説教「主の再臨に備えて生きる」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書25章1-13節

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.  結婚式の祝宴というものは、イエス様の時代にも大がかりでした。ヨハネ福音書の2章に有名なカナの婚礼の話があります。イエス様が水をぶどう酒に変える奇跡を行ったところです。祝宴会場にユダヤ人が清めに使う水を入れた水瓶が6つあり、それぞれ2,3メトレテス入りとありますが、ひとつにつき80~120リットル入りです。それが6つありました。すでに出されていたぶどう酒が底をついてしまった時に、イエス様は追加用にこの水瓶の水全部480~720リットルをぶどう酒に変え、祝宴が続けられるようにしました。一人何リットル飲むかわかりませんが、相当大きな祝宴であったことは想像つきます。

 本日の福音書の箇所でも、結婚式の祝宴の盛大さが窺われます。当時の習わしとして、婚約中の花婿が花嫁の家に結婚を正式に申し込みに行きます。先方の両親と話し合ってOKが出ると、新郎新婦は行列を伴って新郎の家に向かいます。そこで、先ほど申しましたような祝宴が盛大に催されるのであります。その婚礼の行列におとめたちがともし火をもって付き従う役割を担います。こうしたおとめたちの付き従いは婚礼の行列に清廉さや華やかさを増し加えたことでしょう。

 本日の福音書の箇所でイエス様は、天の国つまり神の国とはどんなところかを教えるために、婚礼の行列に付き従う役目を負った10人のおとめたちに起きた出来事について話します。まず、大勢の人たちが参加する婚礼の大祝宴ですが、これは、イエス様を救い主と信じる信仰をしっかり持ってこの世から死んだ者たちがこの世の終わりの日に復活させられて、神の国に一堂に集められることを意味します。「ヘブライ人への手紙」12章27~28節や「ペトロの第二の手紙」3章10~13節をみると、この世の終わりの日に全ての被造物は揺り動かされて取り除かれ、揺り動かされない神の国だけが残ると預言されています。黙示録19章7~9節では、そのような神の国に集められるというのは、小羊の婚礼に招かれることであると述べられています。同じ黙示録の21章4節では、神の国の祝宴の席についた者は皆、神から涙を全て拭ってもらい、死や悲しみや苦難や痛みから解放された人たちであると述べられています。苦難や試練の多いこの世の人生の段階で信仰をしっかり持って生き抜いた者にとって、こうした神の国の祝宴の席につける以上のねぎらい、報いはないでしょう。先々週の主日の福音書の箇所だったマタイ22章の初めに、王が王子のために婚宴を催すというたとえがありました。そこで王は神、王子はみ子イエス・キリストを意味しました。本日のたとえでも、花婿はこの世の終わりの日に再臨するイエス様を指しています。

 以上から、10人のおとめのうち、ともし火に買い置きの油を用意した5人の賢いおとめは、この世の終わりの日、復活の日に神の国の入ることができた者たち、油を用意しなかった愚かな5人のおとめは神の国に入ることができなかった者たちということになります。イエス様は、このたとえを通して、私たちも賢いおとめのように、いつ主の再臨が起こっても大丈夫なように備えていなさい、と教えているのだとわかります。

 このように「10人のおとめ」のたとえがわかったと思うや否や、大きな疑問にぶつかります。それは、たとえの結びの部分の13節でイエス様が、目を覚ましていなさい、なぜなら主がいつ再臨するかは誰にもわからないからだ、と言っているところです。つまり、眠ってはならない、目を覚ましていなければならない、というのが教えの主眼になっています。ところが、賢いおとめたちは、愚かなおとめたちと一緒に眠ってしまったではないか?教えの主眼からすると、賢いおとめたちも失敗例です。しかし、眠ってしまったとは言え、賢いおとめたちは、買い置きの油のおかげで神の国に入れました。それでは、この「目を覚ましていなさい」という命令はどんな意味があるのでしょうか?

2. 賢いおとめたちも、愚かなおとめたちと共に眠ってしまいましたが、彼女たちは、買い置きの油があったおかげで、花婿の突然の到来にも慌てずに、ともし火を持って祝宴に入ることができました。眠ったことは、なんらダメージにはならなかったのであります。この賢いおとめたちは、10節で「用意のできている5人」と言われています。こうして見ると、「目を覚ましていなさい」というのは、具体的に寝ないで起きていることを意味するのではなく、なにか用意ができている状態にあるという象徴的な意味を持っているのだと分かります。

そうすると、5節で「皆眠気がさして眠り込んでしまった」と言っているなかで「眠り込んでしまった」というのも、本当に具体的に寝てしまうという意味ではなく、何かを象徴的に意味していると考えられます。どんな意味かと言うと、「眠り込んでしまった」という言葉は、ギリシャ語の原文では、カテウドー(καθευδω <εκαθευδον)という動詞で、これは「眠る」という意味もありますが、「死ぬ」という意味もあります(第一テサロニケ5章10節)。

さらに見ていくと、7節で「おとめたちは皆起きて」と言う時の「起きて」という言葉は、ギリシャ語の原文では、エゲイロー(εγειρω<ηγερθησαν)という動詞で、これも「起きる」という意味の他に、「死から復活する/復活させられる/蘇る/蘇らされる」という意味もあります。新約聖書の中ではこの意味で使われることが多いのです。マタイによる福音書25章

こうして見ると、「10人のおとめ」のたとえは、イエス様が再臨して、死者の復活が起こる、この世の終わりの日の出来事について教えていることがわかります。その日、ある者たちは結婚の祝宴にたとえられる神の国に迎え入れられ、別の者は迎え入れられない。ここで注意しなければならないのは、神の国の祝宴から排除されてしまった5人の愚かなおとめとは、イエス様を信じない者ではなったということです。彼らも、賢い5人のおとめ同様に、もともとは同じ祝宴に招かれていたのであり、婚礼の行列にともし火をもって付き従う同じ任務を受けていました。つまり、10人みんな神の国への招待を受けていたのです。そういうわけで、10人ともイエス様を救い主と信じるキリスト信仰者を指します。ところが、神の国に入れたのは、賢い5人だけで愚かな5人はだめでした。マタイ22章14節のイエス様の言葉を借りれば、招待を受けたのに選ばれた者にはならなかったのです。同じ出発点に立ちながら、どうして異なる結末を迎えることになってしまったのでしょうか?それがわかれば、油を前もって買い置きして、ともし火の火を絶やさずに燃え続けさせることの意味もわかります。そのことが、「目を覚ます」の象徴的な意味である「用意ができている」の意味を明らかにするのです。

これから、こうしたことを解明していこうと思いますが、その前に、ルターが、この世から死ぬことは眠ることと同じであると教えていますので、まずそれを見ていきたいと思います。本日の箇所の謎、「用意が出来ている」とか、ともし火とか、油の買い置きとかの解明にとっても、大事な教えです。この教え(教会ポスティラIII、マタイ9章24節にあるイエス様の言葉「娘は死んではいない。寝ているだけだ」についてのルターの解き明し)は、去る8月31日のスオミ教会、武蔵野教会、市ヶ谷教会の三教会合同の聖書研究会でも紹介したので、その時参加された方はご存知なのですが、今一度ご紹介いたしましょう。

「我々は、我々の死というものを正しく理解しなければならない。不信心者が恐れるように、それを恐れてはならない。キリストとしっかり結びついている者にとっては、死とは、全てを滅ぼしつくすような死ではなく、素晴らしくて優しい、そして短い睡眠なのである。その時、我々は休憩用の寝台に横たわって一時休むだけで、別れを告げた世にあったあらゆる苦しみや罪からも、また全てを滅ぼしつくす死からも完全に解放されているのである。そして、神が我々を目覚めさせる時が来る。その時、神は、我々を愛する子として永遠の栄光と喜びの中に招き入れて下さるのである。

死が一時の睡眠である以上、我々は、そのまま眠りっぱなしでは終わらないと知っている。我々は、もう一度眠りから目覚めて生き始めるのである。眠っていた時間というものも、我々からみて、あれ、ちょっと前に眠りこけてしまったな、としか思えない位に短くしか感じられないであろう。この世から死ぬという時に、なぜこんなに素晴らしいひと眠りを怯えて怖がっていたのかと、きっと恥じ入るであろう。我々は、瞬きした一瞬に、完全に健康な者として、元気に溢れた者として、そして清められて栄光に輝く体をもって、墓から飛び出し、天上の雲にいます我々の主、救い主に迎えられるのである。

我々は、喜んで、そして安心して、我々の救い主、贖い主に我々の魂、体、命の全てを委ねよう。主は御自分の言葉に忠実な方なのだ。我々は、この世で夜、床に入って眠りにつく時、命を主に委ねるではないか。我々は、主に委ねた命は失われることがなく、眠っていた間、主のもとで安全なところでよく守られ、朝に再び主の手から返していただいていたことを知っている。この世から死ぬ時も全く同じである。」

 ここで明らかなことは、人間は死んだら、即天国に上げられない/昇らない、ということです。天国に行くか地獄に行くかは、将来起こる復活の日、最後の審判の日に決せられるのであり、その日が来るまでは、死んだ人たちは皆、神のみぞ知る場所にいて安らかに眠っているだけということです。このことは、死者の復活を信仰の要とするキリスト信仰からすれば、当たり前のことなのですが、なぜか日本ではキリスト信仰者でない人ならともかく、信仰者の間でも、人は死んだら即天国に行って、今そこから私たちを見下ろしているというふうに考える向きが多くあるように思えます。いずれにしても、ルターの教えから言えることは、死んだ者は安らかに眠るだけなので、移動もせず、飲み食いの必要もなく、私たちが語りかけたり、願い事をかけても別に聞いているわけでもなく、また私たちを見守ることもしない、ただ安らかに眠っているだけ、ということになります。亡くなった人が私たちを見守っていない、などと言うと、大方の日本人はギョッとして心細くなってしまうでしょう。しかし、キリスト信仰にあっては、復活の日までは亡くなった方たちは、神のみぞ知る場所にいて、ただ安らかに眠っているだけなので、私たちを見守ってくれる方、また私たちが語りかけたり願い事をかけたりする正しい相手は、これは天と地と人間を造られ、人間に命と人生を与えられた神をおいてはいないのです。だから、心細くなる必要は全くないのです。

このルターの教えの中で、もう一つ大事なことがあります。それは、死んだ人のこの安らかな眠りは、死んだ人の観点からすれば一瞬のことにしかすぎないということです。仮にこの世の終わりが西暦2500年に来るとします(預言しているのではありません!)。その場合、西暦1500年に死んだ人は、今この世にいる者の観点からすれば1000年眠ることになります。しかし、死んだ者本人にとっては一瞬の眠りにしかすぎず、ルターの言い方に従えば、死ぬ瞬間、瞬きをした瞬間に、もう目の前では復活の壮大なドラマが始まっているのであります。そんな馬鹿な、と思われるかもしれませんが、私など、全身麻酔の手術の経験があると、そういう時間の飛び越えはあまり不思議には感じられないのであります。先ほど、死んだ人が即天国に行くという考えは、復活の信仰から見て間違っていると申しましたが、時空の飛び越えをする死んだ本人の観点からすれば、間違いではないのであります。しかし、この世に残された私たちの観点からすると正しくないのであります。キリスト信仰者は、亡くなった方が今どこで何をしているかということについて、言い方を正確にする必要があるでしょう。

3.それでは、「10人のおとめ」のたとえの謎を解明していきましょう。「目を覚ます」の象徴的な意味である「用意ができている」ということにまつわる事柄です。たとえの中で、「用意ができている」とは、油の買い置きをして、ともし火の火が消えてしまわないように、燃え続けるようにしたということでした。買い置きをした5人のおとめは祝宴に入れたが、しなかった5人は入れなかったというのは、死者からの復活が起きる日、ある信仰者は神の国に迎え入れられたが、別の信仰者は入れられなかったということです。まず、どうしてそのような違いがでてしまったのか、ということから始めていきましょう。

キリスト信仰の基本事項ですが、人は洗礼を受けると、イエス様の持つ神の義を純白な衣のように頭から着させられます(ガラテア3章27節)。もちろん、私たちはまだ肉をもって生きているので、私たちの内にはまだ神への不従順と罪が宿っています。しかし、そのために本来は私たちが受けるべき裁きをイエス様がゴルガタの丘の十字架で全部受け負って下さった、それゆえ私たちがイエス様を救い主であると信じる信仰を持つ限り、神は私たちに被せられているイエス様の純白な義の方に目を留めて下さる。このように私たちは、神によって神の義を与えられた者として、永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩み始めることとなった。文字通りこの世の命を超える新しい命に結び付けられてこの世を生きることになったのであります。

 しかしながら、洗礼はハッピーエンドではありませんでした。それは完了では全くなく、むしろ私たちの内に新しい命が始まったということ、永遠の命に至る道を歩み始めたということ、洗礼とはそういう始まりの時なのであります。あわせて洗礼は、内的な戦い、信仰の戦いの始まりの時でもあります。私たちは、聖書の御言葉を通して神の意志を知ろうとすればするほど、それから遠い存在であること、不従順と罪に満ちた存在であることに気づかされます。神を全身全霊で愛することが神の意志なのに、自分はそうしていないではないか?また、隣人を自分を愛するが如く愛せよというのが神の意志なのに、そうしていないではないか?ルターも、このことはよく承知で、彼に言わせれば、キリスト信仰者というものは、実は、完全な聖なる者なんかではなく、始ったばかりの初心者であり、これから成長していく者たちということになるのであります。そのため、キリスト信仰者の間でも、憎しみ、欲望、誤ったものへの偏愛、神の守りを信用せずに心配事に身を委ねること、その他もろもろの欠点に出くわすのであります。

 洗礼を受けて、神がイエス様を用いて実現した救いを所有する者となった筈のに、どうしてこんな情けない存在なのかというと、それは、私たちがまだこの世を生きている間は肉をまとっているからであります。肉をまとっているという点では、キリスト信仰者もそうでない者も全く同じであります。肉をまとっている以上、神への不従順や罪、さまざまな欲望やねたみや憎しみ等々を信仰者でない者と同じように持っています。

それじゃ、洗礼を受けても何の意味もないじゃないか、と言われそうですが、キリスト信仰者とそうでない者の間には大きな違いがあります。それは、信仰者は洗礼を通して神の霊、聖霊を受けたことです。神の霊はまず、わたしたちの肉から生じる神への不従順、罪をつきとめ、「それは神への不従順です。あなたにはそれがあります」、「それは罪です。あなたにはそれがあります」と明確に教えてくれます。そんなに汚れた存在であることを暴露されてしまい、神から引き裂かれてしまったショックを受けていると、聖霊はすかさず「それでは、目をあちらにだけ向けなさい」と命じます。あちらにあるものとは、十字架にかかったイエス様です。そこに目を向け、さらに目を凝らしてみると、彼の両肩、頭の上にはなんと私の不従順と罪が覆いかぶさっているではないか。私の不従順と罪は私から取り去られて、彼の上に覆い被せられた。そして、私は、なぜ彼があそこで死んだのかがわかる。このようにして、彼は私が受けるべき罰を私に代わって受けられたのだ、と。この時、イエス様は私の救い主となり、これらのことをひとり子を犠牲にしてまでも私のために行われた神に感謝し賛美しようという心が生まれる。そして、私が感謝して止まない神の御心を、私はもっと知ろうとし、それに従って生きよう、いう心が生まれる。それは、神を全身全霊をもって愛し、隣人を自分を愛するが如く愛するということである。自分もそうしよう。これだけの愛を受けたのだから、ということになる。

しかしながら、また現実の世界に一歩踏み入れて、いろんな人や出来事に遭遇し、いろんな問題や悩みに直面すると、また不従順や罪が頭をもたげてくる。妬んだり、嫉妬したり、陰で悪口言ったり、それを喜んで聞いたり、神が与えて下さったり結び付けて下さったものから別のものへ目移りしてしまったり等々、無数です。しかし、それでも神のもとに戻れる可能性はしっかりあります。ゴルゴタの丘の十字架に架けられた主に心の目を据えつつ、礼拝の時に行う罪の告白で、また牧師や信頼できる信徒と個別に行う罪の告白で、私たちは神から赦しを得ることが出来ます。神から得られる赦しは、また、聖餐式の時に、主の血と肉を受けるという具体的な形を取ります。

 このようにキリスト信仰者とは、現実世界をしっかり生きながら内面の戦いを戦う者たちです。絶えず十字架の主のもとに立ち返ってそれに依拠しながら生きていくことで、肉に繋がる古い人間を日々死に引き渡し、洗礼によって植えつけられた新しい人間を日々育てていくのであります。そして、私たちがこの世を去る時、肉は完全に取り去られて、瞬き程の一瞬のうちに復活の命と体を持つ存在に変えられ、ルターの言葉を借りるなら、その時に「完全なキリスト教徒」になるのであります

さて、5人の賢いおとめのともし火の火が燃え続けるというのは、こうした新しい人を日々育て、古い人を日々死に引き渡す信仰の戦いのプロセスが不断に続くことを意味します。信仰の戦いが終息せずに不断に続くようにするものは何かと言うと、それは聖書にある神の御言葉に踏みとどまること、聖礼典の恵みにしっかり結びついていることであります。御言葉への踏みとどまり、聖礼典との結びつき、これが買い置きの油ということになります。これがある限り、信仰の戦いのプロセスは不断に続き、ともし火の火が消えることはありません。「目を覚ましていなさい」の象徴的な意味は、まさに信仰の戦いをしっかり戦いなさいということなのであります。そうすることが、主の再臨に備えて生きるということであります。時として、神を全身全霊で愛することをせず、隣人を自分を愛するが如く愛さず、神の意志に背を向けてしまう時があるでしょう。罪と不従順を内に宿しているので、それは避けられません。しかし大事なことは、そのたびに恵みと憐れみの神に赦しを乞い、主イエス様の十字架のもとに立ち返ることです。恵みと憐れみの神は、そんな私たちを自分の子として迎えて下さり、私たちは御言葉にふみとどまり、聖礼典につながることを確認して、再び永遠の命への道を歩み出します。そうして、主の再臨の日まで霊的に目を覚ましていられるのです。

翻って、5人の愚かなおとめの場合はどうかと言うと、買い置きの油を用意しなかったというのは、これはもう洗礼を受けたらもう終わり、信仰の戦いに入っていかないのであります。そうなると、洗礼の時に植えつけられた新しい人はもう育ちません。肉に結びついた古い人間がまた力を盛り返して支配を取り戻してしまいます。時間がたてばともし火の火も消えてしまいます。

 ここで、5人の愚かなおとめたちは、火が消えるのはよくないことだとわかって、必死に油を買いに行ったではないか、それでも時間通りでなかったという理由だけで神の国から排除されるのは、情けがなさすぎるのではないか、という反論が生まれるかもしれません。しかしながら、その反論に対しては、神の日程表は絶対である、一度決まったら変更が効かない、としか答えられません。神は、信仰の戦いを戦う時を人に与えたのに、人の方でその時をそのために使わなかったのですから。それに、信仰の戦いに入らず、新しい人をいたずらに委縮させ、古い人に以前同様支配を許してしまうのは、洗礼の恵みを踏みにじるものです。

 神の日程表は絶対的なものであると言うと、信仰の戦いを戦っている人にとって重苦しいかもしれません。なぜなら、この世に別れを告げる時、それから復活の日において、自分はどれだけ神の意志を満たせる者になっているのだろうか、新しい人はどれだけ成長したのだろうか、古い人はどれだけ衰退したのだろうか、また、これらの点について、終わりの日に他の信徒たちと比べられたら、自分の達成度は小さいのではないだろうか、そういう疑問が生じるかもしれません。しかし、これは心配する必要のないものです。もし、あなたが信仰の戦いを正直かつ真摯に戦っていて、神が与えて下さった時をちゃんとその目的のために使っていれば、終わりの日にあなたが仮に40%の達成度をもってこの世の人生の歩みを終えたとしても、神は即座に残りの60%を満たして下さいます。そうしてあなたは、先ほどのルターの言葉を借りれば、完全なキリスト教徒に変えられるのです。神が足りない分を満たしてくれるから、自分は何もしなくてもいい、と考える向きが現れるかもしれませんが、それは完全に間違いです。神が足りない分を満たしてくれるのは、信仰の戦いを正直かつ真摯に戦っていて、神が与えて下さった時をちゃんとその目的のために使って生きている人たちだけだからです。

