説教「はじめにことばありき」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書1章1-14節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

はじめにことばありき - 聖書の文句のなかで、これほど有名なものはないでしょう。キリスト信仰者でなくても、この聖句を知っている人なら誰でも、この「ことば」というのはイエス・キリストのことを指すと知っているのではないでしょうか。ヨハネ福音書のこの出だしの部分は、イエス様とは本質的にどんな方であるのかを詩的な口調で表現しています。皆様もご存知のようにマタイ福音書とルカ福音書では、イエス様が乙女マリアから生まれる出来事が最初にきます。父、御子、御霊の三位一体の神、その中の御霊つまり聖霊が力を及ぼして乙女が身ごもってイエス様を産む。その意味では、イエス様誕生の出来事の記述も、イエス様が本質的にどんな方であるかを示しています。ヨハネ福音書では、イエス様が本質的にどんな方であるかということについて、著者がイエス様と共にいた日々を振り返って自分の目で見、耳で聞いたことをもとに総括・分析した、その結果を冒頭に持ってきたわけです。それを、さらに詩的な口調で表現しているのです。

このようにしてヨハネ福音書1章1節から18節までは、イエス様についての真理が語られます。そして、この真理は詩的に語られるので、これは「詩的な真理」と言えます。途中の6-7節と15節で洗礼者ヨハネのことが出て来るので、少し脇道にそれるようになりますが、それはイエス様の本質をさらに明らかにするために入れられたものであることはすぐわかります。

このヨハネ福音書冒頭のイエス様についての詩的な真理というものは、真理であるがゆえに、人間を大いなるものを前にして謙虚にする力があります。また詩的であるがゆえに、人間の心を大いなるものを受けとめられるくらいに豊かにする力があります。そういうわけで本日の説教では、この聖句を通して、私たちを謙虚にし、かつ私たちの心を豊かにする力に触れられることを目指していこうと思います。

2.天地創造の前からいた神のひとり子

「初めに言があった」。この「はじめ」とはいつのことを指すのでしょうか?多くの人は、聖書全体の出だしにある創世記1章1節の聖句「初めに、神は天地を創造された」を思い起こすでしょう。神が天地を創造された太古の大昔のことが「はじめ」であると。しかし、実はそうではないのです。ヨハネ福音書の出だしにある「はじめ」とは、天地が創造される時ではなくてその前のこと、まだ時間が始まっていない状態のことを指すのです。時間というのは、天地が創造されてから刻み始めました。それで、創造の前の、時間が始まる前の状態というのは、はじめと終わりがない永遠の状態のところです。時間をずっとずっと過去に遡って行って、ついに時間の出発点にたどり着いたら、今度はそれを通り越してみると、そこにはもう果てしない永遠のところがあって、そこに「ことば」と称される神のひとり子がいたのです。とても気が遠くなるような話です。説教題の「はじめにことばありき」の「はじめ」を漢字にしなかったのですが、どうしてかと言うと、漢字にすると、何かが始まる時の初めというように意味を狭めてしまうのではないか、本当はその前のことなのに。それでひらがなにとどめた次第です。

この永遠のところにいた神のひとり子が「イエス」の名前で呼ばれるようになるのは、今から約2000年少し前に彼がこの世に送られてからのことでした。ひとり子そのものは、既に天地創造の前の永遠のところに父なるみ神と共にいて、天地創造のあと時間が始まった後もまだしばらくは父のいる永遠の御国にいたのです。そして、父が定めた時、つまり今から約2000年少し前の時にこの世に送られました。人間の姿かたちを持つ者として人間の母親から生まれて、「イエス」の名がつけられたのです。

それでは、天地創造の前の永遠のところにいた神のひとり子とは一体どんな方だったのでしょうか?ヨハネ福音書の著者ヨハネは、ひとり子を「ことば」、ギリシャ語でロゴスと呼びました。ギリシャ語というのは、ヨハネ福音書をはじめ新約聖書の書物が書かれている元の言語です。ギリシャ語のロゴスという言葉ですが、これはとても幅広い意味を含みます。もちろん、文字にして紙に書き記したり(昨今では紙に書かないでキーボードをたたくのが主流ですが)、口で話して音になる「言葉」を意味するのは言うまでもありません。これは私たちが普段日本語で「言葉」と言っているものと同じです。他にも、何か内容を持つ話、スピーチを意味したり、「教え」とか「噂」とか「申し開き」、「弁明」とか「問題点」とか「根拠」とか「理に適ったこと」とか、日本語だったら別々の言葉で言い表す事柄がロゴスに収まります。さらに、古代のギリシャ語の文化圏では、哲学のある一派の考え方として、世界の事象の全て、森羅万象を何か背後で司っている力というか、頭脳というか、そういうものがあると想定して、それをロゴスと言っていた派もありました。日本語では「世界理性」とでも訳されるのでしょうか。

