歳時記

扉を叩く人

クフモ教会 から寄贈された木のレリーフです(礼拝堂の入り口上部に取り付けました)。 「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸をあける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。 (ヨハネの黙示録3章20節)」

イエスが家の外に立ち、扉を叩いています。この扉は内側からしか開けることができず、外側からは開けることができません。だからイエスは扉を叩いて、扉が開かれるのを待っておられます。

1月22日 スオミ教会・フィンランド家庭料理クラブの報告

今年最初のスオミ教会・家庭料理クラブは1月22日に開催されました。今回はフィンランドの伝統的なカルヤラン・ピーラッカを作りました。

料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。最初に作るのはピーラッカの生地。生地は材料を混ぜるだけで出来上がりです。生地をピーラッカの分量に分けて一個一個を綿棒で薄く伸ばします。その次は丸くて薄い生地の上にお米のお粥をのせます。お粥を平らに広げて周りのピーラッカの皮を人差し指で閉めていくとピーラッカの形になっていきます。きれいな形のピーラッカを作るのは簡単ではありませんが、皆さんとても上手でした。ピーラッカを鉄板に並べてオーブンに入れて焼ます。焼いている間に玉子バターを準備します。焼き上がったピーラッカに溶かしたバターを塗ってピーラッカは出来上がりです。

参加者の皆さんのお皿の上に玉子バターとサーモンをきれいに盛りつけてピーラッカを美味しく頂きました。最後にカルヤラン・ピーラッカと旧約聖書のエレミヤ書の陶工のお話を聞きました。

今年最初の料理クラブはコロナ感染拡大の中、いろいろ注意をしながら開催しました。無事に開催できたことを感謝しています。今後の料理クラブは感染状況がもう少し良くなったら開催した方が良いのではと考えているところです。決まりましたら、教会のホームページに’案内をのせますのでご覧ください。

それでは、皆さん注意してお過ごし下さい。

2022年1月22日カルヤラン・ピーラッカ

カルヤラン・ピーラッカは、フィンランドの東にあるカルヤラという地方から始まった食べ物です。第二次大戦でカルヤラ地方の一部はソ連に取られたので、そこに住んでいた人々は自分の故郷を去らなければならなくなり、フィンランドの各地に移住しました。それで、カルヤラン・ピーラッカはカルヤラの人々を通してフィンランド全国に広がりました。フィンランド人は最初、カルヤラン・ピーラッカをそれほど美味しいとは思いませんでした。というのは、彼らはパンとおかゆは別々に食べるものと考えていたので、カルヤラン・ピーラッカのように二つを一緒にした食べ物には馴染みがなかったからです。それでも、フィンランド人もだんだん食べるようになって、いつの間にか全国に広がって行きました。そして、かつてはカルヤラ地方の伝統的な食べ物だったカルヤラン・ピーラッカは、今ではフィンランド全国にとっても伝統的な食べ物になったと言える位、とても一般的な食べ物になりました。カルヤラン・ピーラッカは、普段の日にも、お祝いの時にも出されます。また、フィンランドのどの食料品店でもカフェでも買うことができます。

昔は、カルヤラン・ピーラッカは店で買うものではなく、家で作るものでした。家によっては、作る曜日も決まっていました。その日には、薪であたためた大きなオーブンで沢山作りました。薪であたためるオーブンはとても熱くなるので、カルヤラン・ピーラッカは早く焼けて美味しいものが出来ました。

カルヤラン・ピーラッカを作る材料は、普通の家庭料理で使われるものばかりです。パンを作る時に使うライ麦粉で皮を作ります。皮の中にいれるのは米のお粥ですが、フィンランドでは昔から、お米はお粥にして食べていました。こうして、カルヤラン・ピーラッカを作る材料は、戦争の後、食糧が不足していた時でもほとんどの家にありました。このように特別な材料ではなく、どの家にもある材料で美味しい新しい食べ物が作られるようになったのです。

私の実家はフィンランドの西の地方にありますが、母はカルヤラン・ピーラッカが好きでよく作りました。母は子供たちにピーラッカの作り方を教えましたが、なかなか思うように作れませんでした。しかし諦めないでひとつ作って、もしかしたら次のものはもっときれいに出来ると思って沢山練習しました。

カルヤラン・ピーラッカを作る技能は世代から世代へ伝わって行きます。普通はお祖母さんやお母さんから子どもに伝わっていきますが、今は家でピーラッカを作る人は少なくなったので、ピーラッカを作るコースが開かれて、そこで作り方が教えられます。

カルヤラン・ピーラッカを作るときの難しいことは、皮になる生地を伸ばすことと、中身の回りに皮をしめていくことです。カルヤラ地方出身の人たちは、カルヤラン・ピーラッカを作るのがとても上手です。フィンランドでは、毎年夏になるといろいろなお祭りやイベントが開催されますが、カルヤラン・ピーラッカを上手に作る競争もあります。そこでは、誰が一番早く、形がきれいなカルヤラン・ピーラッカを作れるかが競われます。いつもカルヤラ地方出身の人が優勝します。カルヤラ地方の人たちにとって、きれいな形のピーラッカが出来るのは当たりまえのことなのです。他の地方のフィンランド人はなかなか同じように作れませんが、練習すれば上手になります。

私は、カルヤラン・ピーラッカをきれいな形に作ることに関係して、ある旧約聖書の話を思い出しました。それはエレミヤ章18章の初めにある出来事です。「主からエレミヤに臨んだ言葉。『立って、陶工の家に下っていけ。そこで私の言葉をあなたに聞かせよう。』私は陶工の家に下って行った。彼はろくろを使って仕事をしていた。陶工は粘土で一つの器を作っても、気に入れなければ自分の手で壊し、それを作り直すのであった。」エレミヤ書18章1-4節です。Donnie Nunley Potter's Hands

この場面で、神様は預言者エレミヤに陶工の家に行くように命じて、そこで器を作る陶工の働きを見せます。エレミヤは陶工の働きで神様が教えようとしていること、陶工は神様を、粘土は人間を意味していると分かりました。

この場面は私たちにどんなことを語っているでしょうか?私たち一人一人は天と地と人間を造られた神様の御手で造られました。神様は私たち一人一人に命と人生を与えてくださいました。神様は陶工が器を作るように私たち人間一人一人をお造りになるのです。エレミヤ書にある陶工は粘土をろくろで回しながら、だんだん器の形にしていきます。粘土が器の形になって静かになると陶工はホッとします。ところがどうでしょうか。先ほど読んだエレミヤ書にはこう書かれていました。「陶工は粘土で一つの器を作っても、気に入れなければ自分の手で壊し、それを作り直すのであった。」と書いてあります。器は陶工の思うようなものにならなかったので、粘土をもう一度ロールして器の形を新しく作り変えたのです。

