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覚悟と胆力を養うキリスト信仰その5
ルターによる聖句の説き明かしと共に(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」1月2日の日課から)
『私はあなたに感謝します。私に答えて下さり、私の救い主になって下さったあなたに。』 (詩篇118篇21節、フィンランド語訳の聖書に基づく)
『神の大いなる恵みは、まず第一に、み言葉をもって我々の業を裁きにかけ、我々の神聖さ、知恵、力を無にすることに現れる。なぜそういうふうに言えるのかと言うと、それは、我々が罪深さから来る罰に気づくためであり、良心が恐れを抱くためであり、あらゆる心配事が堰を切って押し寄せて来るのに気づくためだからである。神はこのようにして我々をとことんヘリ下させて、我々の自尊心や自己の業績と博識に対する過信を一気に消し去るのだ。このへり下させは、たとえこの世の人生の段階で起きなくとも、どんなに遅くともこの世の人生が終わる時に必ず起こる。この世の人生でこのヘリ下りを何度も経験し耐え抜ける者は、しかも、神は私にとってこれが一番良いことだからそうされるのだとわかって感謝する者は、預言者イザヤの言葉をもって歌うであろう。「主よ、わたしはあなたに感謝します。あなたはわたしに怒りを燃やされたが、その怒りを取り下げ、わたしを慰め励まして下さったからです。」(イザヤ書12章1節、フィンラン語訳の聖書に基づく)
神の大いなる恵みは、第二に、我々を慰め励まして、我々の霊と内なる新しい人が日々成長し、肉と古い人が日々衰退するように助けて下さることに現れる。神は時の進むに応じて我々に一層大きく豊かな賜物を与えて下さり、神を前にしても神と結びついた者として雄々しくしていられ喜びに満ちた勝利者に我々をして下さる。冒頭の詩篇のみ言葉はまさに神の大いなる恵みの両面に与かった者が口ずさみ歌う言葉なのだ。「私はあなたに感謝します。私に答えて下さり、私の救い主になって下さったあなたに。」
見よ、神は我々をヘリ下させて高く上げて下さる、我々を罪びとに定めて義なる者として下さる、我々が敗者になることを許し勝利を与えて下さる、我々が泣かずにいられなくなるようにし喜びに溢れて歌えるようにして下さる、我々を死に引き渡し生きる者にして下さる。』(以上、ルターの説き明かし、吉村がかなり解説的に訳しました。)
私たちはこの世を去る時、業績や博識や財産や名誉には何の力もない、とことんヘリ下った状態になります。神の大いなる恵みに与かる人生はその訓練になると言えます。業績云々がないと言う人には訓練は妬みや卑屈を削ぎ取る意味があると思います。業績云々が大きければ大きい程、訓練は大変かもしれませんが、そこで得られるヘリ下りはこの世を去る時の真の力になるのではないかと思います。
料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。最初は生地作りです。材料を測って順番にボールに入れて小麦粉を加えます。よく捏ねてから柔らかくしたマーガリンを入れて、またよく捏ねて生地は出来上がりです。暖かい場所において一回目の発酵をさせます。
発酵させている間に中身を作ります。ひき肉を炒めて味付けをして冷まします。最後にすりおろしたチーズを加えると「美味しそう」との声が聞こえてきます。生地が大きく膨らんだのでLihapiirakkaの形作りをします。生地を伸ばして丸い型を抜き、生地の上に中身をのせて閉じていきます。
皆さん、一生懸命にLihapiirakkaの形を作って鉄板にどんどん並べていきます。Lihapiirakkaの列が沢山できました。それをオーブンに入れて焼きます。しばらくすると美味しそうな香りが漂ってきました。味わうのが待ち遠しくなります。焼き上がったLihapiirakkaは、最後に溶かしたマーガリンを塗って出来上がりです。
お皿にサラダをきれいに盛りつけてピックルスを添えて焼きたてのLihapiirakkaを味わいました。たちまち、「美味しい!」「美味しい!」と嬉しそうな声があがりました。今回も楽しい歓談の時を持ちました。今キリスト教会は復活祭の前の受難節の季節なのでその過ごし方やお祈りについてお話を聞きました。
今回の料理クラブも無事に終えることができ、天の神さまに感謝です。次回の料理クラブは4月18日に予定しています(ご注意 4月は月の第三土曜日になります)。詳しい案内は教会のホームページをご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。
