牧師の週報コラム 

スオミ教会におけるSLEY(フィンランド・ルーテル福音協会)の牧会と伝道について

今から10年近く前のこと、日本の教会関係者がフィンランドを訪問して牧師同士の交流の機会を持ちました。 まだ東日本大震災から間もない頃でした。日本の牧師がフィンランドの牧師に尋ねました。フィンランドの牧師たちは原発反対運動をしないのですか?していない、との答えに、日本側は、どうしてしないのですか?その聞き方が少し強い調子だったせいか、フィンランドの牧師は少しぶっきらぼうに「私の仕事は人間を天国に送ることだ。」日本側は、こりゃだめだ、という雰囲気になりました。

もちろんフィンランドの牧師も、牧師が原発反対運動をしてはいけないという意味ではなかったと思います。ただ、日本の牧師先生の言い方が、反対運動しないと牧師に値しないという雰囲気があったので、自分の本来の仕事はこれなのだという答えになったと思います。

「天国に送るのが仕事」などと聞くと、大抵の日本人は不気味な感じがすると思います。それは、日本人の死生観に復活の信仰がないからです。この世の人生は復活の日を目指して歩む旅路だと考えるキリスト信仰者にとっては別に変でも何でもなく当たり前のことです。

スオミ教会の牧師として、またSLEYの宣教師として、スオミ教会は聖書の御言葉を正しく教え聖礼典を正しく執行する教会であることを信徒の皆さんが信頼して繋がって下さることを願っています。確かにスオミは、ハレルヤ!ハレルヤ!と叫び合うような熱気はないし、また多くの教団のように社会改革の先頭に立とうとする教会でもありません(ここで、かつて政治学者の丸山真男が発表論文を本にまとめて「後衛の位置から」というタイトルを付けたことを思い出しました。自分は「前衛」とは違う立場であるということを表明したのでしょう。)

この激動の時代の中にあって、一人ひとり置かれた境遇は異なり向き合う課題は異なるが、将来の復活の日を目指してこの世を歩み、いろんなことに遭遇し悩み考えながらも、聖書の御言葉と聖餐から歩む力と勇気と愛を受け取る、信仰の兄弟姉妹と一緒に受け取る、そうやって一緒に復活の日を目指して歩む、それがスオミ教会なのだと考えています。この一緒の歩みを支えるのが牧会、この歩みに一人でも多くの方が加われるようにするのが伝道と考え、任にあたってまいりたいと思います。

  スオミ教会の新しいシンボル - 白樺の十字架

 

スオミ教会・子ども料理教室の報告

この秋最初の子ども料理教室は10月28日に開催しました。この日の朝も太陽が青空に輝き、清々しい気持ちで一日を迎えることができました。今回作るのはフィンランドのオートミール・パンです。

子ども料理教室は、お祈りをしてからスタートします。オートミール・パンはイーストで発酵させるので、今回は一つの生地は先に発酵させて準備したので、もう大きく膨らんでいました。それですぐパン作りを始めることができます。テーブルの上に置いた生地をお子さんが一生懸命こねて細長く丸め、それからパンの大きさに切っていきます。その後は楽しい形作りです。丸形、細長い形、お子さんの年齢から取った数字の6の形など、いろんな形のパンがあっという間に鉄板を一杯にしました。これから二回目の発酵をします。

お子さんはやる気一杯、自分でも生地を作ってみたくなったので、新しい生地を初めから作り始めました。材料をレシピの通りに測ってボールに入れて小麦粉を少しずつ加えていきます。お子さんは生地をこねるのがとても楽しそう。柔らかい生地の出来上がりです。新しい生地を作っている間に発酵させたパンは大きく膨らみました。それをオーブンに入れます。パンを焼いている間に上にのせるハム、チーズ、きゅうりのカッティングをします。

もう一つの生地も大きく膨らんだので、それもパンの形にして鉄板の上にどんどん並べていきます。ちょうどその時、オーブンがある台所からパンの香りが教会中に広がりました。パンにはきれいな焼き色がつきました。どんな味に焼き上がったのかな。

味わう前に聖書のお話「五つのパンと二匹の魚」のフランネル劇をみんなで一緒に観ました。イエス様はたった五つのパンと二匹の魚で5千人の人たちに十分な食べ物を与えました。イエス様はそのパンと魚を手にとって、天を見上げて神様に感謝の祈りをさざけました。すると、イエス様のお話を聞きに集まってきた人たちは皆お腹一杯に食べることができたのです。それだけではありませんでした。食べ残しを集めると12の籠が一杯になる位の量になったのです。神さまは私たちが思っている以上のことをして下さるというのがイエス様の奇跡の業であることがよくわかるお話でした。

フランネル劇の後、みんなで食前のお祈りをして自分で形を作った焼きたてパンを頂きます!パンを真ん中から二つに切って、間にマーガリンを塗ってハム、チーズ、トマトをのせてサンドイッチにしたり、二つに切ったパンのそれぞれの切り口にハム、チーズ、トマトをのせてオープンサンドにしたり、皆さんの好みに合わせて頂きました。美味しく食べながら、幼稚園の話や趣味の話など楽しい歓談の時を持ちました。こうして久しぶりの子ども料理教室で参加者の皆さんとおいしくて温かい一時を分かち合うことができました。