神様は私たちに同じことをなさいます。神様は私たちを新しい素晴らしいものに作り変えて下さるのです。もし、神様の作り変えが私たちの望むようなものでなければ、私たちは不満や疑問が起きてくるかもしれません。しかし、神様はひとり子のイエス様を私たちに贈られたくらいに私たちのことを愛して下さった方です。そのことがわかれば、神様が私たちに良いことを考えて下さっていると信頼して、神様が導いて下さる道を進んで行けます。神様が導いてくださる道では喜びだけでなく、悩みや悲しみに出会うかもしれません。しかし、神様を信頼して行けば、私たちは後で振り返ってみて神様の素晴らしい働きと導きがあったと知ることが出来るのです。その時、悩みと悲しみを超える喜びがあります。その時私たちの心は神様に対して感謝で満たされます。その時私たちは新しい器に作り変えられていることに気づくのです。皆さん、陶工である神様の御手に全てのことを委ねましょう。「しかし主よ、あなたは我らの父。私は粘土、あなたは陶工、私たちは皆、あなたの御手の業。」イザヤ64章7節です。

うさぎのププちゃん、本当のクリスマスを見つける

今年もコロナのためスオミ教会のクリスマス子ども料理教室は開けません。パイヴィ宣教師は去年に続いてビデオで料理教室を開くことにしました。今年はヨウル・トルットゥを作ります。 ちょうどトルットゥが焼き上がった時、突然教会に姿を現わしたのはうさぎのププちゃん。さあ、これから何が起こるでしょうか?お楽しみに!

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説教「マリアの信仰と私たち」吉村博明 宣教師、ルカによる福音書1章39-45節

主日礼拝説教 2021年12月19日待降節四主日
ミカ5章1-4a節、ヘブライ10章5-10節、ルカ1章39-45節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 本日は待降節第四主日です。来週の金曜日がクリスマス・イブ、クリスマスはその翌日の土曜日です。キリスト教が伝統的に国民大多数の宗教になっている国ですとクリスマス・イヴもクリスマスも休日になるのですが、事情が異なる日本ではそれらは日曜日や祝日に重ならない限り平日です。それで教会によってはクリスマス礼拝は平日ならば行わず、待降節第四主日の礼拝をクリスマス礼拝を兼ねて行っているところもあります。本スオミ教会もそのようにしてきました。クリスマス・イブの前に救い主の誕生を神に感謝する趣旨の説教は少しあべこべと思われるかもしれませんが、それでも本日の聖書の日課に基づいてイエス様のご降誕の意味を明らかにすることはできます。

 本日の福音書の箇所は、神の御子イエス様を産むことになるマリアが洗礼者ヨハネを産むことになるエリザベトを訪問する場面です。この出来事は私たちの信仰にとって大切なことを二つ教えています。一つは、神はまことに人間の造り主であるということです。神が私たちを造られて命と人生を与えたのは、単に私たちを無造作に大量生産しているのではありません。私たちが気づこうか気づかまいかに関わらず、神は私たち一人一人に実現すべき計画も併せて備えて下さっているのです。神が私たちのことを母親の胎内に宿り始めた時から知っているというのはこのことです。それはエリザベトとマリアの妊娠と出産の出来事からも明らかです。後でそのことを見ていきましょう。もう一つ私たちの信仰にとって大切なことは、マリアの信仰がどのようなものであるかを知ることです。エリザベトがマリアに「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」と言いました(1章45節)。この言葉がマリアの信仰を知るカギになっています。このことも後でみてみましょう。

2.私たち一人ひとりに対する神の計画

 まず、神は人間の造り主であり、私たち一人一人に命と人生を与えたのは私たちに一人一人に実現すべき計画も併せて備えて下さっていることについて。このことをエリザベトとマリアの妊娠から見ていこうと思います。

 エリザベトとマリアの妊娠は神の特別な力が働いて起こりました。エリザベトは普通ならもう出産は無理と言われるくらいの高齢者、マリアの方は処女でした。神は御自分の計画を実現するために、これら妊娠不可能な女性たちを通して必要な人材を準備したのでした。エリザベトから誕生したヨハネは「神のもとに立ち返る洗礼」を人々に勧め施しました。それは、人間には神の意思に反する罪があることを人々に自覚させ、罪の赦しを神に願う心を抱かせるためでした。そして、罪の赦しそのものは、イエス様がゴルゴタの十字架の上で死なれた時に実現しました。創造主の神は、このような役割を果たさせるためにヨハネとイエス様をこの世に誕生させました。神は、二人が胎児だった時から二人のことをご存知だったのです。

 それでは、私たちの場合はどうでしょうか?神は、私たちが胎児だった時から私たちのことをご存知だったのでしょうか?私たちにはエリザベトとマリアの胎児のような神の救いの計画を実現する役割などありません。それならば神は私たちのことをイエス様やヨハネほどには知らなかったということでしょうか?いいえ、そうではありません。天と地を造られ人間をも造られた神は私たちのことをみな同じように胎児の時から知っている、このことは詩篇139篇に次のように謳われていることから明らかです。「あなたは、わたしの内臓を造り、母の胎内にわたしを組み立ててくださった。わたしはあなたに感謝をささげる。わたしは恐ろしい力によって驚くべきものに造り上げられている。秘められたところでわたしは造られ、深い地の底で織りなされた。あなたには、わたしの骨も隠されてはいない。胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。わたしの日々はあなたの書にすべて記されている。まだその一日も造られないうちから。」(13ー16節)。

 このように人間の造り主である神は、胎児の時から私たち一人一人のことをご存知です。人間の方がその真実を知らないか、知ろうとしないのです。それならば、神は私たちにも何か計画を備えたのでしょうか?イエス様とヨハネのものとは異なりますが、もちろん、私たちにも神の計画があります。どんな計画でしょうか?それは、人間全てに共通する計画と、一人ひとりに備えられた個別の計画の二つがあります。

 まず、人間全てに共通する計画とは、神がイエス様を用いて実現した「罪の赦しの救い」を受け取って、その救いの持ち主となることです。神がイエス様を用いて実現した「罪の赦しの救い」とは何か?それは、次のような救いです。創世記に記されている通り、人間は造られた当初は神の意思に沿い、神の御許にいることができる良い存在でした。それが悪魔に巧みに誘導されてしまったために神の意思に反しようとする罪を持つようになってしまいました。そのため神聖な神のもとにいられなくなり、神との結びつきを失って生きなければならなくなってしまいました。神との結びつきを回復できるためには人間の内に宿る罪の問題を解決しなければなりません。しかし、それは人間の力では除去することは出来ず、人間は100%神の意思に沿った生き方も出来ません。何か宗教的な儀式や修行を行ってそれで清められた、神の意思に沿う生き物になれたと勝手に思い込んでいるだけです。イスラエルの民は罪の償いのために牛や羊などの動物の生贄を神殿に捧げるという贖罪の儀式を行っていました。しかし、本日の使徒書の日課ヘブライ10章の中で言われるように、そうした儀式は民が罪から遠ざかる生き方が出来るようには何の役にも立っていなかったのです。それで神は、うんざりだ、もういい加減にしろ、と言うのです。