今日はフィンランドの伝統的なLihapiirakkaを作りました。Lihapiirakkaには様々な種類があり、パイ生地で作る大きいものや小さいもの、そして今日みたいなパン生地で作るものもあります。今日作ったパン生地のLihapiirakka はロシアからフィンランド全国に広がり、1950年頃ファーストフードとしてキオスクでも販売されるようになりました。油で揚げて作るのは伝統的ですが、最近では少し健康的なバージョンとしてオーブンで焼くことも多くなっています。今日もそのタイプのものを作りました。Lihapiirakka はハイキングやお花見など出かける時のお伴にもぴったりで、これからの季節にちょうどよい軽食の一品ではないでしょうか。
今フィンランドでは季節が春に向かて進んでいます。雪が溶けて地面はぐちゃぐちゃで木はまだ枯れているように見えますが、フィンランドの人々はもうすぐ春の花が美しく咲くことを楽しみにしています。この季節になると、フィンランドのカレンダーでは「受難節」という期間に入ります。これはイスター・復活祭に向けた準備の期間です。フィンランド語では、この期間は「断食の期間」と呼ばれます。これは、昔カトリック教会の時代の言い方が今でも残っていることを意味します。もちろんフィンランド人はこの期間に断食をしませんが、それでも普段の食事にちょっと変化をつけることがあります。例えば、肉があまり入ってない料理を食べるとか、甘いお菓子を控えたりすることがあります。このように受難節を通して人々は自分の生活や時間の使い方を見直すことをするのです。しかし、受難節にはもっと深い意味があります。
それは、イースター・復活祭の前の40日の間、イエス様が十字架につけられた苦難を覚えて心の中で思いめぐらす期間であるということです。この期間にイエス様が歩んだ苦難の道について聖書の教えを読んだり聞いたりしながら、心を静めて天の神様にお祈りすることも多くなります。クリスチャンはお祈りする時イエス様がそばにいて聞いて下さることを知っています。
しかし天の神さまにするお祈りとはどのようなものでしょうか?
キリスト教で祈りとは心の中で天の神さまとお話しすることです。聖書の中には決まった形の祈りも教えられていますが、もちろん自分の言葉でお祈りしていいのです。祈りの中で私たちは天の神さまに感謝の言葉を述べたり、困った時に助けをお願いしたりするからです。
新約聖書の「マルコによる福音書」にはバルティマイという盲人の人のお祈りの話があります。それを紹介したいと思います。これはイエス様が弟子たちと一緒にエリコという町に来て、それから出発しようとした時に起こりました。道端には盲人のバルティマイが座っていました。バルティマイはイエス様がそこを通りかかると聞いて、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください。」と叫んで祈りました。多くの人たちは彼を黙らせようとしましたが、彼はもっと大きな声で「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。」と祈りました。その時イエス様はどうされたでしょうか。祈りを聞かずに通り過ぎてしまったでしょうか。いいえ、そうではありませんでした。イエス様は立ち止まってバルティマイを呼び寄せて「何をしてほしいのか」とお聞きになりました。盲人は「先生、目が見えるようになりたいのです」と答えました。イエス様は「行きなさい、あなたの信仰があなたを救った」と言われました。すると、盲人は見えるようになり、イエス様に従っていきました。
私たちはこの盲人の男性と同じような希望がない状態になることがあるかもしれません。このような時、私たちはどうしたら良いでしょうか。そのような時は、私たちもこの盲人と同じようにイエス様にお祈りすることができます。イエス様は私たちのお祈りも聞いて下さり、私たちのところに立ち止まって、尋ねてくださいます。「何をしてほしいのか。」イエス様が私たちが必要なことが全てご存じですが、尋ねることで私が勇気をもって願いや必要なことを自分の言葉で言うようにするのです。
私たちも願うこと困ったことや悩みがいろいろあります。それらをお祈りを通してイエス様に伝えることは、その全てをイエス様の御手に委ねることになります。すぐにお祈りした通りになるかどうかは分かりませんが、イエス様は必ず聞いてくださいます。そして祈ったことの結果や時間はいつもイエス様が決めて下さいます。そのようにイエス様を信頼することができると、私たちの心は軽くなり、静かな平安に満たされます。
