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2024年6月30日(日)聖霊降臨後第六主日 主日礼拝  説教 田口 聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

「夏に牧師がフィンランドに一時帰国するため、その間のスオミの礼拝は協力牧師が担当します。」

マルコ5章21−43節(2024年6月30日)

「新しく生かす、力ある神のみ言葉」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

1、「初めに」

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 今日の箇所の前に5章のこれまでのところを振り返ってみますが、イエス様と弟子達がガリラヤの向こう側に渡った時、レギオンという名の悪霊につかれた、墓場を住まいとする男がやってきます。その悪霊はイエスが神の御子だとわかり恐ろしくなり「かまわないでくれ、苦しめないでほしい」と求めます。しかしイエスはその通りにせず、その惨めな男性を哀れんでくださり、悪霊レギオンを近くに飼われている豚に乗り移らせ、その男性を悪霊から救いだしました。そして、レギオンは豚と共に湖になだれこみ滅ぼされたのでした。助け出された男性はイエスと一緒に行きたいと申し出るのですが、イエスは「身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」と彼への召命を与えて、主がしてくださったことを身内へと伝えるようにと遣わしたのでした。それが20節までの出来事でした。 そこで今日の箇所になります。

2、「会堂長ヤイロ」

「イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。

21−24節

 イエス様は弟子達と再び、湖を渡って対岸へ戻ってきます。その前からイエスに会うために群衆が絶え間なく押し寄せていた状況でしたから、イエス様と一行が戻ってくるのを待っていたかのように群衆は集まってきたのでした。そこに「会堂長」というユダヤ教の会堂であるシナゴーグを管理するヤイロという男性がイエスのもとにやってきてひれ伏すのです。ヤイロは「娘が死にそうな状況であるので、娘のところに来て手を置いてほしい。そうすれば娘は助かります。生きることができます」と願うのです。娘を思う父親であれば当然の叫びです。そしてヤイロは「手を置いて」と言っているように、これまでイエスが具体的に手を置いて(1章31節、41節)病気の人を癒したり、悪霊を追い出した情報を聞いていたのでしょう。彼はそれを聞いてイエスは癒すことができると信じて、イエスに求め叫んだのでした。先程の向こう岸の墓場を棲家とする男性にも目を止めて助け出したように、イエス様はこの会堂長ヤイロの声も、決して無視せず、心に留めます。そこには、イエス様を信じて求める声を、それが誰であってもイエス様は蔑ろにされない、深い憐れみが表されています。イエスはそのヤイロの求めに答えて、一緒にヤイロの家に向かうのです。

 そのイエスのご自身を求めるものへの憐れみは、この後、ヤイロとは関係なく起こる一人の女性にも不思議な形で表されます。群衆もそのイエスに従って歩いていたところ、25節以下にこんな出来事が起こるのです。

3、「この方の服にでも触れれば」

「さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。 多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。 イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。

25−28節

 病いに苦しむ一人の女性が、群衆の中からイエスに縋るのです。彼女は、12年の間病気でした。挙げ句の果てに「多くの医者にかかってひどく苦しめられた」とあります。彼女はあらゆる種類の治療を試したようです。タルムードというユダヤ律法の解説書には当時は11の治療法が挙げられていたようですが、ほぼ迷信に近いような治療法まで記されていたようなのでした。彼女はそのように、ほとんど医者でもないような施術を行う治療師の迷信的な治療を様々試したようなのです。しかし根拠のない治療法なので、治ることなくただ費用だけ消費され全財産を失い、おまけに治ってもいないのですから、病状も悪化するという悲惨な状況でした。しかし彼女も、ヤイロと同じ、イエスのことを聞いて、イエスなら癒してくれると信じるのです。しかし大勢の群衆です。しかも当時は女性がラビである教師に話しかけるなどできないほど女性は地位が低かった社会でした。それゆえ彼女は話しかけることさえもできないのです。そこで彼女はイエスの「服にでも触れれば癒していただける」。そう思って、服に触れたのでした。その時、人間の常識や理解からはかけ離れた不思議なことが起こるのです。

「すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。

29−32節

 女性は、イエスの衣に触れただけです。しかしその瞬間に、病気が治ったことを実感したのでした。そしてイエスも「自分の内から力が出た」ことに気づきます。つまり、イエスの衣服だからとその衣に特別な力があるというのではなく、「イエスご自身から」力が現されたのでした。イエスは全てを知られるお方です。ですから、もちろん自分に起こったことをすでにわかっていたでしょう。しかしイエス様はあえて「わたしの服に触れたのは誰か」と尋ねるのです。なぜでしょうか?

4、「イエスはなぜその女を探したのか?イエスの真の目的」

「女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」

33−34節

 みなさん、イエス様が、ただ病気の癒しのためだけに来られた、あるいは、病気を治すことが第一の目的であり、ゆえに、病気を治すことが救いであるというのなら、イエス様は女に話しかけずに、そのままにしたでしょう。多くの病人に衣類でもなんでも触らせ、癒してその働きは終わりでいいでしょう。しかし、イエス様の来られた目的はそれ以上です。もちろん大勢の人々が、癒されました。しかし、病気は癒やされても、誰でもまた他の病気になったり、寿命がくれば死を迎えます。そして、癒された人も、悔い改めて神に立ち返ることがなければ、つまり、これからイエス様がなさる十字架と復活の福音を知り、受け取り、信じることがなければ、死の先の永遠の命、つまり、イエス様が真に与えようし、そのために世にこられた、その真の救いを経験することはできないのです。ですから、この女性も、ただ癒やされ、それで解決、終わりではないのです。イエス様は相手が女性であることもその病気も知ったことでしょう。しかし女性が通常、自分に話しかけることはなかなか難しいこともよく知っています。だからこそです。「誰か」と尋ねるのです。女性は、恐ろしさに包まれますが、自分だと名乗り出るしかありません。そこで彼女は名乗りでで自分の経緯を話さざるを得なかったのでした。しかし、そのようにイエス様が彼女と交わり、言葉を交わし、言葉を伝えること、教えることこそがイエス様が「誰か」と尋ねた目的でした。そこでイエス様は何を伝えますか?イエス様は優しく教えます。「娘よ。あなたの信仰があなたを救ったのだ」と。もちろん、彼女にある何かに直したり救ったりする力があるのではありません。治したのは、イエス様の力です。さらに、救いに関して言えば尚更ですが、それは毎回強調しているように、救いはイエス様の力、イエス様の救いであり、「あなたの信仰」とあるその信仰さえも律法ではなく、福音であり、賜物であり、そのように、救いは神の救いであり、人のわざではありません。イエス様ご自身もその癒しと救いの力は、自分から出たものであり、神のわざであることを知っています。ですから、その彼女に与えられた求める想い、イエス様なら治すことができるという信仰、それもヨハネ3章27節に「人は天から神から与えられるのでなければ何物をも持つことができない」とあるように、神からの賜物としての信仰ではあったでしょう。まさにそのような意味でこそ、彼女に「与えられた」その信仰ですから、イエス様は確かに、それを彼女のものとしてくださり「あなたの信仰が」と教えるのです。確かにその通りです。それは、彼女にとっても、何か彼女自らの力で搾り出したような律法の信仰ではなかったでしょう。もはや自分も医者も何もできないという状況です。そんな中で、「自分が何をしなければならないか」の思いではなく、ただただ「イエスが何を人々にしてくださったのか」の良い知らせを聞き、それをそのまま受け入れ、そのまま促されて、そのイエスにすがれば、その衣でも触れば、癒されるという信仰です。彼女に何か律法的な思いがあったとすれば、社会が定めた聖書的ではない慣習、女性がラビに話しかけてはいけない、そのような恐れや心配は見られます。しかし、そのような彼女の律法的な動機や行為は何もここで働きません。むしろそのように律法でイエスへ話しかけるという消極的な思いを、開いてくださった、自分の全てを語るように導いてくださったのも、「イエス様の方から」です。まさにイエス様からの憐れみの言葉、福音によるものでしょう。全ては「イエスが何をしてくださったのか」「イエスがしてくださったこと」によって、促され、導かれ、この救いは起こったのでした。イエス様のわざです。しかし、イエスがそのように彼女に与えてくださり導いてくださった信仰が彼女を通して働いたからこそ、その救いは「あなたの信仰」であり、その信仰が彼女を救った、その通りなのです。

 私たちも同じです。私たちの信仰も、律法や私たちの意思の力によるものでもなければ、私たちの努力や成し遂げたものでも決してなく、どこまでも神の賜物であり、み言葉と聖霊によって私たちに与えられたものです。しかし「与えられた」のですから、それゆえに私たちの信仰でもあるのです。私たちの信仰であり、私たちが確かに「信じる」のですが、それは「私たちの力」ではなく、どこまでもみ言葉と聖霊が豊かに働いて、神が力を現すものであるがゆえに、聖書にある通り「信仰は力がある」のです。そのような意味でイエス様はいつでも信じなさいと、言ってくださるし、私たちにも「あなたの信仰があなたを救ったのです」と言ってくださっているのです。感謝ではありませんか。

5、「「恐れることはない。ただ信じなさい」信仰は福音」

 そして、35節からヤイロの話に戻ります。ヤイロの家のものが来て言うのです。

「イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」 35節

 なんと、イエスが到着する前に、ヤイロの娘は亡くなってしまいました。その家の使いのものは、絶望のうちに言います。「もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」そう、もう死んでしまった人を生き返らせることはできないというのは、いつの時代も変わることのない事実であり現実でした。そしてそれはイエスでさえもできないというのが、その使いの言葉には表れています。しかし、36節

「イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。

36節

 イエス様のヤイロへの言葉「恐れることはない。ただ信じなさい」。ヤイロも使いの者の絶望的な言葉を聞いて、深く悲しみ、失望し、もう遅かったと思ったことでしょう。しかし、ヤイロのそのような疑いや絶望に対して、イエス様はこの言葉で強め励ましているでしょう。

「恐れることはない。ただ信じなさい」と。

 みなさん。このイエス様の言葉。これは「〜しなさい」と命令形だからと、この失望に沈むヤイロを責め立てる律法の言葉だと思いますか?違います。「恐れることはない。」とあるでしょう。そして「ただ信じなさい」です。イエスはヤイロが恐れていること、もう絶望していることをを十分に知っています。そんなヤイロに「恐れる必要はありません」と言ってくださっているイエス様の声は、ご自身になおも目と希望を向けさせる声ではありませんか。その「信じなさい」なのです。その「信じなさい」に、ヤイロの挫折した心、疑いの心は信仰へと再び鼓舞されるでしょう。そう、娘の死という現実の前に絶望するヤイロは自分で自分の信仰を鼓舞するなんてことは決してできません。みなさん、ここでも、イエス様の言葉こそがヤイロの信仰を再びよみがえらせた、復活させた、立たせているでしょう。みなさん、これが恵みの信仰の素晴らしさ、信仰が福音であることの素晴らしさなのです。

6、「神の言葉、新しく生かす力」

 そこでイエスはヤイロと3人の弟子だけを連れて家の中に入ります。家の中の人々は、大声で泣き喚き騒いでいます。しかしイエス様は彼らに「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」と言います。人々はそんなイエスをあざ笑いました。当然です。死んだのですから。しかしイエスはこれからご自身が行おうとしていることのゆえにそう言ったのでした。そして、娘のところへ行き、

「そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。 少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。

41−43節

 イエス様は娘の手を取り、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」と言います。その時、少女はすぐに起き上がって歩き出し、準備された食事をとるのです。人々にとってはまさに驚き、信じられない、信じることができないことです。しかし、ここに単純な福音があるでしょう。そう、イエス様は天から来られ人となられた神の御子、その言葉は神のみ言葉です。それは無から天地万物を創造され、塵から取られ型取られた人間に命の息を吹きかけて生きるものとしてくださったその言葉、「全ては非常に良かった」と祝福された言葉、そして堕落した人類にも「女の子孫が」とサタンの頭を砕き勝利することを約束されたその通りに、御子イエス・キリストを人として生まれさせ実現させた、その言葉です。その言葉には、力がある。死者を復活させる力がある。そして信じることのできないことを、信じるようにご自身のみ言葉のわざを現され、信仰を与えてくださる力、そして、その信仰が何度、倒れても、何度絶望しても、何度疑っても、何より信仰を復活させる力がある、神の言葉が、ここに示されていることがわかるでしょう。今日のところはただの癒しの出来事ではない、何よりもキリストとその言葉に血よる力が指し示されている。そのキリストが私たちのために来られ、素晴らしい信仰をもたらしてくださるそのことを今日も教えてくれていると言えるでしょう。

7、「結び」

 私たちは、堕落の子であり、どこまでも神を、その言葉を信じられないものであり、疑い、背を向け、自分勝手に生きようとするものです。アダムとエバのように、自分たちこそが中心であり、神のようになれることを選ぶ、そのような存在でした。「イエスの十字架?、私たちの罪のため?そんなこと信じられない。自分に罪なんてあるものか、自分はそんなに悪くない。世にも家族にも貢献している。刑法に触れるような罪なんてしたこともない」と、そのように神の前の自分の罪も見えない、知らない、教えられても見ようとしないものでした。しかし、そのような私たちに信仰があるのはなぜですか?十字架の血は私たちの罪のためであると、そのイエス様の十字架と復活によって救われたと、毎週告白でき、毎週、その十字架と復活に平安のうちに新しくされ遣わされる事実は、何ゆえですか?自分の力ですか、努力ですか?あり得ません。イエス・キリストのゆえではありませんか?イエス・キリストの方から、私たちに出会ってくださり、招き導いてくださり、語りかけてくださった。み言葉を通して。そのみ言葉を通して、信じられないものが信じるように変えられたのは私の何かではない。ただイエス・キリストのゆえに。そのみ言葉に働く神の力のゆえであると誰もが告白するでしょう。そう、同じように、イエス様は、今日も罪ゆえに弱りはて、疑いに沈む信仰を、悔い改めに導きながら、その悔いる私たちに、イエス様は、責めるのでも裁きで終わるのでもない、どこまでも「憐んでくださり」この「イエス様が私たちのために何をしてくださったのか」の福音によって、信仰を新たにして下っているのです。イエス様は今日も私たちに変わることなく宣言してくださっています。「あなたの信仰があなたを救った」「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひ福音を受け取り、安心してここから世に、その福音の証し人として用いられるために遣わされて行きましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

説教「キリスト信仰者は目に見えるものによらず信仰によってこの世を歩む」 吉村博明 牧師 、マルコによる福音書4章26~34節

本日の礼拝の動画配信は機器の不具合のため出来ませんでした。ご了承ください。

2024年6月16日 聖霊降臨後第四主日 主日礼拝説教
聖書日課 エゼキエル17章22ー24節、第二コリント5章6ー17節、マルコ4章26ー34節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

イエス様の教えに特徴的なことは、たとえを用いて教えたということです。たとえを用いて何を教えるかと言うと、「神の国」とはどのようなところか、神はどのような方か、そして「神の愛」とはどのようなものであるかが重要なテーマでした。本日の福音書の日課に2つのたとえの教えがありますが、イエス様はどちらも「神の国」に関係すると言っています。

 最初のたとえの出だしはこうでした。「神の国とは、人が種を播いて、夜は寝て昼は起きてを繰り返していくと、起こってくることに似ている」と。何が起こるかと言うと、「種は育っていくがそれがどう伸びていくのか、その人は知らない。種が播かれた地が自ずと種を成長させ、初めは茎、次に穂を成長させ、最後に穂の中に実を結ばせる。」つまり、神の国は、播かれた種がどう育っていくか詳細はわからないがとにかく育っていく、そういうことに似ていると言うのです。しかし、まだ続きがあります。実がなると鎌で穂を刈り取る時、すなわち収穫の時が来ると。つまり、「神の国」というのは、目には見えない成長を経て最後に目に見える実が実って完結するものであるというのです。皆さんは、これを聞いて「神の国」がどんな国かわかりましたか?

 もう一つのたとえは有名な「からし種」のたとえです。蒔かれる時は地上のどんな種よりも小さいが、成長すると驚く位に大きくなる。これが「神の国」を連想させるというのです。「からし種」とは、日本語でクロガラシ、ラテン語の学名でブラッシカ・ニグラという植物の種で、その大きさはほんの1ミリ位ですが、成長すると大きな葉っぱを伴って2~3メートル位になるそうです。たとえでは、大きな枝が出て葉の陰の下に鳥が巣を作れるくらいになると言われています。クロガラシは大きな葉は出てきますが、大きな枝というのは少し誇張がすぎないでしょうか?

 実は、イエス様がそう言った背景には先ほど朗読して頂いたエゼキエル書17章があります。イエス様はそれをたとえに使っているのです。「わたしは高いレバノン杉の梢を切り取って植え、その柔らかい若枝を折って、高くそびえる山の上に移し植える。イスラエルの高い山にそれを移し植えると、それは枝を伸ばし実をつけ、うっそうとしたレバノン杉となり、あらゆる鳥がそのもとに宿り、翼のあるものはすべてその枝の陰に住むようになる」(22ー23節)。

 確かにエゼキエル書には、あらゆる鳥が来て宿れるような枝が沢山あることが言われています。イエス様のからし種の教えと合致します。しかし、それなら最初から「からし種」なんか出さず「柔らかい若枝」を用いてたとえを言えばよかったのでは?イエス様が「からし種」を引き合いに出したのは、初めは目に見えない位に小さなものが最後には誰の目にも明らかな大きなものになるという変貌を強調したかったからです。これは、最初のたとえで、目に見えない成長を遂げた種が目に見える実を結んで完結することと同じです。イエス様は「神の国」がこのように目に見えないものが目に見えるものになって完結するものであることを教えているのです。

 さあ、これで「神の国」がどんなところかわかるでしょうか?おそらく、もうちょっと説明があればなあ、というのが大方の感想ではないでしょうか?そこで、今日の日課の中で一つあれっと思わせることがあります。終わりのところで、イエス様はたとえを用いて人々に教えるが、弟子たちにはひそかに全てを説明した、とあります。マルコ4章の初めに有名な「種まき人」のたとえがあります。種が4つの異なる地面に播かれて、それぞれ異なる運命を辿ったというたとえです。イエス様はそのたとえの説明を弟子たちにしました。ところが、今日の二つのたとえには説明がありません。「神の国」とは、目に見えないものが見えるものになって完結するというのはわかるが、それ以上の説明はありません。イエス様は弟子たちに説明をしたという事実はマルコに伝わりましたが、この二つのたとえの説明はなぜか彼の手元に届かなかったようです。

 しかし、私たちは本当は説明なしで理解できるのです。なぜかと言うと、私たちはイエス様の十字架の死と死からの復活の出来事を知っており、かつ信じているからです。イエス様の教えの多くは、一見すると理解するのが難しかったり、理解できても受け入れるのが難しいものが沢山あります。しかし、それらは皆、イエス様の十字架と復活を念頭におけばわかるのです。十字架と復活を信じれば、受け入れることができるのです。そういうわけで、今日はイエス様の十字架と復活を心に留めながらこの二つのたとえを見ていきましょう。

2.「神の国」とは

実と言うと、イエス様の十字架と復活の出来事の後の時代を生きる私たちは「神の国」がどんなところで、どうすればその一員になれるかがわかるのです。それをわかって本日のたとえを見ると、その内容もわかるのです。順序が逆な感じがしますが、本当にそうなのです。なので、まず「神の国」がどういうところで、どうすればその一員になれるかを聖書に基づいてわかるようにしましょう。その後で2つのたとえを見てみましょう。

 「神の国」とはまず、「ヘブライ人への手紙」12章にあるように、今のこの世が終わりを告げて全てのものが揺り動かされて取り除かれてしまう時、唯一揺り動かされず取り除かれないものとして現れてくる国です(26~29節)。この世が終わりを告げるというのは、あまり明るい話に聞こえません。しかし、聖書が言わんとしていることは、この世が終わりを告げるというのは同時に次の新しい世が始まるということです。イザヤ書の終わりの方で、神が今ある天と地にかわる新しい天と地を創造するという預言があります(65章17節、66章22節)。そのような新しい天と地の創造の時というのは同時に、最後の審判の時であり死者の復活が起きる時でもある、ということが黙示録の21章と22章の中で預言されています。それ以前に眠りについていた者たちは起こされて、その時まだ生きている者たちと一緒に審判を受け、万物の創造主である神に義とされた者は「神の国」に迎え入れられるというのです。

 そこで「神の国」の中身に目を向けると、そこは黙示録21章に言われるように「もはや死はなく、悲しみも嘆きも労苦もない」ところで、そこに迎え入れた人たちの目から神が全ての涙を拭い取って下さるところです(4節)。痛み苦しみの涙だけでなく無念の涙も全て含みます。さらに使徒パウロによれば、そこに迎え入れられる人たちは今の朽ち果てる肉の体に替わって朽ちない神の栄光を現わす復活の体を着せられます(第一コリント15章42ー55節)。復活の体を着せられて「神の国」に迎え入れられる者たちのことをイエス様は「天使のような者」と呼んでいます(マルコ12章25節)。

 神の国はまた黙示録19章にあるように、結婚式の盛大な祝宴にもたとえられます。イエス様も神の国を結婚式の祝宴にたとえました(マタイ22章1~14節)。この世での労苦が素晴らしい形で労われることを象徴します。