最後に、信仰の戦いは内的な戦いとは言っても、それは人間関係が渦巻く現実世界を生きることから生じる戦いでもあるので、たいていは外的な戦いと連動しています。それゆえ、時として自己の能力の限界を試されるような試練も来ます。そうした時、この戦いは孤独な戦いで誰にもわかってもらえないと意気消沈する必要はありません。周りには信仰と志を同じくする兄弟姉妹たちがいます。それから、常に私たちの側に立って戦ってくれる無敵の同士がいます。復活によって死を滅ぼされた主イエス様です。主は、世の終わりまで毎日毎日私たちと共にいる、と約束されました(マタイ28章20節)。主が約束されたことを、私たちが疑うことは許されません。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


2014年11月16日(聖霊降臨後第23主日)武蔵野教会
11月16日の聖書日課   マタイによる福音書25章1-13節、第一テサロニケ3章7-13節、 ホセア11章1-9節


説教「完成へと導く主」浅野直樹 牧師(市ヶ谷教会) 講壇交換日

2014/11/16  聖霊降臨後第23主日 

ホセア11章1-9  Iテサロニケ3章7-13  マタイ25章1-13

説教題「完成へと導く主」

きょうの礼拝は聖霊降臨後第23主日、そして次週が教会の暦の一年最後の日曜日で聖霊降臨後最終主日です。教会の暦の終わりに来ています。そういうわけで聖書日課の主題も終末です。きょうのテキストはまさしく終末という大きなテーマを扱ったイエスのたとえなのです。

終末というと極めて宗教的なテーマで、およそサイエンスとは無関係と思われます。この世の終わりがいつ来るか、あるいは人が死んだらそのあとどうなるか、そういったことがらは宗教が語ることであって、科学者たちが首を突っ込む領域ではありませんでした。 1995年3月20日に、オウム真理教という宗教団体が地下鉄サリン事件が起こしました。あのときしきりに「ハルマゲドン」という言葉を耳にしたことを思い出します。これは黙示録の中に出てくる善と悪の最終戦争を表す聖書の言葉で、きょうの主題である終末を象徴しています。オウム真理教はサリン事件を起こして、いわばハルマゲドンを自作自演しようとしたのです。そしてその中心人物たちが理科系のエリートたちでした。科学を専門とするエリートたちがハルマゲドンを起こしたのです。科学者が終末に首を突っ込んだのです。

同志社女子大学の1997年の卒業礼拝で、聖書学者の大貫隆がこのことに触れて説教しこう述べています、「科学という合理主義のリーダーが、終末預言という非合理なものにくっついてしまった」。それがあの出来事だったと語ったのです。なぜ合理的なものと非合理なものがくっついてしまったかというと、終末という出来事がいつ、どのように起こるかということに科学者たちが興味をもったからなのだと大貫氏はいいます。いつ、どのようにを問うというのは、科学者たちが物事を考えるときの大前提となる手法です。その方法を使って彼らは終末というものをとらえようとしたのです。すこし難しい言い方をすると、終末という出来事を歴史の中に対象化しようとしたのです。自然界の諸々の現象と同じく、研究すれば見えてくる、いつごろそれがどんなふうに起こるのかが解明されていく。そういう関心が科学者たちを駆り立てたのではないでしょうか。そうした見方は一般の私たちにももちろん関心大ありですが、このアプローチで聖書に描かれている終末を正しくとらえることはできません。それがいつどのように起こるのか。そういう問いから自由になれ、と大貫先生は女子大生に呼びかけたのです。そういう問いにこだわって起きたのがサリン事件でした。 キリスト教が終末を語ると、終わりを完成とみなすことができるのです。たとえば人間のいのちが、人生の終末という出来事において完成するということです。ハイデッガーという哲学者は、「人間は生まれた直後から死へと定められた命を生きている」といったそうです。では聖書が人間を一生をどのように語るかというと、人間は日々完成に向かって生きているということになります。死という出来事をわたしたちのいのちと切り離して考えてはいけないのです。死はいのちとつながっているのです。いのちの到達点に死があるのです。生きるというプロセスのゴールに終末という人生の完成があるのです。不完全な私たち。罪と人間的な弱さのゆえに欠陥だらけの私たち。そんな私たちのいのちを、最後に完成へと導いてくださるのがイエス・キリストです。 「だから、目を覚ましていなさい。」というみことばは、そのような生き方を表しています。神様が最後に与えてくださる完成を目指して生きるということです。自分の力で勝ち取るのではなく、神様がイエス・キリストのあがないによってお与えくださる完成に向かって、一日一日を生きること。それが目を覚ました生き方なのです。

きょうのたとえ話はユダヤの結婚式の一場面が題材になっています。私たちには馴染みがないのですが、イエス時代のユダヤの結婚式は花婿が花嫁を出迎えにいくことで始まります。彼女の家まで出向き、挨拶をして花嫁さんを引き取り、そこから今度は二人の新居まで一緒に道を練り歩きます。新居には彼らを祝福してくれる乙女たちが待機していて出迎えてくれます。それが夜であるならば当然灯りが必要なので、乙女たちは手にろうそくをもち二人の到着を待ち続けます。やがて二人が到着すると乙女たちがエスコートしてふたりを盛大な祝宴会場へと招きます。もちろん乙女たちも同行します。そういう流れを頭に入れて読むと、ここはわかりやすいかもしれません。 ここで問題となっているのは、五人の愚かな乙女たちは油の予備をもっていなかったという点です。その日そのときの備えができていなかったということです。災害に備えて食べ物を備蓄したり、あるいは日用品をまとめておいたりしている家庭も多いと思いますが、同様の警告を主イエスは弟子たちにもしています。それを端的に言い表したひとことが、「目を覚ましていなさい」です。 「わたしは救われて天国への切符を手に入れた。だからもう自由だ。すべてのことが許されている。思い通りの生活ができる」。信仰を得た人がこのような生き方と人生観をもっているとしたら、その人は予備の油をもってこなかった乙女のようです。終末を目指して生きるという生き方にはなりません。目を覚まして生きることにはならないのです。 あるいはここを読んで、ちょっと心配になってきたクリスチャンもいるかもしれません。わたしは一応なんとか信仰を得て今日まで生きてきた。けれども自分はいい加減で信仰的にも眠ってばかりだから、ひょっとしたら私はどちらかというと、この愚かな五人のひとりなのではないだろうか。そういう心配がよぎった人もいるかもしれません。いやもしかすると、私を含めてここに集まっているみんながそういう思いかもしれません。 では逆に、わたしはいつも信仰的に眼覚めているから賢い乙女のひとりだと、自信をもっていえるとすると、その人はどういう人なのでしょうか。私はルカ18章に出てくるファリサイ派と徴税人の祈りの比較を思い出すのです。

ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈ります。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

「信仰的にいつも目覚めているから大丈夫」と、自信を持って言えるとすると、私にはその人がファリサイ派の人とかぶってみえてきます。罪の中に生きる人間が、信仰的にいつも目覚めていることはできません。どうしても徴税人と声をそろえて「神様、罪人と憐れんでください」と祈らざるを得ないのです。そういうわたしたちだからこそ、イエス様は「だから目を覚ましていなさい」と呼びかけ、それだけでなくわたしたちを義としてくださるのです。いつも目を覚ましていることができないわたしたちですが、イエス様が「してくださる」のです。イエスさまにしていただいているのです。自分の力ではできませんが、イエスさまがわたしたちのために、確かに救いを成し遂げてくださったのです。 先ほど「完成に向かって生きること」が私たちの人生だということを言いました。もっと正確にいうなら、主イエス様が、わたしたちの人生を完成してくださるのです。完成させてくださる主とともに生きて、主のご用に励みます。そして用いられたことを喜ぶのです。そうした体験を積み重ねが目を覚まして生きることです。もちろんいつもそれがうまくいくわけではありません。御心にそわなかったら、「主よ、憐れんでください」と悔い改めながら生きること、それが目を覚まして生きることです。それが私たちにできる油の備えです。行い、祈り、悔い改め、この体験ひとつひとつを生涯かけて積み上げていくとき、わたしたちの人生は完成へと導かれるのです。

 

説教「人間を造られた神が人間に与えられた最も重要な掟」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書22章34-40節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.本日の福音書の箇所の直前に、サドカイ派と呼ばれる党派とイエス様の間で論争がありました。サドカイ派というのは、エルサレムの神殿祭司やユダヤ教社会の上流階層を構成員とする党派です。論争の的となったのは、死からの復活はあるかどうかということでした。復活などないと主張するサドカイ派をイエス様は、旧約聖書の御言葉に基づいて見事に論破しました。その一部始終を見ていたファリサイ派と呼ばれる別のグループ、これはユダヤ教の伝統的な戒律を幅広くできるだけ多く守ろうとする信徒運動ですが、そのファリサイ派の人たちが集まって、サドカイ派は言い負かされてしまったぞ、自分たちはどうやってあの生意気なナザレ出身のイエスを言い負かそうかと相談を始めます。そこで、彼らの一人で律法学者も務める男がファリサイ派を代表してイエス様のところにやってきて質問しました。「先生、律法の中でどの掟が最も重要でしょうか?

原語のギリシャ語を直訳すると、最も偉大な掟、最大級の掟はどれかと聞いています。つまり最も重要な掟ということです。サドカイ派は、復活という死生観の問題でイエス様に挑戦してあっけなく敗れ去りました、ファリサイ派はユダヤ教の根幹とも言える律法の問題で挑戦してきました。

なぜ、このような質問が出たかというと、律法学者は職業柄、ユダヤ教社会の社会生活の中で生じる様々な問題を神の掟に基づいて解決する役割を担っていました。それで、神の掟やその解釈を熟知していなければなりません。その知識を活かして弟子を集めて掟や解釈を教えることもしていました。神の掟とは、まず、旧約聖書に収められているモーセ五書と言われる律法がありました。それだけでもずいぶんな量ですが、他にもモーセ五書のように文書化されずに、口承で伝えられた掟も数多くありました。サドカイ派は文書化された掟しか重んじませんでしたが、ファリサイ派は両方とも大事と考えていました。そういうわけで、ファリサイ派の律法学者となると、膨大な神の掟を適用することになるので、どっちを適用させたらよいのか、どれを優先させたらよいのか、どう解釈したらよいのか、という問題によく直面したのです。「どの掟が最も重要ですか、最大級の掟ですか?」という質問は、そのような背景から出てきたのです。もし、これが重要だ、と答えたら、きっと、それじゃ他のは重要ではないのですか?掟は全て神が与えたものではないのですか?これが重要で、あれは重要でないという根拠はなんですか?あれだってこれこれの理由で重要ではないのですか?そういう具合に、相手は法律の専門家ですので、答えようによっては、反論の山が押し寄せてくるのは火を見るより明らかです。

 

2.イエス様の答えは以下のものでした。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。

これは、申命記6章4~5節で神がモーセを通してイスラエルの民に伝えた掟です。その部分を振り返ってみましょう。

「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」

神を愛するという時、このように全身全霊で愛するということはどういうことでしょうか?全身全霊で愛する、などと言うと、男女がぞっこん惚れぬいて身も心も捧げたような熱烈純愛みたいですが、ここでは相手は人間の異性ではありません。相手は、全知全能の神、天と地と人間を造られて、人間に命と人生を与えられ、御子イエス・キリストをこの世に送られた父なる神が相手です。その神を全身全霊で愛する愛とはどんな愛なのでしょうか?

その答えは、今みた申命記の掟の最初の部分にあります。「我らの神、主は唯一の主である。」これは命令形でないので、掟にはみえません。しかし、神を全身全霊で愛せよ、というのは実は、神が私たちにとって唯一の神としてしっかり保たれるようにしなさい、ということなのであります。この神以外に願いをかけたり祈ったりしてはならないということ。この神以外に自分の運命を委ねたり、また委ねられているなどと考えてはならないこと。自分が人生の中で経験する喜びを感謝し、また苦難の時には助けを求めてそれを待つ、そうする相手はこの神以外にあってはならないということ。もしこれらと反対のことをしてしまったり、またそれ以外のことでも神の意思に反することしてしまった場合には、すぐこの神の方を向いて赦しを願うこと。これが神を全身全霊で愛することであります。

少し脇道に逸れますが、「神」という日本語の言葉はとても紛らわしいものです。聖書にも「神」と書いてあり、日本には「神々」がいると言われます。同じ言葉を使うため、両者が何かお互いに比べ合えるような気がします。そして、ここは違うがここは似ているというような議論が生まれ、そうなると、聖書の神もなにか数多くいる神々の一つのように感じられてきます。しかし、兄弟姉妹の皆さん、よく考えてみて下さい。天と地と人間を造られ、人間に命と人生を与えられた神、また人間との結びつきを回復させるために自分のひとり子を犠牲の生け贄になるように送られた神、このような神は聖書の神の他にいるでしょうか?そもそも、この世に蔓延する霊的な存在はみな、造られたもの、被造物にすぎないのです。(コロサイ1章16節で「万物は御子において造られた」と言われる「王座」、「主権」、「支配」、「権威」は、ギリシャ語の単語からみて、目に見えるものだけでなく見えない霊的なものも含まれています。)聖書の神こそ全ての見えるものと見えないものの造り主なのであります。

天と地と人間を造られた神以外に神はないとする、この神が私たちにとって唯一の神としてしっかり保たれるようにする、これが神を全身全霊で愛することだと申しました。このような愛をどのようにしたら私たちは持てるのでしょうか?このような愛は、何もないところから自然には生まれてきません。それは、この神が私たちに何をして下さったかを知ることで生まれてきます。それではこの神は私たちに何をして下さったかを見てみましょう。

この神は今私たちが存在している場所である天と地とその中にあるものを造られました。そして私たち人間をも造られ、私たちに命と人生を与えて下さいました。もともと神の目から見て、よいものとして造られた人間でしたが、神への不従順と罪に陥ったために、神との結びつきが失われて死ぬ存在になってしまいました。人間は代々死んできたように、代々罪をも受け継ぐ存在となってしまったのです。

神は、人間が神との結びつきを失ってしまったことは悲しいことと思い、それをなんとか回復させようと、そのためにひとり子イエス様をこの世に送られました。神がイエス様を用いて行ったことは、本来は人間が受けなければならない罪の罰を全てイエス様に受け負わせて、十字架の上で死なせました。そこで神は、イエス様の身代わりの死に免じて人間の罪を赦すという方法をとったのです。それだけではなく、今度は一度死んだイエス様を復活させて、死を超えた永遠の命への扉を人間のために開かれました。人間は、これらのことがまさに自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様は自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、神からくる罪の赦しがその人に効力を持ち始め、その結果、罪はその人を死に閉じ込めようとする力を失います。このようにして、人間は神との結びつきを回復させることができて、永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩み始めることになります。神との結びつきが回復した者として、順境の時も逆境の時もたえず神から良い導きと助けを得られ、万が一この世から死ぬことになっても、その時は神の御手がしっかりとその人を御許に引き上げて、その人は永遠に自分の造り主のもとに戻ることができるのであります。

このように人間の「造り主」である神はまた、ひとり子イエス様を犠牲の生け贄にすることで人間を罪と死の支配から救い出して下さった「贖い主」でもあるのです。こうして神が私たち人間にして下さったことのなんたるやがわかるや否や、私たちの内にこの神を全身全霊で愛そうという心が生まれるのです。神がして下さったことがとてつもなく大きなことであることがわかればわかるほど、愛し方も全身全霊になっていくのです。

 

3.天と地と人間を造られた神を全身全霊で愛するとはどういうことか?それは、この神以外に神はないとし、この神が私たちにとって唯一の神としてしっかり保たれるようにすることだと申しました。この掟についてイエス様は、最も重要な「第一の掟」であると付け加えました。これに続けて、最も重要な掟には第二もあると言って、「隣人を自分のように愛しなさい」がそれであると述べました。そして、本日の箇所の終わりで、「律法全体と預言者たちはこの二つの掟に基づいている」と言われました。この二つの掟は神の掟中の掟である、山のようにある掟の集大成の頂点にこの二つがある、と言うのです。それでも、その頂点にも序列があって、まず、神を全身全霊で愛すること、これが最も重要な掟の第一。それに続いて隣人を自分のように愛することが第二の掟としてある。これから明らかなように、キリスト信仰においては、隣人愛というものは、神への全身全霊の愛としっかり結びついていなければならない、神への全身全霊の愛に隣人愛は基づいていなければならないのであります。

キリスト信仰者は、隣人愛という言葉を聞くと、すぐ苦難困難にある人に対する支援活動を思い浮かべるでしょう。ところで、苦難困難にある人を支援するという形の隣人愛は、これはキリスト信仰者でなくても、他の宗教を信じていても、または無信仰者・無神論者にも出来るものです。このことは、東日本大震災の支援活動にも明らかです。人道支援はキリスト信仰の専売特許ではありません。しかし、キリスト信仰の隣人愛には、他の隣人愛にはないものがあります。それは、キリスト信仰の隣人愛は神への全身全霊の愛に基づき、それに結びついているということであります。神への全身全霊の愛とは、先ほど申し上げましたように、天地創造の神以外に神はないとし、この神が私たちにとって唯一の神としてしっかり保たれるようにすることです。そのような愛が持てるのは、これも申し上げたように、この神が自分にどれだけのことをして下さったかをわかるようになった時です。そういうわけで、隣人愛を実践するキリスト信仰者は、自分の行いが神を全身全霊で愛する愛に即しているかどうかを吟味する必要があります。もし、別に神などいろいろあったっていいんだとか、聖書の神も多数のうちの一つだ、などという立場をとった場合、それはそれで人道支援の質や内容が落ちるということにはなりませんが、しかし、それはイエス様が教える隣人愛とは別のものになります。

それから、隣人愛とは人道支援に尽きてしまわないということも大事です。イエス様は、最重要掟の二番目に隣人愛があると教えた時、それをレビ記19章18節から引用しました。そこでは、隣人から悪を被っても復讐しないことや、何を言われても買い言葉にならないことが隣人愛の例としてあげられています。イエス様自身、彼を信じる者たちに対して、敵を憎んではならない、敵は愛さなければならない、さらに迫害する者のために祈らなければならない、と教えられます(マタイ5章43~48節)。そうなると、キリスト信仰者にとって、隣人も敵も区別がなくなり、全ての人が隣人になって隣人愛の対象になります。しかし、そうは言っても、「隣人」の一部の者が危害を加えたり、迫害をするということも現実にはありうる。そのような「隣人」をもキリスト信仰者が愛するとはどういうことなのでしょうか?

 イエス様は、敵を愛せよと教えられる時、その理由として、父なるみ神は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて下さる方だからだ、と述べられます。これは一体、どういうことでしょうか?神は、ただ悪人にも善人同様気前よくしてあげようという無原則な方で、何が正しくて何が間違っているか、何が善で何が悪かということはもう一切お構いなしの方なのでしょうか?敵を愛せよということも、無原則な気前良さなのでしょうか?

