説教「肉眼の目だけでなく信仰の目を持って生きよ(その1)」吉村博明 宣教師、ルカによる福音書4章14-21節

主日礼拝説教 2022年1月23日顕現節第三主日

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 本日の福音書の日課は実を言うと区切りが良くないです。ルカ4章は、14節から32節までがひとくくりの出来事です。それなのに今日の個所は前半の21節までです。取りあえずここで出来事の全容をお話しします。イエス様が育ち故郷のナザレを訪れてユダヤ教の会堂シナゴーグの礼拝で聖書朗読を担当する。読み終わった後で、聖書に書かれている預言は今日その通りになった、と言う。さらに神の恵みについて教え始め、会衆はそれに驚く。しかし、会衆の中に、あれはヨセフの子ではないか、と言う者もいて、その途端、イエス様は何か会衆の気に障ることを言い始める。会衆は激怒してしまい、イエス様を崖から突き落とそうとする。そういう出来事です。それにしても会衆の急変ぶりには驚かされます。一体イエス様は何をそんなに怒らせることを言ったのでしょうか?お前たちは私が他の町で行う奇跡の業をここでもしろと言うだろう、しかし、旧約聖書の預言者エリアとエリシャが奇跡の業を異邦人にしてあげてユダヤ人にしなかったのに倣い、私もお前たちにはしないことにする、などと言います。かなり挑発的です。「預言者は自分の故郷では歓迎されないものだ」などと自分で言いますが、自分でそうなるように仕向けたのではないか?イエス様はナザレの人たちになぜこんなに手厳しいのでしょうか?

 実はこの出来事は、私たちがこの世を生きる時に何を身につけなければならないかということについて教えています。それを身につけないとどうなってしまうか、どうしたらそれを身につけられるかを教えているのです。その身につけるものとは何か?結論を先に言うと、肉眼の目とは異なる「信仰の目」です。私たちは肉眼の目を持っています。その目が働かないと生活に支障をきたします。信仰の目は、この世の荒波を乗り越えていくのに必要な目です。肉眼の目だけだと荒波はよく見えますが、それだけだと怖気づいてしまいます。信仰の目があると、怖いという視点を超える視点が与えられます。それでは、信仰の目とはどんな目で、どうしたら身につけられるのか、そのことを今回と次回の説教でお教えしたく思います。事は旧約聖書にまで広がるスケールの大きなものになります。二回にわたりますが、始めてまいりましょう。

2.イエス様のイザヤ朗読の謎

 イエス様はヨルダン川にて洗礼者ヨハネから洗礼を受けて、神から聖霊が降って特別な力が備えられました。特別な力とは、神の人間救済計画を実行に移す力です。その後すぐユダの荒野にて40日間、悪魔から試練を受けます。イエス様はこれを全て旧約聖書の神の御言葉を盾としてはねのけます。この後、舞台はガリラヤ地方に移ります。イエス様は各地の会堂を回って、神の国が近づいた、人間の救いがまもなく実現するという福音を宣べ伝えます。そして神の国が架空のものではなく実在するものであることを示すために多くの奇跡の業を行います。イエス様の評判はたちまちガリラヤ地方全域に広まりす。イエス様が幼少の時から長年育った故郷の町ナザレに入ったのはちょうどその時でした。イエス様はこれまでそうしてきたように町の会堂に入ります。安息日の礼拝で人々に教えるためです。

 ここで、当時の会堂シナゴーグの礼拝について本日の出来事がよりよくわかるために少し背景説明をします。礼拝ではヘブライ語で書かれた旧約聖書を朗読し、その後でアラム語で説き明かしすることが行われていました。なぜ二つの言語が出てくるかというと、ユダヤ民族はもともとはヘブライ語で書いたり話したりしていました。それで神の御言葉ももともとはヘブライ語で記述されました。ところが紀元前6世紀に起きたバビロン捕囚で民族の主だった人たちは異国の地バビロンに連れ去られてしまいます。捕囚は50年近く続き、これは二、三世代に渡るので、彼らはだんだん異国の言語であるアラム語に同化していきます。日本でも明治時代からアイヌ民族の同化政策が行われると二、三世代後にはアイヌ語使用者がどんどん失われるという悲劇が起きました。