 しかし、人間がどんなにちぐはぐなことをしていても、創造主の神の御心は人間がまた自分との結びつきを持てて生きられるようにすることでした。それで罪の問題を神の方で解決してあげようと、ひとり子をこの世に送ることにしたのです。人間の乙女マリアを通して人間の姿かたちを持つ者としてこの世に生まれさせ、イエスという名をつけさせました。神はこのひとり子イエス様に旧約聖書について人々に正確に教えさせました。また、将来天地が新しく再創造される日に現れる神の国がどのような国であるかを数多くの奇跡の業をもって人々に垣間見せました。そして最後には全ての人間の罪を自分で引き受けてゴルゴタの十字架の上に運び上げて、そこで人間に代わって神罰を受けて死なれました。イエス様は人間の罪の償いを果たして下さったのです。実に神はひとり子の身代わりの犠牲に免じて人間を赦すという手法を取ったのでした。

 本日のヘブライ10章で言われるように、神が天のひとり子に人間の姿かたちを取らせることをしたのは、動物の生贄に代わる贖罪を果たさせるためだったのです。神聖な神のひとり子の犠牲です。人間の罪を償う生贄の中でこれほど神聖で完璧なものはありません。それで、ヘブライ10章10節で言われるように、未来永劫これ一回限りの犠牲なのです。新共同訳では「ただ一度」と何気なく訳されていますが、ギリシャ語のエファパクスεφαπαξという単語の意味は「これ一回限りで」です。英語で言ったらonce and for allです。only onceではありません。このイエス様が果たした犠牲を受け取った人は、神との結びつきを得るために別の犠牲はもう金輪際何も払わなくてよいのです。

 それでは、イエス様の犠牲を私たちはどうやって受け取ることが出来るのでしょうか?それは、神がひとり子を用いて実現した罪の赦しは自分のためになされたとわかって、それでこの大役を果たしたイエス様を救い主と信じて洗礼を受けること。そうすると彼の果たした罪の償いがその人に覆いかぶさります。その人は罪を償われたことになるので、神からは罪を赦された者として見てもらえるようになります。神から罪を赦されたのだから、神との結びつきを持てるようになっています。この結びつきは、自分から離脱しない限り、いつも変わらずにあります。順境の時だろうが逆境の時だろうがいつもあります。

 このように変わらぬ神との結びつきを持ててこの世を生きるようになると、行き先も定まります。どこに向かうのか?イエス様が十字架の上で死なれた後、父なるみ神は想像を絶する力で彼を復活させました。これによって死を超えた永遠の命があることがこの世に示され、そこに至る道が人間に切り開かれました。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者はこの道に置かれて歩むようになります。何が起きようとも、いつも変わらない神との結びつきを持って歩むのです。この世から別れる時が来たら、復活の日に目覚めさせられて、使徒パウロがコリント15章で言う、神の栄光を映し出す朽ちない体、復活の体を着せられて神の御許に永遠に迎え入れられるのです。これこそが、神がひとり子を用いて実現した「罪の赦しの救い」の全容です。神が一方的に整えて下さったので人間はただそれを「お恵み」のように受け取るだけです。信仰と洗礼をもって自分のものにできるのです。

 以上のことが全ての人間に共通した神の計画です。これの他に個人個人に対しても神の計画があります。それが何であるか、どうしたらわかるでしょうか?神さま、私にふさわしい仕事は何かお示し下さい?とお祈りして、すぐ答えがあるでしょうか?人間はとかく印を求めがちです。もちろん、何か不思議なことが起きて、これはもう神の御心としか言いようがない、ということもあるでしょう。しかし、いつも起きるとは限らないし、もし何か不思議なことが起きても、それが本当に聖書の神の意思という保証もありません。どうしたらよいでしょうか?

 私のささやかな助言ですが、神のお墨付きということはあまり考えず、自分が関心があること、なりたいもの、やりたいこと、使命感を感じることは追及してよいと思います。ただし、追及する際にルールがあります。神の意思に沿っているか、反していないか確認することです。具体的には十戒を任務遂行、目標達成の際のルールにすることです。何かことを成し遂げる際に、創造主の神に特化して自分の思いや願いを打ち明けたり感謝を捧げているかどうか、安息日を守っているかどうか、人々に敬意を払っているかどうか、人を傷つけていないか、不倫はしていないか、偽証や改ざんはしていないか。もし任務遂行や目標達成の際にこれらに反することが出てくれば、選択肢は2つです。任務や目標を神の意思に沿うものに変革するか、ないしは変革不可能であれば任務や目標自体を変えるということです。最初目指したことをやめるというのは自分が失われる感じがして痛いことですが、先ほども申しましたようにキリスト信仰者は何が起きても変わらない神との結びつきがあります。それさえあれば何も失われるものはありません。神は必ず次のものに導いて下さいます。神の意思をルールにする限り、神のお墨付きがある、やりたいこと目指すことは定まってきます。

3.マリアの信仰と私たち

 次にマリアの信仰を見ていきましょう。エリザベトが言った言葉(ルカ1章45節)がマリアの信仰を理解するカギです。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」

 まず、「幸い」という言葉について注釈します。それは時間が経てば薄れてしまう、この世的な幸福や幸運ではありません。不変で持続可能な幸福です。SDGsに加えてもいいくらいのものです。先ほど、キリスト信仰者というのは神との結びつきを持って永遠の命に至る道を歩んでいると申しました。「幸い」とは、神との結びつきがあるので今の世と次に到来する世の双方にまたがることができるということです。それなので、たとえ逆境に陥っても、この結びつきとまたがりは自分から離脱しない限りそのままあるので、その人は「幸い」のままです。マタイ5章の有名な山上の説教でイエス様自身が言われるように「幸いな」人とは霊的に貧しい人であったり、今悲しんでいる人であったり、義に飢え渇く人であったり、また義のために迫害される人であったりします。イエス様の言葉をよく目を見開いて読めば、どれも今の世と次に到来する世の双方にまたがっていることが見えてきます。これとは逆に、この世の目から見て幸福や幸運にどっぷりつかる人生を送ることができても、神と結びつきもなく二つの世のまたがりもなければ幸いはありません。