 以上を総合して見ると、「神の国」は今の世界が一変した後の新しい天と地の下に現れる国で、そこに迎えられる者は朽ちない神の栄光に輝く復活の体を着せられ、死も病気もなく皆健康であるところ。古い過ぎ去った世での労苦を全て労われ、古い世で被った不正義も最後の審判で全て神の手で最終的に清算されるところ。その意味で道徳や倫理も人間がこねくり回したものではなくなって万物の創造主の意思が貫かれている国という姿が浮かび上がってきます。

 それから「神の国」は、イエス様が語って教えただけのものではありませんでした。イエス様が地上にいた時、「神の国」はイエス様とくっつくようにして一緒にあったのです。そのことは、イエス様が起こした無数の奇跡の業に窺えます。イエス様が一声かければ病は治り、悪霊は出て行き、息を引き取った人が生き返り、大勢の人たちは飢えを免れ、自然の猛威は静まりました。一声かけなくても、イエス様の服に触っただけで病気が治りました。イエス様から奇跡の業をしてもらった人たちというのは、神の国の事物の有り様が身に降りかかったと言うことができます。病気などないという事物の有り様が身に降りかかって病気が消えてしまった、飢えなどないという事物の有り様が身に降りかかって空腹が解消された、自然の猛威の危険などないという事物の有り様が身に降りかかって舟が沈まないですんだという具合です。そのようなことが起きたのは、まさに「神の国」がイエス様と抱き合わせにあったからです。その意味で奇跡を受けた人たちというのは、遠い将来見える形で現れる「神の国」を垣間見たとか、味わったことになるのです。「神の国」では奇跡でもなんでもない当たり前のことがこの世で起きて奇跡になったのです。

 しかしながら、イエス様と「神の国」の関係についてもっと大事なことがあります。「神の国」について教えたり、奇跡の業で味あわせたというだけに留まりませんでした。何かと言うと、人間が「神の国」に迎え入れられるのを邪魔していたものをイエス様が取り除いて、迎え入れが実現するようにして下さったということです。それが、イエス様の十字架の死と死からの復活でした。人間と神の結びつきを断ち切っていた原因であった罪、神の意思に背こうとする人間の性向を、イエス様が全部自分で引き取ってゴルゴタの十字架の上に運び上げてそこで人間に代わって神罰を受けられたのでした。さらに死から三日後に神の想像を絶する力で復活させられて、死を超えた永遠の命があることをこの世に示して、そこに至る道を人間に切り開いて下さったのでした。

そこで今度は人間の方がこれらのことは本当に起こったとわかってイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになります。その人は罪を償ってもらったことになるから、神から罪を赦された者として見なされます。罪を赦されたから、神との結びつきを持ててこの世を生きられるようになります。この結びつきは、罪の赦しという神のお恵みの中に留まる限りなくなりません。人生の順境の時も逆境の時も全然変わらない神との結びつきを持ててこの世を歩みます。この世から別れる時も神との結びつきを持ったまま別れられ、復活の日が来たら目覚めさせられて復活の体と永遠の命を与えられて「神の国」に迎え入れられます。イエス様はこれらのことが本当のことになるように必要なことを全て成し遂げられらのです。

3.キリスト信仰者は目に見えるものによらず、信仰によってこの世を歩む

これで、「神の国」とはどういうところか、どうすればそこに迎え入れられるかがわかりました。そうしたら、もう一度、二つのたとえを見てみましょう。

 まず、最初のたとえ。終わりのところで「収穫の時に鎌を送る」と言われます。これは終末の時、「神の国」が現れる時を暗示します。新共同訳では「鎌を入れる」ですが、ギリシャ語の動詞(αποστελλω)は「送る」です。この原文の意味にこだわると、イエス様はヨエル書4章13節を引用していることが見えてきます。そこでも、「鎌を送れ、刈り入れの時は熟した」という神の託宣があるからです(新共同訳では「鎌を入れよ」ですが、ヘブライ語の動詞(שלח)は「送る」です)。ヨエル書のこの箇所は終末の日の預言です。イエス様もマタイ13章で「刈り入れ」とは世の終わりの日を意味し、そこで良い麦は倉に収められると言って、神に義とされた者たちが神の国に迎え入れられることが言われています(24~30節、36~43節)。

 そこで地に撒かれる種とは何を指すのか?二つのことを指します。一つは、神の御言葉です。もう一つは、神の御言葉を心に播かれた人間です。神の御言葉を心に播かれた人が、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて植物のように育って実を結び、「神の国」という倉に収められるのです。種が御言葉と人間の両方を指すということは実は、マルコ4章の「種まき人」のたとえの説明にも出てきます。説明の冒頭(14節)で種は御言葉であると言うのですが、続きをよく読んでいくと「~に播かれた人たちはこういう人たちである」と言っています。つまり、種は人間も意味するのです。ちょっと混乱しそうですが、要は、御言葉を種のように心という地に播かれた人が植物のように成長して実を結ぶということです。

 今日の最初のたとえは、イエス様を救い主と信じて実を結ぶまでに成長する人についてですが、その成長は目には見えないと言うのです。これは、キリスト信仰者の内なる信仰の戦いを意味します。キリスト信仰者といえども、この世を生きる間はまだ肉の体を纏っているので、神の意思に反しようとする性向、罪を内に持っています。神は、心の中の清さ、潔白さも求める方なので、信仰者と言えども、無罪(つみ)にはなりえません。しかし、信仰者は罪の自覚に背を向けずにそれに正面から向き合い、すぐイエス様の十字架を心の目で見て、神のひとり子の犠牲の上に罪の赦しがあることを思い起こします。そして、これからは罪を犯さないようにしようと決意を新たにします。このように、キリスト信仰者は罪の赦しという神の恵みを土台にして罪に反抗する生き方を貫くのです。父なるみ神はそれを義として下さるのです。それで、信仰者はかの日に神の御前に立たされても大丈夫だという確かな安心があるのです。

 キリスト信仰者が罪の赦しのお恵みに立って罪と戦う時、その戦いは恐らく外見上には見えるものではないと思います。逆に外見的に見えるものになるというのは、神から救いを得るために何か見える業を行っている可能性が大です。そもそもキリスト信仰とは、救いはイエス様が果たしてくれた、あとは彼を救い主と信じれた救いを受け取ることが出来るという信仰です。なので、救いを得るために何か業をする必要ありません。救いは先に信じて手に入れてしてしまった、だから、あとは見返りを求める必要もなく、「ただ神の意思だからそうするだけです」と言って良い業を行うだけです。それが真実の実を結ぶことになるのです。

 二つ目の「からし種」のたとえも同じです。最初に申し上げたように、このたとえの背景にはエゼキエル書17章があります。そこで言われる、大きく育ったレバノン杉というのは、まさに今あるこの世が終わって新しい天と地の下に現れる「神の国」を意味します。もともとこの預言は、イスラエルの民がバビロン捕囚から解放されて祖国帰還と復興を果たすことを預言していると考えられました。ところが、民が帰還してエルサレムの町や神殿を再建しても取り巻く状況は預言の実現には程遠いことが人々の目に明らかになってきます。そうすると、鳥たちが安心して宿れる大木というのは実はバビロン捕囚からの帰還ではなくて、もっと将来の「神の国」を指すのだと気づき出されるようになります。イエス様自身、「神の国」は今のこの世が終って新しい天と地の下に現れるものであるとお墨付きを与えます(マルコ13章27ー27節など、マタイ25章31ー46節も)。

 それにしても「神の国」をレバノン杉のような大木ではなく、高さ2,3メートルほどのクロガラシに結び付けて言うのはどうしてでしょうか?それは、イエス様の主眼は、からし種のように砂粒みたいな種が2,3メートル位の大きさの植物を生み出すという、そういう大きな変化を強調したかったからです。最初は目に見えない位の小さいものが誰の目にも明らかな大きなものに変化する。それでは、大きなものは神の国を指すとして、そうしたら、目に見えない位の小さなものとは何を指すでしょうか?からし種にたとえられているものは何でしょうか?

 からし種は、最初のたとえと同じように神の御言葉と御言葉が播かれた人の二つを意味します。ただし、最初のたとえでは、神の御言葉が播かれた一人ひとりの信仰者について言われます。二つ目のたとえでは、大きな形を取って現れるので、一人ひとりの信仰者と言うよりも神の国に迎え入れられる者たちの集合体です。まさに「神の国」そのものです。

 からし種を神の御言葉とすると、最初は小さいことが強調されます。人間ならともかく神の御言葉が小さい、しかも目に見えない位に小さいというのはどういうことでしょうか?

 ここで「神の国」と現実世界の国がどのように成り立つかを比べてみましょう。現実世界の国は国土とか国民とか経済とか政府とか軍隊を構成要素とします。これらの要素が大きくなればなるほど、国も大きくなります。ところが、「神の国」は将来新しい天と地の下に唯一現れる国なので、今のこの世ではまだ何もないように思われます。ところが、この世では「神の国」の構成員が一人また一人誕生します。構成員たちは、将来現れることになる「神の国」を目指してこの世の人生を歩んでいきます。「神の国」はまだ現れておらず目には見えませんが、既に始まっているのです。この始まっている国は、そこに向かって歩む構成員はいますが、国土も政府も軍隊もありません。「神の国」を成り立たせているのは今申し上げたように神の御言葉です。それが人の心に撒かれて、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて「神の国」に向かって歩み出すようになります。その構成員がまた一人増え、そうやって大きなうねりになっていきます。そして、「神の国」が現れる時、神の御言葉こそが迎え入れらの決定的な要因であることが明らかになります。どんな国力をもってしても、また人間の名誉、知恵、財産をもってしても迎え入れには何の役にも立たないことが明らかになります。古い世ではそうした人間的なものこそが役に立つと思われ、神の御言葉など何の役に立つのか見向きもされなかったのが大逆転するのです。なのでキリスト信仰者は、目に見えるものによってこの世を歩みません。今は肉眼の目には見えないが将来見えることになるものを、信仰の目で見据えて歩むのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2024年6月9日(日)聖霊降臨後第二主日 主日礼拝  説教 田口 聖(日本ルーテル同胞教団) 牧師

マルコ3章20−35節(スオミ教会礼拝説教2024年6月9日)

「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母です」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

1、「初めに」

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 この3章を1節から簡単に振り返りますと、まずイエス様は手のなえた人を癒されました(1−6節)。そしてその後、イエス様と弟子たちは湖の方に退かれるのですが、すでに、イエス様の噂は広まり、大勢の人々がイエスに会うために群衆となって押し寄せてきていました。7節以下でも、岸辺にあまりにも多くの群衆が押し寄せたために、押し潰されないようボートまで用意させたことが書かれていますが、そのように集まってきた人々のためにもイエス様は「多くの病人を癒したり」(10節)「悪霊を厳しく戒めたり」(12節)など不思議なわざを行ったことが書かれています。そして、13節からは12弟子を選ばれることが書かれて、今日のところになります。

2、「イエスのもとに人々は集まるが」

 今日の箇所でも、まず20節

「20イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。

20節

 と始まっています。「家」というのが、イエス様の家なのか、あるいは、よく滞在していた「シモン・ペテロ」の家なのかははっきり書かれてはいないのですが、そこにも群衆は絶えることなく集まってきました。それは、彼らが食事をする暇もないほどであったのでした。もちろんこの時、まだ十字架と復活の前であり、聖霊が与えられる前ですから、イエスのもとに集まってくる群衆は、全ての人が、バプテスマのヨハネが指し示した「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」の本当の意味を理解し、罪の赦しと真の救いを信じて集まってきていたのではなく、不思議な癒しやしるしを見て評判を聞きつけ、ただ見てみたい、あるいは純粋に直して欲しいという動機で集まっている人々がほとんであったことでしょう。しかし、たとえそのような人々であっても、イエス様は蔑んだり、突き放したりはせずに、「食事をする暇もないほどに」、彼らに対応されていたのでした。

 後に、マタイ16章16節にあるとおり、ペテロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白した時に(マタイ16:16)、イエス様はその告白について「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」(16:17)と教えている通りに、イエス様に対する正しい理解と告白は、弟子でさえもそうであるように、人のわざや力ではなく、どこまでも神からからの賜物であり、み言葉と聖霊によるものです。ですから、イエスに集まってきた群衆のイエス・キリストについての理解も十分ではなかったのと同時に、今日のところで出てくる、本来、私たち人間の一般的な考えでは、イエスの身近にいて最高の理解者であるはずと思うイエスの家族や、あるいは、聖書をよく知っている律法学者でさえも、集まってきていた群衆と同じように、イエスを神の救い主として正しく理解できていなかったことがここで書かれているのです。21節からこう続いています。

3、「身内の人々がイエスの活動をやめさせようとした」

「21身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。

 「身内の人たち」とありますが、、おそらく家族だと思われます。彼らは、「イエスのことを聞いて」とあります。何を聞いたのでしょう。それは、彼らの周りの人々が「あの男は気が変になっている」と言っていたのを聞いたのでした。このようにイエスの家族の周り、イエスを見るために集まってきていた人々、そして噂を聞いていた人々が、みな好意的にイエスの前に集まってきていたのではないこともわかります。イエス様は病人を治したり、悪霊を戒めたりしました。しかし、家族にとっても、近所の人々にとっても、彼は大工の家の長男にすぎません。彼らにとっては、そんな大工の息子が、病人を癒したり、悪霊を戒めたり、そして聖書から神の国や救いを説いたりするなんて、ありえないことであり、人々は懐疑的になり疑って当然のことでした。しかも、そんな大工の息子が、12人の弟子まで連れているというのですから、世の中の常識や目にみえる日常の秤や先入観とは違うイエスの姿は「気が変になっている」ように見えて当然であったのでした。おまけに、6節までの手のなえた人を癒した出来事の場面でも、イエスは社会で宗教文化を支配している宗教指導者たちからの評判もすこぶる悪いことも、家族は窺い知ることができたことでしょう。そのように、目の前の普通ではない現実から見て、身内の人々、家族の人々は心配して当然なのです。そこで「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た」のでした。イエスの活動を止めさせようとしたのでした。家族の人々も、この時は、全くイエスの神の国の活動を理解していません。彼らにとっては、もう父のヨセフは不在であり、イエスは家の長男であり、家族やその生活を保っていくためには、評判が悪くては困る一家の主的な存在にしか見えていなかったのかもしれません。

 そんな家族の対応に対して、31節以下でイエスの応答が書かれていますが、その前に、22節以下で、宗教指導者たちのイエスへの評価が続いていますのでそちらか見ていきます。

4、「律法学者たちの理屈とそれに対するイエスの答え」

「22エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。

 律法学者たちは、律法、つまり、旧約の律法、預言、詩篇など旧約聖書の専門家のことです。彼らは聖書のこと、特に律法のことをよく知っているはずの人で、事実、ファリサイ派同様に、自分たちは律法を十分知っているし守っている、行なっていると自負する人々であり、人々にもそのように求める人々でしたが、彼らはファリサイ派同様に、イエスのことを良く思っていませんでした。彼らと同調するファリサイ派にあってはすでに2章の終わり、彼らは「安息日にイエスの弟子たちが穂を摘んだこと」や同じ安息日にイエスが「手の萎えた人を癒したこと」を批判するのです。それに対してイエスが聖書から適切に反論したことに対してをファリサイ派は反発を強めており、「どのように殺そうか」までも話し合っていました。この律法学者たちは、イエスが悪霊を追い出したのは、それは「ベルゼブル」つまりサタンの力によって追い出したのだと理屈を述べ始めたのでした。しかしそのような理屈に対してイエスは明快に答えます。23−27節

「 23そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。 24国が内輪で争えば、その国は成り立たない。 25家が内輪で争えば、その家は成り立たない。 26同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。 27また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。

 イエス様は、サタンの力で、その仲間である悪霊を追い出すなんてことは滑稽だと、律法学者たちの言っていることの矛盾を指摘します。むしろ、24節以下のイエス様の言葉は悪魔のご自身への攻撃の現実を皮肉的に示しているようでもあります。巧妙で狡猾な悪魔はそんな矛盾した愚かなことはするはずもなく、イエスの家族を、人間の目に見え聞こえるような、心配と恐れで煽り、イエスへの悪い評判でイエスの家族を分裂させようとするだけでなく、その分裂で、イエスの働きを妨げさせようとしていることがわかるでしょう。そして、このイエスの「家の内輪揉め」の例えにある通り、サタンは、聖書の専門家という地位も名誉もある強い人々のそのプライドを誘惑し刺激し、彼らを用いて、サタンにとって最大の敵であるイエス・キリストご自身を攻撃して、まさに家を略奪しようとしていることを、暗に示していることがわかるのです。律法学者たちは、おそらく妬みに駆られて、イエスがサタンの力を用いていると批判するのですが、イエスは背後に働く全てを見通しているのです。むしろサタンが、家族や聖書の専門家たちを用いて、彼らの恐れや心配、プライドや名誉を突いて、ご自身の成そうとする神の御心を妨げようとしている、自分を攻撃しているのだと見通していたのでした。

5、「聖霊を冒涜することの罪の重大さ」

 そして、ここでイエス様はさらに続けて重要な言葉を伝ているでしょう。28節以下

「28はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。 29しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」 30イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。

A,「聖霊を侮ること」

 ここで、イエス様は律法学者たちが「ベルゼベルの力で」とか「汚れた霊に取り憑かれている」と言うことに対して、厳しい言葉を伝えます。「聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」と。それは正しく、イエス様のしるしも言葉も、そしてその言葉の通りにこれから成そうとする救いのわざも、それは全て聖霊なる主の働きであることをイエス様は示しています。その御霊の働き、つまり、それは当然、み言葉を通じての聖霊の働きのことを聖書は指しているのですが、そのみ言葉と御霊の働きを侮り、軽んじ、ましてそれがサタンの力だとか、神以外の力だとか、あるいは信じないものは、永遠に赦されず、永遠の罪の責めを負うのだと、戒めるのです。

B,「信仰と救いは、人ではなく、聖霊とみ言葉のわざ」

 みなさん、このイエスの言葉はとても意味があります。私たちが救われたのは、もちろんイエス・キリストを信じる信仰によってです。その信仰のゆえに義と認められました。しかし、それは私たちの義ではなく、イエス・キリストの義のゆえです。私たちには何も義なることを果たす力も意思も理性さえもありません。私たちは堕落以後、アダムとエバの腐敗を受け継ぐ堕落の子であり、永遠に呪われた死にゆくものでした。しかし、神は第一の聖書日課である創世記3章15節にあるように、あの堕落の時、既に「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕きお前は彼のかかとを砕く。」(15節)と最初の福音を伝え約束を示していました。そしてその通りに、神はご自身の御子を人として、つまり女の子孫として生まれさせました。そのように神が世に与えてくださった救い主によって、まさにその約束の通り、私たち堕落の子に、その約束の御子キリストというサタンに打ち勝つ道を備えてくださったというのが、聖書が伝える神の一方的な救いの計画であったと私たちは信じるでしょう。そこには人のわざも知恵も努力も何もありません。人間には何も功績も貢献もなかったしできなかったのです。ただただ、神の御子イエス・キリストが私たちが果たせなかった律法の義を十字架の身代わりの死という神が備えた計り知れない方法で果たしてくださった。そして神は、罪の報酬である死からそのイエス様を復活させ、まさにサタンの頭を踏み砕いて罪に勝利してくださった、約束を果たしてくださったことこそ、この十字架のキリストは私たちに証し指し示しているのではありませんか?そのキリストの義こそを神はただそのまま受け入れるように差し出してくださり、私たちはただそのまま信じて受けとるからこそ、神はそれを私たちの救い、義としてくださると言うのが、私たちに与えられている単純な救いであり良い知らせであり福音ではありませんか。そしてさらに素晴らしい事実があるでしょう。そのキリストの救いの成就にも父子聖霊の主の働きがあると同時に、なんと、私たちがそのことを信じる信仰さえも、それは律法でもなければ私たちの力ではなく、聖書はそれは聖霊の賜物であると教えているでしょう(エペソ2章)。

C,「信仰を律法のわざ、人のわざにすることの罪の深刻さ」

 このように、私たちの救いは、その信じる信仰さえも、私たちの理性や行いや功績、貢献ではありませんしありえません。しかし兎角、私たちには救いのために一歩を踏み出すためのわずかな理性の力、意志の力が必要なんだと、ほんのわずかだが人間の力も必要なんだと教える教会もあれば、人間の貢献や条件をある程度、果たして初めて洗礼の救いの祝福に値するんだとか、教える教会もあります。しかし、それは決して福音でも宣教の言葉でもありません。救いも、そして信じる信仰さえも、それは、神の賜物、イエス・キリストが与えてくださる福音であり、聖霊がみ言葉を通して働き、福音を受け入れ信じる信仰さえも与えてくださるからこそ、私たちに今その信仰も救いも現実にあるということを忘れてはいけません。もしそれが聖霊とみ言葉、福音の働きや力ではなく、人間のわざ、貢献だ、自分の努力だ、意志の力、などなど、に変えてしまうことは、どうでしょうか?それは、聖霊の力や働きを無駄にし、み言葉もその力も信じておらず、ある意味、聖霊を冒涜することと同じではありませんか。私たちが100%神の恵みによる救いに、混ぜ物をして、人間にも数パーセント何かが必要だと言うことは、クリスチャンであっても時に受け入れやすい合理的な教えかもしれませんが、それはサタンの最大の落とし穴であり、救いをボケさせ、確信を失わされ、平安を失わせます。それは、まさしく「聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」につながる重大なことだと教えられているように気づかされます。大事なのは、どこまでもイエス・キリストの十字架による救い、福音、約束こそ真実であり、神からの賜物、恵みであると、み言葉と聖霊に立ち返ること、そこに救いの確信も平安も絶えることはないのです。