 さて、紀元前6世紀の終りペルシャ帝国がバビロン帝国を打ち倒して古代オリエント世界の覇者となります。ユダヤ人はペルシャ帝国の計らいで祖国帰還を許されます。彼らは廃墟となったエルサレムの町と神殿の再建にとりかかります。その当時のユダヤ人の苦難と信仰の試練については、旧約聖書のエズラ記とネヘミア記に記されています。先ほど朗読された旧約の日課ネヘミア8章では祭司エズラが民にモーセの律法を朗読する場面がありました。そこでレヴィ族の人たちが「律法の書を翻訳し、意味を明らかにしながら読み上げた」とあります(8節)。つまり、ヘブライ語の聖書を朗読した後でアラム語に翻訳して解説したということです。ヘブライ語は一般の人にはもう遠い言語になってしまったのです。こうしてヘブライ語の旧約聖書を神聖かつ最高権威の書物として朗読して、続いて民が理解できるアラム語に訳して解説することが始まります。この形の礼拝がイエス様の時代にも続いていたのです。

 ナザレの会堂の礼拝に戻りましょう。そこの会堂長は、その日の聖書の朗読と説き明かしを誰にお願いするかということで、これを今やガリラヤ全土に名声を博している御当地出身のイエス様に依頼しました。会堂は会衆で一杯だったでしょう。イエス様に神の御言葉が記された巻物が手渡されました。巻物というのは私たちが手にするような、紙を束ねて綴じる方式で作った本ではありません。動物の皮をつなぎ合わせてそこに文字を記して巻物にした形の書物です。皆様も耳にしたことがある死海文書というのもこの形式の書物です。

 イエス様は立ってヘブライ語で朗読します。神に油注がれた者、これは文字通りメシアです。メシアとは油注がれた者という意味を持つからです。そのメシアが神の霊を受けて、何かに囚われた状態にある人に解放を告げ知らせる。心を打ち砕かれた人に心の癒しを与え、目の見えない人に見えるようになるという喜びの知らせを伝える。神の恵みの年、恵みの時が到来したことを告げ知らせる。そういう内容の個所を朗読しました。

 これは、旧約聖書を知っている人ならイザヤ書のあそこだとわかる個所です。少し雑学的なことですが、聖書の書物は初めは章立ても節わけもありませんでした。ところどころ段落分けや余白はありますが、基本的に文章はだらだらと続くものでした。章立て節わけが施されるのはずっと後世になってからです。それなので、シナゴーグの礼拝では、私たちの礼拝のように、本日の日課は何々書の何章何節から何節までです、と言うことはしませんでした、出来ませんでした。しかし、旧約聖書をよく知っている人なら、イエス様が読んだところを聞いて、あれはイザヤの終わりの方だとわかったでしょう。私たちならイザヤ書61章1節から2節までと言うでしょう。ところが、よく見るとイエス様の朗読はイザヤ書の当該箇所と少し違っています。イエス様の朗読は正確ではないのです。ヘブライ語の原文を見ると、そこには「目の見えない人が見えるようになる」というのはありません。別に原文を見なくとも、日本語訳のイザヤ書61章を見れば誰でもわかります。実は、「目の見えない人が見えるようになる」というのはイザヤ書の42章7節にあります。とすると、イエス様は朗読している時に別の章の個所を何気なく挿入したのでしょうか?

 話をさらに複雑にすることがあります。それは、イザヤ書のギリシャ語訳を見ると、61章に問題の「目の見えない人が見えるようになる」というのが入っているのです(1節)。ここでなぜ突然、イザヤ書のギリシャ語訳なんかが出てくるのかと言うと、旧約聖書は先ほども申しましたようにもともとはヘブライ語で書かれていました(一部はアラム語でも書かれています)。この旧約聖書がイエス様の時代の2、300年位前に大々的にギリシャ語に翻訳されたのです。なぜかと言うと、先ほど触れたペルシャ帝国が今度は紀元前4世紀にギリシャ系のアレクサンダー帝国に滅ぼされてしまい、地中海世界の東半分がギリシャ語化していったからです。ギリシャ語を話すユダヤ人のためにギリシャ語の旧約聖書が必要になったのです。

