牧師の週報コラム

聖書は原語で読めなくても大丈夫(その2)

どうして聖書は原語で読めなくても大丈夫なのか?それは、聖書は日本語ででも全体を繰り返して読んでいくと、わからない個所の理解は別の個所が助けてくれるように出来ているからです。 まさに、聖書の解釈は聖書にしてもらうということです。先週、新共同訳はヘブライ語のミシュパートをほとんど自動的に「裁き」と訳していると申しました。「裁き」とは、もともとの意味は有罪か無罪かを決めることでしたが、「お前を裁いてやる」という言い方があるように、実際には断罪の意味が強いです。それで、旧約聖書で「裁き」という言葉に出くわすと、どうもしっくりいかないことが多い。しかし、旧約聖書全体を何回も読んでいくと、これは断罪ではないと感覚的にわかってきます(因みに、私の使っているヘブライ語・英語の辞書では「正義」、フィンランド語の聖書もそう訳すことが多いです)。

そういうわけで、聖書を原語で読むというのは、全体の繰り返し読みをしないで済まそうとする横着なやり方とも言えます。

「聖書の解釈は聖書にしてもらう」という聖書の理解法の大敵は、解釈を聖書にさせず、聖書外のものでさせようとすることです。例えば、先週の例にあげた詩篇36篇6~7節について、何か「真実」をテーマにした小説を読んで大変感動したとします。それで、詩篇36篇6節の「神の真実」もそれと同じなんだと理解してしまう。(聖句は違いますが、実際にその手の説教を聞いたことがあります。牧師曰く、「これが、今日の個所でイエス様がおっしゃりたいことではないでしょうか?」) しかし、詩篇36篇6節の「神の真実」は、正確には「神の揺るがぬ頼り甲斐」です。それで、その節が「真実」のことを言っていると思い違いして、小説に結びつけてしまったら、神が御言葉を通して言おうとしていることからどんどん離れていきます。

そう言うと、じゃ、「揺るがない頼り甲斐」をテーマにした小説を読んで感動したら、それは結びつけてもいいんだな、と言われるかもしれません。しかし、それもダメなんです。というのは、詩篇で言われるように、神の揺るがない頼り甲斐は、雲にまで至るほどの高いものです。人間の頼り甲斐は背丈ほどの高さです。なので、小説の登場人物の頼り甲斐に感動したら、神の頼り甲斐はもっともっと高いものなんだ、人間の頼り甲斐でこれだけ感動したら、神の頼り甲斐がもたらす感動は計り知れないのだ、というように予感できないといけないのです。神を人間のレベルに引き下げないことです。

そう言うと、神はひとり子を人間としてこの世に送ったのだから、神を人間レベルで扱ってもいいじゃないかと言われるかもしれません。それも違うんです。神がひとり子を送った心というのは、天にまで届く「恵み」と「頼り甲斐」、聳え立つ山々のような「義」、地の底まで覆いつくすくらいの「正義」の4つを総合したものです。人間の心とは比較にならないものです。

次回は、聖書を原語で読むことの落とし穴についてお話しします。

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手芸クラブの報告 2025年1月29日

今年最初の手芸クラブは1月29日水曜日に開催しました。朝は寒かったですが昼間は太陽が輝く暖かくて気持ちの良い日でした。

今回は「Silmukannostotekniikka」というテクニックを使ってストールを編みます。参加者の皆さんは自分の好みの毛糸とそれに合う編み棒を持参されました。今回使う毛糸はモヘアとウールの二種類です。初めに出来上がり例を見て自分の作りたいストールの巾を決め、モヘアで作り目を編み始めます。それから表編みと裏編みで編んでいきます。二段を編んでから毛糸をウールに変えて編み続けます。この時、一つ置きの編み目を編まないで編み棒にのせるだけという、今日のテクニックの特徴で編みます。だんだん、一人一人の編み物の模様はどんなものになるか楽しみになってきました。次はウールからモヘアに変えて表編みと裏編みで編みます。それからまたウールに変えて「Silmukannostotekniikka」で編んでいきます。この時になると、「きれいな模様ね!」「可愛い!」との声があちらこちらから聞こえてきました。

今回、お家で編み始めた方はマフラーを持参してそれを編まれていました。すでに長いものになっていましたが、これからどのくらいのものになるか楽しみです。

「Silmukannostotekniikka」は多くの参加者にとって新しい編みテクニックでしたが、それでも今日はきれいなストール編みのスタートとなりました。完成まで時間がかかるので、次回は続きを編みます。

秋の手芸クラブで編んだフィンガーレス手袋を完成された方が素敵な手袋を見せて下さいました。

編み物に集中した後はコーヒータイムで一息入れます。フィンランドのコーヒーブレッドPullaを味わいながら歓談の時を持ちました。そこでいつものように聖書のお話を聞きました。今回の話は、編み物の裏側がごちゃごちゃしたものになっても、それは表側がきれいに出来上がるためにそうなっているにすぎないということ、天の神さまも私たちの人生を同じように美しいものに仕上げて下さるという内容でした。今回も楽しい歓談のひと時を一緒に持ちました。