いいえ、そういうことでは全くないのです。少し立ち止まって考えてみましょう。もし、神が悪人や正しくない者に対して太陽を昇らせなかったり雨を降らせなかったりしたら、どうなるでしょうか?太陽の光や水分は、生存にとって必要不可欠なものですので、それらを失う彼らは一気に滅び去ってしまうでしょう。悪人から危害を被った人からみれば、いい気味だ、ということになるのですが、神は悪人が悪人のままで滅んでしまうのを望んでいないのであります。神は悪人が悔い改めて、神のもとに立ち返ることを望んでいて、それが起きるのを待っているのです。彼らが、イエス様を救い主と信じる信仰に入って、永遠の命に至る道を歩む者の群れに加わることを待っているのであります。悪人にも太陽を昇らせ雨を降らせるというのは、神のもとへ立ち返る可能性を与えているということなのです。

ここから、敵を愛するということがどういうことかわかってきます。それは、悪に対する無原則な気前良さではありません。イエス様が人間を罪と死の支配から救い出すために死なれたのは、全ての人間に対してなされたことです。神は、全ての人間がイエス様を救い主と信じて、この「罪の赦しの救い

を受け取ることを願っているのです。キリスト信仰者は、この神の願いが自分の敵について実現するように祈り、行動するのです。イエス様は、迫害する者のために祈れ、と命じられますが、何を祈るのかというと、まさに迫害する者がイエス様を自分の救い主と信じて神のもとに立ち返ることを祈るのです。「神様、迫害が終わるために迫害者をやっつけて下さい」とお祈りするのは、神の御心に適うものではありません。迫害を早く終わらせたかったら、神様、迫害者がイエス様を信じられるようにして下さい、とお祈りするのが御心に適う祈りでしょう。

このように、キリスト信仰の隣人愛とは、苦難困難に陥っている人たちに対する人道支援にしても、敵や迫害者を愛することにしても、いずれにしても、愛を向ける人たちが「罪の赦しの救い

を持てるようにすること、そうすることで彼らを永遠の命に至る道を歩む群れに加えるようにすることが視野に入っているのです。神がひとり子イエス様を用いて私たち人間にどれだけのことをしたかを知れば知るほど、この神を全身全霊で愛するのが当然という心が生まれてきます。神がしてくれたことの大きさを知れば知るほど、敵や反対者というものは、打ち負かしたり屈服させるためにあるものではなくなります。敵や反対者は、神が受け取りなさいと差し出してくれている「罪の赦しの救い」を受け取ることができるように助けてあげるべき人たちになっていきます。

私たちが愛することができるために、まず、神が私たちをどれだけ愛して下さったかを知ることが最初になければならないことが、ヨハネの第一の手紙 4章9~11節で言われていますので、最後にそれを引用して本説教の締めとしたく思います。

「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


主日礼拝説教 2014年11月9日 聖霊降臨後第22主日
11月9日の聖書日課 マタイによる福音書22章34-40節、申命記26章16-19節、第一テサロニケ1章1-10節 


説教「神のものは神に」木村長政 名誉牧師、マタイによる福音書22章15~22節

今日の福音書はイエス様とファリサイ派の人々、そしてヘロデ派の人々との論争であります。イエス様はこれまでにも、一瞬たりとも気の抜けない、ユダヤの宗教的なグループと激しい戦いをされて来ました。今回はファリサイ派の若手の弟子たちと、そして更にヘロデ派の若手の弟子たちとがいっしょになって、イエス様を罠にかけようとする議論の戦いであります。

この時、なぜ、ファリサイ派もヘロデ派も若手の弟子たちがイエス様を罠にかけようとしたか。マルコの福音書12章の方を見ますとイエスは「ぶどう園と農夫」のたとえを話されました。このたとえで、ぶどう園の主人が自分の息子まで、貸し付けてやっている農夫たちに打ち殺されてしまった。その報復として「主人は農夫たちを殺し、ぶどう園を他の人たちに与えるにちがいない」と話され、これを聞いていた祭司長、律法学者や長老たち、つまり宗教指導者は、イエスが自分たちに当てつけて、このたとえを話されたと気づいてイエスを捕らえようとしたが、群集を恐れた。それでイエスをその場に残して立ち去った。とマルコ12章12節にあります。

イエス様にとっては命の危険にさらされての戦いです。その後です、今日の聖書のマタイの方の福音書22章15節を見ますと、それからファリサイ派の人々は出ていって、今度は若手の弟子たちがイエスの言葉じりをとらえて罠にかけようと相談した。同じようにヘロデ派の若手も今度はいっしょになってイエス様に議論をしかけてきたのでありました。 ヘロデ派の人々もいっしょに結託してイエス様を罠にかけようとした、というのは驚くべきことでした。

ヘロデ派というのは、ヘロデ王家の支配を支持する党派の人々です。当時、ガリラヤの領主でありましたヘロデ・アンティスパスという王のもとで、ローマ皇帝の手先となって、地上の繁栄を第一と考えている保守派といっていいグループです。一方ファリサイ派はユダヤ教の律法をきちんと守って生きることが自分たちの神から選ばれた民として第一の生き方だというグループです。

だから普段からファリサイ派とヘロデ派とは全く相入れない人々であった。にもかかわらず、ここにイエスを陥れようというひとつの目的では協力して罠にかけようとしているわけです。こうしてファリサイ派の弟子たちが一緒になって、イエス様のところに遣わされて尋ねさせた。16節です、「先生、私たちは、あなたが真実な方で心理に基づいて神の教えを、誰はばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。」 イエス様という方を彼らがどう見ているか、又民衆も、どう見ているか、真実で神の教えを、なさっている方として見ています。

その上で、イエス様をおとし入れようと企んで、イエス様に質問しています。「皇帝に、税金を納めるのは、律法に適っているのでしょうか。適っていないのでしょうか。」納税の問題です。ローマ皇帝に税金を納めなければならない、というのは、大変重い生活にのしかかる課題でありました。ローマ皇帝は納税させるため、人口調査というものをしました。この調査によって、人頭税というものを義務付けたのでした。

こうして、ユダヤは、ローマ帝国の属州として総督の管轄下に置かれていました。ユダヤ民族は、政治的にも隷属されている、というローマの権力に対して強い反発をもっていました。たびたび反ローマ闘争を起していました。だから、若手の弟子たちを、イエスに向けさせた、といってもいい程です。しかも、この人頭税に納めるのはデナリ銀貨に限るというものでした。なぜでしょうか、このデナリ銀貨には、皇帝の肖像が刻印されてあって、その裏には「神的、アウグストウスの子、皇帝にして大祭司なるティべリウス」という文字が刻まれていたものでした。

だから、これは、この人頭税をもってローマ皇帝の政治の支配下に服従せよ、というしるしです。しかも「大祭司なるティべリウスこそ神である」という神の権威を宣言しているわけです。だから、神の律法を大事にした、忠実なユダヤ教徒の間で、納税に対しては強い反対があったのでした。逆にヘロデ派の人々はローマ皇帝の言う通りに従う、保守的な人々ですからヘロデ王家を支えていくのに納税に賛成です。

ですから簡単に申しますとイエス様が、この納税に対して、どちらの方に味方しても批難される立場におち入ってしまうのでした。イエス様は彼らの質問が悪意に満ちた企みである事を見抜いておられます。そこで言われました。「偽善者たちよ」と言って「税金に納めるお金を見せなさい。」と、彼らがデナリ銀貨を持ってくると「これは誰の肖像と銘か」と きかれた。彼らは「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」と言われた。

彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った。イエス様の言葉はカイザルの支配下に無条件に従え、と言われたわけではない。「神のものは、神に返せ」という、次の言葉こそ最も大事な意味を持ったものであります。「デナリ銀貨には、皇帝の肖像が刻印されているように、人間は神にかたどり、神のかたちに創られているのだ」と言うこと。 そして、その全存在はすべて神のものである。だから神のものとなる自分をささげて生きなさい。ということです。このすべてのことが律法の根本精神である、ということです。

このイエス様の言葉が聞く人々のすべてに、いかに驚きをもたらしたか。三つの福音書とも、この出来事をしっかりと記しています。実にあざやかな結果となりました。「ものは神に返す」ということを今度は具体的な問題として、自分がどのように信仰の中で受けとめ、 どのように生きていくか、各々の人の判断に委ねられているのであります。イエス様を主と信じるキリスト信徒は霊的には神の支配に服して生きる、ことであります。同時に私たちはこの世にある者として、この世の政治の支配の権力の下にある法律のもとにあります。

パウロはキリストの福音を異邦人のため、宣教して行きました。そして、パウロは福音宣教の最終目標をローマに置いたのであります。当時の世界の中心地です。パウロは彼の生涯の終わりに、ロマ書を後世の遺言として書き残しました。その13章1節に次のように記しています。「人はみな、上に立つ権威に従いなさい」イエス様が言われた「カイざるのものはカイザルに返しなさい」「ローマ皇帝の権力の支配下に生きるのなら、その地上の権威に従いなさい」同時に神の霊の世界に信仰によって生かされているキリスト者は、神の御国の支配の権威のもとに従って生きなさい。という二国論がルターの時代にも論じられました。

ルカは使徒言行録の中に、キリストの福音はローマ帝国の治安を乱すものではなく、皇帝支配の下に於いても存立していく。そして神の支配は、すべての、この世の権力の支配を越えていく。という道を貫いています。ユダヤの律法主義社会に福音が受け入れられない。そして異邦人世界へと、キリストの福音が述べ伝えられていく中に福音は、果たして定着できるだろうか、という、この課題がキリスト信仰の死活に関わる問いでありました。

ローマ皇帝を神つる支配体制の下に、いかに、キリストの福音が存立していけるのか。唯一の神を信じる信仰が貫いて行けるのか、これは皇帝礼拝との対決にほかならない。イエス様につきつけられた納税問答が、この動きを決定していく分岐点となっていったのであります。こうした後々の時代にまで及ぶ歴史的展望からして見ると、いかに、イエス様の答えが重大な意味をもつものであったかがわかります。唯一の神、ヤハウェーを信じる信仰を純粋に守るため熱狂的に反ローマ闘争にのめり込んで行った、ファリサィ派の道をイエス様はお取りにならなかった。

「カイザルのものは、カイザルに返せ」。この世の帝国の支配にあって、なお「神のものは神に返して生きよ」ということが、まことの唯一の神信仰が貫かれていくための、余地を残していく、決定的役割を果たしていくものである、ということ。キリスト信徒のの群れはローマ皇帝の支配下にあっても、ただ単に体制に順応して、のめり込んだのではない、迫害の苦しみに耐え信仰は貫かれていった。やがて時代は皇帝がイエスキリストの父なる神の名のもとに戴冠式を行うようになった、というこの歴史の事実を見て、「神のものは神に返せ」というイエス様の一言の言葉が、やがて後に世界を支配する聖なる世界へと変えられていく原動力となったのであります。   アーメン

 

聖霊降臨後 第21主日(緑)  2014年11月2日

説教「神に選ばれた者とは誰か」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書22章1-14節

 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1.「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」(22章14節)。イエス様は、本日の福音書の箇所である婚宴のたとえを、このように結びました。「選ばれる」というのは、天地創造の神に相応しい、神の目に適う者として神自身によって選ばれることを意味します。「神に選ばれる人」ないし「神に選ばれた人」という言葉、ギリシャ語ではエクレクトスεκλεκτοςと言いますが、これには二つの厄介な問題が付きまといます。

第一の問題は、誰が神に選ばれた人なのか、そしてこの自分は神に選ばれた者なのか、という疑問を生み出します。そうすると今度は、では神が選ぶ基準は何か、何を満たせばそのような者であると言えるのか、という疑問がついてきます。選ぶ主体は、天と地と人間を造り人間に命と人生を与えた創造の神です。それで、造られた人間があたかも神の考えがわかったように基準を論じるのは、ちょっと僭越ではないかと思われるのですが、いずれにしてもこれらの疑問はそう簡単に解きほぐせるものではないでしょう。

 第二の問題は、今述べた疑問を解明できたと思った時に出てくるものです。「選ばれた者」の基準を解明したぞ、それによると自分こそは神に選ばれた者だ、とか、我々こそは神に選ばれた民族だ、という具合に、選民思想が生まれてくるのであります。自分ないし自民族を神に選ばれたものとしてみると、自分以外、自民族以外は選ばれたものではなくなる。神に選ばれた自分たちは神に近く、他の者たちは遠いことになる。そうなると、上下の見方で自分と他者を分けることになる。神に選ばれ、神に近い以上、自分たちこそが正しさを代表し、他の者には正しさはない。そういうふうに善悪の見方でも自分と他者を分けることになる。こうした優越意識と独善性が結びつく選民思想は、人類の歴史にしばしば悲劇をもたらしてきたことは、私たちもよく知るところです。

 ところで、婚宴のたとえでのイエス様の主眼は、私たちが「神に選ばれた者」であれ、ということです。そうしないと、たとえの中で礼服を着ていなかった人のように神の国から追い出されてしまうことになるぞ、と警告しているのであります。それでは、「神に選ばれし者」たれと教えるイエス様は、私たちが選民思想を持つようにしろ、そして、キリスト教徒でない者を見下して、自分たちこそが正しさの権化であるかのように振る舞え、と教えているのでしょうか?いいえ、全くそういうことではないのです。イエス様を救い主と信じるキリスト信仰にあっては、「神に選ばれし者」というのは、いわゆる選民思想とは全く無縁のものです。本質的に見てキリスト信仰は、自分を他の者よりも高くすることをしない信仰です。もし誰か、イエス・キリストの名前や天地創造の神の名前に依拠して自分を高くしたり他の者を低くする者がいたら、その人は、神の名をみだりに唱えたことになり、十戒の第二の掟を破ることになります。

 それでは、キリスト信仰者にとって、「神に選ばれし者」とは何を意味するのでしょうか?本説教では、まずそれを明らかにしていきます。それができたら今度は、私たちは果たして、その意味で「神に選ばれし者」であるのかどうか?そのことを考えてみたく思います。

 

2.本日の福音書にある婚宴のたとえは、イエス様がエルサレムの神殿で敵対者である大祭司や長老たちを相手に語った三つのたとえのうち最後のものです。初めの二つのたとえでは、イエス様は解き明かしをしますが、この最後のものにはしません。それが、このたとえを難しいものにしています。最初の「二人の息子」のたとえ(21章28~32節)では、父親にブドウ園で仕事をしなさいと言われた息子が二人いて、一人は最初は「行かない」と言ったのに「思い直して」行った、もう一人は「行く」と言ったのに行かなかった、という話でした。イエス様はこれを解き明かして、「思い直して」ブドウ園に行った息子というのは、洗礼者ヨハネを信じて「思い直し」をした罪びとである、これに対してブドウ園に行かなかった息子は、洗礼者ヨハネを信じず「思い直し」もしなかった大祭司や長老たちである、と解き明かします。

二番目のたとえは、「ブドウ園と雇われ農夫」です。これは先週の主日の福音書の箇所でした。イエス様はたとえの結びで、神の国はイスラエルの指導者たちから取り上げられて異教徒に引き渡される、と解き明かしました。これをもって、たとえのなかにでてくるブドウ園は神の国、ブドウ園の所有者は神、所有者が送り続けた僕は神が送った預言者、所有者の息子は神のひとり子イエス様、邪悪な雇われ農夫こそは大祭司や長老たち、イスラエルの指導者たちを指すことが一気に明らかになったのでした。

ところが、本日の婚宴のたとえには、そのような解き明かしがありません。もちろん、聖書を何度も読んだり、注釈書を読んだりした人は、たとえに出てくる人物や出来事が何を指すか、もう知識があるでしょう。それでも、このたとえには細心の注意を払ってみなければ理解が難しいことが多くあります。そういうわけで、細心の注意を払ってこのたとえをみてみましょう。

イエス様はたとえの冒頭で「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている」(2節)と言います。ギリシャ語原文は少し違っていて、「天の国は、王子のために婚宴を催した王に似ている」とあります。つまり、天の国と王が似ているもの同士になっています。これはわかりにくい表現ですので、少しわかりやすくしますと、次のようになります。「天の国は、私がこれから話をする王の行動様式や思考様式に沿ったところである。だから、たとえの中で王が何をし、何を言うか、よく聞きなさい。そうすれば、天の国がどんな国かわかるだろう」ということになります。「天の国」は「神の国」と同義語です。マタイにとって「神」と言う言葉は畏れ多すぎるので、しばしば「天」という言葉に置き換えます。

たとえに出てくる王は、神を指します。王子は、神の御子ということになります。このたとえで読者の注目を引き付けることは、この神の御子は何もしないということです。影のような存在です。先週の「ブドウ園と雇われ農夫」のたとえでは、所有者の一人息子がブドウ園に派遣されて殺されてしまいますが、すぐに神のひとり子が十字架に架けられる出来事を指すとわかりました。ところが、婚宴のたとえでは、神のひとり子にまつわる出来事は何もありません。それが、このたとえの理解を難しくする原因となっています。

しかしながら、目をよく見開いて読んでいくと、神の御子の働きはちゃんとたとえの中にあることがわかります。王は招待客への伝言として「食事の用意が整った。牛や肥えた家畜を屠って、全て用意ができた」(4節)と言います。最初の招待が頓挫した後、王は家来に「婚宴は用意できているのだか」とこぼします。このように「用意できている」という言葉が繰り返されます。これは、神の人間救済計画が実現したということ、人間の救いは神の側で全て整えて準備できているということを指します。イエス様は、十字架の上で息を引き取られる直前に「全てのことが成し遂げられた」(ヨハネ19章30節)と言われました。成し遂げられた「全てのこと」とは、神の人間救済計画の全部を指します。それが、イエス様の十字架の死と死からの復活によって全て実現された。人間の救いは神の側で全部用意して下さった、整えて下さった、ということになります。つまり、婚宴のたとえの中では、人間の救済がイエス様の十字架と復活によって実現している、用意されているのです。そういうわけで、神のひとり子の存在は婚宴のたとえの中にも重々しくあるわけです。

ここで、神がイエス様を用いて人間救済計画を全部実現して下さった、ということについて、それはどういうことか、簡単に振り返ってみましょう。

創世記3章に記されているように、最初の人間アダムとエヴァの犯した神への不従順と罪がもとで人間は死する存在となってしまい、それまであった人間と神の結びつきは壊れてしまいました。そして、人間は代々死んできたことに示されるように、代々神に対する不従順と罪を受け継いできました。そこで人間を造られた神は、人間との結びつきを回復させよう、人間がこの世から死んでも永遠の命を持てて再び造り主である自分のもとに戻ることができるようにしようと計画を立てて、それを実現するためにひとり子イエス様をこの世に送られました。そして、人間と神との関係を壊してしまった原因である罪の力を無力化するために、本来人間が受けるべき罪の裁きを全てイエス様に負わせて十字架の上で死なせ、その身代わりに免じて人間の罪を赦すことにしたのです。人間は、この赦しを受けることで、罪と死の支配から自由の身とされることとなりました。

しかし、それだけで終わりませんでした。神は一度死んだイエス様を今度は復活させることで、死を超えた永遠の命の扉を人間に開いて下さいました。こうして人間は、この2000年前の彼の地で起きた出来事が現代を生きる自分のためになされたとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、神の用意した「罪の赦しの救い」を受け取ることになるのです。受け取った後は、その救いを所有する者として、罪と死の支配から解放された者となって、永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩み始めるようになります。神との結びつきが回復したので、順境の時も逆境の時も絶えず神から良い導きと助けを得られ、万が一この世から死ぬことになっても、その時は神が御手を差し出して御許に引き上げて下さり、永遠に自分の造り主のもとに戻れるようになったのであります。

 

3.以上のような次第で、婚宴のたとえの中で言われている「用意ができたもの」とは、神がイエス様を用いて実現した救いであることが明らかになりました。次に、招待された者たちは誰を指すのかを見てみましょう。

