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2021年11月21日 聖霊降臨後最終主日礼拝説教(スオミ教会)
聖書箇所:ヨハネによる福音書18章33〜37節
お久しぶりです。もう何年振りでしょうか。スオミ教会がこの地に移転した時には来させて頂きましたが、まだこの会堂ではお話ししたことがなかったと思います。
今日は、聖霊降臨後最終主日です。教会の暦としては、今年一年の最後の主日となる。ですので、聖書のテキストも、終末…、つまり世界の終わりに関わる箇所が取り上げられていました(毎年のことですが)。先週もそうでした。マルコ福音書にある「終末の徴」についてでした。そこでお話しした一部を、ここスオミ教会でもまずはじめにお話ししたいと思います。
言わずと知れたこのコロナ禍で、私たちは大変な生活を強いられました。もちろん、そうです。未曾有の出来事。多くの方々が職を失い、精神的にも追い詰められてしまいました。そのこと自体を決して軽視するつもりはありませんが、私の中ではどうしてもこういった問いが生まれてならなかったのです。このコロナ禍だけなのだろうか、と。ある方の一言が、そんな私の問いを後押ししてくれたようにも思います。「私は全然危機感を抱いていない。戦争はこんなものではなかった」、そう戦争を体験された方が告げられたからです。
繰り返しますが、決して軽視するつもりはありません。本当に大変な方々が多くおられるのも事実です。そういった方々に対するセーフティーネットをもっともっと拡充していく必要があるのではないか、それこそが政府・政治の役割ではないか、とも思う。私たちにも出来ることがあるのではないか、とも問われる。反省も無力さも感じる。そうです。本当にそうです。しかし、私自身は、どうしてももう一つのことに思いが向かうのです。私たちは「終末論」の信仰をどうも見失ってしまっていたのではないか。この「終末論」の信仰を伝えるのを怠ってしまっていたのではないかと、今更ながら反省させられてもいるのです。
「終末論」とは、世界の終わりのことです。この世界はやがて終わりを迎える。そこに向かって、戦争、天変地異、飢饉、迫害などの徴が現れる。そう聖書は語ります。確かにそれは、あまり触れたくないところです。しかし、「終末論」とは、それだけを伝えるのではありません。新しい世界の到来を告げるものです。その新しき世界とは、まさに愛なる神さまが御支配されておられる世界。救いの完成の時。死も苦しみも悩みも痛みもなく、全てから解き放たれて、祝福だけが満ち溢れている世界。そう、この世の労苦が報われる世界です。
現代社会の課題は、希望が見えなくなっているところです。非正規雇用は非正規雇用のまま、どうせ未来などない。こんな給料じゃ家庭なんか持てない。子どもなんて育てられない。どうせ先が見えているなら、何も変わらないなら生き続ける意味などあるのだろうか。そんな世界。気持ちが分からない訳じゃない。しかし、最初にお話した問いが私の中に浮かんでくるのです。このコロナ禍だけなのだろうか。人類の歴史とは、ずっとそうだったのではなかったか。むしろ、もっと過酷な世界を生きてきたのではなかったか。では、それらの人々は希望を持つことができなかったのだろうか。いいや、違う。たとえ、今は、この世では恵まれない人生だとしても、満たされない人生だとしても、不遇の人生だとしても、必ず救ってくださる方が、報いてくださる方がいてくださる。この私を、幸いな世界へと招き入れてくださる方がいてくださる。だから、耐えていける。我慢していける。今を生きていける。そういった希望があったのではないか、と思うのです。
もちろん、この社会はもっと改善されるべきです。弱者に優しい世界へと変革されるべきです。しかし、いくら社会が変わっても、どうしても恵まれない人は生まれてしまうのだと思う。だからこそ、その視点が、その信仰が今でも必要なのだと思えてならないのです。新しき世界を見つめる目が。今の労苦が必ず報われるという信仰が。
今朝の福音書で、イエスさまはこう語られました。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない」。ここについては、さまざまな理解の仕方があるでしょうが、要は、この世界であっても、あるいは新しき世界であっても、イエスさまの国は、この世とは全く一線を画するということでしょう。イエスさまの国は、この世とは相容れないもの。なぜならば、それは神さまの国でもあるからです。神さまが御支配されている世界。この私たちの世界は「武力」に代表されるように、弱肉強食の世界です。いくら社会が変革し、制度が変わっても弱者の上に強者が君臨するといった図式は変わらないのです。そこに、現代社会の歪みも起こっている。しかし、イエスさまが目指される国は、決してそうではないのです。イエスさまが目指される国は、99匹をたとえ野に残しておいても、見失われた1匹を探し求められる世界です。一人一人が真に尊重され、愛される世界です。だから、必ず報われるのです。たとえ、どんな些細なことであったとしても。たったいっぱいの水を差し出したに過ぎないとしても。
そのイエスさまはこうも語られる。「わたしは真理について証しするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」。ヨハネ福音書では、この「真理」という言葉がよく出てきます。それほど重視している、ということでしょう。では、「真理」とは何でしょうか。カトリックの雨宮神父はこのように語っておられました。「聖書にとって『真理』とは、『いつでも、どこでも通用する妥当な知識や認識』(おそらく、これが日本人が抱く「真理」の意味ということだと思いますが)というよりは、『堅固で、信頼ができ、永続するもの』を指します」。「真理」とは堅固・確かで、信頼ができ、永続するもの、つまり、イエスさまそのものであり、福音ということです。
先ほど、ヨハネ福音書ではこの「真理」という言葉が多用されていると言いましたが、皆さんはこの言葉も思い浮かべられたのではないでしょうか。ヨハネ14章6節「イエスは言われた。『わたしは道であり、真理であり、命である』」。ここでイエスさまは、ご自身で「わたしこそが真理である」と言っておられる訳です。しかし、注意していただきたいのは、この言葉には続きがある、ということです。「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と言われていることです。先ほどの「道」「真理」「命」はよく耳にしたり目にしたりしますが、個人的にはこの句が外されていることに大変違和感を感じています。ともかく、イエスさまはご自身のことを、神さまへと通じる道であり、真理であり、命なのだ、と告げておられる、ということです。そうです。イエスさまを通してでなければ、私たちは本当の神さまのお姿には出会えないのです。神さまのお姿がボケてしまうか、間違えてしまうか、だけです。
