牧師の週報コラム

ルターの御言葉の説き明かし「救いの希望は私たちの兜」(第一テサロニケ5章8節)フィンランドの聖書日課「神の子へのマンナ」(1878年初版)12月31日の個所

「この救いの兜が意味するものは何か?それは、天の御国にある次の命を待ち望む希望のことである。それゆえ、我々はイエス様を救い主と信じ、困難苦難を一挙に引き受けるのである。もしこの希望がなければ、我々は襲いかかる攻撃を防ぐことはできないだろう。我々は、悪魔やこの世が絶えず我々を悲惨な目に遭わせるのを毎日見て知っているではないか。もし、有限でこの世的な利益のためにこれら全てを耐え忍ばなければならないのなら、死んだ方がましだということになろう。使徒パウロも言っているではないか、「もし、私たちがこの世の人生に関わるものだけのためにキリストに希望を置くならば、我々は全ての人間の中で一番惨めな者である」と。

私自身はどうかと言うと、国を3つほどあげようと言われても、この世では1時間たりとも説教壇に立ちたくないというくらいに攻撃には晒されたくないという気持ちになる。しかしながら、だからこそ、我々には本当に心を強めてくれる別のものが必要なのだ。悪魔やこの世が一体となって私たちの魂と体を激しく攻撃し、あたかも我々が成すこと耐え忍ぶこと一切が無駄で無益であるかのように我々を追い込んでいくのだから、なおさらだ。

我々の心を強めてくれるものは、次のように信じる信仰がそれだ。『我々は、イエス・キリストを信じる。彼は、この世と罪と悪魔とその他全てのものの上に立つ主であると。彼を通して我々には今の世の次に到来する世にて命が確実にあると。それで、我々を今の世の悲惨さや苦しみから救い出し、今我々を責め苦しめるものを全て足で蹴散らされる方であると。』

私たちにはこのような救い主が与えられていること、彼がいつも私たちと共に歩んでいて下さることを忘れずに、来年も進んでまいりましょう!

 

歳時記

望郷

ヴェルディの作曲したオペラ「ナブッコ」と言う曲をご存知でしょうか。旧約聖書のバビロン捕囚をテーマにしたオペラです、ナブッコとはバビロン王ネブカドネザルの役名です。 オペラですからバビロン捕囚をヴェルディは素晴らしい物語にしました、特に第3部(3幕目)で流れる捕囚の身のユダヤ人たちがエレサムへの望郷を込めて歌う「行け、我が思いよ、黄金の翼に乗って」の合唱は世の人々を魅了し、イタリアでは第二国歌として本来の国歌よりも親しまれているようです。ヨーロッパの映画を観ていると時々この曲がさりげなくバックに流れているのを聞くとヨーロッパ人のこの曲に対する特別な想いを感じました。

https://youtu.be/pE3HgV408hI?list=RDpE3HgV408hI

牧師の週報コラム 

信仰ノ証ノススメ

教会の信徒の皆さんには、特にクリスマス、復活祭、聖霊降臨祭の時に礼拝後の祝会で「信仰の証し」をお願いするのですが、皆さん、どうも消極的。 前任者の時は積極的にされていたそうで、証しを聴いた宣教師が感激のあまり泣いてしまったこともあるなどと聞いています。当時の熱意はどこに行ってしまったのか?まさか、今の牧師のせいなのか…。

「信仰の証し」の何が難しいのか?基本的なことを申し上げると、自分はどのようにして十字架と復活の業を成し遂げたイエス様と出会ったか、とか、一時そのイエス様は遠くになってしまったが、また身近な方になった、とか、または、今大変な人生を歩んでいるが、それでも十字架と復活の主が身近におられることは揺るがない、というようなことを、聖書の何々の個所がそういう出会い/再会/伴走を確信させてくれました/確信させてくれます、というようなことをお話し下さればよいのです(長文ですみません)。聞く人も、ああ、あの聖句はやっぱりそのような力があるんだ、自分もそうだと確認したり、または、その個所にはそんな力があったのか、知らなかった、と新たな発見をしたりして、信仰の豊かな分かち合いになります。

聖書の御言葉が決め手となって十字架と復活の主が身近になるというのは、まさに聖霊が御言葉を通して働くということです。どの御言葉が決め手になるのかは人それぞれ。それで信徒さんの証しは牧師にとっても新しい発見になるのです。どうか宜しくお願いします。