招待された者たちは、二つのグループに分けられています。最初のグループは招待されたにもかかわらず出席を拒否した者です。王が出席を促すために家来を送っても、無視したり暴力をふるったり、果ては殺してしまう人たちです。このひどい招待客は誰を指すのか。また気の毒な家来たちは誰を指すのか。先にもみたように、人間の救いはイエス様の十字架によって神が全て用意して下さいました。それで、家来が来て神の用意されたものにどうぞ来てください、と言うのは、人々に十字架の福音を説いて神の国の一員に招くということです。つまり、無視されたり殺されたりしてしまう家来というのは、福音の伝道者、宣教者であります。招きに応じなかった者とは、福音を拒否した者であります。この福音の拒否者は、もともと神の国への招待を受けていた人たちなので、ユダヤ人を指します。(正確に言うと、最初のキリスト教徒はユダヤ人であったことから、ユダヤ人のある部分は招待を受け入れたのに対して、受け入れないで拒否したユダヤ人たちもいたということです。)さらに拒否した者たちの町、というよりは都市というのがギリシャ語の言葉ポリスπολις正確な訳ですが、それが罰として焼き払われます。この都市は単数形(定冠詞付き)なので、エルサレムを指すことは明らかです。実際に歴史上起こったこととして、紀元70年にエルサレムは神殿もろともローマ帝国の大軍によって焼き払われてしまいました。つまり、イエス様はたとえの中で、エルサレムの破壊を預言しているのであります。皆様もご存じのように、イエス様はこれ以外にも、エルサレムやその神殿の破壊について、事あるごとに預言しました(マタイ23章38節、併行箇所ルカ13章35節、マルコ13章1~2節および併行箇所)。本日のたとえでは、外国ではなく、神自身が大軍を送って都市を滅ぼしますが、これは預言が的確でなかったということではありません。旧約聖書に伝統的な考え方は、神は自分の民を罰する際に他国の軍隊を仕向けてかわりに罰させるというものがあり、イエス様はその伝統の上にたっているということです。

次に招待者の第二のグループ。最初のグループはもうだめだから、誰でもいいから呼んできなさい、という時、ユダヤ人ではない異教徒を指します。異教徒に十字架の福音を説いて神の国に招待しなさい、ということになりました。これも歴史上に実際に起こったことです。ここで、一つ注意しなければならないことがあります。それは、「罪の赦しの救い」を受け取って神の国の一員になりなさい、と招待されたのは善人だけでなく悪人も一緒でした。しかし、悪人は悪人のままで、神の意志に反する生き方のままでは婚宴会場には入れないということです。先ほど述べた三つのたとえの最初のもの、「二人の息子」のたとえ(21章28~32節)のところで、イエス様は当時のユダヤ教社会で最大級の罪びとであった娼婦と取税人を評価しましたが、これは彼らが洗礼者ヨハネを信じて「思い直し」をしたからです。従って、悪人であってももちろん婚宴には招待されますが、その悪人は婚宴の席に着くときには、既に「思い直し」を経て、元悪人でなければならないのです。悪人が「思い直し」のプロセスを経ることができるかどうかは、神の実現した救いをしっかり所有できているかどうかにかかっているのです。

 

4.以上から、いろんなことが明らかになってきました。ここで、本日の最大の問題に入っていきましょう。新しい招待客のグループで宴会場は一杯になります。王が招待客を接見しはじめると、一人礼服を着ていない者がいた。ギリシャ語に忠実に訳すと「婚宴用の服」です。王は尋ねます。「どのようにして、婚宴用の服をつけずにここに入って来れたのか。」(日本語では「どうして」という理由を聞く訳ですが、「どのようにして」とか「いかにして」が原文の正確な意味です。)答えられない客は手足を縛られて外の暗闇の世界に投げ出されてしまいます。ここで起きる疑問は、この婚宴用の服をつけなかった者は誰を指すか、ということ、それから、婚宴用の服とは何を指すか、ということの二つです。イエス様は、その服がない者は招かれただけで選ばれた者ではない、と言われます。「神に選ばれし者」がいかなる者であるかをわかるためにも、この婚宴の服が何を指すのかを突き止めることは重要です。

 そこでまず、招待客で一杯になって王が接見を始めるこの婚宴が何を指すのか、それから見てみましょう。黙示録19章7、9節に、この世の終わりの日に神の国で小羊の婚宴が始まることが預言されています。つまり、本日の婚宴のたとえで王が招待客の接見をする場面は、まさにこの世の終わりの日、今ある全てのものが消え去って天と地も新しくされて神の国だけが残る日です。その日に全てのものが消え去って神の国だけが残るということは、「ヘブライ人への手紙12章27~28節、「ペトロの手紙二」3章10、12~13節に預言されています。婚宴に招待されるというのは、終末の後に始まる神の国の大祝宴に招待されるということであります。神がイエス様を用いて人間の救いを実現したことは、先ほど見た通りです。神はこの実現済みの救いを、どうぞ受け取って下さい、と全人類に提供しているのです。つまり、神の国の一員となって祝宴にどうぞと人類全てを招待しているのです。もし人間がイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、この救いを受け取ったことになり、それは祝宴の招待を受諾したことになります。つまるところ、キリスト信仰者というのは、神がどうぞと言って差し出しているものを、はい、ありがとうございます、と言って受け取った人であると言うことができます。

 そういうわけで、神に招待されてそれを受諾した人というのは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて神の実現した救いを所有する者となった人、そして永遠の命に至る道を歩み始めた人とういうことが明らかになりました。そこで、婚宴の席につけるというのは、その道を歩み終えて永遠の命を持つに至って、神の国の一員以外の何者でもなくなったことを意味します。その時、婚宴用の服をつけていない者のエピソードが示すように、婚宴の席に着くにはその服は絶対条件であります。洗礼を受けて神の実現した救いを所有するようになったのに、婚宴用の服などとまた何か新しいものを獲得しなければいけないのか?この婚宴用の服とは一体何なのか?そのことを見てみましょう。

 まず、ルターがキリスト信仰者とはどのような者を言うのかについて、次のように教えてあるところから見ていきます。

「キリスト信仰者というものは、実は、完全な聖なる者なんかではなく、始ったばかりの初心者であり、これから成長していく者たちということである。そのため、キリスト信仰者の間でも、憎しみ、欲望、誤ったものへの偏愛、神の守りを信用せずに心配事に身を委ねること、その他もろもろの欠点に出くわすのである。使徒パウロは、これら全てを「隣人が背負っている重荷」と呼び、我々は相手の内にそれがあると認めて忍耐しなければならない、と教えた。キリストもかつて弟子たちのなかに欠点があることを認め、忍耐し、背負って下さった。そして、今もキリストは、私たちの内にある全く同じ欠点を毎日、背負って下さっているのである。」

 これを読むと、キリスト信仰者であることは、信仰者以外の者に対しても、また信仰者同士においても、自分を高くし他の者を低くするような優越意識からほど遠い存在であることがわかります。もともと選民思想など抱けない存在なのであります。洗礼を受けて神の実現された救いを所有する者となったのに、どうしてこんな情けない存在なのかというと、それは、救いを所有するとは言っても、私たちはまだこの世を生きている間は肉をまとっているからであります。肉をまとっているという点については、キリスト信仰者もそうでない者も全く同じであります。肉をまとっている以上、神への不従順や罪、さまざまな欲望やねたみや憎しみ等々を信仰者でない者と同じように持っています。

それじゃ、洗礼を受けても何の意味もないじゃないか、と言われそうですが、キリスト信仰者とそうでない者の間には大きな違いがあります。それは、信仰者は洗礼を通して神の霊、聖霊を受けたことです。神の霊はまず、わたしたちの肉から生じる神への不従順、罪をつきとめ、「それは神への不従順です。あなたにはそれがあります」、「それは罪です。あなたにはそれがあります」と明確に教えてくれます。そんなに汚れた存在であることを暴露されてしまい、神から引き裂かれてしまったショックを受けていると、聖霊はすかさず「それでは、目をあちらにだけ向けなさい」と命じます。あちらにあるものとは、十字架にかかったイエス様です。そこに目を向け、さらに目を凝らしてみると、彼の両肩、頭の上にはなんと私の不従順と罪が覆いかぶさっている。私の不従順と罪は私から取り去られて、彼の上に覆い被せられた。そして、私は、なぜ彼があそこで死んだのかがわかる。このようにして、彼は私が受けるべき罰を私に代わって受けられたのだ、と。この時、イエス様は私の救い主となり、これらのことをひとり子を犠牲にしてまでも私のために行われた神に感謝し賛美しようという心が生まれる。そして、私が感謝して止まない神の御心を、私は知ろうとし、それに従って生きよう、いう心が生まれる。それは、神を全身全霊をもって愛し、隣人を自分を愛するが如く愛するということである。自分もそうしよう。これだけの愛を受けたのだから、ということになる。

しかしながら、また現実の世界に一歩踏み入れて、いろんな人や出来事に遭遇し、いろんな問題や悩みに直面すると、また不従順や罪が頭をもたげてくる。妬んだり、嫉妬したり、陰で悪口言ったり、それを喜んで聞いたり、神が与えて下さったり結び付けて下さったものから別のものへ目移りしてしまったり等々、無数です。しかし、それでも神のもとに戻れる可能性はしっかりあります。ゴルゴタの丘の十字架に架けられた主に心の目を据えつつ、礼拝の時に行う罪の告白で、また牧師や信頼できる信徒と個別に行う罪の告白で、私たちは神から赦しを得ることが出来ます。神から得られる赦しは、また、聖餐式の時には、主の血と肉を受けるという具体的な形を取ります。

 このようにキリスト信仰者とは、現実世界をしっかり生きながら内面の戦いを戦う者たちです。絶えず十字架の主のもとに立ち返ってそれに依拠しながら生きていくことで、肉に繋がる古い人間を日々死に引き渡し、洗礼によって植えつけられた新しい人間を日々育てていくのであります。そして、私たちがこの世を去る時、肉は完全に取り去られて、瞬き程の一瞬のうちに復活の命を持つ存在に変えられ、ルターの言葉を借りるなら、その時に「完全なキリスト教徒」になるのであります。

 そこで、婚宴用の服とは、洗礼の時に私たちの肉を覆うように被せられた目には見えない純白の服を指します。不従順と罪を宿す肉は内側に残っていますが、神は洗礼の日からは私たちを純白な者として見て下さいます。本当は、まだ不従順と罪を宿しているのに。聖霊の導きに従順に従って、自己の不従順と罪と向き合い、絶えず十字架の主に目を据えるという内面の戦いをしっかり戦い抜いた時、私たちは婚宴の席についているのです。その時、洗礼の時に着せられた純白の服が失われていなかったことに気づくでしょう。それが、選ばれた者の印なのであります。婚宴用の服をつけていない者とは、洗礼後の人生において、自己の不従順や罪と向き合わなくなったり、十字架の主に目を据えることがなくなってしまって、内面の戦いを放棄してしまった人たち、そうして洗礼の時に被せられた純白の服が失われてしまった人たちであります。彼らは招かれて招待を受け入れた者ではあったが、選ばれた者にはならなかったのであります。

 終わりに、内面の戦いと言っても、それは人間関係が渦巻く現実世界を生きることから生じる戦いなので、たいていは外面の戦いと連動しています。それゆえ、時として自己の能力の限界を試されるような試練も来ます。そうした時、この戦いは孤独な戦いで誰にもわかってもらえないと意気消沈する必要はありません。周りには信仰と志を同じくする兄弟姉妹たちがいます。それから、常に私たちの側に立って戦ってくれる無敵の同士がいます。復活によって死を滅ぼされた主イエス様です。主は、世の終わりまで毎日毎日私たちと共にいる、と約束されました(マタイ28章20節)。主が約束されたことを、私たちが疑うことは許されません。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


聖霊降臨後第20主日
2014年10月26日の聖書日課  マタイ22章1-14節、エレミア31章1-6節、フィリピ3章12-16節


説教「キリスト信仰者の歴史観」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書21章33-44節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.本日は、「キリスト信仰者の歴史観」という説教題でお話をいたします。最近は歴史観とか歴史認識ということが、とかく近隣諸国との外交問題を引き起こす火種のようになってしまったりするのですが、本説教では、父なるみ神が与えようとしている平和が皆様の心の中に到達できるようにすることを目指していきたいと思います。

さて、本日の福音書の箇所は「ブドウ園と農夫」のたとえですが、正確に言うと、農夫は自作農ではなく雇われ身分ですので、「ブドウ園と雇われ農夫」ということになります。キリスト信仰者は言うに及ばず、信仰者でなくても聖書を読んだことのある人やキリスト教について知識のある人だったら、このたとえは容易に理解できるのではないかと思います。ブドウ園の所有者は神を指し、雇われ農夫は当時のイスラエルの指導層の人たち、所有者が送って殺されてしまう僕たちは神が遣わした預言者、そして所有者が最後に送る自分の息子はイエス様という具合に、たとえに出てくる人物が誰を指すかは一目瞭然です。

 ところで、イエス様が面と向かい合って話をしていた当時の人たちは、このたとえをどう理解したでしょうか?彼らは、このたとえを歴史上、一番最初に聞いた人たちです。このたとえは、イエス様がエルサレムに入城した後、神殿の中で大祭司や長老たちを相手に論争している時に話されました(21章23節)。彼らは、このたとえを私たちと同じように理解したでしょうか?私たちの理解はというと、実はイエス様の十字架の死と死からの復活の出来事が起きたことを前提としています。その出来事が起きたと知っているので、ブドウ園の所有者の息子の殺害は、神のひとり子が十字架にかけられたことを意味すると分かるのです。ところが、十字架の出来事が起きる以前では、同じような理解はおそらく得られないでしょう。所有者の息子の殺害と重ね合わせて見られる出来事がまだ起きていないからです。そういうわけで、はじめてこのたとえを聞いた人たちは、私たちと正反対にとても難しかったと思います。以下、このことを念頭に入れて、本日の福音書の箇所を解き明ししていこうと思います。

 

2.最初に、21章33~39節までを見てみます。ブドウ園の所有者は雇われ農夫に園を任せて旅に出ます。日本語で「旅に出た」と訳されているギリシャ語原文の動詞アポデーメオーαποδημεωは、「外国に旅立った」というのが正確な意味です。どうして旅先が外国かというと、当時、地中海世界ではローマ帝国の金持ち層が各地にブドウ園を所有して、現地の労働者を雇って栽培させることが普及していました。所有者が労働者と異なる国の出身ということはごく普通だったのです。「外国に出かけた」というのは、所有者が国に帰ったということでしょう。こうした背景を考えると、38節で、雇われ農夫が所有者の息子を殺せばブドウ園は自分たちのものになると考えたことがよくわかります。普通だったら、そんなことをしたらブドウ園は自分たちのものになるどころか、すぐ逮捕されてしまうでしょう。ところが、息子は片づけたぞ、跡取りを失った所有者は遠い外国にいる、もう邪魔者はいない、さあブドウ園を自分たちのものにしよう、ということであります。

 さて、収穫の時が来て、所有者は収穫を受け取るために僕を繰り返し雇われ農夫のもとに送るが、農夫は僕たちを殺してしまう。しまいには、これならいくらなんでも言うことを聞くだろうと、自分の息子を送るが、これも殺してしまう。これら一連の出来事の意味は、私たちには明らかです。初めにも申しましたように、所有者は神、雇われ農夫はイスラエルの指導層、僕は神が送った預言者たち、所有者の息子は神のひとり子イエス様です。ところが、十字架と復活の出来事が起きる以前、まだイエス様が本当に神の子なのかはっきりせず疑いがもたれていた時、「これは誰それを指す」とすぐには判明できなかったでしょう。彼らのたとえの理解の仕方は、単に哀れな所有者と邪悪な雇われ農夫との間に起きた事件にしか聞こえないのであります。文字通り額面通りの理解にしかならないのであります。

たとえを話し終えたイエス様は40節で、聞き手の大祭司と長老たち、つまりユダヤ教社会の指導者たちに質問します。「ブドウ園の所有者が戻ってきたら、雇われ農夫たちをどうするだろうか?」大祭司たちの答えは的を得たものでした。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ブドウ園はきちんと収穫を収めるほかの農夫たちに貸す。

この答えは、たとえに出てくる登場人物が誰を指すか全く知らないで、たとえをただ額面通りに理解した時に出たものです。まさか自分たちのこの答えが、自分たちの運命を自分で言い表すものになっていたとは、彼らにとっても文字通り想定外のことだったでしょう。

大祭司たちの答えの後、イエス様はすぐ「隅の親石」の話をします(42節)。家を建てる者が捨てはずの石が、逆に建物の基となる「隅の親石」になった。これは詩編118章22~23節からの引用ですが、これも、私たちの目から見れば、意味は明らかです。捨てられたのは十字架に架けられたイエス様、それが死からの復活を経て、神の国という大建築の基になったのであります。ところが、十字架と復活の出来事が起きる以前に初めてこの引用を聞いた人たちは、一体何のことかさっぱりわからなかったでしょう。彼らは、「ブドウ園と雇われ農夫」のたとえを額面通りに理解しました。その理解に基づいてイエス様の質問に答えました。そこで突然、彼らも知っている詩編の聖句が引用されたのです。一体、この三つの事柄はどう結びついて何を意味しているのか、当時の人たちには全く意味不明以外の何ものでもありません。

そこでイエス様は、初めてこれらを聞いた人たちに対して、全ての謎の解き明かしをします。43節です。「それゆえ、お前たちから神の国は取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。」日本語で「民族」と訳されているギリシャ語の言葉エスノスεθνοςは、たいていユダヤ人以外の「異教徒」を指す言葉です。ここにきてやっとイエス様の教えの全貌が大祭司たちにはっきりします。ブドウ園を神の国と言うのなら、その所有者は神ではないか!所有者が送って殺されたり迫害された僕たちとは、旧約聖書に登場する預言者たちではないか!つまり、邪悪な雇われ農夫というのは自分たちのことだったのか!この時点に至って大祭司たちがたとえは自分たちについて言っているとわかった、と45節で言われています。それまでたとえを額面通りにしか理解できず、外国人ブドウ園所有者と現地人雇われ農夫の悲惨な出来事にしか聞こえていなかったのが、急にユダヤ教社会の指導層と神の民イスラエルの運命についての痛烈な批判に急変したのです。ましてや、神の国が自分たちから取り去られて異教徒に渡されてしまうというようなことを、自分たちの口を通して言わさせるとは!怒りが燃え上がった大祭司たちは寸でのところでイエス様を捕えようとしましたが、まわりにイエス様を支持する群衆が大勢いたためできませんでした(46節)。

たとえを使って聞き手に本当の姿を思い知らせるというイエス様の手法は、実はかつて預言者ナタンがダビデ王に対して使ったものと同じです(サムエル記下11~12章)。ダビデ王は一目ぼれした人妻ベト・シェバを手に入れようとして、その夫ウリヤを戦争の最前線に送って戦死するように罠をかけて目的を達成する。その時、神は預言者ナタンを遣わして、ダビデに対して次のようなたとえを話させる。二人の男がいて、一人は金持ちで多くの羊や牛を所有していた。もう一人は貧しくて一匹の小羊しか持っていなかった。貧しい男はその小羊を自分の子供のように大事に育てていた。ところが、ある日、金持ちのところに来客があり、男は客をもてなさなければならなくなった。しかし、自分の羊や牛は出し惜しみ、貧しい男の小羊を奪って、客に振る舞った、という話です。

さて、ダビデ王はたとえの本当の意味を理解せず、額面通りに受け取りました。そして、その金持ちに怒りを燃やし、そんな男は死刑だとまで言う。それくらい王は、何が正しく何が悪かはわかっている。しかしながら、それは、問題が自分をさしおいて他人に関わる時だけでした。まさにその時、ナタンは、その金持ちとはお前のことだ、神から不足なく与えられていながら、不正を働いてまで欲望を満たすとは何事か、神が与えて下さるものでは足りないと言うのか、そのように神を軽んじる者は厳しい罰を受けてしまえ、と鉄槌を下します。一気に目を覚ませられたダビデは、自分がしたことは大罪であったと認めます。