このように受難節はイエス様の苦難を心の中で思いめぐらすことと彼を信頼して祈ることを通して心を静めて平安を得る期間です。皆さんの心も静かな平安に満たされますように。
覚悟と胆力を養うキリスト信仰その4 ルターによる聖句の説き明かしと共に(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ 」2月18日の日課から) 『財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか』 (マルコ10章23節) 『誰も自分の力で救いを勝ち取ることはできない。そうなのは、原罪が我々にもたらした 被害のためなのである。それがゆえに我々の自然の本性は造り主の神よりも造られた被造 物に執着してしまうのだ。 人間には、信頼を寄せ喜びを頂く神がいなければならない。人間は真の神か偽りの神か のいずれかを持つ。我々の自然の本性が、賜物を与える神ではなく、与えられた賜物の方 に執着する時、人間は不可能にもかかわらず自分の力で救いを勝ち取ろうとする。そのよ うな時、神は御手をもって介入する。神は繰り返し人間をヘリ下させて屈服させる。そう するのは、人間が次の真理を口にすることができるようになるためなのだ。「私には神が 与えて下さった多くの贈り物がある。しかし、そこからのみ喜びを見出そうとする位に愛 しいものにしてはならない。私はそれらを神がお認めになる間だけ用いることにしよう。 一つには神の栄誉のため、二つには自分の必要のため、三つには隣人の役に立つために。 もし神が贈り物を与えることをやめると言われれば、私は失うことから生じる困難や恥を 耐え忍ぼう。私にとっては、贈り物を与える神を失うよりも贈り物を失うことの方が良い からだ。」 我々をこのような心意気にするために神は全てを手中に収め、替わりに我々に御言葉を お与えになる。与えられた御言葉を通して聖霊が働き、我々を古いものから新しいものへ と変えるために。そうでなければ、救いも何も全てが失われるであろう。』 (以上ルタ ーの説き明かし、吉村がかなり解説的に訳しました)
「神のみことばは かたく世に立ちて み霊とたまもの わがうちに溢る。 わがいのちも わが妻子も 取らばとりね、神の国は なおわれのものぞ。」
ルターの作詞作曲による讃美歌から 教会讃美歌450番4節
私たちの父なる神と、主イエス・キリストから、恵と平安とが、あなた方にあるように。
アーメン
2026年3月15日(日)スオミ教会説教
聖書:ヨハネ福音書9章1~41節
説教題:「生まれつき盲人の奇跡」
今日の福音書、ヨハネ福音書で大変長いですが読んだだけでわかります。まず、1~12節を見ますと、此処ではイエス様が通りすがりに生まれつき目の見えない人を見てこの人の目が見えるようにして下さった。と言う奇跡の業をなさいました。その、癒された業のいきさつを6節~7節に記しています。「イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、シロアム”遣わされた者”と言う意味の池に行って目を洗い、すると目が見えるようになって帰ってきた。」イエス様が病人を癒したり驚くべき奇跡の業をなさった時はたいていイエス様の力によって出来事が起こっています。ところが、此処でのイエス様はわざわざ唾をしてその唾で土をこね、そのこねた土を目の見えない彼の目に塗って、それをシロアムの池で洗いなさい。と言われています。どうしてイエス様の一言の言葉ではなくて今までとが違った手作業をいくつも踏んで行われているのでしょうか。この奇跡の業をなさったのが”安息日”でありました。当時のユダヤ教の掟によれば”安息日には全ての仕事を休む”と言う事になっていました。ところが、イエス様のこの盲人になさった奇跡の業は安息日にはしてはならない三つか四つの労働であったわけです。つまり、掟を破っていると言う事で此処にファリサイ派の人々が騒いだわけです。イエス様はユダヤ教の掟を知らなかったのではない、ご承知の上でなさった。そこで、ユダヤ教のファリサイ派の人々が先ず見えるようになった盲人を呼んで尋問しています。