スオミ教会・子ども料理教室の報告

今年のアドベント期間の子ども料理教室は16日に開催しました。 この日は今の季節には珍しい暖かい日でした。今回作ったのは、フィンランドのクリスマス・クッキー「ピパルカック」とクリスマス・パイ「ヨウルトルットゥ」です。今回は大人の料理クラブに申し込まれたけれども一杯で入れなかった方たちも参加しました。

子ども料理教室は、お祈りをしてからスタートします。最初にクリスマス・パイの「ヨウルトルットゥ」を作ります。店で売っているパイシートを四角に切って、その上にプルーンジャムをのせます。それから四つの角をプルーンジャムの上に順番にのせていき、星の形にします。それがヨウルトルットゥの形です。皆さんは星形がすぐ出来るようになりました。サイズは大きめのものと小さい可愛らしいものの2種類を作って鉄板の上に並べます。パイ生地の上に薄く卵を塗ってオーブンで焼きます。

次にクリスマス・クッキーの「ピパルカック」を作ります。前日に作っておいた生地を参加者の皆さんに分けてから、それを綿棒で薄く伸ばします。その後は楽しい型抜きです。ハート、花、ムーミン、クリスマスツリー、星などの形をしたクッキーがあっという間に鉄板に並びました。今回の生地は少し柔らかくて伸ばすのはあまり簡単ではなかったですが、皆さん一生懸命作っていました。ピパルカックを作っている最中に、オーブンに入っているヨウルトルットゥは焼き上がり、台所から美味しいそうな香りが広がりました。鉄板を出してテーブルの上に置くと、「可愛い美味しいそう!」と歓声があがりました。

ヨウルトルットゥの次はオーブンに入れるのはピパルカックの番です。たちまち、シナモンなどのスパイスの香りが広がりました。

クリスマスのお祝いがもうすぐなので、それで今回の子ども料理教室ではクリスマスのお菓子を作りました。でも、私たちはどうしてクリスマス・クッキーやクリスマス・パイのようなクリスマスの特別なお菓子を作るのでしょうか?それが分かるために聖書のクリスマスについてのフランネル劇をみんなで一緒に観ました。今から二千年前の昔、世界で一番最初のクリスマスの日に天の神様のひとり子イエス様がベツレヘムの馬小屋でお生まれになりました。このことは、天使が誰よりも先に羊の番をしていた羊飼いたちに知らせました。彼らはそれを素直に信じてベツレヘムの馬小屋に走っていきました。天使が告げたとおりに赤ちゃんがいるのを見て大きな喜びに満たされました。クリスマスの出来事のニュースは世界中の全ての人々に伝えられる大きな喜びの知らせです。それで毎年いつも、今年もこの出来事を準備した神様に感謝してイエス様の誕生をお祝いするのです。

"フランネル劇の後、みんなで食前のお祈りをしてからピパルカックとヨウルトルットゥを頂きました。この時、子どもたちの声は聞こえなくなって、みんな味わうのに夢中でした。どのクッキーは自分で作ったものか、探し当てるのも楽しみを増します。沢山作ったヨウルトルットゥとピパルカックはどんどんなくなっていきました。

今回は大人の料理クラブに入れなかった方々も一緒だったので、歓談も賑やかさを増して楽しい一時になりました。

ご参加者の皆さま、良いクリスマスをお迎えください。

 

 

 