2023年10月29日(日)宗教改革主日 主日礼拝

説教をYouTubeで見る

ヨハネ8章31節〜36節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

1、「初めに」

 私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様。今日のこの福音書は、イエス・キリストが、信仰とは何か、真理とは何か、そして自由とは何か、そしてそれがどのように私たちにあるのか、を私たちに伝えてくれています。それらの言葉はいずれも聖書では、救いに結びつく大事な言葉であり、また福音でもあるのですが、それが救いのための大事な福音であるがゆえに、悪魔が何より絶えず攻撃し惑わす言葉でもあり、人間の側で都合よく理解され、正しく理解されなかったり、歪められたりする言葉でもあります。

2、「問題提起」

A,「何を信じる信仰?」

 聖書の伝える「信仰」。それは何を信じる信仰でしょう。それはキリストは世界に政治的社会的な変革をもたらす救い主であるという「信仰」でしょうか?イエス様の時代にも、キリストはローマからの圧政から解放してくれる政治的なメシヤという期待がありました。あるいは、信仰とは、人間の側で律法や聖書の約束を精一杯行い実現し完全に果たせば救われ神に受け入れられるという律法としての「信仰」でしょうか?これもイエス様の時代には、ファリサイ派の人々やユダヤの宗教指導者たちはそう信じ、そう教えてもいました。8章の最初では、彼らはまさに姦淫の現場で一人の女性を捕まえて石打ちにすべきではないかと言っているように、守られないものは救われないし殺されなければならないし、そして守っている自分たちは救いに一番近いし、誰でも裁くことができると信じていたし、そうすることが彼らの「信仰」でもあり信じる救いでした。そのような理解は現代のキリスト教会にさえあり、福音や救いはまだ十分ではなく不完全であり、自分たちが約束やその未完成な福音を実現し果たすことによって福音も救いも完成させるのだ、それが信仰、救いであり、そのように信仰は律法であり、救いは人間の意志の力と努力による協力で人が完全に果たされなければならないのだという教会やクリスチャンも少なくなりありません。あるいは、もう単純に、人間中心の期待や願望の通りに実現するように信じる信仰、その通りになったら信じるというご利益信仰のような「信仰」という理解も多いことでしょう。しかし、そのような信仰がイエス様の伝える信仰なのでしょうか?

B,「聖書の伝える真理とは?」

 では、「真理」とは何でしょう。この相対主義的で個人主義的な傾向の強い現在は、真理という言葉は非常に立場の狭い言葉です。「真理は他者を排除するものだから、教会でもあまり言わない方が、あるいは強調しない方が良い」と教える教会やクリスチャンは沢山あります。そして言うのです。真理は人それぞれ、多種多様なんだと。今日のところで「真理は自由にする」とあり、真理は救いに関わるものであるのですが、その真理も、そのような現代の世の受け入れられやすい風潮に従ってそのような多種多様な「真理」を聖書は伝えているんだと、人間に都合の良い解釈に変えてしまい、どんな宗教のどんな真理でも自由にするんだ、結局は登山口やルートが違うだけで、どの真理から登っても、同じ頂上の救いに至るんだと平気で教え信じる教会やクリスチャンもいます。しかし聖書の伝える真理とは果たしてそうなのでしょうか?

C,「聖書の伝える自由とは?」

 では今度は、「真理はあなたたちを自由にする」、その「自由」とは何でしょうか?これもさまざま理解される言葉です。自分中心で、自分の欲望の通り、好き勝手にできること、それが自由である、世の人々はそのように考えることでしょう。同じように、キリスト教会やクリスチャンの間でも、そのように好き勝手に感情のままに行動できること、聖書を解釈できることが自由だという人もいますし、あるいは、それに少し高尚な理由づけを加え、宣教や伝道、愛や隣人愛などを掲げて、その名の下に、しかし人間中心に、人間に都合よく、自由に聖書を解釈することや、自由に感じるままに感じ取ることが聖霊の働きなんだ、と非常に巧妙に、最もらしく聞こえるように自由を主張する人々もいます。しかしそれが聖書の言う自由なのでしょうか?

 このように、信仰、真理、自由、それらは、救いに関わる大事な言葉であるのに、このように多種多様に理解され多種多様に用いられ、かつそれが「人の前」では支持されてもいますが、しかし、それは「神の前」では、イエス様が「ああそうか、良かった」と喜ばれる状況では決してありません。なぜなら、イエス様は、今日のこのところで、そのような罪深い人間の風潮やトレンドとは真逆の、何を信じることが信仰であり、真理とは何か、その真理が自由にするという「自由」とは何なのかを、私たちに教えてくれているからです。

