お気軽にお問い合わせください。 TEL 03-6233-7109 東京都新宿区早稲田鶴巻町511-4-106
イブ礼拝に先立ってクリスマス・マーケット、カンテレコンサートが開かれました。予想をはるかに上回る大勢の方々で狭い会堂も嬉し悲鳴でした。マーケット・カンテレグループSointuの演奏などが恙無く進み7時からイブ礼拝が始まりました。。礼拝時には集会スペースにも多くの人が残り、クリスマスのメッセージに耳を傾けていました。フインランドから帰省された高木先生のご一家も懐かしい顔を見せてくださいました。
新しい会堂での祝会が予想以上の参加者で嬉しい限りでした。持ち寄ったたくさんの食べ物をまえに美しい讃美歌の披露もあり時の過ぎるのも忘れて主の生誕を祝いました
木澤さんの弾き語りです、アップテンポの曲はオープニングにふさわしく祝会を盛り上げてくれました。
音楽家小林兄の讃美歌独唱です、声量のある歌唱力にうっとりしました。
堀越家のコラボレーシオン、素晴らしかったです。
今年もたくさんの祝いのメールをいただきました、フインランドのみなさんありがとう。
有志によるコーラス、練習の成果が発揮されました。
エッサイのギター演奏、しばらくぶりに聞いたがうまくなったです。
教会のテーマソング”この青い空の下で”をみんなで歌ってお開きになりました。
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
イエス・キリストは歴史的にも世界的にも有名人です。彼が何者かはこのスオミ教会の礼拝の説教でも毎週お話ししています。今日の説教では、まず最初にイエス・キリストという名前を見てみます。少し雑学的になるかもしれませんが、知っていて役に立つと思います。「キリスト」というのは、新約聖書が書かれているギリシャ語でクリストスχριστοςと言い、その意味は「油を注がれた者」です。「油を注がれた者」というのは、旧約聖書が書かれたヘブライ語ではマーシーァハמשיחと言い、日本語ではメシア、英語ではメサイアMessiahです。このマーシーァハ/メシアがギリシャ語に訳されてクリストス/キリストになったということで、キリストとはメシアのことだったのです。そこで、メシア/マーシーァハ「油注がれた者」とは何者かと言うと、古代ユダヤ民族の王は即位する時に王の印として頭に油を注がれたことに由来します。民族の王国は紀元前6世紀のバビロン捕囚の事件で潰えてしまいますが、それでも、かつてのダビデの王国を再興する王がまた出てくるという期待が民族の間でずっと持たれていました。ところが紀元前2世紀頃からメシアに新しい意味が加わりました。それは、今のこの世はもうすぐ終わり新しい世が来る、創造主の神が天と地を新しく創造し直す。その時、最後の審判が行われて神に義と認められた者は死から復活させられて「神の国」に迎え入れられる。そういう思想が出てきます。聖書の預言にはそういう終末論があると見抜く人たちが出てきたのです。彼らによると、終末の時が来ると「神の国」の指導者になる王が出て、この世の悪と神に逆らう者を滅ぼし、神に義と認められる者を救い出して神の国に迎え入れる。それがメシアである、と。いずれにしても、イエス・キリストの「キリスト」は本名の苗字ではなく、称号が通名になったようなものです。
次に「イエス」の方を見てみましょう。これも、ギリシャ語の「ィエースース」Ἰησοῦϛから来ています。日本語ではなぜか「イエス」になりました。英語では皆さんご存知のジーザスです。「ィエースース」Ἰησοῦϛはヘブライ語の「ユホーシュアッ」יהושעをギリシャ語に訳したものです。「ユホーシュアッ」יהושעというのは、日本語でいう「ヨシュア」、つまり旧約聖書ヨシュア記のヨシュアです。この「ユホーシュアッ」יהושעという言葉は、「主が救って下さる」という意味があります。「ヤーハ」יה主が、「ユーシャアッ」יושע救って下さる。このようにイエス様の名前には、ヘブライ語のもとをたどると「主が救って下さる」という意味があるのです。ヨセフもマリアも生まれてくる赤ちゃんにユホーシュアッと付けなさいと天使に言われたので付けました。それでこちらは本名です。そういうふうに、イエス様の名前はヘブライ語で見るとユホーシュアッ・マーシーァハ(日本語ではヨシュア・メシア)となり、キリスト教が地中海世界に広がっていった時にギリシャ語に直されてィエースース・クリストス(日本語ではイエス・キリスト)になったのでした。
本日の旧約と福音書の日課を見ると、まず旧約のイザヤ書7章に「おとめが身ごもって男の子を生む」という預言があります。その子がインマヌエルと呼ばれるということでインマヌエル預言とも言われます。インマヌエルとは、ヘブライ語の言葉「インマーヌーエール」אל עמנוで、「神が私たちと共におられる」という意味です。福音書のマタイ1章の方は、その預言がついに実現する時が来たことを記しています。おとめマリアに聖霊の力が働いて身ごもりました。誰が生まれてくる子供をインマヌエルと呼ぶのかと言うと、ヘブライ語原文のイザヤ書では母親です(後注1)。しかし、母マリアがイエス様のことをインマヌエルと呼んだかどうかは、今日の福音書の日課の中には記されていません。ただ、ルカ1章にマリア賛歌と呼ばれる下りがあり、そこにマリアが神を賛美して述べた言葉があります。それを見ると、神はへりくだった心の者や神を畏れる者を本当に助けて下さるということがマリアの言葉として言われています。まさに神はそうした者たちと共にいる、文字通りインマヌエルな方なのだということが明らかに見て取れます。
このように、本日の旧約と福音書の日課はイエス様の名前について述べています。以上述べたことは名前の言葉についての辞書的な意味でした。これが、日課の御言葉を解き明すことで、イエス様の名前は私たちと私たちの命にとって大事な言葉であることが明らかになります。以下そのことを明らかにしていきたいと思います。
まず、「おとめから生まれる子供の名がインマヌエルと呼ばれる」という預言について。これは、歴史的にみると、イエス様が誕生する700年以上も昔に、神が預言者イザヤを通して当時のユダ王国の王アハズに述べた言葉です。どんな歴史状況の中で言われた言葉でしょうか?ダビデ・ソロモンの王国が南北に分裂し、お互い反目しあいながら200年近くがたちました。こともあろうに北のイスラエル王国が隣のアラム王国と結託して、兄弟国のユダ王国を攻撃しようと計画したのです。この知らせに、アハズ王も国民もパニック状態に陥ったことが、本日の旧約の日課のすぐ前に述べられています。そこで神は預言者イザヤに命じて、イスラエルとアラムの共謀は実現しないから大丈夫だ、落ち着け、そうアハズ王に伝えよ、と命じます。
そして今日の日課の個所となります。初めは神とアハズ王とのやり取りですが、王は預言者の言葉を聞いても確信を持てなかったことが伺えます。イスラエルとアラムの共謀は実現しないと言われても、何を根拠にそう言えるのか、そこまで言うのなら証拠として神は何かしるしを見せろ、大体そんなやり取りがあったことを伺わせます。しるしというのは、大抵は奇跡的な出来事を意味します。
それに対して神は、パニック状態にあるアハズ王に次の言葉を述べます。「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。」陰府というのは、死んだ者が安置される場所です。怯えてしるしを求める王に神はこう述べたのですが、どういう意味でしょうか?こういうことです。「そんなにしるしが見たいなら、自分で陰府にまで下って探し求めてみよ、あるいは、天にまで上って探し求めてみよ、そうすればきっと見れるだろう。しかし、お前はそんなところへは行ける筈がない。私を信じていればそんなところまで行く必要もない。なのに、お前はそこまで私の言うことを信じられないでいる。本当に呆れかえった」ということです。
