説教:河田 優 牧師(ルーテル学院大学・神学校チャプレン)

今日の説教は中央線沿線7教会+神学校の講壇交換の日に当たり河田優牧師をお迎えして説教のご奉仕をお願いいたしました。

ルカ1:46-55

 

ルーテル学院大学・神学校チャプレンの河田です。本日はスオミ教会とルーテル学院との講壇交換ということで来させていただきました。お招きをいただいてありがとうございます。

 

待降節第4主日として私たちに与えられる御言葉は、マリアの賛歌と呼ばれる箇所です。今、私たちは主イエス様のお生まれのクリスマスに備えて、心整えて待っています。そして本日は、このマリアの賛歌から聞き取り、私たちはどのようにクリスマスを待ち、主をお迎えするのかを共に分かち合っていきましょう。

日課の47節から55節までのマリアの賛歌は私たちにもよく知られているみ言葉であり、教会では「マグネフィカート」と呼んできました。「マグネフィカート」これは長い間、教会で用いられてきたラテン語であり、「あがめる」という意味です。47節の「わたしの魂は主をあがめ」この言葉から、マリアの賛歌全体をマグネフィカートと呼んできたのです。

そしてまた、この「マグネフィカート」という言葉は、そもそも「拡大する。大きくする。」の意味を持つものなのです。ですからマリアの賛歌を次のように言い返ることもできます。「私の魂は、主を大きくします。」

神様をあがめ、神様を讃美することは、神様を大きくすることです。そして神様を大きくするということは、反対に自分自身を小さくすることになります。

 

毎日の生活の中で神様とこの自分が向かい合うときに、私たちは神様を大きくしているでしょうか。それとも自分自身を大きくしているでしょうか。私たちはやはり自分が大事であり、この世の様々な誘惑にも負けてしまいます。自分自身を大きくしながら、神様を大きくすることはあり得ないでしょう。自分自身を大きくする者は、神様を小さくしているのです。

でもマリアは「神様を大きくします」と主を褒め歌いました。それは神様の前では自分はほんに取るに足りない小さな者である、というマリアの心からの謙遜がそこに告白されているのです。

 

実際に、主なる神様がイエス様のお生まれのために母としてお選びなったマリアは、王家の娘や大祭司の娘ではありません。ナザレという小さな片田舎でひっそりと生活していた娘マリアであったのです。マリアの年齢はおそらく10代半ばもいかない歳であったと思われます。それは48節のマリア自身の言葉にも表わされます。

「身分の低い、この主のはしためにも 目を留めてくださったからです。」

このように人知れず生活してきた小さな娘を神様はイエス様のお母様として選び取りました。

しかし、御言葉を通して思わされることは、ここに主なる神様のご計画が明確にされているのではないかということです。たとえば、名門の家に生まれ、裕福な家庭に育ち、誰からも素晴らしい女性として尊敬されるような女性がイエス様の母として選び取られたならば、おそらくこの女性は、「神様を大きくします」と主を讃美することができなかったかもしれません。それはどうしても自分自身を大きくしてしまうからです。自分自身を大きくする分、神様を小さくしてしまうのです。

ですから主なる神様は、謙遜を知るいと小さき娘マリアを主イエス様の母親としてお選びになったと御言葉は告げているのです。

イザヤ57章にも次のように神様は約束してくださいます。

57章15節「高く、あがめられて、永遠にいまし、その名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは、高く、聖なる所に住み 打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり へりくだる霊の人に命を得させ、打ち砕かれた心の人に命を得させる。」

主なる神様は、打ち砕かれへりくだる者と共にあることをイザヤは語ります。それは大いなる方として私たちにまことの命を与えてくださるためなのです。

 

さて、まもなくクリスマスを迎えます。教会ではよくクリスマスの礼拝でまた礼拝後の集会で、教会学校の子供たちが中心にクリスマスの聖劇を行ったりします。私の住んでいる三鷹や武蔵野の地域には超教派の市民クリスマス礼拝が毎年開催されていますが、そこで活躍するのも聖劇を行う子供たちです。私たちの通うルーテル三鷹教会でも毎年のようにクリスマス愛餐会でイエス・キリストのお生まれの劇を行ってきました。

 

この聖劇の中での印象的な場面のひとつとして、身重であるマリアと夫ヨセフが、一晩の宿を探してベツレヘムの町をさまよう場面があります。主イエス様が今にも生まれそうである。ところがベツレヘムの町の宿屋は、どこもいっぱいで二人が泊まる場所がないのです。

劇の中では次のような歌をマリアとヨセフを演じる子供たちが歌います。

「泊めてください。トントントン。お部屋は空いていませんか。」

すると宿屋の主人が出てきて、こう歌います。

「だめです。今夜は超満員。となりをあたってごらんなさい。」

マリアとヨセフは仕方がなく、となりの宿屋を訪れます。しかしそこでもやはり超満員。再びマリアはとなりの宿屋へと向かうわけです。

そして最後の宿屋の主人がこう歌うのです。

「馬小屋ならば空いてます。そこでよければ、さあどうぞ。」

マリアとヨセフは、宿屋の主人から馬小屋に案内され、イエス様はこの馬小屋でお生まれになります。

 

宿屋が超満員ということは、私たちの心にも通じることです。神様をお迎えしようにも自分自身があまりにも大きくて神様をお迎えすることができないのです。さらに言うと、自分自身を大きくしてしまう心は、神様が今、私たちのもとに来られていることにさえ気づかないのかもしれません。

主が私たちの心をノックします。トントントン。しかし私たちは歌うのです。

「だめです。今夜は超満員。となりをあたってごらんなさい。」

イエス様が、そのお生まれの場所を小さな馬小屋に選ばれたことは、私たちの小ささや謙遜の中に、お生まれになることを示しています。イエス様は小さな飼い葉桶の中に静かに休まれました。馬小屋の中の小さな飼い葉おけ、私たちのそのような心に主イエス様はお出でになるのです。私たちは子供たちが歌う3番目の宿屋の主人のように、自分たちの心の馬小屋をイエス様に差し出し、「そこでよければ、さあどうぞ。」と歌うのです。

 

マリアは自分に預けられた神の子の命を決して小さなものとはしませんでした。マリアはまだ生まれてもない命も神様から与えられた大切な命として受け止める覚悟をしたのです。それが自らを小さい者として、さらに神様を大きなものとして賛美するマグニフィカートに表されていました。

そして、このマリアが謙遜のうちに受け止めた小さな命が、十字架にお架かりになることによってすべての人を救う命となるのです。小さいけれど大きな大きな命です。生涯を救い主として歩み通された神の子イエス・キリストの命です。

クリスマスを待つ私たちも今、神様の前に自分自身を小さくして、主イエス様のお生まれに備えましょう。いと小さき私に大きなまことの命がもたらされます。これがクリスマスの喜びです。神に感謝します。

 

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