次回の手芸クラブは2月26日の予定です。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。

手芸クラブの話2024年1月29日

今日は「Silmukkanostotekniikka」というテクニックを使ってストールを編みました。編み方は表編みと裏編みの繰り返しだけですので、あまり難しい編み方ではありません。編み方の特徴は全部の編み目は編まないで編み棒にのせるものもあります。そうすると、編み物の表面は網のように三次元になります。毛糸は二つの違う色なので表面の三次元ははっきり見えるようになります。ストールの裏側は網のようになりませんが、毛糸の色の段がはっきり見えてきれいです。

皆さんは多色の毛糸を使って編み物を編んだことがありますか。私は編んだことがありますが、あまりきれいに編めませんでした。

これは聞いたお話です。ある女の子が多色の毛糸を使って編み物を編みました。お父さんは娘が編んでいるのを見て少し心配になりました。お父さんはお母さんに言いました。「娘が編んでいるのを見たけれど、編み物は全然きれいではなかったので、ちゃんと教えてあげなさい」。しかしお母さんは娘にそのまま編み続けさせました。編み物がやっと完成しました。その時娘はお父さんのところに走って行って「お父さん、見て編み物ができました」と喜んで言いました。娘の編み物がきれいで素敵だったので、お父さんは驚きました。それはどうしてだったのでしょうか。初めにお父さんが見たのは編み物の裏側だったのです。それはめちゃくちゃだったので娘は編むことが出来ないと心配になったのです。しかし完成した編み物の表面は全く違ったのです。お父さんは娘が素敵な編み物が編める事に嬉しく驚きました。

この編み物のお話から天の神さまについて知ることが出来ます。それは天と地と人間を造られた神さまが私たちの人生をどのようにご覧になるかについて教えています。私たちは自分の人生を振り返ると、ごちゃごちゃしていて娘の編み物の裏側と同じように見えるかもしれません。娘の編み物の裏側には結びがあったり毛糸がごちゃごちゃになっていました。私たちの人生も行くべき道がはっきり見えない時があったり、あちらに行ったりこちらに行ったりして編み物の裏側と同じです。しかし天の神さまは私たちの人生が編み物の表面のように美しくなれるように導いて下さいます。

旧約聖書の詩編にはそのような神さまの導きについて次のように言われます。「わたしはあなたを目覚めさせ行くべき道を教える。あなたの上に目を注ぎ、勧めを与えよう。」詩編32篇8節。このみ言葉は素晴らしい励ましになります。神さまは私たちに行くべき道を教えて下さると約束しているからです。私たちが神さまのことを知って信じるようになると神さまは人生の中でもっとも大事ななこと、行くべき道を教えて下さいます。

私たちはどのようにして神さまのことを知って信じるようになるでしょうか。神さまは聖書のみ言葉を通してご自分のことを私たちに教えて下さいます。聖書のみ言葉を通して神さまを知って信じるようになると神さまへの信頼が生まれます。

神さまへの信頼が生まれると詩篇の25編に書いてあるように神さまにお祈りすることが出来ます。「主よ、あなたの道をわたしに示し、あなたに従う道を教えて下さい。」詩編25編4節。私たちがこのようにお祈りすると、神さまは行く道を示して下さるのです。それは私たちが思い描く道ではないかもしれませんが、それは娘の編み物の裏側と同じです。神さまを信じ信頼して進んで行けば神さまは編み物の表面のことを見て道を示して下さいます。そして、あとで完成した編み物を見せて下さいます。このように神さまは私たちと一緒に歩んでくださいます。詩篇のみ言葉のように「あなたの上に目を注い」で下さっているのです。

私たちは人生の歩みを振り返るとお話の編み物の裏と同じようにめちゃくちゃに見えるかもしれません。しかし神さまは私たちの人生を編み物の表と同じような美しいものとしてご覧になって行くべき道を示して一緒に歩んでくださいます。神さまを信じ信頼することでそうなるのです。その神さまが送ってくださった一人子イエス様に信じると、私たちの心と魂はイエス様に向かいます。これが神さまが示す道です。心と魂がイエス様に向いて人生を歩んで行くと、裏だけではなく表もある編み物のようになるのです。

私たちもいつもイエス様に向いてこれからも歩んで行きましょう。そして今日のストールを美しいものに編みましょう。

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聖書は原語で読めなくても大丈夫

先週の礼拝の「罪の告白」の導入の時、その日の詩篇の日課36篇から6~7節を用いました。

「主よ、あなたの慈しみは天に

あなたの真実は大空に満ちている。

恵みの御業は神の山々のよう

あなたの裁きは大いなる深淵。」(新共同訳)

その時、ヘブライ語の辞書(HolladayのConcise Hebrew and Aramaic Lexicon of the OT)に基づいて以下の注釈をしました。

〇「慈しみ」と訳される語はヘセド、辞書によれば「恵み、誠実」です。

〇「真実」はエムナー、辞書によれば「揺るがないこと、頼りになること」です。

〇「恵みの御業」はツェダカー、辞書によれば「神の義」です。「神の義」は難しい言葉ですが、神聖な神の前に立たされて「私は何も言えません」という状態にならしめる神の本性としておきます。

〇「裁き」はミシュパート、辞書によれば「仲裁による解決、(そこから派生して)正義」です。新共同訳はミシュパートをほとんど自動的に「裁き」と訳しているようです。フィンランド語訳の聖書では「裁き」はなく、辞書通りの「正義」が多いです。

