説教「使徒たちが投げた網にかかって罪の底から引き上げられよ」吉村博明 宣教師、ルカによる福音書5章1-11節

主日礼拝説教 2022年2月6日顕現節第五主日

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 本日の福音書の個所は、イエス様が漁師のペトロに「これからお前は人間を捕る漁師になるのだ」と言って、ペトロだけでなく他の漁師もイエス様に付き従っていくところです。これと同じ出来事がマルコ福音書とマタイ福音書では違う書き方をされています。マルコとマタイでは、大量の魚がかかったことやペトロが罪を告白することは書かれていません。ペトロと兄弟のアンデレが魚を捕っていた時にイエス様が声をかけて従って行った、その後すぐヤコブとヨハネも続いて行った、と簡潔です。4人の漁師がイエス様につき従っていくきっかけに大量の魚がかかったことがあるのはルカだけです。どうしてそういう違いがでたのでしょうか?マルコとマタイが福音書を書いた時、把握していたのは4人がイエス様につき従ったという結果だけだった、ルカは結果に至るまでに何があったかも把握していたのでそれを書いたということでしょう。いずれにしても3つの福音書はみな、人間を捕る漁師にするというイエス様の言葉と4人が生業を捨てて付き従ったということは一緒です。

 「人間を捕る漁師」とは何でしょうか?なんだか熱心な宗教団体の勧誘員みたいに聞こえてきます。人を獲物扱いする宗教なんか誰も近づきたいと思わないでしょう。しかし、ペトロや他の弟子たちは実際そういう勧誘員だったでしょうか?イエス様が言う「人間を捕る漁師」とは何か考えてみましょう。

2.罪の自覚と神への恐れを生きる希望と神への愛に転化するキリスト信仰

 3つの福音書では、ペトロたちが「人間を捕る漁師になる」と言われてイエス様につき従っていきますが、ルカ福音書ではまず大量の魚の奇跡があって、ペトロの罪の告白とイエス様のこの言葉が続いて、それからつき従うという流れです。それでこの奇跡について少し考えてみます。

 舟も沈まんばかりの大量の魚が網にかかりました。それを見たペトロは、イエス様に「私から離れて下さい!私は罪びとなのですから!」と叫んでしまいます。ペトロはなぜ罪の告白をしたのでしょうか?9節をみると、夥しい大量の魚をみて恐れおののいたことが告白の原因になっています。ペトロは大量の魚を見て何を恐れたのでしょうか?恐れることがどうして罪の告白になったのでしょうか?

 イエス様は湖の岸辺で群衆に教えていました。教えの内容は記されていませんが、4つの福音書の記述から次のような内容だったと推察できます。神の国がイエス様と一体となって到来したこと、人間は神の国に迎え入れられるために罪の問題を解決しなければならないこと、人間は神の意志を正確にわかって悔い改めて神のもとに立ち返る生き方をしなければならないこと、こうしたことが考えられます。

 岸辺では大勢の群衆がイエス様の教えを間近で聞こうと、どんどん迫ってきます。イエス様のすぐ後ろは湖です。ちょうどその時、岸辺に漁師の舟が二そう止まっていました。漁師たちが網を洗っているところでした。イエス様はペトロの舟に乗って岸から少し離れたところまで漕がせて、今度は舟から岸辺の群衆に向かって教えました。ひと通り教えた後でペトロに、もう少し沖合まで漕いで網を投げるよう命じました。

 ところがペトロは、夜通し頑張ったが何も捕れなかったと言います。ペテロの応答にはイエス様の指示に対する懐疑が窺われます。何しろペトロはプロの漁師です。ナザレなんて山の上の町から来た者に漁のことがわかるか、そういう思いがあったかもしれません。しかし、この方は今や律法学者を超える旧約聖書の教師として名をとどろかせている方なのだ。それでペトロは、あなたのお言葉ですからやってみましょう、と言う通りにしました。。