今日の福音書の箇所は、イエスさまが十字架にかかられる前の裁判の席でのことでした。つまり、「真理」である方がこれから十字架の上で死なれるのです。そして、三日目に復活なされる。それが、私たちを唯一神さまの御許へと導いてくださる「真理」である方なのです。この方が示される「終末」だからこそ希望が持てる。この方が約束してくださった新しい世界だからこそ待ち焦がれることができる。この方がご自身の身をもって明らかにしてくださったからこそ、私たちは忍耐していける。必ず報いられることを信じて励んでいける。現実の中をも生きていける。そうではないでしょうか。
私たちは、もう一度、苦難の中に生きた人々が仰ぎ望んだ希望の世界を見つめ直したいと思うのです。そして、この世界の中だけでは希望を見出せなくなってしまっておられる方々に、少しでもこの希望を届けていければと願わされています。
礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。
クリスマスの準備も済みました。
11月のスオミ教会・料理クラブは13日と18日の2回、両日とも秋の爽やかな陽気の中で開催しました。今回はフィンランドのカフェでもよく見かけるサーモンパイです。
初めに、いつものようにお祈りをしてスタート。まず、パイ生地を作ります。
それを冷蔵庫で寝かせている間、パイのトッピングを作ります。焼いたサーモンをほぐし、他のトッピングも準備します。ディルを細かく刻むと香りが漂い出来上がりがますます楽しみになります。パイ皿に生地を伸ばして、その上にサーモンをたっぷりのせてトッピングを流しこんだ後オーブンに入れます。オーブンからサーモン、生地、ディルの合わさった豊かな香りが広がりました。
焼き上がったパイを切ってお皿にサラダと一緒にのせてみんなで美味しく楽しく味わいました。そこでフィンランドのお魚と聖書に出てくる「漁師」についてお話がありました。
次回12月11日はもう待降節・アドベントの期間です。それでフィンランドのクリスマスのお菓子を作ります。
詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしております。
フィンランドは湖や川がたくさんある国です。湖や川の魚の種類は多く、魚釣りが好きな人も多いです。昔、魚釣りは趣味ではなく、食料を得るための仕事でした。それで、魚釣りはどの家庭でも行われ、魚は一番よく出されたおかずでした。
時代は変わって、魚は家で捕るものではなくなって店で買われるようになりました。その頃から海で捕れるいわしが食べられるようになりました。いわしは沢山捕れたので安く買えました。まだ冷蔵庫がない時代には、秋に家庭でいわしを沢山買って、塩づけにして保存して、冬中ずっと食べていました。私の子供の頃も家でいわしを塩づけにして保存して何か月も食べていました。残念なことに、現在いわしを食べるフィンランド人は少なくなり、一年に一人当たり300gだけ食べるそうです。近年トゥルクやヘルシンキでは秋になるといわしの市場が開かれるようになって、そこではいわしだけでなく他の魚で作った料理や保存食も売っています。このいわし市は、冬に向かうフィンランドの秋の大きなイベントになって沢山の人が訪れます。
今フィンランドではどんな魚がよく食べられるでしょうか?まず、湖や川で捕れる白身の魚がよく食べられます。海の魚ではいわしとニシンとサーモンがよく食べられますが、一番よく食べられるのはサーモンです。サーモンはフィンランドで養殖したものか、ノルウェーの海で捕ったものかのどちらかです。サーモンは昔は高価な魚だったのでクリスマスのようなお祝いの時にしか食べられませんでした。しかし、今では普段の日にもよく食べられるようになりました。サーモンを使った料理のなかで、サーモンスープが伝統的なものですが、オーブンやフライパンで焼いたり、スモークサーモンにしたり、生のものを塩漬けにしたりして食べます。
私は、日本のお店で売っている魚を見て、種類の多さにびっくりします。フィンランドの普通のお店で生で売っている魚の種類は少なく、いわしとサーモンとあと何か白身の魚が1種類くらいあるだけです。日本の方がフィンランドに旅行すると種類の少なさにきっとびっくりするでしょう。
さて、聖書の時代にも魚はよく食べられていて、漁師は普通の職業でした。今日はこれから聖書に出てくる漁師についてお話ししたいと思います。
ある日イエス様がゲネサレト湖という湖にやってくると、2人の漁師が舟からおりて、網を洗っているのを見かけました。そのとき、大勢の群衆がイエス様の教えを聞こうとして、彼の周りに集まって来ました。イエス様は漁師のシモン・ペテロの舟に乗って、少し岸から離れた場所まで行って、そこから岸辺にいる群衆に向かって神様について教えました。
話し終えてからイエス様はペテロに「舟を少し冲に漕いで、そこで網を下ろしてみなさい」と言われました。ペテロは、「先生、私たちは夜中苦労しましたが、何も捕れませんでした。しかしお言葉ですから、網を下ろしてみましょう」と答えました。ペテロは漁師なので魚のことはよく知っていました。もし夜魚が捕れなかったら、昼はもっと獲れない、と思ったでしょう。それでもペテロは、イエス様の教えをいつも聞いていてイエス様を尊敬していたので、言われた通りにしました。するとどうでしょう。信じられないことが起こりました。網が破れそうになるくらいに大量の魚がかかって、その重さでペテロの乗っている舟ともう一そうの舟は沈みそうになりました。
ペテロはこれを見て、どう思ったでしょうか?彼はイエス様の足元にひれ伏して、こう言ったのです。「主よ、私から離れてください。私は罪深いものです。」ペテロはお礼を言うどころか、こう言ったのです。どうしてでしょうか?この時ペテロは、今起こったことは神様の力で起きたと信じたのです。それで自分の前にいるこの方は神聖な神のみ子で、この方の前では自分など罪深い者にすぎない、とわかったのです。それで「私は罪深いものなので、どうか私から離れてください」と言ったのです。しかし、イエス様はペテロから離れないで、次のように言われました。「恐れることはない。これからは、あなたはこれからは、あなたは人間をとる漁師になる。」そこでペテロは舟を陸に上げて、イエス様は神様の子だから信頼して大丈夫な方だと信じて、全てを捨てて従って行きました。ペテロはイエス様の弟子の一人になったのです。