 マリアの場合は婚約中の妊娠という、当時のユダヤ教社会の目から見て不名誉な境遇に置かれることを覚悟で、神の人間救済計画を実現するためならば、とそれを受け入れました。神の人間救済計画とは人間を「幸い」な者にすることでした。そのような計画の実現のために自らを捧げたマリアも幸いなのです。

 エリザベトの言葉に戻ります。ギリシャ語の原文はわかりそうで少しわかりにくい形でして次のようにも訳せます。「信じたこの方は、なんと幸いでしょう。なぜなら、主がおっしゃったことは必ず実現するからです」。実は、ドイツ語のルター訳やフィンランドやスウェーデンのルター派教会の聖書は、この訳です。英語のNIVは日本の新共同訳と同じです(英語でもジェームズ王欽定訳はルターや北欧諸国の訳と同じでした)。独、フィン、スウェーデンは「信じたマリアは幸いだ。なぜなら神が彼女に言ったことは必ず実現するからだ」と言う。日本語と英語は「神が言ったことが実現すると信じたマリアは幸いだ」と言う。またしても聖書の翻訳における日米同盟と欧州連合の対決ですが、どっちが正しいでしょうか?

 私は両方を合わせてみるとマリアの信仰がよくわかると思います。ドイツ・北欧の訳ですと、マリアがどうして「幸い」かということについて理由を言います。信じたマリアは幸いだ、なぜなら(οτι)神が彼女に言ったことは必ず実現するからだ、と言います(実はこれは山上の説教でのイエス様の言い方と同じです!「悲しんでいる人は幸いだ。なぜなら(οτι)彼らは慰められることになるからだ(4節)」)。英語・日本語の訳では、マリアがどうして「幸い」なのか理由がなく、ただ神が言ったことが実現すると信じたマリアは幸いだとだけ言います。

 ドイツ・北欧の訳で一つ問題なのは、「信じたマリアは幸いだ」と言う時、マリアは一体何を信じたのかがはっきりしないということです。英語・日本語では、信じた内容を「神が言ったことが実現することを」とはっきり言っています。それを信じたマリアは幸いと言います。ドイツ・北欧の訳では、ただ単に「マリアは信じた」です。マリアは何を信じたのでしょうか?

 それは、本日の日課の直前にあるマリアと天使ガブリエルの対話を見れば明らかです。神の子を産むことになると天使から告げられて、マリアはまだ婚約中の身でどうしてそんなことが可能かと聞き返します。これは一見すると、エリザベトの夫ザカリアが天使の告げたことに対して言った反論と同じように聞こえます。しかし、マリアの場合は最後に「お言葉通り、この身に成りますように」と言って天使が言ったことを受け入れます。これがマリアが「信じた」ことです。つまり、マリアは、事がその通りになるという事の真実性を信じたというよりも、その通りになってもいいです、と受け入れた、これがマリアが「信じた」ということです。

 信仰には二つの面があります。まず、神が起こると言うことを信じる、とか、聖書に起こったと書かれていることを信じる、とか、神が示した事柄の真実性を信じるという面があります。それと、ここでのマリアのように、神が起こすと言っていることをそれでいいですと言って受け入れること、神に自分の向かう先を委ねること、それくらい神を信頼するという面があります。このように信仰は事柄の真実性を信じることと神を信頼するということの二つの面を持っています。そいうわけでドイツ、北欧の「信じたマリアは幸いである。なぜなら神が彼女に言ったことは必ず実現するからだ」というのは、神を信頼して自分を神の御手に委ねたマリアは幸いである、なぜなら神が言ったことは必ず実現するからだ、という意味になります。ドイツ、北欧の訳はこちらの面が表に出てきます。

 もちろんマリアの信仰には事柄の真実性を信じる面もあります。そのことを確認しましょう。マリアが旅立ったザカリアとエリザベトの家が町は、ユダ地方の山間部にあるということなのですが、どの町かは不明です。ただ、ナザレがあるガリラヤ地方からユダ地方の中心地エルサレムまで直線距離で100キロ位ありますので少々の長旅です。途中にはユダヤ人に反感を持っているサマリア人が住むサマリア地方を通らなければならない。またイエス様が「善いサマリア人」のたとえ話のなかで、エリコとエルサレムの間の道に山賊が出て旅人を襲うという話がありますが、そういう危険もあります。とても一人の娘が出来る旅ではありません。誰か付き人をつけたと考えるのが妥当です。ロバに乗って仮に時速5キロ位で進めるとして、日中の明るい時間だけだから10時間くらいでしょうか、100キロ進むのには最低2、3日かかります。道は舗装されていないし、途中にコンビニもありませんから、それだけの日数の二人分以上の旅の準備をしなければなりません。そうしたことはルカの記述には一切触れられていません。読む側としてはどうしてそんな旅行が出来たのかと余計な心配をしてしまいます。人によってはそんなことはあり得ない、マリアのエリザベト訪問は作り話だなどと意地悪なことを言う人もいます。しかし、書き手のルカとしてはマリアの旅支度は読者に伝えるべき本質的なことではなかったのでしょう。伝えるべき本質的なことはマリアとエリザベトが会ってやり取りをしたことだったので、それで十分だったのです。実を言うと、ギリシャ語原文では天使のお告げからマリアの出発まで数日かかったということと、その間マリアは今か今かという思いでいたことが言われています。旅の準備をしていたことを示唆する表現です。日本語や英語の訳でははっきり出てきませんが、フィンランド語やスウェーデン語の訳でははっきり出ています。

 天使のお告げを聞いて早くエリザベトのもとに行かねばという気持ちになったマリアは、ルカ2章に登場する羊飼いと同じです。羊飼いたちは天使からベツレヘムの馬小屋の飼い葉桶の中で寝かされている乳飲み子が救世主誕生の印だと告げられました。羊飼いたちは、まだ見ていないのに天使の告げたことを本当のことと信じて急いで出かけて行ったのです。神が示した事柄の真実性を信じたのです。マリアの場合も同じでした。天使から、お前は乙女のまま神の子を産むことになる、高齢のエリザベトが身ごもっているのがその印である、神に不可能なことはない、と告げられ、まだ見ていないのに本当のことと信じて、一刻も早く出発したいという気持ちで旅の準備をして整うや急いで出かけて行ったのです。

 このようにマリアの場合は、神が示した事柄の真実性を信じることと、神に全てを委ねる信頼の両方がありました。これがマリアの信仰の大事なポイントです。そして、この両方を兼ね備える信仰はアブラハムにも見られるものです。父祖伝来の土地を離れて私の示す地に行きなさいと言われてアブラハムは神を信頼して出発しました。高齢でもう子供は無理と諦めていたのに、お前の子孫は夜空の星のようになると言われてそれを信じました。イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼のお恵みの中に生きる私たちキリスト信仰者も、聖書のみ言葉に立って、その両方を持って旅立つことが出来ますように。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

