説教「神は信仰を告白する者の魂を守りとおす」吉村博明 宣教師、マタイによる福音書10章24-39節、エレミア20章7-13節

主日礼拝説教 2020年6月21日(聖霊降臨後第三主日)

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の旧約の日課はエレミア書20章の預言者エレミアの告白、福音書はマタイ10章の終わりにあるイエス様の教えです。エレミア書の方は、かつて栄華極めたダビデ・ソロモンの王国が神の意思から外れた生き方をし、内憂外患に陥って最後は東方の大帝国バビロンに滅ぼされる、その直前の紀元前7世紀から6世紀にかけての頃のことです。神はエレミアに国に迫っている危機について宣べ伝えて国民が神に立ち返るようにしろと命じ、エレミアはその通りにするのですが、国民はこぞって彼に反対し、人心を惑わす者として迫害してしまいます。本日の個所でもそのことについてのエレミアの苦悩と神への愚痴が述べられています。

福音書の方を見ると、イエス様は自分のことを救い主と信じる者が将来迫害を受けることになると預言しています。エレミアの場合もイエス様の教えも、神から人々に伝えなさい、自分の信仰を知らしめなさい、と言われてその通りにすると命にかかわるような大変な目に遭うということについて述べています。しかし、両者とも、神はその者たちの魂を救うということも言われます。

そこで本日の説教では最初に、この神が守ってくれる「魂」とは一体何なのかということをみてみようと思います。魂と似た言葉に「霊」もありますが、両方ともわかりそうでわかりにくい言葉です。それらについて、旧約聖書と新約聖書ではどのような意味で使われているかを考えながら、その意味を明らかにしていこうと思います。その次に、エレミア書の本日の個所に復活の信仰が見られるのでそれを見ていきます。キリスト信仰では「魂の救済」ということを復活の信仰に結びつけて考えることは大事です。復活なくして魂の救済なし、魂の救済なくして復活なし、と言ってもいい位です。そのことを説教の第二部で見ていきます。最後の第三部では、マタイの個所が提起している問題についてです。それは、人前で自分はイエス様に繋がる者であると公表すれば、イエス様も天の神の御前でその人のことを自分に繋がる者であると明言する、しかし、もし人前でイエス様を否定したら、彼も天の神の前でその人を否定するということです。このことに関連して、実はこのほど帚木蓬生の長編小説「守教」を読みました。隠れキリシタンと呼ばれる潜伏キリスト教徒を題材にした歴史小説です。そこで、いくつか視点を得られたのでそれについてお話ししようと思います。(「このほど読みました」というのは正確でなく、下巻に入ってあと200ページ残すところで、もうこの先どうなるか気になって仕方なくなり、つまみ食いするように終わりまで一気に行って、今じわりじわりと残りを読んでいます。)

 

2.聖書の「魂」について

まず、「魂」についてみてみます。いろいろな定義があると思いますが、それを聖書に出てくる言葉に頭から当てはめるのではなく、聖書の中でその言葉が出てきたら、ここではこういう意味だろうか、別の所ではこうだったのではなどと考えながら、あくまで聖書の中での使われ方を意識しながら理解していこうと思います。「魂」と日本語に訳されるもとの語は、旧約聖書のヘブライ語ではネフェシュנפשと言い、新約聖書のギリシャ語ではプシュケーψυχηと言います。

本日の福音書の個所のイエス様の教えの中で「体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(10章28節)と言われています。人間には体の部分と魂の部分があるということです。体の部分は殺されて腐敗してしまうが、殺されず腐敗しない部分がある。それが魂ということになります。ただし、その魂も神は滅ぼすことが出来るのです。しかし人間には出来ない。人間が滅ぼすことが出来るのは体の部分までで、神に守られている者は体は滅びても魂は滅ばないということです。

魂は目で見えない部分です。体は目で見える部分です。手や足など肢体があり肉体があり骨や内臓があります。みな目で確認できます。魂はできません。そうした体の部分は死んで腐敗してしまいますが、魂はそうならないで残ります。ただし、神に守られていればの話です。そこで、目で見えない魂は本当に存在すると言えるのか?手足や骨肉内臓であれば働きも機能もあるが、魂はどんな働きをするのか?詩篇23篇を見ると、「主はわたしを青草の原に休ませ憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせて下さる」(2~3節)とあります。ヘブライ語の動詞ישוביבは、「生き返らせて下さる」と訳すと死者の復活を連想させてしまいますが、基本的には萎えた状態から立ち直らせるというような、元気回復、リフレッシュの意味です。元気回復するのは手足を含めた体全体です。ここでは「魂」が体全体を代表しているという使われ方です。それで、「人そのもの」を意味するように使われていると言ってもいいでしょう。

また詩篇130篇をみると、「わたしの魂は望みをおき、わたしの魂は主を待ち望みます」と言われています。手足と違って神を待ち望む器官がある、それが魂となります。この場合は「心」と同じと言ってもよいでしょう。

さらに詩篇121篇では、主が「あなたの魂を見守ってくださるように」と言われます。この場合、体も含めた人全体を魂という言葉で言い表して人そのものを意味しているとも言えるし、また、体とは別に魂だけに特化してその見守りをお願いしているとも言えます。その場合は魂は「命」と同じ意味になると言えます。実は、本日の福音書の個所の終わりでイエス様が「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」と言っているところで、「命」と言っているもとの語はプシュケー魂です。それなので、ここの意味を魂にこだわって考えたら次のようになるのではと思います。「魂を守ったり滅ぼしたり出来るのは神である。それなので、人間が神抜きでそれを自分で支配しようとしても出来ない。逆にイエス様を救い主と信じる信仰にあれば、それは魂の支配権が神にあることを認めることになる。それでそれを守り通してもらえるのである。」

さて、魂は、肉体と魂の双方を持つ「人間そのもの」を言い表す言葉にもなり、「命」や「心」にも言い換えられる言葉であることがわかってきました。本当は聖書の使い方の例をもっと沢山調べた方がいいのですが、これ位でも多くのことは網羅できるのではないかと思います。そこで、魂は肉体が滅びた後も残るということですが、そうなると肉体が滅びた後も、肉体のような形は持たないがその人自身が残っていることになります。ここでキリスト信仰で大事な事柄、「復活の信仰」が重要な意味を持ってきます。復活とは、死の眠りから目覚めさせられて復活の体を着せられて父なるみ神の御許に迎え入れられる、ということです。使徒パウロが第一コリント15章で教えるように、肉体の体は失われるが、それに代わって新しい、もう朽ちることのない復活の体が与えられるのです。体は異なっても魂は滅びず守られていたので同じ人です。それなので、「私は吉村博明である」という自分が続きます。この世で纏っていた弱い朽ちる体にかわって神の栄光を映し出す輝く体を纏っているという自分に気がつくのです。

ここで「魂」と並んでよく使われるが、同じようにわかりやすそうでわかりにくい言葉、「霊」を見ていきます。ヘブライ語でルーァハרוח、ギリシャ語でプネウマπνευμαと言います。両方とも「風」という意味も含んでいます。聖書の中では、霊とは肉体と魂を持った人間が息をする生き物になるために吹き込まれるものということがあります。さらに、人間がただ単に生き物として生きるだけでなく、神から罪を赦されて神との結びつきを持って生きるようになる時に、さらに神からの霊、聖霊が注がれるということがあります。

それでは、霊と魂はどう違うのでしょうか?復活信仰の観点に立てば、魂は復活の日まで安らかに眠っていることになります。霊はちょっと違います。旧約聖書では死者の霊や霊媒と関りを持つことが禁じられています(レビ記19章31節、申命記18章11節、サムエル記上28章、列王記上21章6節、イザヤ8章19節)。ということは、霊は眠っていないようです。さて魂と霊は、どちらが亡くなった人を代表しているでしょうか?私自身は、復活の日までは安らかに眠っていたいと思う者です。

 

3.エレミアの復活の信仰

エレミアという預言者は、初めにも申し上げましたように、神から宣べ伝えなさいと言われてその通りにすればするほどひどい目にあってしまうという悲劇の預言者でした。しかし、国は滅亡し人々は占領国に連行されてしまうが、神は悔いる民に憐れみを示して祖国帰還を実現されるという希望の預言も残します。つまり、神は罪に汚れた民をただ罰して消滅させてそれで終わりという方ではない。新しく生まれ変わらせ建て直して下さるという方でもある。だから国滅亡しても自暴自棄になるのではなく、神を信頼して時を待てというメッセージです。

加えてエレミアのメッセージには、神の御言葉を宣べ伝えたり信仰を人々に証しすることで迫害を受けることになっても、それですべてが終わりではないというものもあります。今日のところがそうです。神は必ず、その者に報い、補償をして下さる。それは、およそ神の御心に沿うものとして行ったことは無意味、無駄なものは何一つないという神の約束を意味します。この考えは旧約聖書、新約聖書の随所に見られます。本日の個所にも出てきます。

7節から10節は、神が宣べ伝えよと命じた通りにすると、どれだけ散々な目に遭うかという複雑な心境が吐露されます。ところが11節で、神は迫害者よりも偉大なのだという確信を述べます。その根拠が12節と13節で言われます。「万軍の主よ、正義をもって人のはらわたと心を究め、見抜かれる方よ。わたしに見させてください あなたが彼らに復讐されるのを。わたしの訴えをあなたに打ち明けお任せします。主に向かって歌い、主を賛美せよ。主は貧しい人の魂を悪事を謀る者の手から助け出される。」

ここで注意しなければならないことがあります。「わたしに見させてください あなたが彼らに復讐されるのを」ですが、「見させてください」はヘブライ語の動詞の形をすると、「私は見ることになる」というふうに将来のこと、起きてしかるべきことを意味すると思います(どうしてそうなのか、後注に記します)。それから「復讐」という語ですが、標準的な辞書(HolladyのConciseです)によれば、人間がするものなら「復讐」、神がするものならば「報い」とか「補償」と出ていました。そこで、何の「報い」、「補償」になるのかと言うと、最後の審判の時に行われる正義と不正義の大清算です。神に立ち返る生き方をした者たちがしなかった者から受けたあらゆる仕打ちや損害に対して、それこそ神の正義の尺度に基づく補償、賠償が行われて、この世でないがしろ中途半端にされてしまった正義が最終的に実現するということです。逆に、仕打ちや損害を与えた者たちには正反対の報いが待っていているということです。ローマ12章でパウロが復讐は私たちがするのではない、神に任せよ、と言うのも同じです。最後の審判で正義が最終的に実現する大清算が行われる、だから今は敵が飢えていたら食べさせよ渇いていたら飲ませよ、という行動規範が生まれます。それで相手が心を改めたら、悪事が止むのでこちらも安心でき、相手も地獄の炎に堕ちなくてすむので両方にとって益になります。しかし、もし相手が心を改めなかったら、それは将来自分に降りかかる悲惨を自分で一生懸命積み重ねることになります。

エレミアが神の補償を見ることになると言う根拠が次に来ます。日本語訳では「なぜなら」と言っていませんが、ヘブライ語にはあります。「なぜなら(כי)、自分の訴えをあなたに委ねたからです。」訴えをあなたにお委ねしますので、あとはお任せしますということで、パウロの復讐は自分でしないという考えと同じです。訴えを全て神に委ね任せたので、あとは最後の審判の時に補償してもらえるということです。

13節の「貧しい人の魂」の「貧しい」ですが、辞書では「抑圧された者、虐げられた者、迫害された者」の意味があります。金銭的な貧しさだけではありません。エレミアの状況がまさにそうでした。ところがエレミアは、神に褒め歌を歌え、賛美をせよ、と読者に勧めます。なぜなら神は虐げられた者であるこの私の魂を悪を行う者の手から救い出して下さったからだ、と言うのです。ヘブライ語では「救い出して下さった」と過去の意味です。これは興味深いことです。なぜなら、今まさに迫害の渦中にあるのに、自分の魂は既に神の手中にあるのだ、体の部分は痛い目にあっているが魂の部分は神の手中にあって守られている、だから迫害のさ中にあっても神に褒め歌を歌い賛美をするのが当然なのだと言うのです。

このような、今は理想的な状態にいるとは言えないのに、その状態にあるのと同然だということは本日の使徒書の個所ローマ6章にもあります。洗礼を受けた者がイエス様の死だけでなく復活にも結びつけられているということです。復活は将来のことなのですが、洗礼でイエス様の死に結びつけられて罪の体が葬られた、それで罪が自分をもう支配できない状況が生まれた。あとはその状況にのめりこむようにして生きるだけである。それが「神に対して生きる」ということです。キリスト信仰者とは、ルターの言葉を借りれば、片方の手はこの世を掴んでいるが、もう一方の手は復活を掴んでいるということになります。あとは肉の体から離れれば、両手は復活を掴んでいることになります。パウロが「フィリピの信徒への手紙」の中で早くこの世を去りたいと願ったのはこのためです。しかし、彼はキリスト信仰者には神から与えられた使命、課題があり、それを果たさずにこの世を去ることは許されないこともわかっていて、そこにジレンマを感じていました。このジレンマはパウロだけでなく全てのキリスト信仰者に共通のものです。

 

4.潜伏キリスト教徒と信仰の告白

本日の福音書の個所でイエス様は、人前で自分はイエス様に繋がる者であると公表すれば、イエス様も天の神の御前でその人のことを自分に繋がる者であると明言する、しかし、もし人前でイエス様を否定したら、彼も天の神の前でその人を否定すると述べました。その場合、潜伏キリスト教徒たちのことをどう考えたらよいのか?帚木蓬生の「守教」に登場する「今村信徒」たちは踏み絵を踏み檀家制度にも組み込まれ、人前ではイエス様に繋がる者と公表しませんでした。しかし、その傍ら代々密かに洗礼を授け、主の祈り、使徒信条、天使のマリア祝詞、十戒を唱え祈りました。週の7日目は仕事を控え、クリスマスと聖金曜日は大事な日であると心に留めました(あれっ、どうして復活祭はないのかな?当時のカトリックないしイエズス会の考え方?でも、高山右近は高槻城下で復活祭を盛大に祝ったと何かの歴史書に書いてあったではないか)。教会など公けに礼拝する場所がない状況で、これらのことを250年近く代々守り受け継ぎました。公には仏教徒を装い、隠れた所ではキリスト信仰の伝統を守り伝えたわけですが、これは、イエス様が明言されたことに照らしてどうなのか?

小説は歴史上実在した人物が大勢登場しますが、あくまで小説ですのでなされた会話が全て史実ではありません。しかし、それでもこの問題を考える上で良い視点がいくつかあります。一つには、中浦ジュリアン神父、彼は天正少年使節の一人でした、彼が信徒である大庄屋に宣べた言葉ににこういうのがあります。「あなたたちは殉教しないで下さい。殉教は聖職者がすることです。あなたたちは信仰を守り続けて下さい。聖職者は必ず来ます。たとえ200年後になっても。それまでは信仰を守り続けて下さい。」同じ言葉はペドロ岐部神父も述べます。彼は単身でローマに行き、途中日本人で初めてエルサレムも訪問した人です。二人の神父は後に拷問にかけられて棄教せずに殉教します。将来聖職者が訪れる日が必ず来る、それまで隠れてでも信仰の共同体を維持することが大切な使命になったのです。

もう一つは、隠れても身の保全そのものが目的ではなく、場合によっては申し開きをしなければならない日が来ると覚悟と準備が出来ていました。権力側の執拗で緻密な捜査体制や多額の報奨金による密告制度が張り巡らされていて、隠れて洗礼や祈りを行っているとは言え、いつ発覚してもおかしくないという状況でした。それを当人たちは薄氷の上を歩いている、もし氷の割れ目に落ちたら水底が天国になるとさえ言っていました。その意味で、最初の頃に信仰を公けにして殉教してしまった人たちは一足早く氷の割れ目に落ちてしまったということになるのでしょう。

そこで、出来るだけ長く薄氷の上を歩き続ける者たちがやがて発覚したらどうなるのか?取り調べの時に拷問を避けてさっさと棄教するということはありえませんでした。実際、明治維新の1年前の1867年、今村信徒の存在が発覚して久留米城下で取り調べが行われた時、まさにそうだったのです。彼らは、ついに来るべきものが来たと覚悟を決めました。どうせ殉教が待っているのだから思うことは全部言った方が清々するという態度でした。それで役人たちから、お前たちが信奉している教えは何だ、と聞かれて、デウスは全ての創造主だから拝まなければならない、百姓も侍も皆デウスに造られたのだから、お役人様あななたちも拝まなければいけないのです、とまで言ってのけます。使徒信条通りです。

結果は、今村の信徒たちの処罰は戊辰戦争や明治の政変のどさくさでうやむやになったのでした。それとは対照的だったのは、浦上の信徒たちでした。彼らは明治6年に切支丹禁令の高札が撤去されるまで迫害を受けてしまいます。多くの殉教者を出してしまいました。今村ではかつて信徒たちを守るために自らを犠牲にした庄屋の平田道蔵の墓があったところに教会が明治14年に建てられます。小説ではペドロ岐部神父が250年近く前にそれを預言したことになっています。

以上のように潜伏キリスト教徒の場合、将来の教会の再建の種を残すという使命を託されたことや、それは命がけのことで発覚した時は信仰を公表することになるとわかっていたし実際そうしたということは考慮に入れるべきことと思います。

ところで、今村の信徒たちが取り調べの時に、あなたたちも創造主の神を拝むべきです、と言った時の役人たちの答えは「日本には神仏がある。日本人はそれを拝めばよいのだ」というものでしたが、これは実にありうる考えです。今でもこの考えは変わっていないと思います。日本人にはキリスト教は合わないという考えはかなり根深いものがあると思います。室町時代末期、安土桃山時代、江戸時代初期にかけて日本人の間にかなり浸透したにもかかわらずです。キリスト教が壊滅してしまったのは、日本人に合わなかったからではなかったのです。暴力と武力で壊滅させられたのです。遠藤周作の有名な「沈黙」の終わりで、棄教しして仏教徒になった宣教師フェレイラが、日本はキリスト教が根を下ろさない沼地だと言っているところがあります。その言い方はいかがなものか。暴力と武力で壊滅させた後で、根を下ろさない沼地だなどと言うのは問題のすげ替えではないか?いずれにしても、キリシタンを壊滅したことが日本人のキリスト教に対する態度に遺伝子的な痕跡を残したのではないかと思います。日本人がキリスト信仰者になると日本人でなくなったように見なされることはよくあることではないでしょうか?果たしてキリシタンの時代の信仰者は自分たちは何か日本人に合わないことをしていると思って信仰していたでしょうか?

