱えず、ただ、あなたに信頼して静かにしています。だから安息日はしっかり守ろう。これで第三の掟も当然のこととなる。十戒の残りの掟についても同様である。全ての人に対して、気遣いとへりくだりの心を持って接しよう。父母を敬おう。隣人を愛し仕えよう。なぜなら、神が私にして下さったように、私も隣人にするのが当然という心意気になっていくからだ。」

 このように、神がイエス様を用いて私たちのために成し遂げて下さったことが、本当に素晴らしいことだとわかれば、私たちは神を全身全霊で愛することが当然であると思うようになり、その神がそうしなさいと言われる隣人愛、隣人を自分を愛するが如く愛せよ、ということもそうするのが当然となるのです。神の愛と恵みのなんたるやを知った時、私たちの心に神への愛、隣人への愛が点火されるのです。人間が正しく愛することができるためには、全てに先だって神の人間に対する愛があることを知ることが大切なのです。このことは、「ヨハネによる第一の手紙」の中で強調されています。

「神は、ひとり子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです」(4章9~12節)。

 

3.以上みてきたように、キリスト信仰者は、天の父なるみ神と御子イエス様の取り計らいによって、神との結びつきが回復できて、今は永遠の命に至る道に置かれてそこを歩んでいます。この新しい命を生きられるようにして下さったみ神とイエス様への感謝と賛美が、信仰者をして神への愛と隣人愛に駆り立てていくことも明らかになりました。敵対する者に害を及ぼされても、心はしっかりと神の意思に向けられています。使徒パウロは、「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます」(第二コリント4章17節)と述べましたが、これは神の約束です。今この世で艱難を受けても、それは次の世で永遠の栄光をもたらす。だから、キリスト信仰者にとって艱難とは永遠の栄光をもたらす貴重な材料のようなものでさえあるのです。復活の日に、朽ち果て腐る今の肉体にかわって、神の栄光を体現する復活の体を与えられて永遠に生きるようになる。これがキリスト信仰者の希望の中心にあるのです。このような希望があるから、周囲の者がどんな態度を取って来ようとも、自分の心は神の意思に向けられているので、周囲の者の態度と無関係に善を行うことができるのであります。

 周囲の者の態度と無関係に善が行えるというのは、ペトロやパウロが勧めるような何か害を及ぼされた時だけに限りません。例えば、そんなことやって一文の得にもならないじゃないか、とか、あんな人にはそこまでしてあげなくてもいいんじゃないの、とか、ちょっとお人好しすぎるんじゃないの、とか言われてしまう位に公平無私を貫く時もそうです。しかしながら、キリスト信仰の場合は、それが倫理的道徳的に立派だから頑張ってやる、ということではありません。キリスト信仰者が最初に注目することは、何が倫理的道徳的に立派なことかということではありません。そうではなくて、ああ、私は自分の造り主である神とちゃんと結びつきがあるのだろうか?ああ、イエス様の十字架と復活のおかげでちゃんと結びついているのだ。よかった、安心した。これが、キリスト信仰者が最初に注目する事柄です。この安心感のゆえに、キリスト信仰者は、その他のことで自分が損をしたとか、悪口を言われたとかいうようなことはそんなに重要なことではなくなり、結果として公平無私の状態になっていくのです。立派な倫理道徳実践者とは、目のつけどころが違うのです。キリスト信仰者は、今のこの世の段階で永遠の命に至る道を歩んでいる、とか、この朽ち果てる体が神の栄光を体現する体に変えられるとか、そういうことばかり言っているので、目のつけどころが違うと言うよりは、視点がずれていると笑われてしまうかもしれません。でも、まさにここのところが、キリスト信仰者が公平無私になっていく時の鍵なのです。

日本人なら誰でも知っている宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」は、公平無私の思想の結晶として日本人の心を強く惹きつけてきました。しかし、その詩の終わりで「そういう者に私はなりたい」と言っているように、公平無私を希求する心がその思想の根底にあります。キリスト信仰の場合は、そういう希求とは無縁なところから始まります。それは、自分と造り主である神との関係は大丈夫だろうか、というある意味で自己中心的なところから始まります。しかし、それが結果として、自分でも気づかないうちに公平無私の大海に向かって流れていくのです。それはまた、可憐な花が、自分は可憐かどうか全然気にすることもなく、自分が可憐だと全く気づかないでそのように咲いているようなものです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように       アーメン


復活後第五主日の聖書日課 使徒言行録17章22-34節、第一ペトロ3章8-17節、ヨハネによる福音書14章15-21節 

説教「主イエスは心を落ち着かせる道」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書14章1~14節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.本日の福音書の箇所は、イエス様が十字架刑に処せられる前夜、弟子たちと最後の晩餐を共にした時のイエス様の教えです。初めにイエス様は、「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしを信じなさい」と命じられます。「心を騒がせるな」とは、この時、弟子たちが大きな不安を抱き始めたために、イエス様が述べられた言葉です。それがどんな不安であったか、少し考えてみましょう。

例えば、私たちは、言葉の通じない外国で単身で生活しなければならなくなったとしたら、いろいろ心配になり不安を抱くでしょう。ただ、冒険やかけ離れたことが好きな人だったら、むしろ心配になるどころかウキウキしてしまうかもしれません。いずれにしても、新しい土地で何かをしようという目的心があるならば、不安や心配を超える希望を持っているので、不安や心配はあってもそれらに心が圧倒されることはありません。それでは、別に外国に行かなくても、長く住み続けた場所にいて、何かの原因で周囲の人たちが自分のことをよく思っておらず敬遠している環境の中にいるとします。その中である人だけは自分のことを分け隔てなく付きあってくれて、困ったことがあればいつも相談に乗ってくれたり手助けをしてくれるので、その場所に住むことは平気だった。ところがある日、その人は遠くに引っ越さなければならなくなってしまった。さあ、頼りにしていた人がいなくなってしまった今、自分はこの場所で一人でやっていけるだろうか。この場合は、不安や心配を上回る希望自体がなくなってしまうので、それらに心が圧倒されてしまい、心が騒ぐことになるでしょう。