「ブドウ園の雇われ農夫」のたとえで、イエス様は、実にこのナタンのたとえの手法を踏襲していることがわかります。まさに、雇われ農夫とはお前たちのことだ、というのであります。たとえを用いて、聞く者の真の姿を思い知らせるのであります。ところが、イエス様の場合、ナタンのたとえと一つ大きな違いがあります。ナタンの場合、たとえを聞いて、自分の真の姿を思い知らされたダビデは罪を認めて悔い改めますが、イエス様のたとえを聞いた大祭司たちは悔い改めるどころか、自分たちの真の姿を知らされて逆上し、心を一層かたくなにしてしまいました。全く逆の効果を生み出してしまいました。神の意思というものが、もし、人間が神に対して罪と不従順を認めて悔い改めるものであるならば、ナタンのたとえは目的を果たしたことになります。しかし、イエス様のたとえはそれを果たしませんでした。イエス様のたとえは失敗だったのでしょうか?この疑問に対しては、次のように考えることができます。イエス様のたとえのせいで敵対者の心が一層かたくなになり、イエス様が十字架にかけられるのを確実にしていったとみれば、それは神の計画を実現に導いたのだから、大きな意味では目的を果たしすぎるほど果たしたと言えます。ただそれでも、別の大きな疑問が残ります。それは、神は御自分の計画を実現させるためには、信じない人たちの心を一層かたくなにしてしまうのか、という疑問です。どうして、信じない者を信じるように導かれないのか?神が人の心をかたくなにしてしまうということは、旧約新約聖書全体を通してあり、これは神を信じ神に信頼しようとする者にとって大きな問題です。この問題に対して、神の意図はこうこうですと言って安易に説明を下すことはできません。それくらい奥の深い問題だからです。ここで、神を信じる者が考えるべきことは、自分は神の意思をそっちのけにして自分の意思を優先させて生きていないかどうかを、たえず自己吟味することです。そこではっきり言えることは、神はそのような者に対しては、心をかたくなにすることはしないということです。

 

3.イエス様のたとえを聞いてその意味をわかった人たちが、なぜ一層心をかたくなにしてしまったのか?それは、神が御自分の計画の実現のためなら、信じない人の心を一層かたくなにすることも辞さない方だから、ということが明らかになりました。それならば、なぜ大祭司たちは一層かたくなにされてしまう前に、そもそも信じることができなかったのか?このことについて見ていこうと思います。何が彼らにとって正しい信仰の妨げだったのでしょうか?それは、彼らが、自分たちの行っている礼拝や崇拝は旧約聖書の律法や預言を全うしたものであると思い込んでいた、そうした己に対する無批判性、自己満足性にあったことでした。

当時のエルサレムの神殿はヘロデ大王が大増築したもので、縦横約400メートル、700メートル位の敷地をもち、外門をくぐって最初に出くわす広い前庭は「異教徒たちの前庭」と呼ばれていました。そこからソロモンの柱廊を通っていくと「女性の前庭」があり、これはユダヤ人の女性が到達できる場所、その先は「イスラエル人の前庭」で、ユダヤ人の男性が入れるところ、その次には祭司だけが入れる幕屋があり、垂れ幕の後ろには大祭司しか入れない最も神聖な場所、至聖所がありました。「異教徒たちの前庭」は興味深い場所です。ユダヤ人でない異教徒でも、ここまでなら神殿に入れて生け贄を捧げることができたからです。これは、神殿を運営する側としては、イザヤ書2章にある預言、世界の歴史が終わる日に諸国民が天地創造の神にひれ伏してその律法を学ぼうと「大河のように」こぞってエルサレムにやってくるという預言、それが実現したという雰囲気を与えたことは容易に想像できます。

しかしながら、当時のエルサレムの神殿が神の約束の実現とみなすのは自己欺瞞でありました。ご存じのように当時イスラエルはローマ帝国の占領下にあり、神の民は少なくとも外面上は解放された民族とは言えませんでした。さらに、異教徒が生け贄を神殿に捧げに来るとは言っても、ふたを開ければ、確かに天地創造の神に畏れを抱いている異教徒もいるが、他方ではなにも天地創造の神ひとりだけを信じているわけではない多神教の者もいる。そういう人からすれば世界各地の神を拝んでいればそれだけおめでたいことになるというだけですから、これは天地創造の神が命じる「私以外に神があってはならない」という掟からほど遠いわけです。このように地中海世界全域のユダヤ人及び異教徒たちの吸引力となったエルサレムの神殿は、ユダヤ教社会の指導者たちにとって自己満足を満たす以外の何ものでもなかったのでした。

それが神の御心からかけ離れていると見破ったのがイエス様でした。本日の福音書の箇所の前の21章12~13節で、エルサレムに入城したイエス様はすぐ神殿に乗り込み、そこにずらっと並んであった両替商や生け贄用の鳩を売る出店をことごとくひっくり返して、即座にイザヤ書56章7節とエレミア書7章11節にある神の言葉に訴えて、神殿の礼拝・崇拝の欺瞞性を暴露します。「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。ところがおまえたちはそれを強盗の巣にしている。」

イエス様が、現存の神殿で行われている礼拝・崇拝が神の御心とは別物であるとみなしたのは、それは彼が神のひとり子として神の御心を知っていたからにほかなりません。ユダヤ教社会の指導層から見れば、現存の神殿で行われている礼拝・崇拝をもって、律法や預言が一応完結したということなのですが、そもそも律法や預言の本当の目的は何かと言うと、それは神の人間救済の計画とその実現の仕方について教え、知らせることでした。イエス様はそのことを一番ご存じでした。そして、自分を犠牲にしてその計画を実現したのでした。神の人間救済の計画と実現とは以下のことです。

創世記3章に記されているように、最初の人間アダムとエヴァの犯した神への不従順と罪がもとで人間は死する存在となってしまい、それまであった人間と神の結びつきは壊れてしまいました。そして、人間は代々死んできたように、神に対する不従順と罪を代々受け継いできました。そこで人間を造られた神は、人間との結びつきを回復させよう、人間がこの世から死んでも永遠の命を持てて再び造り主である自分のもとに戻ることができるようにしようと計画を立てて、それを実現するためにひとり子イエス様をこの世に送られました。そして、人間と神との関係を壊してしまった原因である罪の力を無力化するために、本来人間が受けるべき罪の裁きを全てイエス様に負わせて十字架の上で死なせ、その身代わりに免じて人間の罪を赦すことにしたのであります。この赦しを受けることで、人間は罪と死の支配から自由の身とされることとなったのであります。罪と死の支配から人間が贖われるために支払われた代償は、まさに神のひとり子が十字架で流した血でありました。詩篇49篇8~9節に記されているように、死する存在の人間は、命を買い戻す身代金を払うことはできません。なぜならそれはあまりにも高額だからです。それを神は、み子の血を代価にして人間を罪と死の支配から買い戻して下さったのです。

しかし、それだけで終わりませんでした。神は一度死んだイエス様を今度は復活させることで、死を超えた永遠の命の扉を人間に開いて下さったのです。人間は、この2000年前の彼の地で起きた出来事が、現代を生きる自分のためになされたとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、そのまま罪と死の支配から解放された者とされて、永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩み始めるようになるのであります。神との結びつきが回復した者として、順境の時も逆境の時も絶えず神から良い導きと助けを得られ、万が一この世から死ぬことになっても、その時は神が御手を差し出して御許に引き上げて下さり、永遠に自分の造り主のもとに戻れるようになったのであります。

神との結びつきが回復したということは、神との戦争状態がなくなって神との間に平和が打ち立てられたということです。イエス様がヨハネ14章27節で言っている平和、「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」と言うところの平和なのであります。ルターが教えているように、この世が与える平和とは外面的に嵐や動乱がない状態にすぎません。嵐や動乱が起きれば失われてしまうものです。しかし、イエス様が与える平和とは、外面的に嵐や動乱があっても保たれる平和です。つまり、神がイエス様を用いて実現して自分が受け取った神との結びつきは、いくら嵐や動乱が外面上は荒れ狂っていても、自分から手離さない限りはしっかり保たれているという、心と魂の平和です。この世が与える平和を肉による平和とすると、イエス様が与える平和は霊的な平和ということになります。

 

4.イエス様は、旧約聖書の律法と預言書の真の目的を正確に把握していました。つまり真理を把握していたのです。当時のユダヤ教社会の自己満足的な指導層の律法・預言書理解は、真理とはかけ離れたものでした。もし彼らがイエス様の教えを認めたら、現存の神殿の礼拝・崇拝は存立の根拠を失ってしまいます。それゆえ、指導層の抱いた反感や危機感は相当なものだったと言えます。イエス様が律法と預言書の目的を正確に把握していたということは、彼が神の人間救済計画を知っていたということです。神の民イスラエルの辿ってきた歴史はこの計画の実現に向かう歴史で、自分はその計画が最終的に実現するためにこの世に送られたのだということもわかっていました。

イエス様の十字架と復活をもって救済計画が実現した後は、人類の歴史は今度は、イエス様が再臨する日、つまり終末の日に向かう歴史となります。その日が来るまでに出来るだけ多くの人が神の実現された救いを受け取ることができるようにするというのが神の意思ですので、神の人間救済の歴史は十字架と復活の後も続きます。このように人類の歴史は、神の人間救済の歴史であります。

 しかしながら、学校で教える歴史、歴史学で研究される歴史は、これとは全く別ものです。そこでは歴史を神の人間救済計画が実現する場とか時間とは考えません。学校で教えられる歴史や歴史学で研究される歴史は、神とかこの世を超えたものは一切切り離して、この世の中の範囲内で人間が認識できるもの確認できるものだけを見ていき、それ以外のものは見ません。そのような歴史は、キリスト教の誕生についてだいたい次のように説明します。

「ナザレ出身のイエスは、自分を神の子とかユダヤの王と称して、神の愛や隣人愛についてユダヤ教に顕著な自民族中心主義を超える教えを説いたため、ユダヤ教社会の指導層と激しく対立し、最後は占領者ローマ帝国の官憲に引き渡されて処刑された。その後、イエスにつき従った弟子たちの間で、彼が死から蘇ったとする信仰が生まれ、彼こそは旧約聖書に約束された救世主メシアだったと説き始め、使徒ペテロはユダヤ人を中心に、使徒パウロは異教徒を中心に伝道し、そこからキリスト教が形成されていった」という具合です。

お気づきのように、こうした歴史では「イエスにつき従った弟子たちの間で、彼が死から蘇ったとする信仰が生まれ」とは言いますが、「彼が死から蘇えった」 とは言いません。学校教育や研究者の歴史からすれば、そういうこの世を離れたもの、五感や理性で把握できないものは、歴史学の領域ではなく、信仰に属するものである、ということになります。

イエス様を救い主と信じるキリスト信仰者は歴史観を二つ携えてこの世を生きています。ひとつは、以上みた学校教育上や研究者の歴史です。歴史を見る時、この世の範囲内だけを見、天国とか地獄とかこの世を超えたものには一切立ち入らない、五感と理性で認識できるものだけを相手にするという歴史です。もうひとつは、この世を超えたところで神が人間救済を計画し、律法や預言書を通して神の意図を随時明らかにし、最終的にひとり子をこの世に送って計画を実現した、というまさに頭脳では収まりきれない、心でしか把握できない歴史です。たとえ心ででも把握できれば、それは真理です。頭脳に収まる真理より、深く広い真理です。

このようにイエス様を救い主として信じるキリスト信仰者は、この世中心の狭い歴史観とこの世を超えた広い歴史観の双方を持っており、広い歴史観に命を託している者です。先ほども申し上げましたが、神の人間救済の歴史は、イエス様の十字架と復活の出来事の後は今度は、イエス様が再臨する復活の日、終末の日に向かう歴史です。その日が来るまでに出来るだけ多くの人が神の実現された救いを受け取って所有できるように働いていくための歴史です。その意味でキリスト信仰者は、使徒言行録の続編を生きているということになります。そのことを自覚してこの世を生きていきましょう。果たして自分は使徒言行録の続編を担って生きているかどうか自問してみることは大事です。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


主日礼拝説教 2014年10月19日 聖霊降臨後第19主日
聖書日課  マタイ21章33-44節、イザヤ5章1-7節、フィリピ2章12-18節


説教「神は良い方」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書20章1-6節

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.本日の福音書の箇所は、イエス様のたとえ「ブドウ園の労働者」です。朝早くから12時間以上、猛暑の中を汗水流して働いた者が、1時間くらいしか働かなった者と同額の賃金しか得られず、当然のことながら不平を言う。雇用者であるブドウ園の持ち主は、自分はそうしたいんだから、それを受け入れろ、と言う。イエス様は、神の国の秩序はこの持ち主の考えに沿っていると教えられます。たとえの中でブドウ園の所有者は天地創造の神を指していますから、神がこれを受け入れよと言ったら、人間の目から見て理に適っていないものでも、有無を言わずに受け入れなければならない。そういう徹底して神の意思を中心に据える秩序が浮かび上がるのであります。それにしても、労働時間の長短にかかわらず賃金は一律同じという教えの意味は何なのでしょうか?そんなことをしたら、誰も長時間働こうとしなくなるでしょう。長く働こうが短く働こうが、給料は同じなのですから。

 結論から言うと、イエス様がここで教えようとしていることは、人間の救いは信徒として生きて働いた信徒歴の長短には左右されない、ということです。そこで、次のような信徒を思い描いてみましょう。赤ちゃんの時に洗礼を受け、子供の時から日曜学校に通い、聖書に親しみ、主日礼拝に毎週通い、聖書研究会にも毎回出席し、青年会や壮年会、婦人会などの教会の活動や行事に一生懸命取り組み、日曜学校でも教師を務めたり、さらには教会の役員や代議員も務めたりする。また福音伝道のために牧師の手足となって働く。まさに模範的なベテラン信徒です。そのような信徒と並んで、教会には、洗礼を受けてまだ日が浅いという新参の信徒もいます。信徒歴も教会での活動歴も、また聖書の知識や神の御言葉を使いこなす力もまだとてもベテランには及びません。それでは、救いはベテラン信徒の方に確実にあって、新参信徒は救いを確実にするためにはまだまだ修行を積まなければならないということでしょうか?いいえ、そういうことでは決してありません。キリスト信仰では、イエス様を自分の唯一の救い主、唯一の見守り者だと信じて洗礼を受け、かつそう信じて聖餐式に臨む者は、信徒歴が長かろうが短かろうが全く関係なく、皆救いが確実になっている者なのです。

こうしたことはベテラン信徒にとっては当たり前で、誰も、新参信徒はまだ救いに不十分にしか与っていない、などと思ったりしません。どうしてかと言うと、キリスト信仰では、人間の救いとは、人間が自分の力や能力で達成したり築き上げるものではなくて、天地創造の神が人間の救いのために成し遂げて下さったことをただただ受け身に徹して受け取る、これに尽きるからであります。ここで、キリスト信仰における人間の救いということについて、少しおさらいをしましょう。

 

2.まず、人間はもともと自分の造り主である天地創造の神としっかり結びついて生きる存在でありました。それが、悪魔の誘惑に引っかかり、神に対して不従順になって罪を犯したがために、神との結びつきが崩れてしまい、同時に死ぬ存在となってしまった。この辺の事情は創世記3章に記されています。そうして人間は代々死んできたことに示されるように、代々罪と不従順を受け継いできました。神との結びつきが途絶えた状態にいたのです。

これに対して神は人間を見捨てるようなことはせず、逆に、人間が再び神との結びつきを持って生きられるようにしてあげよう、たとえこの世から死んでもその時は自分の許に永遠に戻れるようにしてあげよう、と考え、それでひとり子のイエス様をこの世に送られたのでした。人間が神との結びつきを回復できるために、どうしてひとり子を送らなければならなかったか?それは、人間と神との結びつきを壊している張本人の罪の問題を解決しなければならない。しかし、人間から罪の汚れを除去することは不可能です。なぜなら、人間は誰も神の神聖な意思を100%実現できる人はいないからです。しかし、人間に張り付いている罪をなんとかしなければ、神との結びつきは回復できません。

そこで、神が行ったことは、御子イエス様に人間の罪を全部に負わせて、人間の罪の罰を全部イエス様に受けさせて、ゴルゴタの十字架の上でイエス様を死なせました。神は、このイエス様の身代わりの犠牲の死に免じて私たち人間の罪を赦すという道を採ったのです。しかもそれだけで終わらず、一度死んだイエス様を神は復活させて、死を超えた永遠の命の扉を人間に開かれました。こうして、罪を赦された人間は、罪をまだ持っているにもかかわらず、それを赦されたので、神との結びつきを阻むものがなくなりました。罪を持っているにもかかわらず、神との結びつきの中で生きるということは、そのような人においては、罪が生み出す死の力は完全に無力化されていて、その人は罪の呪いから解放されているということであります。

このようにして、神は人間の救いを、イエス様を用いて全部整えて下さいました。あと、人間の方ですることは何かと言えば、それは、神が「私が整えたから受け取りなさい」と差し出しくれている救いをそっくりそのまま受け取ることだけです。どうやってそっくりそのまま受け取れるかと言うと、この十字架にかかって死なれ三日後に死から復活されたイエス様こそが自分の唯一の救い主、唯一の見守り者だと信じて洗礼を受けることです。そのようにして神の整えた救いを受け取った者は、罪の赦しが効力を持ち始め、罪が生み出す死の力が無力にされます。こうしてその人は、罪と死の支配下から神からの罪の赦しの影響下に移されます。その時まさに神との結びつきが回復した者として、永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩み始めます。神との結びつきを持って生きる以上、順境の時も逆境の時も絶えず神から良い導きと助けを得られ、万が一この世から死ぬことになっても、その時は神の御手によって御許に引き上げられて、永遠に自分の造り主の許に戻れるようになります。以上が、キリスト信仰で言う人間の救いです。

教会とは、こうした神がイエス様を用いて整えた救いを受け取った人たちから形成される共同体です。教会の仕事として2つ大事なものが考えられます。一つは、救いを受け取った人が、その救いをしっかり携えてこの世の人生の道を歩めるように助け支えるということです。この世には、いろいろな力が働いており、一度受け取った救いを手放させようとしたり、永遠の命に至る道を踏み外させようとしています。それらが具体的に何であるかは、皆さんが個人個人で自分の問題としてお考えになってみてください。

教会のもう一つの大事な仕事は、まだ救いを受け取っていない人たちが、それを受け取ることが出来るようにしていくことです。先ほども申しましたように、神はイエス様を用いて整えた救いを、人類全体に向かって、どうぞ受け取りなさい、と言って提供しているのです。それを受け取った人がキリスト信仰者ということになります。しかし、受け取っていない人たちがまだまだ世界には大勢います。どうしたらこうした人たちが救いを受け取ることができるようになるかを考えて行動に移すことはなかなか簡単なことではありません。宣べ伝え方を間違えると、拒否されてしまうかもしれないという恐れもあります。いずれにしても、受け取っていない人たちのために、お祈りすることから始めなければなりません。あとは、祈りを必ず聞き遂げて下さる神が、私たちに勇気や力を与えてくれ、道筋を示してくれます。

以上のように、教会には、まず、救いを既に受け取った信仰者を助け支えるという仕事があり、それから、まだ救いを受け取っていない人たちが受け取ることが出来るようにする仕事があります。信徒歴が長い人というのは、こうした仕事に関わっていた期間が長いということですが、こうした人たちが信徒歴の短い人たちをとやかく言うことはありません。なぜなら、信徒歴が長い人は、短い人たちも全く同じ救いを受け取っているとわかっているからです。そういうわけで、イエス様のたとえに出てくる文句を言う長時間の労働者は、仕事した時間が長ければ長いほど、より良いより確実な救いが得られると期待したようなもので、それはナンセンスです。救いを受け取るのが早かろうが遅かろうが、受け取った救いは同じものです。受け取りが早ければ、教会の仕事にも早くから携わっていたことになり、受け取りが遅ければ、遅く仕事に取り取り掛かった、というだけの話です。

 

3.以上のように、本日の福音書のイエス様のたとえは、「信徒歴の長短に左右されない救い」について教えていると理解すると、ひとつわかりにくいことがでてきます。それは、たとえの終わりでイエス様が「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」(20章16節)と言っているところです。そうなると、信徒歴の短い者に救いの優先順位が与えられ、信徒歴の長い者は救いに関して後回しにされるように聞こえます。先ほど述べた理解では、信徒歴の長い者も短い者も救いの実現においては全く同じ地位にいなければなりません。つまり、イエス様としては、「後にいる者は先にいる者と同じになる」と言った方が正確だったのではないか、先にいる者が後回しにされるというのはどういうことでしょうか?