2023年12月10日(日)待降節第二主日 主日礼拝  

  説教:木村長政 名誉牧師

「神の国は近づいた、悔い改めよ」       2023年12月10日

   マルコによる福音書1章1~8節

 今日の聖書は、マルコによる福音書1:1~8です。まず「マルコによる福音書」について見てみます。ふつうは、福音書は、主イエス様の伝記が書かれているように言います。確かにルカによる福音書などは、なるべく歴史の順を追って、手元にある資料と、ルカが聞いた事をなるべく詳しく書こうとしたでしょう。しかし、専門家の間では福音書は伝記とは言えない。そればかりか、イエス伝を書くことは不可能だ、とさえ言われています。イエス様のご生涯を誰も初めから記録したわけではありません。恐らく、あの時、こう言われた、とか驚くべき奇跡の業をなさって、人々の心に強く印象に残っていて、初代教会の中で語り継がれていった。と見るほうが良いようです。それを、マルコは集めて編集をしていったようです。また、マルコは、ペテロの通訳であったらしいので、ペテロからも、イエス様と生活を一緒にしていた話を聞いてメモしていたでしょう。或いはまた、初代教会の代表的人物にバナルバという人がいて、マルコとは従兄弟同士で、パウロの伝道旅行にバナルバとマルコは同行しています。ですからパウロとの関係もありました。マルコはペテロとローマに行っている間、ローマの信徒たちから、ペテロが語ったことを記憶に従って書述するように求めたようです。こうして、ペテロとパウロの死後ローマでマルコはペテロの説いた福音を文章として残したようです。この福音書がいつ頃書かれたか、と言いますと紀元65年頃と言われています。福音書は福音を読むべきもので、歴史的興味で読んでも、それは無理なことです。そこには福音書の霊的な不思議な性質があるのです。マルコ福音書1章1節はこれだけ独立していて2節以下の本文と直接結びつけることは出来ない。初代教会の人々はイエス様の生涯について、どのように見ていたのでしょうか。洗礼者ヨハネの出現と、ヨルダン川での洗礼に始まって、最後はイエス様の昇天で終るのでした。ですから1章1節は2~8節に対する標題というふうに見られます。まず、1節のみ言葉について見てゆきます。塚本訳では「イエス・キリストの福音はこうして始まった。」と訳しています。共同訳では「神の子、イエス・キリストの福音のはじめ」と訳されています。神の子イエス・キリストの言葉と業とにより神の国が来る。そのイエスを信ずるだけで、救われる、という嬉しい音ずれは洗礼者ヨハネの活動をもって始まった、と考えたのです。福音という言葉には喜ばしい音ずれ、という古典ギリシャ語でユーアンゲリオンと言いますが元々は戦いに勝った、喜ばしい知らせを使者が報告することを意味したものです。紀元元年頃ローマ皇帝を礼拝する時代には人類に平和と救いをもたらす皇帝の出現は、よき音ずれであり、その誕生は「喜ばしい音ずれ」という意味で福音が用いられた。今の時代に「人類に平和と救い」をもたらす福音が本当に求められているのではないでしょうか。イザヤ書40章9節には、うるわしい喜びを歌い上げています。「高い山に登れ、良い知らせをシオンに伝える者よ。力をふるって声をあげよ、良い知らせをエルサレムに伝える者よ。声をあげよ、恐れるな、ユダの町々に告げよ。見よあなたたちの神、見よ主なる、神、彼は力を帯びて来られ、み腕を持って統治される。」「福音」と言う言葉を最初にキリスト教に取り入れたのはパウロで、ロマ書1章16節に「福音はユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じる者全てに救いをもたらす、神の力だからです」。という特別の意味を持たせた。さらに2世紀の中頃になるとパウロが用いた内容と同時に「イエス様の生涯の物語」を指して言うようになった。さて、この2節以下の本文は聖書の引用から始まります。またこの部分の結びの11節はイエス様がヨハネから洗礼を受けられ、その時天から神の言葉が臨んだ、言葉で終ります。このように主イエス・キリストの出来事は聖書に書いてあるとおりのことでありました。主イエス・キリストの福音はまさしく聖書が伝える神の言葉に従って起こった救いであることを喜びを持って語るのです。