本日の福音書の箇所でイエス様が「心を騒がせるな」と言った時の弟子たちの状況は、今申し上げたことに似ています。弟子たちにとって、イエス様は頼れる最高の人でした。イエス様は、無数の不治の病の人を癒し、多くの人から悪霊を追い出し、嵐のような自然の猛威も静め、またわずかな食糧で大勢の人の空腹を満たしたりするなど、無数の奇跡の業を行いました。同時に、天と地と人間を造られた神の意思について人々に正しく教え、それまで神の意思を代弁していると自負していた宗教エリートたちの誤りをことごとく論破しました。弟子たちも群衆も、この方こそ、ユダヤ民族を他民族の支配から解放してかつてのダビデの王国を再興する本当のユダヤの王と信じていました。そして民族の首都エルサレムに乗り込んできたのです。人々は、いよいよ民族解放と神の栄光の顕現の日が近づいたと期待に胸を膨らませました。ところが、イエス様は突然、弟子たちに対して、自分はお前たちのところを去っていく、自分が行くところにお前たちは来ることができない、などと言い始めます(ヨハネ13章33、36節)。これには弟子たちも驚きます。イエス様が王座につけば、自分たちは直近の弟子ですから何がしかの高い位につけると思っていたのに、主は突然、自分は誰もついて来ることができない所に行く、などと言われる。それではダビデの王国はどうなってしまうのか?イエス様がいなくなってしまったら、取り残された自分たちはどうなってしまうのか?ただでさえ、イエス様は支配者やエリート層の反感を買っているのに、力ある彼がいなくなってしまったら、取り残された自分たちは迫害されてしまうではないか?こうして弟子たちは、希望が失われ、不安と心配で心が圧倒された状態に陥ったのでした。心が騒ぎ出したのでした。そこで、イエス様は「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしを信じなさい」と命じたのです。この世で敵に囲まれるように取り残された弟子たちが、心を騒がせないで済む希望について、イエス様は教えていきます。それを以下に見てまいりましょう。

 

2.イエス様は、天の父なるみ神のもとに行って、そこで弟子たちのために場所を用意し、その後また戻ってきて、弟子たちを自分のところに迎える、と言われます。「あなたがたをわたしのもとに迎える」というのは、ギリシャ語の原文では、イエス様が弟子たちを御自分と父なるみ神のいるところに、それこそ手で引っ張るようにして(引き上げ)連れて行く(παραλημψομαι)、という意味です。このイエス様の言葉には、十字架と復活の出来事から始まってこの世の終わりの日に至るまでの人類の歴史の期間が凝縮されています。

まず、イエス様が十字架に掛けられて死んだことによって、罪の力、つまり人間と神との結びつきを破壊する力が消えました。どのようにして消えたかと言うと、人間が本来神から受けるべき罪の罰を、イエス様が代わりに受けました。そこで今度は、人間の方が、イエス様は本当に自分の身代わりになって死なれたのだとわかって、彼を自分の救い主と信じて洗礼を受けると、神は、それならばイエスの犠牲の死に免じてお前を赦そう、と言って、その人の罪を赦す。そのようにして、堕罪以来失われていた神と人間の結びつきが回復するのです。もちろんキリスト信仰者になっても、人間はまだ肉をまとって生き続けますから、罪の思いは持ち続けてしまいます。しかし、今の自分の人生は神のひとり子イエス様の犠牲の上に成り立っている、それに相応しい生き方をしなければ、と絶えず言い聞かせていけば、神はイエス様の犠牲に免じて絶えず罪を赦して下さり、またその人に絶えず良い導きと助けを与えてくれるのです。

イエス様の十字架での犠牲の死に加えて、父なるみ神はイエス様を死から蘇らせました。これによって、死を超える永遠の命、復活の命に至る扉が人間に開かれました。こうしてイエス様を救い主と信じて、神から日々罪の赦しを得て人生の道を歩む者には、罪はもはやその人を神から引き離す力を失っており、その人が永遠の命、復活の命に至る道を歩むことを邪魔できないのです。このように、ひとり子イエス様を用いて私たちを罪の支配下から解放して下さり、永遠の命、復活の命に至る道に置いて下さった父なるみ神は永遠にほめたたえられますように。

さて、イエス様がまた戻ってくるというのは、今は父なるみ神の右に座しているイエス様がこの世の終わりの日に再臨することを意味しています。この時、大々的な死者の復活が起こり、最初の弟子たちをはじめイエス様の群れに繋がる者たちが父なるみ神のもとに引き上げられることになります。

これらのことを言われた後でイエス様は、「わたしがこれから行こうとしている所に至る道をお前たちは知っているのだ(新共同訳では「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」)と言われます(4節)。つまり、イエス様が行こうとしている場所とそこに至る道の両方を、弟子たちは知っていて当然という口調です。それに対してトマスが当惑した様子で言います。あなたがどこへ行くのかわからない以上、そこに至る道というのもわからないのです、つまり、両方わからないのです、と。これに対してイエス様は次の有名な言葉を述べられます。