 それでは、ヘブライ語の聖書を読んだイエス様がまるでギリシャ語訳聖書に倣って「見えない人の目が見える」と言ったのはどうしてなのでしょうか?次のように考える人もいるでしょう。ルカ福音書を書いた「ルカ」はギリシャ語で書いているわけだから、ルカはイザヤ書もヘブライ語原文ではなくギリシャ語訳の方を念頭に置いた、それでイエス様が朗読したヘブライ語の文章は脇にやられてギリシャ語訳にある「目の見えない人が見えるようになる」を入れてしまったのだと。しかし、そう考えると、ルカはイエス様が言っていないことを言ったことにしてしまったことになります。皆さんは、ルカが福音書の冒頭で何と言っていたか覚えていらっしゃいますか?この福音書は信頼できる目撃者の証言を集めて纏めたものだ、と言っています。とすると、ナザレの会堂の出来事も、目撃者、間違いなく弟子たちでしょう、彼らが証言したことが土台にあります。そこで考えられるのは、イエス様はイザヤ書61章の朗読の際に自分で42章7節を挿入した、または、次のようにも考えられます。イエス様は、朗読の後の説き明かしで「目の見えない人が見えるようになる」ということを述べたのだが、目撃者の方で朗読と説き明かしを混ぜ合わせたものをルカに伝えてしまったということです。

 イエス様が挿入したにしても、または説き明かしたの時に言ったにしても、これは本当にイエス様が言ったのだ、と言えるためには、彼には「目の見えない人が見えるようになる」ことにこだわりがあったと言えなければなりません。実を言うと、イエス様にはそれがあったのです。皆さんも、イエス様が目の見えない人の目が見えるようにする奇跡を何度も行ったことは覚えていらっしゃるでしょう。イエス様にとって目を見えるようにするというのは活動の中で大事なことでした。このことを預言者イザヤの時代から旧約聖書とユダヤ民族の歴史を貫くようにしてある一つの問題に照らし合わせてみると、目を見えるようにする奇跡の意味が明らかになってきます。

3.十字架と復活の業によって信仰の目を開けられる

 イザヤ書6章を見ると、神の意志に反して罪を犯し続けるイスラエルの民が神からの罰として心が一層頑なにされて目も見えないようにされる、そういう罰が言い渡されます。これは肉眼の目を塞ぐということではなく、霊的な目、信仰の目が塞がれてしまうということです。神の意志がますます見えなくなって滅びの道をまっしぐらに進んでしまうという罰です。国が滅んでしまった後に今度は目が開かれて神の意志がわかる、そういう「残りの者」が現れるという預言も一緒にあります。さて、イスラエルの民は果たして信仰の目が開かれるようになったでしょうか?イザヤの時代にアッシリア帝国の大軍の攻撃から奇跡的に救われたエルサレムがその「残りの者」だったか?答えは否でした。ユダの王国はその後も罪と滅びの道を進んでしまい、最後はバビロン捕囚に至ってしまったからです。それでは、バビロン捕囚から解放されて祖国帰還できた者たちが目が開かれた「残りの者」になったのか?これも否でした。イザヤ書の終わりの方にある63章17節を見ると、祖国帰還を果たしても神が依然として民の心を頑なな状態に留めていることを嘆くところがあります。そういうわけで、イエス様の時代にもイスラエルの民はまだ目が開かれていない状態にある、それをこれから開くようにするというのが神の意図だったのです。

 この背景がわかると、イエス様が信仰の目を開くことを重視したことがよくわかります。奇跡の業で肉眼の目を見えるようにしたのは、そういう目に見える具体的な業を通して抽象的なことを理解できない人たちをわからせる手っ取り早い方法だったからでした。私は復活の日に死者を目覚めさせることが出来る、といくら口で言ってもわかってもらえないから、死んだヤイロの娘もラザロも「これは眠っているだけだ」と言って生き返らせました。それと同じことです。私は罪を赦す権限があると言っても、そんなの口先だけだと騒ぎ立てるから、それならこれでどうだ、と全身麻痺の人を歩けるようにしたのも同じです。このように具体的な見える業を通してイエス様は信仰の目を開ける力があることを示しました。そして人間の信仰の目が大々的に開かれる出来事を後で起こしました。言うまでもなく十字架の死と死からの復活の出来事です。イエス様の十字架の死とは、人間が神から神罰を受けて罪と一緒に滅んでしまわないようにと人間に代わって人間の罪を償って人間を罪の滅びの力から切り離す業でした。そしてイエス様の死からの復活とは、死を超えた永遠の命、復活の命があることをこの世に示して、そこに至る道を人間に切り開く業でした。このためにイエス様の十字架と復活の業はユダヤ民族の信仰の目を開けるためだけのものでなく、人間全ての信仰の目を開ける業だったのです。それが神の人間救済計画だったのです。信仰の目を開けられた人とは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて罪の償いと罪からの切り離しを手にした人です。そして、復活と永遠の命に至る道に置かれてその道を歩む人です。

 そのように人間の信仰の目を開くためにこの世に贈られたイエス様ですから、会堂の礼拝で「見えない人の目が見えるようになる」ことをイザヤ書61章のメシア預言に結びつけて述べても全然おかしくないわけです。