このようにペテロはイエス様と出会って、イエス様に従って行きました。私たちもイエス様と出会うことができます。それは、聖書のみ言葉を読んだり聞いたりする時にできるのです。聖書のみ言葉を読んだり聞いたりすると、私たちは神様のみ前では罪深いものであることがわかります。しかしイエス様は私たちから離れないで、一緒にいて下さるのです。どうしてでしょうか?それは、イエス様は私たち人間を救うためにこの世に来て下さったからです。私たちは神様の計画によって、天の神様のみもとに行くことが出来るようになります。それはどんな計画でしょうか?私たちが罰を受けないようにと、イエス様は私たちのかわりに十字架にかけられて死なれました。それから三日目に復活させられて天に昇られました。これが神様の計画です。神様はイエス様の十字架のおかけで私たち人間を許して下さるのです。このように神様の人間に対する愛は罪を赦す愛なのです。
イエス様はペトロだけでなく私たちにとっても信頼して大丈夫な方です。ペテロが見たような奇跡を私たちも見ることが出来るかどうかは分かりません。しかし、イエス様が十字架の業を受け入れてイエス様を救い主と信じると、神様のみもとに迎え入れてもらえるというのは確かなことです。イエス様は十字架の業を世界の全ての人々のために成し遂げて下さいました。それで私たちもそれを受け取ることが出来るのです。「あなた方をお招きになったなった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます。」テサロニケの信徒への第一の手紙5章24節です。イエス様は私たち一人一人を愛して下さり、ご自分に従ってついてくるように、と招いて下さいます。
フィンランドでは11月の最初の土曜日は「全聖徒の日」という国の祝日です。キリスト教の伝統に基づく祝日です。 キリスト教会では古くから11月1日をキリスト信仰のゆえに命を落とした殉教者を「聖徒」とか「聖人」と称して覚える日としてきました。加えて11月2日をキリスト信仰を抱いて亡くなった人を覚える日としてきました。フィンランドのルター派国教会では11月最初の土曜日が「全聖徒の日」と定められ、殉教者と信仰者双方を覚える日となっています。今年は昨日11月6日でした。
その日フィンランド人は何をするかと言うと、大方の人は教会の墓地にロウソクを持って行って火を灯します。風で消えないようにガラスの瓶に入っているロウソクです。日本ではお墓に花や何か贈り物を持っていくことを「供える」とか「供え物」と言います。フィンランドでも墓に花を飾るので、ああ、キリスト教徒も供え物をするんだな、と日本人は考えます。宗教は違っても人間の思いは同じなんだな、と。確かに表面上はそう見えますが、実はフィンランド人には「供える」という意識も感覚もありません。ただ飾るだけです。墓の前で手を合わせることもしないし、拝んだり、何かを唱えたり、または見えない誰かに何かを呟くこともしません。墓はあくまで家族の記念碑のようなものです。表面上の類似性の下には途方もない違いがあるのです。
どうしてそうなのかについては後ほどの説教の中でお話しします。
「全聖徒の日」にフィンランド全国の教会墓地は全てと言っていいほど墓の前にロウソクが灯されます。白夜の季節が終わった暗い晩秋の闇の中に浮かび上がる無数のともし火は、あたかも黙示録7章に登場する「白い衣を着けた大群衆」を思い起こさせます。これから歌います教会讃美歌496番「白雪おおえる」は、まさにその白く輝く大群衆について歌うものです。北欧ノルウェーの讃美歌で作曲家グリーグの編曲によるものです。
次回の手芸クラブはマクラメのテクニックを使ってクリスマスツリーを作ります。
前回の刺繍飾りや編み物ルームシューズの続きも行うことができます。
おしゃべりしながら楽しく作りましょう!
材料費 作るものによって500円-1000円
人数制限がありますので、ご注意ください。
お子さん連れの参加も歓迎です。
皆様のご参加をお待ちしています。
お問い合わせ、お申し込み moc.l1751750759iamg@1751750759arumi1751750759hsoy.1751750759iviap1751750759 03-6233-7109
日本福音ルーテルスオミ・ キリスト教会 東京都新宿区鶴巻町 511-4-106 www.suomikyoukai.org
この秋初めての手芸クラブが10月20日爽やかな陽気の中で開催されました。前回5月の開催から5ヵ月近く経ってしまいましたが、前回の参加者たちが参加されて長い空白を感じさせませんでした。
今回の作品は刺繍と編み物でした。刺繍は、春に始めたフィンランドのカレリア地方の伝統的な細かい刺繍の続きです。クロステージのテクニックを使って濃い青と赤の毛糸の模様がどんどん形になっていきました。
編み物は以前始めたルームシューズの続きです。好みの色で四角の形を16枚編むと一足のルームシューズが出来ます。作り目を編んでから表網で編んでいきます。四角の編み物はどんどん増えてきました。
おしゃべりをしながら楽しく作業しているうちに時間はあっという間に過ぎて、コーヒータイムに入りました。そこでパイヴィ宣教師からフィンランドの秋や聖書に出てくる「平安」についてお話がありました。
次回の手芸クラブは11月24日です。刺繍、棒網、かぎ針編みなど、各自のお好みの手芸を行います。
詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。 皆さんのご参加をお待ちしております。
今年の夏私はよく森に散歩に行ってフレッシュな空気を吸って自然の中で静かな時を多く過ごしました。これは良い力の回復になりました。フィンランドは早く秋に変わってもう9月の始めから木や低木の葉っぱの色は変わり始めて9月の中ごろは紅葉がとてもきれいでした。今年の夏は雨の日が少なかったせいか、葉っぱはよく黄色、オレンジ、赤に変わりとてもきれいでした。私はフィンランドの紅葉を11年ぶりに見ることが出来て本当に良かったと思いました。フィンランドは秋になると夏の賑やかな雰囲気は消えて静かな雰囲気に変わります。これも久しぶりの経験でした。
私は静かな秋が好きです。9月散歩した時、きれいな紅葉、自然の香りと穏やかさを通して心の中で平安を感じて、心と体のリフレッシュになりました。自然を通しても、天と地と人間を造られた神様は私たちをケアし新たな力を与えてくださいます。それで自然の中で心の平安を感じることが出来ます。
ところで、心の平安とはどんな事でしょうか?日々の生活の中に何か試練があると心の平安なんか簡単に消えてしまうと思います。そうすると私たちはどんなことがあっても消えない平安など持てないのでしょうか?