「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(6節)。これで、イエス様がこれから行こうとしている場所は、天の父なるみ神のいるところである、すなわち天と地と人間を造られ、人間一人一人に命と人生を与えられた創造主のいるところであることが明らかになりました。そして、イエス様自身がその父なるみ神のもとに至る道であると言うのです。その道を通らなければ、だれもそのもとに行くことはできないという位、イエス様は創造主のもとに至る唯一の道なのです。唯一の道ということは、ギリシャ語の原文でもはっきりしていて、道、真理、命という言葉に定冠詞がついています(η οδος, η αληθεια, η ζωη 英語やドイツ語の訳も同様で、the way, the truth, the life、der Weg, die Wahrheit, das Lebenと言っています)。定冠詞がつくと、イエス様は道の決定版、真理の決定版、命の決定版という意味を持ちます。いくつかある道の中の一つということでなく、この道を通らないと創造主のもとに行けないという唯一の道なのであります。

こういうことを言うと、現代の宗教界の中では煙たがれるでしょう。ああ、キリスト教はやっぱり独り勝ちでいたがる独りよがりな宗教だな、と。最近よく聞かれる考え方にこういうのがあります。つまり、人間がこの世の人生を終えた後、天国でも極楽浄土でもなんでもいい、何か至福の状態があるとすれば、そこに至る道はいろいろあっていいのだ、それぞれの宗教がそれぞれの道を持っているが、到達点はみな同じなのだ、という考え方です。キリスト教界の中にもそのように考える人がいます。しかしながら、神の言葉とされる聖書に主イエス様の言葉としてある以上は、煙たがれようがなんだろうが、やはり御言葉を水で薄めるようなことはしないで、そのままの濃度で保つべきではないかと思います。それに、同じ到達点と言っているものは本当に同じなのかどうか考えてみなければならないと思います。つまり、諸宗教が目指す至福というものは果たしてみんな同じものなのかどうか。キリスト教で至福とは、天と地と人間を造られて人間に命と人生を与えられた創造主との結びつきがそのひとり子の働きのおかげで回復して、それで人間は造り主のもとに戻れるようになったこと、これが至福ということになります。他の宗教でも同じなのでしょうか?

 イエス様は道以外にも、自分は真理の決定版、命の決定版であると言われます。真理の決定版というのは、次のようなことです。人間と造り主との結びつきが失われた原因は罪にある。造り主の神としてはただ、人間のために結びつきを回復したい。そのためには罪を無力にしなければならない。こうした人間の惨めな有様とそのような人間に対する神の愛は打ち消せない真理としてある。それゆえに、この神の愛の実現のためにこの世に送られたイエス様は、真理そのものなのです。

命の決定版ということについて。イエス様が、「命」とか「生きる」ということを言われる場合、いつもそれは、今のこの世の人生だけでなく、次の来るべき世の人生と一緒にあわせた、とても長い時間枠の「命」、「生きる」を意味します。死から復活させられたイエス様は、まさにそのような長い「命」を「生きる」方です。加えて、彼を救い主と信じる者たちに、同じ長い「命」を「生き」られるようにされます。それで、イエス様は命の決定版なのです。

 

3.7節でイエス様は、「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる」と言われます。イエス様を知ることは、父なるみ神も知ることになる。イエス様を見ることは、父なるみ神を見ることと同じである。それくらい、御子と父は一緒の存在であるということが、7節から11節まで強調されます。そう言われてもフィリポにはピンときませんでした。イエス様を目で見ても、やはり父なるみ神をこの目で見ない限り、神を見たことにはならない、と彼は考えました。つまり、イエス様と父なるみ神は一緒の存在であるということがまだ信じられないのです。これは、十字架と復活の出来事が起きる前は無理もなかったかもしれません。十字架と復活の後になって、弟子たちは、イエス様は真に天の父なるみ神から送られた神のひとり子であることがわかりました。さらに、イエス様は父の人間に対する愛のために自分を犠牲にするのも厭わずに父の計画を忠実に実行したということもわかりました。それくらい、御子は父に従順だったのであり、彼が教え行ったことは全て、父が教え行ったことであり、彼が自分から好き勝手に教えたり行ったのではないということもわかったのであります。

12節でイエス様は、「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである」と言われます。これは、ちょっとわかりにくい言葉です。というのは、イエス様を信じる者がイエス様が行った業よりももっと大きな業を行うとは、一体どんな業なのか、まさかイエス様が多くの不治の病の人を完治した以上のことをするのか?自然の猛威を静める以上のことをするのか?しかも、信じる者が大きな業を行うことが、イエス様の父なるみ神のもとへ行くこととどう関係があるのか、すぐ見えないからです。

弟子たちがイエス様の行う業を行うという時、まっさきに考えなければならないことは次のことです。つまり、イエス様は、人間が神との結びつきを回復して永遠の命に至る道に乗せてあげられる可能性を開きました。これに対して、弟子たちは、この福音を人々に宣べ伝えて洗礼を授けることで、人々がこの可能性を自分のものとすることができるようにしました。イエス様は可能性を開き、弟子たちはそれを現実化していきました。しかし、双方とも、人間が神との結びつきを回復して永遠の命に至る道に乗せてあげられるようにするという点では同じ業を行っているのです。