これらの他に、「空に満つ」は字句通りに訳すと「雲にまで至る」です。「神の山々」は、mighty mountainsと出ていたので「聳え立つ(または雄大な)山々」とします。以上を踏まえて訳し直すと次のようになります。

「主よ、あなたの恵みは天高く、

その揺るがぬ頼り甲斐は雲にまで届く。

あなたの義は聳え立つ山々のよう

あなたの正義は大いなる深淵。」

どうでしょうか、私たちは上に昇って行くと「神の恵み」や「頼り甲斐」に行き当たり、前に進むと「神の義」に行き当たり、下に降って行くと「正義」に行き当たる、それくらい私たちは「神の恵み」、「頼り甲斐」、「義」、「正義」に囲まれているのです。なのに人間は囲いなど存在しないかのように、その中にいないかのように振る舞っています。それで、礼拝で罪を告白して赦しの宣言を受けることは、自分がその中にいることを認めて神の前にヘリ下り、神を信頼して生きていくことになります。

こういうふうに、原文にあたって辞書や文法書と睨めっこしながら見ていくと、訳の少しぼやけた感じが照準が定まった感じになるのではないでしょうか。ただ、原文では、原文では、などと言うと、日本語で聖書を読む人が、日本語で読んでもはっきりわからないのかと心配になってしまいます。しかし、そうではないのです。聖書は原語で読めなくても大丈夫なのです。どうしてそんなことが言えるのか、次週お話しします。

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スオミ教会・フィンランド家庭料理クラブのご案内

2月の料理クラブは8日(土)13時から開催します。

ryourikurabu本年最初の料理クラブはフィンランドの伝統的なカルヤラン・ピーラッカを作ります。フィンランドでは玉子バター”Munavoi”をのせて食べるのが一般的ですが、そのまま食べてもよし、バターやマーガリンをぬって食パン風に食べてもよし。スモークサーモンとディルをのせて絶妙な味覚を楽しむこともできます。フィンランドでカルヤラン・ピーラッカは家庭でも喫茶店でも食堂でも食べられるまさに”国民食”です。カルヤラン・ピーラッカを是非ご一緒に作って味わってみませんか?

参加費は一人1,500円です。

どなたでもお気軽にご参加ください。

お子様連れでもどうぞ!

お問い合わせ、お申し込みは、 moc.l1750149232iamg@1750149232arumi1750149232hsoy.1750149232iviap1750149232 まで。

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アブラハムの信仰の足跡をたどる学び
今年のスオミ教会の月第三主日の聖書研究会は「アブラハムの生涯」をテーマに創世記11章27節から25章11節までを学びます。宗教改革のルターはアブラハムのことを、イエス・キリストが現れる以前に既にキリスト信仰者であった者と言います。それはどんな意味なのか、学びを通して明らかになり、私たちの信仰の成長に資することができればと思います。以下は、アブラハムの信仰について記した「ヘブライ人への手紙」11章8節の御言葉のルターによる説き明かしです(フィンランドの聖書日課「神の子たちへのマンナ」11月26日の日課)。
「アブラハムは、嗣業の地となる土地へ旅立つようにと神の招きを受けて、それに聞き従った。それはまさしく信仰を通してであった。どこに到着するのかも知らないまま出発したのだから(ヘブライ11章8節、フィンランド語の聖書に基づく)。」
以下はルータの説き明かし。
「どこに到着するかも知らずにアブラハムは出発した。それは彼にとって困難かつ途轍もない信仰の戦いであり試練だったに違いない。しかし結局、彼は旅立った。風が行き先もわからず吹いていくように。
神からの招きに対してアブラハムはどのように応じたであろうか?彼がしたことと言えば、次の神の御言葉だけを心に携えて旅立ったということである。すなわち、「私はお前に祝福を与える」という御言葉である。ここからもわかるように、信仰には見極めの目が伴う。光が全くない暗闇の中でも信仰は見ることができる目を持つ。信仰は、何も見えないところで見、何も感じられないところで感じるのである。
アブラハムの旅立ちが聖書に記されているのは、私たちのために他ならない。私たちも同じように神の御言葉を信仰の中軸に据えて御言葉の中に踏みとどまることを習得するためである。まさに御言葉の中で神は、私たちの身体と命そして魂までも世話し守って下さると約束されている。たとえ現実にはそう見えずそう感じられなくても、神はそうすると約束されている。だから、あなたは神が御言葉の中で約束されたことに信頼することだけに努めなさい。たとえ周りが全く逆の方向に進んでいるかのように見える時でも努めなさい。神はアブラハムに約束の成就まで長い年月を待たせたのだ。たとえ今、私たちに対しても時間がかかっても、信じることを止めてはならない。なぜなら、神は、あなたの信仰に忍耐が備って成長するように約束の成就を待たせているだけなのだから。」

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これぞ、キリスト信仰の死生観

イエス様が死者を蘇らせる奇跡を行ったことは、会堂長ヤイロの娘(マルコ5章、マタイ9章、ルカ8章)やラザロ(ヨハネ11章)等々の事例があります。 ヤイロの娘とラザロの蘇らせの時、イエス様は死んだ者を「眠っているにすぎない」と言って生き返らせました。ただし、彼らには、将来の復活の日に起こる復活が起こったのではありません。なぜなら、二人ともその後で寿命が来てまた「眠り」についたのであり、今、本当の復活を待っているからです。それではなぜイエス様はこれらの奇跡を行ったのでしょうか?それは、復活させられる者にとって死は「眠り」にすぎないということと、その「眠り」から目覚めさせる力があるのは彼をおいて他にはないということを前もって具体的に人々にわからせるためでした。

以下は、マタイ9章24節のイエス様の言葉「娘は死んではいない。眠っているだけだ」についてのルターの説き明かしです(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」1月8日の日課から)。これぞキリスト信仰の死生観の真髄!