新約聖書にある「フィリピの信徒への手紙」は消えない平安について教えています。
「どんなことがあっても、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち開けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなた方の心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」 フィリピの信徒への手紙4章6-7節です。
このみ言葉はあらゆる人知を超える「神の平和」について言っています。
私たちは試練があると、落ち着かない心になってしまいます。しかし、このみ言葉は、そのような時に私たちはすべてのことを神様に祈りを通して打ち明けなさいと言っています。一人で思い悩むのではなく、神様に打ち明けて、それだけ神様を信頼していれば、神様は必ず導いてくださいます。その導きは、私たちが期待したものと違うことがよくあります。しかし、神様は私たちに一番良いことを与えてくださる方なので、期待したことと違っても、後になってそれで良かった、神様は本当にずっと私のことを考えて見て下さっていた、とわかります。
このように神様は私たちの願いにすぐ答えて下さるか遅く答えるか、すぐにはわからなくても、神様は必ず聞いて下さり導いて下さると信頼する人は心に消えない平安があります。この平安は私たちの中から出てくるものではないし、自然から得られる平安でもありません。それは神様と平和な関係にある人が持てるものです。神様と平和な関係は、神のひとり子のイエス様が与えてくださいます。どのようにして与えて下さるのでしょうか?
イエス様は神様について人々に教え、また困っている人や苦しんでいる人たちを奇跡の業で助けました。イエス様は十字架にかけられて死なれましたが、それは、私たち人間が持っている、神様の目から見て悪いことを全部背負って、私たちのかわりに神様の罰を受けられたのでした。しかし神様は、イエス様を死から復活させて死を超えた永遠の命への道を私たちに開かれました。それで、イエス様を救い主と信じると罪が赦されて、神様との間に平和な関係が生まれるのです。これは神様がイエス様を通して与えられた平和です。
イエス様を救い主と信じるとイエス様は私たちの心の中に留まります。その時、私たちは神様と平和な関係にあるので外は嵐でも心には平安があります。イエス様は世界じゅうの人々の心の中に留まることを願っています。イエス様が心の中に入れるように私たちが心を開くことは大事です。フィンランドのゴスペルソングの一つに、「私たちが心を開けば、イエス様はそこに住む家を建てるのだ」という歌があります。イエス様が私たちの心の中に家を建てて住むようになれば、私たちはどんなことがあっても消えない平安を持って生活することが出来ます。
次回の手芸クラブは刺繡です。
クロステージのテクニックを使って室内飾りを作ります。
おしゃべりしながら楽しく作りましょう! 。
材料費: 500円
お問い合わせ、お申込み moc.l1751750759iamg@1751750759arumi1751750759hsoy.1751750759iviap1751750759 電話 03-6233-7109
日本福音ルーテル スオミ・キリスト教会、東京都新宿区鶴巻町511-4-106
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司式・説教:T.ハブカイネン宣教師
アシスタント:マリ・リーサ
聖書の箇所:ハブカイネン先生のメールには記載されていませんが週報ヘルパーでは。
第1の日課 エレミヤ書 23章1-6節 〈旧約1218頁〉 第2の日課 エフェソの信徒への手紙 2章11-22節 〈新約354頁〉 福音書 マルコによる福音書 6章30-44節 〈新約72頁〉です、以上参考まで。
讃美歌:244、238、131,467
説教題:「未来と希望」
祈り・聖書日課:パイヴィ・ポウッカ 宣教師
聖書日課:アモス 7:7-14、エフェソ 1:3-14、マルコ 6:14-29
賛美歌:188 371:2 154 198
音楽:マルッティ・ポウッカ
ビデオ編集:パイヴィ・ポウッカ
紫陽花の花も色づき始めた季節、家庭料理クラブは、「ミートバイ」を作りました。
最初にお祈りをして、始まります。
ミートパイは、フィンランドで人気のある家庭料理で、身近な材料で手軽に作れる一品で、お祝いのテーブルにも登場します。
ヨーグルトを使った生地を作り、休ませている間に、中身の具材を調理して、パイ皿に敷き込み、チーズを散らして焼き上げました。
試食タイムのおしゃべりは、コロナ禍のため無しですが、美味しく完食した後に、パイヴィ先生から、フィンランドの春のお祝いのエピソードやお料理のお話、そして聖書のお話を聞かせて頂きました。
参加の皆様、最後まで後片付け頂き、ありがとうございました。 次回の開催は、秋を予定しています。
今日皆さんと一緒に作ったミートパイはフィンランドでお祝いの時に出されるパイの一つです。フィンランドではいろんな種類のパイがあり、ハムパイ、キノコパイ、エビパイ、野菜パイなどを作ります。パイの名前は生地の上にのせるものに合わせて付けられます。ミートパイは多くの家庭では一番人気のあるもので伝統的なパイです。パイの上に好きなものをのせて大丈夫ですので、最近はどんどん新しいパイが出てきます。今日作ったパイの生地に少しヨーグルトを入れるので、少し酸味が出て普通のパイ生地と少し違います。パイは作ってから冷凍しても大丈夫ですので、前をもって作ってパーティーやお祝いの時に出すことができます。
春と夏はフィンランドではお祝いの季節です。フィンランドではお祝いのパーティーはよく自宅で行いますので、家庭では準備が様々です。春と夏のお祝いには、結婚式、婚約式、卒業式、堅信礼などがあります。フィンランドでは学校は六月の始めに終わって夏休みに入ります。高校の卒業式は大きなお祝いで、卒業生のいる家族は親せきや近所の人たちを家に招待して、大きなパーティを開きます。もう一つ夏の大きなお祝いは、教会の堅信礼のお祝いです。フィンランドでは子供たちは15歳になると教会の堅信礼の教育を受けます。10日間から2週間くらい教会の研修所で合宿して、自然の中で聖書やキリスト教の教えについて学びます。合宿が終わると教会の礼拝で堅信礼の儀式があります。その後でそれぞれの家で大勢の親せきを招待する大きなパーティーが開かれます。このようにフィンランドでは、堅信礼と高校の卒業式は若者にとって人生の大きな節目になるので大きなお祝いをします。そのためにお母さんたちは一生懸命ごちそうを作ります。パーティー食には甘いお菓子、クッキーやケーキなど、食事は軽食のものでサンドイッチ、パイなどです。種類の多い色どりの食卓でパーティーの雰囲気を高まります。