これに対してアハズは恐れおののいてしまって、もうしるしなど求めません、しるしを見せてくれたら信じてやるなどと神を試すことももうしません。それに対してイザヤは、「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間にもどかしい思いをさせるだけでは足りず、わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか」と言います。ここでの「もどかしい思い」とはどういう思いか分かりにくいと思います。問題となっているヘブライ語の単語(לאה)は「~を無力だと思う」という意味もあると辞書に書いてあります。それでいくと、すっきりします。「お前たちは人間を無力だと思うことではもの足りないのか?神をも無力だと思うのか?」(後注2)。
そこまで信じられないのなら思い知らせてやろう、ということで、神は次のように言います。「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」
先ほども申しましたように、インマヌエルとは「神が我々と共におられる」という意味です。この言葉に続けて神は、イスラエルとアラムの両王国は大帝国アッシリアに滅ぼされ、二国の計画は頓挫すると述べます。このことは、古代オリエントの歴史の教科書にも記されている通り、紀元前8世紀にその通りになります。
さて、このおとめから生まれるインマヌエルという子供は誰をさすのでしょうか?イエス様で良いでしょうか?ユダヤ教の長い伝統のなかでは、それはアハズ王の子ヒゼキヤ王をさすというのが有力な見解でした。その理由は、ヒゼキヤ王は歴代の王たちと違って神のもとに立ち返る生き方をし、預言者イザヤの言葉を神の託宣としてしっかり受け入れた王だったからです。そして、アッシリア帝国が大軍を引き連れて今度はユダ王国も攻め始め、最後に残った首都エルサレムも完全に包囲されて絶体絶命になりますが、ヒゼキヤ王は神の力で打開できると信じる姿勢を貫きます。アッシリアの大軍は突如神の御使いに撃たれ一夜にして18
5千の兵を失って総退却となります。列王記下19章35ー36節、イザヤ書37章36ー37節に記されています。(因みに、アッシリア側の年代記には退却したとは書かれず、生意気なユダヤ民族を十分懲らしめたから占領しないで帰還した、というような書き方をしているとのことです。昔の大本営発表みたいです。)
このようにヒゼキヤ王はエルサレムを救った理想的な王様として描かれました。それで、このインマヌエルはヒゼキヤ王をさすのだと考えられたのです。
ところが、それではヒゼキヤ王はおとめから生まれたのかという疑問が起こります。もしそうだとすると、聖霊の力によって身ごもったのはイエス・キリストが最初ではなく、その700年前にすでに前例があるではないか、ということになってしまいます。実は、イザヤ書7章14節の預言の「おとめ」という言葉、へブライ語の「アルマーハ」עלמהという言葉は、「若い女性」、特に子供を産む前の若い女性という意味があります(後注3)。はっきりと処女の意味は持ちません。それでヒゼキヤ王は、父親のアハズ王と誰が若い妃の間に普通の人間の子供として生まれてきても何も問題はないのです。
そうなるとは、「聖霊によってやどりおとめマリアから生まれた」とキリスト教の信仰告白で唱えられるイエス様の超自然的な誕生は、預言書の根拠を失ってしまうのでしょうか?
実は、ユダヤ教の伝統のなかで、この「インマヌエル預言」はヒゼキヤ王で完結したとは考えられなくなったことも出てきました。神の民を苦境から救い出すインマヌエルはこれから出てくるのだ、ヒゼキヤ王は実はまだ預言の成就ではなかったのだ、という見解が出てくるのです。というのは、ヒゼキヤ王はエルサレムを守った理想王ではあったけれども、その後で大きな失点を残してしまう。列王記下20章とイザヤ書39章に記されているように、アッシュリアの退却後、平穏を回復したユダ王国に今度はバビロン王国から使者が来ます。バビロンは約100年後にユダ王国を滅亡させ、その民を連行することになる国です。ヒゼキヤ王は使者たちに王国の宝物、武器一切のものを見せてしまいます。しかし、それはしてはならないことだったとイザヤに告げられます。そして、ヒゼキヤ王の次に即位したマナセ王は神の意志に背く宗教政策をとってしまいます。それは、列王記下24章3ー4節に記されているように、やがて起こるバビロン捕囚の運命を決定づけてしまいました。こうした歴史の変遷が起きたために、インマヌエル預言は本当は後の世に成就されるものだと理解されるようになったのです。
イザヤ書も終わりのほうになると、神が自分の民を最終的に救う日は新しい天と地が創造される日である(66章17節、22節)と言われます。天と地が新しく創造し直されると言うのであれば、その時の救いの担い手も普通の人間ではないと理解されるようになっていきます。生まれる男の子はちょっとやそっとの男の子ではない、と。まさにその時、「若い女性」と訳されたヘブライ語の言葉「アルマーハ」עלמהの意味が深まりだします。単なる「若い女性」が子供を産むということではなく、「若い女性」が「子供が生まれる前」の状態を保ったまま子供を産むという、まさにおとめが産むという理解が生まれます。こうした理解の変化があったことを示す出来事があります。それは、紀元前3世紀頃からヘブライ語の旧約聖書がギリシャ語に翻訳された時に、問題となっている言葉「アルマーハ」עלמהがはっきり「おとめ」を意味する言葉「パルテノス」παρθένοϛに翻訳されたことです。
このように、インマヌエル預言は最初に語られたアハズ王のコンテクストを飛び越えて、イエス様の誕生を指すものになっていったのです。しかしながら、ヒゼキヤ王のことも意味したと言うのも、必ずしも間違いではないと思います。というのは、聖書の神の預言は、イエス様のこと終末のこと新しい世のことを預言をする時でも、預言が語られた時代に直接関係があるような言い方をします。そのため、もっと将来のことを言っているのが見えにくくなります。しかし、時代に直接関係あることは起こったように見えても、少し経つとそれは実現ではなかった、本当の実現はもっと後のことなのだとわからせるものばかりです。時代に直接関係あること、例えば、アッシリア帝国の撃退とかバビロン捕囚からの解放というものは、預言の本当の実現ではない。だけど、神は預言を実現する力がある方で、預言が口から言い出しっぱなしだけのものではないことを歴史のあちこちで示すものだったと言うことが出来ます。そういうわけで、旧約聖書を理解するには、単に歴史的事実に即した理解では不十分で、神の人間救済計画という壮大な視点を併せもって理解する必要があります。(聖書の現代語の訳の中には、イザヤ書のこの箇所で「おとめ」と訳するのをやめて「若い女性」にしてしまったものもあります。国名はあげませんが、ちょっと早まったかと思います。)
さて、ヨセフは婚約中のマリアが妊娠したことを知りました。これは普通だったらショックを受けて、裏切り行為として相手を公けに非難するに値するものだったでしょう。ところがヨセフは「表ざたにすることを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」。どうしてでしょうか?マリアが可哀そうだからでしょうか?そうだったら、ヨセフを「正しい人」とは言わず「憐れみ深い人」と言うべきだったではないでしょうか?