5.おわりに

最後に、現代日本の私たちの場合は、潜伏キリスト教徒のように表向き仏神教徒を装って信仰を隠す必要も理由もありません。教会もあります。聖職者もいます。信仰を公けにすることで公権力から処罰もされません。もちろん、キリスト信仰者が圧倒的少数派の社会に生きていますから、いろいろ気を使わなければならないことはあります。特に、キリスト教は日本人にあわないという禁教以来のイメージが根強いので肩身が狭く感じられます。でもそれは、人間が作って維持し維持されているイデオロギーのようなものです。かつての東西イデオロギー対立時のベルリンの壁のようなものです。

何よりも大事なことは、もし私たちが父なるみ神から素晴らしいもの、何ものにも代えがたいものを頂いているとわかっているのなら、ペトロの次の言葉を胸に刻んでその通りにすべきです。

「あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生き方をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです。」(第一ペトロ3章15~17節)

キリスト信仰で「希望」と言ったら、それは復活を見据えています。キリスト信仰の希望は復活に収れんしていきます。そういうキリスト信仰の希望については、本説教でもお話ししたところです。もしこの辺のところがまだ弱く感じられる方がいらっしゃれれば、本説教のテキストが教会ホームページに掲載されるのでそれをお読み下さい。動画も残りますので再生して視聴して下さっても結構です。同じことは毎週説教で繰り返し教えています。扱う聖句は異なっても中心にあることはいつも同じだからです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


(後注)新共同訳はאראהをcohortativeに取っている訳です。でも、אראהはcohortativeならば、二つ目のאの母音は「エ」ではなく「アー」になるのではないでしょうか?ここはimperfectではないか?この点に関しては、LamdinのIntroductionは、cohortativeにする時はנהを付けるとだけあります。それだけでは足りないので、北欧の権威的参考書NybergのHebreisk gramatikを見たら、נהを付けるのはליהのタイプを除くとありました。例文が一つありますが、どう見ても訳が間違っているとしか思えず(スウェーデン語の世界になるのでここでは詳細に立ち入りません)、完全に解決できません。困りました。それなので、ここではimperfectで考えた次第です。

 

 

 

説教 「信仰者は実はみんな祭司なのだ」吉村博明 宣教師 、出エジプト記19章2-8a節、マタイによる福音書9章35節-10章23節

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.祭司たちの王国

本日の旧約聖書の日課は出エジプト記の出来事です。イスラエルの民がエジプトを脱出して3カ月が経ち、シナイ山のふもとまで来て宿営しました。そこでモーセはシナイ山上に現れた神のもとに登り、十戒をはじめ多くの律法を授かります。本日の個所は神が律法を授ける前に次の言葉を民に伝えよとモーセに命じたところです。その中に次のような驚くべき言葉がありました。

「今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちは全ての民の間にあってわたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」(出エジプト記19章5~6節)

ここのヘブライ語の原文には一見簡単そうでわかりにくいことがあります。「世界はすべてわたしのものである」に「なぜなら」כיがついていて、それが前文とどう結びつくのかがわかりにくいからです。もちろんכיには他の意味・用法もありますが、どれを採っても解決は難しいので取り敢えず基本的な意味の一つである「なぜなら」でやってみます。それから、前文の「全ての民」についている前置詞מןも考えさせられます。「~の中から」と起点・起源の意味で取るか、「~から見たら」と比較の視点で取るかというところではないかと考えました。「~から取る/選択する」の可能性も考えたのですが、その場合動詞がהיהであることが引っかかりました。新共同訳は「すべての民の間にあって」と「間にあって」ですが、それなら前置詞はמןよりもבの方がいいのではないでしょうか?以上のような次第で、次のような意味ではかと思われます。「今、お前たちが私の声に聞き従い、私の契約を守るならば、お前たちは私の守るべき財産となる。世界の全ての民族の中からそのような特別な地位に置かれるのである。このような選抜を行うのは、私が全世界にとっての神だからである。そのような地位に置かれるお前たちは『神の祭司たちの王国』になり、神聖な民族になる。」

イスラエルの民は「神の宝」だけではなく、「神の祭司の王国」や「神聖な民族」にもなれると言います。私たちの新共同訳では「祭司の王国」と祭司が単数形ですが、ヘブライ語原文では複数形で「祭司たちの王国」です。つまり、特定の祭司が国を治めているのではなく大勢の祭司から構成される王国です。お前たちがそうなるのだ、とお前たちはイスラエルの民を指して言っているので、イスラエルの民全員が祭司になっている王国です。

これは驚くべきことです。というのは、旧約聖書で祭司はモーセの兄弟のアロンから始まって、その家系に属する者がなりました。彼らは民を代表して神に対していろいろな捧げもの、罪の赦しの贖罪や神との和解のため、また神への感謝のしるしとして動物の生贄や収穫物を捧げました。そうなると今日の出エジプト記19章のところでユダヤ民族みんなが「祭司たちの王国」になるというのとは少し違ってきます。神が意図したのはイスラエルの民が全員祭司であるような王国だったのですが、実際には祭司は特定の家系に属する者の専門職業集団でした。

そうかと思えば、この「祭司たちの王国」は出エジプトの出来事から1300年位経った後の新約聖書の中にまた出てきます。使徒ペトロはその第一の手紙の2章9節でキリスト信仰者のことを「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民」と言います。「王の系統を引く祭司」などと言うと、あれっ、ダビデ王の系統のことかな?などと思ってしまうかもしれません。しかし、そうではありません。ここの「祭司」のギリシャ語の言葉は一人ひとりの祭司(ιερευς)ではなく祭司職の集団を意味する単語(ιερατευμα)です。それなので正確には「王的な祭司の集団」です。これは出エジプト19章の「祭司たちの王国」と同じことです。キリスト信仰者がそうなのだと言うのです。また、黙示録1章6節を見ると、使徒ヨハネが次のように言います。「わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が代々限りなくありますように。」ギリシャ語原文では、「私たちを王国とし、神のための祭司たち(複数形!)として下さった方」です。これも「祭司たちの王国」です。黙示録5章10節でも同じことが言われています。

このように「祭司たちの王国」が旧約聖書と新約聖書にまたがってあります。しかしながら、旧約聖書では「祭司たち」は実際には専門職業集団でした。しかし、出エジプト記19章での神の意図は民が全員祭司ということでした。それが神のさらなる命令で専門職業集団が形成されました。出エジプト記19章で神が言われたことは無効になったのでしょうか?ところが、新約聖書の時代になって、やっと全員が祭司になれた、これで出エジプト記19章の神の意図が実現したぞ、そうことをペトロやヨハネが言い出したのです。あとで見ていきますが、実はパウロも、「祭司たちの王国」という言葉は使いませんが、ペトロとヨハネと同じ見方を持っていました。

キリスト信仰者がみんな祭司であるとすると、何か儀式めいたことをしなければならないのか、でもそれは牧師や神父や司祭の仕事ではないかと思われてしまうかもしれません。そこで本説教では、キリスト信仰者が祭司ならば、どんな祭司で何をしなければならないのかについて見ていきたいと思います。

2.神の御言葉を正確に忠実に宣べ伝える職務

ユダヤ民族の専門職業集団の祭司は、エルサレムの神殿が出来る以前は臨在の幕屋が置かれていたところで捧げものの儀式を行い、神殿が出来てからはそこが儀式の場所になりました。神殿での儀式は、紀元前6世紀初めにバビロン帝国の攻撃によるユダヤ国家滅亡の後、一時中断されます。しかし、同世紀の終わりに民族が祖国に帰還出来て神殿が再建されると儀式も再開されます。しかし、これも西暦70年に今度はローマ帝国の攻撃で破壊されて終焉します。それ以後は神殿は再建されず今日に至っています。

エルサレムの神殿での儀式は、律法の掟に従って忠実に執り行われてはいましたが、決して問題なしということではありませんでした。神殿での神崇拝についてのいろいろな批判が預言書に現れるようになりました。なかでもバビロン帰還後に再建された神殿の時代に記されたマラキ書という預言書の中に次のような言葉があります。

「祭司の唇は知識を守り、人々は彼の口から教えを求める。彼こそ万軍の主の使者である。だが、あなたたちは道を踏み外し、教えによって多くの人をつまずかせ」てしまった(マラキ2章7~8節)。

祭司たちは、確かにカレンダーに従って神殿にて儀式を行い、定められた目的に応じて定められた捧げものとをきちんと捧げてはいたのだが、肝心なことが抜け落ちていた。何かと言うと、神の意思が記された聖書についての知識を口を通して人々に宣べ伝えることでした。それこそが人々が祭司に求めていたことだと言うのです。「万軍の主の使者」の「使者」は少しピンときませんが、ヘブライ語の単語(מלאק)の意味はメッセンジャー、つまり神の言葉を神が述べた通りに正確に伝える役目を持つ者です。それが実際には神が述べた通りのことを伝えず、聖書について正しく教えなかったということが起きていたのでした。

キリスト教会では、神の御言葉を正確に忠実に宣べ伝え教えるということは、そのために設置された職務があって、その人たちに委ねられます。聖霊降臨後に形成されたキリスト教会の歴史を新約聖書の時代に限ってみていくと、それに関連して三つの職務が出現します。それはどれも祭司という名は持っていません。祭司はヘブライ語ではコーヘーンכהן、ギリシャ語ではヒエレウスιερευςですが、全く違う言葉で呼ばれる職務が誕生します。それらを少し見てみます。

まず、ディアコノスδιακονοςと呼ばれる職務があります。奉仕者という意味があります。もともとは使徒たちが御言葉の教えと祈りに専念できるようにと、食べ物などの信徒たちの必要を満たす仕事を行うために設置された職務でした。ただし、賄いや給仕が専門というわけではありませんでした。使徒言行録6章にあるように、選考基準は信仰と知恵と聖霊に満ちていることでした。実際、選ばれた者の一人ステファノは御言葉もしっかり教えることが出来、キリスト信仰に反対するユダヤ人たちに対して大説教をしたことが原因で殉教してしまいます。彼はキリスト教会最初の殉教者です。

もう一つの職務はプレスビュテロスπρεσβυτεροςというのがあります。単語の意味は年長者で、日本語では長老と訳されます。これは第一テモテ5章17節から明らかなように御言葉を教える職務です。ヤコブ5章14節から伺えるように教会の代表者として信徒のために祈ることもします。プレスビュテロスがこのような職務を持つことがもとで、後にドイツ語で牧師を意味するPriest、スウェーデン語でもPrästになっていきます。英語のPastorはプレスビュテロスと違うところから来ていると思われます。

三つ目の職務はエピスコポスεπισκοποςです。管理者とか監督者という意味があります。使徒言行録20章28節を見ると、プレスビュテロスからエピスコポスに任命されるのでプレスビュテロスより位が高い感じがします。実際、時代が下るにつれてエピスコポスはディアコノスやプレスビュテロスを任命する権限を持つようになります。しかしながら、両者の資格についてのパウロの記述を見ると(第一テモテ3章1~7節、テトス1章6~9節)質的な違いはないのではないかと思います。実際、4世紀から5世紀に活動した教父ヒエロニムスも、また宗教改革のルターも両者の位に優劣はないと言っています。いずれにしても、エピスコポスも御言葉の職務を務めることにはかわりありません。

以上のように、キリスト教会で、ディアコノス、プレスビュテロス、エピスコポスという三つの専門職業集団が現れます。興味深いことにフィンランドのルター派国教会はディアコニア、牧師、監督の三つの職務があり、初期のキリスト教会の体制がよく受け継がれていると言えます。さて、キリスト教会でこれらの三つの専門職業集団が現れたのですが、他方でユダヤ教にあった祭司ヒエレウスは姿を消します。それは、祭司が神殿の儀式に特化した専門職業集団だったので、肝心の神殿が破壊されてしまった後は祭司も存在しなくなってしまったことによります。しかし、それにもかかわらず使徒たちはキリスト信仰者のことを「祭司たちの王国」と呼ぶのです。祭司ヒエレウスは死後ではないのです。牧師や神父や司祭はちゃんといるのに、キリスト信仰者である私たちのどこが祭司なのでしょうか?

3.キリスト信仰者は感謝の捧げものをする祭司である

それは、私たちキリスト信仰者は、牧師や神父や司祭であろうがなかろうが、全員がかつての祭司と同じように神に対して捧げものをしなければならないからです。それでは何を捧げるのでしょうか?かつての祭司は、罪の赦しの贖罪の捧げもの、神との和解の捧げもの、収穫の感謝の捧げものなどいろんな捧げものをしていました。

結論から言うと、キリスト信仰者にとっては罪の赦しの贖罪の捧げものと神との和解の捧げものは不要になりました。というのは、神のひとり子イエス様が私たち人間に代わって自らを犠牲の生贄として捧げて私たちの罪を神に対して償って下さったからです。この犠牲の生贄は完全無欠なものでした。それは、エルサレムの神殿で毎年の贖罪日に捧げられていた夥しい数の動物の生贄と比べればわかります。贖罪日ではまず最初に祭司たちが自分の罪の償いのために捧げものをし、そのようにして自分を罪から清めてから今度は民全体の罪の償いのために捧げました。これを毎年行わなければならなかったというのは、言うなれば罪の赦しの有効期限と言うか賞味期限は1年だっということになります。

ところが、イエス様が行った贖罪は、まさに神の神聖なひとり子を犠牲に供するもので、これ以上の犠牲はないという位のものでした。それなので今後はもう罪の償いのために犠牲をささげる必要は一切なくなったという、それ位の犠牲だったのです。それなのに、もしまだ何か追加で捧げものをしないといけない、そうしないと神は自分を受け入れてくれない、なんて考えたら、それは神のひとり子の犠牲では不足だと言っていることになり、逆に神の怒りを買うことになってしまいます。それなので神との和解を果たせるためには、イエス様がゴルゴタの十字架にかけられたのはまさに自分の罪の償いのためだったとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、もう十分なのです。そうすれば、あとはイエス様のおかげで罪の償いが済んだ者となって、それで神から罪を赦された者として扱ってもらえるようになります。そのあとは、これからはもう罪を犯さないようにしなければ、神を全身全霊で愛し、その愛に立って隣人を自分を愛するが如く愛さなければと心が新しくされます。なにしろ、ひとり子を犠牲に供してもいいと言い位に天地創造の神がこの私を価値ある者と見なして下さるんですから。そういう畏れ多い気持ちに加え感謝の気持ちに満たされてこの世の人生を歩むことになります。

以上申し上げたことが本日の使徒書の日課ローマ5章によく言い表されています。イエス様を救い主と信じる信仰により、神の目に義とされる、つまり神聖な神の前に立たされても大丈夫でいられるようになる。それで神との間に敵対関係はもうなく、ただただ平和な関係にある。神と平和な関係にあれば、もう無敵で何も恐いものはない。このような信仰に立っていれば、試練があっても忍耐に転化する。忍耐は鍛えられた心に転化する。そして鍛えられた心は希望に転化する。ここで言う「希望」とは、神の栄光に与るという希望です。その意味するところは、復活の日に死の眠りから目覚めさせられて復活の体と永遠の命を着せられて神の御国に迎え入れられるということです。私たちがまだ罪びとであった時に、私たちがそのように神の栄光に与れるようにとイエス様は自らを十字架の死に委ねられたのでした。これが神の愛です。この神の愛はイエス様を救い主と信じる者の心に注がれているのです。

以上のような福音の真理を宣べ伝え教えることがどれだけ大切なことであるか、本日の福音書マタイ9章にてイエス様が述べられています。群衆が羊飼いのない羊のように打ちひしがれて見捨てられた状態にあるというのは、神との平和な関係を持たず、罪の支配の力に服してしまっている状態のことを意味します。人々がそこから脱せられて神との平和な関係を持てるように、そのために福音の真理を宣べ伝え教える働き人が必要なのです。まさにマラキ書で言われているメッセンジャーです。本当に私たちは聖書を正しく忠実に宣べ伝え教えられる働き人が多く与えられるように祈らなければなりません。

少し話が脇道に逸れました。私たちキリスト信仰者がする捧げものについて見ていきます。イエス様が私たちのために贖罪と和解の捧げものとなって下さいました。それなので私たちはその捧げものをする必要がなくなりました。そうすると捧げるものとして残るのは感謝の捧げものになります。神のひとり子の尊い犠牲の上に自分が新しくされたということに対する感謝です。それでは、一体何を捧げたらよいのでしょうか?

そのことをパウロはローマ12章で明らかにします。まず、冒頭で度肝を抜くような主題を掲げます。
「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして捧げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」

「なすべき礼拝」などとそつなく訳していますが、正確には「理にかなった礼拝」です。難しい表現です。どういうことかと言うと、動物の生贄を捧げる礼拝はもう理に適った礼拝ではないということです。それで自分の体を生贄として捧げる礼拝が理に適っているというのです。これを読んだ人は皆ぎょっとしてしまうでしょう。体を生ける生贄として捧げるだなんて、まるで人身御供ではないかと。ところが、そういうことではないのです。パウロはこの12章で、イエス様の贖いと償いの業のおかげで神から罪を赦しを受けて和解を頂いた者はどんな生き方が当然になってくるかを述べていきます。その生き方をすることが「聖なるいけるいけにえとして自分の体を神に捧げる」ことになるのです。どんな生き方でしょうか?