「我々は、自分の死というものを正しく理解しなければならない。不信心者が恐れるように、それを恐れてはならない。キリストと固く結びついている者にとっては、死とは全てを滅ぼしつくすような死ではなく、素晴らしくて優しい、そして短い睡眠なのである。その時、我々は休息用の寝台に横たわって一時休むだけで、別れを告げた世にあったあらゆる苦しみや罪からも、また全てを滅ぼしつくす死からも完全に解放されているのである。そして、神が我々を目覚めさせる時が来る。その時、神は、我々を愛する子として永遠の栄光と喜びの中に招き入れて下さるのである。

死が一時の睡眠である以上、我々は、そのまま眠りっぱなしでは終わらないと知っている。我々は、もう一度眠りから目覚めて生き始めるのである。眠っていた時間というものも、我々からみて、あれ、ちょっと前に眠りこけてしまったな、としか思えない位に短くしか感じられないであろう。この世から死ぬという時に、なぜこんなに素晴らしいひと眠りを怯えて怖がっていたのかと、きっと恥じ入るであろう。我々は、瞬きした一瞬に、完全に健康な者として、元気溢れた者として、そして清められて栄光に輝く体をもって墓から飛び出し、天上にいます我々の主、救い主に迎え入れられるのである。

我々は、喜んで、そして安心して、我々の救い主、贖い主に我々の魂、体、命の全てを委ねよう。主は御自分の約束の言葉に忠実な方なのだ。我々は、この世で夜、床に入って眠りにつく時、眠っている間、主のもとで安全なところでよく守られ、朝に再び主の手から返していただくことを知っている。この世から死ぬ時も全く同じである。」

主の約束の言葉「私は復活であり命である。私を信じる者は死んでも生きる。生きていて私を信じる者は誰も決して死ぬことはない。」ヨハネ傳福音書11章25節

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ルターの御言葉の説き明かし(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」1月2日の日課から)

新年の新聞の特集に、20世紀に出現した大衆社会は国を戦争に引き込むような「勢い」を生み出してしまうことを識者たちが論じていました(朝日㋀㏢)。 「大衆」の特徴の一つに「自己懐疑の欠如」をあげる識者も。ひょっとしたらSNSはそれを助長するのではないかなどと心配になりました。そこで以下のルターの説き明かしを見れば、キリスト信仰とはいかに自己懐疑の信仰であるか、しかし、徹底した自己懐疑でありながら自己否定には向かわず自己形成に向かう信仰であるかがわかります。

「私はあなたに感謝を捧げます。私の祈りに応え、私の救い主になって下さったあなたに。」(詩篇118篇21節 フィンランドの聖書の訳から)

「神はまず初めに御言葉をもって私たちの全ての行いを裁き、私たちが持っていると思い込んでいる神聖さと知恵と力を無にされる。これほど大きな恵みがあるだろうか!神がこのようにされるのは、私たちが自身の罪性からくる罰を見ることができるためであり、また私たちの良心が震えるためであり、そして神の前に無力となった私たちがあらゆる不安と心配に晒されるためなのである。神はこのように私たちを徹底的にヘリ下させ、自分の業や知識に対する私たちの驕りと盲目な信頼を一回また一回ともみ消される。そして、それらが完全にもみ消される時が来る。私たちのこの世の人生が終わる時だ。このプロセスを忍耐強く歩み続けられる者は、神は自分にとって最善なことをされているとわかっている。それで神に感謝し賛美を捧げ、預言者イザヤと共に次のように口ずさむ。『主よ、あなたに感謝します。なぜなら、あなたはかつて私に怒りを示されましたが、今はそれを収め、私を慰めて力づけて下さったからです。』(イザヤ12章1節 フィンランド語の聖書から)

そう、怒りを転じた神は今度は私たちを慰め助けを与えて下さるのだ。それは、私たちの内にある霊と新しい人が滅びゆく肉と古い人に代わって成長するためである。このプロセスにおいて神は私たちにますます大きな豊かな賜物を与え、私たちが彼の御前でまた彼の中にあって勇気を持って立つことが出来、喜びをかみしめることができるようにと助けて下さるのだ。このように古きを脱ぎ捨て新しきを身にまとう者は次のように歌うであろう。『私はあなたに感謝を捧げます。私の祈りに応え、私の救い主になって下さったあなたに。』