ルカ福音書1章を見ると、天使がマリアに聖霊の力が働いて妊娠して男の子を産むことになると告げます。まだ妊娠前のことです。そして妊娠しました。どうしてそうなったか、ヨセフに伝えたでしょう。男の人によっては、そんなのは言い逃れだ!相手は一体誰なんだ!」と逆上して、事を表ざたにしたでしょう。ところがヨセフはそうしなかった。なぜでしょう?それは、マリアの言うことを信じたからでした。これは本当に神の意思によるもので、聖霊の力が働いたのだ、と。そうするとマリアは裏切ったのではないので一安心ですが、それでも生まれてくる子供は自分の子供ではない。自分の家系の一員に迎え入れられない。そうなると婚約破棄しかありません。しかし、表ざたになると、みんながみんなマリアの言うことを信じないだろう、無実なのに不倫の汚名を着せられてしまうだろう。それで事が表ざたにならないようにするしかない。兄弟姉妹の皆さん、このヨセフの行動をよく見て下さい。マリアの言うことを信じ、これは神の御心によるものと信じる。しかし、自分の子供でない以上は自分の家系に加えられない。ならば破断するしかない。しかし、マリアが無実の罪を着せられないようにしなければならない。本当に難しいかじ取りだったと思います。本当に正しく振舞ったと思います。
ヨセフが破断の結論に至った時でした。天使が現れて、マリアに言ったことと同じことを言って確認を与えます。この子供は聖霊の力が働いて宿った、と。加えて、破断の必要はない、と言いました。つまり、生まれてくる子供をヨセフの家系の一員にしなさいということです。ヨセフはダビデの末裔だったので、これでイエス様は、人間として見ればダビデの家系の出身になりました。本日の使徒書のローマ1章で言われている通りです。日本語訳で「肉によれば」と言うのは、「人間として見れば」ということです。同じ個所で、「霊として見れば」神の子であると言われています(後注4)。
天使はマリアに言ったのと同じようにヨセフにも生まれてくる子供にヨシュア/イエスという名前を付けなさいと言います。ヨセフにはその理由も言いました。「この子は自分の民を罪から救うからである」。ヨシュアの名前の意味は先ほども申しましたように、「主が救って下さる」でした。主は何から救って下さるのか?たいていの場合は、敵国から守ってくれるとか侵略者から解放してくれるというようなことを考えます。その場合は、神が守り救うのはユダヤ民族ということになります。ところが旧約聖書という書物は、神の守りや救いは一民族に限定されない、普遍的なものであると明らかにしています。詩篇130篇8節に「主はイスラエルを全ての罪から贖う」という聖句があります。天使の言葉「この子は自分の民を罪から救う」とは、この聖句のことを言っているのです。人間を罪から贖うというのは、人間を罪に支配されている状態から解放するということです。「贖う」というのは、何か代償を払って買い戻すということです。生まれてくるイエス様が何か代償を払って人間を罪の支配下から買い戻して自由にしてくれるというのです。果たしてそんなことが起こったのでしょうか?
それは実際に起こりました。創世記3章に記されていますが、最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順になったことが原因で人間の内に罪が入り込み、人間は神聖な神から引き裂かれて死ぬ存在になってしまいました。全ての人間が死ぬということが、私たちは皆等しく神への不従順に染まっていて、そこから抜け出られないということの現れになっています。
そこで神は人間がこの世では自分との結びつきを回復して、それを持って生きられるようにしよう、この世を去ることになっても、復活の日に復活させて新しい体を与えて永遠に自分のもとにいられるようにしよう、と考えました。それを実現するために、ひとり子のイエス様をこの世に贈り、彼に人間の罪の神罰を受けさせて人間の罪の償いをさせました。それがゴルゴタの丘の十字架の出来事でした。さらに神は一度死なれたイエス様を復活させて、永遠の命を打ち立てました。死は目の前に永遠の命を突き付けられて絶対的な力を失いました。人間をひたすら死に向かわせようとする罪もその力を失いました。あとは人間がこれらのことは本当に自分のためにも起こったのだとわかって、それでイエス様を救い主と受け入れて洗礼を受けると、その人は罪の償いを受けた人となって、神から罪を赦された者と見てもらえて、神との結びつきを回復します。同時に永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩み始めます。その道を歩む限り、死も罪もその人を支配する力を失っています。その人は本当に罪と死から贖われて神に買い戻されたのです。贖いの代償は何だったでしょうか?それは、イエス様が十字架の上で流した血でした。神のひとり子の犠牲です。それ以上高価なものはないという位の神聖な犠牲です。私たちは、神の目から見てそれくらい価値のある者と見なされたのです。このことがわかると、この新しく頂いた命と人生を損なうような生き方も神に背を向けるような生き方もできなくなるでしょう。
イエス様は十字架と復活の業によって、人間を罪と死から救って下さいました。そこで、詩篇の聖句と天使の言葉を見ると、救うのはイスラエルと言っています。やはり、民族中心なのでしょうか?そうではありません。罪と死の問題は、創世記を見るまでもなく、民族の区別などまだない時に人類一般のこととして起こりました。だから、その解決も人類全てに及びます。新約聖書でも「イスラエル」はユダヤ民族ではなく、イエス様を救い主と信じる信仰に生きる者の集合体の呼び名になっていきます。
兄弟姉妹の皆さん、イエス様は十字架と復活の業によって私たちを本当に罪と死の支配から贖って下さいました。まことにイエス様は、「ユホーシュアッ」יהושעです。
イエス様は、マタイ福音書の最後で言われます、世の終わりまで毎日私たちと共にいる、と。私たちが御言葉に聴き、それを繙く時、私たちはイエス様の声を聞きます。私たちが祈りを捧げる時、イエス様は私たちの声を聞いて下さいます。私たちが聖餐を受ける時、イエス様はそこに臨在しています。まことにイエス様は、「インマーヌーエル」אל עמנוです。
最後の審判の時、イエス様は、私たちが洗礼の時に被せられた罪の償いという白い衣を肌身離さず歩んできたことを覚えていて下さり、私たちに復活の体を与えて下さる「キリスト/メシア/マーシーァハ」משיחです。
イエス・キリスト・インマヌエル!
Ιησους Χριστος Εμμανουηλ!