3、「「信じた」人々のその「信じた」とは?」

 今日のところの一節前の30節には、「 30これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた。」とあります。しかし、8章11節までの姦淫の女性の話の後にイエス様が教えていることは、12節からにせよ、21節からにせよ、かなり難解です。21節以下などは、イエス様だけが知っている、ご自分が今まさに十字架にかかって死ぬことや、そしてイエス様は父と一つであるという三位一体を示すようなことを伝えており、27節では彼らは「悟らなかった」とも記されています。さらには、今日の箇所の後の37節ではその「信じた」と言っている人々を指して「あなた方は私を殺そうとしている」とさえあるのです。ですから、ここに「人々が信じた」とあるのは、おそらく、革命者であるメシアをイエスに見ていた人々と同じように、あるいは、試しにきたファリサイ派の人々ように、非常に表面的なものか偽りのものであったことでしょう。というより何よりも、人間は口でいくらでも「信じる」と口にできたとしてしも、イエスの示す真理には、罪深い肉の思いのままでは、自らでは決して理解することも到達することもできない人々の姿もまたここには表されているのです。

4、「イエスの言葉にとどまるならば:人の力ではない聖霊の力によって」

 そのような人々へです。31節、イエスは教えるのです。

「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。 32あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」

A, 「み言葉によって真理へ」

 まず教えられるのは、私たちは自ら、自らの力や意思では、決して真理を悟ることも到達することもできません。しかし、イエス様はここで、私たちがそのように自ら真理を悟り到達「しなければならない」ということも教えていないでしょう。つまり「私たちが自ら真理に至らなければいけない、そうでないと救われない、そのように自ら真理に至って自ら自由になりなさい」、というのが聖書の教え、イエス様の教えではないことがここにわかると言うことです。イエス様はそんな悟りの遅い、あるいは表面的な、打算的な信仰者であってもその彼らのためにこそ、そして、人は自らでは悟ることは決してできないからこそ、彼らに「わたしの言葉に留まるならば」と言う大事な言葉を言ってくださっているでしょう。「わたしの言葉をあなた方が自ら悟り理解したら、あなたたちは本当にわたしの弟子です」とは言っていません。「留まるなら」と言っています。英語のESVですと「abide in My word」とありますが、「abide」は我慢する、耐えるという意味の他に「住む」という意味もあります。そのように、イエスの教えることをそのまま聞き、そのまま受けとり、そしてそこに縋り、しっかりとしがみつき、イエスの言葉が心に住まい続ける時に、私たちの力ではない、そのイエス様の言葉とそこに働く聖霊によって「真理を知る」ようになるという恵み、イエス様のみわざをイエス様は教えていることがわかるのです。これはとても感謝な平安のメッセージです。この後見ていくように、真理は多種多様ではなく、イエスが与える唯一の救いの真理を伝えます。それが自由にする真理です。しかしそれは決して私たちが自ら得なければいけないということではないのです。人間の側で、頑張ってその真理を理解したらわかったら、救われるという律法をイエス様は決して伝えていません。どこまでも「わたしにとどまるなら」です。皆さん、真理を知ることは律法ではありません。真理は、イエス様のみ言葉にあり、イエス様の教えにあり、そこに留まり聞くことによって、イエス様が教え、悟らせてくださる恵みであり福音であるということなのです。

B,「何からの自由か?:誰でも罪の奴隷である」

 しかし次にその真理とそして自由です。それは、先ほども言いましたように、多くのそれぞれの真理があってどの異なる登山道を通っても結局は同じ頂上の救いに至るという多元主義者がいうような多種多様な真理のことをイエス様は言っているのではありません。32節「32あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」 と言った後、それを聞いていた人は、まだ目が開かれていません。むしろイエス様が言おうとしている「自由」の意味を、彼らは人間的な視点での自由でしか判断できません。33節

「33すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」

 「誰の奴隷になったこともない」と、彼らは「自由」という言葉を、物理的な身体的な束縛以上のことでは理解できないのです。そして「なぜ自由になるというのか」と自分たちは何者にも束縛されていないかのように彼らは答えるのです。ちなみに彼らは物理的には実際はローマと皇帝と親密なヘロデに服従させられているのにも関わらず自由だと言っているのですから、その言葉が彼らの虚飾と自尊心で言っている「強がり」であることも窺い知ることもできます。しかしイエス様はここで、そのような物理的肉体的な束縛や奴隷状態のことではなく、むしろ「神の前」にあっては人は何の奴隷であり、そして真理は何から自由にするのかを、はっきりと教えます。

「34イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。」

 イエス様は、言います。罪を犯すものは誰でも罪の奴隷であると。ある人は言うかもしれません。「私は罪を犯していない」と。確かにここに聞いている人は、日本の刑法に触れることはしていないでしょうし、道徳に反することもしていない人であるかもしれません。しかしここでイエス様がいう「罪を犯すもの」はまさに神の前にある律法、十戒に照らしてあなたは罪を犯したことはないかを問うているのです。この8章の初め姦淫の女の出来事の7節ではイエス様は「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」 と言った時に、律法学者たちやファリサイ派たちは「年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい」ました。彼らは、表向きは立派で律法を守っていると自負する人々ですから、そのような犯罪とか犯したことはない人であったかもしれませんが、しかし、彼らも十戒に照らすときに、これまで全く背いたことがない、罪を犯したことがないとは誰も言えなかったのです。それはアブラハムの家の子孫だからと家柄や地上のいかなる権威でさえも抗うことのできない現実です。37節を見ると