 この疑問を解くためには、本日の箇所の前にある19章16節から30節までを本日の箇所と一緒にしてみる必要があります。

 まず19章16~22節で、一人の若者がイエス様のもとに駆け寄り、永遠の命を得るために何をすべきか、と尋ね、イエス様と若者の対話が始まります。イエス様は十戒の中の掟を述べて、それらを守れと言われる。若者はそんなものはもう守った、何がまだ足りないか、と聞く。イエス様は、足りないものがある、全財産を売り払って貧しい人に分け与え、そして私に従いなさい、と命じる。若者は実は大金持ちだったため、悲痛な思いで立ち去って行った、というところです。

 若者が立ち去った後で、イエス様と弟子たちの間で今起きた出来事を総括する対話が始まります。23~26節で、イエス様は、駱駝が針の穴を潜り抜ける方が金持ちが神の国に入ることより簡単だと言う。「神の国に入る」というのは、「救われて永遠の命を持つ」ということです。金持ちが救われるのはそれくらい困難が伴うのだ、と。これを聞いた弟子たちは度胆を抜かれてしまう。なぜなら、金持ちが神の国に入るのが駱駝の針の穴潜り抜けより難しかったら、貧乏人の場合はどうなるのか。仮に、貧乏人が神の国に入るのは駱駝の針の穴潜り抜けより簡単だと言われても、駱駝の潜り抜け自体は依然不可能なことなので、そう言われても何の励ましにもなりません。弟子たちが「それでは誰が救われるのだろうか」と不安に陥るのは当然です。そこでペトロがイエス様に尋ねます。自分たちはあの若者と違って全てを捨てて従ってきた。自分たちは金持ちなんかではない。自分たちは救いに与れるのか。糸が針の穴を通れるように神の国に入れるのだろうか。イエス様の答えは明快で、私の名のために親兄弟家財その他一切合財を捨てた者は、永遠の命を得て、天の国で大きな報いを得ると教えます。ペトロの質問とイエス様の答えが27

30節を成し、この後に本日の箇所である「ブドウ園の労働者」のたとえが続きます。つまり、このたとえは、イエス様と若者の出来事を総括する対話の続きなのです。それゆえ、たとえを理解するためには、イエス様と若者の出来事に遡ってみる必要があるのです。

 19章16節から22節までのイエス様と若者の対話で、若者の質問を詳しくみると、「永遠の命を得るためには、どんな良いことをしなければならないか」と尋ねます。「どんなことをしなければならないか」ではなく、「どんな良いことを」と「良い」という言葉がついています。イエス様はそれに目を留められ、すかさず聞き返します。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのか。良い方はおひとりである。」良い方はお一人というとき、その良い方とは神を指しています。ところが、話が良い「こと」から良い「方」へ、事柄から人格へ注意を向けさせます。若者は「良い」ことは人間がすること、出来ることと考えて質問したのに対して、イエス様は、「良い」ということは神だけに結びついている、「良い」ということを体現しているのは神しかいないと、反駁するのです。それで、良い方は神おひとりであり、「良い」ということを体現していない人間が永遠の命を得るために「良い」ことを行うという質問は、出だしから的外れというのであります。「良い」ということについて考えたり口にしたりする場合、神が出発点になっていなければならないのに、若者の質問は人間が出発点になっているのであります。神のもとだけに「良い」ということがある、神だけが「良い」という性質を持っている、体現している。このことを忘れると、人間は救いの実現を、自分の意志や能力に基づかせようとします。でもそれはいつか必ず限界にぶつかります。イエス様の命じられたことは、まさに若者の意志と能力の限界を明らかにするものでした。救いは、人間の意志や能力にではなく、ただただ神が「良い」ということに基づかせなければ実現しないのです。

 イエス様と若者の対話から、神が「良い」ということが救いの大前提であることが明らかになりました。そして、この神が「良い」ということが、本日のたとえの中でまた出てくるのです。それはどこでしょうか?

長時間働いた労働者がブドウ園の所有者に不平を言った後、所有者が回答します。20章15節です。「自分のものを自分のしたいようにしては、いけないのか。それとも、私の気前のよさをねたむのか。」日本語では「気前のよさ」と訳されていますが、ギリシャ語では、若者との対話で出てきた「良い」と同じ言葉アガトスαγαθοςがちゃんと使われています。日本語訳では、同じ言葉が異なる訳をされてしまったので、若者の対話とイエス様のたとえのつながりがみえなくなってしまうのですが、原文をみれば、対話で神が「良い方」であると言ったことが本日のたとえの伏線になっていることがみえてきます。そこで、問題の15節を原文に忠実に訳すと次のようになります。「自分のものを自分のしたいようにしては、いけないのか。それとも、私が良い者であるために、お前の目は邪悪なのか。」少し訳し込むと、「私が良い者であることがはっきりしすぎて、耐えられない位にお前の目は邪悪なのか」となるでしょう。先ほど申し上げたように、ブドウ園の所有者は神を指しますが、若者との対話でイエス様は神を良い方と言い、「ブドウ園の労働者」のたとえでも神は良い方と言われるのです。

こうして、本日のたとえと若者との対話の間に共通のテーマがあることが明らかになりました。若者との対話で、イエス様は、救いの実現を人間の意志や能力に基づかせようとする考えを打ち砕き、それを神は「良い」方ということだけに基づかせようとしました。「ブドウ園の労働者」のたとえでは、理に適っておらず受け入れがたいことでもそれが神の意志ならば受け入れなければならない。私の意志はたとえそれが理に適っていても取り下げて神の意志を優先させなければならない。そうするのが当然であるという根拠は、まさに神は「良い」方であるということによるのだ。このように対話とたとえが言わんとしていることは、神は「良い」方であるということに基づいていないと、人間は自分の力で救いを得ようとしだし、被造物の分際で創造者である神の意志よりも自分の意志を優先させようとする、そういう本末転倒が起きると教えているのであります。それでは、神が「良い」ゆえに人間は救いを全て神に委ねなければならない、神が「良い」ゆえに自分の意志を後回しにして神の意志を優先させねばならないというとき、ではその神の「良い」とは何か?それほどまでに「良い」という神の「良さ」は何か?それは、もう先ほどに述べました。神がひとり子イエス様を用いて私たち人間の救いを整えて下さったということです。罪の赦しを与えることを通して、私たちと神との結びつきを回復させたということです。

 若者が立ち去った後、出来事の総括をイエス様と弟子たちが始めます。救いの困難性を駱駝の針の穴通り抜けと比べられて、弟子たちは唖然としている。それでは一体誰が救われるのだろう、と。イエス様は答えられます。「それは人間にできることではないが、神は何でもできる。」つまり、救いは完全に神の業であるというのです。救いの実現に人間のなしえるものは何もないというのであります。これは、イエス様の十字架の死と死からの復活によって、全くその通りになりました。

 以上から、イエス様の言葉「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」の意味が明らかになります。後回しにされてしまう「先にいる者」とは、信徒歴が長くて教会の大事な仕事を長年一生懸命してきた人ではありません。そうではなくて、救いを得るために自分の意志と能力により頼み、自分が獲得したものや持っているものを捨てられない者を指します。本日のたとえに出てくる長時間働いた労働者は救いをそのように考える人です。そのような人は、信徒歴が短い人が同じ救いに与っているとは考えたくはないのです。そのような人は、復活の日、イエス様の再臨の日には後回しにされてします。これとは対照的に、神は「良い」方ということにしっかり基づいていて、救いを得るためにただただ神の意志と力にしかより頼まない者がいます。これが「後にいる者」です。本日のたとえに出てくる短時間働いた労働者は、まさにブドウ園の所有者に見つけられて来なさいと言われなかったら、ブドウ園に行くことはありえなかったのです。このように神の意志と力に従う人なので、たとえ全てを捨てることになっても救い主のイエス様を選ぶことが出来ます。そのような人は、神の国が到来する日には真っ先に迎え入れられます。神の「良さ」にしっかり基づいていれば、人間はたとえ理に適っていなくても神の意志を優先させてそれに従うことができるが、それに基づいていないと、従うのは難しいでしょう。

ところで、いくら神の「良さ」を強調しても、理に適わないことに服するのは納得いかないと思われるかもしれません。ここで先ほど述べました神の「良さ」についてもう一度思い起こして下さい。神は御子イエスを用いて救いを全部実現して下さった。その救いの所有者にしてもらった私たちは、死を超えた永遠の命に至る道を今歩むことができている。たとえ死の影の谷を歩むとも何も恐れるものはないのです。永遠の命に与るための途方もない代価を神御自身がひとり子の流した尊い血を代価にして支払って下さったのです。まさに、ご自分の御子を犠牲にすることで。こうした神の「良さ」を思う時、どうして神の意志を後回しにして自分の意志を優先させることができるでしょうか?神は「良い」方ということにしっかり基づいていれば、神が与えられるものは何でも喜んで受けることができるようになるのです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 


 主日礼拝説教 2014年10月12日 聖霊降臨後第18主日
聖書日課  マタイによる福音書20章1-6節、イザヤ55章6-9節、フィリピ1章12-13章30節


説教「赦しについて」木村長政 名誉牧師、マタイによる福音書18章21節~25節

今日の聖書は、「赦しについて」であります。 ルカ福音書では、17章に短く記してあります。

教会の信徒である兄弟が罪を犯した場合、戒めなさい。そして、悔い改めれば赦してやりなさい。 こういう指示があって、続いて、一日に七度罪を犯しても、その度に悔い改めを口に表すなら、赦してあげなさい。

マタイ福音書においては、弟子たちを代表して、ペテロがイエス様にたずねています。15~18節のところでは、罪を犯した兄弟に対して、忠告するに当たっての指示でしたが、ペテロは、どこに赦しの限界を設けるべきでしょうか、という点に移っています。 ペテロは問いました。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」。 ここには、自分の罪を認めて悔い改めたなら、という条件がいっさいない。

ユダヤ教の「赦し」の考えで、ラビの伝承によれば、人が他の人に罪を犯した場合、相手に赦しを乞うということが、神の赦しにあずかるための、条件とされていた。 つまり、神の赦しにあずかるためにも、人にわびることが必要である、とされた。自然のことです。

ところで、ペテロの質問の中には、悔い改めの条件も、又、ユダヤ教のような神に対する赦しの思いも、この限界を越えて「無条件の赦し」を問題としています。これは驚くべきことでした。 しかも、「赦しは七度までですか」と言ったのです。 ラビの伝承によれば、人が罪を犯した場合、神は三度までは赦してくださるけれども、それ以上の赦しはない。 ペテロも弟子たちも、ユダヤ教のこのことは知っていたでしょう。その上で、三度までを2倍して、なお一つ加えて目いっぱい七度までですかと言ってみたのです。ペテロの大胆な、新しい息吹を感じさせる、おどろきの質問でした。 しかしながら、イエス様のペテロに対しての答えは、もっと驚くべきものでした。22節「イエスは言われた。『あなたに言っておく、七回どころか七の七十倍までも赦しなさい』」。 これは、七の七十倍といった数字で数えるようなものではなくて、これは「無限に赦せ」ということにほかならない。

そこでイエス様は、一つのたとえ話で確かなものとされたのです。23節以下で、「天の国は、次のようにたとえられる」と話されました。

ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。 決済を始めたところ、一万タラントンを借金している家来が、王の前につれて来られた。しかし返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も又持ち物も、全部売って返済するように命じた。

さて、この話の中の借金をした家来の額が、一万円とか100万円くらいの額ではないこと、巨大な額であることに注目しなければなりません。 では、どれ位の額であったか。 1タラントンというのは6000デナリでしたから、6000万デナリということになります。1デナリは、当時の労働者一日分の給料と見なされていました。とすると、分かりやすくこれを一万円としたら6000億円という、とてつもない額になります。数字だけ言っても、これはどれ位のものか分からない。

少し分かりやすくするために、この当時の王の年収を見ますと、ヘロデ・アンティパスが、その所領ガリラヤとペレアから得た年収は、200タラントンであった。これはヨセフスという人が書いた「ユダヤ古代誌」に記しています。 又ヘロデ・ピリポが得た年収は100タラントンであった。又、列王記上10章14節を見ると、ソロモン王のもとには年間、666タラントンの金が入って来た、という。

これらのことから比較しても、1万タラントンという借金が、どれ程のものかが分かります。ヘロデ・ピリポ王の100倍です。 これは、たとえ話であります。現実にこの巨額の借金を、どのようにしたか等、考えたら不可能なことでしょう。 たとえの意味として、無限の負債を表現していると言えます。 要するにこの僕にとって、これは返済不可能な負債であった、ということです。 そこで主人は、この僕に全財産を売り払って返済することを命じた。当然のことでしょう。その当時の制度の通り命じたのです。

皆さん、どうでしょうか。この家来のようになったらどうしますでしょうか。

26節を見ますと「家来はひれ伏し、『どうか待って下さい。きっと全部お返しします』と、しきりに願った」。 27節です。すると「その家来の主君は、憐れみに思って彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった」。 私たちは、この主君の言葉におどろきます。巨額の借金を全部帳消しにする、ということです。なんと言うことでしょうか。

この家来は主君の前にひれ伏して懇願しています。「どうか待ってください」。 ここの原文を直訳で言うと、次のようになるというのです。 「私に対して寛大であって下さい」と言ったのです。そうして「皆、お返しします」と言っているところを見ると、彼はなんとかして負債をつぐなおうと考えたのでしょう。免除なんて全く念頭になかったでしょう。

ところが思いもかけず主人は、この家来の巨額の負債を全部帳消しにしてやったのです。ここのたとえで示されていることから、ここで私たちは、主の犠牲が払われて、私たちの罪の全部が帳消しにされた。負い切れない罪のすべてを、帳消しにしてもらって、神のみ前に罪なき者として立つことができるのです。 この神の御国での、赦されている恵みというものを、深くふかく、もっとよく知って、理解して、受け入れて了承していくと、どんなに主の恵みがありがたいか、感謝にあふれます。

私たちが、ここでしっかりと覚えなければならないと思うのは、主君は、憐れに思って彼を赦した、とあります。 ここには、いかに深い神の憐れみというものがあるか、すべては、神の支配のもとにあります。神の憐れみの支配によるものであります。 私たちは礼拝のたびに、キリエを唱えます「主よあわれんで下さい。」、「キリストよ、あわれんで下さい。」私の罪の赦しの憐れみです。計り知れない、深く、大きな、神の憐れみと恵みです。

ところが、この赦しにあずかった僕は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に会うと、捕まえて首をしめ、「借金を返せ」と迫った。 百デナリという金額は大きな負債にちがいないが、全く返済できぬほどの巨額ではない。この男は、あの主人に巨額の負債全部をゆるされたことを忘れて、相手を獄に入れた。 すると仲間達は、事の次第を見て非常に心を痛め、主君に事件を残らず告げた。 そこで主人は、その僕を呼び出して言う。「この不埒な僕め、お前が頼んだから私はあの負債をみな免じてやった。私がお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れむべきではないか」。

仲間の負債を赦してやらなかったこの僕の中に、私たちもどうしても、赦さない根性が根付いてあります。 神に対しての、人間の中にある負いきれない無限の罪の負債がある。それに比べ、仲間同志の負債など、ちっぽけなもの。それでも赦せないでいる。 神様の限りない憐れみによる赦しがあっているのに、人間の非情な冷酷さがこのたとえで際立って示されいます。

最後に、この無限の赦しがあるゆえに、神は私たちに全き自己放棄を求めておられる。 どこまでも友をゆるし、、愛をつらぬいてゆく事を、求めておられるのです。 このことを実際行ったら、この世は全き無秩序になっていくのではないか、という疑問が生まれるかもしれない。 しかしこれについては、パウロがローマ人への手紙に明快に記しています。 その言葉に希望の光を見たいのです。 ロマ書12章19節です。「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。復讐するのは私のすること、私が報復する」と主は言われる。

紀元前2世紀~1世紀にハスモン王朝の時代、イスラエル12部族の中でガド族への遺言のように言い伝えられた遺訓というものが、次のようにあります。 「互いに、心から愛し合いなさい。もし誰かがあなたに罪を犯したら、その者とおだやかに話し、心に悪だくみを抱いてはならない。もし悔い改めて、それを言い表したなら赦しなさい。しかし、たとえ悔い改めを拒否しても、怒ってはならない」。そして最後は次の言葉で結ばれている。 「しかし、もし恥知らずで悪事を続けたとしても、心からゆるし、復讐は神にまかせなさい。」 この最後の「復讐は神にまかせよ」という言葉をパウロは、ローマ人への手紙の12章の言葉に含めているのです。 義なる神が厳然として、その審きを貫徹して下さる。 だからキリスト者は、安んじて、神の御手に委ねることであります。 この義なる神の愛に支えられてこそ、キリスト者はこの無限に赦す心を、聖霊の賜物として頂くことができるのであります。  アーメン。

 

聖霊降臨後第17主日  2014年10月5(日)

説教「罪を犯した兄弟にどう向き合うか?」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書18章15-20節

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1.本日の福音書の箇所でイエス様は、「あなたの兄弟があなたに罪を犯したら、どうすべきか」について教えます。ここで言う「あなた」と「あなたの兄弟」は、双方ともイエス様を救い主と信じる者です。17節で、問題が当事者同士で解決できなければ、教会に持ち込めと言っているので、二人とも教会に属する者であることは明らかです。つまり、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者です。それでは、教会に属する者が別の者に罪を犯したとき、キリスト信仰者は、どう対処すればよいのでしょうか?