5、「神のみ心を行う人々こそ」

 最後に、イエスの家族のことが再び記されています。31節以下、

「31イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。 32大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、 33イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、 34周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。 35神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」

 これは家族を突き放しているような冷たい言葉に感じられるでしょうか?しかしここでイエス様が伝えたいことを理解しましょう。大事なのは34節と35節です。周りに座っているおそらくイエスのみ言葉を聞いている人々であり、弟子達もいたでしょう。彼らを指して、私の兄弟がいるとイエス様は言われます。そして35節

「 35神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」

 「神の御心を行う人々こそ」とイエス様は言うでしょう。もちろん、イエス様は自分の肉の家族を愛していなかったわけではありません。母マリヤのことを愛する弟子に託されることもヨハネの福音書には書かれているでしょう。そしてイエスの弟たちもやがてイエスを信じるようになり、イエスの弟はエルサレム教会の監督になり、ヤコブはヤコブ書を残しています。イエス様がここで言いたいのは、主の祈りにもあり、ゲッセマネの祈りにもあるように、神の御心が行われることの大切さです。この時の家族は、周りの目に見えるイエスの評判や評価や、イエスのしていることの非日常のみでイエスを判断し、そしてイエスを心配するだけでなく自分たちのことを心配するしかできませんでした。しかしそれによってイエス様の行おうとしている神の御心、まさにみ言葉が聞かれること、を21節「取り押さえようとした」つまり「止めさせよう」とした、結果として「妨げよう」としてしまっているのです。そのように神の御心を妨げるものは、地上では家族であっても、天の神の前にあっては、兄弟でも母でもない、イエス様ははっきりと「神の前」の真理を述べているのです。

 このことは現代の教会にも示唆があるのです。むしろ現代の教会は、肉の目に見え、耳に聞こえる人の評判や評価には、人が集まるかどうか、人に受け入れられるかどうかに関わる重要なことなので敏感かもしれません。それ自体はもちろん悪いことではありませんし時に大切なことです。しかし、それがただ「人集め」が目的となり極端になり優先順位を間違えて、それが最も大事なことであり、教会や宣教の黄金律や王道とされてしまうとそれは行き過ぎになるでしょう。目にみえる耳に聞こえる「人がどう思うか」にあまりにも流されることによって、本来、本当に救う力があり、そして私たちが指し示すべき、神の御心、律法と福音の神の言葉、罪の赦しの十字架と日々新しい復活の福音のみ言葉にこそ、そしてそのみ言葉に聞くことにこそ、日々悔い改めさせ、日々洗礼に与らせ聖化させる真のクリスチャン生活があると言うことが、弱められたり、忘れられたり、傍に置かれたり、全く語られなくなるなら、あるいは、あのマルタとマリヤの姉妹のところでもイエス様は「必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」と言われたその「必要な一つだけ」のことは、「み言葉を聞くこと」であったのに、「み言葉に聞くなんて、弱々くし消極的で力がない。活動的ではない」と、「聞くこと」を軽んじ、それよりも律法的な行動に駆り立てのなら、それは私たちが見てどこまでも立つべき、そして伝えるべき「神の前」のこと、真の神の御心を見失ってしまっています。指し示すべきキリストの十字架、真の唯一の救いの道が示されていないのです。まず聞くことこそ神の御心であり、力があることが侮られているのです。それは、たとえ「人の前」では、効果的で評判も良く人も集まり良い数的結果になったり、成功しているように見えることが起こったとしても、しかし、まさに「人の前」のことに過ぎず、イエスがなしてくださったこと、成そうとすることを「取り押さえようとしている」「止めようとしている」、御心を妨げていることと同じことをしていることになるでしょう。それはもはや宣教ではありません。それでは、イエスの兄弟姉妹でも母でもなくなるのです。

6、「神の前にあって、イエスの兄弟姉妹、母である幸い」

パウロは第二の聖書日課で伝えています。

「16、だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。17、わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。18、わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。1、わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。」コリント第二4:16ー5:1 

 目に見える評判や数や繁栄は過ぎ去ります。しかし目に見えない永遠なる神の御心、律法と福音のみ言葉、そして十字架と復活の救いは永遠に残るものです。そこに私たちが向かっている永遠の住まいがあります。そのみ言葉の約束が正しく伝えられ聞かれ、聖霊が御心のままに人に働くためにこそ私たちは礼拝に集い、なおもみ言葉に聞き、信仰を日々新たにされるのです。そのように平安のうちに遣わされていくことこそ、私たちは御心を行っており真の兄弟とイエス様は呼んでくだ去るのです。ですから、今私たちは、み言葉に聞くために集まっていますね。そうであるなら、私たちは何よりの神の御心を行っており、イエス様は今日この時私たち一人一人を指して「わたしの兄弟姉妹、母である」と言ってくださっているのです。今日もイエス様は私たちに罪の赦しを宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひ罪の赦しと救いを確信して、安心してここから世に遣わされていきましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

説教「日曜日に教会の礼拝に出席すると『安息日は人間のためにある』が本当のことになる」 吉村博明 牧師 、マルコによる福音書2章23節~3章6節

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主日礼拝説教2024年6月2日 聖霊降臨後第二主日

聖書日課 申命記5章12ー15節、第二コリント4章5ー12節、マルコ2章23節ー3章6節

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

皆さんもご存じのことと思いますが、1週間に7日あって7日目が休みというのは、旧約聖書の創世記にある天地創造の出来事に由来します。創造主の神が天と地とその間にある全てのもの、人間も含めて万物を創造した時、6日間仕事をされ、7日目に仕事を離れて休まれて、その日を特別な日、神聖な日に定めたことに由来します(創世記2章1ー3節)。その日は旧約聖書の言葉であるヘブライ語でヨーム ハッシャッヴァート(יומ השבת)、短くしてシャッヴァ―ト(שבת)とも言います。普通「安息日」と訳されます。大学の先生たちに与えられる長期休暇のことを英語でサバティカルと言いますが、このシャッヴァ―トから来ています。最近はビジネス界にも広まっているそうです。

天地創造の時、神は仕事を離れて安息された7日目を神聖な日としました。神は、私たち人間もそのようにしなさい、と私たちも7日目に仕事を離れて安息することを掟として与えられたのです。その掟は、太古の昔、モーセ率いるイスラエルの民が奴隷の国エジプトを脱出してシナイ半島の荒れ野にいた時、十戒の第三の掟として与えられました。

安息日を心に留め、これを聖別せよ。6日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、7日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。6日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、7日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」(出エジプト記20章8>節)。

「休みなさい」と言ってくれるのはありがたいことですが、注意しなければならないことは、この「休め」というのは神がそうしたのでそれに倣えという命令です。休んだ神がお前も休めと言っているのに、そんなの認めない、俺は仕事する、などと言ったら神に反抗することになってしいます。安息日に「休む」というのは神の意思に従う行為であり、それをすることで自分は創造主の神に造られた者であると認め、だから造り主の意思に従うのであると自分にも他人にも示すことになるのです。ただし、仕事を休むと言う時、何でもかんでも休まなければならないのか、と言うと少し考えなければなりません。例えば、人の命を助ける仕事も休まなければならないのか、という問題については、イエス様ははっきり命を助けることが大事と言っています。なので、神の意思に沿う仕事の休み方とは何かを考えなければなりません。後でそのことを見ていきます。

神の意思に沿う仕事の休み方を考える材料の一つとして、本日の旧約の日課の申命記の個所は大事です。これは、イスラエルの民がエジプトを脱出した後40年間続いた荒れ野の移動がようやく終わりに近づいた時の出来事です。この時、神は民に十戒の復習をします。安息日の掟は、先ほどエジプトを脱出して間もない頃に与えた掟を見ましたが、それに興味深い補足をします。何かと言うと、かつてエジプトで奴隷だったイスラエルの民を神は解放して下さった。そのために/それゆえ(על–כן)、神は安息日を守るようにと命じたのだと言うのです(5章15節)。最初に掟を与えた時は、神が7日目に休んでその日を神聖な日に定めたから、人間もそれに倣えというものでした。ここではそれに加えて、神は民を奴隷状態から解放して下さった、だから安息日を守れ、と言うのです。神は天地創造の時に安息日を定めたのであるが、民を奴隷状態から解放したことで一層守らなければならないというのです。これはどういうことでしょうか?本日の説教では、奴隷状態からの解放と安息日を守ることがどうかかわっているのかを見て、神の意思に沿う安息日の守り方は何かを明らかにしようと思います。

2.アヒメレクかアビアタルか?

その前に少し脇道に逸れますが、本日の福音書の日課マルコ2章のことで一つ説明しておきたいことがあります。日課は、イエス様の弟子たちが空腹を満たすために麦畑で麦の穂を摘んでいるところを宗教エリートのファリサイ派の人たちが見つけて、安息日に仕事はしてはいけないのに何事か!とイエス様に怒ったという出来事です。その時、イエス様は次のように応じます。昔ダビデがサウル王から逃れる逃避行をしていた時にノブという町の祭司から供え物のパンをもらった。サムエル記上21章にある出来事です。祭司のもとには普通のパンはなかったので、聖別されたパンを与えた、しかも、その日はパンを供え替える日で、それはまさに安息日でした(レビ記24章5~9節)。つまり、安息日に祭司しか食べてはいけないパンをダビデとその家来たちは食したという出来事です。

イエス様はこの話をされた時、ダビデにパンを与えた祭司は大祭司のアビアタルと言いました。ところが、サムエル記上21章を見ると、違う名前でアヒメレクです。これはどういうことでしょうか?イエス様は名前を間違えたのでしょうか?以前、ある教会の礼拝説教で牧師がこの個所について、福音書を書いたマルコが間違えて書いた、と言ったのを覚えています。私は、そんなにあっさり間違えと言ってしまっていいのだろうかと思いました。こういう、聖書の中によく見られる食い違いの問題は、一牧師が分かり切った顔でひと言で一蹴してしまうにはあまりにも深いことがあるのです。牧師というのは聖書を教えて給料をもらう聖書のプロです。しかも、日本では牧師は限りなく神に近い存在と見なされます。普通の信徒さんは牧師の言うことを無批判に受け入れがちです。なので、マルコが間違ったと言ったら、信徒の皆さんは、ああ、そうかマルコは間違っているんだ、さすがは牧師先生、すごいなあ、と感心するのがおちです。

私は、この問題はマルコが福音書を書く時に資料として受け取った伝承の中にアヒメレクではなくアビアタルの名があった可能性を考えなければいけないと考えます。果たしてそんな可能性があるのか?まず最初に、いわゆるパピアスの伝承を見てみます。2世紀に司教として活躍したパピアスの伝えるところによると、マルコ福音書は、イエス様の直弟子であるペトロが話し伝えたことをマルコが記述して出来たと言われています。もしそれが本当なら、ペトロがアビアタルの名を言ったことになります。しかし、ペトロはイエス様がそう言ったからそう言ったと言うでしょう。さあ、アビアタルと言ったのはペトロかイエス様か?実を言うと、聖書の各書物の成立を研究する釈義学という学問分野ではこのパピアス伝承は歴史的信ぴょう性がないとしてほとんど顧みられません。

それならば、次に見るべきことは旧約聖書のギリシャ語訳です。旧約聖書はもともとはヘブライ語ですが、紀元前3~2世紀に大々的にギリシャ語に翻訳されていきます。もし、ギリシャ語のサムエル記上21章にアビアタルの名があれば、イエス様ないしペトロはその伝統に従ったということになります。ただし、旧約聖書のギリシャ語訳と言っても、オックスフォード版とかゲッティンゲン版とかいろんな版があり、全部調べるのは大変です。それでも、ギリシャ語訳の全部の版を調べてアビアタルの名がなかった場合は、次はヘブライ語の旧約聖書の写本の出番です。

写本というのは、15世紀にグーテンベルクが活版印刷術を発明する以前、本というのはオリジナルが出来たら、後は手書きでコピーして数を増やしていきました。それが写本です。実を言うと、聖書の各書物はオリジナルのものは現存しません。全ての書物は一番古いと目される写本を元にしています。釈義学の研究者が無数にある写本を突き合わせて、これがオリジナルに一番近いだろうと結論した写本です。旧約聖書の写本の中で重要な意味を持つのが、いわゆる死海文書です。今のイスラエル国の死海の近くから発掘された古文書の中に旧約聖書がたくさん含まれています。全部がイエス様の時代ないしはそれ以前のものです。死海文書のサムエル記上21章の復元可能な写本を全部調べて、それでアビアタルの名前がなければ、イエス様はアヒメレクと言ったのだがマルコが間違えてアビアタルにしたと言ってもいいかもしれません。ただし、言い方は次のように慎重にしなければなりません。「現存する写本から見る限りは、マルコが間違えた可能性がある。」現存しない写本も無数にあります。なので、あっさりマルコが間違えたと言うのは早急すぎます。

ここで、アヒメレクをアビアタルと言い換えるのは誤りではないということを述べてみたく思います。このことは、サムエル記上21章からサムエル記下15章までをよく読んでいくと見えてきます。アビアタルというのは、アヒメレクの息子です。親子ともども祭司です。父アヒメレクは、ダビデを世話したためにサウル王によって殺害されてしまいます。息子アビアタルは難を逃れ、後にダビデが正式に王になった時、祭司ツァドクと共に神の契約の箱を管理する任務に就きます。これはもう大祭司と言える位の地位です。それなので、イエス様がアビアタルのことを大祭司と言ったのは間違いではないのです。つまり、「後の大祭司アビアタル

という意味で言ったのです。問題は、サムエル記上21章の書き方がダビデにパンを渡したのはアヒメレクということです。これも、ダビデとアヒメレクが話をしていた時、他の祭司、つまり息子のアビアタルも居合わせたと考えたらどうでしょう?私たちの新共同訳では「アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、」と書いてあります。ギリシャ語の原文は次のように訳することも可能です。「ダビデは、大祭司アビアタル(つまり後の大祭司アビアタル)がいた神の家に入り、」(後注)。つまり、イエス様はサムエル記上の内容から外れたことは何も言っていないのです。そのイエス様の言葉を受け取ったマルコは、それをそのまま記述しただけなので、マルコも間違っていないのです。それなのに、マルコは間違って書いたなどと言うのは、どういうことでしょうか?今見てきたように調べたり考えたりしなかったのは明らかです。同業者として情けなく思います。何よりも信徒の方たちが気の毒です。

3.安息日は人間のためにある

アヒメレクとアビアタルの問題はここまでにして、神の意思に沿う安息日の守り方について見ていきましょう。本日の福音書の日課の個所で、イエス様は安息日の誤った守り方を指摘して、正しい守り方を教えます。弟子たちが麦の穂を摘んでファリサイ派の批判を受けた出来事では、安息日にそれを行ったことが問題になりました。ファリサイ派が問題としたのは、弟子たちが麦の穂を摘んだのは仕事だったということです。仕事は安息日にしてはいけないことなのにしたという論理でした。

少し馬鹿馬鹿しい論理ですが、当人たちは真面目そのものでした。ファリサイ派は、神に約束された神聖な土地に住む民は神聖さをしっかり保たなければならないということをとても強調していました。そのためには神の掟を完璧に守らなければならない。安息日に仕事をしてはならないという掟があれば、完璧にその通りにしなければならない。そうしないと神の目に適う者にはなれない。そのように一寸の隙もない位に細心の注意を払った結果がこうなったのです。

ファリサイ派の批判に対してイエス様は、先ほど見たように、サムエル記上21章にある出来事、安息日に祭司にしか食べることが許されていないパンをダビデと従者が食べたという出来事を引き合いに出して反論します。それに比べたら、安息日に自分の空腹を満たすためだけに麦の穂を摘むのは何の問題でもないのです。ダビデのパンの場合も、弟子たちの麦の穂の場合も、「安息日は人間のためにある」ということの実例としてあげるのです。これとは逆にファリサイ派の律法主義では「安息日のために人間がある」になってしまうのです。神の意思は、「安息日は人間のためにある」なのです。

本日の福音書の日課の後半も同じテーマが続きます。安息日にイエス様が手の萎えた人を癒したという出来事です(マルコ3章1ー6節、ルカ14章1ー6節も)。イエス様が癒しを行ったら訴える口実にしてやろうとファリサイ派の人たちが注視しています。それに気づいてイエス様が言います。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」ここまで言われたら誰も答えることができません。イエス様は人々のかたくなな心を悲しみながら(マルコ3章5節)、その人の手を元通りに治してあげました。ここでも、「安息日は人間のためにある」が実践されたのです。ファリサイ派の人たちは、自分たちこそが神の意思を一番知っていると自惚れがあり、掟をそれこそ人為的に作り変えて、それを守らなければ神の目に失格だと烙印を押すやり方でした。神の意思に従うなどと言いつつ、実は自分たちの意思に従わせるやり方だったのです。

4.安息日に行う礼拝も人間のためにある

イエス様は「人の子は安息日の主でもある」(28節)と言われます。これは、神のひとり子としての彼が安息日の意味や守り方を正確に知っているということです。イエス様は父なるみ神の意思を正確に知りうる立場にいるので、律法全体についても正確に知っています。安息日の主というのは律法の主でもあります。

ところが、安息日の主、律法の主というのは、イエス様がただ単にそれらについて正確に知っていて人々に教えることができるということだけではありません。イエス様は神のひとり子なので神の意思を体現しています。イエス様は、律法が全人格的に守られているというお方なのです。これが律法の主ということです。だからイエス様は真の意味での義人なのです。これは人間とは大きな違いです。なぜなら、人間は神の意思に背こうとする性向、罪を持ってしまっているので、律法を全人格的に守り通すことはできないからです。人間はそのままの状態では義人にはなれないです。

そこで神が人間にしてくれたことは、人間に義をプレゼントして、人間はそれを受け取ることで義人になれるようにするということでした。それを神は実行に移し、ひとり子のイエス様をこの世に贈りました。やがて時が来て彼に人間全ての罪を背負わせてその罰を受けさせて、ゴルゴタの十字架の上で死なせました。つまりイエス様を犠牲の生け贄にしたのです。それだけではありません。神は一度死んだイエス様を今度は死から復活させて、死を超える永遠の命があることをこの世に示し、永遠の命に至る道を人間に切り開いて下さいました。このように神はイエス様の犠牲に免じて罪を赦すことにしたのです。そこで人間がこれらのことは自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、イエス様が果たした罪の償いはその人にその通りになります。罪が償われたからその人は神から罪を赦された者と見なされます。神から義人と見なされるのです。

このように人間は洗礼と信仰を通して神から義をプレゼントされてそれを受けとって義人になるのです。ただし、キリスト信仰者になったとは言っても、肉の体を纏っているので罪は内に残っています。しかし、神はこう言われます。お前は高い犠牲を払ってもらって罪と死の支配状態から買い戻されたのだ。新しい命を与えられたのだから、これからは何が新しい命に相応しい生き方を考えて行きなさい。聖書の御言葉を武器にして心の中にある罪に反抗しなさい。死と罪の力に勝利したイエスがいつもそばについていることを忘れないようにしなさい。

かつてイスラエルの民にとってエジプトからの脱出は奴隷状態からの解放を意味しました。キリスト信仰者にはもっと重大な奴隷解放があります。それは、罪と死の力に支配されていたという奴隷状態です。神はこの奴隷状態から人間を解放するためにイエス様をこの世に贈られ、彼に十字架の死を受けさせて死から復活させたのです。まさにそれゆえに、安息日はキリスト信仰者にとって罪と死の奴隷状態からの解放を記念してお祝いする日なのです。

仕事を休んで安息日を神聖なものとせよ、と言うのは、仕事のことに心と時間が向けられていたのを中断して、心と時間を解放の神に向けよ、ということです。安息日に神以外のものに心と時間を向けないことこそ、安息日を神聖なものにするものです。また、仕事だけでなく生活一般のことでいろんな心配事があって頭が一杯になっていても、安息日にはそうした心の重荷を一旦肩から下ろして、心を解放の神に向ける日です。どうやってそんなことが出来るかと言うと、次のようにお祈りします。「天の父なるみ神よ。今日は安息日ですから、あなたに心を向けたいので、この重荷をあなたにお預けします。どうぞ、受け取って下さい。」そうお祈りして神の足元に投げ出してしまうのです。心配事を投げ出して出来た空白を今度は礼拝を通して得られる良いもので満たしていきます。御言葉や説教を聴くことで神が聖書の時代においても今の時代においても私たちにどんな大きなこと素晴らしいことをしてくれたかを思い起こします。讃美歌を歌うことで解放の神に感謝と賛美を言い表します。祈りの時に普段抱えている課題、自分自身と隣人の課題に解決を与えてくれるように助けをお願いします。また、今日のように聖餐式がある日であれば、、イエス様の血と肉を通して神との結びつきを一層強めてもらいます。こうして霊的な栄養と力と知見を沢山もらって、新しい1週間に臨むことができるのです。

主にある兄弟姉妹の皆さん、礼拝に出席するというのは時として「しなければならない」もののように律法的に感じてしまう人がいます。そのような人たちから見たら、礼拝は「安息日のために人間がある」ものに映ってしまうでしょう。礼拝をさぼる方が「人間のために安息日がある」ではないかと。しかし、そうではありません。礼拝をさぼることは「人間のために安息日がある」ことにはなりません。なぜなら、安息日は罪と死の奴隷状態からの解放をお祝いする日です。安息日に行う礼拝は、その解放を確かなものにします。だから礼拝は「人間のために安息日がある」ものなのです。