 半信半疑で網を投げたところ大変なことが起きました。網が破れんばかりの夥しい量の魚がかかったのです。もう一そうの舟が応援にかけつけるも、二そうとも沈んでしまいかねない位の魚の量で舟は溢れかえりました。まさに想定外の事が起きてペトロは恐れを抱いて叫びました。「私から離れて下さい!なぜなら私は罪びとだからです!」ペトロは何を恐れたのでしょうか?ここでペトロがイエス様を呼ぶ時の呼称が変わったことに注意しましょう。網を入れる前はイエス様のことを指導者、リーダー、代表者を意味する言葉エピスタテースεπιστατηςで呼んでいました。新共同訳では「先生」と訳されています。それが恐れを抱いた時には一気に神を意味する言葉キュリオスκυριος「主」で呼んだのです。ペテロの罪の告白は、神に対する告白になったのです。

 それでは、どうしてペトロは神に罪の告白をしたのでしょうか?ここでペトロが恐れたのは、いま目の前に起きている信じられない光景の中に神の力が働いたことを見たからです。神の力が働いたのを見たということは、神が自分の間近にいたということです。

 本日の旧約の日課イザヤ書6章では、神聖な神を間近にすると自分の内に神の意思に反する罪があるという自覚が呼び覚まされること、神聖さというのは本質上、罪の汚れに対して容赦しないものであること、それで神を間近にしたら自分は焼き尽くされるか消滅するという恐怖を抱いてしまうこと、そうしたことがよく描かれています。ペトロが抱いた恐れも同じでした。それでイエス様に、お願いだから私から離れて下さい、と叫んでしまったのです。

 ここで預言者イザヤに起こったことを見てみましょう。イエス様の時代から700年以上も昔のことでした。ユダヤ民族の南北の王国が王様から国民までこぞって神の意思に反する道を進んでいました。その時、預言者イザヤはエルサレムの神殿で神を目撃してしまいます。イザヤは次のように叫びました。「私など呪われてしまえ。なぜなら私は破滅してしまったからだ。なぜなら私は汚れた唇を持ち、汚れた唇を持つ国民の中に住む者だからだ。それなのに、私の目は万軍の主であり王である神を見てしまったのだから(4節)。」(ヘブライ語原文に忠実な訳)。まさに神聖な神を目の前にして起こる罪の自覚の悲痛な叫びです。神聖な神と罪の汚れを持つ人間の絶望的な隔たりが一気に浮かび上がる瞬間です。神の神聖さには、あらゆる汚れを焼き尽くしてしまう炎の力があります。それでイザヤは、神殿の祭壇にあった燃え盛る炭火を唇に押し当てられます。そして、「お前の悪と罪は取り除かれた」と宣言されます。この時イザヤは火傷一つ負いませんでした。これは、イザヤが霊的に清められたことを意味します。

 このように、人間が真の神を間近に見た場合、神聖さと全く逆の汚れある自分を思い知ることになり、罪の自覚が生まれます。神は罪と悪を断じて許さず、焼き尽くすことも辞さない方です。それで、神を間近に見てしまった時、自分を神の意思に照らし合わせて見る人が恐れを抱くのは自然な反応です。他方で、神の意思を知らない人や知っていても自分には関係ないと言って照らし合わせなんかしない人は恐れなど抱きません。こういうことを言うと、私は恐れなんか抱いて生きるのは嫌だから、そんな神はいりません、と言う人も出てくるかもしれません。

 しかしながら、キリスト信仰は神への恐れで終わりません。神への恐れがあっても、それがすかさず神への愛と生きる希望に転化していくのがキリスト信仰なのです。罪の自覚と神への恐れがあるからこそ神への愛と生きる希望が出てくるのです。罪の自覚と神への恐れがなかったら生きる希望も神への愛も出てこないというのがキリスト信仰なのです。まだピンとこないでしょうか?それなら、こう言ったらどうでしょう。罪の自覚と神への恐れが重くて下に沈めば沈むほどバネの反発力が強まってより高く生きる希望と神への愛に飛び立っていけるのだと。そのバネがキリスト信仰だと言うことができます。そのような信仰がなければ、恐れと絶望の重みに沈み込んでしまうだけか、または、そんな馬鹿々々しいゲームに付き合ってられないと言って離脱するか、どちらかです。しかし、キリスト信仰者は、それは馬鹿々々しいどころか、本当の生きる希望はここにあるんだ、とわかってそれを見つけるのです。また、神への愛を強く意識できるから、自分をヘリ下させることができて、高ぶったり苛立つ必要はなくなり、神にお任せして隣人に接することができるのです。

