説教「終わりの時を知り、今を豊かに生きる者」神学博士 吉村博明 宣教師、ルカによる福音書21章5-19節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

 本日は、聖霊降臨後最終主日です。キリスト教会の暦の一年は今週で終わり、教会の新年は来週の待降節第一主日で始まります。待降節に入れば、私たちの心は、神のひとり子が人間となってこの世に来たクリスマスに向けられます。私たちは、2000年近い昔の遥か遠い国の家畜小屋の飼い葉桶に寝かせられた赤子のイエス様の誕生をお祝いし、救世主をこのようなみすぼらしい形で送られた神の計画に驚きつつも、その人知では計り知れない深い愛に感謝します。

ところで、この教会の暦の最後の主日ですが、北欧諸国のルター派教会では「裁きの主日」と呼ばれます。「裁き」というのは、この世が終わる時にイエス様が再び、ただ今度は栄光に包まれて天使の軍勢を従えてやって来て、使徒信条や二ケア信条にあるように、「生きている人と死んだ人を裁く」ことを指します。つまり、最後の審判のことです。その日はまた、死者の復活が起きる日でもあります。実に私たちは、イエス様の最初のみすぼらしい降臨と次に来る栄光に満ちた再臨の間の時代を生きていることになります。つまり私たちは、クリスマスを毎年お祝いするたびに、一番初めのクリスマスから遠ざかっていくと同時に、その分、主の再臨の日に一年一年近づいていることになります。主の再臨の日つまりこの世の終わりの日、最後の審判と死者の復活が起こる日、これがいつであるかは、マルコ13章32節でイエス様が言われるように、天の父なるみ神以外には誰にも知らされていないので、誰もわかりません。そのため、イエス様は、その日がいつ来ても大丈夫なように心の準備をしていなさい、目を覚まして祈りなさいと教えられるのです(34~38節)。

このように、教会の一年の最後の日を「裁きの主日」と定めることで、北欧のルター派教会では、この日、最後の審判の日に今一度、心を向けて、いま自分はその時、神の御国に迎え入れられる者だろうか、と各自、自分の信仰生活を振り返る趣旨の日です。本説教も、そうした趣旨で行っていこうと思います。

 

2.

 本日の福音書の箇所は、ルカ福音書21章5節から始まって章の終わりまで続くイエス様の預言の初めの部分です。この預言の内容は少々複雑です。というのも、イエス様の十字架と復活の後に今のパレスチナの地を中心にして起きる直近の出来事の預言と、もっと遠い将来に全世界の人類全体に起こる出来事の預言の二つの異なる預言が入り交ざっているからです。つまり、一方では、私たちから見たらもう既に過去のことになった出来事が起きる前に預言されている。他方で、私たちから見たらこれから起きる出来事の預言が入っています。

 この複雑なイエス様の預言を解きほぐしていきましょう。まず、イエス様と一緒にいた人たちが、エルサレムの神殿の壮大さに感嘆します。それに対してイエス様は、神殿が跡形もなく破壊される日が来ると預言されます(6節)。これは、実際にこの時から約40年後の西暦70年に、ローマ帝国の大軍によるエルサレム破壊が起きてその通りになります。イエス様の預言が気になった人たちは、いつ神殿の破壊が起きるのか、その時には何か前兆があるのか、と尋ねます。それに対する答えとして、イエス様の詳しい預言が語られていきます。

まず、偽キリスト、偽救世主が大勢現れ、人々を誤った道に導くことが起きるので、彼らに惑わされてはならない、つき従ってはならない、と注意を喚起します。どうしてそういう偽救世主が現れるかというと、9節にあるように、人々は戦争やさまざまな混乱や天変地異(ακαταστασιας)を耳にするようになり、この先どうなるだろうか、自分は大丈夫だろうか、と心配になる。そうなると、偽救世主たちにとってはまたとない機会で、自分についてくれば何も心配はないと言う。それで人々はそういう混乱や天変地異の時代になると偽救世主について行きやすくなる。そういうわけで偽救世主は、8節で言われるように、世の終わりの「時」(ο καιρος)が近づいたなどと不安を煽る。そこでイエス様は、こうした不安と混乱の時代にどう向き合ったらいいかということを9節で教えます。これらの出来事は世の終わりの序曲として必ず起こることではあるけれども、これらが起きたからと言って、すぐこの世の終わり(το τελος)になるのではない。だから、偽救世主に助けを求める位に不安に陥る必要はないのだ、と。それで、イエス様は、不安の時代になっても「おびえてはならない」と命じるのです。そう命じられているのは、その時イエス様と一緒にいた人たちだけではありません。イエス様を救い主と信じる者みんなです。私たちも「おびえるな」と命じられているのです。