!יהושע משיח עמנו אל
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
(後注1)イザヤ7章14節のקראתは女性・三人称・単数です。マタイ1章23節ではギリシャ語に訳されたイザヤ書が引用され、そこではインマヌエルと呼ぶのは「人々」です。
(後注2)辞書(Holladyの”Concise”です)によれば、לאהは、「~を疲れさせる」という意味もあり、イザヤ7章13節がその例であると言われています。「~を無力だと思う」の例として、エレミア12章6節などが挙げられていますが、私としてはこの意味の方がイザヤ7章13節の意味がすっきりすると思います。
(後注3)辞書Holladyの”Concise”にそう出ています。
(後注4)その「霊」に「神聖」αγιωσυνηςという名詞の属格形がつくという形で限定しています。形容詞が使われていないのが面白いですが、これは「人間として見れば」に対比する形をとったのでこのような言い方になったと考えられます。
クリスマスの日を来週に控えてK兄が讃美歌の歌唱指導を務めてくれました。聞いているとみるみる内にみんなの歌が上手になりました、プロの仕事の素晴らしさに感じ入った次第でした。
クリスマスの飾り付けも素敵な、移転した早稲田のスオミ教会での家庭料理クラブは、お祈りをしてスタートです。
作業はグループに別れて始まりました、事前に塩とスパイスで絞めたスライスしたサーモンで、クリームチーズのフィリングをロール状に包み、冷凍庫で休ませます。
次は、クリスマスのスパイスの香りのチョコレートケーキ作りです。
材料の計量をして、ハンドミキサーで泡立て生地を作り、焼いてる間に、コーヒーやココアを使ったクリーム作りと、作業は進み、焼き上がった生地を冷まして、イチゴでデコレーションされたケーキは、ゴージャスで可愛い出来上がりになりました。
サーモンロールをカットして、フィンランドらしくジャガイモや、ヨウルリンプー(クリスマスのパン)も添えられ、華やかで豪華なテーブルは完成しました。
試食会も一段落した頃、パイヴィ先生から、フィンランドのクリスマスやツリーに飾られる星のお話も聞かせて頂きました。
参加の皆様お疲れ様でした、素敵なクリスマスをお過ごしください。
クリスマスはフィンランド人にとって一年で最も大きなお祝いです。クリスマスの前の4週間の期間をアドベント、日本語で待降節と呼びます。アドベントはラテン語からきた言葉で「主イエス様をお迎えする時を待つ」という意味があり、クリスマスを迎える準備をする期間です。この前の日曜日にアドベントの期間に入りました。それはアドベント第1の日曜日でした。明日はアドベント第2の日曜日です。この期間になると、フィンランド人はクリスマスの準備で忙しくなります。クリスマスカードを送ること、家の大掃除、クリスマスの飾り物やイルミネーションをつけること、クリスマス料理を作ることなどをします。
クリスマス料理はフィンランド人にとって、クリスマスの雰囲気を高めるものの一つです。フィンランドの伝統的なクリスマス料理は種類がとても豊富です。クリスマスの季節になるとどの家庭でもクリスマスの料理やお菓子の準備をします。子どもたちもクリスマス料理やお菓子を作ることに興味を持つので、よく親と一緒に作ります。それで家族のクリスマス料理の味は世代から世代へと伝わっていくのです。
フィンランドのクリスマスの食卓には魚の料理の種類も多いです。今日皆さんと一緒に作ったサーモンロールはその一つです。それは近年よく作られるようになりましたが、まだそんなに伝統的でないかもしれません。伝統的なクリスマスの魚料理はいわしやニシンのビネガー漬けです。ビネガー漬けはビネガー、砂糖、塩やスパイスを使うので長く持ち、クリスマスの季節の食卓によく出されます。魚料理の他に伝統的なクリスマス料理は、豚肉のオーブン焼き、人参やジャガイモのキャセロール、生野菜や茹で野菜のサラダなどがあります。クリスマス料理の他に、もちろんお菓子も、クッキーやケーキなどを作ります。今日皆さんと一緒に作ったケーキの中に入れたシナモン、クローブ、ジンジャーなどの調味料は他のクリスマスケーキやクッキーの生地に入れるので、これらの調味料はクリスマスの香りがをするとも言われます。
クリスマスの季節はフィンランドでは一年で最も暗い季節です。明るい時間はフィンランドの南の地方で5-6時間だけです。このためにクリスマスが近づくと電気のろうそくとイルミネーションを家庭でも町でも飾ります。多くの町でクリスマス・ストリートのイルミネーション点灯のイベントがあります。これは大きなイベントで大勢の人が集まります。イルミネーションが点灯される通りは町の一番にぎやかな通りで、明かりはとてもはなやかです。町のあちらこちらできれいなクリスマスの飾りも見られます。私たちが住んでいたトゥルクという町はクリスマスのイルミネーションやクリスマスの雰囲気が有名でクリスマス・タウンとも呼ばれます。ちょうど1週間前にトゥルク大聖堂の前に高さ22メートルのクリスマス・ツリーが立てられてライトがつけられました。沢山の人たちが見に集まってきました。ランプは全部で720個あるというので全部いっぺんにつけた時、きっときれいだったでしょう。この写真をよく見ると、クリスマス・ツリーのてっぺんに星が輝いています。星はクリスマスの飾り物の一つで、クリスマス・ツリーの他に家の窓にもよく飾られます。星はクリスマスの飾り物として大きな意味があります。それはどんな意味でしょうか?
星は、世界で初めてのクリスマスの出来事に深い関係があります。初めてのクリスマスはいつだったでしょうか?それは神様のひとり子であるイエス様が誕生した時です。クリスマスはそこから始まったのです。
救世主の誕生は旧約聖書にも預言されていました。それで多くの人々はこのことが起こることを待ちのそんでいました。この初めてのクリスマスの少し前に遠い東の国の占星術の学者たちが不思議な輝きをする星を確認しました。彼らはこれを新しい王様の誕生の印と考え、今のイスラエルの地に旅をして、エルサレムまでやってきました。そこで、その時王だったヘロデに「新しく王になるためにお生まれになった方はどこにおられますか。私たちは東方でその星を見たので拝みに来ました」と言いました。ヘロデ王はとても驚き、自分の地位が危なくなると心配しました。ヘロデ王は旧約聖書の専門家たちを集めて預言について聞きました。すると彼らは、救世主はユダヤのベツレヘムに誕生するという預言があることを教えました。ヘロデ王は東方の学者たちを呼んで、その子供を見つけたら知らせるようにと言いました。それはその子を殺すためでした。学者たちはそのことを知らずに出発しました。すると、東方で見た星が先立つように見え、それを目指していくとイエス様がお生まれになったベツレヘムの馬小屋に着きました。学者たちが中に入ると、イエス様は母マリアの腕に抱かれて安心そうに眠っていました。学者たちは世の救い主となる方が王様のようにお城で生まれるのではなく、馬小屋で生まれたことに驚きましたが、旧約聖書の預言や不思議な星の導きがあったので、神のみ心を知ることが出来ました。