このように神は私たちをヘリ下させる時、高く上げて下さるのあり、私たちを罪びとにする時、神の義を持つ者にして下さるのであり、私たちが打ち負かされるようにする時、勝利を与えて下さるのであり、私たちが泣くようにする時、喜ぶようにして下さるのであり、私たちを死に直面させる時、生ける者として下さるのである。」

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ルターの御言葉の説き明かしから(フィンランドの聖書日課「神の子へのマンナ」12月27日)

「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」(マタイ1章23節)

「神の威厳の中には一体、どんな御心があってあなたに向けられているのか考えてみなさい。神は、惨めな状態や苦難の中にいるあなたに同情し、本当に憐れむ気持ちからあなたに、罪の状態にあるあなたに、何も条件をつけずに御自分のひとり子を贈られ、おとめの胸元に置かれたのだ。神はあなたに言われる。『見なさい、これは私の愛する子、あなたのために生まれ、あなたに与えられた子である。この子は、あなたを罪から救い、あなたを守り、助け、そしてあなたの幸いとなる。』

あなたに対して神はこのような御心をお持ちなのだ。考えてもみなさい、あなたでも誰でもいい、仮に自分のひとり子を全ての相続権と一緒に誰かに贈り物として与えたとする。そのような贈り物を与えた相手に危害を加えるようなことがありうるだろうか?私たちのために生まれ、私たちに与えられた御子を通して、私たちに神的な恵みを現わし、私たちの罪を赦し、私たちを愛することこそが神の御心なのだ。しかしながら、注意しなければならないのは、ひとり子はそれを受け取る者たちだけに、ひとり子から励ましと喜びを得ることを望む者たちだけに与えられるということである。そして、神の善性から来るこの大いなる贈り物を受け取った私たちは次のことを確信し、それを公けに言い表す。- 神はひとり子を受け取った者たちに対してもう怒りを持たず裁くこともしないということを。」

イエス様の誕生は本当に私たちにとって幸いであり神からの恵みなのです!

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フィンランドからスオミ教会に届いたクリスマスの挨拶(12月22日現在)

セイヤ&パーヴォ、イルセ&家族、カイサ&家族、ラウラ&家族・ヘイッキネン

(P.ヘイッキネン師は1993年から1999年までと2004年から2010年までスオミ教会の牧師を務めました。)

Suomi Kirkkoon kokoontunut joulujuhla väki. On ilo tervehtiä teitä kaikkia, jotka olette kokoontuneet Kuninkaan syntymäpäivä Juhlaa. Tämä Kuningas ei ole kuka tahansa kuningas. Juhlistatte henkilön syntymäpäivää, Marian Pojan, joka samalla on TAIVAAN JA MAAN KUNINGAS; ja samalla sinunkin Herrasi ja Vapahtajasi. Kaikukoon sydämestämme pyyntö: Tervetuloa!

(クリスマスをお祝いするためにスオミ教会にお集まりになった皆さま。王であられる方のご降誕をお祝いするために集まった皆さまにご挨拶申し上げられるのは喜びです。この王は普通の王ではありません。皆さまが誕生をお祝いするマリアの子はまた天と地の王であり、またあなたの主であり救い主でもあります。お生まれになる方に向かって私たちの心に「ようこそ!

が響きますように。)

シルッカリーサ&ペッカ・フフティネン(P.フフティネン師は1991年から1993年までスオミ教会の牧師を務めました。その後、P.フフティネン師はSLEYの海外伝道局長、シルッカリーサさんはSLEYの海外伝道局アジア地域コーディネーターを歴任。)

スオミ教会の兄弟姉妹の皆様

クリスマスおめでとうございます。

「いと高きところには栄光、神にあれ」(ルカ2章14節)

この喜びに満ちた賛美が、クリスマスの夜、天使と天の軍勢の口から響き渡りました。これは私たちとすべての人々に与えられた力強い賛美でした。世界中のキリスト教会は同じ賛美の歌を大声で歌うことができるように。罪の力はイエス・キリストの復活によって無にされました。

「いと高きところには栄光、神にあれ」ハレルヤ

ペンティ・マルッティラ師(SLEY海外伝道局アジア地域コーディネーター兼SLEYハメーンリンナ教会主任牧師)

Älkää pelätkö! Minä ilmoitan teille ilosanoman, suuren ilon koko kansalle.

Tänään on teille Daavidin kaupungissa syntynyt Vapahtaja. Hän on Kristus, Herra.” (Luuk. 2:10-11) Jeesus syntyi Vapahtajaksi kaikille maailman ihmisille. Ensiksi ilosanoma ilmoitettiin paimenille, jotka olivat eräs oman yhteiskuntansa halveksituimmista ihmisryhmistä. Hän on tullut sinuakin varten, vaikka ehkä ajattelet, että et kelpaa Jumalalle.