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 

後注 ギリシャ語の前置詞επιプラス属格は、新共同訳のように「~の時に」という意味もありますが、「~のところに」とか「~の前に」という意味もあります。

 

説教「キリスト信仰にとって「汚れ」、「清め」、「霊的」、「新たに生まれる」とは?」 吉村博明 牧師 、ヨハネによる福音書 3章1~17節

礼拝

三位一体主日 主日礼拝 2024年5月26日

聖書日課 イザヤ6章1-8節、ローマ8章12ー17節、ヨハネ3章1ー17節

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日は三位一体主日です。私たちキリスト信仰者は、天と地とその間にある全てのものを造り、私たち人間をも造って命と人生を与えてくれた神を三位一体の神として崇拝します。一人の神が三つの人格を一度に兼ね備えているというのが三位一体の意味です。三つの人格とは、父としての人格、そのひとり子としての人格、そして神の霊、聖霊としての人格です。三つあるけれども、一つであるというのが私たちの神なのです。

そうは言っても、三位一体はわかりにくいです。三つあるけれども一つだという。いち足す、いち足す、いちは三ではなくて一であると。どのようにしてそんなことが可能なのかと頭で考えると、もう無理です。しかし、キリスト信仰者はこういうものなんだと受け入れている。どうして受け入れられるかと言うと、三つがどういうからくりで一つになっているのかということはあまり気にかけないからです。それよりも、なぜ三つが一つでないといけないのかということの方が重要だからです。なぜ三つが一つなのか?それは、三つの人格が一つであることで神の愛というものがどのようなものであるかがよくわかるからです。

まず、神は創造主として私たち人間を造りこの世に誕生させました。これが造り主としての人格です。ところが、人間の内に造り主の意思に背こうとする性向、罪が入り込むようになってしまったために、神はひとり子を贈って、彼を犠牲の生贄にすることで私たち人間を罪と死の支配から解放して下さいました。これが贖い主としての人格です。こうして、私たちは罪の赦しの恵みの中で生きられるようになりましたが、人生の中でいろんなことがあって恵みから離れそうになります。そのたびに聖霊から指導や支援を受けられ、神の目に相応しい者として生きられます。これが、私たちを日々、汚れから清めて下さる人格です。

三つの人格の機能は別々のものに見えますが、それらは一丸となって一つのことを目指しています。それは、人間が罪と死の支配から解放されて永遠の命に至ることが出来るようにするということです。このように三位一体は私たちに進むべき道を示すだけでなく、それを進める力を与えてくれるものなのです。

以上のことは毎年、三位一体主日の礼拝説教で述べていることですが、今日は同じことを少し角度を変えて見ていこうと思います。どんな角度から見ていくかというと、キリスト信仰にとって「汚れ」、「清め」、「霊的」、「新たに生まれる」とはどういうことかを考えながら三位一体の神を見ていくということです。

2.キリスト信仰にとって「汚れ」、「清め」、「霊的」は倫理的な事柄である

まず最初に思い起こさなければならない大前提は、私たちは創造主の神に造られたということです。それを思い起こしたら、次に考えなければならないことは、造り主と私たち人間の関係はどうなっているのかということです。関係はいいのか?よくないのか?聖書の観点では、よくないというものです。どうしてよくないのか?それは、創世記に記されているように、神に最初に造られた人間が神の意思に背く性向、罪を持つようになってしまい、それがもとで死ぬ存在になってしまったからです。使徒パウロがローマ5章で述べるように、人間誰でも死ぬというのはみんな最初の人間から罪を受け継いでいることのあらわれです。もちろん、悪いことをしない真面目な人もいます。悪いこともするが良いこともするという人もいます。それでも、全ての人間の根底には神の意思に背く罪が脈々と続いているというのが聖書の観点です。このように人間が罪を持つ存在であるとわかると、神は全く正反対に神聖な存在であることがわかります。神と人間、それは神聖と罪という二つの全くかけ離れた存在です。

 罪を持つ人間にとって神の神聖さとはどんなものであるか、それについて本日の旧約の日課イザヤ6章の個所はよく表しています。預言者イザヤはエルサレムの神殿で肉眼で神を見てしまいました。その時の彼の反応は次のようなものでした。「私など呪われてしまえ。なぜなら私は滅びてしまうからだ。なぜなら私は汚れた唇を持つ者、汚れた唇を持つ民の中に住む者だからだ。そんな私の目が王なる万軍の主を見てしまったのだ」。これが罪ある人間が神聖な神を目にした時の反応です。罪の汚れを持つものが神聖な神を前にすると、焼き尽くされる危険があるのです。神から預言者として選ばれたイザヤにしてこうなのですから、預言者でもない私たちはなおさらです。

 イザヤは自分自身の罪と自分が属している民族の罪を告白しました。すると天使の一種であるセラフィムが来て、燃え盛る炭火をイザヤの唇に押し当てます。イザヤは大やけどを負いませんでした。それは、炭火が焼き尽くしたのは肉体のように目に見えるものではなく、目に見えない霊的なものだったということです。それは何か?セラフィムが、お前の不正は償われた、お前は罪から贖われたと言います。イザヤは自分も民族も汚れた唇を持つと告白しましたが、それは、神の意思に背く不正と罪があることを認めたのでした。このように聖書の観点では、清めというのは罪からの清めを意味します。罪というのは、先ほども申しましたように、神の意思に背こうとする人間誰しもが持ってしまっている性向です。背きには、造り主である神をないがしろにして、別の何かに願いをかけたりをしてしまうような神との関係での背きがあります。それと、他人を傷つけたり見下したり、嘘をついたり広めたり、他人のものを妬んだり、妬むだけでなく実際に横取りしてしまったり、不倫をしたり等々、人間関係で神の意思に背くこともあります。背くというのは、そうしたことを行いや言葉で出してしまうだけでなく、心の中で思ってしまうこと全てを含みます。聖書の観点ではそういうことが汚れなのです。そういうことが霊的なことなのです。このように聖書の観点では、「清め」とか「汚れ」とか「霊的」というのは極めて倫理的な事柄なのです。

 この点は他の宗教ではどうでしょうか?汚れと言ったら、倫理的な事柄ではなく、病気とか不運とか何か不都合なことを意味し、そういう不都合を取り除くことや予防することを汚れからの清めと言うのが多いのではないでしょうか?もちろん、イエス様も汚れた霊を追い出したり、重い皮膚病の人を癒してあげたりしました。しかし、よく見ると、汚れた霊の追い出しや皮膚病の癒しはサラッとしています。追い出して下さい、癒して下さいとお願いされると、イエス様は、出ていけ!治れ!と一声かけただけでみなその通りになりました。しかし、神の意思に背く罪については、イエス様が一声かけたらみんな義人になったという奇跡はありません。倫理的な汚れはその他の汚れよりも手ごわいのです。そう言うと、いや違う、汚れた霊の方が手ごわいと言う人もいるかもしれません。しかし、それは本当ではありません。どうしてかと言うと、汚れた霊とか悪霊というのは人間と神との結びつきを失くすることを本業としています。なので、イエス様を救い主と信じて神との結びつきを確立してさえいれば、汚れた霊や悪霊は手出しが出来なくなるのです。病気や不運の問題も、神との結びつきの上に立って治療や立ち直りを行っていくだけです。日本人もこういうスタンスに立てるようになれば、祟りなど汚れなどと言われて惑わされることはなくなるでしょう。

 それでは、罪の汚れを持つ人間が義人になることが出来るためにはどうしたらいいのか?イエス様は本日の福音書の日課の個所で、人間は新たに生まれなければならないと教えます。次にそれについて見ていきましょう。

3.「生まれ変わる」ではなく「新たに生まれる」

その前にイエス様に教えを乞うたニコデモが属していたファリサイ派について少し述べておきます。それは、ユダヤ民族は神に選ばれた民なので神聖さを保たねばならないということをとても重視したグループでした。彼らは旧約聖書にあるモーセ律法だけでなく、それから派生して出て来た清めに関する規則を厳格に実践していました。自分たちは神聖な土地に住んでいるのだから、汚れは許されません。ただし、清めというのは、異教徒がいる広場から帰ったら体を清めるだとか、外の汚れが体の中に入り込まないために食事の前に手を洗うとか、そういう外面的な清めでした。

 イエス様に言わせれば、神の前での清さというのはそのような外面的なことではない、心が神の意思に沿うものになっているという清さでなければならない。マルコ7章にあるファリサイ派との論争の中でイエス様ははっきり言いました。外から体の中に入るものは人を汚さない、だから手の清めをしないで食事をしても心を汚すことはない。食べたものはお腹に入って便となってトイレに流されるだけだと。人を汚すのは、人間の心から出てくる悪い思いである。すなわち、みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別であると具体例をあげます。ここからもわかるように、イエス様は汚れとは倫理的な汚れであるとはっきりさせます。神のひとり子が神の意思はこれだと教えたのです。

 神の意思が人間に倫理的な清さ、しかも、行為や言葉だけでなく思いも含めた全人的な清さを求めているとすると、人間はもはやどうあがいても神の前で清い存在にはなれません。それなのに、人間の方が自分で規則を作って、それを守ったり修行をすれば清くなれるなどと言って自分にも他人にも課すのは滑稽なことです。イエス様はファリサイ派が情熱を注いでいた清めの規則を次々と無視していきます。当然のことながら、彼らのイエス様に対する反感・憎悪はどんどん高まっていきます。

 ところで、ファリサイ派のニコデモはイエス様の教えと行動に何か真実を感じ取ったようです。彼は人目を避けるかのように「夜に」イエス様のところに出かけます。そしてイエス様から、人間が肉的な存在から霊的な存在に変わることについて、また神の愛や人間の救いとは何かについて教えられます。

 さて、イエス様とニコデモの対話で重要なテーマである「新たに生まれる」について見ていきましょう。「生まれ変わる」という言葉はよく聞きます。貧乏な人が生まれ変わったらお金持ちになりたいとか、人から注目されないことが悔しい人が生まれ変わったら有名になりたいとか。または、赤ちゃんが生まれた時、表情がおじいちゃん/おばあちゃんに似ている、この子は亡くなったおじいちゃん/おばあちゃんの生まれ変わりだ、などと言うこともあります。このように「生まれ変わる」という言葉は、現在の不幸な境遇から脱出を願う気持ちや、何かを喪失した空虚感を埋め合わそうとする気持ちを表現するものと言えます。時として、自分は前世では別の人物だったが、今の自分はその人物の生まれ変わりだとかいうような輪廻転生の考えを言う人もいます。ただ、輪廻転生の生まれ変わり先は人間とは限りません。動物や昆虫にもなります。

聖書の信仰には輪廻転生はありません。私、この吉村博明は、この世から死んだ後、何かに生まれ変わってまたこの世に出てくることはもうありません。宗教改革のルターも言うように、この世から死んだ後は「復活の日」が来るまではみな神のみぞ知る場所にいて安らかに眠っているだけです。「復活の日」とは、今のこの世が終わって天と地が新しく創造される日のことです。その日この吉村博明はイエス様に目覚めさせられて朽ちない復活の体を着せられて永遠の命を持って吉村博明として神の国に迎え入れられます。

そうすると、「生まれ変わり」ではない「新たに生まれる」というのはどういうことでしょうか?イエス様が教えます。「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(3節)。ニコデモが聞き返します。「年をとった者がどうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」(4節)。ここで明らかなのは、ニコデモも輪廻転生の考えを持っていないということです。もし持っていたら、「新たに生まれる」と聞いて、それを「生まれ変わる」と理解したでしょう。さすがイエス様が「イスラエルの教師」と呼んだニコデモです。ファリサイ派とは言え、聖書をちゃんと読んでいるので輪廻転生の考えは持っていません。「生まれる」というのは、文字通り母親の胎内を通って起きることなので、一度生まれて出てきてしまったら、もう同じことは起こりえません。ニコデモが「新たに生まれよ」と言われて、年とった自分がそのまま母親の胎内に入ってもう一度そこから出てこなければならない、と聞こえても無理はありません。

ところが、イエス様が「新たに生まれる」と言う時の「生まれる」はもはや母親の胎内を通って起こる誕生ではありませんでした。どんな誕生なのかと言うと、次のイエス様の教えをみてみましょう。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である」(5ー6節)。イエス様が教える新たな誕生とは「水と霊による誕生」です。これは、どういうことでしょうか?

人間は、最初母親の胎内を通してこの世に生まれてくるのですが、それは単なる肉の塊です。その肉の塊は、創世記2章やエゼキエル書37章で言われるように、神から霊を吹き込まれて生きものとして動き始めます。しかしながら、それはまだ肉的な存在で「肉から生まれたもの」に留まります。それが、その上に神からの霊、つまり聖霊を注がれると「霊から生まれたもの」に変わるのです。「水と霊による生まれ変わり」の「水」は洗礼を指します。つまり、洗礼を通して聖霊が注がれるということです。こうして、人間は最初母の胎内から生まれた時は肉的な存在であるが、洗礼を通して聖霊を注がれると霊的な存在になり、これが人間が新しく生まれるということになります。

4.イエス様の罪の償いを受け取って霊的な存在になる

それでは、霊的な存在になるというのは、どういう存在なのか?なんだかお化けか幽霊になってしまったように聞こえるかもしれませんが、そうではありません。どういうことか以下に見ていきましょう。洗礼を通して聖霊を注がれると、外見上は肉的な存在のまま変わりはないですが、内面的に大きな変化が起きる。そのことをイエス様は風のたとえで教えます。

「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者もみなそのとおりである。」(8節)

風は空気の移動です。空気も風も目には見えません。風が木にあたって葉や枝がざわざわして、ああ、風が吹いたなとわかります。聖霊を注がれた人も目には見えない動きがその人の内にあるのです。それはどんな動きなのでしょうか?ここでニコデモの理解力は限界に達してしまいました。水と霊から新しく生まれるだとか、その生まれが風の動きのように起こるだとか、そのようなことはどのようにして起こるのか?彼の問い方には途方に暮れた様子がうかがえます。

これに対してイエス様は厳しい口調で応じます。イスラエルの教師でありながら、その無知さ加減はなんだ!清めの規則とかそういう地上に属することについて私が正しく教えてもお前たちは聞こうとしない。ましてや、こういう天に属することを教えて、お前たちはどうやって理解できるというのだろうか?厳しい口調は相手の背筋をピンと立てて、次に来る教えを真剣に聞く態度を生む効果があったでしょう。イエス様は核心部分に入ります。

「天から地上に下った者つまり『人の子』以外には天に上る者はいない」(13節)。

イエス様は自分が「水と霊による新たな生まれ」を起こす者であることをこのように言って証し始めます。「人の子」とは旧約聖書のダニエル書に登場する終末の時の救世主を意味します。イエス様は、それはまさに自分のことであると言い、さらに自分は天からこの地上に贈られた神の子であると言っているのです。それが、ある事を成し遂げた後で天にまた戻るということを言っているのです。そして、そのある事というのが次に来ます。14節です。

「モーセが荒野で蛇を高く掲げたのと同じように、『人の子』も掲げられなければならない。それは、彼を信じる者が永遠の命を持てるようになるためである。」

これは一体どういう意味でしょうか?モーセが掲げた蛇というのは民数記21章にある出来事のことです。イスラエルの民が毒蛇にかまれて死に瀕した時、モーセが青銅の蛇を旗竿に掲げて、それを見た者は皆、助かったという出来事です。それと同じことが自分にも起こると言うのです。これは何のことでしょうか?

イエス様が掲げられるというのは、彼がゴルゴタの丘で十字架にかけられることを意味しました。イエス様はなぜ十字架にかけられて死ななければならなかったのでしょうか?それは、人間の罪を神に対して償う犠牲の死でした。神の意思に背こうとする罪のゆえに人間と神との間に果てしない溝が出来てしまった。しかし、神は人間が自分との結びつきを回復してこの世を生きられるようにしてあげようと、そしてこの世から別れた後は造り主である自分のもとに永遠に戻れるようにしてあげようと、それで溝を超えて私たち人間に救いの手を伸ばされました。その救いの手がイエス様でした。神はこのひとり子をこの世に贈り、彼を犠牲の生贄にして本来人間が受けるべき神罰を彼に受けさせました。それによって、罪が償われて赦されるという状況を生み出しました。あとは人間の方が、神は本当にこれらのことを成し遂げて下さり、イエス様は本当に救い主だとわかって洗礼を受ける、つまり神が伸ばしてくれた救いの手を掴むと、この償いと赦しの状況に入れることになります。それからは自分から救いの手を振り払うことをしない限り、神との結びつきを持ってこの世を生きられるようになり、この世を去った後は永遠に造り主のもとに迎え入れられるようになります。このように神との結びつきを持って生きる者は、永遠の命と復活の体が待つ神の国を目指して進みます。まさにイエス様が言われたこと、水と霊を通して新たに生まれた者が「神の国を見る」、「神の国に入る」ということがその通りになるのです。このように新たに生まれて霊的な者になるというのは、神との結びつきを持って神の国を目指して歩む者になるということです。

5.キリスト信仰者の霊的な戦いと聖霊の支援と指導

しかしながら、新たに生まれて霊的な者になったとは言っても、最初に生まれた時の肉を持っていますので、まだ肉的な存在でもあります。そのため神の意思に背くことはしないように注意するようになりますが、それでも考えを持ってしまったり言葉に出してしまったりします。このように人間は霊的な存在になった瞬間、まさに同一の人間の中に、最初の人間アダムに由来する古い人と洗礼を通して植えつけられた霊的な新しい人の二つの凌ぎ合いが始まります。

これがキリスト信仰者の内なる霊的な戦いです。使徒パウロも認めているように、「他人のものを妬んで自分のものにしたいと欲してはいけない」と十戒の中で命じられていて、それが神の意思だとわかっているのに、すぐそう思ってしまう自分、神の意思に背く自分に気づかされてしまうのです。神の意思に心の奥底から完全に沿える人はいないのです。それではどうしたらよいのか?どうせ沿うのが不可能だと言うのなら、無駄なことはせず感情感覚のままに行けばいい、などと言ったら、神のひとり子の犠牲は意味のないことだったということになります。逆に、心の奥底から完全に沿えるようにしよう、しようと細心の注意を払えば払うほど、逆に沿えていないところが見えてきてしまう。

そのような時は心の目をゴルゴタの十字架に向けます。まさに、そのような時のためにあの十字架は打ち立てられたのです。その時、聖霊が心の耳に囁くように教えてくれます。あそこにいるのは誰だったか忘れたのか?あれこそ、神のひとり子が神の意思に沿うことができないお前の身代わりとなって神罰を受けられたのではなかったか?あの方の尊い犠牲と、あの方を真の救い主と信じる信仰のゆえに、神はお前に罰を下さないと言って下さっているのだ。お前が神の意思に完全に沿えることができたから赦してもらったのではない。そもそもそんなことは不可能なのだ。そうではなくて、神はひとり子を犠牲に供することで至らぬお前をさっさと赦して受け入れて下さることにしたのだ。救いに関してお前は先を越されたのだ、あとは何も考えずにその後を追いかけるのだ。あの夜、あの方がニコデモに言ったことを思い出しなさい。

モーセが青銅の蛇を高く掲げたように、人の子も高く掲げられなければならない。彼を信じる者が永遠の命を得るために。

神はそのような仕方でこの世を愛を示された。それで人の子を贈られたのだ。彼を信じる者が一人も滅びずに永遠の命を得るために(ヨハネ3章14~16節)。

こうしてキリスト信仰者は聖霊の働きで神の深い憐れみと愛の中で生かされていることを再び思い知り、神聖な神の意思にすっぽり包まれているとわかって、そこから外れないようにしようと襟を正します。そうして、また先を越されたことの後追いが始まります。

キリスト信仰者はこの世の人生でこういうことを何度も何度も繰り返していきます。そうすればそうするほど、神と人間の結びつきを失わせようとする罪は立場と面目を失い、圧し潰されて行きます。これが本日の使徒書の個所でパウロが「霊によって体の仕業を死なせる」と言っていることです(ローマ8章13節)。日本語訳では「体の仕業を絶つ」ですがギリシャ語では「死なせる」(θανατουτε)です。しかも、動詞は現在形なので「日々死なせる」です。日本語訳みたいに威勢よく一気に罪を絶つことが出来る人などいません。聖霊に何度も何度も助けられて毎日毎日死なせるのが真実な生き方です。

主にある兄弟姉妹の皆さん、このように私たちには造り主の主と贖い主の主、そして日々、汚れから清めてくれる主がいつも共にいてくれるのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

2024年5月19日(日)聖霊降臨祭 主日礼拝 説教 吉村博明 牧師

主日礼拝説教 2024年5月19日 聖霊降臨祭

Youtubeで説教を聞く

エゼキエル37章1-14章、使徒言行録2章1ー21節、ヨハネ15章26-27節、16章4b-15節

説教題 「聖霊 ― 弁護者であり真理の霊である方」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日は聖霊降臨祭です。復活祭を含めて数えるとちょうど50日目で、50番目の日のことをギリシャ語でペンテーコステー・ヘーメラーと呼ぶことから聖霊降臨祭はペンテコステとも呼ばれます。聖霊降臨祭は、キリスト教会にとってクリスマス、復活祭と並ぶ重要な祝祭です。クリスマスの時、私たちは、神のひとり子が人間の救いのために人となられて乙女マリアから生まれたことを喜び祝います。復活祭では、人間の救いのために十字架にかけられて死なれたイエス様が神の力で復活させられ、そのイエス様を救い主と信じる者も将来、復活の日に復活できるようになったことを喜び祝います。そして、聖霊降臨祭では、イエス様が天に上げられた後、約束通り聖霊を送って下さったおかげで、私たちがイエス様を救い主と信じる信仰に留まって勇気と希望を持ってこの世を生きられるようになったことを喜び祝います。

