説教「福音は心を軽くするそよ風」神学博士 吉村博明 宣教師、マルコによる福音7章1~15節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

1.
先週末にフィンランドから戻ってきました。宣教師の留守中、スオミ教会の主日礼拝が教会の皆様のご奉仕に支えられて木村先生と田中先生のもとで猛暑の中でも無事に守られたことは大きな感謝です。

この夏のフィンランド滞在で今年特に印象に残った体験があります。それは、風が今年は何故かとても心地よく感じられたことでした。この夏のフィンランドは7月までは日本と全く逆の冷夏で20度以下の日が続きました。8月に入ってやっと20度を超える暖かさになり、ちょうどその頃、妻の実家に滞在しました。

実家は酪農業で、家の裏に牛が150頭位入る牛舎と大型トラクターが何台も入る大きな車庫があります。その後ろは広大な牧草地がなだらかな起伏をもって広がり、その周囲を森が延々と取り巻いています。牧草地わきに延びる小道を毎日散歩したりジョギングしたりしました。その時、いつも気持ちの良い風が吹いて来て、立ち止まってはそれを味わったのです。暖かいというのでもなく冷たいというほどでもなく、本当に丁度良い気温で、しかもほどほどの強さで、吹かれていると何か心に重く残っていたことや嫌なことを吹き消してくれるような感じがしました。それなので、風向きが変わるとこちらもそれに合わせて向きを変えて正面から受けるようにしました。誰かが見たら、何を風見鶏みたいなことをしているんだと思われたかもしれませんが、それほど気持ちがよかったのです。森の木々の間を吹き抜けて牧草の上をなでるようにして吹いてきた風に、本当に体中が清涼感に満たされるような感じがしました。東京に戻ったらこんな気持ちのいいことは味わえないだろうと思うと残念でしたが、意外にも先週は朝夕は20度位で、窓を開けると涼しい風が入って来て、もちろん森の木々ではなく家々の間を通り抜ける風でしたが、それでもとても心地よかったです。

フィンランドの田舎の道

聖書を読まれる方はご存知のことと思いますが、旧約聖書のヘブライ語と新約聖書のギリシャ語では「風」を意味する単語(רוח、πνευμα)は「霊」も意味します。ヨハネ福音書3章でイエス様は、「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」(8節)と言われます。これはどういう意味かと言うと、以下のようなことです。洗礼を受けて神の霊つまり聖霊を注がれて、その導きに身も心も委ねる者は新しく生まれた者である。その人の内面の変化は周囲の目には見えないが、外面の変化はその人が神の御心に従って生きようと志向するのが周囲にもわかるようになる。それはちょうど風の働きと同じで、空気が移動するのは誰の目にも見えないが、木の枝や葉がざわつくと風が吹いたことがわかるのと同じことである。

ここで注意しなければならないのは、北欧の心地良いそよ風を浴びて心が軽くなったというのは、これは霊的なことと何も関係はありません。そよ風が心を軽くしてくれたから、風に何か霊的な力が働いたなどと思ってはいけません。そんなことを考えたら、天と地と人間を造られた神に背を向けることになります。人を惑わす宗教の始まりです。

心配事や悩み事というのは心を重くするものですが、そうしたものは肉体にもストレスを与えます。ストレスを軽減できると、心も軽くなった感じがします。ストレスを減らせる方法として、適度な運動とか十分な休息とかいろいろありますが、自然の中でそよ風に当たるのも効果があると思います。

しかしながら、自然の風は心配事や悩み事そのものを吹き消してはくれません。心が軽くなった感じにはさせますが、本当に軽くはしません。心配事や悩み事を吹き消し、心を本当に軽くするのは、イエス・キリストの福音とそれを基盤とする聖書の神の御言葉だけです。こう言うと、じゃ聖書を読んだら悩みも憂いも消えうせるのか、と言われてしまいそうですが、消えてなくなるというのは単純すぎるでしょう。そうではなくて、福音や神の御言葉に接すると、心配事や悩み事に取り組む力が与えられる。あるいは、それらを今まで眺めていたのと違った角度から見られるようになって取り組みやすくなる、ということです。その意味では、それまで自分を押し潰すだけだった心配事や悩み事は消え去ると言ってもよいでしょう。

自然のそよ風で心が軽くなった感じが与えらえるとすれば、福音や神の御言葉は心を軽くする霊的なそよ風です。礼拝で説教をする者は、会衆の方々が聖書から吹いてくるこの霊的なそよ風を受けられるように、窓を開けて風通しを良くするような役割を持っていると言うことが出来ると思います。これからも、このことを心に留めて説教を行っていきたいと思います。