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「預言者イザヤの書に、こう書いてある」。マルコはそう書き始めました。しかし、ここで引用されているのは厳密にはイザヤ書の言葉ばだけではありません。この当時、自分たちが待ち望む、救いの約束を告げてくれる聖書の言葉のエッセンスを集めた書物が愛用されていたようです。「証言集」と呼ばれていました。そこに収められていた言葉が此処に引用されているのではないかと言われています。「見よ、わたしはあなたの前に使いを遣わし」。とありますが、これはイスラエルの民の歴史を語り始める、出エジプト記23章20節からの引用です。ここでの「あなた」というのはエジプトをようやく脱出することが出来たがまだ荒野の旅を続けておりました神の民のことです。主なる神が、この荒野を旅するイスラエルの民にみ使いをおくって導くとの約束です。神の民はその導きに従って行けばよいのです。次に「あなたの道を準備させよう」。これは旧約のマラキ書3章1節の言葉です。マルコの引用と少し違います。「見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。」となっています。マラキ書ではイスラエルの民でなく神ご自身がいよいよ登場なさる、その道備えをする使者を送る、というのです。また、マラキ書3章23節を見ますと「見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に預言者エリヤをあなたたちに遣わす」とあります。神の勝利が明らかになる、終わりの日に先立って力あるエリヤが登場するのです。エリヤは最後の救いをもたらす神ご自身の到来の先駆けをなす者でした。さらに、列王記下1章8節によれば、エリヤは駱駝の毛布を着て皮の帯を腰にしておりその服装でエリヤだとわかったそうです。と言うことは洗礼者ヨハネが此処に現れた時、まさにエリヤと同じ格好をして登場して来た、と言うことです。3節の「荒野で叫ぶ者の声がする、主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」、これはイザヤ書40章3節の言葉です。第二イザヤと呼ばれる部分の最初の言葉です。第二イザヤは、イスラエルの歴史の中でも最も悲劇的な時代であったバビロン捕囚の時代に記された。「荒野」とはバビロンの地の事であり、また故郷イスラエルと自分たちを隔てる荒野のことでしょう。バビロンに捕らえられている人々が望郷の思いに駆られ帰国を切望しながら故国への遥かな道のり、そこに横たわる荒野をみるのです。その荒野で声が聞こえた。「主の道を整えよ、主の道をまっすぐにせよ」。と荒野には道がありません。そこへ道をつけ神がイスラエルに帰られる道を備えよう。そう叫ぶのです。もちろん神お一人ではない。神の民も解き放たれて、それに従う。その自由解放の日が来る、と言う望みの歌であります。このように、出エジプト記、イザヤ書、それとマラキ書が引用されています。旧約聖書全体を貫いて語られてきた望みの言葉が要約されて、それが今ここに成就する、という喜びが語られるのです。どのように成就するのか。神が来られるのです。他の何事でもありません。神が私どものところに来られる、それが始まるのです。洗礼者ヨハネはその先駆けです。これは神の救いの新しいみ業が始まった、というしるしなのです。そのヨハネが立っている荒野です。荒れ野には人が住んでいません。住もうとも思わないところです。しかし、そこはまた神の民が神に導かれて歩むことが出来たところです。預言者エリヤは自分の弱さを嘆き途方に暮れた時、荒れ野に導かれて神の声を新しく聞き直しました。荒れ野、それは神と共にあるという、神の声を聞くところでもありました。<考えてみますと>この教会も日本へ伝道されて以来、今の時代がまさに弱さと嘆きの途方に暮れた荒れ野ではないでしょうか。

この荒れ野に神が共にいてくださっている、私たちは神の声を聞く時でありましょう。4節、5節を見ますと「洗礼者ヨハネが荒れ野に現れれて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を述べ伝えた」しかし、ヨハネはそこでただ1人ではありませんでした。5節「ユダヤの全地方とエレサレムの住民は皆ヨハネの下に来て罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。」誰もが来たのです。全ての人が差別の扱いなく、皆が受けられる罪の赦しの洗礼を受けたのです。罪の赦しがなければ、誰も生きられないからです。誰もが罪の赦しを得るために悔い改めなければならないからです。悔い改めが出来るのは鋭い良心が求められるのではありません。悔い改める、それは向きを変えて帰る、ということです。今までの道の歩き方が間違っていた事を知り、神の身許に帰るのです。洗礼を受けるのはそのためでした。そこに、ヨハネのバプテスマの意味がありました。そして、ヨハネは言いました。「私よりも優れた方が後から来られる」と「優れた」というのは「より力がある」という意味です。「この方は聖霊でバプテスマを授ける」方です。ヨハネは「この方の靴ひもを解くにも値しないと言いました。靴のひもを解く務めを与えられた奴隷にも値しないのです。主イエス様が、いかに高い存在か。神なのですから比べようがありません。そのイエス様が此処に来て下さって聖霊による業を始めて下さるのであります。

人知ではとうてい測り知ることのできない

神の平安があなた方の心と思いを

キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

 

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

 

 

スオミ教会・家庭料理クラブの報告

本年最後の家庭料理クラブは12月9日に開催しました。季節は冬なのに、この日は暖かくまだ紅葉もきれいで秋のような天候でした。今回はフィンランドの伝統的なクリスマスのパンJoululimppuとクリスマスのデザートLuumurahka を作りました。