 本日の説教では三つのことについてお話します。一つ目は、聖霊降臨の出来事の時、ペトロがそれは旧約聖書のヨエル書の預言が実現したことだと言いますが、それはどういうことか?二つ目は、本日の旧約聖書の日課はエゼキエル書ですが、そこで霊について言われていました。この個所は実はキリスト教会に大いに関係するということについて。三つ目は、イエス様が福音書の日課の中で聖霊のことを「弁護者」とか「真理の霊」と呼んでいますが、それはどういうことか?以上の三つのことを見ていきます。

2.聖霊降臨の出来事とヨエル書の預言

聖霊降臨とは、先ほど朗読して頂いた使徒言行録2章にある通り、イエス様の弟子たちが聖霊を受けて群衆を前にして、群衆のそれぞれの母国語で話を始めたという出来事です。どんな言語にしても外国語を学ぶというのはとても時間と手間がかかることです。それなのに弟子たちは留学もせず語学学校にも行かず突然できるようになったのです。聖霊が語らせるままにいろんな国の言葉を喋り出した(2章4節)とあるので、まさに聖霊が外国語能力を授けたのです。それにしても、弟子たちは他国の言葉で何を話したのでしょうか?群衆の誰かが言いました。「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは(2章11節)」。

 弟子たちがいろんな国の言葉で語った「神の偉大な業」とはどんな業だったのか?ギリシャ語原文では複数形なので数々の業です。集まってきた人たちは出身民族は異なるが皆、旧約聖書の天地創造の神を信じるユダヤ教徒です。ユダヤ人が「神の偉大な業」と聞いてすぐ頭に浮かぶものと言えば、その筆頭は出エジプトの出来事でしょう。大昔イスラエルの民がモーセを指導者として奴隷の国エジプトから脱出し、シナイ半島の荒野で40年を過ごし、そこで十戒をはじめとする律法の掟を神から授けられて約束の地カナンに向かって民族大移動していく、そういう壮大な出来事です。それと、神の偉大な業としてもう一つ考えられるのは紀元前6世紀に起こったバビロン捕囚からの祖国帰還です。国滅びて他国に強制連行させられた民が、人知を超える神の歴史のかじ取りのおかげで祖国帰還が実現したという出来事です。

 ところが弟子たちが語った「神の偉大な業」の中には、以上のものに加えてもう一つ新しいものがありました。それは、弟子たちが自分の目で直に目撃したイエス様の出来事でした。あの「ナザレ出身のイエス」は単なる預言者なんかではなく、まさしく神の子、旧約聖書に預言されていた救世主メシアであった。その証拠に十字架刑で処刑されて埋葬されたにもかかわらず、神の力で復活させられて大勢の人々の前に現れて、つい10日程前に天に上げられた一連の出来事です。イエス様の出来事には旧約聖書の預言が無数に絡んでいました。なので、これもまぎれもない「神の偉大な業」でした。こうしてユダヤ教の伝統的な「神の偉大な業」に並んで、イエス様の出来事がいろんな国の言葉で語られたのです。太古の昔にバベルの塔が破壊されて人間の言語がバラバラになって以来、初めて人間が異なる言葉を通してでも一致して天地創造の神の偉大な業を称えることが起きたのです。

 そこでペトロは集まってきた群衆に向かって、この不思議な現象を説明します。群衆の中には新種のぶどう酒で酔っぱらってこんなことが出来るのだ、などと的外れなことを言う人もいました。それに対してペトロは、酔っぱらってなんかいません!今はまだ朝で酔っぱらっていい時間でないことくらいわかっています!などと真面目に応答するのがユーモラスに感じられます。それでは、この不思議な現象は一体何なのか?

 ペトロは、この現象はヨエル書3章1ー5節の預言の成就であると説き明かしします。分岐した炎のような舌が弟子たち一人一人の上にとどまって彼らは異国の言葉で「神の偉大な業」について語り出した。弟子たちは、これこそヨエル書にある神の預言そのままの出来事であり、そこで言われている神の霊の降臨が起きた、イエス様が送ると約束された聖霊は旧約の預言の成就だったとわかったのでした。

 ところでペテロは、ヨエル書の箇所を引用する時に「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ」と言いました。「終わりの時に」とはギリシャ語原文では「終わりの日々に」です。ところが、ヨエル書のヘブライ語原文を見ると、「終わりの日々」という言い方はありません。ペトロが原文を改ざんしたのか?そうではありません。旧約聖書のギリシャ語版で「終わりの日々」と訳されていました。旧約聖書をギリシャ語に翻訳した人たちは終末論の観点で訳したのです。ペトロはそれに倣ったのでした。

 それでは「終わりの日々」とはどんな日々でしょうか?それは、イエス様が天に上げられて以後の人間の歴史は彼の再臨を待つ日々になるということです。イエス様が再臨する日とは、今ある天と地が終わって新しく創造され直されるという天地大変動の時です。大変動の後に唯一残る国として神の国が現れる、その時、誰がそこに迎え入れられるかどうかという最後の審判が行われる。それで、イエス様の再臨を待つ日々は「終わりに向かう日々」なのです。イエス様の昇天からもう2千年近くたちました。しかし、仮に3千年かかろうとも、彼の再臨を待つ以上は「終わりの日々」なのです。19節からそういう天地の大変動について預言されています。20節で「主の日」が来ると言われています。これは旧約聖書の預言書によく出てくる言葉です。神が罪深い民に怒りを表す日で、バビロン捕囚の前は敵国が攻めてくるような災難を意味しました。捕囚の後の時代には終末論的に理解されるようになります。イエス様の十字架と復活の後の時代は、彼の再臨の日を意味するようになります。

 21節を見ると、そういう天地の大変動の時の破滅から救われて神の国に入れるのは、救い主の名により頼む者であると言われています。そして、22節から後のところで、ペトロは群衆に対してそのような者になりなさいと説いていきます。こうして聖霊降臨の日に異なる言語で神の偉大な業について証することが始まり、民族の枠を超えて福音を宣べ伝えることが始まりました。その最初の宣べ伝えの日に3000人もの人たちが洗礼を受けました。キリスト教会が誕生したのです。聖霊降臨祭がキリスト教会の誕生日と言われる所以です。

3.エゼキエルが神から示されたこと

本日のエゼキエル書の日課にある出来事は、イエス様が登場する500年以上も前のことです。かつて神に選ばれたイスラエルの民でしたが、国の指導者も国民もこぞって神の意思に背く生き方をし続けた結果、ついに神から罰として強大な敵国を送られてしまい、その攻撃を受けて滅びてしまいます。国民の主だった者たちは捕虜として異国の地バビロンに連行されてしまいました。世界史の古代史のところで出てくる「バビロン捕囚」の事件です。連行された者の中に預言者のエゼキエルがいました。ある日エゼキエルは、神の霊に導かれてある谷に連れて行かれます。そこで無数の枯れた骨を見ます。ところが、それに肉や皮膚がついて人間として生き返り出す光景を見せつけられます。これが500年後に起こる聖霊降臨やキリスト教会の誕生とどう関係するでしょうか?それについて見ていきましょう。

 37章11節に、なぜ天地創造の神はエゼキエルにこのような光景を見せたのかが言われます。大量の枯れた骨はバビロン捕囚の憂き目にあったイスラエルの民を象徴している。国滅びた自分たちは荒野に放置された骨も同然だ、希望はなく消滅するしかないと嘆いている。それに対して神は、否、お前たちは必ず祖国に帰還できると約束する。神は、約束を本当に実現する力があることを示すために、枯れた骨が生身の人間になって生き返る様子をエゼキエルに見せたのです。そこまでされたら信じないわけにはいかないでしょう。このように、この光景は国難に陥って国が滅びてしまった民が復興することを確信させるために見せられたのでした。

 ここで14節をよく注意して見ます。新共同訳では、「わたしがお前たちの中に霊を吹き込む」となっていますが、ヘブライ語原文は「わたしがお前たちに私の霊を与える」です。新共同訳では単に「霊」と言っていますが、原文では「私の」霊を与えると言っていて、与えるのが「神の霊」であることがはっきりしています。つまり、聖霊です。さて、歴史的事実としてイスラエルの民は紀元前538年から祖国帰還ができるようになり復興を遂げます。しかし、民は本当に聖霊を受けて復興を遂げたのでしょうか?

 確かに、民は祖国に帰還しエルサレムの町と神殿を再興しました。しかし、ユダヤ民族は相変わらずペルシャ帝国、アレキサンダー帝国そしてローマ帝国などの大国に支配され続け、かつてのダビデの王国の再興など夢の夢でした。さらに、民自身が神の意思に沿う生き方が出来ていないのではないかという疑念も起こっていました。イザヤ書2章に、異邦人がこぞって天地創造の神を拝みにエルサレムに上ってくるという預言がありますが、現実はほど遠いものでした。そうなると、民に聖霊が与えられて復興を遂げるというのは、祖国帰還と町や神殿の再興とは違うことを意味するのではないかと考えられるようになります。つまり、エゼキエルの預言はまだ未完という理解です。

 どうしてこんなことになったのかと言うと、神が本当に目指していたことは、特定の民族の復興ではなくてもっと大きなことだったからです。それは、堕罪の時に起きてしまった人間の罪の問題、罪のために神と人間の結びつきが失われてしまったという問題を解決することでした。神としては全人類の問題の解決を視野に入れて預言者たちに言葉を下したのです。しかし、言葉は具体的な歴史の中で下されます。そのため、言葉は歴史状況に結び付けられて理解されてしまいます。神は祖国帰還と復興を実現させることで、本当はもっと大きなことを行う力があることを前もって知らせたのです。

 それでは、全人類に関わる罪の問題が解決したのはいつでしょうか?それは、神がこの世に贈られたひとり子のイエス様が十字架の死を遂げて人間の罪の償いを果たし、人間を罪の支配から贖い出した時でした。そしてイエス様を死から復活させて死を超える永遠の命に至る道を人間に開いた時でした。そういうわけでエゼキエルの預言は実は、罪と死の支配下にあって枯れた骨同然の人間一般が、イエス様の十字架と復活のおかげで解放されて聖霊を与えられて「新しい命に生きる」(ローマ6章4節)ようになることを見越した預言だったのです。さらに「墓が開かれ、墓から引き上げられる」(エゼキエル37章12

13節)というのも、罪と死の支配から解放された者たちが将来の復活の日に復活を遂げて、天上のエルサレムとも呼ばれる神の国に「帰還」するという、復活の日をも見越した預言だったのです。このように旧約聖書の預言を見る時はいつも、預言が一旦実現したかに見える歴史的出来事だけに注目するのではなく、イエス様の十字架と復活の出来事と将来起こる復活の出来事にこそ真の実現があるということをいつも覚えて見なければいけません。

3.弁護者であり真理の霊である方

それでは、聖霊とは一体何者でしょうか?まず、キリスト信仰では神というのは、父、御子、聖霊という三つの人格が同時に一つの神であるという、いわゆる三位一体の神として信じられます。それじゃ聖霊も、父や御子と同じように人格があるのかと驚かれるかもしれません。日本語の聖書では聖霊を指す時、「それ」と呼ぶので何だか物体みたいですが、英語、ドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語の聖書では「彼」と呼んでいます(ただし、フィンランド語のhänは「彼」「彼女」両方含む)。まさしく人格を持つ者です。

 それでは、人格を持つ聖霊とは一体どんな方なのか?ヨハネ福音書14章から16章にかけてイエス様は最後の晩餐の席上でこれから起こることについて語ります。自分はもうすぐ十字架にかけられて死ぬことになる。しかし、神の力で復活させられて、その後で天の神のもとに上げられる。弟子のお前たちとは別れることになってしまうが、神のもとから聖霊を送るので、お前たちがこの世で孤児のようになることはない。そこでイエス様は聖霊を送る約束をしますが、聖霊のことを「弁護者」とか「真理の霊」と呼びます。聖霊が弁護者ならば、何に対して私たちを弁護してくれるのか?真理の霊と言うとき、真理とは何を意味するのか?

 まず、聖霊が「真理の霊」であるということについて。キリスト信仰の観点では、聖霊の力が聖書の御言葉を通して働かないと人間はイエス様を救い主と信じる信仰に入ることは出来ません。人間の理解力、能力、理性だけでは、いくら聖書を読んでもイエス様は単なる歴史上の人物に留まります。約2,000年前の今のイスラエルの国がある地域でナザレ出身のイエスは旧約聖書の神と神の国について教えを宣べて多くの支持者を得たが、当時のユダヤ教社会の宗教エリートと衝突してしまい、その結果、ローマ帝国の官憲に引き渡されて十字架刑で処刑されてしまった。信仰なく理性だけですと、こういう歴史上の人物理解に留まります。歴史の教科書に書いてある理解です。

 ところが聖霊の力が働くと、これらの出来事は表層的なもので、深層部にはもっと大きなことがあるとわかるようになります。大きなこととは、万物の創造主である神の計画が実現したということです。つまり、イエス様が神の力で復活したことで彼が神から贈られたひとり子であることが旧約聖書の預言から明らかになった。じゃ、神のひとり子ともあろう方がなぜ十字架で死ななければならなかったのか?それは、人間が内に持ってしまっている、神の意思に背こうとする性向すなわち罪を神に対して償う犠牲の死であったことがやはり旧約聖書の預言から明らかになった。イエス様の死は人間が神罰を受けないで済むようにと人間を守るための犠牲の死であり、人間はイエス様を救い主と信じる信仰と洗礼を通して罪の償いを受け取ることが出来、償いを受け取ったら神から罪を赦された者と見てもらえるようになる。罪を赦されたから神との結びつきを持ててこの世を生きられるようになる。この世から別れた後も復活の日に神がイエス様の時と同じ力を及ぼして復活させてくれて神の国に迎え入れて下さる。以上の旧約聖書に約束されたことを実現するためにイエス様の十字架の死と死からの復活が行われた。これらのことが、歴史の表層部には見えない、深層部にある本当のこと、真理なのです。理性では到達できない領域です。イエス様を救い主と信じる信仰に生きる者は聖霊の力が働くのでこの真理に到達することができるのです。

 聖霊の力が働いたおかげで真理が見えるようになると、今度は聖霊は「弁護者」の働きをします。聖霊は何に対して私たちを弁護してくれるのか?それは私たちを告発する者がいるから弁護してくれるのです。何者が私たちを告発するのか?まず、サタンと呼ばれる霊があります。悪魔のことです。サタンとは、ヘブライ語で「非難する者」「告発する者」という意味があります。私たちが十戒の掟に照らされて、言葉も行いも心の中も神の意思に沿う者でないことが明るみに出ると、良心が私たちを責めて罪の自覚が生まれます。悪魔はそれに乗じて、罪の自覚を失意と絶望へ増幅させます。「どうあがいてもお前は神の目に相応しくないのさ。神聖な神の御前に立たされたら木っ端みじんさ」と。旧約聖書のヨブ記にあるように、悪魔は神の前に進み出て「こいつは見かけは善人ぶっていますが、一皮むけばどうしようもない罪びとなんですよ」などと言います。悪魔のそもそもの目的は人間と神の結びつきを失わせることです。もし私たちが神の罪の赦しを信じられなくなるくらいに落胆してしまったり、または罪を認めるのを拒否して神に背を向けて立ち去ったりすれば、それはもう悪魔にとって拍手喝采なことになります。

 聖霊は罪の自覚を持った人を神の御前で次のように弁護してくれます。「この人は、イエス様が十字架の死をもって全ての人間の罪の償いをして下さったとわかっています。それでイエス様を救い主と信じています。罪を認めて悔いています。それなので、この人が信じているイエス様の犠牲に免じて赦しが与えられるべきです」と。翻って聖霊は私たちにも向いて次のように囁きかけて下さいます。「あなたの心の目をゴルゴタの十字架に向けなさい。あなたの赦しはあそこにしっかりと打ち立てられて微動だにしていません」と。キリスト信仰者は神に罪の赦しを祈り求める時、このような素晴らしい弁護者がついているのです。神はすぐ、「わかった。お前が救い主と信じている、わが子イエスの犠牲に免じて赦そう。もう罪を犯さないようにしなさい」と言って下さるのです。その時、私たちは襟を正して本当にもう罪は犯すまいという心を強くするでしょう。

 悪魔の告発の他にもう一つ、聖霊が弁護者として働く場合があります。それは、キリスト信仰者が誤解や中傷、酷い場合は迫害を受ける時です。本日の福音書の日課は16章の1節から4節の前半までが省略されていましたが、そこのところでイエス様は弟子たちに迫害の危険があることを述べています。弁護者としての聖霊を送るというのは、このことに関してなのです。

 キリスト信仰者は、イエス様を救い主と信じる信仰に入った段階で神の意思である十戒を心に刻みつけられています。人を傷つけない、見下さない、敬意をもって接する、偽りを語ったり広めたりしない、盗んだり妬んだりしない、不倫をしない等々のことを行為だけでなく、言葉や考えにおいても守ろうとします。しかし、行為では守れても、言葉や考えで守り切れないことがあります。それで、先ほど述べたように弁護者に支えられて罪の赦しを何度も何度も確認して前に進むのです。そして、かの日に神の御前に立たされる時、神からこう言われます。「お前は罪の赦しの恵みに支えられて罪に反抗する生き方を貫いた。このことは弁護者から十分すぎるほど聞いている」と。

 そういうわけで、主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん、誤解や中傷があっても、何も心配はありません。私たちには永遠の命の弁護者がついているのです。私たちはただ、罪の赦しの恵みを支えにして、神の意思に沿う生き方、罪に反抗する生き方をしていれば、何のやましいことも後ろめたいこともありません。神の意思に沿う生き方がどれほど社会のためになるのかわからない方が憐れで惨めなのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2024年5月12日(日)主の昇天主日 主日礼拝  説教 田口聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

2024年5月12日

ルカによる福音書24章44〜53節:

「イエス・キリストはみ言葉を通して働かれる」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

1、「初めに」

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 今日の福音書は、ちょうど先月のルカ24章の箇所の続きになり、またルカの福音書の結びのところになります。前回は、私たちのイエス・キリストの救いは、どこまでも「イエス様の方から」の恵みであり、それは信仰もその生活も、決して律法ではなく、神の賜物であり、福音から生まれ始まり、福音によって強められていくことを教えられたのでした。今日の聖書箇所は、先月の最後で少し触れましたが、

2、「どのようにイエスは働かれるか」

 そのように「イエスの方から」の働きは具体的にどのように働かれるのか?ということから始まっています。復習を兼ねて見てきますが、44節

「44イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」

 イエスは弟子たちを最も大事な教えに立ち帰らせますが、それは突然、湧いて出てきたような新しい教えではありませんでした。最も大事なこと、それはイエス様自身が「これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたこと」とある通りに、十字架の前、一緒に旅をしてきてきた時にすでにイエス様が教えてきたこと、しかも旧約聖書から教えてきたこと、そして「わたしについて」、つまり、十字架も復活もその自身が教え聖書も約束してきた、み言葉の成就なのだとイエスはご自身のみ言葉に立ち返らせるのです。

A, 「聖書はイエス・キリストを指し示す」

 このイエス様の言葉から何を教えられるでしょうか。まず一つは、聖書は全てイエス・キリストを指し示している、イエスを伝え証しているということです。まさにイエスご自身が「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある」と言っています。このイエス様の時代は「旧約聖書」という言葉はなく、聖書といえば「モーセの律法、預言書、詩篇」の事です。つまりそれは私たちから見れば「旧約聖書」を指しているのですが、それについてイエスは「わたしについて書いてある」とはっきりと言っているのがわかります。ですから、旧約聖書の言葉もまた、皆、キリストを中心としていて、やがてくるキリストを証しているのだということは、キリストのメッセージは、後の弟子たちや教会の偉い人が勝手に考え出したり編み出した創作の教えでは決してないと言うことがわかります。それは紛れもない、神からの救い主イエス・キリストの証明のメッセージなのです。ですから私たちは旧約聖書を読んでいくときにも、このことは福音を理解するたの大事な助けになります。旧約聖書はただ律法的な言葉が並んでいる律法の言葉というのでは決してない。あるいは私たちと全く関係のないユダヤ人、イスラエル人に関わることだということでも決してないということです。旧約聖書もイエス・キリストを中心としイエスキリストを指し示しているのですから、十字架と復活を中心として読んでいくとき、旧約聖書にも私たちは福音と神の恵みによる救いの本当のメッセージを聞くことができるのです。旧約聖書にもキリストの福音は溢れているのです。

B, 「聖書の神のみことばを通して」

 第二に、このように、イエスご自身は絶えず聖書を通してみ言葉を語って教え、働かれてきたように、これからも変わらずイエス様は私たちにもそうであるという事にやはり立ち返らされます。事実この後、遣わされる使徒達もそのように、聖書を通して教え、そこにこそ主の力は現され教会もあり宣教もあったでしょう。そのことが今も変わらず、主なる神は、どこまで聖書のみ言葉を通し、み言葉を解き明か、み言葉の約束を与え続けることによって、その「イエスの方から」の恵みをずっと私たちに働かせ続けておられる。イエスは、これまでもそうであったし、これから宣教に遣わすこの時も、そこから決してずれないのです。