問題は「彼の目を開けてくれた人物」はどんな人なのか、と言う事です。17節で盲人は言います。「私の目を開けてくれた人、あの方は預言者です」。ここで彼が「預言者だと思います」と言う意味の彼の本当の預言者は旧約聖書にある職業での預言者ではない。16節でこう記しています。「どうして罪ある人がこんな印を行う事が出来るだろうか」。正直にそのまま言っていますね。33節では目が見えなかった彼が言っております。「もし、あの方が神から来た人でなかったら何一つ出来なかった筈です。」彼は全身で自分に起こった出来事を現わして、あの方は神から来た人です、とまで言っています。そういうところから見ますと彼の言った「預言者だと思います」と言うのはまさに「神から来た超自然的な人物である」と言っているのです。ファリサイ派の人たちの中で色々と意見が分かれます。いったいどう考えるべきか。そうして遂に18節~23節にありますように、見えるようになった彼の両親を呼びつけて尋問しています。確かに息子は生まれつきの盲人であったのか、確かめています。更には「どうして生まれつき見えなかった息子が見えるように治したのか」「一体だれが治したのか」と問い詰めています。すると両親は「本人に聞いてください。もう大人ですから」と答えています。それが両親の自然の気持ちでしょう。そして、彼らはどうしてもすっきりしない。埒があかないので24節以下でもい一度盲人であった彼を呼びつけまして「神の前で正直に答えよ、私たちはあの者が罪ある人間だと知っているのだ」。ここまできますと彼らはイエス様を安息日に掟を破った罪人だと頭ごなしに言ってきます。元盲人であった彼はきっぱりと反論して言います。恐らくファリサイ派の人々がどんな酷い事をしかねないユダヤ教の人々である事もしった上で、彼にしてみれば命がけで反論します。「あの方が罪人かどうかは私にはわかりません。ただ、知っているのは目の見えなかった私が今は見える、と言う事です。」ここで彼はまさにありのまま神の前で告白しいる言葉です。あの、お方イエス様が成して下さった神の業によって自分の身に起こったこと。生まれつき見えなかった真っ暗な世界が、今は素晴らしい光の世界に何もかもが輝いて見えているというこの事実を喜びを持って証しているのであります。話の経過は私たちは読めばよくわかる話です。
著者のヨハネは何故こんなにもユダヤ教のしつこい尋問の事を長々と詳しく書いているのだろうか。18~23節のところで両親を呼びつけている場面で特にくどくどと記しているのです。特に問題なのはこの両親が「本人に聞いてくれ」と言い逃れたと言う事です。これはよく考えれば、ごく当たり前の事です。言い逃れでも、何でもない本人が一番よく知っている事です。両親がその場にいたわけではありません。息子が飛んで来て”眼が見えるようになったよ”と喜び勇んで両親にもとへやって来たのです。それで「あれに聞いて下さい、もう大人ですから」自分の事は自分で話すでしょう」と両親が言っていますが、問題はそう言わざるを得ないようです。著者のヨハネは22節でこう記しています、「両親がこう言ったのはユダヤ人たちを恐れていたからである。」ユダヤ人たちは既にイエスをメシヤである、と公に言い表す者がいれば会堂から追放すると決めていたのである。両親が「もう大人ですから、本人にお聞きください。」と言ったのはそのためである。イエス様の時代にはまだイエスに味方する者はユダヤ教から破門するぞ、と言うような決定はなされていなかった。とこう考えた方が自然でしょう。だから、福音書でも古い時に書かれたマルコやマタイにはそうした記事は出てきません。ずうっと後の時代に書かれたヨハネ福音書だけが、此処の箇所にもう一つ12章42節で書いているのです。そこで、22節の文章は正確にはイエス様の生きていた時代、と言うよりもずうっと後の紀元1世紀終わりの頃、つまりヨハネがこの福音書を書いている当時の状況を織り込んだ文書ではないか、と進歩的な神学者たちは解釈した、恐らくそうでしょう。紀元1世紀の末の頃にはもうキリスト教とユダヤ教とがはっきり違う宗教だと考えられるようになっていた。そのような状況の中でイエスを信じるか、迫害を恐れてしまうかと問われている。目が見えるようにして頂いた彼は必死に告白しています。29~34節を見ますと、ファリサイ派の人々が言っています。「我々は神がモーセに語られた事は知っているが、あの者が何処から来たのか知らない」。彼は答えて言った。「あの方が何処から来られたか、あなた方がご存知ないとは実に不思議です。あの方は私の目を開けて下さったのに。神は罪人の言う事はお聞きにならないと私たちは承知しています。しかし、神を崇めその御心を行う人の言う事はお聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開ける人がいるなどと、これまで一度も聞いた事がありません。あの方が神のもとから来られたのではなければ何もお出来にならなかったはずです」。彼はありのまヽの真実を述べてます。こう言った彼をついに外へ追い出した。35節以下を見ますと、イエス様は彼と出会って「あなたは人の子を信じるか」と言われた。彼は答えて言った「主よ、その方はどんな人ですか」彼はまだ盲人であった時、イエス様の顔を見ていませんので、自分の目の前の方がどんな方かわからなかったのですね。かれは言う「その方を信じたいのですが」。