スオミ教会・フィンランド家庭料理クラブの報告

12月のスオミ教会・料理クラブは11日に開催されました。今回はクリスマスの季節フィンランドの家庭でもよく作られる”プッラのヨウル・クランシ(クリスマス・リース)”です。

初めにいつものようにお祈りをしてスタート。まず、プッラの生地を作ります。パン生地なので良く捏ねてから暖かい場所において一回目の発酵です。その間に中身の準備をします。レーズンとチェリーを細かく切って、砂糖にシナモン、クローブなどのスパイスを混ぜてスパイス・シュガーにします。プッラの生地が大きく膨らんだらクランシ(リース)を形作るタイミング。生地をロールにして切り型にのせます。それから二回目の発酵にさらします。

joulupulla

生地が発行している間、フィンランドのクリスマスの過ごし方についてのビデオを見て一休み。発酵したクランシをオーブンに入れて焼き始めると教会はクリスマスの香りで一杯になりました。

焼きあがった「ヨウル・クランシ」を切って分けます。北欧のクリスマスのホットドリンク「グリョッギ」と一緒に頂きました。ふっくらしたプッラと温かいドリンクを味わいながら、フィンランドのクリスマスとイエス様の誕生についてのお話を聞きました。

joulupulla

料理クラブが終わると教会の玄関前のイルミネーションが輝き出し、中も外もクリスマスの雰囲気に満たされました!

次回の料理クラブは新年のあと1月に開催します。日程等くわしくは教会のホームページの案内をご覧ください。次回は何を作るか、ぜひお楽しみに!

それでは皆さま、天の父なる神さまが祝福されたクリスマスをお迎え下さい!

 

料理クラブ2021年12月11日クリスマスのお話

今クリスマスがどんどん近づいています。店にはもう一か月以上前にクリスマスケーキや飾り物が並び始めました。クリスマスのイルミネーションもあちこちで見られます。この季節になるとフィンランドの多くの家庭ではクリスマスの準備をします。大事な準備の一つはクリスマスのお菓子を作ることです。クリスマスの季節になると普段あまりお菓子を作らない家庭でも、お菓子を焼いて家中はシナモン、グローブなどのスパイスの香りがします。これはクリスマスの香りとも呼ばれます。

フィンランドではクリスマスのお菓子の種類は多くてその中で、お菓子パンはクリスマスのテーブルの目を引く物です。お菓子パンも種類が多く今日作ったヨウル・クランシも普通です。パンの中身にはドライフルーツ、アーモンド、ナッツ、クリスマスのスパイスが入って美味しい高価なお菓子パンになります。ヨウル・クランシの形は普通は丸くて真ん中に穴があります。

kuusenpalloフィンランドではクリスマスのお祝いの過ごし方には長い伝統があります。家族それぞれに親の世代から受けついだ過ごし方を守ります。家族のクリスマスの過ごし方を守ることでクリスマスの雰囲気を高めます。

わたしたちがフィンランドにいた時もクリスマスの過ごし方は毎年同じでした。ある年のクリスマスの前に一つ大変なことが起こりました。ちょうどクリスマスの二日前に博明の腰が痛み出してもう歩けなくなりました。初めに市の病院に行きましたが、そこでは治すことは出来ませんでした。私は娘と息子と一緒に博明の状態を病院に見に行ったら、ちょどその時博明は大学病院に連れていくために救急車に運ばれるところでした。子どもたちはそれを見て少しショックを受けて、娘は「今年クリスマスは私たちには来ない」と言って泣き始めました。息子もつられて泣き出してしまいました。博明は大学病院に運ばれましたが、その夜タクシーに乗って家に帰ってきました。完全に治ってはいませんでしたが、私たちは家で家族皆でクリスマスのお祝いをすることが出来ました。

この出来はとても印象に残りました。特に娘の言葉「今年クリスマスは私たちには来ない」が耳に残りました。その意味は、私たちは例年と同じように家族皆でクリスマスのお祝いが出来ない、だからクリスマスの雰囲気にならないので、クリスマスは来ないという意味でした。しかし、どうでしょうか。クリスマスは私たちの状況に関係してあるでしょうか。そうではありません。クリスマスのお祝いは聖書に書いてあるメッセージから生まれます。それは私たちの状況やクリスマスの準備で作った雰囲気と関係なく、毎年同じメッセージから生まれます。

今から2千年前の一番初めのクリスマスの出来事を聖書で読むと、クリスマスの深いメッセージが伝わってきます。聖書には最初のクリスマスの出来事、天の神様の一人子イエス様の誕生について書いてある有名な箇所があります。「ルカによる福音書」の2章1-20節です。11-12節をみると、一番初めのクリスマスの夜に野原で羊の番をしていた羊飼いに天使が現れたことが書いてあります。「天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなた方のために救い主がお生まれになった。その方こそ主メシアである。』」tenshi

この一番最初のクリスマスに、この世の救い主がお生まれになりました。それは神様のひとり子イエス様でした。イエス様がお生まれになった時、私たちのクリスマスのような素敵な雰囲気があったでしょうか?イエス様はどこで生まれましたか?ベツレヘムという町の馬小屋でお生まれになりました。ロバや馬や牛がいる馬小屋は汚くて臭くて寒い場所だったでしょう。その時旅をしていた母マリアとヨセフには泊まる場所は他にありませんでした。他の宿屋はもう一杯でした。このように救い主イエス様は素敵な雰囲気なんか何もない場所でお生まれになりました。しかし、救い主のイエス様が本当に私たち一人一人のためにお生まれになったということは、私たちにクリスマスの本当の喜びを与えてくれます。この喜びのメッセージは、雰囲気とか、クリスマスの準備やいる場所に関係なく、世界の全ての人々、喜んでいる人たちにも悲しんでいる人たちにも、クリスマスの準備をする人たちにもしない人たちにも皆に与えられました。クリスマスは必ず毎年クリスマスのメッセージを通してお祝いします。クリスマスのメッセージを聞いたら、あとはイエス様を自分の救い主として受け入れるだけです。

joulu

イエス様を自分の救い主として受け入れると、天使が羊飼いに言った「恐れるな」という言葉は私たちにもその通りになります。生活の中には心配や怖いことが沢山あると思います。今世界中で広がっているコロナ感染、自然災害などは怖いことです。自然災害は私たち人間の力では解決は出来ません。しかしクリスマスのメッセージ「今日ダビデの町で、あなた方のために救い主がお生まれになった。その方こそ主メシアである。」これを心で受け取ると、天使の言葉「恐れるな」は私たちの毎日の生活の中で実現すると思います。