まず2節で生き方の総まとめを最初に掲げます。生き方のコンセプトのようなものです。

「自分をこの世に合わせていってはいけません。神から罪を赦して頂いて心も考えも新しくされたのだから、あとは自分を神に変えてもらうに任せなさい。変えてもらうにつれ、何が神の意思であるか何が善であり神に喜ばれることか何が完全なことかを常に吟味するようになりなさい。」

そして3節からあとは、何が神の意思か、善か、神に喜ばれることか、完全なことかについてパウロが吟味したことの具体的な内容が続きます。ざっと見ますと、自分を過大評価するな、悪を憎み、善から離れるな、兄弟愛を持って互いに愛せよ、互いに尊敬を持って相手を優れた者と思え、迫害する者のために祝福を祈れ、呪ってはいけない、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣け、高ぶらないで身分の低い人と交われ、自分を賢い者とうぬぼれるな、悪に悪を返すな、全ての人の前で善を行え、他の人と平和に暮らせるかどうかがあなたがた次第ということであれば迷わずそうせよ、自分で復讐するな、神の怒りに任せよ、敵が飢えていたら食べさせ乾いていたら飲ませよ等々、そうそうたるものです。これらを聞くと、同じようなことは他の宗教でも言っているではないかと思われるかもしれません。しかし、根元は違います。自分で復讐してはいけない理由に神の怒りに任せるということがありました。これは、最後の審判とそれに続く復活が土台にあります。先ほどローマ5章のところで、「神の栄光に与る希望」とは、復活の日に死の眠りから目覚めさせられて復活の体と永遠の命を着せられて神の御国に迎え入れられる希望のことであると申しました。キリスト信仰者の全希望はそこに集約されています。

以上が、キリスト信仰者が自分の体を生贄として捧げる生き方です。これができる、これが当然という心意気になるのには、まずイエス様のおかげで罪の赦しがあることを信じる信仰がなければいけません。そうしないと何も始まりません。全ては信仰から始まるのです。このような生き方をすることが神に感謝の捧げものをしていることの現れであり、感謝の捧げものをしていることが祭司であるということです。これは、牧師、司祭、神父であろうが信徒であろうが、キリスト信仰者みんなの課題であり、みんなが感謝の捧げものをする祭司なのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

説教「創造主の神に造られた者で何が悪い!」吉村博明 宣教師、マタイによる福音書28章16-20節、創世記1章1-2章4a節

主日礼拝説教 2020年6月7日(三位一体主日)

創世記1章1-2章4a節、第二コリント13章11-13節、マタイ28章16-20節

説教題 「創造主の神に造られた者で何が悪い!」

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1. 神に造られた者としての自覚を持て

今日は教会のカレンダーでは「三位一体主日」です。先週の主日は聖霊降臨祭でした。聖霊がイエス様の弟子たちの上に降って、そのうちの一人ペトロが群衆の前で大説教をし、その結果3,000人の人が洗礼を受けてキリスト教会が形成され出したことを記念する日でした。父、御子、聖霊の三者がそろった後の主日ということで今日は三位一体を覚える主日です。

先週の説教でも申し上げましたが、キリスト信仰では神は、父、御子、聖霊という三つの人格が同時に一つの神であるという、三位一体の神として崇拝されます。日本語では聖霊のことを「それ」と呼ぶので何か物体みたいですが、英語、ドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語の聖書では「彼」と人格を持つ者として言い表されています。他の言語は確認していないですが、大体皆そうではないかと思います。三つの人格はそれぞれ果たすべき役割を持っていて、父は無から万物を造り上げる創造の神、子は人間を罪の支配下から救い出す贖いの神、そして聖霊はキリスト信仰者をこの世から聖別する役割を果たします。この世から聖別するとは、人間を神聖な神の御前に立たせても恥ずかしくない者にしていくということです。

本日の福音書の日課はマタイの最後のところ、復活されたイエス様が弟子たちに宣教命令を述べたところです。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」洗礼を父と子と聖霊の名によって授けるというのは、洗礼を受ける者が三位一体の神に結びつけられるということです。神は創造の業を行う父であり、また人間を罪の支配下から贖う御子であり、そしてキリスト信仰者をこの世から聖別する聖霊である、この三位一体の神に結びつけられるのです。結びつけられた後は、神に創造された者としての自覚を持って、また罪の支配から贖われた者として、絶えずこの世から聖別されてこの世を生きていきます。そして、この世が終わって次の世が始まる時に目覚めさせられて復活の体と永遠の命を与えられて天の御国に迎えられます。

この「神に創造された者としての自覚を持つ」というのは大事です。その自覚は、キリスト信仰に入れるか入れないか、また入ってもその後しっかり入った状態にいられるかどうかのカギになります。というのは、自分が神に造られた者であるとの自覚を持つと今度は、造られた自分は造り主と今どんな関係にあるかということを考えるようになるからです。何も問題ない、全てうまく行っている関係か、それとも何か問題があってうまく行っていないか?聖書の立場は、うまく行っていない、それなので問題を解決しないといけない、というものです。何がどううまく行っていないのかと言うと、造られた人間と造り主の神との結びつきが失われてしまった、それで人間はこの世では神との結びつきがないままで生きていかなければならなくなってしまったからです。どうしてそんなことが起きたかというと、人間は神に造られたという立場を静かに受け入れていればよかったのに、神と張り合おうという気持ちを悪魔にたきつけられて、その言うとおりにしてしまった。それは神がしてはならないと言っていたことで、そのために人間に神に対する不従順が生まれ、神の意思に反しようとする罪が備わってしまった。そのことが創世記に記されています。この堕罪の出来事の結果、人間は死ぬ存在となってしまい、この世では神との結びつきもないまま人生を送り、何もしないでいればこの世を去った後は神のもとに戻れることもなくなってしまったのです。パウロが教えるように、死というものは罪の報酬であり、人間が代々死んできたというのは代々罪を受け継いできたことの現れなのです。

そこで神は、人間がこの世では神との結びつきを持って生きられるようにして、この世を去った後は永遠に自分のもとに帰れるようにしてあげようと、罪の問題を人間に代わって解決することにしたのです。それが、ひとり子のイエス様をこの世に贈ったということであり、神のひとり子が人間の罪を全て背負ってゴルゴタの十字架の上にまで運び上げ、そこで人間に代わって神罰を受けて人間の罪を神に対して償って下さったことでした。さらに父なるみ神は、一度死なれたイエス様を最大級の力で復活させて、復活の体と永遠の命が待ち受ける天の御国への道を私たち人間のために切り開いて下さったのでした。

そこで人間が、これらのことは本当にその通りに起こったのであり、それでイエス様は救い主と信じて洗礼を受けると、彼がして下さった罪の償いがその人を覆い、罪の支配下から贖われたことがその人に起きます。それからはその人は、天の御国に向かう道に置かれてその道を進んでいきます。

ところが、この世には人間がその道に入れないようにしてやろうとする力、入ったら今度は踏み外させてやろうという力が働いています。そのような力に襲われた時は、洗礼の時に注がれた聖霊が大事な役割を果たします。人間が神に造られた者であることと、洗礼によって神との結びつきが出来ていることを思い出させてくれます。もし神に背を向けてしまったのであれば、聖霊はすぐに私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせてイエス様の犠牲の上に築かれた神との結びつきはしっかりあることを示してくれます。その時、私たちの内に神の意思に沿うように生きなければという気持ちが起きます。そして、また天の御国に向かう道を進んでいくことになります。

このように、父と子と聖霊の御名によって洗礼を受けるというのは、神に造られた人間が神と人間を引き離そうとする力から贖い出されることです。また、造られ、かつ贖われた者としてこの世を歩む時の支えや力を得ることです。さらに、歩み終えた後は復活の体と永遠の命が待つ天の御国に迎え入れられるという約束を神から頂くことです。

2. 天地創造の今日的意味

以上から明らかなように、キリスト信仰では神は創造主であり人間は造られた者ということが大前提にあります。それがなかったら、造り主との関係はどうなっているかという問いは起きません。その問いがなければ神のひとり子がこの世に贈られて十字架の死を遂げ死から復活されたことは何の意味も持ちません。それらが意味を持たなければ、聖霊が役割を果たそうとしても全然かみ合いません。それ位、人間が神に造られたというのは信仰の大前提なのです。

ところが、今日では神の創造ということを信じて受け入れることがますます難しくなっています。それは、進化論が生命について説得力ある説明をしていると支持される状況があるからではないかと思います。生物は長い年月をかけて単純なものが複雑なものに進化していく。そのプロセスで環境の変化についていけないものは消え、変化に適応できる力をつけたものが進化して続いていく、そのように説明すると、生き物に関しては神が一つ一つ造ったなどとは言えなくなります。

イスラエルのハラリという歴史学者の書いた「ホモデウス」という本が大きな話題になりました。私はまだ全部読み終えていないのですが、進化論に立っているのは明らかで、なぜキリスト教が進化論に否定的なのか?それは進化論が魂の存在を否定するからだ、と言っていた下りはなるほどと思いました。生物が人格と意志を持った創造主に造られるのではなく、無数の化学反応の集積から構成されて変化していくと見たら、魂などという科学的に説明できないものは入り込む余地はなくなります。人格を持った神なんか持ち出さなくてもいろんなことが説明できるようになります。もう人間は造り主がどう思っているかなんか考えないで、自分の好きなようにやればいい、自分こそ自分の主人であり、神なんかにとやかく言われる筋はない、ということになります。天地創造を出発点にする聖書とその聖書に基づいて生きる人たちにとって大変な時代になりました。

そこで、本説教の第二部として、ここから先は本日の旧約聖書の日課、創世記の初めの天地創造をもう一度振り返り、天地創造は本当に今では意味のない時代遅れの見方かどうか見てみたいと思います。この問題に関して近年では進化論に対抗するものとしてインテリジェント・デザインという考え方が注目されたようですが、私はおそらくその議論に加わられるインテリレベルに達していないので、ひたすら聖書をじっくり見ていくことにします。じっくり見る聖書とは、旧約聖書はヘブライ語のBiblia Hebraica Stuttgartensiaで(一部はアラム語で書かれていますが)、新約聖書はギリシャ語のNovum Testamentum Graeceです。私にとって大切な聖書のテキストです。

創世記1章について、本説教では2つのことを見て、聖書の天地創造は今日でも意味があることを確認したいと思います。一つは、天地創造の時間の流れについて。もう一つは、造られたものとしての人間と動物の立場についてです。

まず、天地創造の時間の流れについて。天地創造によると、神は6日間で天地とその中にあるものを造り上げ、7日目に休まれたとあります。これなどは、多くの人は真に受けないでしょう。物理学などで地球は何十億年前に誕生したと言っています。それなのに、最初の24時間で光が出来、次の24時間で空、次の24時間で海と陸と植物、次の24時間で太陽、月、星、次の24時間で魚と鳥、次の24時間で陸の生き物と人間、合計144時間、分にして8,640分、秒にして518,400秒、これで地球誕生から最初の人類まで間に合うのか、誰も見向きもしないでしょう。

もちろん、神に不可能なことはないというのが聖書の立場なので、144時間で完結したという可能性も残しておきますが、ここは次のように考えることも出来ます。毎日の終わりに「夕べがあり、朝があった。第何の日である」という締めの言葉があります。ヘブライ語で意味するところを見ると、「そして日の入りとなり、そして日の出となった。以上が第何の日である」という意味です。つまり、一日というのは、日の出で始まり、次の日の出までという考え方です。それで、「日の入りとなって日の出となった」と言うのは、これでその日は暗くなったので仕事は終わりですという、その日の終わりを告げる合図的な文句のようなものです。

つまり、聖書の観点は、造られたものを6つの段階的なグループにわけて、それぞれの段階の長さは私たちの時間の観念ではどれくらいなのかはわからないが、とにかくそれぞれの段階の終わりに「これで一日が終わりました」と言って、それぞれの段階が1日という扱いになって全部で6日になるように見せようとしていると考えることができます。それぞれの段階の長さは、私たちの時間の観念でひょっとしたら何億年もかかっているかもしれないが、それぞれに一日の終わりを意味する締めの言葉をつけることで1段階を一日と言っていると考えることができます。それでは、どうして6段階を6日とすることにこだわるのかと言うと、それは神が人間に1週間7日というリズムを与えて、7日目は安息日に定めるという意図があるからです。以上のように6日というのは6段階と考えれば、天地創造は時間的流れに関しては受け入れるのに問題はなくなります。

次に造られたものとしての人間と動物の立場について。先ほどのハラリは進化論に立つので霊の存在を否定するので、そうすれば人間と動物は能力の差はあるが、同じ種類になって決定的な差はなくなります。それなので進化論から見ると、キリスト教というのは人間を霊的な存在にはするが動物はそうせず、それで人間を優、動物を劣にしているというふうに見えます。ところが、聖書をよく見ると、動物も実はある意味では霊的な存在で、進化論が言うのとは逆の意味で人間と動物が同じ種類に入りうるということがあるのです。ひょっとしたら、これはあまり注意されてこなかったことかもしれません。少し注意しながら聖句を見てみましょう。

5日目に神は魚と鳥を祝福します。そのまま続けて読んでいくと、6日目に人間も祝福します。あれ、人間と同じ日に造られた動物は祝福されないのか?やはり動物は神の祝福に与れない、人間より劣ったものなのかと思わされます。しかし、それならば、なぜ魚と鳥は祝福を受けられるのか?動物は人間より劣っているが、魚と鳥は動物以上、人間並みということなのか?

これは、ヘブライ語の原文の厄介さがあります。複数形と単数形が入り乱れて、どれが何を指しているかよく考えないといけません。問題となるのは27節と28節で、28節を逐語訳すると、「神は彼らを祝福した。そして神は彼らに言われた。『お前たちは産めよ、増えよ、地に満ちよ。そして、お前は地を従わせよ』」となります。最後の「地を従わせよ」と命令されている相手は単数形なので「お前は」です。その前の「産めよ、増えよ、地に満ちよ」の相手は全部複数形です。それで「お前たちは」です。それが突然「お前は」になるのです。これはどういうことか?可能な考え方として、神が祝福した「彼ら」は人間だけではなく、同じ日に造られた動物も含まれる。そして両者に対して「産めよ、増えよ、満ちよ」と言った。ところが、「地を従わせよ」のところで相手を人間に絞ったということです(後注)。鳥や魚が祝福を受けて「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と言われるのなら、動物も祝福を受けられて同じように「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と言われてもおかしくなく、それが文法的にも可能なのです。つまり、動物も魚も鳥も人間と同じように神の祝福を受けられ、みな「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と言われるのです。

動物が霊的な存在ということを考える時、民数記22章でバラムが乗ったロバが行く手に天使を見て立ち止まり、それが見えないバラムに人間の言葉で話し出した出来事を思い出すと良いでしょう。人間には見えなくても動物には天使が見えたということが聖書には削除されずちゃんと記載されているのです。

そこで、26節と28節に人間に動物、魚、鳥を「支配させる」と言われていることを考えます。それは、聖書が人間に優越的な地位を与えていると考えられるところです。ところが、この「支配する」というヘブライ語の動詞רדהですが、詩篇72篇8節でも使われています。そこを見ると、正義を守る理想的な王の支配について言われています。力や数に任せた身勝手な権力行使ではないのです。そのように動物や魚や鳥に対しても、神の創造ということを念頭において何か注意深さが必要ということになります。

さらに29節を見ると神は人間に食べ物として植物から採れるものを与えると言い、鳥や動物にも植物を食べ物として与えると言います。神が与える食べ物に関して、人間も鳥や動物もかわりません。ところが、現実は、人間は動物や鳥も食べるし、鳥や動物の中には他の鳥や動物そして人間を食べるものもいます。それなので、神が人間、動物、鳥の食べ物について言ったことは、天地創造当初の理想状態の時のもので、それが堕罪の後で変わってしまったというふうに考えられます。そこで興味深いのは、イザヤ書11章にエッサイの切り株から出てくる若枝が世界をこの世の権力者とは全く異なる仕方で治めるという預言があります。エッサイはダビデの父親なので、エッサイの末裔から出る若枝とはイエス様のことです。イエス様が世界を治めるというのは、これは今の世が終わった次の世に現れる天の御国のことです。そこでは猛獣たちも他者を傷をつけることなく家畜と一緒に仲良く並んで草を食べています。これは、まさに堕罪が起きる前の天地創造の理想的な世界が戻って来ることを示しています。つまり、動物たちも天の御国にいられるのです。

それならばなぜ、聖書は動物のことをもっと出さないのか、もっと踏み込んで動物の救いについて言わないのかという疑問を持たれるかもしれません。それはやはり、救いということは神の意思に反するということが人間に起こったために人間の問題になったことがあります。人間がどれだけ神の意思に反するものか示すものとして十戒が与えられました。人間が罪から贖われて神との結びつきを回復できるために、イエス様の十字架の死と死からの復活があって、洗礼と聖餐を受けることが必要になりました。これらは動物には関係のないことです。しかし、恵みの手段は人間だけに関係するものだと言っても、だからと言って動物が神から祝福を受けられないということにもならない。じゃ、動物の救いは何かと言うと、それは聖書にはそれ以上のことはないのでわからない。聖書は本当に人間の問題が中心なので、動物のことは書いてある以上のことは何も言えないのです。人間としては、書いていないことについては神に任せて、神の創造の業と祝福が動物に及んでいることを覚えつつ、自分たちの救いに専念するしかないのです。

3.神に造られた者よ、自信を持て!