C, 「なぜか?それはみ言葉は真実であり力があるから」

 では第三に、それほどまでになぜみ言葉、あるいは「み言葉を通して」は重要なのでしょうか。それはここでイエスがいう通りです。

「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。

44節

 と。なぜ、み言葉を通してなのか?それはまさに「神の力はみ言葉にこそある」のであり、み言葉こそ「必ずすべて」その通りになる真実な力であるからに他なりません。イエスが言う通り、旧約聖書はその記録です。天地創造は「神の言葉による」創造です。ヨハネの福音書の最初に、「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。2 この方は、初めに神とともにおられた。3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」(新改訳聖書)とある通りです。そして神はその「言葉で」世界とアダムとエバを祝福し、言葉で二人を導きます。そのアダムとエバの堕落と罪が入ったのは、神の言葉への疑いと否定から生まれます。その後はどうでしょうか。アブラハムには神はその姿を具体的に現わされるところから始まっていません。まず見えない神が言葉と約束を語り、アブラハムを「まだ見ぬ地へ」と言葉で遣わすでしょう。そして人間の常識ではあり得ない、信じられないような言葉さえも告げられます。例えば、100歳のアブラハムとサラに子供が与えられると。二人は全く信ぜず笑います。しかしそれに対して主からの「主にとって不可能なことはあろうか」という言葉の通りに、つまり主の言葉こそ実現していくでしょう。アブラハムとサラの疑いの通りになっていったのではありません。神の言葉がその通りになって、イサクは生まれます。さらにあの不肖の息子ヤコブに対する神の愛と約束も言葉によるものでしょう。そして罪深いヤコブでしたが、彼はまさにその憐れみに満ちた神の言葉にこそ支えられ助けられ信じて歩んでいき、神の言葉の通りのことがヤコブの道にはことごとく起きました。モーセは、その背中以外は、神を見ることができませんでした。しかし神は言葉を持ってモーセを遣わし、言葉を持って助け、モーセの言葉や思いではなく、神の言葉こそがその通りに成就していきます。ヨシュアしかり、サムエルしかり、ダビデしかり、イザヤなどの預言者しかりです。詩篇の記者もそのことを沢山、証しています。それは新約聖書でも全く同じで、ルカの福音書の記録も、主のみ言葉はその通りになるということの証しで溢れていたでしょう。まさに、聖書はそのことで一貫しているのです。イエスはそのこと、つまり「み言葉は力ある、その通りに「必ず全て」実現する真実な言葉である」と言うことへ弟子たちを向けさせようとし、私たちをもそこへと向けさせようとしているのです。

3、「「イエスが心を開いて」とある」

 これまで見てきた「イエスの方から」「神の方から」の恵みの大原則。今でもイエスは、私たちへ「イエスの方から」絶えず、働いています。しかしその素晴らしい恵みをイエス様は、何よりみ言葉を通して、み言葉の真実な約束と、その通りになるその力を与え続けることで実現してくださっており、それによって私たちを力づけ、慰め、平安を与え、そして遣わしてくれているのです。そしてそのみ言葉には、私たちがクリスチャンとして歩むために、み言葉とともに私たちに力強く働く更なる神の恵みがあります。こう続いています。

「45そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、 46言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。 47また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、 48あなたがたはこれらのことの証人となる。

45−48節

 みなさん、これでまで「み言葉が大事」と繰り返していますが、しかしそれを律法的に捉えてしまっていることはないでしょうか?「ああそうか。み言葉が大事だから、もっと自分で頑張って努力してみ言葉をもっと悟らなければならない。み言葉を信じなければならない。」そのように「自分の力で〜しなければ行けない」と。しかし実はそうではないことがここにわかるでしょう。弟子たちはイエスからそう言われて、では「自分からもっと悟らなければ」と言って自分の力で悟りに至ってはいません。ここに「イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて」と書いてあるでしょう。何度も見てきた通りです。弟子たちは自らでは悟ることはできませんでした。誰一人です。ここでもそうです。彼らもみ言葉が大事なのはわかった、いや3年間共に歩む中で、すでに分かっていたかもしれません。しかしそのイエスの十字架と復活にある救いの真の意味を知り、それを信じ確信し喜ぶ信仰は彼ら自身からは生まれなかったのです。最初は同じように、彼らも律法的に「自分が聖書を」とか「自分が神のために、イエスのために、神の国のために」となったかもしれません。しかしそれだと前回も見たように、彼らはイエスの復活の日であっても、福音を全く悟っていなかったし、約束も全て忘れてしまっていたでしょう。悲しみと失望に暮れるしかなかったでしょう。彼らはどこまでも的外れでした。しかしみ言葉を福音として、喜びとして、救いとして、悟らせ、心を開いたのは、彼ら自身ではなくイエスであることがここにはっきりと書いてあるでしょう。「イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて」と。

 イエス・キリストは、み言葉を通して働きます。み言葉こそ力です。もちろん聖書を読むことや暗誦することは大事です。しかし私たちは「み言葉」を理解することを律法的に捉える必要はありません。私たちが頑張って理解するではないのです。むしろそれはできません。み言葉を通して、福音を悟らせ、私たちに喜びと平安を与えその歩みを導いてくださるのも実は、イエス・キリストご自身なのです。「あなたがたが自らで、聖書を信じて、理解し、確信を持って、頑張って努力して、喜びなさい、平安になりなさい」となると何か変でしょう。矛盾するでしょう。神や神の国のことを「頑張って、理解し、喜び、安心する」というのは矛盾するし、真の喜びや安心ではないし、そもそもできない、成り立たないことです。イエスはそのようには教えていないのです。むしろ、み言葉を持ってイエス様ご自身が、聖霊が、私たちに働き、そしてイエスが、聖霊が、心を開いて福音を悟らせてくださり、私たちに喜びと平安が与えられるのです。「イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて」とある通りに。だからこそ信仰はやはり私たちの行いでも律法でもなく神の恵み、賜物であることにつながっているでしょう。だからこそ、神が与え、悟らせ、神が喜びと平安で溢れさせるのも、それはみ言葉を通して「イエス様が心を開いて」私たちのところへ来るのだと言うことは、まさに天からの素晴らしい福音の出来事だとわかるでしょう。私たちは今、そのことに与っているのです。だからこそ毎週、礼拝でみ言葉に「聞くこと」は大事ですし意味があるのです。

4、「何を宣教するのか。福音とは何か」

 そしてそのことは47〜48節の言葉にも関わってくる恵みです。これは有名な宣教を示唆する言葉です。ここでは「罪の赦しを得させる悔い改めが」とあるでしょう。つまりこれは「宣教の内容」「福音の内容」です。はっきりと「罪の赦しを得させる悔い改め」こそ宣教すべきことであり伝えるべき律法と福音であるとイエスは言っているのです。けれども現代は「罪や悔い改めは暗い言葉、聞きたくない言葉だから語ってくれるな」と、教会から敬遠され語られなくなっていると言われています。その方が人が集まるからとも言います。しかしそこで一体どんな福音を語っているのでしょうか。確かに「愛」という言葉は強調されますが、しかしどんな愛なのでしょうか。自分の神の前の罪もわからず、悔い改めも知らず、十字架と罪の赦しのない「神の愛」などあるのでしょうか。しかしイエスははっきりと語るべき律法と福音とは何か、証すべき宣教すべきは何かを伝えています。それは罪の赦しを得させる悔い改めだと。悔い改めと十字架の事だと。そしてその罪の赦しこそ福音、その罪の赦しの十字架の証人こそ、教会であり、宣教なんだとイエスは言っているのです。そうです。人間の理性や常識では、神の前の罪の赦しなんてどうでもいいことかもしれません。むしろ人は自分にも世にも「罪などない」になっていきます。罪など聞きたくない暗いことです。人間の好みにそのまま従えば、罪の赦しや悔い改めなどは排除したいこと、それが普通かもしれません。人間は罪人だからこそ、罪の赦しの奥義、十字架は、私たちの常識や好みでは目を背けたい好ましくない脇に寄せたいことになるのは当然の流れなのです。しかしだからこそ、ここでその人が聞きたくない「悔い改めと罪の赦し」こそが、証しされるべき福音なのだとイエス様が言っていること自体に、私たちの思いをはるかに超えた、私たち自身ではできない「イエスがなさる、イエスが悟らせ心開く」という大原則が貫かれているのです。イエスが心開いて悟らせてくださることだから、人間自らでは理解できない、十字架の罪の赦しは、私たちの理解となり、本当に喜びと真の平安になります。そして「律法によって」ではなく本当に神から与えられ湧き出てくる喜びと平安であるからこそ、それは義務的でも律法でもない、本当の証し、本当の宣教になっていくのだと、イエスは伝えてくれています。そのことを保証するように49節の言葉が続いています。

5、「み言葉と聖霊」

「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。

49節

 と。聖霊を与える約束です。イエスはこの後、天に昇ります。しかし目に見える復活のイエスがいなくなったからと「イエスの方から」は止まってしまうでしょうか。そうではありません。イエスの霊が与えられ、イエスは常に共にいて「イエスの方から」はずっと続くでしょう。まさに聖霊は、み言葉に、そして信仰に豊かに働くイエス様の霊であり、主なる神です。目に確かに見えません。しかし弟子たちに対してと全く変わらず、今も聖霊は「聖霊の方から」み言葉を通して私たちの信仰にも働いてくださり、「イエスの方から」の恵みを続けてくださっているのです。それは「み言葉を通して、賜物である信仰に」なのです。ですからみ言葉が語られている時、それはイエスが私たちに語っている素晴らしい時です。私たちを信じさせ、喜ばせ、安心させるためです。罪の赦しの福音を喜びと感謝を持って証するように遣わすためにです。牧師はそのための道具にすぎません。私は何も与えることはできないし力はありません。しかしイエスにこそ力があり、イエスの言葉に力があるのです。そのようにイエスが私たちの心に働いて、イエスのみ言葉に力があるからこそ、み言葉によって罪の赦しの福音の奥義が私たちに開かれ、私たちに真の喜び、真の平安が満ち溢れるのです。それはイエスしか与えることができません。そのようにしてまさに52〜53節にある通り、弟子たちが約束の聖霊を受けるまでエルサレムに止まりながらも宮で非常な喜びに満たされ、賛美に溢れていたのです。その信仰、その喜びはどこから来るのか?賛美はどこから来るのか?もちろんキリストからですが、パウロはこう言っています。

「‘実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。 」(ローマ10:17)

 と。これはあのルカ10章、マルタの妹のマリヤが、ただイエスの言葉を聞いていたことこそを、イエスが「最も大事なこと」と伝えたのと一致しています。自分が、神をもてなさなけれならない、神を喜ばせなければいけない、喜ばなければいけない。賛美しなければいけない、とまず自分が主体で、主役で、神のためにまず自分が何かをしなければ、という信仰、賛美、礼拝、喜びも律法にすることに、そこに真の喜びや賛美はあるでしょうか?それは忙しなく動いていて、苛立ち、マリヤを裁き、イエスにまで不平を言うようになってしまった、マルタの結末になってしまいます。真の平安も喜びもありません。ルカの福音書は、喜びと賛美で始まり、52節以下、喜びと賛美で終わります。ルカの福音書の真ん中のルカ15章の放蕩息子に代表される三つの例えは、やはり救いの喜びですね。イエス様は真の喜びと平安を与えるために来らました。それは「まず私たちが神のためにしなければいけない」の律法からは生まれないでしょう?真の喜びと平安は、イエス様の方から、み言葉を通して、聖霊の豊かな働きによって来る、福音であり、福音からくるものであり、それ以外にはあり得ないのです。イエス様は言われるでしょう。

「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」ヨハネ14章6節

「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。」ヨハネ10章9節

 ぜひ、み言葉をとおして福音が与えられている幸い、イエスの語りかけである福音に聞くことができる幸いを賛美しましょう。そしてこの恵みに取り囲まれて、福音の喜びと平安に満たされて、私たちは罪の赦しの福音を証していこうではありませんか。今日もイエス様は宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひ安心してここから遣わされて行きましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

 

2024年4月14日(日)復活節第三主日 主日礼拝 説教 田口聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

ルカによる福音書24章36〜49節

「生きておられる復活のキリストからの賜物としての信仰」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

1、「初めに」

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 復活節の聖日の朝、今日もイエス様の復活の恵みを見ていきます。今日の箇所の前には、復活の日の出来事が書かれています。イエス様は弟子達に、十字架にかけられる前からご自身が死から復活することを予め伝えていたにもかかわらず、皆、そのことを忘れていました。忘れていただけではありません。復活のイエス様は女性たちに現れ、彼女達はそのことを弟子たちに伝えました。しかしその証言があっても11節、「使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。」と、弟子たちは信じなかったのです。しかし、その後、エルサレムを離れエマオへと向かう二人の弟子たちのところに、「イエス様の方から」現れてくださいます。二人はそれが復活のイエス様だと気づかないのですが、そんな二人にイエス様は、み言葉を繰り返し語り、思い出させ、ともにパンを裂くことによって二人の目を開き、イエス様がその弟子達の信仰をもよみがえらせました。エルサレムを離れエマオへと向かう二人の沈んだ閉ざされた心は「本当に約束の通りイエスはよみがえったのだ」と喜びに変えられ、彼らは向きを変えエルサレムへと戻って行ったのでした。今日はその続きですが、ここでもその復活の「イエス様の方から」の恵みの出来事を見ることができるのです。

2、「信仰は人の側からの熱心や意志の力やイエスとの親密さの強さなのか?」

「こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち

36節

A,「イエスのご自身の方から」

 「彼ら」というのは弟子たちです。しかも11人の使徒とその仲間、他の弟子たちが皆集まっています。そんな彼らは何を話していたのでしょう。それは33節以下に書かれていますが、復活のイエス様がシモンに現れたということ、そして、先ほど述べたエマオに帰る途中、二人の弟子にイエス様の方から出会った下さったその出来事でした。シモンも、そしてその二人の弟子たちも復活のイエスが現れてくださったと、証しているのですが、それでも他の弟子たちは信じられません。この後も弟子達の信じることの不完全さ、無力さが続いています。37節

B,「自ら信じることの無力さ」

「彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。

 シモンとエマオの二人の弟子たち以外の弟子たちだと思いますが、彼らはそのような証言、証しがあっても、驚き、恐れます。つまりこの後「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。」とイエスの言葉にある通りに、彼らはまだ疑っている現実があります。どう思ったのかというと、「「亡霊を見ている」のだと思った」というのです。本当にイエスが復活をしたと信じれないのです。このようにまずわかる事実は、このように、まだ信じる前ではありますが、「イエス様の方から」がないなら、つまり、イエス様が現れなかったのなら、イエス様の方から来なかったのなら、弟子たちはずっとイエス様の復活を信じることはできなかったことでしょう。失望、絶望に沈み、悲しみに沈み、ヨハネの福音書にある通り、人を恐れて、戸を閉ざして引きこもっていたことでしょう。いや、それだけではない、エマオへ帰る二人の弟子は失望と暗い顔で自分の村に帰って行ったように、弟子たちはみな解散し、自分たちの出身のガリラヤの町々、村々に帰って行ったことででしょう。宣教も始まらなかったことでしょう。「イエス様の方から」がなかったなら、です。しかも目撃証言があり、それでも信ぜず、さらには、イエス様の方から現れたとしても「亡霊」だと思い、取り乱すしかない、心に疑いを持つことしかできません。このように一緒にいた弟子であっても、人はどこまでも、神のなさること、つまり、神の国、救いのことについて、「神の力なしには」、弟子たちの側、人の側だけではどこまでも無力であり、神に対して後ろ向きになり、信じない、悟れないものであることがわかります。それは、堕落した時のアダムとエバの姿とその性質そのものですが、その自らでは決して信じられない、疑うという罪の性質は、この復活の日の弟子たちの姿にまで受け継がれているのを見るのです。そのように信仰とは、人の熱心とか努力とか、根性とか意思の力とか、あるいは、どれだけ長く近しく過ごしてきたとか、そんな人間の側のことは全く関係ないし意味もないことがわかるのです。

3、「そのような人間の現実へどこまでも「イエスの方から」の意味」

A,「恵みに限界はあるのか?」

 しかし、そのように弟子たちは霊だと思い、取り乱し、疑います。信じません。ではこのようにもう何度も「イエス様から」の働きかけがあるのに、恵みが繰り返されているのに、それでも「信じないから」と、イエスはどうでしょう?ここで「イエス様から」の恵みは尽きるでしょうか? 終わるでしょうか? ここでもうこの弟子達はだめだ。もう私の堪忍袋の尾が切れた。もうあなた方は信じないからだめだ、と。イエス様の態度や働きが変わるでしょうか? それまでの恵みが、裁き、怒り、断罪、見捨てる、に変わるでしょうか? 人間だったら、忍耐、許すのは、二度まで、三度まででしょうか?いや、一度だけの失敗でも許せないと、いつまでも攻め続けたり、裁き続ける場合もあるでしょう。しかし、イエス様は、神様はどうでしょう?人間の悟りの遅さ、罪深さ、不完全さが理由で、神の恵みに、限界を設けているでしょうか?この後、こう続いています。

B,「イエスの方から」の恵みに限界はない」

「39わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」 40こう言って、イエスは手と足をお見せになった。

 イエス様はそれでも、つまり何度「イエス様の方から」示しても、何度働いても、それでも信じない弟子たちを、見捨てたりしません。怒ったり、裁いたりしません。それでもイエス様は、「イエス様の方から」をやめないでしょう。このように、神の恵みは、私たちの側の足りなさ、弱さ、失敗、頑なさ、罪によって、途絶えたり、終わったり、取り下げられたりしていません。それでも、どんなに頑なで、信じられない心にさえも「イエス様の方から」は絶えることはないです。イエス様は、自分から、ご自身の復活の体、肉体を見せ触れさせるのです。「亡霊ではないことを示すため」です。ヨハネの福音書にもご自身の体を触れさせることが書かれていますが、そのところでは、その手と足と脇腹にある傷に触れさせています。何のことかというと、それは十字架の傷のことで、手と足に釘を刺されや傷であり、脇腹は、ローマの兵隊が、イエス様が十字架刑で死んだのを確認するために槍で脇腹を刺したということがヨハネの福音書にあるのですが、そのことです。つまり、霊でも幻でもなく、まさに十字架で死んだそのイエス様が、その肉体が、本当によみがえったことを示しているわけですが、その体に、その傷に触れさせているのです。弟子たちは、それに触れて、本当に十字架で死んだイエス様がよみがえったのだ、復活したのだと、信じたのでした。

 そのようにイエス様は、自分の方からご自身の身体に触れさせることによって、信じない弟子たちを、「信じてほしい」と「信じるように」どこまでも働き、導いていることがわかるのではないでしょうか。このように、イエス様の恵みと働きは尽きることがないですし、まず「私たちの側から」何か貢献しなければ、完全にならなければ、信じなければ、等々、ではなく、そのまず「イエス様から」こそがどこまでも貫かれているのです。

4、「私たちの疑いが喜びと平安に変わるために」

 それによってどうなるでしょか?41節です。

「彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。 42そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、 43イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。

41〜43節

A,「信仰は律法ではない。福音であり賜物である」

 みなさん、37節の「うろたえている」心が、まず「喜び」「うれしさ」に変わっています。「喜びのあまり信じられず」というのは、それは矛盾しているように見えますが、もう「認めざるを得ない」、つまり「信じざるを得ない」状況を示しているでしょう。信じがたいことが、信じさせられているという逆説的な言い回しです。それでもさらにイエス様は、食べ物を求めて、焼いた魚を食されるのです。そのようにして弟子たちはみな、イエス様は本当に死からよみがえったのだということを信じるのです。しかし先週のヨハネの福音書も、この前のところのエマオの途上の出来事でもそうであるように、その信仰は、律法や人間の力ではあり得ない、まさに賜物です。弟子たち自らでは信じることができませんでした。「イエス様の方から」がなければ、この「復活」の素晴らしい出来事が真実であることがわかりませんでした。しかしまさにイエス様の方からの優しい働きかけ、言葉によって弟子たちはこの復活の事実が真実であると悟り、悟らされることによって彼らは喜びに、信仰の復活に、導かれていることが教えられるのではないでしょうか。このように「復活を信じる信仰」、それは半分でも僅かでも、人の側の自分たちの努力があって、それで信じることができたという人間の力や理性や努力の産物ではないのです。「信じることができない、彼ら」が信じるために、信じるように、イエス様は、ご自身を現わされるのです。それは、創世記のアブラハムとサラなどをみていても一貫していることです。このように、「信じる」ということは、決して律法ではない、律法では不可能であり得ない。信仰はどこまでも福音であり、福音から生まれるのであり、恵みであり賜物であると言うことが聖書では貫かれているのです。