「37あなたたちがアブラハムの子孫だということは、分かっている。だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである。」

 そう、「信じる」といっているアブラハムの子孫である彼らのこれから成そうとする策略までも見通して、未来に至るまでも、あなた方は罪を犯さないものではないとイエス様は言っています。「信じると言っているあなた方が、わたしを殺そうとするのだ」と人間がいかに罪に縛られていて自由ではないかをイエス様は言っているのです。私たちも人の前では刑法や道徳に触れることはしていないかもしれません。「罪人だと言われても、私はそんなに悪くはない。そんなに罪罪、言わないでよ。気分が悪い」と言うかもしれません。しかし、誰でも、私自身も、十戒の前に照らし出されるときに、私たちも誰一人、姦淫の女に石を投げることができないものです。確かに行為として盗んでいません。殺していません。姦淫していません。しかし心の中の罪は計り知れません。そして何より、イエス様が十戒を要約して律法全体がこれにかかっているとして「心を尽くし、思いを尽くし、精神を尽くし、神を愛しなさい、隣人を愛しさなさい」(マタイ22章36−40節)と命じていることを、私たちは誰も完全に果たせていると言える人はいません。神よりも隣人よりも自分が中心で、自分を何よりも愛するものです。創世記3章などの罪の根源である初めの人の誘惑に照らすなら、私たちは誰でも、神のようになれるという誘惑に負けて自分を神のようにする自己中心な存在ではありませんか。私自身がそのようなアダムの子孫である紛れもない罪人であり、まさに罪に縛られてどうすることもできない存在であることを認めざるを得ません。ヨハネはその最初の手紙1章でこのように私たちに教えています。

「8自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。〜10 罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。」ヨハネ第一1章8節、10節

 私たちは罪人です。罪があるのです。罪の奴隷であるのです。ヨハネは罪がないと言うなら、真理も、神の言葉も、私たちのうちにはないと、今日のところに重なるように言っているでしょう。しかし、それは同時に、教えられます。私たちが神の言葉から、何に縛られ、何の奴隷であるかがわかるからこそ、その束縛から解かれなければならないことがわかり、だからこそ神の与えようとしている救いの真理がわかるようになる。その神の言葉が私たちのうちにあって真理に導いてくださるのです。そしてその時に、その自由は何であるのかも見えてくるでしょう。そう、イエス様が伝える自由は、人間が好き勝手に欲望のままに何でもできる自由では決してない。それは神とその言葉によって、罪の奴隷、罪の束縛から解かれ自由とされると言うことなのです。

C, 「イエスが伝える「真理」とは」

 さあ、その神がイエスを通して与える、罪の束縛から解放する「真理」は、皆さん、もう明らかでしょう。イエス様はそのために預言で約束され、約束の通りに世にこられ、そして初めからこのことを真っ直ぐと見て、教えてきたでしょう。そうです。真理とはこの私たちの罪のための贖いである十字架と復活に他なりません。イエス様はそのためにこの地上に人としてお生まれになります。イエスはただ、道徳的な模範なんだと教える教会もあるかもしれません。私たちが自分たちの努力や意志で律法に従い律法を果たし義となるための模範を示すために来たと。しかし、それでは誰も自由にしません。イエス様が人となられたのは、私たちの罪の奴隷からの解放であり、それはそのご自身の肉体に、私たちの底なしの罪と私たちが本来負わなければならなかったその罪の報いである死と罰を、代わりに受けることによって、神の前にイエス様が罪に定められる代わりに、私たちに罪の赦しを与えるためではありませんか。そのように神はこのイエス様の十字架にあって「あなたに罪はない。義である」と罪の赦しを宣言することによって、私たちを神の前にあって罪の束縛から解き放ってキリストにあって本当に自由にするためにこの真理を与えてくださっているのです。そして、その真理も自由もどのように私たちに来るのか?それは、どこまでも御言葉を通して与えられるのであり、み言葉を通して罪を認めさせられ悔い改めさせられ、そこで人は刺し通され痛みがあり絶望するのですが、それで終わりではない、まさにその時にこそこの真理、どこまでもイエス様がしてくださった一方的な罪の赦しをそのまま信じ受け取るだけで「あなたの罪は赦されている。安心していきなさい」とイエス様は宣言してくださるのです。先ほどの罪を示すヨハネの手紙の言葉にはこのような言葉もしっかりとあります。

「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」(1章9節)

そして、第二の聖書日課の箇所ローマ3章24節でもパウロは教えています。

「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、 24ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。 25神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。」

さらには、パウロはその悔い改めも、信じる信仰さえも、そのまま受け取ることさえも、それは、私たち自らの努力とか行いとか意思の力とかによるものではないことまでも教えています。

「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。 9行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。」フィリピ2章8−9節

5、「終わりに」

 みなさん、このみ言葉を通して、恵みによって真理を知る信仰が与えられ、その信仰によって誰でも自分の罪が赦され、罪の束縛から解放され、「あなたの罪は赦されています」「正しい」と宣言され、自由とされる。安心していくことができる。それはどこまでも一方的な神のわざ、神の恵みである。律法ではない、福音であるのです。