(『恐れるな。わたしは民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町であなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそメシアである。』(ルカ2章10~11節) イエス様は世界の全ての人の救い主としてお生まれになりました。この喜びの知らせは、当時の社会の中で取るに足らないと見なされた階層の人たちに真っ先に告げ知らされました。この方はあなたのためにも来られたのです。ひょっとしたら、自分は神聖な神に相応しくないと思ってしまっても、そのあなたのために来られたのです。)

ミカ&ティーナ・ラトヴァラスク(ラトヴァラスク夫妻は2007年~2013年までSLEYの日本派遣宣教師、現在ティーナさんはSLEY海外伝道局インターネット伝道部門日本語伝道担当及びSLEYのオンライン聖書講座Bible Toolboxの統括担当)

「キリストにある兄弟姉妹、スオミ教会の皆さま、クリスマスのこの素晴らしい季節に、神の愛と恵みが皆様の上に満ち溢れますように。今年も来年もこの救い主に結ばれて歩みましょう。ルカ2章10~11節を添えて。」

高木賢&アンナカイサ(高木氏はSLEY海外伝道局インターネット伝道部門日本語伝道担当、アンナカイサさんは80年代90年代にSLEYの日本派遣宣教師、SLEY海外伝道局アジア地域コーディネーターを歴任)

「御子イエス様のお誕生を感謝します。ここ数年、日本に行く機会がなかなかありませんが、スオミ教会のみなさんと天の御国で再会できることを今から楽しみにしています。それまで、ときおりよろめきながらも、光の子として光の中を共に歩んでまいりましょう。『しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互いに交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちを清めるのである。』(第1ヨハネ1章7節)

マリリーサ&ティモ・ハブカイネン(1980年代から2000年代までSLEYの日本派遣宣教師、ティモ師は現在ナーンタリ市のナーンタリ教会の青年活動主事、ご夫妻は2025年春にSLEYが派遣する日本伝道旅行を計画しています。)

「スオミ教会の皆さん、来年の3月に会うときを楽しみに待っています。クリスマスが近づいてきました。祝福されたキリストのお誕生日を過ごして下さい。ルカ2章10~11節を添えて。」

2024年12月22日(日)待降節第四主日 主日礼拝 説教 田口聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

ルカによる福音書1章39〜45節

説教題:「主はご自身がご計画のうちに召したものを守り導かれる」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

1、「はじめに」

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 今日の箇所の直前では、御使いがナザレのマリヤに現れ、神様が旧約聖書の預言を通して約束してきた救い主が生まれると知らせたことが書かれてあります。しかし問題はその救い主が、まだ結婚もしていない処女マリア自身の中に聖霊によって妊り、彼女自身がその救い主となる赤子を産むという信じられない驚くべき知らせでもあったということでした。それはマリヤ自身にとっては喜びどころか、むしろ、戸惑いであり、恐れであったとも書かれています。そのようにマリヤは御使の告げることを、信じられず疑ってしまいます。けれども神の使いは、そんな信じられず怖れ不安になるマリヤを、疑って恐れているからと、救い主の母として相応しくないと責めたりはしませんでした。それどころかむしろ、御使いは「神があなたと共にいる、神にとって不可能なことはない、神が全てをなすのだ」と、どこまでも彼女を励ますのでした。そのような神様の驚くべき信じられない出来事が進められていく中で、神によって召された一人の罪深き女性は、神の慰めと励ましに支えられ、神によって与えられ召され神によって導かれる信仰の歩みを開始するのです。それは決して平穏でも薔薇色でもない「苦難の歩み」の始まりではあるのですが、真実な神様はその約束の初めから変わることなく、マリヤに絶え間ない励ましと慰めを与え続け導いているのが今日のところであると言えるでしょう。39節から見ていきましょう。

2、「エリサベトのところへ」

「そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。

 御使いとの出来事の後、マリヤはユダの町に向かいます。それは40節にある通り、親類のザカリヤとエリサベト夫妻の家に行くためでした。そして56節にある通りに、そこで三ヶ月ほど過ごすためです。

 この「マリヤのエリサベト訪問」はいくつかの理由と意味があると言えます。

 まずよく言われるように、婚前の妊娠は当時のユダヤ社会では極めて不道徳なことでした。町中のさらし者になるのは避けられません。だからこそマタイ1章にある通り、ヨセフは内密に去らせようとさえしました。ですからまずナザレで予想されるその困難な状況を、このユダの町のザカリヤとエルサベトの家で三ヶ月過ごすことによって回避することができるということがあります。マタイの福音書にあるように、ヨセフが御使いからお告げを受けた後、ヨセフは御使いから言われた通りマリヤを花嫁として迎え入れ、そしてその後、マリヤだけ、ユダに行き三ヶ月過ごしたということは十分、考えられることです。

 けれどもこの行動は、何よりこの直前に書かれている御使いが与えた励ましの言葉に導かれていることであると言うことこそ大事な点です。それは36節でした。マリヤが「まだ男の人を知らないにどうして子を宿すことなどあろうか」と不安を口にした時に、御使いは、マリヤを励ましました。聖霊が共にありその力が助けると。そしてこう言って励ました言葉でした。

「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。

 この言葉は、マリヤに対する励ましとなったのではないでしょうか。この言葉によって、マリヤは、自分と同じような神からの不思議をなんと親類のエリサベトも経験していることを知流ことになります。御使いはエリサベトにも現れたんだと。正しくはみ使いは夫のザカリヤに現れたのですが。このように御使いは、この言葉を持って、マリヤを励ますと同時に、エリサベトの家へと導いているとも言えるのではないでしょうか。マリヤはこのみ使いの言葉があったからこそ、エリサベトのもとに急いだことでしょう。