 罪の自覚と神への恐れが神への愛と生きる希望に転化していくのがキリスト信仰です。そうすると、人間を捕る漁師というのは、まさに罪と恐れの底に落ちてしまった人を愛と希望の岸辺に引き上げてくれる者ということになります。それでは、ペトロや弟子たちがどのようにしてそうしたかを見てみましょう。

3.神に関係する真実は曲げられないし引き下げることもできない

 イエス様につき従ったペトロや弟子たちは熱心な宗教団体の勧誘員みたいに人々をイエス様のもとに引き連れていったでしょうか?人々を集めたのはむしろイエス様自身ではなかったでしょうか?弟子たちが伝道のために町々に派遣されたことがあります。ただ、その時の派遣先はユダヤ民族に限られて、活動内容も神の国が近づいたと告げることと、その近づきが本当であるとわからせるために病気の癒しや悪霊の追い出しをすることでした。弟子たちに伝道された町々の人々がぞろぞろイエス様のもとにやってきたという感じはしません。どちらかと言えば、もうすぐしたら起こる十字架と復活の出来事に備えて心の準備をさせる活動だったのではないかと思われます。

 ところが、イエス様の十字架の死と死からの復活が起きると様子が変わります。ペトロと弟子たちは、自分たちの目で見て耳で聞いたことに基づけばあの方は本当に旧約聖書に約束されたメシア救世主だったのだ、と公けに証言し始めたのです。このような弟子たちが見聞きしたことと旧約聖書に基づく証言を受け入れてイエス様をメシア、神の子と信じる人たちがどんどん出てきました。彼らは一緒に神を賛美して祈り、お互い持ち物を分け合う位に支え合う共同体を形成します。この使徒たちの教えや共同体の生活態度を見てそれに加わる人たちがどんどん増えていきました。それが瞬く間のうちにユダヤ民族の境界線を超えて地中海世界へと広がっていったのです。

 こうして見ると、イエス様がまだ地上におられた時のペトロたちの任務は、イエス様が教えたこと行ったこと、また彼に起こったことをつぶさに目撃して記憶することにあったということが言えます。そしてイエス様が天の父なるみ神のもとに帰られた後は今度は、自分たちが見聞きしたことと旧約聖書をつき合わせたら見事に整合性がとれて、あの方こそ約束のメシア救世主であるとわかって証言し始めたのです。それをユダヤ教社会の指導層やローマ帝国の官憲からやめろと脅しをかけられ妨害されても怯まないで証言していったのです。そういう、人々に伝えないではいられないという駆り立てられるような思いを持つのが「人間を捕る漁師」なのでしょう。

 権力者に脅されても使徒たちが怯まずに証言することが出来たのはどうしてでしょうか?一つには直接の目撃者としての責任があります。あれだけ明白な事実だったのになかったなどとても言えない、真実は曲げられないという心です。しかしながら、責任感だけでは、命はないぞと脅されたり、または、出世に響くぞ、家族が路頭に迷うぞ、もっと大人になれ、などと言われたら心は揺れ動いてしまうでしょう。しかし、使徒たちの場合は責任感を強固なものにすることがありました。それは、彼らの証言する真実が天地創造の神、私たち人間を造られた神に関係する真実だったということです。それなので、自分は神に造られた者という自覚があると、神に関係する真実は取り下げられないのです。それで、出世なんかどうでもいい、お仕着せの大人なんかに自分はならない、命だって復活の日の永遠の命がある、それを手放すようなことはしたくない、そういう心になるのです。家族を路頭に、というのは痛いところを突かれることですが、でもルターの讃美歌に「わが命も、わが妻子も取らばとりね、神の国はなおわれのものぞ」と歌われているように、そこに行きついてしまうのです。