さらに、弟子たちの場合は、イエス様が活動したユダヤ・ガリラヤの地方をはるかに遠く離れたところにまで出向いて行ったおかげで、救われた者の群れはどんどん大きくなっていきました。この意味で、弟子たちはイエス様の業よりも大きな業を行うことになると言えるのです。また、この弟子たちによる福音伝道と救いの群れを拡大する宣教活動は、イエス様が天に上げられた後で本格化しました。どういうことかと言うと、イエス様は父なるみ神のもとに戻ったら、今度は神の霊である聖霊を地上に送ると約束されていました(ヨハネ14~16章)。聖霊は、福音が宣べ伝えられる場所ならどこでも、人々が人間の惨めな有様やそれに対する神の愛をわかるように働きかけます。このように、イエス様が天の父なるみ神のもとに戻って、聖霊が送られたからこそ、救われた者の群れがどんどん大きくなっていったのです。

イエス様は13節と14節で、わたしの名によって願うことは何でもかなえてあげよう、と言われます。これを読んで、自分は金持ちになりたい、有名になりたい、とイエス様の名によって願ったら、その通りになると信じる能天気な人はまずいないでしょう。イエス様の名によって願う以上は、願うことの内容は父なるみ神の意思に沿うものでなければならない、あまりにも利己的な願いは聞き入れられないばかりか神の怒りを招いてしまう、とわかるからです。神との結びつきが回復して永遠の命に至る道を歩む者が願うことと言えば、いろいろあるかもしれませんが、結局のところは、この結びつきがしっかり保たれて道の歩みがしっかりできますように、ということに行きつくのではないかと思います。同時に、まだ結びつきが回復しておらず永遠の命の道への歩みも始まっていない隣人のために、結びつきの回復と道の歩みが始まりますように、という願いも切実なものになると思います。イエス様がその通りにしてあげよう、と約束された以上は、たとえ何年、何十年かかっても、それを信じて願い続け祈り続けなければなりません。キリスト信仰者の重要な任務です。

 

4.以上、本日の福音書の箇所を駆け足で見てきました。最初に述べた問題に戻ってみましょう。それは、イエス様が天の父なるみ神のもとに戻ってしまったら、弟子たちはこの世で敵に囲まれるように取り残されてしまうことになるが、それでも彼らが心を騒がせないで済む希望を持つことができるとイエス様は教えられました。それはどんな希望だったでしょうか?まず、イエス様を救い主と信じる信仰によって、自分は父なるみ神との結びつきが回復し、永遠の命に至る道に置かれて今その道を歩んでいるという救いの確信があるということです。その道が間違いのない正しい道であることは、それがイエス様自身が切り開かれた道だからでした。そして、自分がこの道を歩めるために、また他人が歩めるようになるために、願い祈ることはなんでも主は聞き入れてかなえて下さると約束されたことも、大きな希望を与えるものです。

最後に、御子と父が一緒の存在だとわかると、我々の心は平安になり、全てのことは神の御心のままに起こってよいという心意気になるものだ、とルターが教えていますので、それを引用して本説教の締めとしたく思います。

「主イエスは、自分を知れば自分をこの世に遣わした父も知ることができると言われた。どうしてそのようなことが可能なのだろうか?それは、こういうことである。君は、自分の命を投げ打ってまで君に仕えたイエス様が神そのものであると知った時、イエス様は実は父が与えた任務を果たしたにすぎないということがわかる。その時、君の魂は、任務を果たされた御子を通して、それを与えた父へと高められる。こうして君の心は父に対する信頼で溢れて、父を愛するようになる。

父なるみ神をこのように知ることができれば、君は、全てのことは神の御心のままに起こってよい、と言って、神の決定権を受け入れられるようになる。なぜなら父なるみ神は、君にとって全てになっているからだ。この時、君の心は、神の住む場所として全てのことを静かに受け入れられる、へりくだったものに変わる。まさに、主イエスが、父と共に自分を愛する者のところに行って、父と一緒にそこに住むと言われたことが実現するのである。

我々は、神の栄光、力そして知恵をしっかり知りうる地点に到達しなければならない。その地点に立つ時、我々は、我々に関する全てのことを神が決定するのを受け入れられるようになる。また、全てのことには神の意図と影響力が働いているということもわかる。その時、我々はもはや何ものに対しても恐れを抱かなくなる。寒さや空腹、地獄、死、悪魔、貧乏その他これらに類するものは恐れる必要がなくなる。なぜなら、我々の内に住む神は、悪魔、死そして地獄に存在する力の総量よりも勝っているからである。このようにして、我々の内で、この世的なことの全てに反対する勇気が成長していくのである。我々には神がおられ、また神の栄光と力と知恵も我々に与えられている。それだからこそ、あとは、我々は何をも恐れずに、我々に課せられた義務をしっかり遂行するだけなのである。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように     アーメン

 

 主日礼拝説教 2014年5月18日 復活後第四主日の聖書日課 使徒言行録17章1~15節、第一ペトロ2章4~10節、ヨハネ14章1~14節

説教「主イエスは良い羊飼い。我らを守り導き給う。」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書10章1-16節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1.本日の福音書の箇所でイエス様はたとえを話されます。イエス様は自分のことを、命を賭けて羊を守る良い羊飼いである、とか、また羊が盗まれたり危害を加えられないように見張る門であるともおっしゃります。ああ、イエス様はそういう良いお方なんだな、と理解できるのでありますが、それでは、羊とは誰のことを指しているのか?羊飼いとしてまた門としてイエス様は、誰を守られると言っているのか?そして、羊を盗んだり危害を加えようとする盗人、強盗とは何を指しているのか?狼が来たら、イエス様は、命を捨ててまで羊を守ると言われますが、その狼とは何を意味するのか?そして、羊が守られている囲いとかそこにある門とは、また羊飼いが羊を連れて行く牧草とは何を意味するのか?こう言ったことまでわからないと、イエス様のたとえの意味は理解できたことにはなりません。