その混乱と天変地異の時代に何が起こるかということについて、イエス様は10節と11節で具体的に述べていきます。民族と民族、王国と王国つまり国と国が互いに衝突し合う。つまり戦争が勃発する。それから、世界各地に大地震、飢饉、疫病が起こる。さらに、天体に恐ろしい現象や大きな徴候が現れる。これは彗星や隕石の落下を意味するのでしょうか?イエス様は、これらのことはこの世の終わりに先行するものではあるが、すぐ終わりが来るのではない。だから、これらのことが起きても、イエス様を救い主と信じる者はおびえる必要はない、そう言われるのです。

ここまで見ると、イエス様は、神殿破壊の前兆に何が起きますかと聞かれて、このように答えたので、こうした偽預言者、戦争、地震、飢饉、疫病、天体の徴候等々の混乱や天変地異が破壊の前兆のように聞こえます。ところが、12節を見ると、「これらのことが起きる前に(προ τουτων παντων)」迫害が起きるということを述べていきます。つまり、迫害が先に来て、次に混乱と天変地異が起きるという順番になります。キリスト信仰者に対して起こる迫害について言うと、権力者によって信仰者が連行されて、自分の信仰について申し開きをしなければならなくなる。その時、信仰者がなすべきことは、この事態を信仰の証しの絶好の機会だと捉えること、どう弁明しようかと前もってあれこれ考えず、イエス様が反論不可能な言葉と知恵を与えて下さるのに任せて、その通りに話せばいいということです。迫害の中で痛々しいのは、権力者からくるものならまだしも、親兄弟、親族、友人からも見捨てられて命を落とすことがあるということです。「イエス様は救い主です」と、その名前を口にするだけで、それほどまでに憎まれてしまう。しかし、そのような時でも、信仰者が忘れてはならないことがある。それは、お前たちの髪の毛一本たりとも神の手から失われることはないということ。信仰者は頭のてっぺんから足のつま先まで神の手中にしっかりおさまっている。神はお前たちから一寸たりとも目を離すことはなく、お前たちに起こることは全て記録し全てを把握している。たとえ全ての人から見捨てられても、お前たちは神には見捨てられていない。神はお前たちを復活の日、最後の審判の日に天の御国に迎え入れるおつもりなのだ。それがわかれば、試練があっても忍耐できるのだ。まさに試練の中での忍耐を通して、お前たちは神の御許で過ごせる永遠の命を勝ち取ることができるのだ(19節)。

順番から言うと、迫害が起こって、偽預言者、戦争、大地震とその他の混乱や天変地異の時代が来ます。20節からは、質問者にとっての関心事、エルサレムの神殿破壊についての預言になります。24節まで続きます。迫害が起きて、混乱や天変地異が起きて、エルサレムとその神殿の破壊が起こる。先ほども申しましたように、この破壊は西暦70年に実際に起こりました。イエス様は、約40年後に起こることを言い当てたのです。ところが、ここで注意しなければならないことがあります。迫害が起きて、混乱と天変地異があって、エルサレムと神殿破壊が起こって、これで全てが完結したわけではありません。イエス様は9節で、偽預言者、戦争、大地震等々の混乱と天変地異の出来事はこの世の終わりの前兆として起きると言っています。イエス様の主眼は、質問者の意図を超えて、この世の終わりに向けられているのです。つまり、これらの混乱と天変地異はエルサレムの破壊の前にも起きるが、その後にも起きるということです。

そこで、この世の終わりそのものについて、25節から28節で預言されます。太陽と月と星に徴候が現れる。つまり天体に異常が生じる。それから、地上でも海がどよめき荒れ狂う異常事態になり、人類はなすすべもなく悩み苦しみ恐れおののく。文字通り天体が揺り動かされるようなことが起こり、まさにその時、イエス様が再臨するのです。