もちろんパーティーの中心は食卓ではなくて祝いの主人公で、卒業生や若者などです。お客さんたちはお祝いの家に入って主人公に「おめでとう」との挨拶を言って主人公は大喜びします。パーティーの雰囲気は明るくて主人公もお客さんも皆幸せと喜びの気持ちで一杯です。
パーティーの雰囲気は日常生活に良い変化を与えます。しかし幸せと喜びはお祝いのパーティーの時だけのことでしょうか。幸せは日常生活の中では感じることは出来ないでしょか。人間は生活の中で幸せを望みますが、それは瞬間的な気持ちではなくて深くて長く続いている状態です。人間の人生の目標は幸せとも言われています。皆さんにとって幸せはどこから生まれるでしょうか。幸せな人はどんな人でしょうか。幸せな人はお金持ちで大きな家に住んで自動車を何台も家の駐車場に駐車している人でしょうか。職場の高い地位の人でしょうか。権力がある人でしょうか。
フィンランドの雑誌には幸せにについて書いてある記事がよくあります。記事には人間はどんな人が幸せで、人間はどうすれば幸せになるなどが書いてあります。ある記事によると幸せな人は例えば自由を感じる、自分自身の強さを知っている、健康な人です。その記事には幸せはどのように自分自身の中から見つけることができるのかなど書いてありました。確かに幸せは生活の中でいろんなことを通して感じることができます。聖書にも幸せにについて書いてあります。旧約聖書の詩編に書いてあることです。「神様のそばにいることは私の幸せです。神様は私の避難場所。私は神様の御業を全て語り伝えます。」詩編73章28編。「神様のそばにいることは私の幸せです」これは天と地と人を作られた神様と共に生きることの意味します。それは一回幸せを感じることではなく、ずっと続いていく幸せです。神様と共に生きることが人生の土台になって生活の中にいろんなことがあってもその土台は変わりません。私たちはどのようにして神様の近くで生きることができるでしょうか。私たちは聖書を読んで、天の神様にお祈りして、神様は祈りを聞いてくださることを信じれば神様の近くにいることができます。天の神様と共に生きるのは幸せの源です。生活の中に不幸があっても神様はともにいてくださいます。不幸は神様が私たちを見捨たということではありません。このような時でも神様は共にいてくださいます。
フィンランドの一つの聖歌で幸せについて歌っているものがあります。息子が小さい時にこの聖歌が大好きでした。それを紹介したく思います。「ボクは幸せさ、ボクは幸せさ。ボクの幸せはイエス様のところにある。イエス様はボクのすべての罪を十字架に運んで取りのそいでくださった、それでボクは幸せさ。」(フィンランド語で)
私たちが天の神様の近くにいることができるのは神様の一人子イエス様のおかけです。私たち人間は様々な悪いこと、聖歌に歌われているように罪を持っています。このために私たちは神様から離れるようになります。しかし天の神様には良いご計画がありました。それは人間を救って神様の元に戻れる計画でした。そのご計画は、神様の一人子イエス様が私たちの悪いことを全部十字架の上に背負って十字架で死なられたことでした。しかし、それで全てが終わったのではありませんでした。イエス様は三日後神様の力で復活されて、神様の元に行かれました。私たちはイエス様がなさったことを全て信じて受け入れるとそれが私たちの幸せの源になります。この幸せは私たちが今生きているこの世だけではなく、この世の次の世、神様のもとにある素晴らしいお祝いの幸せになります。今私たちが生活している毎日の中で「神様のそばにいることは私の幸せです」ということを覚えてそれが私たちの幸せの源になりますように。
フィンランドではお祝いの後でよく言われる言葉に次のよなものがあります。「とても喜ばしいお祝いでした。もっと喜ばしいお祝いが後にあります。そちらのお祝いの幸せは永遠にあります。」お祝いに参加したらこのことも覚えておきましょう。
2021年5月9日(日)復活節第六主日 本日の礼拝の動画配信は機器の不具合のため出来ませんでした。説教文を以下に掲載しますのでご覧ください。
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
復活祭から聖霊降臨祭までは日本のルター派教会の聖書日課の最初の日課は旧約聖書ではなく使徒言行録です。先週は、エチオピアの高官がエルサレムの神殿にお参りをして帰る途中、使徒フィリポから福音を宣べ伝えられて洗礼を受けたという出来事でした。本日の個所は、ユダヤ民族の地域を占領していたローマ帝国軍の将校コルネリウスがイエス様を救い主と信じて洗礼を受けたという出来事です。コルネリウスの洗礼の時は聖霊が降ったということが周りの目に見える形で現れました。エチオピアの高官の場合は目に見えない形で降ったことになります。いずれにしても、洗礼と聖霊の降りは密接な関係にあります。それで洗礼について考える時、聖霊についても考えなければなりません。本日の説教では最初にそのことについてお話しします。
次に使徒書の日課である第一ヨハネ5章と福音書の日課であるヨハネ15章は双方とも愛することについての教えがあります。両方とも先週の日課の続きで、ずっとキリスト信仰にとって愛するとはどういうことか教えてきました。父なるみ神は先週だけでは足りない、もっと教えよと言っているようです。それでキリスト信仰にとって愛とは何かについて、今日も聖書の日課に基づいてお話ししようと思います。今日注目する点は、愛することと神の掟を守ることがどう結びつくかということです。ヨハネ15章を見ると、イエス様は「私が父の掟を守ってその愛の内に留まるように、あなたたちも私の掟を守るなら、私の愛の内に留まることになる(10節)」と言います。さらに、「あなたたちは互いに愛し合いなさい、それが私の掟である」と言います(12節、17節)。