このような森羅万象を背後で司るロゴスというのは、古代ギリシャの哲学の話で、もともとはユダヤ教キリスト教とは何のゆかりも縁もない、人間の頭で考えて生み出されたものでした。ところが、聖書に依拠するユダヤ教とキリスト教は、天地創造の神が人間に物事を伝えたり明らかにしたりして、人間はそれを受け取るという立場ですので、生み出す大元にあるのはあくまで神です。哲学では、その大元は人間ということになります。

ヨハネ福音書の著者ヨハネは、神のひとり子のイエス様というのは、ある意味で森羅万象を背後で司るロゴスが人間の形をとったものと考えたのでした。ここで注意しなければならないのは、ヨハネはギリシャ哲学の内容をイエス様に当てはめたのではないということです。そうではなくて、旧約聖書の伝統とイエス様自身が教え行ったことに基づいて、イエス様を捉えた結果、このとてつもないお方を、自分が伝えようとしているギリシャ語世界の人々の頭にすっと入るコンセプトはないものか、と考えたところ、ああ、ロゴスがぴったりだ、ということになったのです。土台にあるのはあくまで、旧約聖書の伝統とイエス様の教えと業です。哲学のいろんな理論や議論ではありません。

では、旧約聖書のどんな伝統が、イエス様をロゴスと呼ぶに相応しいと思わせたかというと、それは箴言の中に登場する「神の知恵」です。箴言の8章22-31節をみると、この「知恵」は実に人格を持ったものとして登場し、まさに天地創造の前の永遠のところに既に父なるみ神のところにいて、天地創造の時にも父と同席していたことが言われています。同席だけではありません。ヨハネ福音書の1章3節をみると、「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」と言われています。つまり、ひとり子も父と一緒に創造の業を行ったのです。どうやってか?創世記の天地創造の出来事はどのようにして起こったかを思い出してみましょう。「神は言われた。『光あれ。』こうして光があった(創世記1章3節)」。つまり、神が言葉を発すると、光からはじまって天も地も太陽も月も星も海も植物も動物も人間も次々と出来てくる。このように、ひとり子は神の言葉の側面を持つと考えれば、彼も天地創造になくてはならないアクターだったことがわかります。先にも見たように、ロゴスは直接的には「言葉」という意味を持ちますから、ひとり子をロゴスと呼ぶことで彼が創造の役割を果たす「神の言葉」であることも示せます。

本日の説教題「はじめにことばありき」で「ことば」を漢字にしなかったのですが、どうしてかと言うと、漢字にすると何か話された言葉とか書かれた言葉のように意味を狭めてしまうのではないか、本当は背後にあるもっと壮大なものを意味するのに。それでひらがなにした次第です。

このようにひとり子は「神の知恵」、「神の言葉」であり、彼は天地創造の前から父なるみ神と共にいて、父と一緒に創造の業を成し遂げられました。実はイエス様はこの地上で活動されていた時、自分のことをまさに「神の知恵」であるとおっしゃっていたのです。ルカ福音書11章49節、マタイ11章19節にあります。(もちろんイエス様が実際に口にした言葉は、ギリシャ語のソフィアσοφιαでなくて、ヘブライ語のחכמהか、アラム語のそれに近い語だったでしょう。)イエス様は本当に、天地創造の前から父なるみ神と共にいて、父と一緒に創造の業を成し遂げられた方だったのです!ヨハネ福音書8章を見ると、イエス様が自分のことをそういう果てしないところから来られた方であると言っているのに、ユダヤ教社会のエリートたちときたら全く理解できず、「お前は50歳にもなっていないのに、アブラハムを見たと言うのか」などととんちんかんな反論をします。50年どころか50億年位のスケールの話なのに。しかし、こうしたことはイエス様の十字架の死と死からの復活が起きる前は、とても人知では理解できることではなかったのです。