太陽や月を含めた天体に大変動が起きるというイエス様の預言は、イザヤ書13章10節や34章4節(他にヨエル書2章10節)にある預言を念頭に置いています。天体の大変動が起きる時、今ある天と地が新しいものにとってかわります。同じイザヤ書の65章17節で神は、「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する」と言い、66章22節で「わたしの造る新しい天と新しい地がわたしの前に長く続くようにあなたたちの子孫とあなたたちの名も長く続く」と約束されます。今ある天と地が新しいものにとってかわる時、そこに永遠に残るのは神の御国だけになるということが、「ヘブライ人への手紙」12章26~28節に預言されています。「(神は)次のように約束しておられます。『わたしはもう一度、地だけではなく天をも揺り動かそう。』この『もう一度』は、揺り動かされないものが存続するために、揺り動かされるものが、造られたものとして取り除かれることを示しています。このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。」

 ルカ21章28節で、イエス様は、天体の大変動の時に再臨される時こそが、キリスト信仰者にとって「解放の時」であると言っています。それは、イエス様を救い主と信じる者からすれば、この世の終わりというのは、迫害や苦難・困難に満ちた今の世から、「死も嘆きも悲しみも労苦もない、全ての涙を拭われる」(黙示録21章4節)、そういう神の御国へ移行する段階にすぎないからです。

 

3.

 さて、エルサレムの神殿の破壊は実際に起こったし、その前兆である戦争や迫害も起きました。しかし、天地創造以来とも言える天体の大変動はまだ起きていません。エルサレムの神殿の破壊からもう1900年以上たちましたが、その間、戦争や大地震や偽救世主は歴史上枚挙にいとまがありません。大地震も飢饉も疫病も天体の徴候も沢山ありました。キリスト教迫害も、過去に大規模のものがいくつもありました。もちろん、現代の世界でも国や地域によっては続いています。歴史上、そういうことが多く起きたり、また重なって起きたりする時には、いよいよこの世の終わりか、イエス・キリストの再臨が近いのか、と期待されたり心配されるということがたびたびありました。しかし、その度に天体の大変動もなく、主の再臨もなく、世界はやり過ごしてきました。イエス様が預言したことが起きるのは、まだまだ先なのでしょうか?それとも、1900年の年月の経験からみて、もう起こりそうもないという結論してもいいのでしょうか?

よく考えてみると、少なくとも天体の大変動がいつかは起こるというのは否定できません。皆さんもご存知のように、太陽には寿命があります。つまり、太陽には初めと終わりがあるのです。水素を核融合させて光と熱を放っている太陽は、あと50億年くらいすると大膨張をして、燃え尽きると言われています。膨張などされたら、地球などすぐ焼けただれてしまうでしょう。50億年というのは気の遠くなる年月ですが、それでも旧約聖書やイエス様が預言するように「太陽が暗くなる」ということは起こるのです。もちろん、太陽が燃え尽きるまで地球が大丈夫ということはなく、膨張を少しでも始めたら、地球への影響は甚大です。それが何年後かはわかりませんが、ここで仮に10億年後とします。それ以外に地球に甚大な影響を及ぼす天体の異変がないと仮定すると、地球は10億年は大丈夫ということになります。これは本当に仮定の仮定の話ですが、何故こんなことを言うのかというと、天の父なるみ神がせっかく10億年大丈夫なようにしてくれているのに、人間の方で自分たちをもっと早く破滅させてしまう可能性があるからです。核兵器やいろんな環境破壊それに原子力や遺伝子操作やクローン技術とか、しっかりコントロールできるのでしょうか?せっかく神から可能性を与えられているのに、もったいないと言うか愚かと言うか、人間は天地創造の神の御心をもっと知るべきだと思います。