 その前に少し断線しますが、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者が同じ信仰を持つ者に対して罪を犯すということがありうるのでしょうか?イエス様の問題提起はちょっとびっくりさせます。しかし、使徒書簡をみるまでもなく、キリスト教会は誕生期からいろいろな問題を抱えていたようです。「コリントの信徒への第一の手紙」の6章をみると、信仰者同士の間で利害の対立が生じた時、その解決を当時キリスト教と全く無縁であったローマ帝国の法廷に委ねることが行われていたことがうかがえます。それについて使徒パウロは、問題の解決を信仰を持つ者同士で行うのではなく、信仰を持たない者に委ねるとは何事かと叱責します。どんな利害の対立があったのかははっきり述べられていませんが、「相手から損害を被っても耐えろ」とか「相手から奪い取るな」とか言っているところをみると(6章7~8節)、金銭上のトラブルがあったことが窺えます。当時はまた、貸した金に利子をつけることも行われていたようなので(マタイ25章27節)、きっと、ちゃんと既定の額を返してくれなかったとか、逆に法外な額を要求されたとか、そういう問題があったのでしょう。この問題は、十戒の第6の掟「汝、盗むなかれ」に関わります。どっちが盗人か白黒つけられれば、どっちが罪を犯したかが明らかになります。しかしパウロは、すぐ法廷に持ち込むということに自己の利益しか頭にないということを見抜いていました。

金銭上のトラブルに加えて、信仰者同士の罪の問題には性関係の乱れがあったことも、同じコリント第一の手紙の中に記されています(5章)。キリスト教会の性のモラルの基本は、イエス様の教え「神は人間を男と女とに創りあげ、男と女は親元を離れて、神によって一つに結ばれる」(マルコ10章6~9節)にあります。つまり、徹底して男女の間の一夫一婦制に基づく性モラルです。当時の地中海世界の性モラルはこれとは異なっていて、今風に言えば「多様な」性モラルでしたから、なかなかそこから抜け出られない信仰者もいたに違いありません。余計なことですが、現代世界は、キリスト教会の内外を問わず、イエス様の教えた性モラルと相いれないモラルが蔓延していると思います。真のキリスト教徒にとっては試練の時代です。いずれにしても、この問題は、十戒の第7の掟「汝、姦淫するなかれ」に関わります。

 第6や第7の掟に関わる罪だけでなく、この他にもいろいろな罪が信仰者の相互関係を損なっていたと考えられます。例えば、金銭上のトラブルや性関係の乱れには、ほとんど必ずといってよいほど、悪口や中傷や事実を捻じ曲げた噂がつきものです。これなど、第8の掟「汝、偽証するなかれ」に関わります。

 

2.こうした信仰者同士の罪の問題はどのように解決すべきでしょうか?本日の福音書の箇所はどう教えているでしょうか?15節から17節をみると、イエス様は次のように教えています。罪の被害を被った信仰者はそれを犯した者に対して、まず、二人だけのところで、「君が行ったことは罪である。我々の神の意思に反することである

とはっきり教え戒めるべきである、と。もし罪を犯した者が、「おっしゃる通りです」と聞き入れて、罪を悔いて赦しを願えばこれを赦してあげる。そうすることで、被害を被った信仰者は、信仰の兄弟を得ることになる。つまり、赦した後は、犯された罪はさもなかったかのように振る舞い、以後不問にする。こうして信仰の兄弟姉妹の関係が築かれるのであります。

ここで一つ注意しなければならないことがあります。それは、この「二人だけのところで教え戒めよ」というイエス様の教えは、レビ記19章17節にある神の命令「心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない」に基づいているということです。どういうことかと言うと、罪の被害を被った信仰者は、それに対して何もせずにただ心の中で「こんちくしょう、あの野郎」と憎しみを燃やしてはいけない。そうではなくて、その人の前に行って、「君が行ったことは罪なのだ。我々の神の意思に反することなのだ」とはっきり教え戒めなければならない。それをしないでいるのは、罪の放置・黙認になり、放置した人もその罪に関与したと見なされる、と言うのです。教え戒めて、相手が聞き従えば、それは神から大きな祝福が与えられたということになります。しかし、教え戒めても聞き従わない場合は、罪の責任は犯した人が全部神に対して負うことになり、教え戒めた人は責任解除になるのです。これと同じ神の意思が、先ほど朗読された旧約聖書の箇所エゼキエル書33章7~9節の中にも表されています。

以上から、「二人だけのところで教え戒める」の意味がわかりました。それは、単に信仰の兄弟が仲直りしてめでたしめでたしになるための手続きではない。そうではなくて、罪を犯した者にそれが罪であると認識させて、その上でそれを悔いて赦しを求めるように導くということであり、被害を被った者はその導きをする重要な役割を持つということです。罪を犯した者が悔いて赦しを願う時、被害を被った者は赦しを与えなければならない。赦した後は、犯された罪はさもなかったかのように振る舞い、以後不問にする。そうして、真の信仰の兄弟姉妹関係が築かれる。神の民から罪の汚れを取り除くというのは、まさにこのようなことを言います。罪を罪として包み隠さず、当事者に対して明白にし、そこから赦しを与えることで罪を帳消しにしていく、ということであります。どうか、全てのキリスト教会がこのようにして罪の汚れから清められていきますように。

次に進みましょう。残念なことに、「二人だけのところで教え戒める」ことが功を奏せず、罪を犯した信仰者が教え戒めに耳を貸さなかった場合はどうするか?つまり、自分は何も罪を犯していないとか、あるいは自分のやったことは罪ではない、と言い張った時です。その時は、証人を信仰者の中から一人か二人呼んで、それはやっぱり罪に値することだったということを確認してもらうことになる、とイエス様は教えます。この証人を立てるというイエス様の教えは、旧約聖書の申命記19章15節にある神の命令に基づいています。天地創造の神は、十戒の第八の掟「汝、偽証するなかれ」で端的に表しているように、真実を愛し偽りを憎む神です。「君が行ったことは第三者がみても罪に値するものだから、それはもう真実として受け入れなければならない」ということになれば、罪を犯した者は次の二つの選択肢の前に立たされます。つまり、罪を認めて悔い、赦しを願って、赦しを得る道に入るか、それともあくまで耳を貸さない態度を取り続けるか。前者を選べば、真の信仰の兄弟姉妹関係を築く道に入ります。しかし、後者を選べば、話は次の段階に進みます。

ここで一つ注意することがあります。証人を立てるというのは、罪を確認するという場合もありますが、逆に罪を犯していないと証言する場合もあります。被害を被ったと主張する者が、相手を陥れるためか自分を有利に仕立てるためか目論んで、話を誇張したり捻じ曲げたり、でっちあげたりする可能性もあるからです。その場合は、そちらの方が罪を犯した兄弟になります。いかなる場合であっても、神は真実を愛し偽りを憎む方であることには変更はありません。

さて、いよいよ証人を立てても、罪を犯した信仰者が耳を貸さない場合はどうなるのか?その時は問題の解決は、教会、教会全体の集まりないしはその代表者の集まりのいずれかになると思うのですが、それに委ねられることになる、とイエス様は教えられます。ここで、罪を犯した信仰者が罪を認めて悔いそして赦しを願えば、問題は解決します。しかし、それでも耳を貸さない場合はどうなるのか?その時は、「その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」とイエス様は教えます。異邦人とは、天と地と人間を造られて御子イエス様をこの世に送られた神を信じない人たち、神の民に属さない人たちを指します。徴税人とは、ユダヤ民族に属しながら、当時占領者であるローマ帝国の租税官吏となって同胞から不当に取り立てて私腹を肥やしていた人たちです。民族の裏切り者と見なされていました。罪を犯しても最後まで非を認めない信仰者は、こうした神の民に属さない者、裏切り者と同様である、とイエス様が教えていることになります。

ところで、日本語訳の「異教徒か徴税人と同様に見なしなさい」を注意してみます。ギリシャ語の原文に忠実に訳すと、「その人は、あなたにとって異邦人か徴税人のようになってしまえ」という意味です。つまり、あなたは教会に留まる者であることは変わりないが、それに対して罪を犯した者は形式上は教会に属しているが実質上は教会の外部の者となってしまった。何度も赦しの機会が与えられたにもかかわらず、自分で自分を外部の者に追いやってしまっている。これはもう神の目から見てももうお手上げな存在だ、勝手にするがいい、ということです。日本語訳のように「異教徒か徴税人と同様に見なしなさい」と言うと、罪の被害を被った者に対する「見なしなさい」という命令になります。しかし、ギリシャ語原文では、被害を被った者に対する命令文ではありません(二人称単数ではなく三人称単数の命令形です)。罪を犯した者が差し出された手を振り切って自分でそうしている以上は、「異邦人か徴税人のようになってしまえ」と、神に突き離されているのです。それでは、罪の被害を被った者はどうすればよいのか?罪を犯した兄弟を異邦人か徴税人と同様に見なすことでしょうか?

そうではありません。本日の福音書の箇所に続く21~22節を見ると、これは次主日の箇所になりますが、ペトロがイエス様に、信仰の兄弟が罪を犯したら何回赦すべきか、7回までか、と尋ねます。それに対してイエス様は、7回どころか7の70倍までも赦しなさい、と答えます。これはもう、赦すことにおいて回数に制限を設けるなという意味です。罪を犯した兄弟がまだ罪を悔いることも赦しを願うこともしない段階で、その者を赦すとはどういうことなのでしょうか?後でそのことについて見てまいりますが、その前に、これまで述べてきた兄弟を教え戒める手続きの教えと、ペトロとイエス様の赦しの回数についてのやり取りの間にある18~20節をしっかり見てみましょう。

 

3.18節をみると、使徒たちが地上で禁じたり罰したりすることは、天の国でもお墨付きを得ている、逆に地上で認めたり赦したりすることも、天の国でお墨付きを得ているということで、使徒たちに教会生活、信仰生活の規律設定の権限を委ねる内容です。人が罪を犯したかどうか、もし犯したならば、赦しを得られるかどうかということについて、使徒たちに決める権限が与えられている。つまり、イエス様の教えと業をつぶさに目撃して彼の十字架の死と復活の証人になった使徒たちは、神の意志がなんであるかを地上で明らかにする権限を持っているということです。そうであるからこそ、罪を犯した者に対して、罪は罪であるとはっきり言わなければならないのです。

続く19節から20節をみると、どんな願い事でも、信徒が二人集まって心ひとつにして願い求めたら、天の父なるみ神はかなえて下さるというような、一見、願い事は何でもかなうと言っているように見える教えです。実はそうではなく、これも18節の使徒たちの権限の教えの続きです。これをギリシャ語原文に忠実に訳すと、「お前たちが追い求めている事柄に関して、お前たちのうち二人がこの地上で合意すれば、その合意された事柄は天の父なるみ神の力で実現されたものとなる」ということです。18節で、使徒たちが決めたことが天の国のお墨付きを得ると言ったことに加えて、そのためには使徒一人ひとりが勝手に決めるのではなく、二人以上がイエス様の名前のもとに集まって合意することが必要だ、と言うのが19~20節の意味であります。願い事が何でもかなうという意味ではなく、教会内のいろいろな問題について、何が神の意志に沿っているか反しているかを明らかにしなければならない。その時、二人以上がイエス様の名前のもとに集まって合意したら、それは天のお墨付きを得たことになり、地上でもその通りになるという意味であります。

 

4.以上から、18 ,20節は、教会内のいろいろな問題を神の意志に沿うように解決する際、使徒たちに大きな決定権が与えられており、それをしっかり行使しなければならない、と教えていることが明らかになりました。つまり、神の意志を明確にし、それに反していることは反しているとはっきり言わねばならない、ということです。そこで、自分で自分を教会外部の立場に追い込んでしまった信徒にどう向き合うかという問いの答えが来ます。21節でペトロがイエス様に質問します。「そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。」「そのとき」というのは、まさに、イエス様が神の意志を地上で明らかにする使徒の権限について教えた「そのとき」なのです。ペトロの質問に対するイエス様の答えは、繰り返し罪を犯す兄弟に対して、赦しの回数に制限を設けるなというものでした。イエス様は、この無制限の赦しというものをわからせるために、続く23節から「仲間を赦さない家来のたとえ」を話すのであります。

これらの教えは次主日のテーマですので、ここでは立ち入りませんが、本説教のテーマとの関連で申し上げれば、イエス様の教えの中で次のことが重要な点です。キリスト信仰者とは、天文学的とも言える莫大な借金を帳消しされた人と同じような憐れみを受けている存在であるということです。罪の赦しが莫大な借金の帳消しにたとえられるのであります。最初の人間アダムとエヴァの犯した神への不従順と罪がもとで人間は死する存在となってしまいました。人間を造られた神は、人間との結びつきを回復させよう、人間がこの世から死んでも永遠の命を持てて再び造り主である自分のもとに戻ることができるようにしようと決めました。そこで、人間と神との関係を壊してしまった原因である罪の力を無力化すべく、ひとり子イエス様をこの世に送り、本来人間が受けるべき罪の裁きを全てイエス様に負わせて十字架の上で死なせ、その身代わりに免じて人間の罪を赦すことにした。この赦しを受けることで、人間は罪と死の支配から自由の身とされることとなった。罪と死の支配から人間が贖われるために支払われた代償は、まさに神のひとり子が十字架で流した血であった。詩篇49篇8~9節に記されているように、死する存在の人間は、命を買い戻す身代金を払うことはできません。なぜならそれはあまりにも高額だからです。それを神は、み子の血を代価にして支払って下さったのです。しかし、それだけで終わらず、神は一度死んだイエス様を今度は復活させることで、死を超えた永遠の命の扉を人間に開いて下さった。人は、この2000年前の彼の地で起きた出来事が、現代を生きる自分のためになされたとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、そのまま罪と死の支配から解放された者となって、永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩み始めるようになる。神との結びつきが回復した者として、順境の時も逆境の時も絶えず神から良い導きと助けを得られ、万が一この世から死ぬことになっても、その時は神が御手を差し出して御許に引き上げて下さり、永遠に自分の造り主のもとに戻れるようになったのであります。

これが、キリスト信仰者が莫大な帳消しの憐れみを受けているということです。まさにそのために、同じ信仰を持つ兄弟姉妹が罪を犯した時、それは自分が受けた莫大な借金の帳消しを思えば、兄弟姉妹の負債など比べものにならないはした金にしかすぎないことがわかり、こだわるのも馬鹿馬鹿しくなる、というのであります。ルターも、信仰の兄弟姉妹から何か被害を被ったとしても、そんなものは小さな火花のようなもので、唾を吐きかければすぐ消えてしまうものだ、と言っています。神が自分に対して大きな赦しを与えた以上は、自分は兄弟姉妹に対して赦しを与えないということはあってはならないのであります。

ここで一つ注意しなければならないことがあります。それは、罪を犯した信仰の兄弟姉妹を赦すというのは、罪を承認することではないということです。15~20節で明らかになったように、罪は罪として神の意志に反するものとして、罪を犯した者に対して明確にしなければならない。しかし、もし犯した者が罪を悔いもせず赦しを願うこともしない場合、どうすればそうすることができるようになるかを考え、神に祈り、その実現のために何かをしなければならない。そんな人は神から大きな罰を受ければいい、などと思ってはいけない。そうではなくて、どうすれば神の罰を受けないですむようになるかを考えなければならない。なぜなら、その人もイエス様を救い主と信じて洗礼を受けた人だったのだから。きっと弱さや何かの迷いで道を誤ったのだろうと思わなければならない。先主日の福音書の箇所にあった「99匹と1匹の羊のたとえ」でイエス様が教えたことは、たとえ自らの誤りで神から離れてしまう道に迷い込んだとしても、神としてはその人が神のもとに戻るのを望んでいるということでした。そうである以上は、罪の被害を被った者は、罪を犯した者が神のもとに立ち返れるように神に願い祈り、可能な限り、また機会を捉えてそうなるように助けてあげる、これが、罪を犯した信仰の兄弟姉妹を赦すことです。

以上が、罪を犯した兄弟姉妹にどう向き合うかという問題の答えになります。要約すると、まず、神の意志に反することは、そうであるとはっきりさせなければならない。それと同時に、罪を犯した者がまだ罪を悔い赦しを願うことをしない段階でも、その者を赦さなければならない。ただし、赦すというのは、罪を承認するということでなく、その人が神のもとに立ち返れるよう心から祈り願い、それを支援するということです。

 

4.以上は、教会内、キリスト信仰者同士の間での罪の問題でした。それでは、罪を犯す者が教会外の者、キリスト信仰者でない場合は、信仰者はどう向き合ったらよいのでしょうか?

この問題は本日の説教のテーマには直接関係はないのですが、一言だけ申しますと、神が御子イエス様を用いて実現した人間の救いは、実は全人類に対して、どうぞ受け取って下さい、と提供されているものです。それを受け取った者がキリスト信仰者です。世界には、いろいろな事情でそれを受け取っていない人が大勢います。神が御子イエス様をこの世に送ったのは全ての人が救いを受け取るためでした。だから、それを既に受け取った信仰者はまだ受け取っていない人が受け取ることが出来るようになるために各々働きをしていかなければなりません。その意味で、先ほど申し上げた「赦す」ということは、相手が信仰者でない場合にもあてはまるのであります。罪を犯した相手に対して、あいつなど神の罰を受ければいいのだ、などと思ってはならない。そうではなくて、どうすれば罰を受けないですむようになるかを考えてあげなければならない。罪を犯した信仰の兄弟姉妹の場合は、神のもとへの立ち返りを願い祈り、そうなるよう働きかけをしなければならないと申しました。相手が信仰者でない場合は、働きかけは一層困難とは思いますが、少なくとも願い祈ることは誰にでもできます。先主日の使徒書の箇所であった「ローマの信徒への手紙」12章14節で、使徒パウロは「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません」と教えていますが、その通りです。

しかしながら、相手の人が神の罰を受けないようにと願い祈っても、その人がこちらの祈り願いを無にするような挙動を取り、それについて悔いることも赦しの願いもあり得ないという態度を取り続ける場合はどうするか?これは、本日の使徒書の箇所「ローマの信徒への手紙」12章の終わりでパウロが教えていることが重要になると思います。まず、神は、最後の審判の時に最終的に、悔いも赦しの願いもしなかった者に対して、その者がもたらした悪について全責任を負わせる。それゆえ、信仰者は復讐や報復に心を奪われてはならない。全ては神の怒りに任せる。そのかわり、信仰者は、敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませなければならない。そうすることで、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。つまり、敵に対してただ善を行う。もし敵がそれでも悪を続ければ続けるほど、最後の審判の日にその者が負う責任は一層重くなるだけで、自分に下される罰を自ら重くするだけである。このように、最後の審判の日に最終的に悪は滅びる。他方で、もし敵になされた善がその者の心を動かして、罪の悔いと赦しの願いをもたらせば、その時一つの悪が滅びる。つまり、善をもって悪に報いる限りは、悪はいずれにしても必ず滅びる運命にあるということであります。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 聖霊降臨後第16主日

 

 礼拝の中でSLEYから派遣されたミルヤム・ハルユさんの歌唱と吉村ヨハンナさんのヴァイオリン演奏が行われました。

 

 

説教「神が子供の信仰を価値あるものとみなす理由」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書18章1-14節

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.イエス様が子供をとても大切に考えていたことは、福音書からよく伺えます。本日の箇所の出来事は、マルコ福音書9章とルカ福音書9章にも記されています。また、ルカ18章、マタイ19章、マルコ10章では、親たちがイエス様から祝福をいただこうと子供たちを連れていく場面があります。それを弟子たちが遮ろうとしたところ、主は弟子たちを戒めて、「神の国は彼らのような者たちのものだ」と言って、祝福を授けます。旧約の伝統では、神が何か任務を与える時に選ぶのはたいてい大人でした(エリのもとに引き渡されたサムエルは例外でしょうか?)。イエス様が神と子供の関係を何か特別なことのように見ていたのは当時としてはとても革新的なことだったでしょう。本日の箇所でイエス様は、大人たる者は子供の信仰を見習いなさいというようなことを教えます。また、子供の信仰を損なう者を神は断じて許してはおけないということも教えます。子供の信仰とはどういうものか?どうしてそれが手本となるのか?そういったことを後ほどみてみたいと思います。その前に、本日の箇所を、書かれていることを正確に把握しながら、理解を深めてまいりましよう。その後で、子供の信仰と大人の信仰の問題について見てまいりたいと思います。

 

 2.まず弟子たちがイエス様に「天の国で一番偉い者は誰か?」と質問します。「天の国」は、神の国のことです。マタイは「神」という言葉を畏れ多くて使わないようにしようとするので、そのかわりに「天」という言葉をよく使います。マタイ20章(マルコ10章)に、ヤコブとヨハネの母親がイエス様に、神の国が到来したあかつきには息子たちをイエス様の右大臣と左大臣にして下さい、と嘆願する場面があります。他の弟子たちは、この抜け駆け行為を見て憤慨しました。どうやら当時の弟子たちは、将来到来する神の国の序列や位階に関心があったようです。神の国を統治・君臨することになる王イエス様の側近になれるのは、果たして誰か?自分か、それとも他の者か?