 イエス様はこのたとえを、彼に敵対するファリサイ派の人たちに話しました。自分がどのような方で、何のためにこの世に送られてきたかを教えるためでした。しかし、ファリサイ派の人たちはたとえの意味を理解できませんでした(6節)。私たちとしては、本日の説教を通して、当時のユダヤ教社会の宗教エリートであったファリサイ派の人たちよりも賢くなってお家に帰るようにしましょう。

 

2.イエス様はまず、1節から5節まで、ごく一般的なこと、常識的なことを話します。

「羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊を連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」

羊の飼育が大事な産業になっているところでは、塀のような囲いをつくって、羊を牧草地に連れて行かない時はそこに入れていました。塀は木材で造られるものばかりかと思っていましたら、石で造られるものもあったようです。泥棒が「乗り越える」(ギリシャ語で「上る」)というのだから、決して垣根のような低いものではなく、それなりの高さがあったと言えます。イエス様の話し方から判断すると、囲いの中には、一人のだけでなく複数の所有者の羊が一緒に入れられていたようです。羊を所有する羊飼いが、さあ、これから自分の羊を牧草地に連れて行こうとするか、とやってきて、門番に間違いなく所有者であると本人確認をしてもらって門を開けてもらい、自分の所有する羊を呼び集める。生まれた時から同じ羊飼いに飼われている羊は、自分を牧草地に連れて行ってくれる羊飼いを声で聞き分けられたのでしょう。他の羊飼いが近づいて来て連れ出そうとすれば、すぐわかって引き下がったのでしょう。こうして、羊飼いはどれが自分の羊かわかり、羊も誰が自分の羊飼いかわかって、一緒になって牧草地を目指して、囲いの外に出て行きます。囲いの門についてですが、門番が開け閉めをすることから、扉付きの門と言った方が正確でしょう。

以上の話は、当時の社会の人が聞いたら、ごく身近なあたりまえな出来事の描写でした。イエス様がこの話をした時というのは、ある安息日の日に盲目の人の目を開く奇跡を行った後でした。人々の間で、イエス様のことを、こうした奇跡が行えるのは神から送られた者だからだとか、あるいは逆に安息日についての律法を破ったのだから神の意思に逆らう者であるとか、賛否両論の議論が沸き起こりました。当時のユダヤ教社会の宗教エリートであるファリサイ派の人たちは、イエス様が天の父なるみ神から送られた方であることを、どうしても信じようとしない。それで、イエス様は、彼らの心の目は盲目であると指摘したのでした(9章39~41節)。これの続きとしてイエス様は、本日の羊飼いと囲いの話をされたのです。

その内容は、先ほど申し上げましたように、当時の人なら誰にでも頭に思い浮かぶ身近な光景でした。ただ、イエス様はこの話を単なる写実的な話をするためでなく、別の目的をもって話したのです。それは、自分がどんな方で何のためにこの世に送られてきたかを明らかにするためのたとえとして、この話をしたのです。従って、この話を聞いて、そう、確かに羊は扉付きの囲いの中で守られるし、自分の羊飼いを間違えないでついて行って牧草地に連れて行ってもらうものだ、その通りだ、と納得してしまっては、この話をたとえとして理解したことにはなりません。この話から、イエス様本人のことやその使命についてわからなければ、理解したことにはならないのです。このたとえを理解できるためには、そのなかにある二つのことに注目する必要があります。まず、羊が無事に生活できるためには、しっかりした門ないし扉がついた囲いが必要であること、そして、羊が無事に牧草地に到着できるためには、良い羊飼いが必要であること、この二つです。誰もが日常的に当たり前のことだとわかることを引き合いに出して、イエス様がどんな方でどんな使命を託されて送られてきたかということを、同じように身近で当たり前のこととして理解させようとする狙いがたとえにはあるのです。

 

3.たとえを話した後で、イエス様はまず、自分は羊の囲いの門ないし扉である、と解き明しをします。9節「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。」日常身近なことに即して見れば、確かに、門や扉を通って囲いの中に入る羊は危険から免れます。そして囲いを基地として今度は羊飼いに導かれて出て行けば牧草地にたどり着けます。しかし、ここの霊的な意味は絶大です。ギリシャ語に即してみると、こうなります。「わたしを通って中に入る者は救われることになる。中に入り、そして外へ出て牧草地を見いだすことになる。」イエス様という門・扉を通って中に入った者というのは、将来救われることが確約された者です。「中に入る」とは、救いが確約された者たちの群れの中に連なることを意味します。そしてその守られた群れの中に連なって、今度は、イエス様を羊飼いのように先頭にしてこの世の荒波の中に乗り出して行くことになります。「外へ出る」というのは、救いの群れから出ていってしまうということではなく、救いの群れ自体がこの世の荒波の中に乗り出して行くことを意味します。そして、この群れは、最後には緑豊かな牧草地にたとえられる神の国に迎え入れられます。荒涼とした渇いた荒地を長く歩いた羊にとって牧草地は別天地であり、安息の場です。それと同じように、この世の荒波を生きぬいた者たちにも神の国という安息の地が約束されているのです。

ここで、イエス様が自分のことを羊飼いと言わず、門ないし扉であると言われるのは、どうしてでしょうか?それは、救いが確約された者たちの群れの中に加わるためには自分という門・扉を通らなければならないと強調しているからです。イエス様という門・扉を通るということは、どういうことでしょうか?それは、天の父なるみ神が計画しかつ実行した人間救済ということに関係があります。