以上、創世記の天地創造は、時間の流れについてみても受け入れるのに問題がないこと、人間と動物の立場についても神の創造に属するものとして同じ祝福に与っていることを見ました。もちろん、聖書は人間の問題に集中しているので動物のことは書いてある以外のことはわからず、神に任せるしかありません。人間は動物を「支配する」ことを神から委ねられていますが、その内容も注意深く考えないといけないこともわかりました。いずれにしても天地創造は、救いということを人間を超えて生態系にも関わらせていることを予感させるだけで十分です。それで、それは時代遅れなんかではなく、ある意味では今日ますます意味を持つものになっていると言えます。この世が、造り主がどう思っているなんか考える必要などない、自分の好きなようにやればいい、自分こそ自分の主人なのだから、神なんかにとやかく言われる筋はない、などと言ってきたら、私たちは自信を持って、否!否!否!と応じてよいのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

(後注)

ここで厄介なことがいろいろありますが、解決策を考え出すことも可能だと思います。

一つの厄介なことは、「お前は地を従わせよ」と言った後すぐ、今度は「お前たちは海の魚、空の鳥(etc)を支配せよ」と言います。つまり、「支配する」人間が単数から複数に変わるのです。そうなると、その前で「お前たちは産めよ、増えよ、地に満ちよ」と言っていたのは、人間プラス動物ではなく、やはり人間だけなのではないかと思えてきます。しかし、26節と27節では人間は単数扱いになったり複数扱いになったり目まぐるしいのです。27節で「神は自分に似せて彼を(אתו単数)造った。男と女とに彼らを(複数אתם)造った。」とあります。28節の「支配する」が複数なのは、26節で複数形で言われている文をそのままそこにコピー&ペーストしたことで起こったのではないかと思います。

もう一つ厄介なことは、「支配する」動詞のרדהですが、詩篇8篇で神が人間に他の被造物を支配することを委ねたというところで、このרדהを期待したのですが、なんとמשלでした。実はこのמשלは創世記1章18節で「太陽が日中を支配し、月が夜を支配するために」のところでも使われています。秩序だった支配を意味すると考えれば、詩篇72篇8節の正義の支配と重なりますが、משלは現在分詞で「暴君」の意味もあるということで、頭が痛いところです。今回は解決策の模索はここで休止します。またいつの日か考えなければならない時が来ると思います。

聖霊降臨祭の聖句と教え「聖霊 - 我らの人生の素晴らしき縁の下の力持ち」神学博士 吉村博明 宣教師、使徒言行録2章1~21節、ヨハネによる福音書7章37ー39節

主日礼拝説教 2020年5月31日 聖霊降臨祭

教会賛美歌387番(はじめ)、175番(おわり)
歌とピアノ ミルヤム・ハルユSLEY宣教師
聖書の使徒言行録2章1~21節~
聖書のヨハネ7章37~39節~

説教題 「聖霊 - 我らの人生の素晴らしき縁の下の力持ち」
使徒言行録2章1-21節、ヨハネ7章37-39節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.聖霊降臨とは?聖霊とは?

 今日は聖霊降臨祭です。ペンテコステとも呼ばれますが、それはギリシャ語の50番目を意味するペンテーコステーπεντηκοστήという語に由来し、復活祭から(それを含めて)50日目に天の父なるみ神から聖霊がイエス様の弟子たちに下った出来事を記念する日です。聖霊降臨祭は、キリスト教会にとって、クリスマスや復活祭に並ぶ大事な祝日です。それは、イエス様がかねてから送ると約束していた聖霊が彼の昇天後に約束通りに天の父なるみ神のもとから送られたからです。

加えて聖霊降臨祭はキリスト教会の誕生日の意味を持っています。そのことは、先ほど読みました使徒言行録の2章を終わりまで読んでいくとわかります。聖霊を注がれたイエス様直近の弟子たち、すなわち使徒たちの一人であるペトロが群衆の前で、イエス様の十字架の死と死からの復活について堂々と証言します。これらのことは全て旧約聖書の随所に預言されていた、それが実現したのだ、この期に及んでも神のもとに立ち返らなかったら、君たちは神のひとり子を十字架にかけた者どもと同じ罪にとどまることになってしまうのだぞ、それでも良いのか?そう聞く人たちに人生の何か重大な岐路に立たされていることを知らしめます。ペトロの言葉を聞いて心を突き刺された(2章37節)群衆はすぐさま洗礼を受け、その数は3千人にのぼりました(41節)。これらの人々は、「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、つまり聖餐に与ることです、そして、祈ることに熱心」(42節)な集団を形成したのです。これがキリスト教会の始まりとなりました。全ては、聖霊が使徒たちに注がれたことから始まったのです。

 ところで、キリスト信仰では神というのは父、御子、聖霊という三つの人格が同時に一つの神であるという、いわゆる三位一体の神として崇拝されます。それじゃ、聖霊も、父や子と同じように人格があるのかと驚かれるかもしれません。確かに日本語の聖書では聖霊を指す時、「それ」と呼ぶので何か物体みたいですが、英語、ドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語の聖書では「彼」と呼ぶので(フィンランド語のhänは「彼」「彼女」両方含むが、聖霊は男性扱い)、まさしく人格を持つ者です。三つの人格はそれぞれ果たすべき機能、役割を持っています。父は無から万物を造り上げる創造の神です。子は人間を罪の支配から救い出す贖いの神です。聖霊はキリスト信仰者をこの世から聖別する機能を果たします。この世からの聖別とは、人間を神聖な神の御前に出しても恥ずかしくない者にするということです。

今日の説教では、福音書の日課ヨハネ7章37~39節のイエス様の言葉を説き明かすことを通して、この人格と役割を持つ聖霊がどんな方であるかを明らかにしようと思います。そこで見えてくるのは、聖霊はキリスト信仰者にとって人生の素晴らしい縁の下の力持ちということです。他方で第一コリント12章を見ると、聖霊が自分の考えに従って信仰者一人ひとりに様々な賜物を与えることが言われています。賜物を与えることも聖霊の役割の大事な側面です。今日はヨハネ福音書のイエス様の言葉に基づいて別の側面を見てみましょう。

2.仮庵祭の二つの異なる水

イエス様がエルサレムにて群衆の前で「生きた水」について話しをしたのは、ユダヤ民族の仮庵祭という、丸1週間続く盛大な祝祭の最後の日でした。仮庵祭というのは、時期的には私たちのカレンダーで秋分の日の後に催されるもので、作物や果物の収穫を神に感謝するためのお祝いでした。祝い方の詳細はレビ記23章33~44節、申命記16章13~15節に記されています。このお祝いに特徴的なことは、名前が示すように木の枝で掘立て小屋を作ってお祝いの期間はそこに入るということが行われていました。これはかつてモーセがイスラエルの民を率いてエジプトから約束の地カナンまで民族大移動した時の生活を再現して振り返る意味がありました。約束の地までの貧しい生活に思いを馳せ、その地での豊かな収穫を神に感謝する時、神への感謝と賛美は一層高まったでしょう。

仮庵祭の最終日はまた、神殿の祭司たちがシロアの池から水を汲んでそれを大祭司が黄金の水差しに入れて祭壇にかけることをしました。水を汲んだ祭司たちが神殿に到着すると群衆は歓声をあげ、祭司たちはイザヤ書12章3節の聖句を歌にして歌いました。「あなたたちは喜びのうちに救いの泉から水をくむ。」まさにその日にイエス様は群衆を前にして叫んで言ったのです。「渇いている人は誰でもわたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は聖書に書いてあるようにその人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」まさに祭司たちが祭壇にかける水を汲んでそれを「救いの泉」から汲んだと言っている時に、イエス様は自分が与える水は渇く者をいやすことができ、それだけでなく与えられた人は今度は内から「生きた水」が川のように流れ出ると言うのです。これを聞いただけでも、イエス様が与える水は「救い」ということに関して祭司たちが汲んだ水よりも優れているものであることが直感できます。さらに、この出来事を記述したヨハネは、イエス様が与えると言っている水は聖霊を意味するのだと解説します。しかしながら、まだイエス様が栄光を受ける前だったので聖霊はまだ降っていなかったとも。イエス様が栄光を受けるというのは、十字架と復活の出来事を経て天の父なるみ神の右の座に上げらることです。実際、聖霊降臨はイエス様の昇天の後に起こりました。それなので聖霊降臨の前では誰もイエス様の言われた「生きた水」の意味はわからなかったでしょう。しかし、イエス様の言葉には聖霊がどんな役割を果たすかが明確に言われているのです。どんな役割かそれを見てみましょう。

3.聖霊は人間の霊的な渇きを癒して目的地に押し出していく

イエス様は「生きた水」という言葉を使いました。ギリシャ語の言葉を直訳すると「生きている水」です。生きている水とはどんな水でしょうか?

まず、「渇いている人」はイエス様のところに来て彼から飲むことができる、つまり、イエス様に渇きを癒してもらえるということです。「渇いている」と言うのは普通の喉の渇きのことではありません。霊的に渇いているということです。霊的な渇きとは、救いを求めているということです。そこで、救いとは何かと言うと、それは、この世を生きる時、自分は創造主である天の父なるみ神と結びついているか切り離されているかどうかということです。天と地と人間を造り人間に命と人生を与えた、まさに自分の造り主である神と結びつきを持ててこの世を神の守りと導きを受けながら生きられ、この世から別れることになっても神のもとに永遠に迎え入れられる、こうした今の世と次に来る世の両方の世にまたがる神との結びつきがある、これが救いです。

イエス様が渇きを癒して下さるというのは、彼がこうした救いの願いを叶えてくれるということです。救いの願いが叶えられるというのは、まさにイエス様の十字架の死と死からの復活によって実現しました。イエス様は人間と神の結びつきを壊していた原因である罪を全部背負って十字架の上に運び上げて、そこで人間に代わって神罰を受けて文字通り身代わりとなって死なれました。さらに、死から復活させられたことで永遠の命に至る道を人間に開かれました。この時、人間はイエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様が果たして下さった罪の償いを頭から被せられて、彼の犠牲に免じて神から罪を赦されます。罪を赦してもらったので神との結びつきが回復します。それからは神との結びつきの中で生きていけます。この世だけでなく、次に来る世においてでもです。

 そこで、イエス様から渇きを癒されて救いが叶えられた人は今度はその内から「生きた水」、「生きている水」が急流のようにほとばしるようなるということについてみてみましょう。それはどんな水でしょうか?それについては、ヨハネ福音書の4章に理解の鍵があります。イエス様とサマリア人の女性が水について問答するところです。イエス様が自分は「生きた水」、「生きている水」を与えることが出来ると言うと、女性はそれを井戸から汲める水と勘違いしている。そこでイエス様は言われます。「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(4章14節)。ギリシャ語の原文に忠実に訳すと、「私が与える水はその人の内で、永遠の命を目指して流れ続ける水の水源となる」です。つまり、人がイエス様から「生きた水」を受けると、今度は、その「生きた水」がその人のなかで水源となって、そこから流れ出る水は永遠の命に向かって流れゆくというのです。そういうわけで「生きた水」、「生きている水」とは、人を「永遠の命に押し出す水」であり、その意味で「永遠の命を与える水」です。

そこで、このイエス様が与える「永遠の命に押し出す水」が聖霊を意味するということについてみてみましょう。人がイエス様からその「水」を与えられて霊的な渇きを癒される。つまり、イエス様によって救いが叶えられたことを知り、それで彼を救い主と信じるようになる。そして洗礼を通して聖霊を受けることになる。すると今度は聖霊がその人の中で水源となって、そこから流れ出る水は永遠の命を目指して流れ続ける。つまり、聖霊はキリスト信仰者を霊的に潤し、もし渇きそうになっても止まることのない流れでいつでも癒される。それはさながら信仰者を永遠の命まで押し出してくれるようである。まさにイエス様を救い主と信じる信仰に生きる者にとって聖霊はその人の水源地となって、その人を内側から永遠の命という目標に押し出していく働きをするのです。それは素晴らしいことです。しかしながら、キリスト信仰者の人生はそんな結構な水の流れに乗って、この世をすいすいと渡って永遠の命に向かって進んでいくものでしょうか?そんなに甘いものではないという気がします。実際はどうでしょうか?次にこのことについてみてみましょう。

4.聖霊は我らの人生の素晴らしき縁の下の力持ち

人間は、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて聖霊を注がれても、まだ肉を纏って生きています。それなので、実はまだ神への不従順と罪を内に持っています。それでは、洗礼を受ける前と何も変わってはいないではないか?キリスト教では「あなたの罪は赦された」とか「罪は帳消しにされた」などと言うが、それは一体どうなるのか?神に対する不従順と罪を相変らず内に抱えているのに何が変わったと言うのか?いや、やはり決定的に変わったのです。一体何が変わったのか?

キリスト信仰者が神の意思に反することを考えたり思ったりする時、または弱さや隙があったためにそれらが行為や言葉で出てしまった時、神に向いてイエス様の犠牲に免じて赦しを願い祈ると、神は次のように言って下さいます。「お前が我が子イエスを救い主と信じていることはわかっている。イエスの犠牲に免じてお前の罪を赦すから、もう犯さないように。」この時、信仰者は恥じる気持ちと感謝の気持ちから本当にそうしなければと心を新たにします。このようにキリスト信仰者は罪の自覚と告白、そして赦しを繰り返しながら永遠の命に至る道を踏み外すことなく進んでいきます。このように、キリスト信仰者は罪が残っているにもかかわらず、イエス様が築き自分が受け取った罪の赦しがあるおかげで神との結びつきには何も変更はありません。何も失われていません。罪は信仰者を振り回すことはあるかもしれませんが牛耳る力はもう持っていません。牛耳る力は全て父なるみ神の手中にあります。信仰者はそれくらい父なるみ神に守られているのです。このことが、罪は残っているが帳消しにされたということです。

ところが、この世で作用する見えない力とその背後にいる悪魔は、このような神と人間の麗しい関係を壊さないではいられません。これは堕罪の時からずっとそうです。悪魔のやり口として、まずキリスト信仰者に罪びとであることを思い知らせようとします。信仰者は自分と神との結びつきは大丈夫かどうかということを気にして生きますから、結びつきを危うくする罪の問題には敏感です。そこを付け狙ってくるのです。もし悪魔が、「ほれ見ろ、お前はやっぱり罪びとだったのだ。神はお前に呆れ返っているぞ」と暴露戦術で攻撃をしかけてきます。そんな時は神に赦しを願い祈っても赦してもらえるかどうか、何かしないと足りないのではないかと途方にくれます。その時こそイエス様が聖霊のことを「弁護者」と言っていたことを思い出す絶好の機会です(ヨハネ14~16章)。聖霊は父なるみ神の前で弁護してくれるのです。「父よ、この人はひとり子イエスを救い主と信じて、彼が果たした罪の償いの他には何も持てないという位に受け入れています、すぐ赦しが与えられるべきです!」という具合にです。同時に聖霊は返す刀で途方に暮れている私たちに向かって言われます。「あなたの心の目をあのゴルゴタの十字架に向けなさい。あそこで神罰を受けてうなだれた神のひとり子がいる。彼の肩に重くのしかかっている罪の中にあなたのもちゃんと含まれています!あなたの罪はあそこで償われています。あとは復活されたあの方の後をついて行きなさい!」この時、聖霊は私たち人間の罪性という真理と神のひとり子の贖罪が完璧であるという真理を私たちの目の前に示すのです。イエス様が聖霊を真理の霊と言っていたのはまさにこのことです(ヨハネ14~16章)。

さらに、この世で作用する力と悪魔が罪とは別の問題で信仰者を惑わして意気消沈させることもあります。それは、信仰者が自分の罪が原因でないのに大きな苦難に陥ってしまった場合がそうです。そのような時、「これこそ、お前が神に見捨てられた証拠だ」とか、「神はお前に背を向けている。いつまで神に対して無垢を気取っているんだ。そんな神などさっさと袂を別てば良いではないか」というようなこちらの痛みと弱みに付け込む攻撃が仕掛けられます。

神としっかり結びついて生きるなどというと、人生順風満帆という感じがします。なにしろ、全知全能で天地を創造した神が味方についているのですから。しかし現実は、キリスト信仰者と言えども不幸や苦難に陥ることにかけては信仰者でない人たちとあまり大差はないのではと思います。それにもかかわらず、信仰者はどうして苦難困難の時でも神との結びつきを信じられるのでしょうか?それはキリスト信仰者は命や人生というものを、今生きているこの世の人生とこの次に来る神の国の人生の二つをセットにした大きな人生を生きているということが真理になっているからです。この真理に立てば、この世では絶体絶命の状態になっても、それで全てが終わってしまうということにはならないとわかります。苦難が大きければ大きいほどこの世の方に目を奪われてしまいますが、聖霊は私たちが見失いがちな真理を聖書の御言葉に結びつけて改めて目の前に示してくれます。聖霊の働きは私たちが聖書の御言葉に結びついている時に一番よく現れます。それなので、真理を見失わないために聖書を常日頃繙くことは大事です。

5.おわりに

以上から、聖霊は私たちが洗礼を受けて注がれてからは私たちの救いの渇きをいやしてくれる霊的な水であること、そして一度注がれたら今度は私たちの内で水源となって私たちを永遠の命へと押し出してくれる水にもなってくれること、そういう働きをされることが明らかになりました。永遠の命に向かう途上で罪や苦難のために神との結びつきが見失われる時があっても、聖霊は神の御前で私たちのために弁護して下さり、罪の赦しと神との結びつきは微動だにせずあるという真理を明らかにして下さいます。本当に私たちを永遠の命に向けて押し出してくれているとしか言いようがありません。それくらい聖霊は永遠の命を目指して進む私たちにありとあらゆる支援を惜しまない真に素晴らしい縁の下の力持ちなのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

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主の昇天主日の聖句と教え「この世でのねじれは承知の上。復活の日に解消されればよいのだ。」神学博士 吉村博明 宣教師、使徒言行録1章1-11節

ピアノと歌 ミルヤム・ハルユSLEY宣教師

 

主日礼拝説教 2020年5月24日 昇天主日

使徒言行録1章1-11節、エフェソ1章15-23節、ルカ24章44-53節

説教題 「この世でのねじれは承知の上。復活の日に解消されればよいのだ。」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1. はじめに