料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。まず、クリスマスのパンの生地を作ります。材料を測って、生地に入れるスパイスのフェンネル・シードを細かくして順番にボールに入れていきます。ライ麦と小麦粉を加え生地をよく捏ねて出来上がりです。暖かい場所において一回目の発酵をさせます。今回は発酵が早くて生地はあっという間に大きく膨らみました。それから早速パン作りに入ります。生地を3つに分けて丸め、きれいなパンの形にします。参加者一人ひとりが作ったパンはあっという間に鉄板の上に並べられました。そこで二回目の発酵をさせます。

パン生地を発酵させている間にデザートの準備をします。その途中でパンが十分に膨らんだのでオーブンに入れて焼くことにしました。デザートは、水を切ったヨーグルトにプルーン・ジャムを混ぜ、それにホイップした生クリームを加えると、スポンジ状のデザートが出来上がります。

パンの方は焼き色がつきました。焼いている途中で水とシロップを塗ったので表面がピカピカし出しました。それを見た皆さんは、どんな味がするんだろう、早く食べてみたいなどと興味津々。今回はフィンランドのクリスマス・ホットドリンク「Glögi」も用意して温めたので、クリスマスの香りが台所から一気に教会中に広がりました。

テーブルのセッティングをして皆さん席に着き、いよいよ焼き立てのJoululimppuを味わいます。今回はスライスしたパンの上にマーガリンとディルと塩付けのサーモンGraavilohiをのせて頂きました。Luumurahka とGlögiも一緒に味わうと、フィンランドのクリスマスの味がする!という声も。歓談の一時の後で、フィンランドのクリスマスについてや、聖書に書かれている世界最初のクリスマスの出来事についてのお話を聞きました。

今回の料理クラブでは参加者の皆さんと一緒にクリスマスの喜びを分かち合うことが出来たと思います。とても感謝しています。次回の料理クラブは、年明けの1月はお休みですが、2月から再開する予定です。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。

2023年12月9日料理クラブの話「クリスマス料理」

今日は皆さんと一緒にフィンランドのクリスマス・パン「Joululimppu」とクリスマスのデザート「Luumurahka」を作りました。Joululimppuはフィンランドの伝統的なクリスマスのパンで、私の祖母も母も毎年クリスマスの季節に作っていました。フィンランドのクリスマスの食卓にはいろんな種類の料理を作りますが、それでも、もしJoululimppuがなかったら何か足りない感じがします。フィンランド人はクリスマスのお祝いのためにいろいろなお菓子や料理を作ります。一番初めにクッキーやケーキを作って、Joululimppuは最後にクリスマスの少し前に作ります。パンは出来たてが一番美味しいからです。Luumurahkaは伝統的なクリスマスのデザートではありませんが、プラーンで作った別のデザートは昔から作られました。今はLuumurahkaのように簡単に作れるものが多くなりました。

クリスマスはフィンランド人にとって一年の中で最も大事なお祝いです。クリスマスの前の四週間はアドベント、日本語で待降節と言います。明日は待降節の第二の日曜日です。フィンランドではアドベントに入ると、多くの人たちはクリスマスの準備で忙しくなります。フィンランド人はアドベントとクリスマスをどのように過ごすか、これから写真を見ながらフィンランド人の過ごし方についてお話をしたいと思います。

フィンランドではクリスマスは家族が中心のお祝いです。毎年準備もお祝いも同じように家族一緒に行います。料理やお菓子の準備も、大掃除も飾り付けも、クリスマスカードやプレゼントの準備も、教会の礼拝に行くのも家族一緒です。教会から帰って家族みんなでクリスマスの食事を頂き、プレゼントを渡します。しかし、家族中心のお祝いのクリスマスに時々何か予想外のことも起こります。私はフィンランドでそのようなクリスマスを何回も経験したことがあります。

子供の時、次のような不思議な体験をしました。私の実家は田舎の奥深い森を切り開いたところにある酪農家でした。あるクリスマスイブの前の日のこと、全然知らない旅人が突然訪れて泊めてほしいとお願いしたのです。私の父と母は少し困ってしまいました。これから家族のクリスマスのお祝いをしようと準備をしてきたのに、全然知らない人を家に入れるのは難しく感じられました。泊めても大丈夫かという心配もありました。でも外は暗く雪が積もってとても寒く、泊めてあげないのは可哀そうでした。結局泊めてあげることにし、準備していたクリスマスの料理も出してあげて、少し早くクリスマスの雰囲気を分かち合いました。翌日その人は出発しました。両親も子供たちも、最初は抵抗感があったのですが、泊めてあげてよかったと思いました。あとでこのことを思い出すと、最初のクリスマスの夜のベツレヘムの羊飼いのことを考えるようになりました。