天の父なるみ神は、人間の中に神に対する不従順と罪が入り込んでしまって、人間との結びつきが失われてしまった堕罪の出来事をとても悲しみました。なんとか、人間が自分の造り主である神との結びつきを取り戻して、その神から絶えず助けと導きを得てこの世の人生を歩めるようにしてあげよう、万が一この世から死んだ時は、永遠に自分のもとに戻れるようにしてあげよう、と計画しそれを実行しました。ひとり子のイエス様をこの世に送ったのは、まさにそのためでした。人間と神との結びつきを壊している原因である罪の破壊力を無力にしなければならない。そのために神がやったことは、全ての人間の罪を全部イエス様に請け負わせて、罪から生じる罰も全て彼に十字架の上で受けさせて死なせたということでした。そのようにして、イエス様の身代わりの死に免じて人間の罪を赦すことにしたのです。人間は、イエス様の十字架の死と死からの復活が自分のために起きたのだとわかって、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、この罪の赦しはその人にその通りになります。このようにして罪の赦しを受けた人は、神との結びつきを回復することになるのです。そのような人は、人間を永遠の死に陥れる罪の呪いが一掃されています。

以上から明らかなように、私たちが自分たちの造り主である神との結びつきを回復して、その結びつきの中でこの世の人生を歩むことができるためには、さらに次の世で造り主のもとに戻ることができるようになるためには、まさにイエス様を自分の救い主と信じるかどうかにかかっています。ヨハネ14章6節でイエス様自らが次のように述べています。

「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」

ギリシャ語の原文では、「道」、「真理」、「命」それぞれの単語に定冠詞がついていますので、イエス様は天の父なるみ神のもとに到達できる道、真理、命の決定版ということになります。それは、数多くある道、真理、命の一つではなく、まさにこれこそ、という決定版なのであります。そういうわけで、救いが確約された者たちの群れの中に加われるためには、イエス様は真に通らなければならない門ないし扉なのであります。「わたしよりも前に来た者は皆、盗人であり、強盗である」(8節)というのは、イエス様が十字架の死と死からの復活をもって永遠の救いを打ち立てる以前は、天の父なるみ神のもとに戻ることができる救いは存在しなかったということであります。誰かが、自分こそが人間を造り主のもとに導けるなどと言っても、それは真理でも真実でもなく、人間を別のところへ導く誤った道でしかなかったのであります。

 ここで、羊を盗んだり危害を加えたりする盗人とか強盗について考えてみましょう。今見たように、人間を救いの群れから連れ出して、父なるみ神ではなくどこか別のところに引っ張って行こうとする者たちです。そして引っ張って行った先で屠ってしまい、滅ぼしてしまう。「滅ぼしてしまう」(απολεση)というのは、せっかく神との結びつきを持てて生きられるようになったのに、それが全て失われてしまうことを意味します。何が、救いの群れの中にいる者をこのような滅びに陥れるのでしょうか?この世には、神との結びつきを壊そうとするもので満ち満ちています。私たちはイエス様の十字架のおかげで神から罪の赦しを日々与えられているのに、そうした罪の赦しを薄めたり弱めたりするものがいろいろあります。

もし人が、自分の造り主である神を全身全霊で愛せないとか、隣人を自分を愛するが如く愛せないとか、そういう神の意思になかなか忠実になれない自分の真実の姿に気づいて悲しむうちはまだ霊的に健康な証拠です。しかし、この世は、そんなことはいちいち悲しんだりこだわったりしなくてもいいんだよ、とか、神はそんな厳しいことは言っていないよ、とか、君の言っている神はちょっと違うんじゃないか、というような惑わしと誘惑の声で満ちています。惑わしと誘惑に乗ってしまえば、もう罪は気づかないものになってしまいます。罪に気がつかなければ、赦しの必要性も感じられなくなってしまいます。赦しの必要性が感じられなくなれば、イエス様の十字架と復活は自分とは関係のない出来事になってしまい、そこでイエス様は自分の救い主ではなくなります。まさにこの時、神との結びつきは失われてしまうのです。

盗人、盗賊とは、このような惑わしと誘惑の声と態度をもって近づいてくるもの全てを意味します。私たちは、そのような声に耳を傾けるべきではなく、イエス様の声に耳を傾けるべきです。イエス様の声とは、まず聖書の中に記されているイエス様の教えがあります。それから直接イエス様によって世に遣わされた使徒たちの教えもイエス様の声の延長です。さらに加えて、イエス様をこの世に送られた父なるみ神の意思が記されている律法や預言であります。すなわち、イエス様の声は、全聖書のなかに聞きとることができるのです。

 

3.次に、イエス様が自分のことを「良い羊飼い」と言ったことについて見てみましょう。良い羊飼いと雇い人とが対比されます。雇い人は、羊の所有者に代わって羊の番をする者ですが、狼が現れるなど危険が生じると羊をおいてさっさと逃げてしまう。ところが、良い羊飼いはそのような場合でも逃げはせず、羊を守るためだったら、自分の命さえも惜しまないというのであります。実際、イエス様は人間が罪の支配から解放されるために、人間の全ての罪を請け負い、それから生じる全ての罰を受けて自分を犠牲にされました。イエス様は、十字架に掛けられる前の晩、この犠牲の死を引き受けることができるかどうか自問自答して苦しみますが、それが自分をこの世に遣わした父なるみ神の御心である以上、それに従って引き受けますと言ったのであります。

ここで狼が何を象徴しているか見てみましょう。盗人、強盗の場合は、人間を救いの群れから連れ去って、神との結びつきを失わせて滅びに陥れるものでした。狼の場合は、羊を盗んだり連れ去ることが直接の目的ではなく、羊やその群れを即破壊することを目的とします。その意味で狼は、罪の支配力、罪の呪いそのものを象徴しています。