クリスマスにお生まれになった救い主は私たちと共に歩んでくださると、聖書に約束さています。だから何も怖がる必要もありません。

今年のクリスマスが皆さんにとって喜びを与えるお祝いになりますように。

クリスマスカレンダー 「私のクリスマスの旅」

今日は、アドベントという「待降節」に入ります。アドベントはクリスマス 前の4週間を意味します。12月1日(水)からはこのページに『私のクリスマスの旅』というクリスマスカレ ンダーを公開します。大人も子どももみんな、 カレンダーの物語を読みながらクリスマスを楽しんで迎えましょう。

文・写真:パイヴィ・ポウッカ
翻訳:パイヴィ・ポウッカ & 杉本輝世

「ダビデの子、ホサナ」

今年は11月28日からクリスマスの準備期間である待降節/アドヴェントが始まります。 キリスト教会のカレンダーでは待降節第一主日は教会の新年の始まりです。 この日フィンランドの教会では教会讃美歌第1番「ダビデの子、ホサナ」を歌うことが伝統になっています。新年の幕開けにふさわしい元気溢れる讃美歌です。この日フィンランド全国でこの歌が響き渡ります。スオミ教会でも毎年歌っています。是非礼拝にいらして、時差7時間あるフィンランドに先駆けてご一緒に「ダビデの子、ホサナ」を歌いましょう!

「ダビデの子、ホサナ」が斉唱される場面のビデオです(エスポー教会、2015年11月29日収録)

手芸クラブの報告 2021.11.24

東京も紅葉が深まる晩秋の11月24日、スオミ教会の手芸クラブが開催されました。

今回はマクラメのクリスマスツリーと編み物でした。クリスマスツリーは糸の長さを測ってから結び始めます。マクラメの二つの基本の結び方を用いました。二本の糸でスタートした後どんどん糸を増やしていくとツリーの枝は長くなっていきます。結びの途中で飾りのパールを入れて可愛らしいクリスマスツリーの出来上がりです。

編み物は以前始めたルームシューズの続きでした。好みの色で四角の形を16枚編み合わせると一足のルームシューズが出来ます。作り目を編んでから表網で編んでいきます。

参加者の皆さんにとってマクラメのテクニックは初めてだったのでクリスマスツリーは興味を引き付けました。編み物の方も四角の枚数はどんどん増えていきました。時間はあっという間に過ぎてコーヒータイムになりました。そこで歓談の時を持ってから、マクラメや聖書の詩編の139篇についてお話がありました。

次回の手芸クラブは新年が開けた後の1月です。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしております。

 

手芸クラブのお話2021年11月24日

今日はマクラメのテクニックを使ってクリスマスツリーを作りました。マクラメのテクニックは簡単で糸を結ぶだけです。マクラメの結び方はいろいろありますが、基本の二三の結びだけ出来るようになると、いろんな模様がある商品、飾り物、バック、クッションなどが作れます。マクラメの結びが出来るようになると、もっといろんなものを作りたくなり、きっと夢中になると思います。

マクラメは古い手芸のテクニックで、1200年頃アラブ人たちが始めたそうです。1800年頃マクラメはイギリスで盛んになってヨーロッパ中に広がりました。マクラメはフィンランドでは1970年までよく作られましたが、その後しばらく忘れられたようです。2017年マクラメのテクニックがその年の手芸のテーマに選ばれて、注目され若者もマクラメの商品が好きになりました。

マクラメのテクニックで作った物は織物と似ています。そのせいか、私はマクラメのものが好きでいろいろ作っています。マクラメの結びを作っている時に一つの聖書の箇所をよく思い出します。それは旧約聖書の詩編の有名な箇所です。それを紹介したく思います。

CC0「あなたは、私の内臓を造り母の胎内に私を組み立てて下さった。私はあなたに感謝をささげる。私は恐ろしい力によって驚くべきものに造り上げられている。御業がどんなに驚くべきものかわたしの魂はよく知っている。秘められたところで私は造られ深い地のそこで織りなされた。あなたには、私の骨も隠されてはいない。」
詩編139編13-15節

この詩編のみ言葉から、私たち一人一人は天の神様の御手の業で造られたということが分かります。私たちは母の胎内から生まれましたが、織りなされたのは天の神様です。神様は私たち一人一人を愛を込めて造られて、同じような人間は たった一人だけで 他はこの世界にはいません。世界中の全ての人々は神様にとって価値がある人間です。私たちは、私たち自身のことは自分だけが一番知っていると思いますが、本当はそうではありません。神様は私たち一人一人を造られたので、私たちのことを私たちよりもよくご存じで、私たちが見えない骨までも知っています。

天の神様はこのように私たちのことをご存じですので、私たちも、わたしたちの造り主である神様を知ることが重要です。赤ちゃんが生まれると、親と赤ちゃんの良い関係を造るのは大事です。同じように私たち人間と造り主の天の神様の関係も重要です。天の神様はどんな方か、どのように私たちを世話するのかを知ると、人間と神様の関係は強くなると思います。良い関係があると私たちは神様に信頼することも出来ます。しかし私たちは神様と人間の関係の重要性を分からない時もあります。その時私たちは神様から離れて生活するようになります。そのような時はどうでしょうか。神様も私たちのことを忘れてしまうでしょうか。そうではありません。私たちが神様から離れても神様は私たちの近くにおられ、私たちが神様のもとに戻るようにいつも待っています。私たちは神様から離れることに気づくと、神様を見つけて神様の元に戻れることがいつでも出来ます。イエス様は新約聖書の言葉でこのように教えられます。 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」マタイによる福音書7章7-8節です。

天の神様は私たち一人一人を愛を込めて造られました。それをいつも覚えて感謝しましょう。そのために神様との関係を忘れないで、神様を求めたり、探したり、門をたたいたりして行きましょう。

2021年11月21日(日)聖霊降臨後最終主日 主日礼拝 司式・説教 浅野直樹 牧師(むさしの教会)

説教題「真理を証しする者」

2021年11月21日 聖霊降臨後最終主日礼拝説教(スオミ教会)

聖書箇所:ヨハネによる福音書18章33〜37節

説教題:「真理を証しする者」

 お久しぶりです。もう何年振りでしょうか。スオミ教会がこの地に移転した時には来させて頂きましたが、まだこの会堂ではお話ししたことがなかったと思います。

 今日は、聖霊降臨後最終主日です。教会の暦としては、今年一年の最後の主日となる。ですので、聖書のテキストも、終末…、つまり世界の終わりに関わる箇所が取り上げられていました(毎年のことですが)。先週もそうでした。マルコ福音書にある「終末の徴」についてでした。そこでお話しした一部を、ここスオミ教会でもまずはじめにお話ししたいと思います。

