説教:木村長政 名誉牧師、マタイ1章18~23節

 今日の礼拝はクリスマスを迎え、待ち望む降誕節第三主日です。聖書はマタイ福音書1章18節から23節までです。イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。とクリスマスの出来事を私たちに告げています。

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この福音書を書きましたマタイは新約聖書の冒頭にいきなり、まずイエス・キリストの系図を記しています。なぜでしょうか、ユダヤ人にとって系図はとても大切な事柄でありました。私たち日本人には到底想像もつかない深いものがありました。その上マタイは福音書をユダヤ人のために向けて書いたようであります、ですから系図をきちんと記してイエス・キリストに至るまでのことを記しています。

アブラハムの子・ダビデの子・イエス・キリストの系図。

17節
「アブラハムからダビデまで14代、ダビデからバビロンへ移住まで14代、そしてキリストまで14代。」16節を見ますと「ヤコブは、マリアの夫ヨセフを儲けこのマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。」とあります。福音を書くのにキリストの系図をドーンと延々とカタカナで書いて人の名ばかり綴られています。そして今日の聖書18節にこれを全部受けてイエス・キリストの誕生の次第は次のようであった、と入って行く。

これは救い主、キリストの降誕に至るまでに、いかに壮大な神の計画がユダヤという民族に向けられて進められて来たか、と言うことを書いている。マタイは自分もユダヤ人の血が流れている者として神様がユダヤという民を特別に選ばれ、長い長い旧約聖書に明らかにされているように長い歴史を貫いて働かされてきた。その神の恵みを万感の思いを込めて綴り始めているのです。

そこには世界中、どこにもない戦いや敗北もあった苦しい苦しい民族の歴史です。そのような民を神は選び神の計画の中にあっては、そこには計り知れない神の恵みがあった、その恵みは何者にも束縛されない全き神の自由であります。その奥には神の「人類を救う」という神秘の計画、隠された神の秘義があって救いの系図の最後の人として今やヨセフがその選びに預かり、重大な課題を託されようとしている。

その内容を次に展開して行く訳です。

大工の倅、貧しくも若きヨセフには結婚の約束をしていたマリアがいた。そのマリアに思いもかけない事態が起こった。結婚前にすでに妊娠している、という課題であった。18節でマタイは絶妙の表現で書き表しています。「マリアとヨセフは婚約していたが、二人が一緒になる前に聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。」マリアはまことに清らかな信仰をもっている乙女でありました。普通の人と変わらぬ一人の人間です。罪の根源をみんなその人の本性の中に持っているところの人間の一人にすぎない。その罪に染まった人間の姿を持って誕生されるのです。

マタイは素晴らしい言葉を使って記しています。「聖霊によって身ごもっている」ことがあきらかになった。聖霊によって身ごもる、ということはどういうことでしょう。神の福音は神の霊の世界のことであります。宗教は霊の世界であります。人間には到底わからない。神秘の霊の世界にかかわる、ということです。

神ご自身が人の姿をもって神の子として乙女の胎内を通して人であり又同時に救い主キリストとして生まれられるのであります。聖霊によって身ごもった、ということがそこに秘められている霊の世界の神秘であります。分からない世界であります。それを偉そうな顔をした哲学者や神学者たちがその神秘を何とかして説明しようといろいろ考えている。当時の一番身近な例を持ってきてギリシャ神話の中にある神が人間の女性と交わって神の子を生む、という話が多くあります。プラトンやアレキサンダー大王などの偉い人が父親なしに生まれたと言いまわったのでありました。その伝承や言い回しが用いられるかも知れないそこで、マタイは乙女マリアの胎内に聖霊によって身ごもった生まれる子が自分の民を救うキリストとなられる、ということをはっきり示しています。婚約者のヨセフとしてはもう信じがたい異常な事態でありました彼がどんなに戸惑い悩んだことか。

19節を見ますと「夫ヨセフは正しい人であったのでマリアのことを表沙汰にするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」とあります。当時は婚約者であっても妻と同じように見なされていましたからマリアが身ごもった事が公になった場合、それは大変なことです。

申命記22章22節には「妻たる者の淫行が発覚した場合これを死刑に処すべきである」という規定がありました。夫ヨセフはこうした律法にも正しい人であったでしょう。彼は公になる前にどんなに

愛していても愛するがゆえに秘かに離縁しようと決心したのであります。ヨセフでは到底抱えきれない愛の重さがあります。そのどん底にまで彼は突き落とされたような状態であります。神様はその全てを知り尽くして彼に天の使いをもって救いのみ手を下されるのです。天使が夢に現れて主のみ旨をヨセフに直接伝えたのです。神様はどんな瞬間にも、思いをかけないみ手をもって事を起こされるのであります。

マタイはしっかりと20節から23節まで記しています。主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を生む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」

ヨセフはこの天使からの声を聞き夢の中で語っているとはいえ彼を信じ受け入れた、といことです。そしてこれから容易ならぬ試練に立って行くことになります。特にユダヤ教の伝統の中に処女は身ごもって子を産むというようなことなど絶対にないことでしょう。ヨセフはそのような神の選びに預かった、到底信じがたい異常な事態を黙って一心に主のみ旨を負っていたのであります。そうして、こう言われています。「古き自己を死に引き渡す以外に到底不可能な決断であった。」と。つまりこれまでのいっさいの己を捨てて死を覚悟しての「主のみ旨を受け入れてゆく人生」の始まりでありましょう。主のみ旨は何か、と言いますと「恐れを克服し敢てマリアを受け入れよ」と命じるのであります。そしてこの妊婦は不倫の結果ではなく、聖霊による天から与えられる賜物である、とみ使いは言うのでありました。

イエスという名はヘブライ語のもとの意味は「ヤハウェーは救い」というつまり救いであられると言う、やがてイエスは彼の民イスラエルを「罪から救う」という使命を負っていかれるのであります。「イエスこそ救い主キリストであられる」このことを証言することがマタイの主眼でありました。こうして預言の言葉を添えるのであります。イザヤ書7章14節のみ言葉で「見よ、おとめが身ごもって男の子を生む、その名はインマヌエルと呼ばれる」。その名は「神は我々と共におられる」と言う意味である。

そしてマタイは福音書の最後の言葉を28章20節で「見よ、わたしは世の終わりまで、いつも、あなた方と共にいる」という同じインマヌエルで結んでおります。救い主として、この世に生まれて来てくださった神の子いえす・キリストはいつもあなた方と共にいてくださるのであります。

                                                                                                                                                                                                                                                                  アーメン・ハレルヤ

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