今日はイエス様の昇天を記念する主日です。イエス様は天地創造の神の力によって死から復活され、40日間弟子たちをはじめ大勢の人たちの前に姿を現し、その後で天のみ神のもとに上げられたという出来事です。復活から40日後というのは実はこの間の木曜日で、教会のカレンダーでは「昇天日」と呼ばれます。フィンランドでは祝日です。近年、国民の教会離れ聖書離れが急速に進んでいるフィンランドですが、それでもカレンダーを教会の伝統に合わせることがまだ残っているのは興味深いです。今日は昇天日に近い主日ということで、「昇天主日」とも呼ばれています。イエス様の昇天の日から10日後になると、今度はイエス様が天の父なるみ神の許から送ると約束していた聖霊が弟子たちに降るという聖霊降臨の出来事が起こります。次主日にそれを記念します。その日はカタカナ語でペンテコステと言い、キリスト教会の誕生日という位置づけで、クリスマスとイースターに並ぶキリスト教会の三大祝祭の一つです。

日本のルター派教会の昇天主日に定められた聖書の日課は毎年同じで使徒言行録1章とエフェソ書1章とルカ福音書24章の個所です。

さて、イエス様の昇天ですが、それは一体いかなる出来事で、今を生きる私たちに何の関係があるのかということを毎年礼拝の説教でお教えしているところです。昨年はエフェソ1章の中に以前あまり気に留めなかったことに目が留まり、それを結びつけて説き明かしをしました。何かと言うと、エフェソ1章の特に19節から21節にかけてです。一度死んだ人間を復活させて復活の体を纏わせることと、その者を創造主である神の御許に引き上げるということ、このことがイエス様に起こったわけですが、その実現には想像を絶するエネルギーが必要である。そのようなエネルギーを表現するのにパウロはこの短い文章の中に神の「力」を意味するギリシャ語の言葉を3つ違うものを用いています(δυναμις,、κρατος、ισχυς)。エネルギーという言葉も2回(ενεργεια、2回目は関係代名詞ですが)、エネルギーを働かせるという動詞(ενεργεω)も用いたりしています。なんとかこの想像を絶する莫大なエネルギーを描写しようとしていることが伺えます。創造主である神はそのエネルギーを働かせる力がある方である。だからイエス様の復活と昇天を起こせたというわけです。ところがそれだけにとどまりません。神はこれと同じエネルギーをイエス様を救い主と信じる者にも働かせると言うのです。つまり、キリスト信仰者も将来イエス様と同じように神の力を及ぼされて復活できて天の父なるみ神のもとに上げられるのです。それで、神がこのような力を持っていて、それをこの自分にも及ぼして下さる、と信じられるかどうかが信仰にとって一つの鍵になるということを昨年申し上げた次第です。

今年はさらにエフェソ1章の終わりの22節と23節に目が留まりました。教会は「キリストの体」であるとパウロは言います。この「教会」は、スオミ教会のような個別の教会ではなく、また複数の教会から構成される教団でもなく、ルター派とかカトリックというような教派のことでもありません。それは、永遠の命と復活の体が待っている天の御国に至る道に置かれて、今それを進んでいるキリスト信仰者の集合体です。個々の教会、教団、教派を超えた人的組織を離れた見えない教会です。それが「キリストの体」であると。そしてそのキリストはと言えば、今は天の父なるみ神の右に座して、この世のあらゆる「支配、権威、勢力、主権」の上に聳え立って、それらを足蹴にしていると。ここで言う「支配、権威、勢力、主権」とは現実世界にある国の権力だけでなく、見えない霊的な力も全部含みます。そうすると、キリストの体の部分部分である信仰者もキリストにあってこの世の権力や霊的な力の上に立つ者になっていることになるはずなのだが、どうもそんな無敵な感じはしません。そういったものの上に聳え立って足蹴にしているイエス様はそうかもしれないが、信仰者は正直なところいろんな力の足蹴にされている方ではないか?「キリストの体」だなんて、パウロはちょっとはったりを効かせすぎではないか?でもこれはやっぱり本当のことと言わざるを得ないのです。このことを後ほど見ていこうと思います。その前に毎年お教えしていることですが、イエス様の昇天とは何だったのかということについておさらいをしておこうと思います。

2.イエス様の昇天

私たちの新共同訳聖書では、イエス様は弟子たちが見ている目の前でみるみると空高く上げられて、しまいには上空の雲に覆われて見えなくなってしまったというふうに書いてあります(1章9節)。なんだか、スーパーマンがものすごいスピードで垂直に飛び上がっていく、ないしはドラえもんがタケコプターを付けて上がって行くようなイメージがわきます。しかし、ギリシャ語の原文をよくみると様子が違います。雲はイエス様を上空で覆ったのではなく、彼を下から支えるようにして運び去ったという書き方です。つまり、イエス様が上げられ始めた時、雲かそれとも雲と表現される現象がイエス様を運び去ってしまったということです。地面にいる者は下から見上げるだけですから、見えるのは雲だけで、その中か上にいる筈のイエス様は見えません。「彼らの目から見えなくなった」とはこのことを意味します(後注)。

そういうわけで、新共同訳の「雲」は空に浮かぶ普通の雲にしかすぎなくなります。しかし、聖書には旧約、新約を通して「雲」と呼ばれる不思議な現象がいろいろあることを忘れてはなりません。モーセが神から掟を授かったシナイ山を覆った雲しかり、イスラエルの民が民族大移動しながら運んだ臨在の幕屋を覆った雲しかりです。イエス様が高い山の上でモーセとエリアと話をした時も雲が現れてその中から神の声が響き渡りました。さらに、イエス様が裁判にかけられた時、自分は「天の雲と共に」(マルコ14章62節)再臨すると預言されました。本日の使徒言行録の箇所でも天使が弟子たちに言ったではありませんか。イエスは今天に上げられたのと同じ仕方で再臨する、と。つまり、天に上げられた時と同じように雲と共に来られるということです。そういうわけで、イエス様の昇天の時に現れた「雲」は普通の雲ではなく、聖書に出てくる特殊な「神の雲」ということになります。イエス様の昇天はとても聖書的な出来事なのです。

それにしても、イエス様を運び去ったのが神の雲だとしても、昇天は奇想天外な出来事です。大方のキリスト信仰者だったら、ああ、そのような普通では考えられないことが起こったんだな、とすんなり受け入れるでしょうが、信仰者でない人はきっと、馬鹿馬鹿しい、こんなのを本当だと信じるのはハリーポッターか何かの映画の特殊な撮影を本当のことと信じるのと同じだと一笑に付すでしょう。キリスト教徒の中にも最近は、そういうふうに考える人が増えているかもしれません。

ここで、忘れてはならない大事なことがあります。それは、天に上げられたイエス様の体というのは、これは普通の肉体ではなく、聖書で言うところの「復活の体」だったということです。復活後のイエス様には不思議なことが多くありました。例えば弟子たちに現れても、すぐにはイエス様と気がつかないことがありました。また、鍵がかかっている部屋にいつの間にか入って来て、弟子たちを驚愕させました。亡霊だ!と怯える弟子たちにイエス様は、亡霊には肉も骨もないが自分にはあるぞ、と言って、十字架で受けた傷を見せたり、何か食べ物はないかなどと聞いて、弟子たちの見ている前で焼き魚を食べたりしました。空間移動が自由に出来、食事もするという、天使のような存在でした。もちろん、イエス様は創造主である神と同じ次元の方なので、被造物にすぎない天使と同じではありません。いずれにしても、イエス様は体を持つが、それは普通の肉体ではなく復活の体だったのです。そのような体で天に上げられたということで、スーパーマンやのび太のような普通の肉体が空を飛んだということではないのです。

3.天の御国

天に上げられたイエス様は今、天の御国の父なる神の右に座している、と普通のキリスト教会の礼拝で毎週、信仰告白の部で唱えられます。果たしてそんな天空の国が存在するのか?毎年お教えしていることですを振り返ってみます。

地球を取り巻く大気圏は、地表から11キロメートルまでが対流圏と呼ばれ、雲が存在するのはこの範囲です。その上に行くと、成層圏、中間圏等々、いろんな圏があって、それから先は大気圏外、すなわち宇宙空間となります。世界最初の人工衛星スプートニクが打ち上げられて以来、無数の人工衛星や人間衛星やスペースシャトルが打ち上げられましたが、今までのところ、天空に聖書で言われるような国は見つかっていません。もっとロケット技術を発達させて、宇宙ステーションを随所に常駐させて、くまなく観測しても、天の御国とか天国は恐らく見つからないのではと思います。

というのは、ロケット技術とか、成層圏とか大気圏とか、そういうものは、信仰というものと全く別世界だからです。成層圏とか大気圏というようなものは人間の目や耳や手足などを使って確認できたり、また長さを測ったり重さを量ったり計算したりして確認できるものです。科学技術とは、そのように明確明瞭に確認や計測できることを土台にして成り立っています。今、私たちが地球や宇宙について知っている事柄は、こうした確認・計測できるものの蓄積です。しかし、科学上の発見が絶えず生まれることからわかるように、蓄積はいつも発展途上で、その意味で人類はまだ森羅万象のことを全て確認し終えていません。果たして確認し終えることなどできるでしょうか?

信仰とは、こうした確認できたり計測できたりする事柄を超えることに関係します。私たちが目や耳などで確認できる周りの世界は、私たちにとって現実の世界です。しかし、私たちが確認できることには限りがあります。その意味で、私たちの現実の世界も実は森羅万象の全てではなくて、この現実の世界の裏側には、目や耳などで確認も計測もできない、もう一つの世界が存在すると考えることができます。信仰は、そっちの世界に関係します。天の御国もこの確認や計測ができる現実の世界ではない、もう一つの世界のものと言ってよいでしょう。ここで、天の御国はこの現実世界の裏側にあると申しましたが、聖書の観点では、天の父なるみ神がこの確認や計測ができる世界を造り上げたというものです。それなので、造り主のいる方が表側でこちらが裏側と言ってもいいのかもしれません。

もちろん、目や耳で確認でき計測できるこの現実の世界こそが森羅万象の全てだ、それ以外に世界などない、と考えることも可能です。ただ、その場合、天と地と人間を造られた創造主など存在しなくなります。そうなれば、自然界・人間界の物事に創造主の意図が働くなどということも考えられません。自然も人間も、無数の化学反応や物理現象の連鎖が積み重なって生じて出て来たもので、死ねば腐敗して分解し消散して跡かたもなくなってしまうだけです。確認や計測できないものは存在しないという立場ですので、魂とか霊もなく、死ねば本当に消滅だけです。もちろん、このような唯物的・無神論的な立場を取る人だって、亡くなった方が思い出として心や頭に残るということは認めるでしょう。しかし、それも亡くなった人が何らかの形で存在しているのではなく、単に思い出す側の脳神経の作用という言い方になるのでしょう。

キリスト信仰者にとって、自分自身も他の人間もその他のものも含めて現実の世界は全て創造主に造られものです。そして、人間の命と人生は実は、この現実の世界だけでなく創造主の神がおられる天の御国にもまたがっていて、この二つを一緒にしたものが自分の命と人生の全体なのだ、という人生観を持っています。そういう人生観があると、神がどうしてひとり子を私たちに贈って下さったのか、それは私たちの人間の人生から天の御国の部が抜け落ちてしまわないためだったということが見えてきます。つまり、人間がこの現実の世界の人生と天の御国の人生を一緒にした大きな人生を持てるようにするというのが神の意図だったのです。

それでは、イエス様を贈ることでどうやって人間がそのような大きな人生を持てるようになるのかと言うと、次のような次第です。人間は生まれたままの自然の状態では天の御国の人生は持てない。というのは、創世記に記されているように、神に造られたばかりの最初の人間が神に対して不従順になって罪を持つようになってしまって、人間は神との結びつきを失ってしまったからです。人間の内に宿る罪、それは行為に現れる罪も現れない罪も全部含めて、そうした神の意思に反するようにさせようとする罪が神と人間の間を切り裂いてしまっている。そこで神は、失われてしまった結びつきを回復するために、人間の罪の問題を人間に代わって解決して下さったのです。

どのようにして解決して下さったかと言うと、神は人間に宿る罪を全部ひとり子のイエス様に背負わせて十字架の上に運ばせ、そこで人間に代わって神罰を全部受けさせました。こうして罪の償いがイエス様によってなされました。さらに神は、一度死なれたイエス様を死から復活させて死を超えた永遠の命があることを示し、それまで閉ざされていた天の御国への扉を開きました。そこで人間が、ああ、イエス様はこの私のためにこんなことをして下さったのだ、とわかって、それで彼を救い主と信じて洗礼を受けると罪の償いがその人に覆いかぶさります。神の目から見て償いが済んだ者、つまり罪が赦された者として見てもらえるようになります。罪が赦されたので神との結びつきが回復します。その人は永遠の命と復活の体が待つ神の御国に至る道に置かれて、神との結びつきの中でその守りと導きを得ながらその道を進んでいきます。この世を去ることになっても、復活の日に眠りから目覚めさせられて復活の体を着せられて父なるみ神の御許に永遠に迎え入れられます。このようにしてこの世の人生と天の御国の人生を一緒にした大きな人生を生きることになるのです。

4.この世でのねじれは承知の上。復活の日に解消されればよいのだ。

キリスト信仰者は、永遠の命と復活の体が待っている神の御国に至る道を進んでいます。その彼らが集まって見えない教会を形作っています。それが「キリストの体」ということなのですが、キリストご自身は天の父なるみ神の右に座していて、この世のあらゆる目に見える権力、目に見えない霊的な力全ての上に聳え立ってそれらを足蹴にしています。それらの力は聳え立つキリストに何もなしえない、歯向かえない、完全に負けている。それなのに、キリストの体であるはずの我々はキリストみたいに全ての力の上に立てていないではないか?神の意思に反させようとする力は周りで猛威を振るっている。神に背を向けさせようとする力、人を傷つけようとする力、偽証したり改ざんさせようとする力、妬んだり憎ませようとする力、不倫させようとする力、そうした力の被害者になってしまうだけでなく、それらに加担するようなことも起きてしまう。実は我々はキリストの体なんかではなく、全ての上に聳え立つ力あるキリストから遠く切り離されてしまった者たちではないのか?

ところが、そうではないのです。キリスト信仰者はキリスト信仰者である以上はキリストの体なのです。それならば、どうしていろんな力にいいように攻められなければならないのか?これは、キリストが天の父なるみ神のもとにいるのに対して、私たちがまだこの世に漬かっていることから生じる一種のねじれ現象なのです。キリストが天で我々が下、と言ったら、それはやはり我々がキリストに結びついた体ではなく切り離されているということではないのか?いや、それはやはり結びついているのです。凄まじいねじれがあるのです。

イエス様と私たちの結びつきについて言うと、パウロが教えるように洗礼を受けた者はイエス様の死と復活に結びつけられます(ローマ6章1~11節)。イエス様の死に結びつけられるというのは罪に対して死ぬことです。イエス様の復活に結びつけられるというのは神に対して生きることです。罪に対して死ぬというのは、罪が信仰者と神との結びつきを引き裂こうとしてもその力がない、空振りに終わるということです。どうしてかと言うと、キリスト信仰者が神の意思に反することを思ったり考える罪を犯す時、また不運にも考えに留まらず言葉や行為に出してしまう時、いずれの場合でも、すぐ神に赦しを願い祈ればいいからです。その時、神はすかさず私たちの心の目をゴルゴタの十字架にかかる主に向けさせて言われます。「あの、わが子イエスの犠牲に免じてお前の罪を赦す。もう犯さないように。」十字架が歴史上打ち立てられた以上は罪の赦しはそのまま微動だにせずある。それで私たちと神との結びつきは失われていないことがわかります。この時、私たちは主の犠牲のゆえに恥じる心と感謝の気持ちで一杯になり、そこから謙虚になって落ち着いた者に変えられていきます。いろんな力に攻められ煽られますが、イエス様の死と復活に結びついていれば、全てをかわせてはねのけられます。全てはキリストが全てに勝っていることによるのです。

やがて、戦いに明け暮れた歩みが終わる日が来ます。イエス様が再臨する日です。それは今のこの世が終わりを告げて天と地が新しく創造され直す日です。この世と一緒にこの世のあらゆる力も消滅します。復活の体を着せられて神の御許に迎え入れられる者を攻めたてるものはもうありません。復活者は天のキリストが持っていたのと同じ安泰さを得るのです。ねじれは解消したのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように

アーメン

 

(後注)フィンランド語訳、スウェーデン語訳、ルターのドイツ語訳の聖書を見ても、雲がイエス様を運び去るという訳をしています。英語訳NIVは、イエス様は弟子たちの目の前で上げられて雲が隠してしまった、という訳ですが、雲が隠したのは天に舞い上がった後とは言っていません。新共同訳は「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられた」と言うので、イエス様はまず空高く舞い上がって、それから雲に覆い隠された、という訳です。しかし、原文には「天に」という言葉はありません。それを付け加えてしまったので、天に到達した後に雲が出てくるような印象を与えてしまうと思います。

 

 

聖句と教え「文明の衝突 - あなたはどうする?」神学博士 吉村博明 宣教師、使徒言行録17章22~31節

5月17日(日)復活後第六主日の聖句と教え

聖書の使徒言行録17章22~31節を見る

 

説教題 「文明の衝突 - あなたはどうする?」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.「文明の衝突」?