B,「私たちの信仰も同じである」

 そしてこのことが、私たちにも一貫して等しく働いている信仰とその歩みの原則であると言うことです。つまり私たちにも、どこまでも「神様から」「イエス様から」が常に働いているのです。「イエス様から」がなかれば、イエス様から働いてくださらなければ、私たちも信仰はありません。いや、そもそもイエス様が、イエスの方から、この世に来てくださなかったのなら、私たちの罪の赦しも救いも何もなく、堕落のまま、神の怒りの前に、私たちは死んで滅んでいくだけの存在であったでしょう。しかし、私たちは誰もキリストなど知らない存在であったのに、いやそれどころか知らされても初めは背いて反抗し信じないものだったのに、そんな私たちのために、イエス様の方から来てくださったから、語りかけてくださったから自分は、キリストも救いも知ったし信仰が与えられたと言うのではないでしょうか?福音書も証ししています。イエス様の方から、弟子たちを招いてくださいました。イエス様の方から、病人や、悪霊に憑かれている人々のところへ行き、手を差し伸べてくださいました。イエス様の方から、社会から忌み嫌われている罪人のところに行き、一緒に食事をされ、友となられているでしょう。イエス様の方から「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」とおっしゃったでしょう。そして、私たち信仰と救いの核心部分。まさに他の誰でもない、私たちがでもない、神の御子であり罪のないイエス様が、イエス様だけが、イエス様自ら、罪人の刑罰である十字架にかかって死なれたでしょう。それは本来は全人類が、つまり私たち一人一人、私自身が負わなければならなかった十字架であり死です。しかし神の御子であり主であるイエス様はその私たちの、そして私の罪を全てご存知の上で、それを責めるのではない、裁くのでも断罪するのでも滅ぼすのでもない、その罪を全て背負って私たちのために、私たちの代わりに十字架にかかって死なれるでしょう。イエス様自ら、イエス様の方からです。まさにそのことが、この復活の後でも一貫して弟子たちに現れていますし、それが今も変わらず私たちにも現されている現実であると言うことです。その十字架と復活のキリストの恵みがどこまでも私たちを取り囲んでいるからこそ、私たちのクリスチャンとしての今があり、今の平安も喜びも、このイエス・キリストにこそあるのだということを教えられるのです。感謝なことではありませんか。

5、「平安があるようにー信仰は重荷でも私たちが行動の主役でもない」

  信仰は律法では決してない。信仰はどこまでも賜物です。信仰を与えてくださるのもイエス様であるし、信仰を強めてくださるのもイエス様です。復活の信仰を与えられていく弟子たちの姿はその一つの証しです。ですから、もし自分は「信仰が弱い」と思うことが誰でもあるとしても、しかしだからと、自分の力、努力で「信じなければいけない」「信仰を強めなければいけない」とするなら、それは神からの賜物を「自分からの何か」にすることになり、キリストの福音を歪めてしまっています。それは知らず知らず神のわざを退け、自分が行動の主役になってしまいます。しかしそれは表向きや見た目は敬虔そうには見えますが、実は不可能なことであることは、十字架と復活の前はもちろん、復活の後の罪深い弟子たちの姿、言葉、行動が示す通りです。そして何よりそのような誤解した信仰や、信仰を行いや律法にしてしまうことは、結局は、信仰生活に平安がなくなり、重荷になってしまい、息苦しくなってしまうことになります。行き詰まってしまいます。イエス様は「平安があるように」と言っているのにです。矛盾していませんか。信仰を律法にしてしまうそのような経験は、私自身もあります。誰もが直面する誘惑であり落とし穴だと思います。

 しかしイエス様は、感謝な方です。何よりイエス様はこのところになんと言って入ってきていますか?36節の初め、「あなたがたに平和があるように」とあるではありませんか?その平和は、イエス様が約束した世の与えることができないキリストが与えることができる平和、平安です。そのように、復活のイエス様は私たちから平安を奪い、重荷を負わせるために来たのではないことこそ、今日のところでもはっきりとわかることではありませんか。私たちちが信じることができないものだから、頑なななものだから、悟るに遅いものだからこそ、イエス様はそんな私たちに絶えず働いてくださる、イエス様の方から来てくださる。何より説教のみ言葉と聖餐を通してです。だからこそ、イエス様は繰り返し何度でも語ってくださり与えてくださる。教えるために。信じさせるために。信仰を強めるために。何度でもです。そして、そのように信仰を強めることによって重荷ではなく、喜びと平安を与えるのです。そのことが今日のところでも見事に重なっています。

6、「今も毎週の説教と聖餐のみことばを通して、変わることなく」

 そして、44節以下はその証しです。

「44イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」 45そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、 46言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。 47また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、 48あなたがたはこれらのことの証人となる。

 「わたしについて」と始まります。それは救いの御子イエス様ご自身を指し示しているでしょう。そして、その「わたしについて」の全ては神が与えた律法、預言、詩篇の聖書のみ言葉の実現だと、やはりここでも人間の側の計画、予想、わざ、敬虔、そのようなものは何もなく、ただただ、三位一体の神の方からのその言葉を通しての実現こそ、イエス様は「わたし」なのだ。わたしを指し示しているのだ、そしてそれがはっきりと現されているのが十字架と復活なのだと断言するでしょう。そして、それは「これから」の変わらない約束として「罪の赦しの悔い改め」の宣教にも実現すると約束します。しかも48節「あなた方はこれらのことの証人となる」です。あなた方が自分で「なりなさい」「ならなければならない」とは言っていません。「なる」と断言しているでしょう。そして49節では、「49わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」とあります。つまり宣教については「助け主である聖霊が与えられるまで、待ちなさい。とどまっていなさい」とイエス様は命じているでしょう。まさに聖霊の助けなしには、み言葉は実現しない。宣教も虚しいし実現しない。福音は伝えられない。だから、約束を、聖霊を待ちなさい。とどまりなさい。と伝えていることがわかるのです。まさに、その創造の初めから変わることのない約束の事実と実現が、今も変わらず、イエス様は、ご自身のみ言葉と聖霊の働きを通して、つまり何より説教と聖餐を通して、弟子達に、そして私たちにも常に働いてくださり、何度も新しくし、そして導いて用いてくださるのです。それは当然、教会も宣教もです。イエス様がみ言葉を語り続け与え続けることを通して、その信仰の道を、救いの道、そしてその良い働きまでもイエス様が与えてくださり、全てを完成させてくださることがどこまでも約束されているのです。それが聖書の伝える恵みの完全さに他なりません。パウロはそのことを伝えています。エフェソ2:8〜10節

「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。

新改訳ですと10節は「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」ともあります。

また、フィリピ1章6節ではこうもあります。

「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。 」ピリピ1:6

7、「結び」

 信仰はどこまでも賜物です。神が与えてくださるからこそです。そして、神である復活の生きておられるイエス様は、今日も明日も永久に私たちのために、私たちに与えてくださった信仰のために、み言葉と聖霊の働きで、さらなる恵みの上にさらに恵みを与えてくださり強めてくださいます。私たちの安心のために、私たちの救いの完成のためにです。今日もイエス様は変わらず、罪を認め悔いるイエス様の前にある私たちに言って宣言してくださるのです。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひ感謝を持って福音を受けましょう。受けることによって恵みが真実であることを実感し、受けることによって救われていることを確信しましょう。そこに平安があります。平安のうちに私たちはここから遣わされていくことができるでしょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

説教「教会の条件」吉村博明 牧師 、ヨハネによる福音書20章19ー31節

説教

主日礼拝説教 2024年4月7日 復活節第二主日

聖書日課 使徒言行録4章32ー35節、第一ヨハネ1章1節-2章2節、ヨハネ20章19ー31節

Youtubeで説教を聞く

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の福音書の個所は、復活したイエス様が弟子たちの前に現れて、いろいろ大切なことを教えるところです。大切なことは三つあります。まず、イエス様が弟子たちに「あなたがたに平和があるように」と繰り返し言ったこと。イエス様の言う平和。それから、彼が聖霊を与えると言って弟子たちに息を吹きかけて罪を赦す権限を与えたこと。罪の赦しの権限。三つ目は、弟子の一人のトマスが自分の目で見ない限りイエス様の復活など信じないと言い張った挙句、目の前に現れたので信じるようになりましたが、その時イエス様が言った言葉、「見なくても信じる者は幸いである」です。この三つのこと、罪の赦しの権限、イエス様の言う平和、目で見なくても信じるということは、よく考えるとキリスト教会が成り立つ条件であると言えます。イエス様は復活後40日したら天の父なるみ神のもとに上げられますが、その後でこの世に誕生する教会の設立条件をここで定めたとも言えます。今日は、この三つの条件について学んで、それがスオミ教会に備わっているか各自で考えてみる一助になればと思います。

2.罪の赦しの権限

まず、罪の赦しの権限について。私たち人間には神の意思に反しようとする性向があります。人を傷つけるようなことを口にしたり時として行為に出してしまったり、そうでなくても心の中で思ってしまったりします。また、嘘をついたり、妬んだり、見下したり、他人を押しのけてまで自分の利害を振りかざそうとしてしまいます。それらを聖書では罪と言います。人間は罪を持つようになってしまったため創造主の神との結びつきが失われてしまって、その状態でこの世を生きなければならなくなってしまいました。この世を去る時も神との結びつきがないままで去らねばなりません。この悲惨な状態から人間を救うために父なるみ神はひとり子のイエス様をこの世に贈って、人間が受けるべき罪の罰を全部彼に受けさせました。それがイエス様のゴルゴタの十字架の死でした。しかし、神は想像を絶する力をもってイエス様を死から復活させ、死を超える永遠の命が存在することをこの世に示し、そこに至る道を人間に切り開かれました。

そこで人間はこれらのことは本当に起こったとわかって、それでイエス様は救い主なのだと信じて洗礼を受けると、イエス様が果たして下さった罪の償いを自分のものとすることができます。罪を償ってもらったから神から罪を赦された者として見てもらえるようになり、罪が赦されたから神との結びつきを持てるようになってこの世を生きられるようになります。永遠の命が待っている「神の国」に至る道に置かれて、その道を神との結びつきを持って進んで行きます。この新しい自分は神のひとり子の犠牲の上にあるとわかれば、罪に反対して生きていこうという心になります。

このように創造主の神はひとり子のイエス様を用いて罪の赦しを私たち人間に備えて下さいました。本日の福音書の個所で、イエス様が弟子たちに罪の赦しの権限を与えますが、それは、神が備えて下さった罪の赦しを人間に及ぼす権限を授けたということです。人間が罪の赦しを与えるのではありません。人間は罪の赦しを取り次ぐ道具のようなものです。そして、その権限は誰もが持てるというものではありません。使徒たちは、イエス様が聖霊を授けることをして権限が与えられました。イエス様が天に上げられると今度は、使徒たちが次に権限を与えられる者に手をかざす按手という儀式を行って、罪の赦しを取り次ぐ権限を伝授していきました。伝授された者たちも次に権限が与えられる者に同じように按手をして、それがずっとリレーのように繰り返されて今日に至ります。これが使徒的な伝統ということです。

2年前の復活節第二主日の礼拝の説教で、私は当時スオミ教会が用いていた日本福音ルーテル教会の式文に注文をつけたことがあります。皆さんはおぼえていらっしゃるでしょうか?それは、式の最初の部分で、会衆が一緒に行う「罪の告白」に続いて「罪の赦しの祈願祝福」というものがありました。その文句は「イエス・キリストを死に渡し、全ての罪を赦された憐れみ深い神が、罪を悔いみ子を信じる者に赦しと慰めを与えて下さるように」という具合に、牧師は「赦しがありますように」と赦しを祈り願う言い方でした。それに対して、フィンランドのルター派教会ではそのような祈願ではなく、ずばり罪の赦しを宣言します。言い方は、「ここに神から権限を委ねられた者として、あなたの罪は父と子と聖霊の御名によって赦されると宣言します。」ここで注意すべきことは、牧師が罪を赦すと言うのではなく、あくまで神から権限を委ねられた代理者として宣言しますということです。誰がそんな権限を委ねられているのか?先ほども申しましたように、最初の使徒たちがイエス様から委ねられました。本日のヨハネ福音書の通りです。その後は、使徒的な伝統に立って教会の牧会者に任命された者たちです。私は2年前の説教で、いつの日かスオミ教会でフィンランドと同じような罪の赦しの宣言がなされることを希望しますと申したのですが、それは本当にその通りになり感謝です。罪の赦しの権限を委ねられた牧会者がいるというのは教会の条件です。

3.目で見なくても信じられる

次に「見なくても信じる者は幸い」ということについて。この目で見ない限り信じないと言ったトマスの思いはもっともなことです。この目で見ない限り信じない。これは普通の宗教だったらどこでもそういうふうに考えるでしょう。何か目に見える不思議な業を行う、不治の病が治るという奇跡、そういうことを行う者を人々はこの方には不思議な力がある、普通の人間ではない、ひょっとしたら神さまだと信じ、自分たちも奇跡にあやかれると期待して、そこから宗教団体が生まれてくるでしょう。

ところが、イエス様がここで教えていることは、目で見て信じることではなく、目で見なくても信じるというのが本当の信じることだと言うのです。ちょっと変な感がしますが、よく考えたらわかります。私たちは誰でも目で見たら、本当はその時はもう、信じるもなにもその通りだということになります。その意味で「信じる」というのは、まさに見なくてもその通りだと言うことです。これがイエス様の主眼とすることです。復活したイエス様を見なくてもイエス様は復活したのだ、それはその通りだ、と言う時、イエス様の復活を信じていることになります。復活したイエス様を目で見てしまったら、復活を信じますとは言わず、信じるもなにも復活をこの目で見ましたと言います。

このようにキリスト信仰では目で見ないでも信じられるということを強調します。使徒パウロは第二コリント4章18節で「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」と言い、5章7節では「目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいる」と言います。またローマ8章24節では、キリスト信仰者は将来復活に与れるという希望を持っていることで救われているのだ、見えるものに対する希望は希望ではない、現に見ているものを誰がなお望むだろうか、と言います。さらに「ヘブライ人への手紙」11章1節では、信仰とはズバリ言って希望していることがその通りだということであり目には見えない事柄がその通りになるということなのだと言われています。

さて、イエス様は復活から40日後に天の父なるみ神のもとに上げられますが、それ以後は復活の主を目撃できません。それなので、目撃者の証言を信じるかどうかということがカギになります。実際、目で見なくても彼らの証言を聞いて、その通りだ、イエス様は本当に神の子で死から復活されたのだと信じられる人たちが出てきたのです。どうして信じられたのでしょうか?もちろん、目撃者たちが迫害に屈せず命を賭して伝えるのを見て、これはウソではないとわかったことがあるでしょう。ところが、信じるようになった人たちも目撃者と同じように迫害に屈しないで伝えるようになっていったのです。直接目で見たわけではないのに、どうしてそこまで確信できたのでしょうか?

それは、イエス様の復活には何かとても大切なことが秘められているということ、これがわかってそれを自分のものにしたからです。この秘められた大切なことは目撃者の弟子たちが最初に自分のものにしていました。もし、イエス様の復活にその大切なことがなくただ単に死んだ人間が息を吹き返しただけだったら、それはそれで人々に情報拡散したい気持ちにさせる出来事でしょう。しかし、拡散したら命はないぞと脅されたら、わざわざ命を捨ててまで言い広めたりはしないでしょう。しかし、復活には不思議な現象を超えた大切なことがあるとわかったから、脅しや迫害に屈しないで宣べ伝えるようになったのです。それを目撃者の証言を聞いた人たちもわかって持てるようになったのです。それでは復活に秘められた大切なこととは何か?それがイエス様の言われる平和なのです。次にそれについて見てみましょう。

4.イエス様が言われる平和

イエス様が言われる平和について。ヨハネ福音書が書かれた言語はギリシャ語で「平和」はエイレーネーという言葉です。イエス様は間違いなくアラム語で話しておられたので、シェラームשלמという言葉を使ったでしょう。そのアラム語の言葉が土台にしている言葉はヘブライ語のシャーロームשלומです。シャーロームという言葉はとても広い意味を持っています。国と国が戦争をしないという平和の意味もありますが、その他に、繁栄とか成功とか健康というように人間個人にとって望ましい理想的な状態を意味します。イエス様は「平和」という言葉に特別な意味を持たせていました。

それがどういう意味だったかわかるために、イエス様が十字架に掛けられる前日に弟子たちに言われた次の言葉を見てみます。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」(ヨハネ14章27節)。イエス様は「平和」を与えるが、それは「わたしの」平和、イエス特製の平和であると。しかも、この世が与えるような仕方では与えないと言われます。一体それはどんな「平和」シャロームなのでしょうか?もし「この世が与えるような仕方」で平和シャロームが与えられるとすると、それは先ほど申しました国と国の平和、人間個人の繁栄、成功、健康、福利厚生ということになります。みな目に見える平和シャロームです。それに対するイエス様の平和は、この世が与えるようには与えないというものです。目に見える平和シャロームとどう違ってくるでしょうか?

イエス様が与える平和シャロームを理解する鍵となる聖書の箇所を見てみましょう。ローマ5章1節。「このようにわたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており.....」。つまり、「平和」とは、人間と神との間の平和です。イエス様の十字架と復活の業のおかげで人間の罪の償いが果たされ、人間が神との結びつきを回復できたという平和、罪のゆえに神と人間の間にあった敵対関係がイエス様のおかげで解消されたという平和、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで神と一体になれるという平和です。イエス様の十字架と復活の出来事の前は、人間と神の間は敵対関係だったということはコロサイ1章21ー22節にも明確に述べられています。「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者として下さいました。」神と敵対関係にあった私たち人間は、イエス様の犠牲の死によって和解の道が開かれた、それでイエス様を救い主として受け入れたら、神のみ前に立たされても大丈夫でいられということです。

こうしてイエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によって神との結びつきが持てるようになった者は神と平和な関係にあります。その人は永遠の命が待っている神の御国に向かう道に置かれてその道を進んでいます。進んで行く時、成功、繁栄、健康など目に見える平和シャロームがある時もあれば、ない時もあります。しかし、いずれの時にあっても、イエス様を救い主と信じる信仰に留まる限り、万物の造り主である神との結びつきは失われておらず、神との平和な関係は何の変更もなく保たれています。人間の目で見れば、失敗、貧困、病気などの不遇に見舞われれば、神に見捨てられたという思いがして、神と結びつきがあるとか平和な関係にあるなどとはなかなか思えないでしょう。しかし、キリスト信仰者は、礼拝のはじめで罪の告白を行うたびに罪の赦しの宣言を受けていれば、また聖餐式で主の血と肉に与って罪の支配から贖われていることを強化していけば、そして御言葉の説き明かしを通して信仰を揺るがないものにしていけば、神の目から見て神と一体であることは何ら変わらず、結びつきも平和な関係もしっかり保たれています。たとえ人間的な目にはどう見えようともです。そして、この世の人生の時に神との結びつきと平和な関係をこのように鍛えておけば、この世から別れる時、安心して自分の全てを神に任せることが出来ます。復活の日に目覚めさせてもらって主が御手をもって父なるみ神の御許に引き上げて下さることを確信して神に全てを委ねることが出来ます。

5.目撃者と証言を聞いた人たちの一体性

以上、キリスト教会の三つの条件、罪の赦しの権限を委ねられた牧会者が教会にいること、信仰と洗礼を通して信徒一人一人が神と揺るがない平和な関係にあること、そして一人ひとりは目で見なくともイエス様が復活されたことを信じられることについて見てきました。もし教会がこれらの条件を満たしていなかったら、教会とは言えないと言ってもいいかもしれません。

先ほど、目撃者たちは復活に秘められた大切なことをわかって自分のものにした、そして目撃者の証言を聞いた人たちもそれがわかって自分のものにした、だから目で見なくても信じられるようになったと申しました。その大切なこととは神との平和であるとも申しました。そのことについては本日の聖書日課の別の個所、使徒言行録の個所と第一ヨハネの個所でも述べられているので、最後にそれを見ておこうと思います。

そこでは、最初の目撃者と彼らの証言を受け入れて信じた人たちの間に一体性があるということが言われています。ヨハネは、目撃者の使徒たちがイエス様の復活を宣べ伝えるのは、ずばり、伝える者と伝えられた者が一体性を持つためであると言います(第一ヨハネ1章3節)。日本語訳では「交わりを持つため」と言っていて、なんだか礼拝の後のコーヒータイムみたいですが、ギリシャ語のコイノニアという言葉はもっと広くて深い意味です。フィンランド語訳やスウェーデン語訳では「一体性」を意味する言葉です(yhteys、gemenskap)。ドイツ語訳ではあのゲマインシャフトでまさに共同体です(ひるがえって英語ではフェローシップ、仲間です)。使徒言行録の日課の個所で信仰者たちが財産を共有する出来事がありました。ここではコイノニアの形容詞形コイノスが使われています。信徒たちが財産を共有する位に一体性を持っている、共同体を形成しているということです。このように、イエス様を救い主と信じ洗礼を受けた者は目では復活されたイエス様を見ていなくても、目撃者と同じように神との平和な関係を築けており、それで両者は一体で共同体を形成しているのです。

そこで一つ気になることは、その一体性、共同体性は自分の財産を放棄して共有にしなければならないのかということです。そこまでやらないと一体性、共同体性は本物にならないのか?これも教会の条件なのか?聖書に書いてあるから、自分の財産を捨てなさいなどと言ったら、それこそいかがわしい宗教団体になってしまうではないか?