ところがイエス様は、神の国で一番偉い者は誰かということには答えずに、子供のように、イエス、子どもたち突然、子供を弟子たちの前に立たせて言いました。「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」

つまり、誰が神の国に入れるかということを教えるのです。神の国で誰が一番偉いかを言う前に、そもそも誰がそこに入れるのかという問題に注意を喚起するのです。その後で、「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国で一番偉いのだ」と述べて、最初の質問に答えます。これには弟子たちもギャフンとしたでしょう。心を入れ替えて自分を低くして子供のようにならなければ、神の国で一番偉い者になれるどころか、神の国自体に入ることもできない、と言われたのですから。ここで、イエス様が教える神の国と弟子たちが理解していた神の国には大きな違いがあることは明白です。そういうわけで、イエス様が教える神の国とはどんな国かということについてみる必要があります。神の国は、先週の「人の子」と同じように、一回程度の説教では語り尽くせない大変大きなテーマです。それでも、なんとか頑張って大事な点は押さえてみたく思います。それとあわせて、神の国に入れるための条件「心を入れ替えて子供のようになる」とはどういうことなのか、これもみていきたいと思います。

神の国とは、天と地と人間その他万物を造られた神がおられるところです。それは天の国とか天国とも呼ばれるので、何か空の上か宇宙空間に近いところにあるように思われることもありますが、本当はそれは、人間が五感や理性を用いて認識や把握ができるこの現実世界とは全く別の世界です。神はこの現実世界とその中にあるもの全てを造られた後で、自分の世界に引き籠ってしまうことはなく、この現実世界にいろいろ介入し働きかけてきました。神の現実世界に対する介入・働きかけの中で最も重要なものは、御子イエス・キリストを御許からこの世界に送って、彼を十字架の上で死なせて、そして三日後に死から復活させたことです。

神の国はまた、神の神聖な意思が貫徹されているところです。悪や罪や不正義など、神の意思に反するものが近づけば、たちまち焼き尽くされてしまうくらい神聖なところです。神に造られた人間は、もともとは神と一緒にいることができた存在でありました。ところが、神に対して不従順になり罪に陥ったために、神との関係が壊れ、神のもとから追放されてしまったのです。その時、人間は死ぬ存在になってしまいました。この辺の事情は創世記3章に記されている通りです。

そうした悲劇が起きた後で神は人間に対して、身から出た錆だ、勝手にするがよい、と見捨てるようなことはせず、なんとか人間を助けてあげよう、人間がまた神との結びつきを持ててこの世の人生を歩めるようにしてあげよう、この世から死ぬことになっても、その時は自分の許に戻れるようにしてあげよう、と決意し、それでひとり子イエス様をこの世に送ったのであります。神がイエス様を用いて行ったことは、まず、人間と神の結びつきを壊していた原因である罪の問題を最終的に解決することでした。すなわち、人間の罪を全部イエス様が張本人であるかのようにして彼に全部負わせて、その罰を十字架の上で受けさせたということです。その結果、イエス様はとてつもない苦しみの中で死を遂げました。しかし、話はそれで終わらず神は今度は、イエス様を死から蘇らせて、死を超えた永遠の命の扉を人間のために開かれたのです。

このように神は、御自分と人間との結びつきの回復という大事業を、イエス様を用いて実現してしまったのです。あと人間の側ですることと言えば、これらのことがまさに自分のためになされたとわかって、それでイエス様こそ自分の救い主であると信じて洗礼を受ければ、神が実現してくれた救いを自分のものにすることができるのです。救いの所有者となって、永遠の命に至る道に置かれて人生を歩むようになります。神との結びつきを持って生きられるので、順境の時も逆境の時も絶えず神の良い導きと助けを得られ、万が一この世から死ぬことになっても、その時神は御手をもって御許に引き上げて下さり、こうして人間は永遠に自分の造り主のもとに戻れるようになったのです。ただし、キリスト信仰者になったと言っても、もちろんまだ肉を纏って生きていますから、罪をまだ持っています。しかし、「イエス様を救い主と信じますので赦して下さい、罪を犯さない生き方が出来るよう助けて下さい」と神に祈り求めれば、神は「我が子イエスを救い主と信じる以上は、彼の犠牲の死に免じてお前を赦してあげよう」と言って赦し、私たちが新しいスタートを切れるようにして下さるのです。このような慈愛に満ちた父なるみ神は、永遠にほめたたえられますように。

キリスト信仰者は、このような神に絶えず心の目を向けて自己吟味をし、神との結びつきを大切にしながら日々の人生を歩む者です。向かうところは死を超えた永遠の命が待っている神の国ですが、このように歩む者はこの世の人生の段階にて既に神の国の一員として迎え入れられているのです。ところで、神の国は、今はまだ目に見える形にはありません。しかし、それが目に見えるようになる日が来ます。それが、復活の日と呼ばれる日です。その日はまた、今の現実世界が終わりを告げる日でもあり、最後の審判の日でもあります。イザヤ書65章や66章(また黙示録21章)に預言されているように、神が今ある天と地にかわって新しい天と地を造る天地大変動の日が来る。「ヘブライ人への手紙」12章に預言されているように、その日、今の現実世界にあるものは全て揺るがされて崩れ落ち、唯一揺るがされない神の国だけが現れる。その時、主イエス様が再臨され、信仰を守り抜いた者たち全て、その時点で生きていた者と死から復活させられた者とをあわせて、神の国に集めて王として君臨します。

その時の神の国はまず、黙示録19章に記されているように、大きな婚礼の祝宴にたとえられます。これが意味することは、この世での労苦が全て最終的に労われるということです。また、黙示録21章4節(7章17節)で預言されているように、神はそこに集められた人々の目から涙をことごとく拭われます。これが意味することは、この世で被った悪や不正義で償われなかったもの見過ごされたものが全て清算されて償われ、正義が最終的に実現するということです。同じ節で「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」と述べられますが、それは、神の国がどういう国かを要約しています。イエス様は、地上で活動していた時に数多くの奇跡の業を行いました。不治の病を癒したり、わずかな食糧で大勢の人たちの空腹を満たしたり、自然の猛威を静めたり等々。こうした奇跡は、この限界だらけの現実世界を超える力を持つ神の国を人々に味わさせるものだったと言えるでしょう。少し話が脇道にそれますが、ある教会の全国総会で、「我々はこの地上で神の国を建設しよう」などと目標を決めていました。神の国とは、この現実世界の中に人間が建設するものではなく、本来は神が整備するものです。ルターも、神の国は神のもとから来るもの、と言っています。従って、キリスト教会の役割は、できるだけ多くの人が神の国に入れるようにすることだと思います。

 

3.神の国が以上述べたようなものであることは、イエス様の十字架と復活の出来事が起きる前は、まだはっきり理解されていませんでした。そのことは、当時のユダヤ教社会において、メシアと言う言葉の意味がいろいろな仕方で理解されていたということにもあらわれています。先週の説教でも触れましたが、メシアとは、一方ではかつてのダビデ王の末裔でイスラエルを外国の支配下から解放し栄光ある王国を再興してくれる待望の王を意味していました。他方では、この世はやがて滅び、それにかわって森羅万象が新しくされた世が到来する、その時、信仰を守り抜いた者たちと復活させられた者たちを一緒に集めて君臨する、そういうこの世と新しい世の橋渡し的役割をする王がメシアであるという考え方もありました。マルコ8章やマタイ16章に、イエス様が自分の死と復活を預言すると、それを打ち消そうとしたペトロはイエス様に強く叱責されてしまいます。ペトロがメシアの意味を現世的な民族的英雄と考えていたことがうかがえます。それで、メシアが受難の末に死んでしまうなんて受け入れがたいことだったのでしょう。先にも触れたヤコブとヨハネの母親は、イエス様の死と復活の預言を聞いた後で、神の国が到来したら息子を側近にして下さいと懇願します。母親は、神の国が現世的なものでなくて、復活を伴う新しい世の王国と理解したようです。しかしながら、身分の序列があると考えていたので、これも現世的な王国をイメージしていたことがうかがえます。

 以上のように、イエス様の死と復活の出来事が起きる前、人々は、神の国とそこに君臨するメシアについて正確な考えを持っていませんでした。そういう時に、弟子たちは「神の国で誰が一番偉いか」などと質問しました。イエス様の答えは弟子たちの予想を超えたものでした。まず、神の国に入れるための条件が言われました。「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して神の国に入ることはできない。」「心を入れ替える」というのは、ギリシャ語の原文では、「立ち返る」という意味の動詞στρεφωで、それが意味するところは、今の自分は神のもとからも、また神の意志からも離れてしまっている、だから今神のもとに立ち返らねば、と気づくことです。「子供のようになる」というのは、先ほど申し上げたように、神がイエス様を用いて実現して下さった救いをそのままいただくということです。神があげるよと言って下さるのを、ケチも文句もつけずに(もちろんつけようがないものですが)、ただただ受け取るだけです。逆に、これだけのものをいただけるのだから、何かこちらからもしないといけないとか、そんなお返しの必要もなく、ただただ受け身になって受け取るだけです。まさに大人としての自負も誇りもない状態で、まさに無力な子供のようになって受け取るだけです。こうして、人間は神の国の一員に迎え入れられるのです。本日の箇所では、イエス様は特に洗礼には言及していませんが、それはこの発言がまだ十字架と復活の出来事が起きる前になされたためで、それらが起きた後に、洗礼を通して救いの所有者になることがはっきりしてきます。

神のもとに立ち返って、子供のように無力な者として、神の実現された救いを受け取る、こうして人は神の国に入ることができる。このように神の国に入れる条件を明らかにした後でイエス様は、その神の国の中で一番偉い者は誰かということについて答えます。「自分を低くして、この子供のようになる人」がそれです。これは、今述べました神の国に入れる条件と同じ内容です。「自分を低くする」とは、こと救いに関しては、人間は何もなしえない、能力と知識をいかに高めて業を鍛えても、人間は死を超えた永遠の命は持てない、神の方で整えてくれなければならない。そのように観念して、救いに関しては神に全く依存するということです。ちょうど子供が親に依存しなければ生きていけないように。ここでは、「この子供のようになる人」と言って、弟子たちの目の前に立たせてある子供を指して、低くした状態がどんなものであるかを視覚に訴えています。「低くする」ことがどんなことか一目瞭然であるように、この子はおそらく身なりのみすぼらしい子供だったのではないかと思われます。

5節でイエス様は「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」と言われます。(この文のギリシャ語の原文は少し厄介です。新共同訳のようなδεξηται~επι τω ονοματι μουという結びつきで考えないで、τοιουτο επι τω ονοματι μουという結びつきでみると、訳としては、「このような私の名に拠り立つ子供を一人でも受け入れる者は、私を受け入れるのである」という意味になります。つまり、イエス様を救い主と信じる子供を受け入れて、その子の信仰をしっかり守り支える者は、イエス様をしっかり受け入れて信じているのである、という意味です。次に来る6節とのつながりで考えると、こちらの方がいいのではないかと思われます。)この「受け入れる」ということですが、よくある理解の仕方ですが、孤児とか困窮した子供を引き取るという弱者救援の福祉的な意味ではありません。どんな意味かと言うと、次の6節でイエス様は「わたしを信じるこれらの小さい者の一人」と言っています。つまり、ここで引き合いに出される子供は、イエス様を救い主と信じる信仰を持っている子供です。何歳くらいかは予測がつきませんが、信仰を持っている子供ということに注意すると、先ほどの5節の「このような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れる」の意味が明らかになります。それは、弱者救援ということではなく、信仰を持った子供を信仰の共同体、教会の一員として、しかも大人と対等な一員として受け入れて、その信仰をしっかり守り支える、という意味です。10節でイエス様は、「神の御前にいる守りの天使は、大人だけでなく、ちゃんと子供にもついている、だから子供を見下してはならない」と教えているのです。子供だからと言って、その信仰を軽く見てはならないのであります。

6節から9節にかけて、「つまずき」の問題が出てきます。「つまずき」とは原語のギリシャ語でスカンダロンσκανδαλονといい、正確には「つまずかせるもの」という意味です。日本語でも英語借用語スキャンダルのもとの言葉です。

「つまずかせるもの」は、私たちをどうつまずかせるのか?先ほど申し上げましたように、私たちはイエス様を救い主と信じて洗礼を受けて、神が実現された救いの所有者となって、この世にありながら既に神の国の一員に迎え入れられて、約束された永遠の命に向かって歩むようになりました。キリスト信仰者とは、自分の肉に宿る古い人間を日々死なせ、洗礼を通して植えつけられた新しい人間を日々育てていく存在です。「つまずかせるもの」とは、古い人間と結託して新しい人間の成長を妨げたり阻止しようとするものです。暴力をもって信仰を捨てさせようとする迫害もありますが、もっとソフトな誘惑というものもあります。例えば、「これをすれば君は素敵な人生を送れるぞ。もちろん君の言う信仰には相いれないかもしれないがね。今どきそんな古めかしいことに自分を縛りつけて何になるんだい?」という具合に、です。キリスト信仰者にすれば、神のひとり子が流した尊い血が身代金になって自分を罪と死の支配から解放してくれたということが最大の自由であって、この世が誘惑する「素敵さ」こそが束縛に他なりません。イエス様が言われるように、五体満足のまま地獄におちるよりも、五体不満足のまま永遠の命に入れる方がよいというのは、健康や富や名声に恵まれてこの世を生きても、それが自分を造ってくれた神に背いて得られたり享受したりするものならば、呪われたものでしかないのです。

しかしながら現実には、「つまずかせるもの」の誘惑に聞き従って、新しい人間を育てることを止めて、古い人間にとどまってしまう人も出てきます。特に若者は、新しく生まれ変わりたい、今とは違う自分になりたい、と希求する心が強いので、洗礼で植えつけられた新しい人間をしっかり見据えていないと、「つまずかせるもの」が次々と打ち出してくる新しい人間像、先端をゆく人間像に目移りしてしまう危険があります。その意味で、本日の箇所でイエス様が「つまずかせるもの」への警告を大人よりも子供に向けているのは理由のあることなのです。(イエス様は、「つまづかせるもの」について教える前と後では、「お前たちは」と言って弟子に向かって教えていますが、「つまづかせるもの」のところでは、「お前は」と言って一人の相手に言っています。)

12節から14節までは、迷い出てしまった1匹の羊と迷わなかった99匹の羊のたとえ話です。もし信仰を持つ子供ないし若者が信仰を外れる道に迷い出てしてしまった場合、父なる神は見つかるまで探し出す決意でいるということです。迷い出した者自身が見つけられることを拒否しない限り、神は必ず見つけて下さり、信仰の道に再び戻して下さいます。洗礼を受けて救いの所有者になったにもかかわらず、そのことをすっかり忘れて生きるようになった人たちが、どうか、神によって見つけられますように。

4.それでは、本日の福音書の箇所を理解したところで今度は、大人の信仰と子供の信仰の問題について考えてみましょう。大人の信仰に何か問題があるのでしょうか?子供の信仰には、本当に大人が見習わなければならないものがあるのでしょうか?こうしたことを考える時、幼児洗礼の意味を振り返ってみるとよいと思います。

生まれたばかりの赤ちゃんに洗礼を授けることに意味があるのかという疑問はキリスト教会の歴史においてしばしば議論されてきました。まだ信仰告白はおろか、言葉さえ発せられない赤子がイエス様を救い主と信じる信仰を持っているかどうかとても疑わしい。洗礼を施すなら、ある程度年齢が進んで、聖書を理解でき、イエス様を救い主と信じますと自分で決意できる段階で授けるのが正しいと考える教派もあります。

ここで、神がイエス様を用いて実現した人間の救いは、人間の貢献が全くない100%神の業であった、ということを思い返す必要があります。神が救いを完成品として、どうぞ受け取ってくださいと、全人類に差し出して下さっている。救いはまさに神の全人類に対する無償の贈り物です。救われるために人間がすることと言えば、それをただ受け取るだけです。人間が受け身に徹すれば徹するほど、贈り物の無償性がはっきりします。その意味で幼児洗礼ほど、救いが贈り物であることが鮮明になる機会はないのであります。逆に言うと、理解力がなければだめだとか、何々しなければ施さない、受けないと言う場合は、贈り物に条件が課せられることになります。さらに、信仰が人間の自由な意思決定の産物となって、哲学や思想やイデオロギーのように、人工物化する危険があります。

もちろん、幼児洗礼を受けて、それで全てが解決するということにもなりません。ルター派が国教会となっているフィンランドでも現在多くみられるのですが、幼児洗礼がすっかり形式的な通過儀礼になってしまい、親は教会にも行かず、子供を日曜学校にも行かせない、家庭で一緒にお祈りすることもなければ、神やイエス様について教えることもないということが起きる。そうなると、子供は自分が救いの所有者であることに気づかずに育ってしまう。そのままで堅信礼を迎えてしまうと、そこでよほどの導きに遭遇しないと、それも形式的な通過儀礼に終わってしまう。その後の人生において、「聖書に書いてある神の意志などというものは時代遅れのもので、そんなものいちいち聞き従っていたら、自由な生き方や自己実現の邪魔になる」と言わんばかりの、無信仰の人が多く出てきます。そのような場合、幼児洗礼で与えられた贈り物はその人にとって何の意味もありません。ただ、正確を期して言うと、贈り物の意味自体は消滅しません。贈られた人が意味に目を背けて生きているだけです。そこで、もし、そういう人が信仰に立ち返れば、それは既に与えられている贈り物の意味を再びかみしめて生きることになるので、再洗礼を受ける必要は全くありません。いずれにしても、人が幼児洗礼で受け取った贈り物の意味をわかり、それを携えて生きるようになるためには、家庭の信仰生活の大切さは強調しても強調しすぎることはありません。

ところで、日本ではキリスト教徒は全人口の圧倒的少数派で、洗礼を受ける人も家族代々受けるというよりも、その人の人生の歩みの途上で受けるということが多い。そうなると、信仰を自己の自由な意思決定の産物にする危険がでてきます。青年とか大人になって洗礼を受けるのだから、赤ちゃんのような完全な受け身状態で贈り物を受けるというのは不可能です。しかし、そうであればこそ、理解力を持つ大人は、「受け身に徹すれば徹するほど救いは贈り物になる」という真理の一点に理解力を集中すべきです。「私は自分の能力を持ってこの救いを勝ち得た」などと考えてはいけません。2000年前の彼の地でで起きた出来事は、今を生きる私のためになされた、とわかったとき、自分の持つ能力、業績、名声その他そういったものは贈り物を受け取る際に意味がないばかりか、邪魔にさえなることに気がつくでしょう。その点で、子供が有利な地位にあることは否めないでしょう。本日の箇所でイエス様が「自分を低くして子供のようになれ」と教えられたのは、まさに、救いを贈り物として携えて生きていけるために必要なことなのです。

最後に、幼児洗礼が孕む問題として、それが子供の信教の自由を制限するのではないと心配されることについて一言。日本ではキリスト教徒の親が子供は成長してから自分で決めるべきだとして洗礼を授けないことがよくあると聞いたことがあります。どうして親は、自分が受け取った救いの贈り物は何にも代えがたい素晴らしいものだと信じているなら、どうして自分の子供に同じ素晴らしいものを受け継がせたいと思わないのでしょうか?子供が大きくなって、世界の諸宗教や思想、哲学、イデオロギーを客観的に眺められる知識を築いた後、果たして、自分はこれを選ぼうと言って何かを選ぶでしょうか?私が思うに、そうなると逆に選択するのは難しくなるのではなり、全てを客観的に眺める立場でい続けようということになると思います。しかし、もし子供を、キリスト信仰を持つ者として育てれば、子供は世界の諸思潮に向き合う際の拠点を得ることになります。その拠点を持つが故に必然的に生まれてくる荒波に乗り出して行くことになります。そのような拠点を与えることは自由の制限にはならないと思います。信教の自由とは、自分の好きな宗教を自由に選べるという意味もありますが、他方では自分の信仰を妨げなく実践できる自由という意味もあります。子供にキリスト信仰を受け継がせることは、こちらの自由を実現することになるのです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

聖霊降臨後第15主日の聖書日課 マタイによる福音書18章1-14節、エレミア15章15-21節、ローマ12章9-18節