2.
前置きが長くなりましたが、本日の福音書の箇所をみていきましょう。本日の箇所もわかりそうでわかりにくい内容です。ファリサイ派の人たちと律法学者のグループとイエス様のやりとりです。James Tissot The Pharisees Question Jesusファリサイ派とは、当時のユダヤ教社会にあった一大信仰運動で、旧約聖書に収められているモーセ律法だけでなく、そこに収められていない、口頭で伝承された教えをも遵守すべきだと唱道した派です。本日の箇所で、「昔の人の言い伝え」(3、5節)、「人間の言い伝え」(8節)、「受け継いだ言い伝え」(13節)と「言い伝え」(ギリシャ語παραδοσις)という言葉が何度も出て来ますが、これは、聖書に書き記された掟に対する「父祖伝来の言い伝えられた教え」のことです。その内容は、本日の箇所からも窺えるように、清めに関する規定が多くありました。食事の前に手を洗うこと、広場から帰ったら身を清めてから食事をすること、いろいろな食器類や寝台を洗うことなどが挙げられています。どうして清めにこだわるかと言うと、自分たちが住んでいる場所は神が約束した神聖な土地なので、自分たちも神聖さを保たなければならないという考えです。

ファリサイ派の人たちと一緒に律法学者もいたとあります。律法学者とは、文字通り聖書に書き記された律法の専門家で、律法の内容や解釈を人々に教え、またユダヤ教社会の訴訟や裁判で影響力を持っていました。律法学者たちの中でファリサイ派に同調する人は多かったようです。

そのファリサイ派の人たちと律法学者が、弟子たちのことでイエス様を批判しました。それは、手を洗わないで食事をしたことでした。それが、「言い伝えの教え」に反すると言うのです。手はきれいに洗って食べた方が衛生に良いので、ファリサイ派の言っていることは理に適っているように見えます。ところが、ここで問題になっているのは衛生管理ではないのです。「汚れた手」(2,5節)の「汚れた」とは、ギリシャ語ではコイノス(κοινοσ)と言います。それは「一般的な」とか「全てに共通する」という意味です。つまり神聖な神の民と不浄の異教徒・異邦人を分け隔てしなくなってしまうという意味で「一般的」、「全てに共通する」ので、それで「汚れた」という意味になるのです。衛生管理の問題ではなく、宗教的、霊的な汚れを言っているのです。

私たちの新共同訳の聖書では「念入りに手を洗ってから(3節)とありますが、この訳だととことん汚れを落とす洗い方を連想させます。ところが、原語のギリシャ語では「拳で」(πυγμη)という意味の単語で、それは手を握った状態で洗うのか、それとも拳ほどの少量の水で洗うのか解釈がわかれます。他の国ではどう訳されているかというと、ドイツ語とフィンランド語の聖書は「少量の水で洗う」でした。少量の水ですから、念入りに丁寧に洗う洗い方ではないでしょう。象徴的な洗いと言ってよく、そういうわけで衛生的でなくて宗教的儀式的な洗いなのでしょう。ちょうど、日本の神社やお寺に柄杓で水を手にかける場所がありますが、そんなものを考えてよいのかもしれません。英語の聖書(NIV)では、ずばり「儀式的な洗い」です。(スウェーデン語の聖書はただ単に「手を洗う」でした。)

ファリサイ派はこのような清めの規定、旧約聖書のモーセ律法に書かれていない言い伝えの教えをいくつも持っていて、その遵守を唱道していました。これらも律法同様に、人間が神聖な神の目に適う者となれるために必要だと考えたからです。ところが、イエス様がそのような規定の遵守を教えていないことが明らかになりました。イエス様は、それらが大事なものとは全然考えてなかったのです。

3.
なぜイエス様は、当時のユダヤ教社会の宗教エリートであるファリサイ派が重要視した「父祖伝来の言い伝えの教え」を全く顧みなかったのか?それは、8節のイエス様のファリサイ派に対する答えから明らかです。それは、そうした教えが、「人間の言い伝え」(8節)、つまり人間の編み出した教えであって、神に由来する掟とは何の関係もなかったからです。神に由来する掟は、書き記されて聖書として存在します。それ故、それ以外は人間の意思に由来するもので、神の意思に由来するものではない。V0034553 Christ curses the Pharisees. Etching by F.A. Ludy after J.F.ファリサイ派としては、神の意思を実現しなければならないと考えつつも、書かれた掟では不十分とばかり、書かれていない言い伝えも引っ張り出してきて、できるだけ多くの規定を持って守った方が、神の意思に沿った生き方になる、そういう考え方だったようです。しかし、神の意思をよくご存知である神の御子イエス様からすれば、それは大変な誤りだったのです。