すると、イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのがその人だ」。彼はどんなに嬉しかったでしょうか。彼の人生は180度、全く新しい世界に生きる事が出来るようになったのです。だれでも、まことに主イエス様と出合う人は全く新しい霊の世界に、その人の魂そのものが神の霊の世界にまで至る事が出来るようになるのです。彼は、「主よ信じます」と跪いたのでした。ヨハネがこの福音書を書いている時代のキリスト者たちはユダヤ教からの迫害に会って外に追い出されたり捕えられ殺されるような時代の只中で「イエスこそ、私の救い主、主キリストである」と命をかけて告白し戦っていった信仰者への励ましの福音であります。彼は生まれつき見えない真っ暗な世界から今は「見える」と言う彼が全身で受けた恵みの事実だけを告白しているのであります。イエス様がなして下さったこの奇跡は一つの象徴としてこの業を彼に起こさせ、そして私たちへのメッセージは肉体の目が見える世界から「信仰によって」霊的な目が開かれ、それにまことの霊の御国の光輝く栄光の世界を見る事が出来る希望が与えられているのです。此の世の物の世界では見えない暗黒から霊の世界が見えてくることこそイエス様が望んでおられる奇跡の意味です。神の世界から、此の世の人間へと遣わされて神の御国が見えるように霊の目が開かれるように。イエス様はあらゆる教え、奇跡の業を成して行かれたのであります。
人知では、とうてい測り知ることができない、神の平安があなた方の心と思いをキリスト・イエスにあって守るように。 アーメン
覚悟と胆力を養うキリスト信仰その3
ルターによる聖句の説き明かしと共に(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」1月27日の日課から)
『この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った』 (マタイ4章22節)
『ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネの4人の漁師が主イエスの呼びかけに応じて全てを捨てて従って行ったのを聞いて、キリスト信仰者も同じように財産、家、妻子を捨てて行かなければならないのかと思うかもしれない。しかし、そういうことではない。心のどこかで家、財産、妻子を捨てていなければならないということなのだ。つまり、家族と共に暮らし、彼らのために糧を取得し、彼らの世話をするのは神の定めである以上そうするのであるが、それと同時に心のどこかで捨てていなければならないということなのだ。もし実際に捨てるべき時が来たら、全てのものを神に委ねなければならない。これがまさしく神のゆえに全てのものをいつでも捨てる用意があるということである。このような思いでいることができれば、あなたはもう全てを捨てていることになる。心は囚われた状態になってはいけない。心から独占欲、執着心、依存心を洗い清めなければならない。
このようにすれば、財産があっても、心で捨てることが出来ている。そして実際に捨てるべき時が来たら、あとは神の名においてそうするのだ。ただしそれは、「私は別に妻子や財産なんかなくても良いのだ」などと無感情のようになって捨てることではない。そうではなくて、次のような切ないとも言えるような思いを持つことなのだ。「神さま、あなたがお許しになる期間、私はそれらを自分の許に留めます。あなたがお許しになる期間、彼らを世話することであなたにお仕えします。」
自分の心の状態はどれかよく注意しなさい。何を持っているか持っていないか、それが沢山あるかないかといったことに心が占拠されないようにしなさい。今自分のもののように見える財産があっても、それを脇に置いておきなさい。あたかも最初からそんなものはなかったかのように、あるいは、いつでもなくなってしまうもののように。そうすることで私たちは常に神の国に結びついているのである。』(以上ルターの説き明かし、吉村がかなり解説的に訳しました)
所有するものをさも所有していないかの如く振る舞うというのは、ボンフェッファーの著作のどこかにもあったと記憶しています。
「主が与え、主が取られたのだ、主の御名はほめたたえられよ」ヨブ記1章21節
今自分のもとにある人は神が許された期間あるものなのだとわかれば、それは一層愛おしいものになって、その人と一緒にいる時間は貴重なものになって、一層大切にするのではないでしょうか?