 昨今、この真理も自由も信仰も、人間中心に考えられることによって、律法か放縦か、いずれかに偏った聖書の教えがされます。しかし、それらは律法であっても放縦であってもいずれも人の行いに依存しているのですから、どこまでも福音ではなく律法による歩みです。個々の人間自らが一生懸命獲得する真理、自由、信仰であるか、あるいは人間が好き勝手に解釈していい真理、自由、信仰であるのか、いずれかです。それはどちらも間違いであり、イエス様が与えると言われた真理も自由も平安もありません。ルターの宗教改革運動も、当時の腐敗した、人中心の間違った教えから、真の神中心、キリスト中心の「恵みのみ」「聖書のみ」「信仰のみ」に立ち返り、真の真理、自由、信仰、そして平安を教会と人々に回復することでした。その改革の精神は、昔の単なるノスタルジーで今は関係ないことでしょうか?あるいは、現代風に新しく再解釈していくものなのでしょうか?そんなことはありません。今も決して失われてはいけないものではないでしょうか。私たちはいつでも永久に変わることも朽ちることのない十字架と復活の主イエス・キリストの言葉に立ち返り、すがり、留まることができ、聖書から「人が何を聞きたいか」ではなく「神が何を伝えているのか」を聞けることこそがクリスチャンの幸いでありいのちの歩みでしょう。その真理こそ今日も私たちを自由にするのです。そしてそのキリストが与える真理と自由に与るからこそ、私たちはルターが「キリスト者の自由」で「キリスト者は、あらゆるものの、最も自由な主であって、何者にも従属せず、キリスト者はあらゆるものの、最も義務を負っている僕であって、全てのもののに隷属している」と言っているように、真の自由と平安のうちに、今度はキリストの自由な奴隷として、本当に自己中心や自己愛などの罪な動機や思いに縛られないキリストの平安と喜びに満ちて、真に隣人に仕えていくよう用いられていくのです。

 だからこそ、今日も神の前に罪人であることを認めさせられ刺し通され悔い改めに導かれる私たちですが、だからこそ十字架と復活の福音の言葉を語り、「あなたの罪は赦されています。安心していきなさい」と言ってくださるイエス様の声を聞き、自由にされ、平安のうちにここから遣わされて行こうではありませんか。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

スオミ教会・フィンランド家庭料理クラブのご案内

次回の家庭料理クラブは11月11日(土)13時の開催です。

pulla

今回はフィンランドの「クリスタル・コーヒー・ブレッド」を作ります。フィンランド語で「Kristallipulla」と言います。 バニラシュガーが沢山入っている「クリスタル・コーヒー・ブレッド」は多くのフィンランド人にとって最も人気のある美味しいコーヒー・ブレッドの一つです。フィンランドはこれから寒くなって気温が氷点下に下がると、木の枝の水滴が凍って水晶のように輝きます。トッピングのバニラシュガーが輝いて見えるのでこの名がつきました。

pulla是非ご一緒に作って味わいましょう!

参加費は一人1,500円です。

どなたでもお気軽にご参加ください。

お子様連れでもどうぞ!

人数制限がありますのでご注意ください。

お問い合わせ、お申し込みは、
moc.l1757675737iamg@1757675737arumi1757675737hsoy.1757675737iviap1757675737 まで。
電話03-6233-7109
日本福音ルーテルスオミ・キリスト教会
www.suomikyoukai.org

 

手芸クラブの報告(2023年10月25日)

shugei

この秋の最初の手芸クラブは10月25に開催されました。10月の終わりなのに寒くなく秋の爽やかな朝にスオミ教会に集まりました。

今回の作品はかぎ針編みです。かぎ針編みのテクニックを使って作ったペットボトルや水筒用カバー、小物入れ、鍋敷きをモデル用に準備しました。最初にそれを見て参加者の作りたいものを選びます。今回は参加者の皆さんは小物入れに興味を持ってそれを編むことにしました。

shugeiまず、好みの色の糸を選びます。それからかぎ針編みの基本を思い出しながら作っていきます。初めは鎖編みでスタートして、それを丸くしてから1段から3段まで長編みと鎖編みの繰り返しをします。編んでいる内に四角の形になります。最後に四角の周りに小編みをして一枚目が出来上がりました。皆さんは可愛い色の四角を上手に2枚編みました。残りの2枚はお家で編んでもよいし、次回いらしたときに編んでも宜しいです。残りの2枚が出来てから小物入れになるように組み合わせをします。お家で仕上げられた方もいました。

今回は編み物に集中したためか、時間はあっという間に過ぎて、いつの間にかコーヒータイムになりました。そこでモニターから映し出されるフィンランドの秋の景色を眺めながらヴィヴァルディの「四季」の中から「秋」の演奏を聴き、コーヒーとフィンランドの菓子パン・プッラを味わいました。歓談の時を持ってから、フィンランドの「編み物会」やお祈りについてのお話がありました。

次回の手芸クラブは11月29日の予定です。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。

 