ところで、イエス様を箴言にある永遠の「神の知恵」とすると、一つやっかいなことが出て来ます。箴言8章をみると「神の知恵」は「生み出された」と言われています(24、25節、ヘブライ語חיל )。「生み出された」と言うと、ひとり子も私たちと同じように何か造られた感じがします。私たち人間も生まれるのだし、そもそも人間は神に造られたものですから。さらに箴言8章22節を見ると、「神の知恵」である「わたし」、つまりひとり子も父なるみ神に「造られた」と書いてあります。神のひとり子も被造物なのでしょうか?

これはよく注意してみなければなりません。まず、箴言8章22節の「造られた」のヘブライ語の元の動詞(קנה)は、創世記1章1節の「神は天地を創造された」の「創造された」(ברא)と異なる動詞を使っているので、造りは造りでも何か質的に違うものだということに気づきます。そこで、箴言8章をよく見ると、神の知恵が「造られた」のは、天地創造の前に起きたことが強調されています。つまり時間が始まる前の永遠のところでひとり子は「造られた」のです。

「生み出される」についても同じです。確かに神に造られた被造物である私たち人間も「生まれる」のですが、「神の知恵」「神の言葉」であるひとり子が「生み出される」というのと全然事柄が違います。人間や動物の場合は、天地創造の時に造られて、被造物の生殖を通して被造物として「生まれ」ます。被造物としての地位はかわりません。この、天地創造の前のひとり子の「生み出され」は、これは天地創造がない、時間がない、永遠のところのことです。天地創造の後の被造物の「生まれる」とは質的に異なります。それが具体的にどんな「生み出され」なのかはもう誰にもわかりません。聖書に、天地創造の前に私は生み出された、と言っているから、それはもうそうとしか言いようがないのです。全ては天地創造の前のことなので、私たち被造物が造られたように造られたのではないということをしっかりわきまえておくしかありません。それ以上のことはわかりません。時間の中に存在する私たちは、その外側の世界のことはわからないのです。ひとつだけ確実に言えることは、この「生み出される」があるおかげで、生み出された方は生み出した方の「ひとり子」なのであり、生み出した方を「父」と呼ぶ、そういう関係ができたということです。

 このようにロゴスと呼ばれる神のひとり子は、天地創造の前から父なる神と共にいて、創造の時には父と共に働かれました。それで、ヨハネ福音書1章1節にあるように、ロゴスはもう神としか言いようがないのです。このヨハネの分析は、キリスト教会の伝統に受け継がれていきます。私たちの礼拝でも唱えられる信仰告白の一つである二ケア信条にひとり子のことを「父と同質であって」と言われていることがそれです。

3.永遠の命をもたらし導く光

4節と5節をみると、光と闇と命について述べられます。「命」というのは、ヨハネ福音書ではたいてい、私たちが今生きている限りある命を超えた「永遠の命」、まさに父なるみ神のもとにある「永遠の命」を指します。創世記の初めに明らかにされているように、人間は堕罪の時に神に対して不従順になって罪を持つようになってしまったがために、この「永遠の命」を失ってしまいました。それを再び人間に取り戻してあげて、人間がこの世を生きる命とその次の永遠の命の両方を合わせもった大きな命を生きられるようにするために、神のひとり子が父のもとからこの世に送られてきたのです。

永遠の命が「人間を照らす光」というのは、ギリシャ語の原文では「照らす」とまでは言っておらず、ただの「人間の光」です。もちろん暗闇の中を照らす光として、人間に永遠の命への道を示してあげるという意味を持ちます。しかし、それだけではなく、人間が闇の力に支配されないように、人間の内に灯してもらう光も意味します。闇の力とは、人間を神に対して不従順にして罪を植えつけて永遠の命を失わせてしまった悪魔の力です。