3、「神の言葉は私たちにとって何一つ無駄に語られない」

 このように神様は、この救い主キリストを身ごもるという一つの出来事、計画が、一人の罪人であるマリヤにとってはとてつもない戸惑いであり恐れであるというその現実を、きちんと知ってくださっていることがわかるのです。神様は、マリヤのこと、つまり彼女の気持ちも恐れも心配も弱さも、そのようなことを一切、何も考えず、無責任に、ただお気楽に神様の喜びの計画や知らせを一方的に御使いに語らせているのでは決してありません。マリヤがこの結婚前に子を身ごもることによって、罪深い人間の社会であるナザレの村でどのような大変なことになるのかも、その不安も恐れも全てご存知なのです。同じように、恐れたヨセフが内密にマリヤを去らせようとした時に、み使いはヨセフに「去らせてはいけない。マリヤを妻として迎えなさい」と言ったことも、根拠のない無責任な言葉ではなく、神様の完全な計画のうちに、ヨセフもマリヤもきちんと導き助け、計画を成就させることをしっかりと見ていての言葉であったということが見えてくるでしょう。御使いがマリヤにエリサベトに起こっていることを伝えたことは、非常に深い意味があるのです。それはマリヤをエリサベトの元に三ヶ月滞在させ、マリヤを守るためなのです。もちろんそれは同時に、お腹の中の御子キリストをも守ることになるのです。

 この事実は今日を生きる信仰者である私たちにとっての恵みでもあります。つまり、神様が私たち信仰者に、何よりも毎週、牧師による説教や、そして日々ディボーションなどを通して与えてくださるみ言葉には、私たちの思いをはるかに超えた、一つ一つ意味が必ずあるということです。そして何よりそれは、私たちを決して苦しめ恐れさせ重荷を負わせるためではなくて、苦しみや恐れや不安にある私たちを導き、守るために語りかけてくださっているということが、このところから教えられているのではないでしょうか。

 そして、それは実際的な慰めとなってもいるのです。マリヤにとってはもちろんなのですが、エリサベトにとってもです。二人が互いに会うことは互いにとって大きな励みになるでしょう。男性には経験できないことですが、妊婦、特に初めての子の時、女性はものすごい精神的にも孤独、不安になると聞きます。そんな時に、妊婦同士の交わりや会話や情報交換によって安心したり、励まされたりすることがあることでしょう。まさにそんな二人の時となったはずです。ですから、確かに、エリサベトがやがて産むバプテスマのヨハネは、御子イエスの前に来て道を整え、イエスを指し示す預言者です。けれども、ある意味、今日のこの出来事は、それだけではなく、そのヨハネの母エリサベトが、イエスの母マリヤのために、神が備えてくださった助け手であったことも重なるように見えてくるのです。そしてそれは、マリヤがエリサベトにとっての励まし手であり、助け手であったということでもあるでしょう。みなさん、エリサベトも不安であったでしょう。高齢とはいえ、何人も子供を産んでいる女性ではありませんでした。御使いは「不妊の女」と言っています。それまで子供がなかったのでした。そして、初めての出産はもちろん、高齢であるからこその、エリサベトにとっての妊娠、出産への不安と恐れは、計り知れず大きかったはずです。けれどもそんな中で、マリヤの存在、そしてマリヤに起こった出来事は、エリサベトへの神からのまさに助けであり慰めであり希望ではありませんか。マリヤが来たことは、エリサベトにとっては間違いなく、慰めと希望になったのです。

 どうでしょうか。このように、これらのことはまさにあのパウロがローマ8章28節で励ましている神の真理そのものです。

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。

 そのように、神様は確かにご自身が愛するご計画に従って召した人のために、その人の思いを遥かに超えて、時に背後で、全てのことに働いて益としてくださることの証しが見えてくるではありませんか。そのように、神様はそのご自身の言葉を持って約束したことに必ず責任を持ってくださるのです。私たちが立ち返りたいのは、神様の言葉、約束というのは、それほどまでの確かさ、真実さがある。そして、それは全て私たちのためであり、私たちへの愛と憐れみに満ちているということが教えられているのではないでしょうか。

4、「神は信仰者の不安や恐れを喜びと幸いに変える」

 そして、さらにこの後のことは、神様は本当に慰めの上にさらに慰めに満ちている方であることがわかるでしょう。マリヤがエリサベトに挨拶した時に不思議なことが起こります。41節〜45節

「マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、 42声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。 43わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。 44あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。 45主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」

 マリヤがエリサベトに挨拶した時に、エリサベトのお腹の中の子が踊ったというのです。そして「聖霊に満たされて」彼女は喜びと賛美に溢れてそのことを証しするのでした。まず、感謝な事実は、聖霊は、エリサベトとも共にあり、導いていたということです。何度もいうように、エリサベトも不安と恐れにあったのは間違いありません。けれどもこのように、主はご自身が選び召し出した人を決して見捨てないし、聖霊にあって共にあり、そして、その約束されたことを聖霊なる主が果たすために働いていることがここには現れています。そして、決して完全な存在では無い、不安と恐れのエリサベトに、マリヤに対してもそうであったように、聖霊はその度毎に彼女に働き、慰め、励まし続けていることが見えて来ます。