ちょっと気の早い話ですが..。 今は受難節、聖週金曜日はまだです、復活祭はまだまだです、主の昇天日に至ってはまだ まだのまだ..。なのに、2月に発売された「百万人の福音」はもう主の復活から昇天まで を特集しています。その中で気の早いスオミ教会の牧師もイエス様の昇天について何か書 いています。今年の昇天日は5月14日ですが、それまでに5~6月号が出てしまうので、ご 興味ある方は今のうちにお求め下さい(読むのは後の方が宜しいかと)。フィンランドの ルター派の中の保守的なグループにいるとこういう考え方、教え方をするという一例です 。 受難節の皆様の歩みの上に父なるみ神から恵みと平安とが豊かにありますように。
季節は春になりました。フィンランド人も春になると多くの人たちが自然の中にに出かけます。今回の料理クラブのメニューは、ハイキングのお伴としても人気のあるLihapiirakka(ひき肉パン)です。パンの中身はスパイスで味付けした炒めひき肉とチーズ。ケチャップやピクルスを添えても美味しく味わえます。パンは油で揚げるのが多いですが、料理クラブではオーブンで焼き上げます。フィンランドの喫茶店のショーケースでもよく見かけるLihapiirakkaを是非ご一緒に作って味わってみませんか?
参加費は一人1,800円です。
どなたでもお気軽にご参加ください。お子様連れでもどうぞ!
皆さんのご参加をお待ちしています!
覚悟と胆力を養うキリスト信仰その2
ルターによる聖句の説き明かしと共に(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」2月7日の日課から)
『心配事は全て神に放り投げよ。神はあなたたちの面倒を見て下さる方なのだから。』 (第一ペトロ5章7節)
(牧師注 日本語(新共同訳)は「思い煩いを神にお任せしなさい」とお上品な訳ですが、ギリシャ語の「エピリプトー」は辞書(Heikel & Fridrichsen)を見ると「投げつける、放り出す」です。英語(NIV)、ドイツ語(ルター版)、フィンランド語、スウェーデン語の聖書もそう訳しています。また、日本語は「神はあなたがたを心にかけている」と控えめな訳ですが、上記4カ国語はギリシャ語の「与格・メレイ・ぺリ・属格」を「神は面倒を見る、世話を焼く、ケアをする」と訳しています。日本語訳では見えてこない、この聖句の力強さがわかると、以下のルターの説き明かしがぐっと心に迫ってきます。)
『事を自分の重荷にとどめてはいけない。あなたはそれを運びきれず、遅かれ早かれ押しつぶされてしまうだろう。そんなことはやめて、それを捨てなさい。つまり、喜びながら信頼して神に投げつけてしまうのだ。投げつける時、次のように祈りなさい。「天の父よ、あなたは私の主、私の神です。あなたは、私など存在しなかった時に私をお造りになり、その上、ひとり子を用いて私を罪の支配から贖って下さいました。そして、果たしなさいと言ってこの務めと課題を私にお委ねになりました。しかし、それは私が望んだようには上手くいきませんでした。多くのことが私に重くのしかかり、心配事が次から次へと押し寄せてきます。どうしていいのか途方にくれています。これらを全部お渡ししますので、あなたの助けとアドバイスをお願いします。どうか、この務めと課題の全局面に一緒にいて、隅々まであなたの目を注いで下さい。」
これこそ神の御心に適う対処法である。神が我々にしなさいと言っているのは、委ねられた務めと課題に取り組みなさいということだけだ。取り組むことで何を成し遂げられるかについての心配は神のすることであって我々のすることではない。
キリスト信仰者はこのように他の者にはない大きな可能性を持っている。ひとり子を救い主と信じる信仰があるので心配事を投げつけてもよい父が天におられるからだ。そうでない人たちは心配事を抱きかかえて自分を痛めつけ、最後には絶望に陥ってしまう。翻って信仰は、「神はあななたちの面倒を見る」という御言葉を握りしめて、神は嘘をつかない方だから御言葉はその通りだと信頼して前に進む(以上ルターの説き明かし)。』(週報コラム2025年6月8日に掲載したものを少し修正)