話しが横道に逸れてしまいましたが、今ある天と地が永遠に続かないということは科学的にも真理なわけで、聖書はそれを科学的でない言葉で言い表しているにすぎません。それでは、今ある天と地がなくなった後で果たして本当に新しい天と地ができるのかどうか、これは今の科学では何も言えないでしょう。ところが聖書の方は、今ある天と地は創造主が造ったものなので、この同じ創造主がいつかそれを新しいものに造りかえる、それで今あるものはなくなる、という立場をとっています。この立場を受け入れるかどうかは、科学で証明できない以上、信じるか信じないかの信仰の領域です。信じる人はどうして信じられるかというと、それは万物には造り主がいるということ、つまり聖書の神を信じているからです。

聖書の立場をもう少し詳しく言うと、今ある天と地はいつか新しいものにとってかわられる、その時、死者の復活や最後の審判が起こって、創造主の神に義(よし)と認められた者は新しい天と地に現れる神の御国に迎え入れられる、というものです。それがいつ起こるかについては、もし太陽の寿命が関係することだったら10億年とかそんな後になりますが、もし、その前にまだ解明されていない天体の大変動があれば、もっと早まることになります。そんな気の遠くなるような話をされたら、そうしたことは、まず自分の存命中には起こらないだろう、という気持ちになります。そうなると、自分はこうしたことが起こる前にこの世を去ることになる。その場合は、復活の日まではどこか神のみぞ知る場所で安らかに眠り、その日が来たら目覚めさせられて、神の御国に迎え入れられるかどうか判断を仰ぐことになります。

 そのように、聖書の立場に立ちますと、世の終わりというものがたとえ遠い将来のことで、この私がこの世を去ったずっと後に起きることであっても、それはどっちみち私に関係してくる、私はそれから逃げられないということになります。

 そこで、聖書の立場に立たず、天地創造の神を信じることがなければどうなるでしょうか?少し考えてみましょう。万物には創造主がいるということを知らなければ、今ある天と地はある時に造られたという発想がなく、永遠の昔からずっとあって、終わりもなくただずっと続いていくように思われるでしょう。でも、それは太陽や天体のことで明らかなように、永遠には続かないのです。終わりがあるのです。それなら、終わるのならそれで仕方がない、終わりは終わりなので全ては消えてなくなる、と思われるでしょう。しかしその場合、天地創造の神がないと、終わった後で新しい天と地に造り直されるということもないので全ては本当に終わりっぱなしになってしまいます。そうなると、死者の復活というのも、せっかく復活しても居場所がないわけですから、起こらないことになります。従って、それまで霊とか魂とかいう形で残っていたものも、全てそこで終わりになってしまいます。

ところが、天と地と人間を造り、人間一人一人に命と人生を与えた創造主の神を信じると、この自分は終わらないということがわかります。たとえ天と地の有り様がかわっても、自分もそれに合わせて神の栄光を映し出す復活の体を着せられるので(第一コリント15章35~49節)、消えてなくなることはない。「自分はある」とわかっている自分がずっと続いていくことがわかります。

 

4.

 ここで問題になってくるのは、この世の終わりの日、死者の復活と最後の審判が起こる日、自分は果たしてそのような復活の体を着せられて、新しい天と地のもとに現れる神の御国に迎え入れられるかどうか、そのような者としてこの自分は続いていけるのかどうか、ということです。結論から言えば、神は人間が誰でも御国に迎え入れられるようにしてあげようと、いろいろ手筈を整えてくれました。そこで神は、人間の方でそのことをわかってくれて、整えてあげたことを受け入れてほしい、そう望んでいるのです。この、神が望まれていることをすれば、人間は神の御国に迎え入れられる。それでは、神に手筈を整えてもらわないと人間は御国に迎え入れられないというのは、何か人間に不備があるということなのか?その、神が整えた手筈とは何か?それを人間が受け入れるとはどんなことか?聖書に従えば以下のようなことです。

人間はもともと造られた当初は神のもとで何も問題なく暮らしていました。ところが創世記3章の堕罪の出来事に示されるように、最初の人間が神ではなく悪魔の言うことを聞いてしまい、神に対して不従順になって罪に陥ったために神との関係が壊れてしまいました。人間は神のもとで暮らすことができなくなり、死ぬ存在となって、神のもとから離れなければならなくなってしまいました。人間は、代々死んできたことから明らかなように、代々罪を受け継いできてしまったのです。しかし、神の方では、人間との関係を回復させて、人間がまた自分のもとで暮らせるようにしてあげようとして、ひとり子のイエス様をこの世に送られたのです。神はイエス様にゴルゴタの丘の十字架で全ての人間の罪の罰を受けさせて、人間にかわって罪の償いをさせて、その犠牲に免じて人間を赦すことにしました。さらに一度死なれたイエス様を復活させることで、死を超えた永遠の命があることを示され、その扉を人間に開かれました。人間は、これらのことが自分のためになされたとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けると、このイエス様の犠牲の上に成り立つ罪の赦しが名実と共にその人の赦しになるのです。