今お読みしました使徒言行録17章の出来事は、使徒パウロが古代ギリシャのアテネにてイエス・キリストの福音を居並ぶ哲学者たちの前で弁明したという出来事です。これはとても世界史的な重要な出来事だと思います。というのは、この時、二つの異なる文明が衝突して火花を散らしたからです。二つの文明というのは、一つはギリシャ・ヘレニズム文明です。これは、人間の理性の力を信じて万物を理性で推し量ったり説明しようとする哲学的な文明です。それに対するはヘブライズム文明です。これは天地創造の神という万物を司る方が自分のことや自分の意思や計画を人間に啓示するという信仰の文明です。簡単に言うと、ギリシャ・ヘレニズム文明は人間の内部に備わる理性に重きを置く文明、ヘブライズム文明は人間の外部から来る神の啓示に重きを置く文明ということになります。この本質的に異なる二つの文明が正面からぶつかったわけなのですが、興味深いことに、この水と油みたいにお互い相いれないものがいつしか西洋文明の二大底流となって、それを複雑に形作っていくことになります。

ところで、「文明の衝突」などと言うと、1990年代にアメリカのハンティントンという政治学者が出した論文を思い起こす人もいるかもしれません。私も読んだ時は、せっかく冷戦が終わって世界が平和になれると思っていたのに冷や水を浴びせかけられたような思いを持ったことを記憶しています。また欧米諸国が自分たちのヘゲモニーを維持できるためには次はイスラムに注意しろと言っているような印象さえ受けました。しかしながら、それから30年近く経った今、世界は自由や民主主義をものともしない勢力や風潮が欧米の外だけでなくその足元でも強まってしまって、事態はむしろ「文明の衝突」というよりは新しいイデオロギーの衝突ではないかと思われるのですが、どうでしょうか?今次のコロナウイルス問題の解決も含めて、自由と民主主義と市民の健康で文化的な生活を守ることが出来るような国、利己的でなく下心のない国際協調ができるような国に指導的な役割を果たしてもらいたいなどと希望する者です。

話がかなりわき道にそれたので戻ります。ユダヤ人のパウロがギリシャの哲学者たちを前に演説したことが二つの文明の衝突と言うのは、政治的、経済的、軍事的なヘゲモニー争奪戦とは全然違います。知的レベルの衝突です。2000年前の出来事ですが、話の内容は現代の、しかもこの日本を生きる私たちにとっても「生き方」について考えさせるものを含んでいると思われます。それなので、本日はこの出来事の個所の説き明かしをしていこうと思います。

2.神を創り出す人間の文明

 まず、出来事の背景を述べておきます。パウロは二回目の地中海伝道旅行でギリシャのアテネに到達しました。そこに着くまでは行く先々で、イエス様をメシア救世主と受け入れないユダヤ人の妨害や迫害に遭い、アテネへは避難するように着いたのでした。そこはそれまでの町々と違ってユダヤ人の妨害がありませんでした。そのかわりにパウロを困惑させたのは、町中いたるところで金や銀や石でできた神々の像すなわち偶像が溢れかえっていたことでした。いくら異なる宗教の人たちのこととは言え、パウロは偶像崇拝を禁じる旧約聖書の伝統に立つ人ですから、17章16節で言われるように心穏やかでなかったことは言うまでもありません。

パウロはまず、これまでのように現地のユダヤ人の会堂でイエス・キリストの福音を宣べ伝えます。その内容は記されていませんが、イエス様は神が約束されたメシア救い主である、そのことは彼の十字架の死と死からの復活で明らかになった、そういう内容だったのは間違いないでしょう。パウロは伝道旅行をする時は大抵、まずユダヤ人の会堂に行ってナザレのイエスが約束のメシア救世主であると伝えました。ところが、イエス様を受け入れないユダヤ人たちが追いかけるようにやってきては妨害、迫害する。会堂の人たちの多くは背を向けてしまいますが、会堂の外の人たち、つまり異邦人に宣べ伝えると、そちらの方が受けがいいということが起きてくる。パウロの伝道旅行は大体そういう構図でした。

アテネではユダヤ人からの妨害、迫害はなかったかわりにとても大きなことが待っていました。それがまさに、パウロが旧約聖書の伝統と何の関わりもない人たちとその精神世界とに文字通り火花を散らすようにぶつかり合ったという文明の衝突です。本日の個所の少し前に記されていますが、町にはエピキュロス派、ストア派という哲学の学派を信奉する人たちが大勢いました。二つとも古代ギリシャ世界を代表する哲学の学派です。これらの著作を読まないで大学の講義録程度のおおざっぱ知識で申し上げてしまいますが、エピキュロス派というのは簡単に言うと、人間にとって最高の善は幸福である、それはこの世で獲得されなければならない、なぜなら人間は死ねば魂は分解して原子になってしまうから。そういう唯物的な考え方をしていました。言葉は悪いですが、死んでしまえば元も子もない、だからこの世の中ではとことん幸福を追求しよう、ということでしょう。ストア派というのは、森羅万象を支配するものを「神」

とするが、それは人格がなくて心のない法則のようなものである。人間はその法則に従って生きることで道徳的になれる。ただし森羅万象には周期があって大きな火で焼かれては繰り返される。魂は死んだ後も残るが、それは人格のない神のところに行って時期が来たら森羅万象と一緒に焼かれてしまう。なんだか想像を絶する話ですが、これだけ大いなるものに支配されていると観念できれば、本能や欲望を抑えてひんやりと平静に生きていけるかもしれません。

 さて、パウロはユダヤ人の会堂だけでなく、町の広場でもイエス・キリストの福音を宣べ伝えました。そこで前述したような哲学者たちと議論することになったのです。その結果、アレオパゴスというところに連れて行かれ、そこで宣べ伝えていることを弁明することになりました。アレオパゴスとは、もともとは裁判所の機能を果たす市民の代表者の集会場でした。その頃は、いろいろな教えを調査する機能も果たしていました。

パウロはアレオパゴスの真ん中に立って、居並ぶ議員、哲学者の前で話し始めます。二つの異なる文明が火花を散らす瞬間です。ところで先ほど、ギリシャ文明は理性を重んじる哲学的な文明で、パウロが持ち込んできたのは神の啓示を重んじる信仰の文明と申し上げました。そう言うと、あれ、ギリシャ文明には沢山の神々がいたではないか、ゼウスを頂点に、美と愛の女神アフロディテだの、豊穣の神ディオニュソスだの、海の神ポセイドンだの、死者を陰府に導くヘルメス等々、沢山いたではないか?多神教のギリシャ文明も実は信仰の文明ではないか?それがどうやって理性を重んじる哲学的な文明と一緒なのか?詳しいことは専門家に聞かなければなりませんが、大体次のようなことだと思います。これらの神々は人間の思いや願い恐れが結晶して出来たシンボルのようなものです。その意味で人間内部から生み出されたものです。それが人間の外部にあるように置かれて神として崇拝されるのです。そういうわけで、パウロがアテネで遭遇した人間知性の最先端を行く哲学と多神教の神々という二つの異なるものは、実は双方とも人間内部から生み出されたものということになり、同じ範疇に入れても良いものでしょう。

 そこで、私たちの聖書の神ですが、これは人間の思いや願いや感情の結晶、シンボルではありません。神は、完全に人間の外部にあって人間を含む万物を造った方で、人間の理性などで把握できる方ではない、というのが聖書の立場です。

 

3.神に造られた人間の文明

さて、パウロは人間の理性に重きを置く人たちに神の啓示を伝え始めます。まず、アテネの皆さん、あなた方が信仰あつい方であることをわたしは認めます、と言って敬意を表します。お前たちは偶像崇拝ばかりしてどうしようもないやつらだ!というような高飛車な態度ではありません。彼は、ある祭壇に「知られざる神に」という文句が書かれていたことに触れて、それを取っ掛かりにして、自分はその神を知っているのでお教えしましょう、と言って話を始めます。「知られざる神」というのは、ギリシャ人の神々崇拝では前述したような名前と役割の神々がいろいろいるのですが、ひょっとしたらまだ見つかっていない神が他にもいるのではないか(正確に言えば、まだ作りだしていない神がいるのではないか、ということですが)、そういう不確かさがあるために、崇拝し忘れた神がないようにと念のためにそう書いたのです。そういう測り知れない神がいるという認識がギリシャ人にあったことが、パウロにとってちょうどよい取っ掛かりとなりました。

その測り知れない神とは、世界とその中の万物、私たち人間も含めた万物を造られた方である、まさに万物の創造主であり天地の主であるから、人間の手で造った建物なんかに住まないし、また何か足りないものがあるから人間にいろいろ供え物してもらったり世話してもらう必要もない。逆に神こそが人間に必要なもの、命、息吹その他全てのものを与えて下さるのである。そのようにして、神は人間に大事にされるお人形さんみたいではなくなって、私たち人間の方が神に大事にされる、というふうに視点を逆転させていきます。

次にパウロは、神が一人の人間から始めて諸民族を作りだした目的について述べます。神はそれぞれの民族に歴史と居住地域を定めたと言います。ここのところは新共同訳では神は「季節を決め」たとありますが、少し怪しい訳です。ギリシャ語原文は少し複雑ですが、要は神はそれぞれの民族が「どのような歴史をたどるか前もって定めた」という意味です。英語、ドイツ語、フィンランド語、スウェーデン語の聖書も大体そのような訳です。ルター訳はずばり諸民族の存続期間が定められると言っています。

神は何のために諸民族に歴史と場所を与えたのかと言うと、それは、彼らに神を探させるためであった、とパウロは言います。果たしてそれはうまく行ったのか?ギリシャの人たちは神を探しているようで、実は偶像ばっかり作ってしまって全然見つけられていないではないか。新共同訳では、「彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです」となっていますが、探し求めても実際は見いだすことはできていないのです。ギリシャ語原文も新共同訳のような楽観的な意味はないと思います。「もし、手探りをして見つけられるんだったら、やってみよう、という思いで神を探させたが、現実はそう甘くはなかった」というような残念でしたという意味だと思います(後注)。

ところが、神は私たちから遠く離れた方ではない、本当は近くにおられてちゃんと見つけることが出来る方である、見つけられれば、もう偶像など作る必要もなくなるのだ。神が私たちから遠く離れていないというのは、あなたたちの先人の詩人(紀元前300年代の詩人アラトス)も書いているではないか?そのように言うことでパウロは、ギリシャの同胞にも同じことを考えた人がいました、と指摘して、人々の目を天地創造の神に向けさせようとします。問題の詩で言われていることは、「我々は神の中に生き、動き、存在する。我らもその子孫である」ということです。これがギリシャ人も神が近くにいると考えている根拠として言われます。ところが、パウロが神は近くにあると言う意味とギリシャの詩人がそう言うのでは意味内容は全く異なっています。ギリシャの詩人が言っていることは、神は人間界にも自然界にもどこにでも浸透しているように存在するという汎神論の考えを表わしています。

パウロが神は近くにおられるというのは、神は人間一人一人に対して、断ち切れてしまっていた結びつきを回復してあげようと働きかけて下さっている、そういうふうに、人間界、自然界という大きなことはひとまず脇において、一人一人の小さな人間に神が自分から働きかけている、そういう意味で神は近くにおられると言っているのです。神と人間の断ち切れてしまった結びつきを回復させるための神の働きかけとは何か?それは、神のひとり子イエス様がこの結びつきを壊す原因となった人間の罪を全部背負って十字架の上に運び上げ、そこで人間にかわって神の罰を受けられたということ、これが神の働きかけです。神のひとり子が身代わりになって罰を受けたので、人間はそれに免じて罪を赦してもらえ、罪の赦しの中で生きられる可能性が開かれました。そこで、こうしたことをされたイエス様は真に救い主であると信じて洗礼を受ければ、その人は罪の赦しの中で生きられるようになり、罪の赦しを受けたので神との結びつきが回復して、その結びつきの中でこの世を生きられるようになります。神との結びつきがあれば、順境の時も逆境の時も神から絶えず守りと良い導きが得られ、万が一この世を去って眠りにつくことになっても復活の日に目覚めさせられて復活の体を着せられて、造り主の神の御許に永遠に迎え入れられるようになります。このように、神はひとり子イエス様を用いて実現した罪の赦しの救いを全ての人間に向けてどうぞ受け取って下さいと提供している。それで近くにおられるのです。そしてそれを受け取った人は、近くにいるどころが、まさに「その中に生き、動き、存在する」ようになるのです。ギリシャの詩人の詩の中で歌われる神の近さは、このような神からの人間に対する働きかけとそれを受け取ることから生じる近さではありません。近い、近い、と言っても何を根拠に言っているのかわかりません。

このようにパウロと詩人の考えは根本的に違っているのですが、パウロは見かけ上の共通点を切り口にして教え続けます。神の「子孫」ということに関しても、金や銀や石を使って人間の頭で考えて作った像を神にしてしまったら、じゃ人間はこんなものの子孫なのか、こんなものに起源を持つのか、つじつまが合わないではないか!君たちは自分で何を言って何をしているのか自分でもわかっていないのだ、なんと無知なことか!

ここでパウロはたたみかけます。「神はこのような無知な時代を、大目に見て下さいましたが」。つまり、大目に見ることは終わってしまったのである。それを知らせる出来事が起きたのである。何かと言うと、死者の復活という、天地創造の神の力が働かなければ起きないようなことが起きたのである。神は全ての人が「悔い改めるように、と命じておられます」とありますが、この「悔い改める」というのはギリシャ語のメタノエオーです。これの正確な意味は「これまで神に背を向けていた生き方を改めて方向転換して神に立ち返る生き方をする」ということです。なぜ、神に立ち返る生き方をしなければならないか、と言うと、ここから先は旧約聖書の預言の世界に入っていきます。今あるこの世は初めがあったように終わりもある。今ある天と地はかつて神に創造されたものであるが、今の世が終わりを告げる時に神は新しい天と地に創造し直される。その時に死者の復活が起こり、新しい天と地の国に誰が迎え入れられて誰が入れられないかの審判が行われる。まさにそのために方向転換をして神に立ち返る生き方をしなければならない。もちろん、パウロはそこまでは立ち入っていませんが、神がこの世を裁く日を決めたということは旧約聖書の数々の預言に基づいています。預言されたことが本当に起こるということが、一人の者の死からの復活が起きたことで確証が与えられた。そして、その者は最後の審判の日に裁きを司る方である、と。

ここまで耳を傾けてきたアレオパゴスの議員たち、哲学者たちは、どう受け取ったでしょうか?彼らは、旧約聖書の伝統のない人たちです。天と地と人間その他全てを創造した神は、全ての民族の歴史と居住場所を定め、全人類の歴史の流れと常に共にある神である。全人類の歴史とその舞台であるこの世はいつかは終わりを告げ、新しい天と地に取って替わられる。これらのことは考えも想像もつかないことでしょう。これらは全て天地創造の神からの啓示として与えられたものでした。人間の理性で推し測って組み立てた宇宙像とはあまりにも異なっていました。もちろんパウロもその相違を知っていたでしょう。それで、旧約聖書の伝統のない彼らにいきなり、ナザレのイエスはメシア救世主だったと言って始めなかったのでしょう。誰がメシアかと言う問題はむしろ旧約聖書を持つユダヤ人向けのメッセージだったでしょう。それにしても、死者の復活ということがギリシャの哲学者たちにとって一番の躓きの石になったようです。先にも述べたように、エピキュロス派にすれば人間は死ねば魂は原子に分解してしまうのだし、ストア派にしても魂はいつかは燃やされてしまう。加えて、神が人間を罪の支配から救い出そうという意思を持ってひとり子をこの世に送ってそれを実行するというのは、人格を持たない法則のような神からあまりにもかけ離れています。

つまりは、理性の知性を磨きあげた人たちからみて、パウロの教えはあまりにもかけ離れすぎていてまともに受け入れられないものでした。ある人たちが嘲笑ったのも無理はありません。別の者は、いずれまた聞かせてもらうことにしよう、と言いますが、哲学者というのは疑問や関心があれば日が暮れるまでとことん議論し合う人たちです。そうしないでこう言ったのは、もうこれで十分、お引き取り下さい、ということを丁寧に述べたのではないかとも受け取れます。人々は席を立ちました。パウロも恐らく、今日のところはこれ以上何を言っても無駄と思ったかもしれません。

4.あなたはどうする?

ところが、そうではなかったのです。何人かの人がパウロの後について行きました。ついて行った人たちの中で信仰に入った者が出たのです。信仰に入るというのは、イエス様を救い主と信じることですから、アレオパゴスを出て行った後で、パウロからさらに教えを聞いて、イエス様のことを聞いたのです。彼らがアレオパゴスでのパウロの話を聞いて、どのようにして、もっと聞いてみようと思うようになったのか、それについては何も記されていません。ただ、背景全体から考えると、次のようなことではないかと思います。よくお聞き下さい。

これまでずっと何かおかしいと思いつつも、何がどうおかしいのか、はっきりさせようにも、伝統の重みとか、知識人の言葉の重みとかに遮られて明確にできないでいた。例えば、自分たちが神に起源を持つと言いながら偶像を造って崇拝することの矛盾。そして、死んだら全て消滅してしまうとか、冷徹な法則の一部分のようにしか生きられないのなら、この世で生きる意味と目的は本当にあるのか?それが、パウロの教えから「知られざる神」が天と地と人間を創造した神であり、人間に向かって私を見出しなさいと働きかける神であるということ、そして、この世を去っても消滅しない命があり、その命を生きられる世が来ること、それが本当に起こることの確証として一人の者が死から復活させられたということを聞かせれる。では、その者とは誰なのか?ここまで来たら、あとはイエス様がメシア救い主であるという福音を聞くことだけです。この福音を聞いた時、天地創造の神は約束されたことを守り、それを必ず実現される方であるとわかったでしょう。不確かさと変転極まりないこの世にあって、信頼して絶対に大丈夫な方がおられるというのは、何と励まされ勇気づけられることでしょうか!

兄弟姉妹の皆さん、私たちも聖書の御言葉を通して同じ信頼を持つことができ、同じ励ましと勇気が与えられます。そのことを忘れないようにしましょう!