5節をみると「暗闇は光を理解しなかった」とありますが、これはいろんな意味を持つギリシャ語の動詞καταλαμβανωが元にあり、訳仕方がわかれるところです。フィンランド語、スウェーデン語、ルターのドイツ語訳の聖書ですと、「暗闇は光を支配下に置けなかった」ですが、英語NIVとドイツ語の別の訳(Einheitsübersetzung)だと、日本語と同じ「暗闇は光を理解しなかった」です。どっちが良いのでしょうか?もちろん、悪魔は人間を永遠の命に導く光がどれだけの力を持つか理解できなかった、身の程知らずだったというふうに解することができます。ただ、十字架にかけられて全ての人間の罪の罰を一身に請け負ったイエス様は、父なるみ神の力で死から復活させられて、死を超える永遠の命の扉を開かれた、このことを思い起こせば、暗闇は光を支配下に置けなかったというのがよりピッタリではないかと思います。なぜなら、悪魔は罪を最大限活用して人間を永遠の命から切り離そうと企てるのですが、それはイエス様の十字架と復活の業で事実上破たんしてしまったのですから。

4.インカーネーションの良い知らせ

 父なるみ神と共に永遠のところにいて、天地創造の時には父と共に働かれたロゴス、神の知恵、神の言葉なるひとり子は、人間を罪の呪縛から解放して再び永遠の命を携えて生きられるようにするためにこの世に送られました。あなたは、もう神から罰を受けないですむようになったんですよ、あの方が全部請け負って下さったんですよ、と言えるためには、その方が本当に神罰を神罰として純粋に本気で受けられないといけません。受けた罰がみせかけのものではいけません。本当に罰の名に値する苦しい痛いものであるためには、受ける者はそれを身に沁みて受ける生身の人間でなければなりません。しかし、自分一人の罪さえ背負いきることのできない人間が、全ての人間の罪を背負って神罰を受けることなどは不可能です。父なるみ神は、それを全部自分のひとり子に請け負わせることにしたのです。これが、神のひとり子がこの世に送られるとき、人間の姿かたちを持って人間の母親を通して生まれてこなければならなかった理由です。まさに、ヨハネ福音書1章14節に言われるように「言ロゴスは肉となった」のです。この何気ない一言に神の人間に対する大いなる愛と恵みが凝縮されています。ここに神の大いなる真理があります。まさにキリスト信仰の核がここにあるのです。

 「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それを父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(1章14節)。

 イエス様の十字架と復活を目撃した人たちは、イエス様というのは人間が神の罰を受けないで済むように、罪の呪縛から解放されて、永遠の命を持てるようになるためにこの世に送られて、それで十字架と復活の業を成し遂げられた。そのことが、ジグソーパズルが一挙に埋まるようにわかったのです。旧約聖書の趣旨はそうした全人類的な救いにあるとわかったのです。それで、出来事の直接の目撃者である使徒たち、さらに、天に父のもとに戻られたイエス様から直接啓示を受けたパウロが中心となって、「罪の赦しの救い」の福音を宣べ伝え始めました。まさに、本日の旧約の日課の箇所イザヤ書52章で言われるような「山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足」になりました。

イザヤ書52章9節に「歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃墟よ」と言われます。「エルサレムの廃墟」というのは直接的には、イエス様の時代から約600年近く前に起きたバビロン捕囚の時代のエルサレムが廃墟だったことを指しています。同時にこれは、打ちひしがれた人、心が打ち砕かれて廃墟のようになってしまった人たち全てを象徴しています。実は「歓声をあげ」という句の前に、ヘブライ語の原文では「心を平安にせよ」という句(פצחו)があるのですが、どういうわけか、日本語、英語、スウェーデン語、フィンランド語訳の聖書では皆省かれています。恐らく「歓声をあげ」ることからみたら、余分なものとされてしまったのでしょう。(ただし、イザヤ書14章7節では52章9節と同様、この同じ動詞が「歓声をあげる」という動詞と一緒に使われていますが、そちらはちゃんと訳されています。)しかし、これは大事な句です。この「心を平安にせよ」というのは、正確には「嵐が過ぎ去った海や空のように心を静めて穏やかにしなさい」という意味です。つまり、廃墟のようになって悲しんでいる人たちに向かって次のように語っているのです。「嵐は過ぎ去った。もう廃墟のままとどまる時は終わったのだ。なぜなら、天地創造の神から送られたひとり子が、私たちが背負いきれない本当の重荷を背負って下さったからだ。だからそこを出発点にして、それを真の希望の拠りどころとして立ち上がりなさい。この方を救い主と信じていく限り、あなたは他の重荷をきっと背負っていけるでしょう。そのために主は必要に応じてあなたに休息を与えてくれるでしょう。」

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

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