このようにして神から罪を赦された者は、神との結びつきが回復し、永遠の命に至る道の上に置かれて、その道を歩み始めることとなります。万が一、この世から死ぬことになっても、罪の赦しに基づく神との結びつきがあるので、御手を差し出して御許に引き上げて下さる神に信頼して全身全霊を委ねることができます。また万が一、罪に陥ることがあっても、心の目をゴルゴタの十字架に向けて、神さま、イエス様の犠牲に免じて赦して下さい、と赦しを乞えば、神は、わかった、わが子イエスの犠牲に免じて赦す、もう罪を犯してはならない、と言って赦して下さるのです。その時、自分の命が尊い犠牲の上にあることが改めてわかり、軽々しいことはできなくなります。本日の旧約の日課イザヤ書52章の3節で「ただ同然で売られたあなたたちは、銀によらずに買い戻される」という神の言葉がありました。「ただ同然で売られたあなたたち」というのは、原文のヘブライ語(נמכרתם)では「あなたたちは自分自身を売り渡した」という意味も持ちます。人間が最初の人間の堕罪以来、悪魔に売り渡されて罪の支配下にあることを意味します。「銀によらず買い戻される」は直訳すると「あなたたちは銀(すなわち金銭)によっては買い戻されない」です。それでは、何によって誰に買い戻されるのか、というと、それは、神のひとり子の尊い血によって神に買い戻される、ということです。人間は、それ位自分の命が尊い犠牲の上に成り立っていることに気づくべきなのです。

 この世の終りとか、死のことを考えるのは、気持ちを暗くしてしまうもので、あまりいいことではないと思われるかもしれません。キリスト教の説教だから、もっと希望を与えるような明るい話を盛りだくさんにすべきだと言われてしまうかもしれません。果たしてそうでしょうか?エンディングノートを書いた人が、毎日をそれこそ与えられた貴重な時間と捉えるようになって、自覚的に生きるようになった、ということを聞いたことがあります。また、延命治療や高額医療の是非をめぐる議論で、あるホスピスケア専門家が、「人生の終りを見定めてから逆算して考えることも大切です。死を考えることは、生きる感覚を高めることにつながる」とおっしゃっていました(朝日新聞9月10日「耕論-命の値段」での田村恵子京都大学大学院教授の発言から)。聖書というのは、読めば読むほど同じような視点に人を導いていくと私は思います。しかし、聖書の場合は、エンディングノートや延命治療の議論とは違って、死んだ後どうなるかということにも立ち入るので、「生きる感覚の高まり」方が別次元のものになっていくのではないかと思います。例として、ルターのリンゴの木の話をあげることができます。これはルター本人が言ったかどうか確定していないということなのですが、でもルターらしい発言だというのは誰しもが認めることです。ある人がルターに「先生、明日、世界の滅亡がやってくるとしたら今日何をしますか?」と聞きました。ルターの答えは「リンゴの木を植えて育て始める」というものでした。

天地創造の神が私たちのためにひとり子を送って下さった。そのイエス様がこの私のために十字架の死を遂げられ、神の力で死から復活させられた。- このことを知り、イエス様を救い主と信じる者は、自分の行うことはどんな小さなものでも神の栄光を周りに伝える役割を果たすものという自覚があります。だから、行うことが終わりによって中断されても、中断されるまで行っていることは神の栄光を伝える役割を果たしているので、神から見て意味のあることをしているとわかるのであります。本日の使徒書の日課第一コリント15章の58節で聖霊がパウロに働いて語らせる言葉は真理です。「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


聖霊降臨最終主日の聖書日課、ルカ21章5-19節、 イザヤ52章1-6節、Iコリント15章54-58節

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