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

 

(後注)動詞ψηλαφησειανとευροιενのアオリスト・オパティヴの意味をよく考えなければなりません。ドイツ語も突き放した感じの訳だと思います。英語、スウェーデン語、フィンランド語は「多分、見つけることができるかもしれない」と見つけられる可能性に踏み込んでいます。

5月10日(日)復活節第4主日 聖句と教え「神よ、我を統(す)べたまえ、我、おのが務めを果たすべし」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書14章1~14

 

2020年5月10日 復活後第四主日「聖句と教え」

使徒言行録7章55-60節、第一ペトロ2章2-10節、ヨハネ14章1-14節

説教題 「神よ、我を統(す)べたまえ、我、おのが務めを果たすべし」」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

本日の福音書の箇所は、イエス様が十字架刑にかけられる前夜、弟子たちと最後の晩餐を共にした時の教えです。初めに、「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしを信じなさい」と命じられます。「心を騒がせるな」とは、この時、弟子たちが大きな不安を抱き始めたために、イエス様が述べた言葉です。弟子たちはどうして不安を抱いたのでしょうか?

弟子たちにとってイエス様はユダヤ民族の期待のヒーローでした。無数の不治の病の人を癒し、多くの人から悪霊を追い出し、嵐のような自然の猛威も静め、わずかな食糧で大勢の人の空腹を満たしたりするなど無数の奇跡の業を行って、誰が見ても天地創造の神が彼と共にいることがわかりました。また、創造主の神の意思について人々に正確に教え、ユダヤ教社会の宗教エリートたちの誤りをことごとく論破しました。弟子たちも群衆も、この方こそユダヤ民族を他民族の支配から解放してかつてのダビデの王国を再興する本当のユダヤの王と信じていました。そうして民族の首都エルサレムに乗り込んできたのです。人々は、いよいよ民族解放と神の栄光の顕現の日が近づいたと期待に胸を膨らませました。ところが、イエス様は突然、自分はお前たちのところを去っていく、自分が行くところにお前たちは来ることができない、などと言い始めたのです(ヨハネ13章33、36節)。これには弟子たちも面喰いました。イエス様が王座につけば直近の弟子である自分たちは何がしかの高い位につけると思っていたのに突然、自分は誰もついて来ることができない所に行くなどと言われる。それではダビデの王国はどうなってしまうのか?イエス様がいなくなってしまったら、取り残された自分たちはどうなってしまうのか?ただでさえ、イエス様は支配者層やエリートたちの反感を買っているのに、彼がいなくなってしまったら自分たちは弾圧されてしまうではないか?こうして弟子たちは不安に襲われて心が騒ぎ出したのでした。そこで、イエス様は「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と命じたのです。この世で敵に囲まれるように取り残されてしまう弟子たちが心を騒がせないで済むようにイエス様は教えていきます。その教えは現代を生きる私たちにも大事なものです。以下にそれについてみていきましょう。

2.

イエス様は、天の父なるみ神のもとに行って、そこで弟子たちのために場所を用意し、その後また戻ってきて弟子たちをそこに迎えると言われます。「神のもとに行く」というのは、死から復活して復活の体を持つイエス様がいるのに相応しい場所、すなわち天のみ神のもとに帰ることを意味します。「また戻ってくる」というのはイエス様が再臨する日のことです。それは、聖書の観点では今のこの世が終わって新たに創造される天と地のもとで新しい世が始まる時のことです。この時、死者の復活が一斉に起こり、神の目に義と見なされる者たちが見出されて父なるみ神の御許に迎え入れられます。

これら全てのことの初めにイエス様の死からの復活があるのですが、復活があるということはイエス様が死んだということが前提にあります。これらの出来事が一体何なのかは、神のひとり子であるイエス様がどうして死ななければならなかったのかがわかるとわかります。

まず、イエス様が十字架に掛けられて死なれたことで人間と神の間を引き裂こうとする力が消えました。人間と神の間を引き裂くものを「罪」と言います。その罪の力が十字架の出来事で消えたのです。どうしてかと言うと、罪のために本当だったら人間が神から受ける神罰を彼が代わりに引き受けて下さったのです。それで今度は人間の方が、イエス様は本当に身代わりになって死なれたのだとわかって彼を救い主と信じて洗礼を受けると、神は「わが子イエスの犠牲に免じてお前の罪を赦す」と言って、その人の罪を赦します。そのようにして創世記の堕罪以来失われていた神と人間の結びつきが回復します。もちろん人間はキリスト信仰者になっても、まだ肉をまとって生き続けますから、罪は内に残っています。力を失ったくせに隙を狙っては弱いところを突いてきます。そのような時、キリスト信仰者は次のように自分に言い聞かせます。今の自分は神のひとり子の犠牲の上に成り立っている、神はひとり子を犠牲に供するくらいにこの自分を大事なものと見て下さった、だからそれに相応しい生き方をしよう、神の犠牲を汚すようなことはしないのだ、と。そのように神に立ち返る人に対して神はイエス様の犠牲に免じて罪の赦しをお恵みのようにいつも与えて下さいます。その人は神との結びつきを持てて生きていけるのです。

十字架の出来事に加えて、神はイエス様を死から復活させられました。これによって、死を超える永遠の命に至る道が人間に開かれました。こうしてイエス様を救い主と信じて日々罪の赦しの恵みの中に留まる者は復活の日の永遠の命に至る道に置かれて、その道を神に守られて進んでいきます。この恵みに留まる限り、罪も死も悪魔もその人を邪魔することはできません。このように、ひとり子イエス様を用いて私たちを罪と死の支配から解放して下さり、永遠の命に至る道に置いて歩ませて下さる父なるみ神は永遠にほめたたえられますように。

イエス様はまた戻って来ると言われた後で、「お前たちはわたしが行こうとしている場所に通じる道を知っているのだ」と言われます(4節)。それに対してトマスが当惑して言い返します。あなたがどこへ行くのかわかりません。それなので、そこに至る道というのもわかりません。行先が分からなければ道なんかもわかりません。もっともなことです。これに対してイエス様は次の有名な言葉を述べます。

「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(6節)。これで、イエス様がこれから行こうとしている場所は、天の父なるみ神がおられるところ、すなわち天と地と人間を造られ人間一人一人に命と人生を与えられた創造主の神がおられるところであることが明らかになりました。そして、イエス様自身がその父なるみ神のもとに至る道であると言うのです。彼を介さなければ、だれも神のもとに行くことはできないという位、イエス様は創造主のもとに至る唯一の道なのです。唯一の道ということは、ギリシャ語の原文でもはっきりしていて、道、真理、命という言葉全部に定冠詞がついています(η οδος, η αληθεια, η ζωη 英語やドイツ語の訳も同様で、the way, the truth, the life、der Weg, die Wahrheit, das Lebenと言っています)。定冠詞がつくと、イエス様は道の決定版、真理の決定版、命の決定版という意味になります。いくつかある道の中の一つということでなくなり、この道を通らないと創造主のもとに行けないという唯一の道になります。

こういうことを言うと、宗教の業界では煙たがれるでしょう。ああ、キリスト教は独り勝ちでいたがる独りよがりな宗教だなど、と。ところで最近よく聞かれる考え方にこういうのがあります。天国でも極楽浄土でもなんでもいいが、この世から死んだあと何か至福の状態があるとすれば、そこに至る道はいろいろあっていいのだ、それぞれの宗教がそれぞれの道を持っているが到達点はみな同じなのだ、という考え方です。キリスト教の中にもそのように考える人がいます。しかしながら、神の言葉とされる聖書に神のひとり子の言葉としてある以上は、煙たがれようがなんだろうが御言葉を水で薄めるようなことはしないで、そのままの濃度で保つべきではないかと考えます。それに、同じ到達点と言っているものは本当に同じなのかどうか考えてみなければならないと思います。諸宗教が目指す至福は果たしてみんな同じものでしょうか?キリスト教の至福について今回は立ち入りませんが、次の4点は覚えておくべきでしょう。第一に、今の世が終わって新しい世が来るという終末論があること、第二に、「復活の体」という新しい世に対応する有り様があること、第三に、最後の審判というのがあり、この世での正義の問題にしっかり目が向けられていること、第四は、イエス様を救い主と信じる信仰に生きると、この世の段階で至福との繋がりが出来ているということ、以上です。

イエス様は道以外にも、自分は真理の決定版、命の決定版であると言われます。真理の決定版というのは次のような意味です。人間と造り主との結びつきが失われた原因は罪である。罪は人間が神の意思に反するように持っていこうとする。そこで神はひとり子の犠牲によってその力を無にした。こうした人間の罪ある状態と神の人間に対する愛と憐み、この二つが否定できない真理になっています。この神の憐れみと愛を実行に移したイエス様は真理そのものなのです。

命の決定版ということについて。イエス様が「命」とか「生きる」ということを言われる場合、いつもそれは今のこの世の人生のことだけでなく、今の世が終わった後に始まる次の世の人生も一緒にした、とてつもなく広大な人生を「生きる」「命」を意味します。死から復活させられたイエス様はまさにその広大な人生を生きる命を持つ方です。そればかりではありません。彼を救い主と信じる者たちにも同じ広大な人生を生きる命を与えて下さいます。それで、イエス様は命の決定版なのです。

3.

7節でイエス様は、「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる」と言われます。イエス様を知ることは、父なるみ神も知ることになる。イエス様を見ることは、父なるみ神を見ることと同じである。それくらい、御子と父は一緒の存在であるということが、7節から11節まで強調されます。そう言われてもフィリポにはピンときませんでした。イエス様を目で見ても、やはり父なるみ神をこの目で見ない限り、神を見たことにはならない、と彼は思いました。つまり、イエス様と父なるみ神は一緒の存在であるということがまだ信じられないのです。これは、十字架と復活の出来事が起きる前は無理もなかったでしょう。十字架と復活の出来事の後、弟子たちはイエス様が真に天の父なるみ神から送られた神のひとり子であったとわかります。さらに、イエス様は父の人間に対する愛と憐みを実行に移すために自分を犠牲にするのを厭わなかったこともわかりました。それくらい御子は父に従順だった、彼が教え行ったことは全て父が教え行ったことであった、彼が自分から好き勝手に教えたり行ったのではなかったのだ、ということもわかったのです。

12節でイエス様は、「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである」と言われます。これは、ちょっとわかりにくいです。イエス様を信じる者がイエス様が行った業よりももっと大きな業を行うとは、一体どんな業なのか、まさかイエス様が多くの不治の病の人を完治した以上のことをするのか?自然の猛威を静める以上のことをするのか?しかも、信じる者が大きな業を行うことが、イエス様が天のみ神のもとへ行くこととどう関係があるのか?

弟子たちがイエス様の行う業を行うと言う時、まず、イエス様がなしたことと弟子たちがなしたことを並べて見てみるとわかります。イエス様は、人間が神との結びつきを回復して永遠の命に至る道に乗せてあげる可能性を開いた。これに対して弟子たちは、この福音を人々に宣べ伝えて洗礼を授けることで人々がこの可能性を自分のものとすることができるようにした。イエス様は可能性を開き、弟子たちはそれを現実化していったのです。しかし、両者とも、人間が神との結びつきを回復して永遠の命に至る道に乗せてあげられるようにするという点では同じ業を行っているのです。

さらに、弟子たちの場合は活動範囲がイエス様の時よりも急速に広がりました。イエス様が活動したのはユダヤ、ガリラヤ地方が中心でしたが、それが弟子たちが遠く離れたところにまで出向いて行ったおかげで救われた者の群れはどんどん大きくなっていきました。その意味で、弟子たちはイエス様の業よりも大きな業を行うことになると言えるのです。この弟子たちの活動はイエス様が天に上げられた後で本格化します。イエス様は自分が天の父のもとに戻ったら、今度は神の霊である聖霊を地上に送ると約束していました(ヨハネ14ー16章)。聖霊は福音が宣べ伝えられる場所ならどこででも働かれ、人間が罪に囚われた状態にあることと、そこから解放する神の愛と憐れみについて人々が気づけるように導きます。このようにイエス様が天の父のもとに戻って、かわりに聖霊が送られてきて、その働きに支えられて弟子たちが伝道して群れがどんどん大きくなっていったのです。

イエス様は13節と14節で、わたしの名によって願うことは何でもかなえてあげよう、と言われます。これを読んで、自分は金持ちになりたい、有名になりたい、とイエス様の名によって願ったら、その通りになると信じる能天気な人はまずいないでしょう。イエス様の名によって願う以上は、願うことの内容は父なるみ神の意思に沿うものでなければならない、利己的な願いは聞き入れられないばかりか神の怒りを招いてしまうとわかります。神との結びつきを持てて永遠の命に至る道を進む者が願うことと言えば、いろいろあるかもしれませんが、結局のところは「この結びつきがしっかり保たれて道の歩みがしっかりできますように」ということに行きつくのではないかと思います。同時に、まだ結びつきを持てておらず永遠の命の道への歩みも始まっていない隣人のために「始まりますように」という願い祈りも切実なものになると思います。イエス様がその通りにしてあげようと約束された以上は、たとえ何年何十年かかってもそれを信じて願い続け祈り続けなければなりません。キリスト信仰者の重要な任務です。

4.

以上、本日の福音書の箇所を駆け足で見てきました。最初に述べた問題に戻りましょう。イエス様が天のみ神のもとに戻ってしまったら、弟子たちはこの世で敵に囲まれるように取り残されてしまうことになる。それでも心を騒がせないで済むのだということをイエス様は教えられました。何を根拠にそうなれるのでしょうか?まず、イエス様を救い主と信じる信仰によって自分は父なるみ神との結びつきを持てた、そして永遠の命に至る道に置かれて今その道を進んでいるのだ、という救いの確信があります。それに加えて、自分がこの道を歩めるために、また他の人も歩めるようになるために願い祈ることはなんでも主は聞き入れてかなえて下さると約束された、これもキリスト信仰者にとって励ましと慰めになります。心を騒がせる必要はなくなります。

先ほど申しましたように、ヨハネ14章7~11節では父と御子が一緒の存在であることが強調されていました。宗教改革のルターは、そのことがわかると私たちの心は平安になり、全てのことは神の御心のままに起こってよいという心意気になるということを教えています。次のような教えです。

「主イエスは、自分を知れば自分をこの世に遣わした父も知ることができると言われた。どうしてそのようなことが可能なのだろうか?それは、こういうことである。君は、御自身の命を投げ打ってまで君に仕えたイエス様が神そのものであると知った時、イエス様は実は父が与えた務めを果たしたにすぎないということがわかる。その時、君の魂は、務めを果たした御子を経由してその務めを与えた父へと高められる。こうして君の心は父なるみ神への信頼で溢れ、神が本当に君の愛すべき父になる。

父なるみ神をこのように知ることができたら、君は全てのことは神の御心のままに起こってよいと、神の決定権を受け入れられるようになる。なぜなら父なるみ神は君にとって全てになっているからだ。この時、君の心は神の住む場所になって全てのことを静かに受け入れられる、へりくだった心に変わる。まさに、主イエスが自分を愛する者のところに父と一緒に行き、父と一緒にそこに住むと言われたことが実現するのである。

我々は神の栄光、力そして知恵を知りうる域に達しなければならない。そこに達した時、我々は神が我々に関する全てのことを決定するのを受け入れられるようになるし、また、全てのことは神の業であるということもわかる。そうなれば、我々はもう何も恐れるものはなくなる。寒さ、空腹、地獄、死、悪魔、貧乏その他これらに類するものを恐れなくなる。なぜなら、我々の内に住む神は、悪魔、死そして地獄の力の総和よりも勝っているとわかっているからである。このようにして我々の内に、この世の全てのことに立ち向かう勇気が育っていく。我々には神がついておられるので、その栄光と力と知恵に与ることが出来る。それなので、あとは何をも恐れずに自分たちに課せられた務めをしっかり果たしていくだけなのである。」

以上がルターの教えでした。キリスト信仰者にはそれぞれ神から与えられた務めがあります。仕事がある人はそれが務めであり、ない人はそれを探し求めることが務めであり、家族や他に世話をしたり助けたりする人があれば、世話をしたり助けるのが務めであり、病気の人は健康になることが務めです。人によっては複数の務めを同時に担う人もいます。いずれにしても務めは置かれた立場や状況や時によって変わります。しかし、違いや変化はあっても務めの果たし方にはいつも共通点があります。それは、神の意思に従って正しく果たすということです。「神の意思に従って正しく」務めを果たすというのは、大きく言えば、神を全身全霊で愛しながら果たし、隣人を自分を愛するが如く愛しながら果たすということです。細かいことは十戒を見るとわかります。務めを果たす時は、例えば人を傷つけたりしないで果たす、嘘をついたり偽証したり改ざんしたりしないで果たす、不倫などしないで果たすということです。キリスト信仰でこういう神の意思に従うということにこだわるのは、神がこわいからそうするのではありません。そうではなくて、神が大きな代償を払ってまでこの自分を大事に受け入れて下さったので、そうするのが当然というにすぎないのです。

神よ、我を統べたまえ。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

5月3日 復活節第3主日 聖句と教え「羊の希望」マルッティ・ポウッカ 牧師、ヨハネによる福音書 10章1〜10節、歌 フルート演奏

復活節第三主日「聖句と教え」
説教 歌 フルート演奏 マルッティ・ポウッカ 牧師
聖書朗読 パイヴィ・ポウッカ 宣教師

 

 

 

 

 

 

 

聖句と教え「キリスト信仰者よ、心は燃えているか」神学博士 吉村博明 宣教師、ルカによる福音書24章13~35節

主日礼拝説教 2020年4月26日 復活後第二主日

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.死に支配された世界から死に打ち勝った世界への引越し

 本日の福音書の個所は、イエス様が復活された日の出来事の一つです。その日の朝、イエス様の墓に行った女性たちが墓の前に置かれた大きな石がどかされて中が空っぽなのを目撃しました。さらに天使が現れてイエス様が復活されたことを告げ知らせました。女性たちの報告を聞いたペテロたちが墓を見に行くと本当に空っぽでした。その後で復活されたイエス様が弟子たちの前に姿を現し始めます。本日の個所の出来事は同じ日の夕刻に起きたものです。