世界で一番最初のクリスマスにどんなことが起きたでしょうか?その夜ベツレヘムの馬小屋で神さまの独り子イエス様がお生まれになりました。その同じ夜ベツレヘムの町の郊外の野原で羊飼いたちが羊の番をしていました。その時突然天使が現れて言いました。「恐がらなくてもよい。今夜ベツレヘムで救い主がお生まれになりました。」当時羊飼いは社会の中でとても低く見られた職業でした。このような社会の低い層の人たち、恵まれない人たちに天使が現れて救い主の誕生を知らせたのです。ここにはとても深い意味があります。それは、イエス様は本当に位の高い人、低い人を区別することなく、全ての人々のためにお生まれになったということです。このことをはっきり示すために、神様は羊飼いを選んで一番最初に知らせたのでした。このように神様の優先順位は人間の考え方とは違い、低く見なされる人たちの方を選ばれるのです。そして神様は、そのような人たちこそ天使のメッセージを素直に受け入れると知っていたのでした。

羊飼いたちは天使から告げられたことを大勢の人々に伝えて分かち合いました。それで私は、クリスマスの時に実家に見知らぬ旅人を泊めてあげたことはクリスマスの豊かな喜びを分かち合う体験だったと思います。神様はこのことを忘れないようにとその旅人を送ったのだと思うようになりました。

クリスマスを毎年同じようにお祝いできることは感謝すべきことです。しかし、一番大事なことは、初めてのクリスマスの夜に何が起こったかを忘れないことです。救い主が私たちのために人としてお生まれになったということが本当の喜びです。その喜びを羊飼いたちのように他の人たちと分かち合うことができれば、喜びは小さくとどまらず、もっと大きなものになります。今年のクリスマスの季節、私たちもクリスマスの本当の喜びを忘れないように過ごしましょう。

クリスマス

牧師の週報コラム ― キリスト教会の新年とスオミ教会の新しい船出

今日12月3日は待降節第一主日です。キリスト教会のカレンダーでは今日、新しい一年がスタートします。 フィンランドのルター派教会の礼拝ではこの日、新年の幕開けに相応しく全国の教会で一斉に讃美歌1番「ダビデの子、ホサナ」(日本の教団讃美歌307番)を元気よく歌います。スオミ教会でも毎年歌っています。

今日からまた、降誕祭(クリスマス)、顕現日、受難節、聖金曜日、復活祭(イースター)、聖霊降臨祭(ペンテコステ)などの大きな節目を一つ一つ迎えていくことになります。聖霊降臨祭の後は、聖霊降臨後第何主日という形で続き、待降節第一主日の前の最後の主日は、北欧のルター派教会では「裁きの主日」と呼ばれ、最後の審判がテーマになります。

このように教会のカレンダーは、イエス様の誕生から十字架と復活の出来事までをフォローでき、私たち自身の復活にも思いを馳せられるようになっています。

それなので教会の暦に従って礼拝出席を続けていくと、主の再臨を心に留めつつ、この世での自分の歩みを造り主である神の御心に照らし合わせて反省したり、また神から罪の赦しの恵みと愛が豊かに注がれていることを絶えず確認できます。しかも、一人ではなく信仰の兄弟姉妹たちと共にです。それなので、日々の歩みを教会の暦に合わせて日曜礼拝を守りながら生きることは、キリスト信仰者としてのアイデンティティーを確立し、この世を生きる上で大きな力を与えてくれます。

それから、スオミ教会はこの12月1日から宗教法人・日本福音ルーテル教会を離れ、独立した立場の教会になりました。SLEYが新たなルター派の教団と協力関係を結べる日はいつになるかは分かりません。取り合えずは一艘、太平洋ひとりぼっちよろしく大海原に乗り出しました。天候穏やかな時もあれば、嵐の時もあるでしょう。しかし、主イエス様も一緒の船旅です。腕を枕に寝ていらっしゃる時でも、必死にお願いすれば起きてきて嵐を沈めて下さいます(マルコ4章35~41節)。御言葉と聖餐に繋がって、復活の日という「望みの岸」(教会讃美歌337番)を目指して進んで行きましょう。