 しかもここで、神は実際的なしるしを通しても示してくださっています。マリヤの挨拶に、もう一人の約束の男の子は答えるのです。それは不思議なことでしたが、エリサベトににとっては主の導きでした。それによって信仰が強められ、彼女の証しと告白に導かれているのです。

「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。

と。

 まさにここにもルターの言う「聖徒であり同時に罪人である」信仰者の幸いな事実と証しがあるではありませんか。マリヤの時と同じです。繰り返しますが、私たちは皆一人一人、恵みにより義と認められた信仰者でありながらも、同時に、どこまでも罪人であり、戸惑い恐れる不完全な存在でもあります。それはエリサベト、マリヤであっても同じです。しかし、主がその彼女たちの弱さや不完全さをそのまま受け入れ、理解し、そして怒ったり、責めたり、見捨てたりするのではなく、絶えず、繰り返し、み言葉とその実現を持って励まし、慰めの上に慰めを与えることによって、主がその信仰を間違いなく、強めていることがここに教えられるでしょう。このように「信じる」ということ、信仰は決して律法ではなく、このようにどこまでも与えられる恵みであり、恵みのうちに神が進ませ神が実現する福音であるということがやはり貫かれているのです。そして、この後、46節以下で、同じように聖霊に導かれ、マリヤも賛美するわけです。喜びと希望の歌です。二人の女性に起こったことは、最初は恐れと戸惑いでした。信じられないことでした。しかしいずれも主が始め、主が計画し、主がもたらしたもの、主から天からの約束です。その主から来たもの、主から始まったものは、私たちの方で恐れと戸惑いに始まったとしても、最初は私たちの思いをはるかに超えたものであったとしても、しかし、主は約束の通り完全に私たちに働き、主が約束を必ず果たす、そして全てを益としてくださるのです。エリサベトやマリヤにそうであったように、私たちの恐れや戸惑いも、必ず、イエス様は、平安に、希望に、喜びに、賛美に変えてくださる、そのようにして、主はその恵みのうちに、福音の言葉を通して、聖霊を通して、そして具体的にしるしを通しても、働いてくださり、そのように私たちの信仰をも育て、励まし、強めてくださるのです。パウロはこう言っています。ローマ1章16〜17節

「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。 17福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

 新改訳聖書では

「その義は、信仰に始まり、信仰に進ませるから」

 ともあります。

5、「救い主キリストは私たちのために世に人としてこられた」

 私たちは、肉体も精神も弱り果てるものです。私たち自身は、どこまでも不完全な存在です。神の前に私たちは何もできません。罪深いものです。不信仰なものです。けれども今日見てきたことからもわかるように、神であるイエス様はそのような罪人である私たちのところに「こそ」人として生まれてくださるのです。それはヨハネ3章17節にあるように、私たちの罪を責め裁くためではありません。むしろその私たちの罪を私たちの代わりに全て背負って、十字架で死なれるために生まれるのです。しかし神がこの十字架で、神の御子に人類の全ての罪を見て、その罪の報いである死を私たちの代わりに御子に負わせ死なせたからこそ、この十字架のゆえに、そしてこの十字架のキリストを見るものを、神様はもうその罪を見ず全ての人々に「あなたの罪は赦されています」と罪の赦しを宣言してくださるのです。ですからこのイエスの誕生はイエスの十字架を示しています。神様から私たちへの真のクリスマスの贈り物は、イエス・キリストであり、この十字架にかかって死なれるイエス様とそこにある罪の赦しなのです。それが福音、良い知らせです。そして、それは全ての人々の前に差し出されていてもう誰でも受け取るだけになっているのです。信じるとは受け取ることです。その受け取る信仰さえも、イエス様は絶えず「与えます、さあ受けなさい」と語りかけ招いてくださっている恵みなのです。マリヤもエリサベトも私たちと変わらない罪人でしたが、その神の言葉とそこにある恵みの約束をそのまま受け取ったからこそ、弱さや不安や恐れは、希望と賛美に変えられていきました。それは「そうならなけれいけない、そうでなければならない」という律法としてではありません。神の恵みの約束、福音にただ信頼したがゆえです。ですから同じように私たちも、何度、人生で恐れたとしても躓いたとしても、倒れたとしても、戸惑ったとしても、失敗したとしても、その時、自分自身には何の力がなくても、このイエス・キリストのゆえに、イエス様が絶えず私たちに与えてくださる救いの恵み、福音のゆえにこそ、私たちは何度でも立ち上がることができる、いやイエス様が立たせて歩ませてくださるのです。イエス様が常に、今日も、来週も、来年も、いつもまで、み言葉を与えてくださり、励ましと慰め、愛と憐れみをもって私たちの手を取ってくださる。恐れや不安、戸惑いや失望を、喜びに、希望に、平安に、賛美に変えてくださる。それが信仰の歩み、救われていることの素晴らしさに他なりません。

 今日もイエス様は宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひ私たちは、今日も罪赦され、この恵みの新しいいのちの道、イエス様のいのちに生かされている幸いと救いの確信を覚えながら、平安のうちにここから遣わされていきましょう。そして、その救いの確信と平安と喜びをもって、私たちは今週も神を愛し、隣人を愛していきましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

クリスマス愛餐会