 言わずと知れたこのコロナ禍で、私たちは大変な生活を強いられました。もちろん、そうです。未曾有の出来事。多くの方々が職を失い、精神的にも追い詰められてしまいました。そのこと自体を決して軽視するつもりはありませんが、私の中ではどうしてもこういった問いが生まれてならなかったのです。このコロナ禍だけなのだろうか、と。ある方の一言が、そんな私の問いを後押ししてくれたようにも思います。「私は全然危機感を抱いていない。戦争はこんなものではなかった」、そう戦争を体験された方が告げられたからです。

 繰り返しますが、決して軽視するつもりはありません。本当に大変な方々が多くおられるのも事実です。そういった方々に対するセーフティーネットをもっともっと拡充していく必要があるのではないか、それこそが政府・政治の役割ではないか、とも思う。私たちにも出来ることがあるのではないか、とも問われる。反省も無力さも感じる。そうです。本当にそうです。しかし、私自身は、どうしてももう一つのことに思いが向かうのです。私たちは「終末論」の信仰をどうも見失ってしまっていたのではないか。この「終末論」の信仰を伝えるのを怠ってしまっていたのではないかと、今更ながら反省させられてもいるのです。

 「終末論」とは、世界の終わりのことです。この世界はやがて終わりを迎える。そこに向かって、戦争、天変地異、飢饉、迫害などの徴が現れる。そう聖書は語ります。確かにそれは、あまり触れたくないところです。しかし、「終末論」とは、それだけを伝えるのではありません。新しい世界の到来を告げるものです。その新しき世界とは、まさに愛なる神さまが御支配されておられる世界。救いの完成の時。死も苦しみも悩みも痛みもなく、全てから解き放たれて、祝福だけが満ち溢れている世界。そう、この世の労苦が報われる世界です。

 現代社会の課題は、希望が見えなくなっているところです。非正規雇用は非正規雇用のまま、どうせ未来などない。こんな給料じゃ家庭なんか持てない。子どもなんて育てられない。どうせ先が見えているなら、何も変わらないなら生き続ける意味などあるのだろうか。そんな世界。気持ちが分からない訳じゃない。しかし、最初にお話した問いが私の中に浮かんでくるのです。このコロナ禍だけなのだろうか。人類の歴史とは、ずっとそうだったのではなかったか。むしろ、もっと過酷な世界を生きてきたのではなかったか。では、それらの人々は希望を持つことができなかったのだろうか。いいや、違う。たとえ、今は、この世では恵まれない人生だとしても、満たされない人生だとしても、不遇の人生だとしても、必ず救ってくださる方が、報いてくださる方がいてくださる。この私を、幸いな世界へと招き入れてくださる方がいてくださる。だから、耐えていける。我慢していける。今を生きていける。そういった希望があったのではないか、と思うのです。

 もちろん、この社会はもっと改善されるべきです。弱者に優しい世界へと変革されるべきです。しかし、いくら社会が変わっても、どうしても恵まれない人は生まれてしまうのだと思う。だからこそ、その視点が、その信仰が今でも必要なのだと思えてならないのです。新しき世界を見つめる目が。今の労苦が必ず報われるという信仰が。

 今朝の福音書で、イエスさまはこう語られました。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない」。ここについては、さまざまな理解の仕方があるでしょうが、要は、この世界であっても、あるいは新しき世界であっても、イエスさまの国は、この世とは全く一線を画するということでしょう。イエスさまの国は、この世とは相容れないもの。なぜならば、それは神さまの国でもあるからです。神さまが御支配されている世界。この私たちの世界は「武力」に代表されるように、弱肉強食の世界です。いくら社会が変革し、制度が変わっても弱者の上に強者が君臨するといった図式は変わらないのです。そこに、現代社会の歪みも起こっている。しかし、イエスさまが目指される国は、決してそうではないのです。イエスさまが目指される国は、99匹をたとえ野に残しておいても、見失われた1匹を探し求められる世界です。一人一人が真に尊重され、愛される世界です。だから、必ず報われるのです。たとえ、どんな些細なことであったとしても。たったいっぱいの水を差し出したに過ぎないとしても。

 そのイエスさまはこうも語られる。「わたしは真理について証しするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」。ヨハネ福音書では、この「真理」という言葉がよく出てきます。それほど重視している、ということでしょう。では、「真理」とは何でしょうか。カトリックの雨宮神父はこのように語っておられました。「聖書にとって『真理』とは、『いつでも、どこでも通用する妥当な知識や認識』(おそらく、これが日本人が抱く「真理」の意味ということだと思いますが)というよりは、『堅固で、信頼ができ、永続するもの』を指します」。「真理」とは堅固・確かで、信頼ができ、永続するもの、つまり、イエスさまそのものであり、福音ということです。

 先ほど、ヨハネ福音書ではこの「真理」という言葉が多用されていると言いましたが、皆さんはこの言葉も思い浮かべられたのではないでしょうか。ヨハネ14章6節「イエスは言われた。『わたしは道であり、真理であり、命である』」。ここでイエスさまは、ご自身で「わたしこそが真理である」と言っておられる訳です。しかし、注意していただきたいのは、この言葉には続きがある、ということです。「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と言われていることです。先ほどの「道」「真理」「命」はよく耳にしたり目にしたりしますが、個人的にはこの句が外されていることに大変違和感を感じています。ともかく、イエスさまはご自身のことを、神さまへと通じる道であり、真理であり、命なのだ、と告げておられる、ということです。そうです。イエスさまを通してでなければ、私たちは本当の神さまのお姿には出会えないのです。神さまのお姿がボケてしまうか、間違えてしまうか、だけです。

 今日の福音書の箇所は、イエスさまが十字架にかかられる前の裁判の席でのことでした。つまり、「真理」である方がこれから十字架の上で死なれるのです。そして、三日目に復活なされる。それが、私たちを唯一神さまの御許へと導いてくださる「真理」である方なのです。この方が示される「終末」だからこそ希望が持てる。この方が約束してくださった新しい世界だからこそ待ち焦がれることができる。この方がご自身の身をもって明らかにしてくださったからこそ、私たちは忍耐していける。必ず報いられることを信じて励んでいける。現実の中をも生きていける。そうではないでしょうか。

 私たちは、もう一度、苦難の中に生きた人々が仰ぎ望んだ希望の世界を見つめ直したいと思うのです。そして、この世界の中だけでは希望を見出せなくなってしまっておられる方々に、少しでもこの希望を届けていければと願わされています。