クリスマスに飾られる星は、私たちにこの出来事を思い出させてくれます。この出来事は2000年たった今の私たちにも大きな意味があります。私たちも世界で初めてのクリスマスにお生まれになったイエス様のもとに導かれることが出来ます。どのようにして出来るでしょうか?それは聖書の御言葉を聞いたり読んだりする時です。聖書の御言葉は私たちにはベツレヘムの星と同じ役割を果たします。聖書を読むと、イエス様はこの世の全ての人々の救い主としてお生まれになったことが分かります。このメッセージを受け入れる時、クリスマスの本当の喜びを得られます。クリスマス料理やイルミネーションや星の飾りはクリスマスの雰囲気のために大切なものですが、クリスマスの季節が終われば片つけたりしてなくなります。しかし、聖書の御言葉は季節に関係なく私たちに喜びと感謝の気持ちを与えてくれます。
交わりの食事のあと前回からの続きで「ローマ信徒への手紙」8章18~38節までを学びました。神の霊を注がれたクリスチャン、神の国を相続する神の子・・・・いろいろと難解であるけれど深い教えがあることを吉村先生は丁寧に解説してくださいました。
アドベント初日の日です。教会もすっかりクリスマスの飾りつけも済み降誕の日を待ち望んでいます。幾つのなっても待ち望むということは楽しいものですね。
穏やかな気候の土曜日、早稲田に移転しての一回目の「スオミ教会家庭料理クラブ」は、人気の高いプッラを作りました。
最初にお祈りをしてスタートです。計量をして生地作り、お子さんの参加もあり、テーブルの回りは、笑い声の聞こえる楽しい雰囲気で、作業が進みます。発酵を待つ間、ポテトサラダ作りもしました。発酵のすんだ生地は、シナモンロール、ブルーベリープッラ、バタープッラと三種類のプッラです、フキンをかけて二回目の発酵を待ちました。
発酵もすみ、次々焼き上がるプッラはスパイスと甘いかおりで、試食会は美味しい時間になりました。
パイビ先生からは、プッラの歴史やフィンランド人のプッラへの思いや香り、聖書の一節も聞かせていただき、香りについてのお話も聞かせて頂きました。
参加の皆様お疲れ様でした。
12月はクリスマスらしいメニューを用意しています。
プッラは、フィンランドでは昔からコーヒーと一緒に食べる菓子パンです。今日、皆さんと一緒に作ったプッラは、フィンランドの家庭でもよく作られるものです。プッラ作りで楽しみなことは、同じ生地からいろんな種類のプッラが作れることです。
フィンランドでプッラを作り始めたのは本当はそんなに昔のことではありませんでした。1800年くらいまで小麦はフィンランドで育てられるものではなく、輸入されていました。そのため白いパンはあまり作られませんでした。1850年頃から、初めは白いパン、その後1870年頃からプッラも作られ始めました。私のお祖母さんの時代のプッラは、今日作ったものみたいに多くの材料を使わず、ただ生地に砂糖とバターを少なく入れただけで、シナモンも使わない簡単な菓子パンが普通でした。その時代には、菓子パンは毎日食べるおやつではなく、クリスマスとかイースターとか夏至祭のようなお祝いの時しか出しませんでした。形も大体決まっていて、このような細長い編んだものが普通でした。細長い編んだ菓子パンを薄く切ってコーヒーと一緒に食べたのです。
時代は変わって、今では菓子パンは毎日のおやつでコーヒーと一緒に食べられるようになって、ほとんどの家庭で毎週菓子パンを焼くようになりました。色んな形や味のものも作れるようになって、どんどん新しい名前のプッラも出てきました。フィンランドの菓子パンの中で最も人気があるのは、コルワプースティです。それは菓子パンの王とも言われます。
現在のフィンランドの家庭では、奥さんたちも仕事に通うので、お菓子パンは毎週作るものではなくなりました。それで家庭でプッラを作ると、お店で買うよりも美味しいことがよくわかるようになりました。フィンランド人にとって、焼きあがったばかりの温かいプッラを冷たい牛乳と一緒に味わうのは、とても大きな楽しみです。また、家庭でプッラを作る習慣があると、それは子供たちが大きくなっても忘れられない大切な思い出になります。ほとんどのフィンランド人は、自分のお母さんが作ったプッラが思い出の中にあります。フィンランド人に一番美味しいプッラを作るのはだれ?と聞くと、きっと自分のお母さんと言うでしょう。フィンランド人の子供たちは外から家に帰ると、プッラの香りが外まで拡がっているのに気づいて、お母さんがプッラを焼いているとわかります。それは大きくなっても良い思い出として残ります。プッラの香りは、フィンランド人にとって子供時代の香りとも言われるくらいです。フィンランドでプッラを作ることと、そこから漂う香りは世代から世代へ伝わっていくものと言えます。
このようにプッラの香りは、フィンランド人にとって子供時代に母親が作ったことを思い出させます。多くの人たちにとって、香りは良い思い出と結びついています。皆さんはそのような思い出の香りがありますか?聖書の御言葉には良い香りがあると言われます。パウロは「コリントの信徒への手紙」の中で次のように述べています。「神に感謝します。私たちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、私たちを通じていたるところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。」「コリントの信徒への手紙」2章14節です。 この箇所でパウロはキリストの香りについて語っています。キリストの香りとは、どこから出る、どんな香りでしょうか?それは、聖書の御言葉から出る良い香りです。聖書を読むと、神様の愛がイエス・キリストを通して実現したことが分かります。天の神様は私たち人間を罪の汚れから救うためにご自分のひとり子イエス様をこの世に送られました。私たち人間は罪を持つため神様の御心に従うことが出来きません。それで、私たちが受けるべき罰を代わりにイエス様に受けさせて十字架の上で死なせました。さらに、神様は一度死んだイエス様を復活させました。神様は私たち人間が神様のもとに立ち返ることができるように、これらのことを成し遂げたのです。ここに神様の私たちに対する愛があります。私たちがイエス様を受け入れれば、神様は私たちに新しい命を与えて下さいます。それは、この世が終わっても次の世に続いていく永遠の命です。パウロが語ったキリストの香りは、この永遠の命から漂ってくるのです。
このようにキリストの香りとは、イエス様を通して与えられる新しい命のことです。聖書を読んだり、神様のことを聞くと、キリストの良い香りは私たちの心の中に入って、神様に対する信頼と信仰を強めます。私たちも同じ香りを持つようになります。
プッラの香りや他のいろんな良い香りは、私たちに良い思い出を与えてくれます。しかしイエス様の香りは思い出の香りではなく、これからの新しい命を与える香りです。この香りを持つことで前に進んでいくことができます。
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.