その理由として、先ほど申しましたように、父祖伝来の言い伝えの教えが神の意思にではなく人間の意思に基づいていることがあります。それに加えて、そうした人間由来の教えが神の意思に反するものになっていくことをイエス様は指摘します。その具体例がコルバンについての規定です。

コルバンというのは、エルサレムの神殿に捧げる供え物を意味しますが、特に、私はこれこれのものを捧げます、と誓いを立てて捧げるものです。一度誓いを立てたらもうキャンセルはできません。イエス様が問題として取り上げたことは、人が自分の両親に役立つものを神殿に捧げますと両親に伝えたら、もう両親に何もする必要はないとファリサイ派が教えていたことです。「お父さん、お母さん、あなたがたは私から必要なものを得られるはずだったのですが、それらはみなコルバンにします。」そう言ったら、もう両親に何もしなくてもいい。宗教的な理由で親の扶養を放棄しても構わないというのは、まるでいかがわしい宗教団体のように聞こえますが、イエス様はそのような規定は、モーセ律法の十戒の第4の掟「汝の父母を敬え」を無効にしている、と批判するのです。そのような神の意思に反する規定が他にも多くある、とイエス様は指摘します(13節)。

ファリサイ派としては、自分たちの動機では神の意思をより確実に実現するつもりでやっていたことが、実は神の意思に反することに陥っていたのです。

4.
イエス様は、批判者に反論した後で、今度は群衆を前にして、一番肝要な問題について論じます。それは、宗教的な清さ、霊的な清さはどうやって実現できるかという問題です。

イエス様は教えます。「人間の外部からきて内部に入るもので、人間を宗教的霊的に汚すことができるものは何もない」(15節)。手を儀式的に洗わず、それで仮に食べ物が宗教的に汚れたとしても、それを食べた人間が宗教的霊的に汚れることはない。本日の箇所の後になりますが、マルコ7章19節でイエス様はこのことについて解説します。儀式的に洗わなかった手で食べたものは、人間の心には何の影響もなく、ただ単にお腹を通って排泄されるだけである、と。実に単純明快な答えです。

それでは、人間を宗教的霊的に汚すものはあるのか?イエス様はあると言います。15節の後半部分を見てみましょう。人間の内部から出てくるものが、人間を宗教的霊的に汚れたものにするのである。それでは、その人間内部から出て来るものとは、それは21節にリストアップされています。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、人間の心から出てくる悪いものです。

 ここで注意しなければならないことがあります。イエス様がここで言っていることは、人間Aから出てくるこうした悪いものが、人間Bを宗教的霊的に汚れたものにする、と言っているのではないということです。両者は同一人物を指しているのです。つまり、人間Aの心から出てくるこうした悪いものが、A自身を宗教的霊的に汚れたものにする、ということなのです。イエス様に言わせれば、人間はその存在自体が宗教的霊的に汚れたものなのです。キリスト教会の礼拝の初めの部分で会衆一同による罪の告白が行われますが、本スオミ教会の式文にも「私たちは生まれながら罪深く、汚れに満ち、思いと行いと言葉によって多くの罪を犯しました」と記されている通りです。この汚れは、最初の人間アダムとエヴァの堕罪の出来事以来全ての人間が受け継いできたもので、まさにDNAに組み込まれているとしか言いようがないくらい、全ての人間に根付き染みついているものなのです。

ルターは、国が法律を作って処罰を定めれば、こうした悪いことが行為に現れるのを防ぐ役割を果たす、けれども、それはあくまで外面的なことだけで、内面の悪までは立ち入らない、と教えています。神の掟である十戒はまさに、外面の行為についてそうであれと命じているだけでなく、内面の心の有り様までそうあれと命じているのです。だからイエス様は、殺人を犯していなくても兄弟を罵ったら同罪である(マタイ5章22節)、姦淫を犯していなくても異性をふしだらな目で見たら同罪である(マタイ5章28節)と教えたのです。

5.
そうなると、人間は生まれながらにして宗教的霊的に汚れたもの、神の目に相応しくなく、神聖な神の前に立とうものなら焼き尽くされてしまう存在ということになります。いくら宗教的な規定を作って守っても、何か修行をしても、この汚れを消すのには何の役にも立たないとイエス様は教えるのです。逆にそうした人間的な規定は、自分たちは汚れを取り除けていると錯覚させ、規定を守らなかったり、守れなかったりする人たちを見下すというような盲目さも生み出します。ヨハネ福音書9章41節でイエス様はファリサイ派の人たちがこうした盲目状態に陥っていることを指摘しています。