2月の手芸クラブは25日に開催しました。週の初めは春一番が吹きましたが、この日の朝は雨が降り肌寒い一日となりました。
今、春が近づく季節ですが、今回は1月に続いて足元を温めるレッグウォーマー「Säärystimet (サーリスティメット)」を編みました。今回はまた「ストール」や「スマホケース」を編み続けられる方々もいらっしゃいました。このようにスオミ教会の手芸クラブではその日のテーマだけでなく、ご自分の編みたいものを編んでも大丈夫なのです。
はじめにお家で頑張って編んできたものをみんなで見せ合います。「きれいな色ね」、「模様が素敵」、「暖かそう」、「柔らかい」などとお互いにほめたたえます。それからみんなで編み始めます。皆さんとても上手でおしゃべりしながらどんどん編んでいきます。レッグウォーマーやストールは完成まで時間がかがるので、お家や次の手芸クラブでも続きをすることができます。
春に向かって暖かくなっていきますが、まだ寒さが戻ってくるかもしれません。編まれたレッグウォーマーやストールが必要になるかもしれません。ご自分で編まれたものだから特に暖かさを身近に感じるのではないでしょうか。
今回も楽しくおしゃべりしながら編み物をしました。
編み物に集中すると目や手が疲れます。コーヒータイムで一息入れます。先週フィンランドはラスキアイスプッラの時期だったので、ジャムとクリームを挟んだラスキアイスプッラをコーヒーと一緒に味わいながら歓談の時を持ちました。その後でフィンランドにある手工芸センターやそのセンターのスローガン「幸せを呼ぶ手芸の一時」についてと、聖書が教える幸せについてお話を聞きました。今回も楽しい歓談のひと時でした。
次回の手芸クラブは3月25日の予定です。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。
今日は1月に始めた編み物の続きをしました。編み物は手芸クラブではこれまで何回もテーマにしました。フィンランドでは編み物は最も人気のある手芸の一つで、年配の人たちだけではなく若者も楽しんで編んでいます。以前にもお話したようにフィンランドでは毎年編み物の競争も行われ、多くの人たちが参加します。また靴下のデザインを作成して編むコンテストも開催さえれます。このような行事はフィンランド全国にある手芸工芸センターを通して開催されます。センターの働きの目的は手芸工芸の伝統を大切に守り続けることです。センターでは様々な講座や行事が開かれ、手芸のアドバイスを行ったりします。また、センターでは織機を借りることも出来るので、織物を織ることも出来ます。センターは毎年、全国的な工芸のテーマも選びます。今年のテーマは「パッチワーク」です。
手芸工芸センターでは「幸せを呼ぶ手芸の一時」というスローガンも決めました。このスローガンにはどのような意味があるのでしょうか。それは、手芸が私たちの日常生活の中で大切な役割を果たし、手作りの作品には特別な価値があることを表しています。手芸は多くの人たちに愛されている趣味の一つです。新しい手芸のテクニックが出来るようになったり、美しい作品が完成したりすると喜びを感じます。また、手芸をしている時間は日常生活から少し離れることが出きて、良いリフレッシュにもなります。それでこのスローガンのように手芸は幸せを呼ぶ一時と言えるのでしょう。
皆さんにとって幸せとはどのようなものしょうか。幸せな人とはどんな人でしょうか。お金持ちで大きな家に住み、家の自動車が何台もある人のことでしょうか。職場で高い地位にある人でしょうか。権力を持っている人でしょうか。
私たちは皆幸せを願って生きています。私たちは幸せを自分自身の中から見つけることができるでしょうか。確かに、幸せは日々の生活のさまざまな出来事を通して感じることができます。しかし、それは深いものでしょうか?長く続くものでしょうか。
聖書にも幸せにについて書かれています。旧約聖書の詩編に次のようにあります。「神様のそばにいることは私の幸せです。神様は私の避難場所。私は神様の御業を全て語り伝えます。」詩編73章28編。