今日は全聖徒主日です。毎年お教えしていますが、キリスト教会では古くから11月1日を、キリスト信仰の故に命を落とした殉教者を聖徒とか聖人として覚える日としてきました。加えて11月2日を、キリスト信仰を抱いて亡くなった人を覚える日としてきました。ラテン語で、殉教者を覚える日はFestum omnium sanctorum、信仰者を覚える日はCommemoratio omnium fidelium defunctorumと呼ばれてきました。フィンランドでは、これら2つを合わせて11月最初の土曜日を「全聖徒の日」として両者を覚える日にしています。
日本のルター派教会のカレンダーでは11月1日が「全聖徒の日」と定められ、今年はこの間の金曜日でした。それに近い主日が「全聖徒主日」となり、今日11月3日がそれです。「全聖徒の日」に11月1日を選んでいるところを見ると、ラテン語の殉教者中心の伝統に立っているようにみえます。それでも多くの教会では私たちのもとを旅立った信仰の兄弟姉妹の遺影を飾ることが行われています。それで、フィンランドのように殉教者と信仰者両方を覚える日として定着しているのではないかと思います。
ここで、亡くなった方を「覚える」ということはどういうことかを注意しなければなりません。というのは、こうして遺影を飾っていると、さも亡くなった方が今見えない形で私たちと一緒に礼拝を守っているかのような感覚を持たれる方がいらっしゃるかもしれないからです。ルターが教えていますが、人は死ぬと、この世が終わりを告げて死者の復活が起きる日までは、神のみぞ知る場所にいて静かに眠ります。この世の終わりと死者の復活の日が来たら目覚めさせられて、神の目に相応しいとされた者は栄光に輝く復活の体を着せられて、天の御国の祝宴に迎え入れられます。それなので、復活の日まではただ眠るだけです。イエス様も、死んだ者を蘇らせる奇跡を行った時、「この者は死んではいない。眠っているだけだ」と言って蘇らせました(マルコ5章39節等共観箇所、ヨハネ11章11節)。
まことにキリスト信仰にとって、「生きる」とはこの世で肉の体を着て生きる日々だけではありません。復活の日に神の栄光に輝く体を着て生きる日々もあるのです。これら両方を合わせて生きることがキリスト信仰の「生きる」です。それから考えると、この世から去る「死」はまだ本当の死ではないことになります。本当の「死」は、この世で肉の体を着て生きたら、それで終わりということで、その後は輝く体を着せられることもなく祝宴に迎え入れられることもないことです。それでは、どうなるのか?本日の福音書の箇所のイエス様の言葉を借りれば、「枝のように外に投げ捨てられ枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう」(ヨハネ15章6節)ということです(後注1)。
このように、亡くなった方は、復活の日まで安らかに眠っているとすれば、私たちを見守るとか導くとか助言するということはありません。私たちを見守り、導き、助言をするのは、私たちを造られて私たちに大事な命と人生を与えて下さった造り主の神以外にはいません。今見えない形で、礼拝を守るために集まった私たちと一緒にいるのは、他でもないこの神です。
そういうわけで、亡くなった方を「覚える」というのは、その方と共に過ごした日々を何ものにも換えがたい大切なものとして心に抱くことです。そして、そのような日々とそのような方を与えて下さった神に絶えず感謝し、御心でしたら復活の日に再会できますように、と神に祈ることです。このように過去の思い出を大切にして、それを神に感謝して将来の希望の日のことを神に委ねて今日を生きていく、これがこの世を生きるキリスト信仰者の亡くなった方との関わり方です。
昨年、日本福音ルーテル教会の東海教区の信徒大会で復活の信仰について講演した時、参加者から「全聖徒主日」を祝ってもいいのか、という質問がありました。私は、以上述べたことをわきまえて、亡くなった方ではなく父なるみ神を拝めば問題ないと答えた次第です(後注2)。
全聖徒主日の意味を考えると、復活や終末というキリスト教の死生観の核心に触れることになると言えます。死生観という言葉には「死」と「生」の両方が含まれています。生を考える時、死というものを切り離さないで考えるということです。先ほど、キリスト信仰においてはこの世を去る死は一時の眠りに入る段階であって、本当の死はその後に問題になってくると申しました。また、人間にはこの世の肉の体を持って生きる日々だけではなく、神の栄光に輝く復活の体を持って生きられる可能性があることも申しました。キリスト信仰においては「本当に生きる」というのは、この二つの生きることを総合したものだとも。「本当に生きること」と「本当に死ぬこと」の二つのことについて、本日の日課の個所は三つとも深めてくれます。ただ、時間の関係で解き明かしはエゼキエル書37章とローマ6章が中心になることをご了承ください。
2.
本日のエゼキエル書の箇所にある出来事は、紀元前500年以上も前のことです。かつて神に選ばれた民として誇らしげなイスラエルの民でしたが、次第に指導者も国民もこぞって神の意思に背く生き方をし続け、その結果ついに神から罰として強大なバビロン帝国を遣わされてしまい、その攻撃を受けて滅びてしまいました。国の主だった者たちは捕虜として異国の地バビロンに連行されてしまいました。世界史の教科書の古代オリエント史のところに「バビロン捕囚」として登場する有名な歴史的な事件です。連れて行かれた人たちの中に預言者エゼキエルがいました。本日の箇所は、エゼキエルが神の霊に導かれてある谷に連れて行かれ、そこに無数の枯れた骨を見る。ところが、それに肉や皮膚がついて人間として生き返り出す光景を見せつけられたという出来事です。なんだかハロウィーン向けの話みたいです。渋谷の交差点に集まる人たちは興味を持つでしょうか?実はこのエゼキエルの出来事には、紀元前500年代当時を生きる人々にとって有する意味と、歴史を越えて現代を生きる私たちにとって有する意味の二つの意味があります。当時の人々にとって有する意味がわかると、私たちにとって有する意味もわかってきます。これから、そのことを見ていきましょう。
37章11節を見ると、天地創造の神はなぜエゼキエルにこのような光景を見せたのか、その理由が言われています。この大量の枯れた骨はバビロン捕囚の憂き目にあったイスラエルの民を象徴している。国滅びて自分たちは荒野に放置された枯れた骨そのものだ、希望はなく消滅するしかない、などと嘆いている。それに対して神は、否、お前たちは必ず祖国に帰還できる、と約束する。神は、まさに約束を本当に実現する力があることを示すために、枯れた骨が生身の人間になって生き返る様子をエゼキエルに見せたのです。ここまで見せつけられたら、神の約束を信じないわけにはいかないでしょう。
このように、この光景は国が滅びてしまった民が復興するのだと確信させるために見せつけられたのでした。同時にここには、人間というものは神に造られた被造物であるという、聖書の人間観がよく出ています。そこにも注意しなければなりません。8節に言われるように、骨に肉や皮膚がついてもまだ生きてはいませんでした。なぜなら、霊がなかったからです。神は霊を「与える」と言います。新共同訳では「吹き込む」ですが、ここではヘブライ語の原文に即して「与える」にします(後注3)。神は霊を次のように与えました。エゼキエルに「霊に預言せよ」と命じ、霊に言うべき言葉を指示します。その内容は霊が風のように四方から来てこれらの肉の塊に吹きつけるということです。(「霊に預言せよ」というのは(הנבא)、辞書によれば「預言者として霊に語れ、命じろ」です。つまり「預言者の権威を持って命じろ」ということです。)その通りに言うと、横たわっていた肉の塊は霊を受けて生き返ります。ここで霊が風のように言われますが、これはヘブライ語の言葉רוחが「霊」と「風」の両方を意味することによります。これは絶妙な言葉だと思います。風は空気の移動ですので目には見えません。木の枝や葉がざわざわなって風の力が働いたのを見て、吹いたことがわかります。霊も人間の目には見えません。その力が働いた結果を見ることしかできません。このことは、イエス様もヨハネ3章8節の有名な「風は思いのままに吹く」と述べているところで教えています。
以上から、人間が生きるためには神が与える霊を受けなければ生きられず、霊がなければ肉体はあってもただの塊にしかすぎないというのが聖書の立場であることが明らかになります。ここで一つ付け加えますと、霊がなければ動かないのは肉体だけではありません。人間には手足、目耳口、内臓や血管のような体の部分や器官の他に、感情や気持ちを生み出す「心」もあります。「心臓」と聞けば、それは血液を送り出すポンプのことを言うとわかります。血液循環に何か問題があって痛みを感じれば、「心臓」が痛いと言います。その時「心」が痛いとは言いません。「心」が痛いと言ったら、ジェスチャーとして心臓の部分に手をあてるかもしれませんが、それは気持ちや感情の問題で血液循環の問題ではありません。そういう心や精神の部分も、肉体と同じように、霊を受けないと作動しないのです。このように、人間が神に造られたというのは、肉体や心や精神の部分を造っていただいただけでなく、最後の仕上げとして霊を与えて下さったということです。
さて、霊とは人間を肉体や心や精神を持って生きるものにする決め手ということがわかりました。ところが、本日の箇所をよく見るともう一つ別の霊があることに注意しなければなりません。実は、これはヘブライ語の原文を見ないと気づくことができません。原文に即して言うと、14節で神は「また、わたしがお前たちに私の霊を与えると、お前たちは生きる」と言われます。新共同訳では「吹き込む」ですが、ここも原文は「与える」です。それよりも重要なことは、新共同訳では単に「霊を吹き込む」と言っていますが、原文では「私の」霊を与えると言っていて、与えるのが「神の霊」であることがはっきりしています。14節の前までは、枯れた骨の生き返りに与えられる「霊」は全部、「私の」はなく単に「霊」だけです。何が違うのか?14節で焦点になっていることを見るとわかります。それは枯れた骨の生き返りではなくて、イスラエルの民の祖国帰還です。骨肉は霊を与えられて生き返ったわけですが、民は「神の霊」を与えられて帰還するというのです。そうなると、二つの異なる霊があることになります。両方とも神から与えられるものですが、一つは人間を生きるものにする時に与えられる霊、もう一つはイスラエルの民が祖国帰還と復興を遂げる時に与えられる神の霊です。神が与えられる霊には二つあるということは、どう理解したらよいのでしょうか?