 神に関係する真実を曲げない引き下げないという生き方になると、今度は神に関係しない日常的な真実に関しても責任感が強くなります。というのは、神に関係する真実を守ろうという生き方になると、神の意思である十戒が心に刻み付けられるからです。その中に「汝、偽証するなかれ」があります。これも神の意思として心に刻み付けられます。それで日常的な真実に関しても責任感が強くなるのです。私たちの日本も創造主の神の意思に照らして襟を正すようにならないと、情けない忖度と改ざんはいつまでも繰り返されるでしょう。

 使徒たちが曲げられない引き下げられないとした神に関係する真実とは何だったでしょうか?それは以下のことです。あの十字架にかけられて死なれた方は三日目に神の想像を絶する力で死から復活させられた、それを自分たちはこの目で見たのだ。それで死からの復活というのは旧約聖書の単なる文章上の事ではなく本当に起こることなのだ。復活は起こるということをあの方自らも教えていたではないか。あの方が復活されたことで死を超える永遠の命が本当にあることがわかった。自分たちもこの世からの死で全てが終了してしまうのではない。将来、復活の日に一緒に復活させられて一緒に神の御許に迎え入れられるのだ。ここに我々キリスト信仰者の希望がある。それでは、どうしたら自分たちは復活させてもらえるのか?それは、人間を永遠の命から締め出している原因である罪、神の意思に反しようとする罪の問題をあの方が私たちに代わって解決して下さったことによる。あの方の痛ましい十字架の死は私たち人間の罪の神罰を代わりに受けて下さった贖罪の生贄の死であったのだ。神はそのようにして私たち人間の罪の問題を解決して下さった。そしてそのことは旧約聖書に預言されていて、それがゴルゴタの丘の十字架で歴史の中で成就したのだ。

 創造主の神は私たち人間が罪のために神のもとに戻れなくなってしまった状態を解消するために、ひとり子を贈って私たちの力では出来ないことを代わりに成し遂げて下さった。あとは、これらのことは全て本当に現実に起こったと受け入れる。そしてそれらは旧約聖書で預言されていたことの実現として起こったとわかって、それで神を慈愛に満ちた造り主であると信じ、神罰を受けて下さったひとり子イエス様こそ救い主と信じて洗礼を受ける。そうすれば、神がひとり子を用いて成就した罪の償いと罪からの贖いがそのまま自分に効力を発する。その時、自分は復活に至る道に置かれてその道を歩み始める。これからも明らかなように、神は復活の日に私たちを御国に迎え入れることを信仰と洗礼の目的に定めている。それなので、私たちがその道を進むのをいつも何があっても守り導いて下さる。

 時として、私たちの目は私たちの内にある罪に向く。罪から贖われた私たちに対して罪はもはや私たちを支配したり死に繋ぎとめる力を失っている。それにもかかわらず罪自体は消えず、隙を狙っては神との結びつきのない状態に引き戻そうとする。しかし、信仰の目を持つ信仰者はすぐ目をゴルゴタの十字架に向け、自分の罪はあそこで償われたので今、内にある罪は自分を死に繋ぎとめる力はないとわかり、感謝と畏れ多い気持ちを持って再び復活に至る道を進む。その時、私たちをこのように愛してくれる神を自分も愛そうという心を新たにする。神がそのように愛してくれる以上は私たちも隣人に対して同じようにしようという心を新たにする。この繰り返しがこの世から別れる時までずっと続く。

 新しい世が到来して私たちが神の御前に立たされる時、神は私たちが前の世で罪の赦しに留まってひとり子の死を無駄にしないように生きていたことを義と見て下さいます。そして、神の栄光に輝く朽ちない復活の体を着せて御国に永遠に迎え入れて下さいます。それなので私たちもこの世から別れる時は、このようになるのだという使徒たちの教えと証言を思い出して安心して神を信頼して自分の全てを神に委ねて旅立つことができます。このように死を超える安心と信頼があるので、罪の自覚と神への恐れはいつも神への愛と生きる希望に転化します。そして、死から復活されたイエス様は旧約に約束されたメシア救世主であるという真実はもう曲げられないのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

 

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