次に雇い人ですが、これは本当の羊飼いではない偽りの羊飼いです。本当の羊飼い、良い羊飼いのイエス様は自分の命と引き換えに人間が神との結びつきを回復できるようにしました。御自分の流した血を代価として、人間を罪の奴隷状態から解放された状態に買い戻した、贖い出したのであります。偽りの羊飼いである雇い人には、同じことはできません。偽りの羊飼いについて、ユダヤ民族の歴史には既に具体例がありました。エゼキエル書34章をみると、神は、自分の民を羊の群れ、その民の指導者を牧者にたとえて、牧者が羊の群れを養わずに自分自身を養っているだけの無責任を非難します。そして、無能な牧者が羊の群れを飼うことをやめさせて、神の意向に沿った真の牧者を起こすと約束します(エゼキエル34章10、23節)。イエス様がこの世に送られたというのは、この預言の実現でもあったのです。

終わりに、イエス様が「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない」と言われていることを見てみます。「この囲いに入っている」羊と「入っていないほかの羊」がいて、イエス様は両方の羊のグループを荒地の向こうにある緑豊かな牧草地に導いてい、霊的な表現で言い換えれば、イエス様は双方を、この世の荒波の海路の向こうにある永遠の安息地、神の御国に導いていく、ということになります。それでは、この囲いに入っている羊と入っていないほかの羊とは何を指すのでしょうか?

この囲いに入っている羊と言うのは、端的に言えば、ユダヤ人の中でイエス様を約束の救世主メシアと信じた者たち、ユダヤ人キリスト教徒です。ペトロもヨハネも他の12弟子もイエス様の母マリアも、それからパウロも皆、ユダヤ人キリスト教徒です。囲いに入っていないほかの羊とは、ユダヤ人以外の諸民族でイエス様を自分の救い主と信じた人たち、異邦人キリスト教徒です。初めはローマ帝国内の諸民族、やがてヨーロッパやアフリカやアジアの諸民族に広がっていったキリスト教徒です。イエス様は、この二つのグループを一つの群れとして、神の御国に導くと言われるのです。

意外なことに思えるかもしれませんが、聖書のなかで人間界を二分しているもっとも主要な境界線は、キリスト教徒か非キリスト教徒かではありません。そうではなくて、ユダヤ教徒かまたは「その他大勢」のいずれかなのであります。この「その他大勢」が俗にいう異邦人と呼ばれるものです。そのなかには、日本人だけでなく、ヨーロッパ人も、アメリカ人も、アフリカ人も、中国人も韓国人もみんな全部一緒くたに含まれます。「エフェソの信徒への手紙」2章で使徒パウロが教えるように、キリストは十字架での贖いの業をもって二つのグループを一つの体として神と和解させたのであります。最後に、エフェソ2章18

22節を引用して、本説教の締めとしたく思います。キリスト信仰者がイエス様という良い羊飼いに従って歩むということを考える時、この箇所は大事な視点を教えてくれます。というのは、キリスト信仰者は、ややもすると、今の世と次の世にまたがる自分の人生行路というのは一人で歩く孤独な歩みのように感じてしまいますが、それは本当は、とてつもない無数の見えない横の繋がりをもっているということ、それゆえこれはまさしく見えない大きな羊の群れなのだ、ということ教えてくれます。

「このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように      アーメン

 

主日礼拝説教 2014年5月11日 復活後第三主日の聖書日課 使徒言行録6章1~10節、第一ペトロ2章19~25節、ヨハネによる福音書10章1-16節

説教「見ないで信ずる者になりなさい」木村長政 名誉牧師、ヨハネによる福音書20章24節~29節

今日の御言葉は、復活後のイエス様とトマスの話です。

24節を見ますとトマスは、12弟子の一人でデイデイモと呼ばれるトマスとあります。12弟子の中で、そう目立ったこともしていないトマスですが、今日の場面で登場します。 よみがえられたイエス様が、弟子たちが集まっているところに現れた。 19節~23節のところでヨハネはそう記しています。 その時トマスだけがいなかった、というのです。 トマスは復活の日、なぜ弟子たちと一緒にいなかったのでしょうか。

ウィリアム・バークレーという聖書学者が、トマスのことについて次のように言っています。 トマスは決して勇気のない人ではなかったが、トマスは生まれつき悲観的な人間であった。トマスがイエス様を愛していたことは、なんの疑いもない。他の弟子たちがしりごみして恐れていたのに、彼だけはエルサレムへ行って、先生と一緒に死のうと考えていた。彼はそれほど先生であるイエス様を愛していた。 そして、トマスが予期していたことが起こった。つまり、イエス様が十字架の処刑によって死なれた。トマスはショックを受けました。 あれ程、おどろくべき奇跡を起こすことのできるイエス様が、死んでしまわれるなんて!。 トマスの傷心ぶりはひどかった。傷心のあまり人々と会う気になれない。トマスはただ一人悲嘆にくれることを願った。 だから、他の弟子たちとは一緒にいなかった、ということでしょう。

そこで、他の弟子たちが「わたしたちは、主を見た」というと、トマスは言った。「あの方の手に釘のあとを見、その指を釘跡に入れてみなければ、又、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」 ここでトマスが言っている、「わたしは決して信じない」という言葉が印象的です。このトマスの言葉に対して、この物語の最後にイエス様がトマスに向かって、「見ないで信じる者になりなさい!」と言っておられる。