3.
理解の鍵は、使徒パウロが「ローマの信徒への手紙」8章14‐16節で次のように教えているところにあります。以前お教えしたことがありますが、少しおさらいしてみましょう。
「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になってあかしして下さいます。」
いろんな霊が出て来るので、こんがらがってしまいますが、解きほぐしていきましょう。3つの霊があります。まず「神の霊」、それは人間を「神の子とする霊」とも言われます。それから、人間を「奴隷として再び恐れに陥れる霊」、そして、「わたしたちの霊」というのもあり、それは「神の霊」と一緒になって私たちが神の子であることを証しすると言われます。
まず、「神の霊」について。これは、父、御子、御霊の三位一体の神の御霊つまり聖霊を指します。人間は、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、この神の霊、聖霊を受けます。聖霊を受ける受けないで何が違ってくるかと言うと、こういうことです。もし人がイエス様のことを現在のイスラエルがある地域で2000年前に活動した歴史的人物だと言ったら、その人には聖霊は働いていません。ところが、イエス様のことを歴史的人物のみならず、彼のゴルゴタの十字架の死や死からの復活というのは現代を生きる自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様は自分の救い主だと信じるというようになれば、それは聖霊が働いたからということになります。
これに対して「人を奴隷として再び恐れに陥れる霊」とは、人間に罪を吹き込んで、人間を神聖な神から切り離して神罰を受ける存在にしてしまった悪魔のことです。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は、この霊から守られています。これが、本日の使徒書の日課「ローマの信徒への手紙」6章の中で使徒パウロが、洗礼を受けた者は「罪に対して死んでいる」と言っていることなのです(2節)。「罪に対して死んでいる」と言うのはどういうことか?当教会の聖書研究でローマ書を学んでいますが、既に終わったところですが、これもおさらいしておきましょう。
パウロは5章の終わりで次のように述べました。神の意思を表す律法がある。律法は、人間が罪を持つ存在であることを暴露する。しかし、神のひとり子のイエス様が十字架の上で神罰を受けることで、人間の罪を全て人間に代わって神に対して償って下さった。だからイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、罪の償いを純白な衣のように頭から被せられて、神から罪を赦された者に見なされるようになった。つまり罪の赦しが神からの「お恵み」として与えられた。それなので、律法を通して罪がますます暴露されようとも、罪の赦しのお恵みは常にそれを上回ってある。以前は罪が人間を永遠の死に陥れていたが、イエス様の十字架と復活の出来事の後は罪の赦しのお恵みが人間を永遠の命に導くようになった。
そのように教えると今度は、罪の赦しがお恵みとしてあるのなら別に罪にとどまってもいいじゃないか、どうせ赦されるのだから、などと言う人も出てくる。パウロは、勘違いするな!と反論します。ここで、「我々キリスト信仰者は罪に対して死んでしまったので、罪にとどまって生きるなど不可能なのだ」と言って、ここで「罪に対して死んでいる」ということが出てきます。さあ、どういうことでしょうか?パウロは、そのことが洗礼の時に起きたと言います。どういうふうに起きたかと言うと、人間は洗礼を受けることで、イエス様の死に結びつけられると同時に彼の復活にも結びつけられる。つまり、洗礼にはイエス様の十字架の死と死からの復活が表裏一体としてあって、受けた人はこの二つに結びつけられる。イエス様の死に結びつけられると、我々の内にある罪に結びつく古い人間が十字架につけられて無力化する。そうなると、我々は罪にお仕えする生き方から離脱する。さらにイエス様は死から復活されたので、もう死は彼に力を及ぼせない。死が力を及ぼせないというのは、人間を死に陥れようとする罪も力を失ったということだ。イエス様が十字架で死なれた時、それは罪と死が彼に勝ったのではなく、事実は全く逆で、イエス様の死は罪と死が壊滅的な打撃を受ける出来事であったのだ。日本語訳で「罪に対して死なれた」というのは、このように罪に対して壊滅的な打撃を与えて死なれたということです(後注4)。そのことが十字架という一度限りの出来事をもって未来永劫にわたって起きたというのです。さてイエス様は罪に対して壊滅的な打撃を与えて死なれた後、復活されました。それからは生きることは、神の栄光を現わす器として生きることになります。このように、罪に壊滅的な打撃を与えて神の栄光を現わす器として生きることは、イエス様だけでなく、洗礼を受けたキリスト信仰者にもそのまま当てはまる、とパウロは教えます。
先ほどのローマ8章に戻ります。ここでのパウロの教えで興味深いのは、キリスト信仰者の内には二種類の霊があるということです。一つは先ほど申し上げた神の霊、聖霊ですが、もう一つは、信仰者が神の子であることを聖霊と一緒に証する「わたしたちの霊」です。これは、私たちが肉体や心や精神を持った生き物になるために神から与えられる霊です。キリスト信仰者もそうでない者も、生き物として持っていなければならない、神から与えられた霊です。それがキリスト信仰者になると、聖霊がその上に被せられるように与えられます。聖霊がなくてただの霊だけでも、もちろん生きられます。肉体や心や精神を用いた活動を行うことが出来ます。ただ、イエス様が歴史上の人物とは知ってはいても、自分の救い主にはなっていません。ひとり子を犠牲にすることをいとわないくらい人間のことを思って下さった神を慈愛に満ちた父であるということもわかりません。神がひとり子イエス様を犠牲にしてまでもたらしてくれた罪の赦しもまだ受け取っておらず、罪が償われたという解放の喜びや安堵もありません。さらに、人間を罪の支配下に留めたがる悪魔の霊に対して不注意で隙だらけになってしまいます。
4.