 朗読の後、イエス様は巻物を係の者に返して席につきます。説教者の座る席です。会堂の人たちの視線が一気にイエス様に注がれます。とても緊迫感のある場面です。イエス様が口を開きました。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した(21節)。」これを言った後にイエス様の説き明かしが続くのですが、その内容についてはルカ福音書では記されていません。22節をみると、会衆みんなが、イエス様の「口からでる数々の恵み深い言葉(複数形)に驚いた」とあります。それで、イエス様が「聖書の言葉が実現した」と言った後で説き明かしを続けたのは間違いないでしょう。どんな内容だったでしょうか?それは間違いなく、神の国が近づいたこと、人間の救いがまもなく実現することを伝えるものだったでしょう。あわせて、各自に悔い改めと、神のもとに立ち返る生き方をしなさいと促すこともあったでしょう。いずれにしても、説き明かしの冒頭でイザヤ書の預言が実現したと宣言した時、イエス様は、この油注がれたメシア、神の霊を受けて捕らわれ人に解放や目の見えない人に開眼を告げ知らせるのはこの自分である、と証したのです。その後で会堂の人たちが怒り狂うようなことが起きてイエス様を崖から突き落とそうとします。一体何が起こったのか、ナザレの人たちにどんな問題があったのか、同じ問題は私たちにもあるのか、どうしたらそれを解決できるかは次回にお話ししましょう。

4.キリストの体の部分として生きる

 終わりに、信仰の目を開かれたキリスト信仰者たちはお互いどういう関係にあるかということが本日の使徒書の日課、第一コリント12章にあるのでそれを見ておきたいと思います。パウロの教えです。パウロは、キリスト信仰者というのは、体が多くの部分から成り立っているのと同じように、キリストの体という一つの体の部分部分なのだと教えます。それで信仰者はお互いを煙たがったりせず大切な仲間として助け合いなさいと言うのですが、道徳論のように受け止める人もいるかもしれません。また、キリスト信仰者の中には、信仰とは自分と神との関係だから、と言って、信仰者同士の関係をあまり深く考えない人もいるかもしれません。しかし、パウロを道徳論者のように見るのは浅い理解です。

 13節でパウロは、神の一つの霊ということを言います。洗礼を受ける人は何人もいても聖霊はお一人です。洗礼を受ける一人一人に別々の霊がつくのではありません。たったお一人しかいない聖霊にそれぞれが結びついて洗礼を受けるから一つの体になると言うのです。どの民族・人種に属しようが、社会的な地位・立場が何であろうがみんな同じ聖霊を注がれるので一つの体のお互い結びついた部分になると言うのです。それなので、信仰は自分と神の問題と言って、ほかの、神と結びついている人との結びつきを考えない人は、聖霊を分割してしまうことになるとさえ言えるのです。事は道徳論を超えて三位一体の神を認めるか否かの問題になっていきます。信仰の目とは、神と自分の結びつきという縦の関係と、その結びつきを持つ信徒たち同士の横の関係という二つを見ることが出来る目です。この縦と横の二つの関係が同時に現れる瞬間が聖餐式、主の血と肉に与る時です。

 自分と神との結びつきは、もちろん自分の罪と向き合って赦しの中に留まるという極めて個人的な面もあります。しかしながら、他の信仰者たちとの間で、私は目、あなたは足です、または、私は耳、あなたは手です、という場面は無数にあります。横の関係があって、各自の神との縦の関係が支えられるということも忘れてはいけません。目が自分は自分で支えられるから他はなくてもいいとは言えないのです。だから、各自、お互いに縦の関係を支えてあげられるように振る舞い言葉遣いを考えなければなりません。それを損なうような振る舞いや言葉遣いは避けるようにしなければなりません。それが聖霊をお一人としてキリストの体の部分として生きるということです。

 それではキリストの体とは具体的には何か?教会ということになりますが、これもいろんな層があります。まず、復活と永遠の命に向かって歩む信徒たちの集合体、組織を超えた世界大の教会があります。このスオミ教会のような個別の具体的な教会もあります。個々の教会が属している教派や教団もあります。遠い国の信徒とは祈りを通して支えたり支えられたりする関係は築けますが、聖餐式の場である個々の教会は一番身近に振る舞いや言葉遣いを磨ける場です。自分がキリストの体の部分であることを一番身近なものにすることが出来る場です。そのことを忘れないようにしましょう。もちろん私自身も含めてです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

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