復活された日、弟子たちの間では、主が墓からよみがえられた、という話で大さわぎでした。そうして、その一週間後、更に弟子たちが集まって、まわりの戸を全部しめている中に、よみがえった姿のイエス様が現れたのでした。 トマスは、マリヤたちが知らせた墓が空であったことも聞いたけれども、確信がもてなかった。他のすべての弟子たちが、「よみがえりの主が現れた。この目で私たちは見た。」ということを話されても、話だけではどうしても、トマスは確信できなかったのです。私たちも恐らくそうでしょう。

こうして、弟子たちの間に「イエス様はよみがえられた」と信じる者たちと、信じられない者が浮き彫りにされます。

ここには、トマスを浮き彫りにして、復活の主が彼に何をなさったのか、著者ヨハネはこのことを記すことによって、「ナザレのイエスは、十字架で死んで、よみがえられた」という復活の信仰が、いかに確かなものであったかを、完全に明らかにしたのであります。弟子たちにとって、愛する主の復活を疑うことなど、不可能なことであったのです。 ただ、トマスだけは弟子たちから離れていたので、復活の主の御姿を見ていないのです。イエス様は、トマスの心を知っておられるのです。 イエス様はトマスのため、もう一度、弟子たちの中に現れるという、特別のことが起こっていきます。

26節で、「さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。」

20世紀最大の神学者といわれる、カール・バルトが1937年の復活後主日に、ベルンの聖霊教会で、ここと同じ聖書について説教しています。その一部だけ、バルトは次のように表現しているのです。 使徒として選ばれた、全く特定の人間が集まっている、その人々の真ん中にイエスは入られたのである。更にこの箇所では、二度までも「戸は閉ざされていたが」、イエスはその真ん中に入られた、と記してある。 したがってイエスは、一人の人間が他の人間のところに来るような仕方で、彼らのところに来られたわけではない。 彼は、神が人間のところに来るような仕方で、彼らのところに来たのである。 しかしながらイエスは、神の全能、偉大、尊厳において、時間空間を超える、主として、あらゆる被造物の生命とは違った新しい生命と存在において、彼らのところに現れたのである。 私たちはふつう、この箇所を読む時、イエス様のよみがえり体は肉体をもった体ではなく、壁と戸を突き抜けてスーっと現れた、とイメージします。 ところがバルトは、深い意味を含めて、難しい表現であらわしています。

次にイエス様は、彼らの真ん中に立ち「あなた方に平和がるように」と言われた。この一行の言葉を、バルトは次のように説明しています。 「あなた方に平和があるように」という美しい挨拶は、当時のユダヤ人の日常のきまった挨拶の言葉であって、いわばイエス様が弟子たちに、私たちが互いに「今日は」というのと少しも変わらない。このような挨拶をされたのは、この人間の集いの中に、神のからだを持った存在があることのしるし、現実を望まれたのである。 それは、弟子たちの心や頭にある人間の思想ではなく、又彼らの出会った空想、幻想、妄想の存在でもないことを表している。彼らは幻を持ったのでも、幽霊を見たのでもない。一人の人間、彼らのよく知っているナザレのイエス、という人間がはいって来たのである。バルトのするどい、奥深い言葉です。

さて、イエス様はトマスに向かって、大事なことを語っておられます。 トマスがあんなに、実際に、よみがえられたイエス様の体を見ただけでは済まない、自分の指でさわってみなければ信じないと言った、同じトマスの言葉を、イエス様は言われます。 「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。又、あなたの手を伸ばし、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

21世紀に生きている私たちは、よみがえりの姿のイエス様を見ることはできません。そかし、トマスに言われた「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」という言葉は、私たちにも言われていることでしょう。

イエス様が死からよみがえって、現にあらわれたという神からの啓示は、この世の人々にとっては、ふさわしいものではなかった。 特にユダヤ教の最高幹部の人々にとっては、たしかに十字架の死によって葬ったのに、イエス様が復活したとなれば、もう大変なことである。今日もなお、この戦いはあっているでしょう。 しかし、イエスを信じる者にとっては、主がよみがえって、あらわれたことが、どんなに喜びであったことか。又ふさわしいことであったことか。 これまで、トマスの心は動転していた。信仰へ導かれるか、不信仰に導かれるか、彼の魂はゆり動かされていた。 イエス様はこれらの弟子を、いつまでも疑いと不信仰の中に残しておられなかった。そうして、イエス様の親しみのこもった言葉、又、厳しい処罰の言葉をもって、「信じない者にではなく、信じる者になりなさい」。 トマスは答えて言います。「わたしの主よ、わたしの神よ」。

トマスは今、すべての弟子たちの心の中に、明るい確かな信頼として立っている。今、弟子たちは、よみがえられたイエスにおいて、永遠の命を目のあたりに見て、新しい段階に立っているのです。 新たな、よみがえりの栄光の光りに満たされて、新しい力を与えられて、「私の主よ、私の神よ」と答えているのです。 復活の主イエスは、彼らに言われた「あなたは、私を見たので信じたのか。見ないで信じる者は、幸いである」。 単なるすすめではない。それこそ、力ある言葉であります。 これは、イエス様の御姿を見ることからくる信仰ではなく、私たちがイエス様を見ないのに、イエス様と私たちとを結ぶところの、信仰であります。その信仰は、私たちに復活の主を宣べ伝える、御言葉から来るものです。更にその御言葉は、私たちをイエスのもとに導いてくれる、御霊によって起こされるものであります。

この聖霊の導きによって、私たちは今日教会において、復活の主であるイエス・キリストを礼拝し、祈り、讃美するのであります。そこに、生ける復活のイエス様と出会えるのであります。 どうか望みの神が、信仰からくる、あらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みにあふれさせて下さるように。アーメン。

 復活後第二主日  2014年5月4(日)