「神様のそばにいることは私の幸せです」とは天と地と人間を作られた神様と共に生きることを意味しています。それは一時的に幸せを感じることではなく、ずっと続いていく幸せです。神様と共に生きることが人生の土台になれば、生活の中で様々なことが起こってもその土台は揺らぐことがありません。では、私たちはどのようにして神様と共に生きることができるでのしょうか。聖書を読んで、天の神様にお祈りして、神様はお祈りを聞いてくださると信じるとき、私たちは神様の近くにいることができます。天の神様と共に生きるのは幸せの源になります。生活の中に不幸があっても神様はともにいてくださいます。神様が私たちを見捨てるということはないからです。
フィンランドのある聖歌に幸せについて歌うものがあります。息子が小さい時にこの聖歌が大好きでした。聖歌の言葉は簡単ですが、意味は深いです。それを紹介したく思います。「ボクは幸せさ、ボクは幸せさ。ボクの幸せはイエス様のところにある。イエス様はボクのすべての罪を十字架に運んで取りのぞいでくださった、それでボクは幸せさ。」
私たちが天の神様と共に生きることができるのは、神様の一人子であるイエス様の十字架の御業のおかげです。私たち人間は聖歌に歌われているように弱さや罪を持っています。そのために私たちは神様から離れてしまうようになります。しかし、私たちを愛する天の神様はイエス様を通して神さまのもとへ帰る道を備えて下さいました。この救いの道は世界の全ての人に与えられています。私たちがイエス様がなさったことを全て信じて、この救いの道を歩むようになれば、それが私たちの幸せの源となるのです。
今、この世界には必要なものが十分に与えられない人たちが大勢います。しかし、そのような人たちも、先ほどの聖歌のように喜びを持って歌うことができます。イエス様の十字架の御業を素直に信じることが出来れば、歌の中で歌われる幸せを得られます。
手芸の時間も私たちに小さな幸せを与えてくれます。しかし、日々の生活の中で「神様がそばにいることは私の幸せ」ということを覚えて、それが私たちの幸せの源になりますように。
ルターによる聖句の説き明かしと共に(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ 」2月8日の日課から) キリスト信仰者は苦難困難に遭遇するとこのように立ち向かうのだ。 「主に感謝せよ。主は良い方なのだから。主の慈しみは永遠にあるのだから。」(詩篇 118篇1節) 『我々はいかなる不運に遭遇しても、それ自体に目を奪われてはいけない。そんなものは 神が我々に灯してくれた光なんだと思わなければならない。それは、神の恵みと善き業が 本当は数えきれない位の出来事の中にあったことが照らし出されて見えるようになるため の光なんだと。そうすれば、不運などというあの虫けらのような害悪は、我々からすれば 燃え盛る炎の海に落ちていく一滴の雫にしかすぎなる。そうでなければ、せいぜい大海の 中に落ちていく微小な火花にしかすぎない。不運がこの光にかき消された時、日課の聖句 は我々に最も身近で麗しいものになる。「主に感謝せよ。主は良い方なのだから。主の慈 しみは永遠にあるのだから。」 この言葉で言い表される心意気は次のようなものになろう。「ああ、あなたは私になんと 誠実で慈しみ深く神聖な神でおられることか。私に対してもこの世に対しても大いなるこ と善いことをこんなに沢山して下さっていたとは。私の感謝は全てあなたに向けられます ように。」 これと同じ聖句は聖書の中で、特に詩篇の中でしばしば登場する。この聖句は我々に正し くて最も御心に適う捧げものについて教えてくれる。我々は、神に感謝する以上に大きく て優れた業を行うことはできないし、心がこもった礼拝を守ることもできないのである 。』(以上ルターの説き明かし) このように不運を神が灯してくれた光と受け止めると、本当に神の恵みと善き業が数えき れない出来事にあったことが見えるようになるのでしょうか?私は思います、数えきれな い出来事を積み重ねた山の頂上にイエス様の十字架と復活があるとわかれば見えるように なると。(2025年3月2日の週報コラムに掲載)