第一ヨハネ5章を見ると、ヨハネはまず1節で、イエス様をメシアと信じる者はみな神から生まれた者である、それを生み出す神を愛する者はみな神から生まれた者を愛する、と言います。つまりキリスト信仰者を生み出す神を愛する者は生み出された信仰者も愛すると言うのです。続いて2節で、我々がこうした神の子たち、すなわち他のキリスト信仰者を愛しているかどうかわかるのは、我々が神を愛し、その掟を行う時にわかる、と言います。そして3節で、我々の神に対する愛とは神の掟を守ることに他ならない、と言います。皆さん、話の筋が見えるでしょうか?要は、キリスト信仰者が神を愛すると言うならば、神から生み出された他のキリスト信仰者を愛するのは当然であり、その愛は信仰者が神の掟を守っているかどうかでわかる、というのです。もっと簡単に言えば、キリスト信仰者が神を愛するというのは神の掟を守ることであり、掟の中には他のキリスト信仰者を愛することが含まれるということです。
以上から、イエス様の掟を守ることが彼の愛の中に留まる条件になっています。また、神の掟を守ることが神を愛していることの証しになっています。特にキリスト信仰者が他の信仰者を愛することが掟に含まれているので、そういう信仰者が互いに愛することがイエス様の愛の中に留まること神を愛することになっています。そういうふうに見ていくと、掟を守らないと神を愛していないと見なされてしまう、神を愛すると言うのなら掟をしっかり守れということになり、これは律法主義的に聞こえるかもしれません。しかし、そうではないのです。そのことを後で見ていきます。加えて、信仰者同士の愛についてばかり言っていて、キリスト信仰者でない人に対する愛は何も言っていません。信仰者でない人たちは別に愛さなくても、イエス様の愛の中に留まることや神に対する愛は問題ないということなのか?これも、実はそういうことではないので、それも併せて見ていこうと思います。
まずコルネリウスの洗礼について見ていきます。先週のエチオピアの高官の洗礼と様子が違っています。コルネリウスの場合は聖霊が降ったことが目に見える形で現れました。習ったことのない言語で神を賛美し出すという「異言を語る」ということが起こったのです。最初の聖霊降臨の時に起こったことと同じことが起こったのです。コルネリウスの洗礼で注目すべきもう一つの点は、ユダヤ人でない異邦人が洗礼を受けてキリスト信仰者になったということでした。
なぜそれが注目すべきことになるのかと言うと、当時はイエス様を救い主メシアと信じる信仰はメシアを待望するユダヤ人が持てるという考え方でした。それで、キリスト教徒になるためにはまず割礼を受けてユダヤ人にならなければならなかったのです。ところが、コルネリウスの洗礼が起きる前、ペトロが幻を見ました。本日の日課の前の部分です。天から何か入れ物のようなものが下って来て、その中にはあらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていました。それらは旧約聖書レビ記11章の中で汚れたものとされていました。突然、天から神の声が聞こえて、それらを食せよと言うのです。レビ記の規定があるのでペトロは出来ないと答えます。そこで神は、自分が清めたものを汚れていると言ってはいけない、と言います(使徒言行録10章13~15節)。このタイミングでコルネリウスの使者がペトロを訪問しました。ユダヤ人でない、しかも占領軍の将校がペトロの教えを乞うているというのです。
ユダヤ人は神聖な神に近いということで異邦人は汚れた存在、それで親しい関係を持ってはいけないことになっていました。しかし、ペトロは幻の中で神に言われたことの意味がわかり出かけていきます。なぜコルネリウスはペトロに教えを乞うたかというと、彼は旧約聖書が証しする天地創造の神を信じるようになっていたからでした。彼のことを2節で「敬虔で神を畏れる者」と言っていますが、この「神を畏れる者」というのは使徒言行録の中によく出てきます。どういう人たちかというと、旧約聖書の神を信じるようになってはいたが、いろいろな事情から割礼を受けて正式にユダヤ教徒にはなっていなかった人たちです。
先週の説教でもお教えしましたが、2000年前のギリシャ・ローマの多神教の世界にあって、万物の創造主である神を崇拝するユダヤ教は人々の目を引きつけました。特に道徳面で新しい視点を提供しました。例えば、当時この世界の奔放というかルーズな性のモラルに対して、ユダヤ教は人間を男と女に造った創造主の神は男女の結びつきにおいて姦淫、不倫を許さない、という生き方を示しました。さらに、当時の地中海世界には余分な赤子を父親の権限で処分するという間引きが当たり前のことのように行われていました。これに対してもユダヤ教は、人間は神に造られたもので母親の胎内の中にいる時から神に目をかけられているという生命観を示して間引きに反対したのです。
このように、人間を神に造られたものと見なし、そこに人間の価値を見いだすユダヤ教は多くの人を惹きつけました。特に女性の中に多くの賛同者を得ました。ただし、女性は割礼を受けられないので男性と同じ立場で正式なユダヤ教徒にはなれません。こうして各地のシナゴーグの周りには旧約聖書の神を信じるが割礼を受けないでいる、ないしは受けられないでいる、そういうユダヤ教徒予備軍とも呼ぶべき人が大勢いたのです。これが「神を畏れる者」です。そこにある日突然パウロがやって来て、旧約聖書の預言はイエス・キリストの受難と復活によって実現した!彼を救い主と信じて洗礼を受ければ割礼など受けなくとも神の民、神の子となれるのだ!と教え出したのです。割礼なくして憧れのユダヤ教徒になれるので予備軍は一気になだれ込みます。このようにしてキリスト教は一気に広がったのです。もちろん、割礼やモーセ律法の儀式的な戒律を大事にするユダヤ人も大勢いました。彼らはパウロの教えを認めることができません。そこで、ローマ帝国の官憲も巻き込んでパウロを迫害します。このようにして、キリスト教はユダヤ教の中から生まれて急速に広まりますが、同時に強い反対も引き起こしていったのです。
先週のエチオピアの高官の場合は宦官ですので、割礼を受けたくても受けられません。コルネリウスの場合は受けようと思えば受けられるのですが、受けないで異邦人の立場に留まりました。恐らくローマ帝国軍の将校が被占領国の民族の宗教に改宗するというのは立場上、難しかったでしょう。しかし、彼は神を信じて祈り、ユダヤ人に厚意を示していました。またペトロの発言から明らかなように(37節「あなたがたも知っている通り」)、彼はガリラヤ地方やユダヤ地方で何が起きたかを知っていました。洗礼者ヨハネの活動、イエスの活動とその奇跡の業そして彼の十字架刑と死からの復活。それらの出来事は天地創造の神の意思の現れなのか知りたいと思っていた時に神から目撃者を送ってもらったのでした。