人間は自然のままでは、神の前に立てない救いようのない存在だというのがイエス様の主眼です。実に厳しい見解です。では人間はどうしたらよいのか?実はイエス様は、人間の汚れの問題の解決策を知っていました。知っていただけではなく、その解決自体をもたらしてくれました。救いようのない存在である人間を救いがある存在にするための解決をもたらしてくれたのです。

 イエス様はどのようにして人間の汚れの問題を解決してくれたのでしょうか?人間が神の目の前に立っても大丈夫な存在にしてくれたのでしょうか?してくれました。それは、神聖な神の意思に反するあらゆる悪いもの、霊的な汚れが引き起こす神の裁きや罰を、イエス様が人間の身代わりとなって、ゴルゴタの十字架の上で引き受けて下さったことです。人間が、神の裁きと罰を受けないで済むようになる手立てを整えてくれたのです。Fr_Pfettisheim_Chemin_de_croix_station_XII_Christ_head_detaiイエス様が身代わりに裁きと罰を受けたということは、私たち人間が持っている神の意思に反する悪いもの、すなわち罪を、彼が全て請け負って罰を受けたということです。私たち人間の代わりに罰を受けてもらったということは、張本人の私たちの罪が帳消しにされたということです。

もちろん、人間の霊的な汚れや罪は、イエス様の十字架の贖いがあった後も引き続き人間に取りついて受け継がれていきました。罪は残っています。帳消しではないではないか、と言われるかもしれません。しかし、「イエス様は本当に私の罪を請け負って罰を受けて下さったのだ。それで私は神から赦しをいただくことができるのだ。だからイエス様こそは私の真の救い主なのだ」と信じる者には、神の赦しは本当のことになるのです。罪は残っていても、イエス様を救い主と信じる信仰のゆえに、それはもはや神の裁きと罰をその人に引き寄せる力を持っていないのです。その意味で罪は帳消しされたことになるのです。それゆえ、キリスト信仰者が、まだ自分に内在する罪に気づかされる時があっても、それを認めて告白し神に赦しをお願いすれば、神は次のように言って下さいます。「わかった、私が遣わしたイエスを救い主と信じるお前の信仰のゆえに、イエスの犠牲の死に免じてお前を赦すことにする。イエスがあの罪の女に言ったように、私もお前に言う。『行きなさい。もう罪は犯さないように』(ヨハネ8章11節)」。このようにしてキリスト信仰者は絶えず罪の赦しを受けて、絶えず新しいスタートを切ることができるのです。

 人間の霊的な汚れは、手を洗ったり清めの儀式をしても落ちることはありません。人間は、イエス様が十字架で行った贖いの業とその彼を救い主と信じる信仰のおかげで、汚れが残っているにもかかわらず、神から目に適う者と見なされるようになったのです。「私は清くないのに、神はイエス様のおかげで私のことを清い者に見てくれている。イエス様、私のために犠牲になってくれたことを感謝します。神よ、イエス様を送って下さったことを感謝します。」こう言いながら、キリスト信仰者は生きて行くのです。

ところで、イエス様の救いの業は十字架の贖いだけにとどまりませんでした。神はイエス様を十字架の死から三日後に復活させて、永遠の命の扉を人間のために開かれました。その扉の向こうに神の御国があり、この世の旅路を終えてそこに迎え入れられる者は霊的に完全に清くされているのです。イエス様を救い主と信じる信仰に生きる者は、「今はまだ霊的な汚れは残ってはいるが、神はそれがさもないかのようにして見守って下さる、そして復活の日が来ればそれは本当になくなるのだ」という確信を持ってこの世を生きられます。

私たちの人生には一人一人皆、いろいろな課題や挑戦があって、その解決のために苦労しなければなりません。その中でイエス様は、私たちの生死に関わる課題を解決してくれました。これを人生最大の課題と言わずして何をそうだと言えましょう。イエス様を救い主と信じる信仰で、この解決が与えられたのです。ですから、兄弟姉妹の皆さん、人生最大の課題を解決してもらった者として、明日からもまた日々の課題や挑戦に取り組んでまいりましょう。今日は安息日なので、お休みしましょう。

Το πνευμα πνευσειεν εις τας καρδιας υμων.
皆様の心に霊的な風が吹きましたように!

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

フィンランド、牧草の刈り入れ
冬の牛の飼料の貯蔵のため、8月は牧草の刈り入れがピークになります。

 


主日礼拝説教 聖霊降臨後第十四主日
2015年8月30日の聖書日課  申命記4章1~8節、エフェソ6章10~20節、マルコ7章1~15節


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