手芸クラブの話 10月28日「編み物会」

この間私たちのミッション団体の雑誌を読んだ時、フィンランドの教会の「編み物会」ついて面白い記事がありました。その記事について少し話したく思います。

shugeiフィンランドでは「編み物会」という教会の活動が1800年代後半にとても盛んになりました。会の名前は「編み物会」ですが、そこに集まった女性たちは編み物だけではなく色んな手芸もしました。女性たちは教会に集まって、手芸をしたり、いろいろ話し合ったり、コーヒーや紅茶を飲んだりして、聖書の教えも聞きました。この時代、多くの女性たちの生活は家に限られていたので、「編み物会」は女性たちにとって大事な社交の場になりました。「編み物会」は、ただ集まって楽しい時を過ごすことだけが目的ではありませんでした。この活動はもっと深い意味がありました。女性たちは「編み物会」で作った手芸品をバザーで販売して海外ミッションの為にお金を集めました。教会の海外伝道すなわちミッションを支えるという役割を果たしたのです。

フィンランドのルター派の国教会は、多くの宣教師をアフリカ、ヨーロッパ、ロシア、アジアに派遣してきました。この働きのためにはお金が必要です。フィンランドの教会ではクリスマスやイースターの前にバザーが行われます。女性たちはバザーで「編み物会」で作った手芸品を売って、得た収入をミッションのために寄付しました。このため「編み物会」の名前も「ミッション編み物会」とも言われます。

牧師のコラム

日本における牧師の権威

私とパイヴィが日本に派遣されたこの13年間、日本では牧師というのはキリスト教会の中では絶大な権威があることがよくわかりました。 以前、赴任していた教会で、牧師先生の聖書の教えがどうも良くなく、新奇をてらいたいのか、聖書で言われていることと明らかに関係ないことを関係あるように言われる。しかし、信徒さんたちは皆、「聖書のプロ」が言うことだから真理だと思って受け入れる。ある人は講義のごとく賢明にノートを取っている。本当に聖書はそんなこと言っているのかな?と疑問を抱く瞬間があっても、すぐああ、そういう理解の仕方もあるんだ、さすが牧師先生!と牧師の方を持ち上げてしまう。(また、人間味溢れることを示すためか、牧師同士や信徒と一緒に酒を飲むなど、権威のソフト面を怠らない人もいました。)

このような日本における牧師の権威を考えると、今回、牧師の按手を受けた者として聖書を教えるというのは大きな危険が伴うことをよく自覚しています。どうしたらいいのか?ルター派の牧師としてなすべきことははっきりしています。律法と福音の説教を続けるのみです。牧師の中には説教の中で罪に言及しなかったり、したとしても過去の遺物か、ただのお飾り言葉になってしまう人もいます。キリスト教徒になったとは言っても、私たちがどれだけ神の意思に反する存在であるか、それを心に思い起こさせることはせず、そのまま神の愛とか恵みとか言ってしまうのです。しかし、ルター派の律法と福音の説教は、自分がどれだけ神の意思に反する存在であるか思い起こさせた返す刀で信仰者の目をゴルゴタの十字架に向けさせます。その瞬間、信仰者はキリストの償いの業のゆえに罪の赦しは本物で、自分はそれを受けていると確信でき、これからは神に背を向けず神の意思に沿うように生きようという心になります。それが律法と福音の説教です。そういう心を生み出すことをせずに神の意思に従わせようとするのが律法主義です。

聖書の御言葉には耳障りのいい言葉だけでなく耳の痛い話も沢山あります。耳障りのいい話だけ集めて教えるのは確かに信徒さんたちの人気と信望を勝ち得る最短の道ですが、耳の痛い話があってこそ神の愛と恵みが本当に神的なものであること、人間的なものを越えているとわかる道です。まさにそれがルター派の説教が目指すところのものだと考えます。

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牧師の週報コラム

 ルターの聖句の説き明かしから

  フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」(1878年初版)から

「あなたは兄弟の目に埃があるのを見て、自分の目に材木があるのを気がつかないとは一体どういうことか?」
マタイ7章3節(フィンランド語の聖書からの訳)

もし君がしっかり目を覚ましているのなら、君くらいの沢山の罪を他の者に見出すことは決してない。他の者に沢山の罪、1年分ないし2年分の罪を見出すとする。ところが君は自分の内に一生分の罪を見出すのだ。特に他の人たちが知らない酷い行いに気づき、君は自分を恥じずべき存在だと思い知る。また、たとえ隣人の中に何か悪いものを見つけても、君は背を向けてはいけない。逆に、その人の良い面に目を向け、君が神から受けた賜物で助けてあげ、悪いものを覆ってあげて、その人に関することを良い方向に捉えてあげて、助言をしてあげなければならない。