ペトロの説教を聞いた結果、コルネリウスはじめ一緒にいた者たちが異言を語り出し聖霊が彼らに降ったことがことが明らかになりました。ペトロに同行したユダヤ人キリスト教徒たちは聖霊が異邦人にも降ったことに驚きます。ペトロはすかさず聖霊が降ることにユダヤ人も異邦人も関係ないとわかり、洗礼を施します。
エチオピアの高官の時はこのような現象は起こりませんでした。フィリポの説教を聞いてイエス様を救い主と信じて洗礼を受けました。エチオピアの高官には聖霊は降らなかったのでしょうか?いいえ、そういうことではないのです。キリスト信仰の観点では、人間がイエス様を自分の救い主と信じる信仰に入れるのは聖霊の力が働かないと出来ません。人間の理解力、能力、理性では、イエス様は単なる歴史上の人物に留まります。約2,000年前の現在イスラエルの国がある地域で旧約聖書とその神と神の国について教えを宣べて多くの支持者を得るも、当時のユダヤ教社会の宗教エリートと衝突した。その結果、ローマ帝国の官憲に引き渡されて十字架刑で処刑されてしまった。そういう歴史的な理解に留まります。
ところが聖霊の力が働くと、これらの出来事は見かけ上のもので、その裏側には万物の創造主の計画が実現したという真理があることがわかるようになります。つまり、イエス様が神の想像を絶する力で復活したことで彼が神から贈られたひとり子であることが旧約聖書の預言を通して明らかになります。では、その神のひとり子がなぜ十字架で死ななければならなかったのか?それは、人間が内に持ってしまっている、神の意思に背こうとする性向すなわち罪を神に対して償う犠牲の死であったことがやはり旧約聖書の預言から明らかになります。イエス様の死は人間が神罰を受けないで済むようにと人間を守るための犠牲の死であり、罪を償いを受け取った人間は神から罪を赦された者と見てもらえるようになります。罪を赦されたから神との結びつきを持ててこの世とこの世の次に到来する世の双方を生きられるようになりました。それなので、この世から別れた後も復活の日に神がイエス様の時と同じ力を及ぼして復活させてくれて神の国に迎え入れて下さる。そうした旧約聖書に約束されたことを実現するためにイエス様の十字架の死と復活が行われたのでした。これらのことが、歴史上の見かけの出来事の裏側にある本当のこと、真理なのです。聖霊はこの真理を私たちの心に示す働きをするのです。
人間がイエス様のことを自分の救い主とわかるようになるのは、この真理を示されたことに気づいたからです。人生のいろんな経験を通して神はこの気づきへと導かれます。気づかせた聖霊の働きを一過性のものにしないで恒常的なものにするために人間をその働きの下に服させるようにするのが洗礼です。洗礼に至る前に聖霊から働きかけられてイエス様を救い主と信じられるようにはなってきても、洗礼を受けて聖霊の働きの下にすっぽり覆われないと、この世に跋扈するいろんな霊に引っ張りまわされます。イエスは救い主ではないとか、また、救い主は沢山あってイエスは単なるそのうちの一人にすぎないとか、霊たちはそのように言います。しかし、聖霊の下に服したら、もう他の霊の言うことは何の意味もなさなくなります。万物の創造主の神との結びつきを持って生きることができるので、霊的に安全地帯にいることになります。
エチオピアの高官の場合は異言を語るということはありませんでしたが、聖霊の働きでイエス様を救い主と信じられるようになって洗礼を受けました。静かに聖霊の下に服したのです。コルネリウスの場合は、異言を語り出して騒々しく洗礼に至りました。どうしてそのような違いが生じたのか?聖霊は、自分の考えるままに賜物を授けるので私たち人間にはわかりません。ただ一つ言えることは、異言を語るという目に見える影響があったことで、ペトロに同行したユダヤ人キリスト教徒たちはぐうの音も言えませんでした。もしエチオピアの高官のように静かに聖霊の下に服したら、異邦人に聖霊が降るわけがないとペトロと言い争いになっていたかもしれません。そういうことを考えるにつけ、神の導きというのは本当によく考え抜かれたものと感心します。
コルネリウスの洗礼の話が長くなってしまいました。次の問題に入りましょう。ヨハネ福音書の日課と第一ヨハネの日課を見ると、キリスト信仰者がお互いを愛することがイエス様の愛に中に留まって神を愛することになります。そうすると、掟を守らないとイエス様の愛に留まっていない、神を愛していないということになります。もし神を愛すると言うのなら掟を守れ、というのは律法主義的に聞こえるかもしれません。また、信仰者同士の愛についてばかり言っていて、信仰者でない人たちは愛さなくてもいいのか?愛さなくても、イエス様の愛の中に留まることや神に対する愛は問題ないということなのか?急ぎ足になるかもしれませんが、これらの問題を考えてみます。
これらの問題は先週お教えしたことを振り返ればいろいろわかってきます。愛についてのヨハネの立場ははっきりしていました。人間が普通、愛と言っているものは実は愛ではない。愛とは、人間を罪と死の支配から解放して神との結びつきを持てるようにしてこの世とこの次に到来する世の双方を生きられるようにしてあげよう、そのために他に手立てがなければ自分のひとり子を犠牲にしても構わない、これが神の愛で本当の愛だと言うのです。人間はこの愛で愛されて本当に愛することができると言うのです。この愛がなければ本当に愛することができないと言うのです。イエス様に繋がって実を結ぶというのは、まさにこの神の愛に立って愛するということでした。
そうすると、キリスト信仰者が掟を守ったり愛するのは、イエス様の愛に留まるため、神を愛していることを示すためとは言っても、律法主義にならないものが見えてきます。というのは、キリスト信仰者という者は既にイエス様の愛の中に留まっている者であり、神に愛されている者である。だから、イエス様の愛の中に留まれるために、とか、神に愛されるために愛するというような~のためにという目的があって愛するということはありません。既にイエス様の愛の中に組み込まれていて神に愛されているのです。そうすると目的がなくなってしまうので愛したり掟を守る動機が起きなくなってしまうでしょうか?