どうか、天の父なるみ神がこの新しい一年もスオミ教会と教会に繋がる皆様を顧みて、皆様お一人お一人の日々の歩みの上に祝福を豊かに与えて下さいますように。また皆様が神の愛と恵みのうちにしっかりとどまることができますように。

* * * * *

「ダビデの子、ホサナ」が斉唱される場面のビデオです(エスポー教会、2015年11月29日収録)

スオミ教会・フィンランド家庭料理クラブのご案内

次回の家庭料理クラブは12月9日(土)13時の開催です。

料理クラブは定員に達しましたので、受付は終了しました。ご了承ください。

今年もクリスマスが近づく季節となりました。今回の料理クラブは、フィンランドのクリスマス・ブレッド、Joululimppuを作ります。特別のスパイスの風味と甘味がミックスしたJoululimppuは、フィンランドのクリスマスの食卓には欠かせない伝統的なクリスマスのパンです。その上に塩とディルで味付けしたサーモン、Graavilohiをのせて頂くのが定番の召し上がり方。今回はさらに、クリスマスのデザート、プラム味のヨーグルト・クリーム、Luumurahakaも作ります。

今年も、豊かなフィンランドのクリスマス料理の一端が楽しめます。是非ご一緒に作って味わいましょう!

参加費は一人1,500円です。

どなたでもお気軽にご参加ください。

お子様連れでもどうぞ!

お問い合わせ、お申し込みは、 まで。
電話03-6233-7109
福音ルーテルスオミ・キリスト教会

牧師の週報コラム 

キリスト信仰者の生と死は天と地の有り様と連動する

先日、新聞の土曜版に「自分が死んだ後、お墓にはいりたいかどうか」という調査に対して2,662人から回答があり、以下はその結果(朝日11月18日)

♰ お墓に入りたいですか? 「はい」39%、「いいえ」61%

♰「はい」と答えた人、その理由は(複数回答、上位6位)

①入れる墓がある(559人)、②家族、親族と一緒にいたい(344人)③残された人の慰めになる(233人)、④日本の習慣、当たり前(231人)、⑤思い出してもらえる(209人)、⑥家族のシンボル、心の拠りどころ(192人)

♰「いいえ」と答えた人、その理由は(複数回答、上位6位)

①子孫に負担を残したくない(872人)、②シンボル、よりどころと思わない(486人)、③他の方法を希望する(361人)、④証しを残したいと思わない(348人)、⑤お墓がない(339人)、⑥墓参りをする人がいない(241人)

♰ 死後、どうすごしますか?全員が回答(複数回答)

①死んだら終わり(984人)、②家族を見守る(795人)、③あの世でのんびり(716人)、④あの世の家族や友人らと(544人)、⑤思い出の地を訪ねる(211人)、⑥リゾート、景勝地でのんびり(234人)

この調査結果で一つ驚いたことは、「お墓に入りたい」がこんなに少数派で、しかもその中でも「日本の習慣、当たり前」というのが4番目だったことです。解説記事には「墓は家で継承するという考え方は、明治民法下の『家制度』のもとで確立したとされる」とありました。それが本当ならば、その考え方は長い長い日本民族の歴史の中で130年程度のことになります。実はそんなに根付いていなかったということなのでしょうか?

死後の過ごしかたの回答は私たちの周りでよく聞かれるものではないかと思います。なかでも②、⑤、⑥は、死んだ後もこの世と関係を保てるという見方でしょう。キリスト信仰は、復活の日にイエス様に眠りから目覚めさせてもらって神の御国に迎え入れられるという見方です。なのでその日までどうするのかと言うと、宗教改革のルターも言うように、神のみぞ知る所で安らかな眠りにつくということになります。それから復活の日というのも、今ある天と地が終わって新しく天地が創造される時のことです。なので、目覚めたら、もう今の世はなくなっているので、誰かを見守ってあげることもリゾート観光もできません。③と④も、キリスト信仰では天と地が新しく創造された後のことです。①はキリスト信仰と全く相容れません。

このように見ていくと、キリスト信仰者の生と死は天と地の有り様と連動していると言えます。それ位、一人の人間の生と死は大いなることなのです。