 二人の弟子がエルサレムからエマオという村に向かっていました。そこに突然イエス様が合流しました。弟子たちはどういうわけかそれがイエス様と気づかず、一緒に歩き出します。道中イエス様に旧約聖書について教えられて、その晩滞在した家でイエス様だと気づいた時に姿が消えてしまったという話です。これは日本人の多くには怪談話に聞こえるのではないでしょうか?以前の説教でもお話ししましたが、この話はキリスト信仰者には全く怪談話に聞こえません。なぜかと言うと、信仰者はこの出来事を復活という視点を持って聞くからです。復活とは死に対する勝利です。怪談話には、復活の視点もなく死に対する勝利もありません。それは死に負けて死と死者とに支配されている世界の話です。キリスト信仰者というのは、死に支配された世界から死に打ち勝った世界に引っ越ししてしまったので、本日の個所をはじめ他の復活に関わる出来事を聞いても全然不気味に感じません。逆に大きな希望を抱かせる出来事に聞こえます。キリスト信仰者でない人でも、もしそのように聞こえてきたら、それは死に打ち勝った世界に引っ越しする見込みが出てきたということです。

 それでは人間はどうしたら死に支配された世界から死に打ち勝った世界に引っ越しできるのでしょうか?これも以前お教えしたことですが、少しおさらいしておきます。

 復活とは死に対する勝利です。死に対する勝利とはどういうことか?聖書は次のように教えます。たとえこの世から去ることになっても、将来、復活の日というのがあり、その時に復活の体を着せられて永遠の命を持てて、造り主の神のもとに永遠に迎え入れられる。そして、同じように復活させられた人たちと再会するということです。人間がこのように復活の日に復活できるために神はイエス様をこの世に贈って一つの使命を果たさせました。それは、イエス様が十字架にかけられて死を遂げたことで、私たち人間が持っている罪の神罰を全部代わりに受けてくれたということです。イエス様が私たちに代わって罪の償いを全部神に対して果たして下さったのです。そこで人間がこれは本当に自分のために起こった、だからイエス様は救い主だと信じて洗礼を受けると、イエス様が果たした罪の償いがその人の内になだれ込んできます。その人は罪を償ってもらったので、神から罪を赦された者として見てもらえます。それでその人は神との結びつきを持ってこの世を生きるようになります。その人は復活の日の永遠の命と再会が待っている神の国に向かう道に置かれて、その道を神との結びつきを持って進んでいきます。

 人間が罪の償いと赦しを受けると、罪は以前のように人間を神の前で有罪者にしようとしても出来なくなりました。神のひとり子が果たしてくれた償いはそれくらい完璧なものだからです。罪は破綻してしまいました。それでも罪はまだ力があるかのように見せかけて、キリスト信仰者の隙や弱いところを突いてきます。不意を突かれてしまう信仰者もいます。しかし、神に罪の赦しを祈れば、神は私たちの心の目を十字架につけられたイエス様に向けさせ、罪の赦しは微動だにせずちゃんとあると気づかせて下さいます。その時、私たちは、これからはもう神のひとり子の犠牲を汚さないように生きよう、罪を犯さないようにしようと心を新たにします。このようにキリスト信仰者の人生は絶えず十字架の下に戻ることを繰り返しながら、洗礼の時に新しく生きることになった新しい命を大事にしていこうとする人生です。そして最後は、復活の日に神の栄光を受けて光り輝きます。

 イエス様を救い主と信じて洗礼を受ける者に対して罪はこのように破綻しています。罪が破綻している人に対しては死も力を失っています。なにしろ、その人は死を超えた永遠の命に向かう道を神に守られて進んでいるのですから。人間が罪の償いと赦しの中に留っている限り、死はその人に何もなしえません。もう死に支配される世界にいません。死に打ち勝った世界に引っ越したのです!使徒パウロは第一コリント15章20節で「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」と言っています。実にキリスト信仰者にとってこの世を去る死とは、復活の日に目覚めさせられるまでの特別なひと眠りに変わってしまったのです!イエス様は死んだ人を生き返らせる奇跡を行いました。それは復活ではなく蘇生だったのですが、彼が将来死者を復活させる力があることを前もって具体的に示す奇跡でした。その時彼が死んだ人のことを「眠っている」と言って生き返らせたのは象徴的です。

2.イエス様の霊的な臨在

次に、復活して天に上げられたイエス様が今どのように臨在されるのかということについて。マタイ28章20節でイエス様は「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言われたのに、天に上げられてしまったらどうなるの?と心配になります。でも心配には及びません。「共にいる」というのは、体を伴った臨在ではなく、体を伴わない霊的な臨在です。イエス様からすれば霊的な臨在は現実にあるものですが、私たちからすればそれが現実にあるものか確かではありません。しかし、「お前がどう感じようが、それは確かな現実なのだ思い知れ」というものがあります。洗礼と聖餐です。これらを受けたら霊的な臨在はお前たちの目には確かでなくても神の目から見て確かなものになるのだ、というものです。洗礼や聖餐というのはそれ位すごいことなのです。だから神聖な儀式なのです。洗礼と聖餐に加えて、聖書の御言葉を読み聞くこともイエス様の霊的な臨在を現実のものにします。ただし、臨在を現実にする読み方聞き方があります。そうでない読み方聞き方もあります。そのことを本日の福音書の個所は教えています。それについて見ていきます。

イエス様の臨在を現実のものにする聖書の読み方聞き方とは一体どんな読み方聞き方なのか?このことも以前お教えしましたが、振り返ってみます。どうして二人の弟子はイエス様のことをすぐ気がつかなかったのか、それがどのようにして気づくようになったのか、このプロセスを見ていくとわかってきます。

二人の弟子の前にイエス様が現れた時、「二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」(ルカ24章16節)とあります。「遮られて」というのはギリシャ語原文では受け身の形です。新約聖書のギリシャ語の特徴の一つですが、受け身の文で「~によって」という動作の主体がない場合は多くは神が隠れた主体になります。「神によって」が省略されているということです。そうすると神が二人の目を遮ったことになります。これは全く不可解なことです。なぜ神は、ただでさえ復活の体を纏うイエス様は気づきにくいのにわざわざ目を遮ってもっと確認しにくくする必要があるのか?マグダラのマリアの場合、最初気づかなくても、イエス様の「マリア」という呼び掛けで気がつきました。エマオの道では、話声をずっと聞いているのにそれでも気づかない。神はなんでそんな意地悪をするのか?

神が何らかの目的をもって人間の心を鈍らせて目を曇らせるというのは実は、旧約聖書、新約聖書を貫いてある難しいテーマの一つです。これを取り上げてお話しすると一回や二回の説教では足りないのでここでは立ち入りません。このエマオの道の出来事に焦点をあてて見ていくことにします。

神はなぜ二人の弟子の目を遮ったのでしょうか?ここで逆に考えてみましょう。もし、神が二人の目を遮らないで、二人はすぐにか、またはマリアのように声をかけられてイエス様とわかったとします。そうしたら、その後で起こったことは起こらなくなります。その後で起こったこととは何でしょうか?それは、弟子たちが旧約聖書を正確に理解していないことが暴露されて、それをイエス様に正されたということです。もしすぐイエス様とわかって再会を喜び合ってめでたしめでたしになってしまったら、弟子たちの旧約理解は訂正されずそのままだったでしょう。

それでは、弟子たちの旧約理解の何が問題だったのでしょうか?彼らは、イエス様のことを「預言者」だったと言い、「あの方こそイスラエルを解放して下さると望みをかけていた」と言います。つまり彼らにとって、イエス様というのは、奇跡の業と神の権威を感じさせる教えをした偉大な預言者で、イスラエルを占領者ローマ帝国から解放してくれる民族の英雄だったのです。それが十字架につけられて処刑されてしまったので民族の悲願は水泡に帰してしまったのでした。

十字架と復活の出来事が起きる前は、このようなイエス理解は一般的でした。弟子たちの間でもそうでした。ところが、旧約聖書にあるメシア預言はそういう一民族の独立・解放についてではなかったのです。天地創造の神の計画は人類全体にかかわるものだったのです。メシアとは民族の英雄ではなく文字通り全ての人間の救世主だったのです。預言がそのように理解されなかったのは、それはユダヤ民族の辿った歴史からすればやむを得ないことでした。イエス様が処刑されてしまい、弟子たちはこれで万事休すと思ってしまいました。ところが、その後で彼らにとって想定外のことが起こりました。処刑されて葬られたあの方の遺体が墓になかったのです。これは一体なんなのか?エマオの道で二人の弟子たちはこのことを話し合っていたのでした。

合流したイエス様は旧約聖書をもとにメシアの正しい意味を教えていきます。一民族の他民族支配からの解放物語ではない、人類を罪と死から解放する者である、と。それまでの旧約聖書の理解が塗り替えられていきます。同じ文章なのに違う意味が輝きだします。エルサレムからエマオまで約11㎞、話しながら歩いたら3時間位でしょうか、その間どんな教えが述べられたのかは本日の個所に記されていないのでわかりません。それでも、あのイザヤ書53章の、人間の罪を神に対して償うために自らを死の苦しみに委ねる「主の僕」の預言は間違いなくあったでしょう。ここで少し話がそれますが、フィンランドで7年ほど前に「旧約聖書におけるキリスト」という本が出されました(後注1)。20人近い神学者による共著で500ページ位あります。このように旧約聖書にイエス様を見出すというのは一ヵ所や二か所の聖句では済まないことなのです。かと思えばその本が出る2年前にはラートというフィンランドの世界的に著名な旧約釈義学の教授が「詩篇におけるキリスト」という本を出しています(後注2)。詩篇だけに限定しているのに400ページあります。宗教改革のルターは旧約聖書を読む時はキリストを見出すように読むべしと教えていますが、さすがルター派の国の神学者たちです(正確に言えば、これらの著者たちはルター派の中でも保守的な人たちです)。

話をもとに戻します。イエス様の説き明かしを聞いているうちに、弟子たちの絶望と失望が消えていきました。旧約聖書の新しい意味と空の墓と「復活された」という天使の言葉が結びつきました。二人の弟子が後で述懐しているように、イエス様の教えを聞いていた二人の心は燃えていました。この「心が燃える」ということについては後で見ていきます。

面白いことに、この段階でも彼らはまだイエス様と気づきません。神はまだ彼らの目を遮っているのです。どうしてなのでしょうか?イエス様がパンを裂いて渡した時に「二人の目が開け、」イエスだと分かりました(24章31節)。日本語訳で「目が開け」と言っているのはギリシャ語原文では「開かれた」と受け身の形です。つまり「神によって」開かれたのです。神はどうしてパンを裂く時になってやっと彼らの目を開いて気づくようにしてあげたのでしょうか?しかも気づいた瞬間イエス様の姿はありませんでした。意地悪をしているのでしょうか?いいえ、そうではありません。これは、聖書の御言葉を正しく聞くことと聖餐式を受けることがあれば体の臨在がなくても霊的な臨在があるということを言っているのです。体の臨在がなくても物足りないということにはならないのです。見て下さい、イエス様の姿が消えた時、弟子たちにはがっかりした様子は全くありませんでした。御言葉と聖餐でイエス様の臨在が現実のものなったのです。

3.キリスト信仰者の心は燃えている

最後に、二人の弟子が道中、イエス様の旧約聖書の説き明かしを聞いていた時、心が燃えていたというのはどういうことか見てみます。「心が燃える」と聞くと、何か、気分が高揚している状態、元気一杯でやる気に満ちた状態、または感動、感激している状態などが頭に浮かぶでしょう。本説教では、私たちが感じたり経験したことを出発点にして弟子たちの「心の燃え」に迫っていくことはしません。そうではなく、御言葉だけを手掛かりにして弟子たちの心の状態に迫ってみようと思います。私たちが感じたこと経験したことを聖書に注入して聖書が分かったと言うのではなく、聖書の方から私たちに語ってもらうことに徹します。

「燃える」と言うのはギリシャ語のカイオーκαιωという動詞です。意味は新約聖書の中では「明かりを灯す」という意味(マタイ5章15節、ルカ12章35節、ヨハネ5章35節)と「燃やす」という意味(ヨハネ15章6節、第一コリント13章3節)で使われています。これが「心」と結びつけて言われるのは本日の個所以外には今のところ確認できませんでした。日本語の「心が燃える」に比べたらあまり普通の言い方ではなさそうです。それなので、「明かりを灯す」と「燃やす」の意味を念頭において考えてみることにします(後注3)。その場合、「心が燃える」というのは、心を枯れ枝みたいに燃やしてしまうことではなく、心に明かりが灯った状態を言うのでしょう。それでも「燃える」意味も付随していると考えると、光と一緒に熱さ温かさがあるということでしょう。そうすると「心が燃える」というのは、それまで光が見えない、暗闇の中だったのが光が見える状態になったことと、冷え切って寒々とした状態だったのが熱さ温かさを感じるようになった両方の変化が含まれます。これが弟子たちの心に起きた変化だったということになります。

彼らはユダヤ民族の他の人たちのようにイエス様が民族をローマ帝国の支配から解放して神の国をこの地上に実現する王と信じて付き従っていました。ところが全ては見事に失敗しました。あれだけ熱狂と期待を持って付き従い、自分たちの人生をかけて付き従ったのに裏切られてしまいました。そればかりか、これからはローマ帝国当局やそれに取り入る支配層の目を逃れていかなければなりません。目の前は真っ暗になってしまいました。全ては無意味だった無駄だったとあざ笑う冷酷な宣告が重くのしかかっています。

それが、突然現れた男が旧約聖書の預言について、あれは民族の解放について言っているのではない、全ての人間の根本的な解放、罪と死からの解放について言っているのだ、神の送る僕が苦しんで死ぬことが言われていたのは、それが行われたのだ、しかも僕の死で全てが終わらないことも言われていたではないか、僕が死の中で朽ち果てることはないと言われていたではないか、だから墓は空だったのだ、まだわからないのか?

このようにして、弟子たちがイエス様と共にいた日々に見聞きしたこと全てが動かぬ証拠となって旧約聖書の理解が次々と塗り替えられていったのです。同じ文章なのに違う意味が輝きだします。失敗だったと思っていたものは失敗でも何でもなかった、期待外れと思っていたのもそもそも的外れな期待を抱いていただけなので期待外れなどない、無意味、無駄ということも、的外れなことに意味を求めていただけで、今となっては無意味、無駄ということは何もないということが分かってきました。全てが覆されて、暗闇しか見えなかったのが光を目の前にしています。「全ては無意味だった無駄だった」という冷酷な宣告は氷が融けるように消えました。これが弟子たちの「心が燃えた」ことです。目の前に光があり、冷酷な宣告から解放されたのです。

主にある兄弟姉妹の皆さん、私たちも同じように「心を燃え」させることができます。暗闇の中にいず光を見、「全ては無意味だった無駄だった」という冷酷な宣告を焼き尽くすことができるのです。なぜならキリスト信仰者は、およそ神の意思に沿うようにしようとして行ったものは、たとえ結果が思うようなものにならなくても、神の目から見たら無駄でも無意味でもなんでもないということを知っているからです。どうして知っているかと言うと、それが聖書の観点だからです。聖書の中で神は、復活の日に御許に迎え入れられた者たちの目から涙を全て拭われると約束しています。黙示録7章17節と21章4節です。旧約の預言書イザヤ書24章8節とエレミア書31章16節でも言われています。この涙は痛みや苦しみの涙だけでなく無念の涙も全部含まれています。

弟子たちは、イエス様が救世主とわかって光を見、無意味・無駄だったことは何もないとわかりました。心が燃えました。そのイエス様を救い主と信じる私たちは、彼のおかげで神との結びつきを持てて今、復活の体と永遠の命が待っている神の国に向かって進んでいます。この世で神の意思に沿おうと正しく立ち振る舞おうとしたら涙をこぼすことになるのは承知の上です。しかし、この道を行く以上は、それを全て拭ってもらえる日が来ることも知っています。だから、私たちは暗闇の中にいず光を見ています。無意味、無駄なことは何もないとわかっています。心が燃えているのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。
アーメン

 

(後注1)”Kristus Vanhassa Testamentissa”, eds., Vesa Ollilainen & Matti Väisänen.

(後注2)”Kristus Psalmeissa”, Antti Laato.

(後注3)テクスト・クリティシズム(日本語では「本文研究」と言うのですか?)の問題になりますが、この「燃える」は異なる写本では、心に「覆いが被せられていた」κεκαλυμμενηというのもあります。つまり、道中イエス様が旧約聖書の説き明かしをしていた時にまだ心に覆いが被せられていたので彼と気づくことが出来なかった、という意味です。これは筋が通る、合理的な読み方です。しかしながら、テクスト・クリティシズムの基準の一つに照らし合わせれば、合理的な読み方というのは難解だったから後でそのように直したということになるので、問題の写本はルカのオリジナルを反映していない、「心が燃えている」と言っている写本が信頼できると判断されます。そうなると、「心が燃える」というのは古代のギリシャ語圏の人たちにとってもわかりにくい表現だったということになります。

これを理解しようとすると、例えば古代のギリシャ文学を片っ端から調べてκαιωが「心」と結びつけて使われる例を見つけて、そこから理解しようとすることが考えられます。ただ、この場合、ルカのテキストの背景にあるアラム語の会話があることを無視してしまいます。

会話のアラム語はどうだったかはもう知りようがありません。近いヘブライ語から接近してみようとすると(アラム語とヘブライ語が「近い」と言うのは乱暴な言い方ですが)、בערが考えられます。「燃やす」、「火をつける」が中心的な意味です。中には「怒りが燃える」もあります。辞書の中には「心」と結びつけた使い方はありませんでした。

「聖句と祈りのひと時」、「心配事の置き捨て場」第一ペトロ5章7節、神学博士 吉村博明 宣教師

聖句 「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」聖書の第一ペトロ5章7節
メッセージ 「心配事の置き捨て場」
聖書の1、2節位の短い聖句をもとにした10分位のメッセージと祈りのひと時です。是非ご試聴下さい。