たとえ君が最も敬虔な人間だとしても、他の者を裁くことで最も悪い者になることを知らねばならない。君は自分をおだてるために神から賜物を与えられたのではない。隣人が必要としている時に助けてあげるために与えられたのだ。君の力で隣人の弱さを支えてあげよ。君の敬虔さと栄誉をもって隣人の罪と恥を覆ってあげよ。神はキリストを通して君にそのようにして下さったのだ。今も毎日毎日そうして下さるのだ。もし君がそのようにせず、他の人たちを蔑むのなら、君は他の者の目に埃を見る時、実は神のみ前で大きな材木を目に入れた者であることを知るべきである。

zaimoku

家庭料理クラブの報告

夏の後のフィンランド家庭料理クラブは10月14日、秋の爽やかな気候の中で再開しました。今回はフィンランドの秋の季節に合わせてベーコン・キノコパイを作りました。

料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。最初にパイ生地を作って冷蔵庫に入れておいて冷やします。次に中身の準備。参加者みんなでキノコ、ベーコン等を一生懸命刻みます。色とりどりの中身をすぐフライパンに入れて炒めると、だんだん美味しそうなキノコの香りが広がります。皆さん、どんなパイになるか興味が高まりました。中身を冷ましている間、トッピングの準備をします。材料を測ってボールに入れて混ぜて出来上がりです。そして、パイ皿に生地を伸ばしてその上に冷やした中身を載せます。その上にトッピングを流し込んで、最後にチーズをかけてオーブンに入れます。

パイが焼けている間、楽しそうにおしゃべりしながらグリーン・サラダの準備とテーブルのセッティングをします。オーブンから美味しそうな香りが広がると、皆さん興味を持って順番にオーブンの中を覗いてみていました。

ベーコン・キノコパイは焼き上がってからしばらく冷まします。皆さん席に着いて出来たてのパイを切ってお皿にのせてサラダと一緒に味わいました。たちまち「美味しい!」と言う声がテーブルのあちこちからあがりました。このパイをまさに秋の季節に皆さんと一緒に作って味合うことが出来て良かったと思いました。パイを頂きた後で、フィンランドの森のキノコと聖書の中にある種蒔き人のお話を聴きました。

今回の料理クラブも無事に終えることができて天の神様に感謝します。次回は11月の予定です。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。

2023年10月14日料理クラブの話(キノコ)

フィンランドの森では、何百もの種類の食用キノコが育ちます。8月と9月はキノコ狩りの季節です。その頃、多くのフィンランド人が森にキノコ狩りに行きます。キノコを採るのを趣味にしている人も大勢います。秋の森は紅葉が美しく、涼しい季節なので蚊や蠅もいなくなり、森の中を歩くのはとても楽しいことです。キノコを採る際には、いくつか覚えておかなければならないことがあります。そのためにキノコ狩りの講習会も開かれます。

キノコを採るときは、雨の日ではなく天気のよい日を選びます。雨にぬれたキノコとカラッとした天気のキノコは見た目は違うし、雨に塗れたキノコは早く悪くなるからです。キノコを採りに行くとき、持って行く道具として、入れる物やキノコ狩り用のナイフも大事です。キノコをつぶさないためにカゴは大きめのものにします。キノコは、キノコ狩り用ナイフを使って地面から掘り出し、ナイフに付いているハケで土やほこりを落としてきれいにします。キノコは、バラバラにならないように、全体のままカゴに入れます。全体のままのキノコは、後で食べられるかどうか確認するために大事です。キノコを採るときにはいつも、食べられるかどうか見分けがつくものだけを採ります。

フィンランドは毒キノコの種類も沢山あるので、それを見分けるためにキノコのカイドブックがあります。キノコ狩りをする人たちは普通、ガイドブックを持って本を見ながらキノコを採ります。

アンズタケ

多くのキノコは調理をする前にお湯でゆでなければなりませんが、アンズタケはゆでないで直接フライパンでいためたり、ソースをかける料理の中に入れることができます。アンズタケは、フィンランドで一番おいしいキノコと言われます。もう一つとてもおいしいキノコはヤマドリタケです。これも、アンズタケと同じようにゆでないで直接調理に使えます。私の実家がある地域ではアンズタケとヤマドリタケはあまり育ちませんでしたが、アカチチタケは多くてそれをよく採りました。それは料理する前にゆでる必要があります。家ではアカチチタケのサラダをよく作りました。

キノコの収穫は年によって変わります。もし雨が多い温かい夏でしたら、キノコが沢山できます。フィンランドのことわざに、もし何かが沢山あることを言い表わす時、「きのこが雨の中で沢山できるくらいにある」と言います。

キノコが好きな人たちは、たくさん採って一年分くらい食べる量を保存します。キノコはどのようにして保存したらいいでしょうか?一番伝統的な方法は塩で保存することです。簡単なのは冷凍することです。他の保存方法は、ヴィネガー漬けにしたり、乾燥します。

私は、秋、森の中を歩いている時にキノコが見えると、いつも不思議な感じがします。それは、夏、同じ森を歩いている時、キノコはまだ何も見えません。しかし、夏の間キノコの胞子が土の中にあって、秋になるとキノコが土の中から出てきます。それは土にはキノコが育つ為に必要な栄養素や水分が蓄えてあるからです。森の中のキノコは人間が育てるものではなく自然に育つものです。しかし、本当はキノコや他の自然の植物も育てられるものです。誰によって育てられるのでしょうか?それは天と地と人間を作られた天の神さまが育てるものです。

私はキノコを見ると、イエス様が話された種の話を思い出します。それは、種まき人が一度種をまくと、あとはその人が知らないうちに種はぐんぐん成長していくという話です。

「人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず、茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる」。
マルコ4章27-28節