以上、人間は生き者になるために天地創造の神から「霊」を与えられなければならないこと、さらに神のことを慈愛に満ちた父親と抱ける「神の子」となるためには「神の霊」、「聖霊」が与えられなければならないことが明らかになりました。この二つの異なる霊は、エゼキエル書の二つの霊に重なります。37章の1節から10節までは、枯れた骨が生身の人間に生き返ることを言っていました。そのために神から与えられる霊が必要とされました。この光景を見せられたエゼキエルは、枯れた骨みたいになったイスラエルの民ではあるが、神はこれを生き返らせて下さる、つまり祖国に帰還させて復興させて下さると確信できました。そして、それは実際に紀元前538年に歴史的出来事として実現しました。37章の14節で「私の霊」として出て来るのは、祖国に帰還するイスラエルの民が受ける特別な霊を示しています。ここで注意しなければならないことは、実際に祖国に帰還したのは、旧約聖書のネヘミア記やエズラ記を見てもわかるように生身の人たちです。枯れた骨に肉と皮膚がついて霊が与えられて生き返った者たちが帰還したのではありません。実際に帰還した人たちはもともと生き者でしたので、生きるための霊は既に持っていました。そういうわけで、帰還の時に与えられる「私の霊」、神の霊というのは、生き物にする霊ではなくて、「神の子」にする聖霊を指します。
さて、歴史的事実としてイスラエルの民は祖国帰還を果たしエルサレムの町と神殿を再建しました。しかし、それらを本当に聖霊を受けて神の子となって果たしたのかというと、そこには複雑な問題がありました。聖霊を受けて神の子となって祖国に帰還・復興するというのがエゼキエルの預言でした。ところが帰還と復興は遂げても、民は神の意思に沿う生き方が出来ていないということが次第に明らかになってきました。国民は復興したとは言っても、国は相変わらずペルシャ帝国、アレキサンダー帝国そしてローマ帝国に支配され続けていました。イザヤ書2章にあるように異邦人がこぞって天地創造の神を拝みにエルサレムに上ってくるという預言からほど遠い現実がありました。そうなると、民に聖霊が与えられて神の子とされるのはまだ実現していないのではないか?そういう疑問が生まれてもおかしくはありません。預言書に言われる祖国帰還と復興というものも実は別のものを指し、それはまだ実現していないのではないか?そう考えられるようになります。つまり、預言はまだ未完だという理解です。
どうしてこのようなことになったかと言うと、神は天地創造の後に起きてしまった人間の罪の問題の解決を図ることを第一に考えていたのでした。一民族の歴史的復興でそれが果たされるとは考えていませんでした。問題は全人類にかかわる問題です。一民族の復興で解決される類のものではありません。神としては全人類の問題の解決を視野に入れて預言者に言葉を話しますが、特定の歴史状況の中で話され、またそれを聞いた預言者も自分の置かれた状況を手掛かりにしてしか理解できません。その結果、イスラエルの民の祖国帰還や復興という一民族の歴史的出来事は、預言実現そのものではなく、なにかそのミニチュアないし模型のようなものになります。
全人類に関わる罪の問題が解決したのは、イエス様が十字架の死をもって人間を罪の支配から解放した時、そして死から復活されることで永遠の命への扉を開いた時でした。そういうわけでエゼキエルの預言は実は、罪の支配下にあって枯れた骨同然の人間一般が、イエス様の十字架と復活のおかげで罪の支配から解放されて聖霊を与えられて神の子とされて「新しい命に生きる」(ローマ6章4節)ようになることを見通した預言だったのです。さらに「墓が開かれ、墓から引き上げられる」(エゼキエル37章12ー13節)というのは、神の子となった者たちがまさに復活の体を着せられて、神の御国に「帰還」するという、まさに復活の日をも見通す預言だったのです。このように旧約聖書の預言を見る時はいつも、預言が一旦実現したかに見える歴史的事実だけに注目するのではなく、イエス様の十字架と復活の出来事そして将来起こる復活の出来事にこそ真の実現があるということを忘れてはいけません。
(後注1)礼拝後のコーヒータイムの交わりの時に信徒から次のような質問がありました。「地獄の火に投げ込まれたら、そのまま燃えて消滅するのか、それとも永遠に燃やされ続けるのか?」私は、永遠に燃やされる、と答えました。それは聖書の随所から明らかだからです(黙示録20章10節と14節、14章10~11節、ダニエル12章2節、マタイ25章46節)。すると信徒は、「永遠に燃やされるのなら、その者は死んでおらず生きているのでは?生きているから地獄の苦しみを永遠に味わうことになるのでは?だから、その者に関しては、生きることはこの世の生で終わるということにはならなないのでは?」
それに対して私は、イエス様の言葉の使い方を見ると「生きる」というのは「永遠の命」に結びつけて言われる、それで彼の用法に従えば地獄で永遠に焼かれる状態を「生きる」と呼ぶことはできない、とお答えしました。その時、参照したのはヨハネ11章25~26節のイエス様の言葉でした。「私は復活であり命である。私を信じる者は、たとえ死んでも生きることになる。また、生きて私を信じる者は永遠に死ぬことはない。」イエス様を信じる者は死んでも生きることになるというのは、信じない者は死んだら生きることにならない、ということです。たとえ、永遠に地獄の火で焼かれても生きることにならないのです。生きてイエス様を信じる者は永遠に死ぬことはないというのも、同じように考えることが出来ます。永遠の死とは、地獄の炎で焼かれても死んでいるから何も感じないというのではなく、永遠に苦痛を味わうということです。それじゃ、やっぱり生きているんだ、と言われるかもしれませんが、イエス様の言葉遣いはそうではないということです。「生きる」はあくまで「永遠の命」に結びつけて言われます。
- このようにスオミ教会は、信徒の方々が説教について鋭い質問をされるところですので、説教者は説教者の地位に甘んじることなく緊張感を持って説教を準備することができます。
(後注2)「復活信仰と日本的霊性の挑戦」(2018年11月2日、於日本福音ルーテル名古屋希望教会)https://www.bibletoolbox.net/ja/seisho/fukkatsushinkou
(後注3)霊は吹き込まれるのか、与えられるのか、日本語の背後にあるヘブライ語を見てみます。
5節「見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む(ヘブライ語は「もたらす、来させる」)。
6節「わたしは、お前たちの上に筋をおき、(…..)霊を吹き込む(ヘブライ語は「与える」)。」
9節「霊よ、四方から吹き来たれ(ヘブライ語は「来たれ」)。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ(ここはヘブライ語も「吹きつけよ」)。」
10節「わたしは命じられたように預言した。すると、霊が彼らの中に入り(ヘブライ語も「入り」)。」
14節「また、わたしはお前たちの中に霊を吹き込むと(ヘブライ語は「与える」)。
(後注4)大学のギリシャ語新約読解の授業で先生が、ここの与格はdativus incommodi(~にとって不利になるように)であるとよく強調されたものでした。
今日は初めて参加されたフインランドからのゲストを交えてパイヴィ先生のカレーを美味しくいただきながら歓談のひと時を過ごしました。