ここで考慮にいれるべきことは、この財産の放棄はどうもイエス様が天に上げられた直後のエルサレムのキリスト信仰者の間で起こった特殊な出来事だったということです。パウロがコリントやガラティアやコロサイやフィリピやエフェソの教会に送った手紙を見ても、そこで財産の所有が禁じられて共有されていたことを示唆するものは見当たらないと思います。エルサレムのキリスト信仰者の集まりが共同体を形成するやり方として起こったことではないかと思います。どうしてエルサレムの集まりでそういうことが起こったのか?使徒言行録の記述からわかることは、まず彼らの心と魂は自分の所有物はないという位に一つになっていた状況があった、それからそのような状況が生まれた背景には使徒たちがイエス様の復活を大きな業をもって証ししていたことがあったということしかわかりません。それがどんな業だったかも具体的にはわかりません。それなので、イエス様が天に上げられた直後のエルサレムの信仰者たちは全財産を共有にするのが神の目に相応しいという状況だったということだと思います。

私たちの場合は、心と魂が一つになることの現れ方としては今のところは別の現れ方をするのが相応しいということだと思います。「今のところ」と言うのは、当時のエルサレムと同じような状況になれば共有するのが相応しいということも起こりえるということです。そういう日が来るかもしれないと心のどこかで準備をするのです。そのために宗教改革のルターが財産と信仰者の関係について教えたことは大事だと思います。ルターは、財産は別に持ってもいいと言います。ただし財産の奴隷になるな、財産の主人になれと言います。どういうことかと言うと、財産を困っている隣人のために役立てることに躊躇しないで用いられるのが財産の主人なのです。もちろん、財産を共有していない時にも信仰者の心と魂が一つになっていることがあります。それは聖餐式です。信仰者は聖卓の前に並んで一人ひとりパンとぶどう酒を受けますが、全員が天の父なるみ神と平和な関係を持ち神と結びついているからです。今日これから聖餐式があります。その時、私たちは神と平和な関係を持ち神と結びついている者として心と魂は一つになっていることを忘れないようにしましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

説教「永遠に散り終わらない桜の木の下で」 ― 今は隠されているが将来明らかになる素晴らしいことを目指して」吉村博明 牧師 、ヨハネによる福音書20章1~18節

主日礼拝説教 2024年3月31日 (日)復活祭/イースター 聖餐式礼拝

聖書日課 イザヤ書25章6~9節、第一コリント15章1~11節、ヨハネ20章1~18節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

今日は復活祭です。十字架にかけられて死んだイエス様が父なるみ神の想像を絶する力で復活されたことを記念してお祝いする日です。イエス様が死んで葬られた翌週最初の日の朝、かつて付き従っていた女性たちが墓に行ってみると入り口の大石はどけられ、墓穴の中は空っぽでした。その後で大勢の人が復活された主を目撃します。先ほど朗読された第一コリント15章に記されている通りです。まさに世界の歴史が大きく動き出すことになったと言っても過言ではない出来事が起きたのでした。

 本日の説教では、最初にヨハネ20章の出来事を見て、復活とはいかなる現象かということと、イエス様の復活は私たちが将来復活できるために起こったということを見ていきます。これらは以前にもお教えしたことですが復習します。その次に、私たちの復活とはどんなものか、将来復活する者として私たちはこの世をどう生きるかということを考えてみようと思います。

2.ヨハネ20章の出来事

復活とはいかなる現象か?よく混同されますが、復活は死んだ人が少しして生き返るという、いわゆる蘇生ではありません。死んで時間が経てば遺体は腐敗してしまいます。そうなったらもう蘇生は起こりません。聖書で言う復活は、肉体が消滅しても復活の日に全く新しい「復活の体」を纏わされて復活することです。これは、超自然的なことなので科学的に説明することは不可能です。聖書に言われていることを手掛かりにするしかありません。

 復活の体について、使徒パウロが第一コリント15章の本日の日課の後のところで詳しく教えています。「蒔かれる時は朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれる時は卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活する」(42ー43節)。「死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着る」(52ー54節)。イエス様も、「死者の中から復活するときは、めとることも嫁ぐこともせず、天使のようになるのだ」と言っていました(マルコ12章25節)。

 このように復活の体は朽ちない体であり、神の栄光を輝かせる体です。それはまた、天の御国で神聖な神のもとにいられる清い体です。この世で私たちが纏っている肉の体とは全くの別物の体です。復活されたイエス様はすぐ天に上げられず40日間地上に留まり人々の前で復活した自分を目撃させました。彼の体はまだ地上に留まっていましたが、それでも私たちのとは異なる体だったことは福音書のいろんな箇所から明らかです。ルカ24章やヨハネ20章では、イエス様が鍵のかかったドアを通り抜けるようにして弟子たちのいる家に突然現れた出来事があります。弟子たちは、亡霊だ!とパニックに陥りますが、イエス様は手足を見せて、亡霊には肉も骨もないが自分にはあると言います。このように復活したイエス様は実体のある存在でした。食事もしました。ところが、空間を自由に移動することができました。本当に天使のような存在です。

 復活したイエス様は本当は天のみ神のもとにいるのが相応しい体をしていたことは、今日のマリアとの再会の場面でもわかります。以前もお教えしましたが、この再会は尋常ではありません。というのも、イエス様は天にいるのが相応しい神聖な体を持っている、そのイエス様に地上の肉の体を持つマリアがしがみついているからです。かつて預言者イザヤは神殿で神聖な神を目撃して、罪に汚れた自分は焼き尽くされてしまう!と叫んでしまいました。神に選ばれた預言者にしてそうなのです。預言者でない私たちはなおさらでしょう。

 神聖な神の御前に相応しい「復活の体」を持つイエス様と地上の体を持つマリア。以前にもお教えしたことですが、イエス様はマリアに「すがりつくのはよしなさい」と言われますが、ギリシャ語の原文をみると「私に触れてはならない」(μη μου απτου)です。実際、ドイツ語のルター訳の聖書も、スウェーデン語訳の聖書も、フィンランド語訳の聖書も、みな「私に触れてはならない」です。英語のNIV訳は私たちの新共同訳と同じで「私にすがりつくな」です(後注1)。さて、イエス様はマリアに「触れるな」と言っているのか、「すがりつくな」と言っているのか、どっちでしょうか?

 イエス様が復活した体、天のみ神のもとにいるのが相応しい体ということを考えれば、マリアが仮にイエス様にすがりついていたとしても、ここは原文通りに「触れてはならない」と言った方がよいと思います。それはイエス様の次の言葉を見ればわかります。「私はまだ父のもとへ上っていないのだ」(17節)。触れてはいけない理由として、自分はまだ天のみ神のもとに上げられていないからだと言うのです。つまり、復活させられた自分は、この世の者たちが纏っている肉体の体とは異なる、神の栄光を現わす霊的な体を持つ者である。そのような体を持つ者が本来属する場所は天の父なるみ神がおられる神聖な所である、罪の汚れに満ちたこの世ではない。本当は、自分は復活した時点で神のもとに引き上げられるべきだったが、自分が復活したことを人々に目撃させるためにしばしの間この地上にいなければならない。そういうわけで自分は天上のものなので、地上の者はむやみに触るべきではない。このほうが、すがりつくなと訳すよりも前後の繋がりがはっきりします(後注2)。

 さて、復活の神聖な体を持って立っているイエス様、それを地上の体のまますがりつくマリア、本当は相いれない二つのものが抱きしめ抱きしめられている。そこにはかつてイザヤが神聖な神を目の前にして感じた殺気はありません。イエス様は、自分は地上人がむやみに触れてはいけない存在なのだと言いつつも、一時すがりつくのを許している。マリアに泣きたいだけ泣かせよう、としているかのようです。この世離れした感動を覚えさせる光景です。

 本当なら危険極まりないことなのに、なぜイエス様はすがりつくのを許しているのでしょうか?イエス様は愛に満ちたお方だからでしょうか?そんな常套文句で満足したら、肝心なことが見えなくなってしまいます。イエス様は、マリアが今は地上の体ではいるが、自分を救い主と信じている以上、彼女も復活の日に復活の体を持つ者になるとわかっていました。それが理由です。イエス様のその思いは次の言葉から窺えます。「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と」(17節)。ここでイエス様は弟子たちに次のようなメッセージを送ったのです。「今、復活させられて復活の体を持つようになった私は、私の父であり私の神である方のところへ上る存在になった。そして、その方は他でもない、お前たちにとっても父であり神なのである。同じ父、同じ神を持つ以上、お前たちも同じように上るのである。それゆえ復活は私が最初で最後ではない。最初に私が復活させられたことで、私を救い主と信じる者が後に続いて復活させられるのだ。」このことをパウロは第一コリント15章20節で述べています。「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」

3.イエス様の復活に続く復活

イエス様の復活が私たちの復活の先駆けで、私たちが将来復活できるために復活された。じゃ、私たちはこの世を去ったらみんな復活するのか?ここのところは注意が必要です。私たちはイエス様が復活したことを信じなければならないのです。復活を否定する者には復活は関係なくなってしまうのです。そう言うと、じゃ、イエスは復活したということにすればいいんだな、世界には不思議な現象が沢山あるんだから、そういうものの一つだと考えればいいんだ、と言う人も出てくるかもしれません。しかし、それではダメなんです。どうしてか?イエス様は復活に先立って十字架にかけられて死なれました。それで、なぜ神のひとり子ともあろう方があのような惨めな死に方をしなければならなかったのか?これがわかった上で復活が起こったことを信じないといけないのです。復活の本当の意味をわかって信じないと信じたことにならないのです。

 では、なぜイエス様は十字架で死ななければならなかったのか?それは、私たち人間が持ってしまっている神の意思に反しようとするもの、それを聖書は罪と呼びます、その償いを神のひとり子が私たち人間のために神に対して償うためだったのです。人間と神との結びつきを失くさせていた原因である罪をイエス様が自分を犠牲にして償って下さった、人間が神から罰を受けないで済むように守って下さったということなのです。それだけではありません。父なるみ神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させて、死を超える永遠の命があることをこの世に示され、私たち人間にその扉を開かれたのです。

 私たち人間は、この方こそ救い主と信じて洗礼を受けると、神との結びつきを回復でき、この世の人生を神との結びつきを持って歩めるようになります。この世から離れる時も神との結びつきを持ったまま離れられ、復活の日が来たら眠りから目覚めさせられて、肉の体に代わる復活の体を纏わされて、「神の国」と呼ばれる御許に永遠に迎え入れられるのです。イエス様が十字架の死を遂げて備えて下さった罪の償いと罪の赦しを私たち人間はそれを信じることと洗礼を受けることで自分のものにすることができます。そして、イエス様が切り開いて下さった復活に至る道を神との結びつきの中で進んでいきます。これが私たちの復活になります。

 私たちの復活についてもう一つ忘れてはならないことがあります。それは、聖書によれば復活は将来、天と地が新しく再創造されて今ある天と地に取って代わる時に起こるということです。聖書には終末と新創造の観点があります。今ある天と地はかつて創造主の神が造ったものだが、それはいつか終わりを告げて神は新しい天と地に創造し直すという観点です。今は目に見えない手の届かないところにある「神の国」が新創造の時に唯一の国として見えるものとして現れ、復活を遂げた者たちが迎え入れられるというのです。それなので、聖書で言う死者の復活は、かの日に一斉に起こることなのです。他の宗教だったら、一人ひとりこの世を去って各々ある年数を経たらこの地上とは別の安楽なところに行くという見方かもしれませんが、キリスト信仰ではそうではないのです。かの日には天と地は一新され、今の天と地はないのです。ここのところがキリスト信仰の死生観と他の宗教のが大きく違っている点ではないかと思います。パウロもイエス様も言うように、一人ひとりがこの世を去っても復活の日まではみんな眠り、その日が来たらみんなに一斉に起こされるということです。

4.今は隠されているが将来明らかになる素晴らしいこと

このような復活の信仰に立って自分が向かおうとしているところがわかると、今度は今のこの世をどう生きるかということもはっきりしてきます。復活の信仰に生きる者が向かっている「神の国」について、聖書にはいろいろな描き方がされています。黙示録19章では結婚式の祝宴にたとえられています。花婿は今の世が終わる時に再臨するキリスト、花嫁は「神の国」に迎え入れられた者たちの集合体です。「神の国」が祝宴にたとえられるのは、そこに迎え入れられた者たちがこの世での労苦を全て労われる至福の場だからです。さらに黙示録21章を見ると、「神の国」は嘆きや苦しみや労苦がないばかりか死もないと言われます。そこで神は迎え入れられた人たちの涙を全て拭われると言います。この涙は痛みや苦しみの涙だけでなく無念の涙も全て含まれます。つまり、この世でないがしろにされたり中途半端になってしまった正義が神の決済で最終的かつ完全に決着がつけられるということです。最後の審判があるのはそのためです。本日の旧約聖書の日課イザヤ書25章でも、神が死を永久に滅ぼすところが言われています。そこは祝宴があるところであり、神はその席につく人たちの涙を拭われます。7節で「布が滅ぼされる」と言うのは、肉の体に替えて復活の体を着せられることを意味します。

 ところで私は最近、こうした復活の信仰を否定する方と話をしました。その方は、人間は死んだら、もう何もかも消えてなくなってしまうと。私は礼拝の説教で、消えはしない、人間は復活を遂げると体の有り様は変わっても同じ名前を持つ自分は続くと言ったことがありますが、その方はそれに反対して言いました。人間一人ひとりは川と同じである、川にはそれぞれ多摩川、荒川と名前があるように人それぞれに名前がある、しかし、川が海に流れ込んだら、もう川はなくなって大海の中に消散してしまう、それと同じように人間も死んだら名前も何もなくなって果てしなく大きなもののなかに消散してしまうのだと。

 そのような考え方は、人間は肉の塊が全てという考え方です。もちろん人間には考えたり感じたりする部分もあるので単なる塊にすぎないと言えないかもしれないが、でも死ねばそれも肉と一緒に消滅するのでやはり肉の塊の部分にすぎなくなります。ただし、その方はこの世を生きる時、正しいこと倫理的なことを考えることは重要であるともおっしゃっていました。つまり、人間はどうせ消滅するのだから、この世でどう生きようが関係ない、好き勝手に生きればいいという考えはとらないと。しかしながら、正しいこと倫理的なこともこの世限りのことなので、死んだらそれも何も関係ないものになってしまいます。

 キリスト信仰では、正しいこと倫理的なことは復活や神の国が前提にあります。この世では、例えば他の人に何か危害を加えてしまって償いをしなければならなくなった時、一方ではこんな程度の償いでは納得いかないという思いが出ます。他方ではこんなに償わなければならないのはあんんまりだという思いが出ます。そのように完全な正義の実現は困難です。この世での正義はある時点での最適なものを目指すということにならざるを得ないと思います。でもそれも実現できるかどうかわかりません。しかし、復活の信仰は、最後の審判の時に全知全能の神が誰も文句が言えないような裁定をして完全な正義を実現するという見方をします。その内容はこの世の私たち人間にはわかりません。それは今は隠されているのです。しかし、それはかの日に明らかになるという見方を復活の信仰はするのです。なので、もし人間が、俺は完全な正義がわかった、今からそれを実現するなどと言ったら、神でない人間が神を気取ることになり大変なことになります。

 このように復活の信仰に生きる者は、完全な正義など自分は神ではないからわからない、神がそれを知っていて、それをかの日に実現して下さる、だから、今この世で私がすべきことはその神の意思に沿うように立ち振る舞うだけだ、人を傷つけない、欺かない、噓をつかない、妬まない、見下さない、他人を押しのけてまで自分の利害を振りかざさないようにしよう。神の意思に反することが周りにあれば、それに反対し、それに与しないようにしよう。神の意思に反することが自分に中に出てきてしまったらあれば神に赦しを祈り、イエス様の十字架の償いの力を与えてもらって襟を正そう。それなので、復活の信仰に生きる者は、何かを成し遂げようとして、たとえ上手く行かなかったり道半ばで終わってしまっても、神の意思に沿うように行っていたのであれば無意味だったとか無駄だったということは何もないのです。この世は負け犬の言い分だと言うかもしれませんが、そうではないというのがキリスト信仰なのです。逆に、何かを成し遂げたとしても神の意思に反してしたのであれば、かの日には全部ひっくり返されてしまうのです。それなので、人間は肉の塊で死んだら消滅するという考えは、神の意思に反して何かを成し遂げようとする人たちにとって都合のいい隠れ蓑になる危険があります。

 ここまでは復活を正義の視点から見てきました。最後に感性の視点で見てみましょう。フィンランドでは6月になると急にいろんな種類の花と木々の葉っぱの緑が一斉に咲き乱れ、この世とは思えないとても色彩豊かな季節になります。5月までは花も緑もなかったのでその変化の急なことと言ったらありません。日本では2月に梅、3月、4月に桜、5月にツツジ、6月にアジサイという具合に季節の花が順々に交替に咲くのとは大きな違いです。昔ある初夏の日、パイヴィと家の近くの森を歩いていた時、日本人にキリスト信仰の天の御国の素晴らしさを説明するのにこのフィンランドの初夏を紹介するのはいいのではないかと言ったことがあります。もちろん、天の御国、神の国は今ある天と地が終わった後のことなので、同じ自然形態があるという保証はありません。それが感性的にみてどれくらい素晴らしいかは、今の世の私たちには隠されていてわからないのです。それでも、そこがどれだけ素晴らしいところかを前もって、今持っている感性で予見するように感じ取ることは出来るのではないかと思いました。黙示録の終わりに書いてあることだけでは少し無味乾燥に感じられるならば、神の国はどれだけ素晴らしいところかを知るために、今この世で素晴らしいこと美しいことに触れることは将来の神の国の素晴らしさ美しさの氷山の一角のそのまた一角に過ぎない、それ位に神の国の素晴らしさはすごいのだ、ということがわかるだけでも意味があると思いました。

 そこでフィンランド人にとって、6月の自然の開花が神の国のとっかかりになるのであれば、日本人にとって感性に訴えるとっかかりはなんだろうかと考えました。それは、やはり桜の花ではないでしょうか?何週間か前にパイヴィと近くの神田川の桜並木に行った時のことです。もちろん並木はまだ立ち枯れの様態でした。そこに一本だけ河津桜が満開に咲いていました。それを見て、あと何週間かしたら周囲のソメイヨシノは満開になるのだと目に浮かびました。それで、河津桜は第一コリント15章で言われる、イエス様は復活の初穂で、彼に続いて私たちも復活するということを思い出しました。桜並木が満開になれば、その下にはシートが拡げられてあちこちでピクニックをする人たちで賑わうでしょう。詩篇23篇5節で神が羊飼いに導かれた者たちに食卓を整えられると言われます。ヘブライ語の原文では敷物を拡げて食事を供するという意味です。復活の日の祝宴はまるで桜の季節の野外の宴のようです。

 日本人にとって天の御国の素晴らしさを予見するのに、桜の木の下の宴会を持ち出すのはその感性に訴えるものでしょう。しかし、中には、その桜は永遠に咲きっぱなしなのか、桜は散ることが日本人の感性に訴えるのだと言う人もいるかもしれません。そのような人には次のように言ったらどうでしょうか?その桜は確かに散る、しかしそれは永遠に散り終わらないのだ、と。

 主にあって兄弟姉妹でおられるみなさん、このように創造主の神は、完全な正義を予見する理性と完全な素晴らしいものを予見する感性が備わるように私たち人間を造られたのです。今は隠されて見えないが、かの日には明らかになる完全な正義と素晴らしいものを満喫できる神の国を私たちキリスト信仰者は心に抱いて、聖書の御言葉を道しるべにしてそこに向かって歩んでいるのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。
アーメン

後注1

ドイツ語のルター訳の聖書はRühre mich nicht an!、スウェーデン語訳の聖書はRör inte vid mig、フィンランド語訳の聖書はÄlä koske minuun、みな「私に触れてはならない」です。英語のNIV訳は私たちの新共同訳と同じで「私にすがりつくな」(Do not hold on to me)です。

後注2

このように言うと、一つ疑問が起きます。それは、ルカ24章をみると、復活したイエス様は疑う弟子たちに対して、「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい」(39節)と命じているではありませんか。また、ヨハネ20章27節では、目で見ない限り主の復活を信じないと言い張る弟子のトマスにイエス様は、それなら指と手をあてて私の手とわき腹を確認しろ、と命じます。なんだ、イエス様は触ってもいいと言っているじゃないか、ということになります。

 しかし、ここは原語のギリシャ語によく注意してみるとからくりがわかります。ルカ24章で「触りなさい」、ヨハネ20章で「手をわき腹に入れなさい」と命じているのは、まだ実際に触っていない弟子たちに対してこれから触って確認しろ、と言っているのです。その意味で触るのは確認のためだけの一瞬の出来事です。ここで、ルカ20章39節の「触りなさい」とヨハネ20章27節の「手を入れよ」は、両方ともアオリストの命令形(ψηλαφησατε、βαλε)であることに注意します。ヨハネ20章17節の「触れるな」は現在形の命令形(απτου)です。本日の箇所では、マリアはもう既にしがみついて離さない状態にいます。つまり、触れている状態がしばらく続いるのです。その時イエス様は「今の自分は本当は神聖な神のもとにいる存在なのだ。だから地上の者は本当は触れてはいけないのだ」と一般論で言っているのです。つまり、イエス様がマリアに「触れるな」と言ったのは、神聖と非神聖の隔絶に由来する接触禁止規定なのです。確認のためとかイエス様が特別に許可するのでなければ、むやみに触れてはならないということなのです。

 新しい聖書の日本語訳「聖書協会訳」では、イエス様は「触れてはいけない」と訳していると聞きました。まだ確認していませんが、本当ならば喜ばしいことです。