いいえ、そういうことにはならないのです。もし私も皆さんも自分が万物の創造主の後ろ盾を得てこの世とこの次の後に到来する世の双方を生きられるようになった、しかも、それをさせないようにしていた邪魔者を神がご自分のひとり子を犠牲にしてまで撤去して下さった、それで私たちは壮大な方の後ろ盾を得て壮大な人生を生きられるようなった、このことに気づいたら、神は本当に全身全霊で愛すべき方だとわかるでしょう。この愛すべき方が、父母を敬え、殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、他人のものを妬んだり欲しようとするな、しかもこれらを外面的な行為だけでなく、心の中までもそういう状態にしなさいと言っているのです。人間の先生が偉そうに言っているのではなく、ひとり子を犠牲にしてまで私たちを滅びの崖っぷちから救い出して下さった方、そして私たちの本当の造り主である方がそう言っているのです。
さて救い出された私たちが生きることになった新しい命は、心の中まで父母を敬い、殺さない、姦淫しない、盗まない、偽証しない、他人のものを妬んだり欲したりしないという命です。そんな命を生かされることになったら、それと調和して生きることが自然になります。これはまさに、神に愛されているので神の意思に沿うように生きる、考える、言葉する、行うことが自然になって、そのように生きることが神への愛を現わしているのです。
ところが現実はもっと複雑であることをパウロがローマ7章の終わりで見事に言い当ています。キリスト信仰者はこうした意識の面では確かに神の命じることに従っているのだが、肉の面では罪が命じることに従っていると言うのです(25節)。それで新しい命を生きる自分は、神の意思に沿うのがふさわしい生き方だとはわかっていても、いつも肉や肉につけ入るこの世が神の意思に沿わないようにと引っ張ります。それでパウロはローマ8章で、キリスト信仰者は自分の内に駐留する聖霊が助けてくれるので意識が肉を圧倒することができるのだと教えるのです。
パウロがローマ12章で列挙するようなキリスト信仰者の生き方、悪を憎み善から離れない、兄弟愛をもって互いを愛し、尊敬を持って互いに相手を自分より優れた者と思う、迫害する者を呪わず祝福を祈る、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く、思いをひとつにし高ぶらず身分の低い人々と交わる、自分を賢い者とうぬぼれない、誰に対しても悪に悪を返さず、全ての人の前で善を行うように心がける、隣人と平和な関係を築けるかどうかが自分次第である時は迷うことなくそうする、少なくとも自分から平和な関係を壊さない、自分で復讐しない、最後の審判の時の神の怒りに任せる、だから、その時までは敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませる、善をもって悪に勝つ。これらのことは全て、新しい命を自分一人だけでなく聖霊に助けられながら生きるとこうなっていくというものです。聖霊が肉を押さえつけるので神の掟が守りやすくなるということです。人間に何か力があったからそのように出来るようになったというのではありません。人間にそんな力はないでしょう。聖霊に助けられる人にとって、第一ヨハネ5章3節の御言葉「神の掟は難しいものではありません」というのは真理です。
最後に、愛せよというイエス様や父なるみ神の掟はキリスト信仰者同士だけのものかということについて、そもそも神の愛とは、ひとり子イエス様を用いて罪の償いと復活の命への道開きを行って、これを全ての人間が受け取るようにと提供して下さっていることです。そうすると、既に受け取ったキリスト信仰者を愛するということは、その方が信仰に留まるように、新しい命を聖霊に助けられて生きるように支えるということが土台にあることがわかります。そして、まだ罪の償いと復活の命への道開きを受け取っていない人にはそれを受け取れるようにと導いてあげることがその人を愛することの土台にあります。
この導きは伝道に繋がります。先週も申し上げましたが、いろんな宗教や死生観があるところではこうした伝道は簡単なことではありません。キリスト信仰者の側としては愛だと思ってやったことが、相手側からすると余計なお世話だとか脅威に受け取られたりするからです。人がどの宗教を信じるか、あるいは信じないかということは、詰まるところ、どんな死生観を持つかという問題に収れんします。自分はどの死生観を持ってこの世を生き別れて次の段階に行くか、自分が納得いくものを持つことになります。私がキリスト信仰の死生観で納得するのは、復活ということが正義と愛の完全な調和になるからです。この世では正義と愛の完全な調和はありません。愛なしで正義を追求しようとすると無慈悲になります。正義なしで愛を追求しようとすると甘やかしになります。愛に裏打ちされた正義、正義に裏打ちされた愛を目指さなければなりません。人間は完全な回答を見つけられないと思います。神のみが完全な正義と完全な愛を持ち合わせています。復活の日に完全な回答を得られるとわかれば、この世で自分の無知無力さを思い知らされても、それほど辛くはなりません。復活の日に思いを馳せられるのも聖霊の働きです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン
全知全能の父なるみ神よ。
あなたは、み子の十字架上の死と死からの復活をもって、死そのものを滅ぼし、私たちのために永遠の命に至る扉を開いて下さいました。どうか、私たちの内にその命に与(あずか)る希望を起こし、あなたのみ許(もと)に迎え入れられる日まで、その希望を失うことがないように、いつも私たちを助け導いて下さい。
あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストのみ名を通して祈ります。アーメン