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

クリスマスの準備も済みました。

スオミ教会・フィンランド家庭料理クラブの報告

11月のスオミ教会・料理クラブは13日と18日の2回、両日とも秋の爽やかな陽気の中で開催しました。今回はフィンランドのカフェでもよく見かけるサーモンパイです。

初めに、いつものようにお祈りをしてスタート。まず、パイ生地を作ります。

それを冷蔵庫で寝かせている間、パイのトッピングを作ります。焼いたサーモンをほぐし、他のトッピングも準備します。ディルを細かく刻むと香りが漂い出来上がりがますます楽しみになります。パイ皿に生地を伸ばして、その上にサーモンをたっぷりのせてトッピングを流しこんだ後オーブンに入れます。オーブンからサーモン、生地、ディルの合わさった豊かな香りが広がりました。

焼き上がったパイを切ってお皿にサラダと一緒にのせてみんなで美味しく楽しく味わいました。そこでフィンランドのお魚と聖書に出てくる「漁師」についてお話がありました。

次回12月11日はもう待降節・アドベントの期間です。それでフィンランドのクリスマスのお菓子を作ります。

詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしております。

 

料理クラブのお話2021年11月13日18日

フィンランドは湖や川がたくさんある国です。湖や川の魚の種類は多く、魚釣りが好きな人も多いです。昔、魚釣りは趣味ではなく、食料を得るための仕事でした。それで、魚釣りはどの家庭でも行われ、魚は一番よく出されたおかずでした。

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時代は変わって、魚は家で捕るものではなくなって店で買われるようになりました。その頃から海で捕れるいわしが食べられるようになりました。いわしは沢山捕れたので安く買えました。まだ冷蔵庫がない時代には、秋に家庭でいわしを沢山買って、塩づけにして保存して、冬中ずっと食べていました。私の子供の頃も家でいわしを塩づけにして保存して何か月も食べていました。残念なことに、現在いわしを食べるフィンランド人は少なくなり、一年に一人当たり300gだけ食べるそうです。近年トゥルクやヘルシンキでは秋になるといわしの市場が開かれるようになって、そこではいわしだけでなく他の魚で作った料理や保存食も売っています。このいわし市は、冬に向かうフィンランドの秋の大きなイベントになって沢山の人が訪れます。

今フィンランドではどんな魚がよく食べられるでしょうか?まず、湖や川で捕れる白身の魚がよく食べられます。海の魚ではいわしとニシンとサーモンがよく食べられますが、一番よく食べられるのはサーモンです。サーモンはフィンランドで養殖したものか、ノルウェーの海で捕ったものかのどちらかです。サーモンは昔は高価な魚だったのでクリスマスのようなお祝いの時にしか食べられませんでした。しかし、今では普段の日にもよく食べられるようになりました。サーモンを使った料理のなかで、サーモンスープが伝統的なものですが、オーブンやフライパンで焼いたり、スモークサーモンにしたり、生のものを塩漬けにしたりして食べます。

私は、日本のお店で売っている魚を見て、種類の多さにびっくりします。フィンランドの普通のお店で生で売っている魚の種類は少なく、いわしとサーモンとあと何か白身の魚が1種類くらいあるだけです。日本の方がフィンランドに旅行すると種類の少なさにきっとびっくりするでしょう。

さて、聖書の時代にも魚はよく食べられていて、漁師は普通の職業でした。今日はこれから聖書に出てくる漁師についてお話ししたいと思います。

ある日イエス様がゲネサレト湖という湖にやってくると、2人の漁師が舟からおりて、網を洗っているのを見かけました。そのとき、大勢の群衆がイエス様の教えを聞こうとして、彼の周りに集まって来ました。イエス様は漁師のシモン・ペテロの舟に乗って、少し岸から離れた場所まで行って、そこから岸辺にいる群衆に向かって神様について教えました。

話し終えてからイエス様はペテロに「舟を少し冲に漕いで、そこで網を下ろしてみなさい」と言われました。ペテロは、「先生、私たちは夜中苦労しましたが、何も捕れませんでした。しかしお言葉ですから、網を下ろしてみましょう」と答えました。ペテロは漁師なので魚のことはよく知っていました。もし夜魚が捕れなかったら、昼はもっと獲れない、と思ったでしょう。それでもペテロは、イエス様の教えをいつも聞いていてイエス様を尊敬していたので、言われた通りにしました。するとどうでしょう。信じられないことが起こりました。網が破れそうになるくらいに大量の魚がかかって、その重さでペテロの乗っている舟ともう一そうの舟は沈みそうになりました。

2006-07-28 by MMBOX PRODUCTION

ペテロはこれを見て、どう思ったでしょうか?彼はイエス様の足元にひれ伏して、こう言ったのです。「主よ、私から離れてください。私は罪深いものです。」ペテロはお礼を言うどころか、こう言ったのです。どうしてでしょうか?この時ペテロは、今起こったことは神様の力で起きたと信じたのです。それで自分の前にいるこの方は神聖な神のみ子で、この方の前では自分など罪深い者にすぎない、とわかったのです。それで「私は罪深いものなので、どうか私から離れてください」と言ったのです。しかし、イエス様はペテロから離れないで、次のように言われました。「恐れることはない。これからは、あなたはこれからは、あなたは人間をとる漁師になる。」そこでペテロは舟を陸に上げて、イエス様は神様の子だから信頼して大丈夫な方だと信じて、全てを捨てて従って行きました。ペテロはイエス様の弟子の一人になったのです。

このようにペテロはイエス様と出会って、イエス様に従って行きました。私たちもイエス様と出会うことができます。それは、聖書のみ言葉を読んだり聞いたりする時にできるのです。聖書のみ言葉を読んだり聞いたりすると、私たちは神様のみ前では罪深いものであることがわかります。しかしイエス様は私たちから離れないで、一緒にいて下さるのです。どうしてでしょうか?それは、イエス様は私たち人間を救うためにこの世に来て下さったからです。私たちは神様の計画によって、天の神様のみもとに行くことが出来るようになります。それはどんな計画でしょうか?私たちが罰を受けないようにと、イエス様は私たちのかわりに十字架にかけられて死なれました。それから三日目に復活させられて天に昇られました。これが神様の計画です。神様はイエス様の十字架のおかけで私たち人間を許して下さるのです。このように神様の人間に対する愛は罪を赦す愛なのです。

イエス様はペトロだけでなく私たちにとっても信頼して大丈夫な方です。ペテロが見たような奇跡を私たちも見ることが出来るかどうかは分かりません。しかし、イエス様が十字架の業を受け入れてイエス様を救い主と信じると、神様のみもとに迎え入れてもらえるというのは確かなことです。イエス様は十字架の業を世界の全ての人々のために成し遂げて下さいました。それで私たちもそれを受け取ることが出来るのです。「あなた方をお招きになったなった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます。」テサロニケの信徒への第一の手紙5章24節です。イエス様は私たち一人一人を愛して下さり、ご自分に従ってついてくるように、と招いて下さいます。