このたとえをよく見てみましょう。ある人が種を土に蒔きました。種は芽を出して成長し始め、茎、穂、そして穂に豊かな実を結びました。そうなったのは種を蒔いた人が肥料を与えたからでしょうか?いいえ、不思議なことに蒔いた人が知らないうちに種が成長していったのです。人が何もしなくてただ寝起きている間に土は実を結ばせたのでした。

イエス様はこのたとえで何を教えているのでしょうか?種とは、天の神さまのみ言葉です。神さまのみ言葉は聖書の中にあります。土は私たち人間の心を意味します。私たちが聖書のみ言葉を読んだり聞いたりすると、土に蒔かれた種と同じようにみ言葉が心に蒔かれます。神さまはみ言葉が蒔かれた心に成長を与えます。心の成長は、私たちの自分の力や努力で与えることは出来ません。天の神さまが、私たちの知らないうちに与えて下さるものです。このように私たちの心の成長は完全に神さまの働きです。神さまの働きがあると、私たちは神さまを信頼するようになって全てのことを神さまに委ねるようになります。この時、私たちは神さまのことをもっとよくわかろうとして聖書を読んだり、み言葉に聞いたりして神さまとの繋がりを強めます。神さまとの繋がりが強まると、心の中に喜びが生まれます。神さまも、私たちを導いてよい実を実らせるようにしてくださいます。

森の中を歩く時、キノコはどこで育つかは私たちには見えませんが、神さまはキノコの胞子があるところをご存じで成長を与えます。同じように神さまは私たちの心を知っておられ、聖書のみ言葉を通して私たちに心と信仰の成長を与えます。

 

牧師のコラム

牧師の週報コラム - SLEYは150歳になりました!

Sley

「フィンランド・ルーテル福音協会」(Suomen Luterilainen Evankeliumi-yhdistys -SLEY)は1873年にフィンランドのルター派国教会の中で活動する団体として結成されました。今年は150周年の記念の年です。

団体結成に至る背景は、1700年代のドイツや北欧のルター派教会をめぐる状況があります。当時のヨーロッパのイデオロギーの潮流は信仰よりも人間の理性に重きを置く合理主義が主流でした。それに対してルター派教会の中は、宗教改革の教義を厳密に体系化した正統主義が主流でした。そのような時に、信仰の危機を見て取った人たちが、信仰者個人の内面の敬虔さや「悔い改め」の体験を追求する「敬虔主義」と呼ばれる信仰復興運動を起こしました。これがドイツや北欧でまたたく間に広まりました。

フィンランドは1809年にスウェーデンからロシア帝国に併合されましたが、国教会制度はそのまま存続したので信仰面ではドイツ・北欧の影響下にありました。そのような時にF.G.ヘドベルイという牧師が、敬虔主義の主観的な救い観に対して、たとえ信仰者が罪に堕ちて敬虔さが傷ついても、主の十字架の贖いの業には何の影響もなく罪の赦しの恵みは微動だにしないということをルターの神学から見出して主張。それが多くの牧師と信徒の賛同を得て「福音派」と呼ばれる信仰復興運動が誕生しました。その運動が1873年にSLEYとして結成されたのでした。SLEYはまた国内伝道だけでなく海外伝道も始め、最初の伝道地として日本を選び1900年から宣教師を派遣して現在に至っています(「福音派」といっても現代の北米などの福音主義とは異なります)。

客観的な恵みと救いを強調すれば、聖書の御言葉も人間が勝手に手を加えられないものになり、SLEYは本質的に保守的です。フィンランドの国教会は近年リベラル化が進み、SLEYとは多くの軋轢があります。しかし、国教会の中には教会の現状を憂えSLEYに賛同する人たちも大勢いるのです。

先週の週末は全国各地のSLEYの教会や国教会の教会で150周年の記念礼拝や行事が一斉に行われました。ヘルシンキではSLEYの2つの教会の他に、観光名所として知られるテンペリアウキオ教会でも音楽聖餐式礼拝が行われ、若者を中心に700人もの出席がありました。Youtubeで見る

スオミ教会 手芸クラブのご案内

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秋の手芸クラブは10月25日(水)10時~13時に開催します。

今回はかぎ針編みをします。shugeiかぎ針編みは現在も人気がある昔からの手芸テクニックの一つです。かぎ針編みで可愛い手芸がいろいろ出来ます。 今回はペットボトルや水筒用カバー、小物入れ、鍋敷きを作る予定です。作りたいものをお選びください。

材料費は編み物により変わります。500円~

好みの糸や毛糸を持っていらしても大丈夫です。

手芸クラブは他に自分の好きな編み物をしたい方も参加できます。

おしゃべりしながら楽しく作りましょう!

お子さん連れでもどうぞ!

皆様のご参加をお待ちしています。

お問い合わせ、お申し込みは、
moc.l1757675737iamg@1757675737arumi1757675737hsoy.1757675737iviap1757675737

www.suomikyoukai.org

03-6233-7109

日本福音ルーテルスオミ・キリスト教会

東京都新宿区鶴巻町511-4―106