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主日礼拝説教2015年11月15日 市ヶ谷教会
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.
本日の福音書の箇所の出来事の舞台は、エルサレムの神殿です。少し歴史のおさらいになりますが、エルサレムの神殿は、紀元前1000年代初めにソロモン王の時に建てられた大神殿がありましたが、これは紀元前500年代初めにバビロン帝国に破壊されました。これが第一神殿と呼ばれるものです。その次に、イスラエルの民が紀元前500年代終わりにバビロン捕囚からエルサレムに帰還して、神殿を再建しました。これが第二神殿と呼ばれるものです。最初これは、ソロモン王の神殿に比べてみすぼらしいものでしたが、紀元前100年代のマカバイの反乱のような動乱の時代を経て、イエス様が生まれる頃のヘロデ大王の時代に、再び荘厳な神殿に建て替えられました。しかし、それも西暦70年にローマ帝国の大軍によってエルサレムの町ともども破壊されてしまいます。それ以後エルサレムには「聖書の神」の神殿は存在していないことは周知のとおりです。
イエス様の時代の神殿はどんな建物かと言うと、まず敷地は横は大体400メートル、縦は750メートルの大きさで、城壁に囲まれ、三つの辺に計六つの門がありました。門を通って中に入ると、中央に縦100メートル、横250メートル位の神殿の建物が見えます。建物の周りは、「異教徒の前庭」と呼ばれる広場で、ユダヤ教に改宗していない異教徒が入って供え物をしてもよい場所でした。ソロモンの柱廊を通って建物に入ると、まずユダヤ人であれば女性までが入れる「女性の前庭」があり、その奥に男性だけが入れる「イスラエル人の前庭」、その先には聖所と呼ばれる幕屋がありました。そこは祭司だけが入れて礼拝を行う場所でした。この幕屋は中で二つの部分に分けられ、垂れ幕の後ろに「至聖所」と呼ばれる最も神聖な場所があり、大祭司だけが年に一度、自分の罪と民の罪を神の前で償うために生け贄の血を携えて入って行けたのでした(ヘブライ9章1-7節)。
本日の福音書の箇所の出来事は、この神殿の「女性の前庭」です。大勢のユダヤ人の男女がせわしく「賽銭箱」にお金を入れている場面です。賽銭箱というと、日本のお正月の神社やお寺のような大きな箱に向かって人々が硬貨や丸めた紙幣を投げ込むイメージがわきます。正確には、大きな箱が一つあったのではなく、いろいろな目的のために設けられた箱がいくつもあって、それぞれには動物の角のような形をした硬貨の投げ入れ口があったということです。大勢の人が一度に投げ入れることは出来ないので、一人ひとりが次から次へとやって来てはお金を投げ入れて行ったことになります。それで、本日の箇所のイエス様のように、箱の近くに座って見ていれば、誰がどれくらい入れたかは、わりと容易に識別できたのでしょう。
さて、イエス様は一つのことを目撃しました。金持ちはもちろん大目にお金を入れますが、一人の貧しいやもめが銅貨二枚を投げ入れました。この二枚の銅貨は1クァドランスというローマ帝国の貨幣に相当すると注釈がされています。これは、この出来事から30年以上たった後でこの福音書を記したマルコがローマ帝国市民である読者のために金額がわかるように配慮してつけたのです。しかし、現代の私たちにはわからない単位です。それは、64分の1デナリです。では、1デナリはいくらかと言うと、それは当時の労働者の1日の賃金でした。今日日本で7千円くらいが一日の最低賃金だとすれば、100円ちょっとの価値しかありません。イエス様は、これがそのやもめの全財産だと見抜きました。絶対数でみれば、やもめの供え物は取るに足らないものですが、相対的にみれば、ほとんど自分の命と引き換えと言っていいくらいのお金ですから、やもめにとってはとても大きな価値を持つものでした。そういうわけで、本日の箇所は、供え物の価値を絶対数でみるよりも相対数でみることの大切さを教えているようにみえます。また、やもめの献身は金持ちよりも尊いものであるという一種の美談のようにもみえます。しかし、本説教では、この箇所の教えをもっと掘り下げてみたいと思います。
2.
本日の箇所が教える大切なこととして、まず最初にあげられるのは、神の目は、御自分が造られた人間一人一人の上にしっかり注がれる、特に人の目には取るに足らないとみなされる者にこそ注がれるということであります。大勢の金持ちが沢山お金を投げ入れました。もし、1デナリとか2デナリとか入れていたら、それこそ労働者の一日二日の賃金をポンと納めたことになります。労働者には羨ましい金額でしょうが、金持ちには痛くも痒くもありません。先ほど申しましたように、近くで見ていれば、誰がどれくらいお金を入れたかはわかるので、ああ、あの人はあんなに納めた、すごいなぁ、あれだけ納めればきっと神様はあの人のことをよくみてくれるだろう、などと羨望の心を引き起こしたことでしょう。また、大金を出す人も、見られているので、周囲にそのように思われるのはわかっていたでしょう。周囲からも、神に近い者として見られていい気持ちだったでしょう。金額と御利益が比例するという考え方は、日本に住む私たちにも身近なものです。そんな時、64分の1デナリしか入れなかったやもめに気づいた人たちは、なんだあれは、あれで神の気を引けるとでも思っているのか、と呆れ返ったでしょう。または、目にしても気に留めるに値しないとばかり、一瞬のうちに忘れ去られたかもしれません。
ところが、しっかり気に留めた方がおりました。神のひとり子イエス様です。イエス様は、また、やもめが納めた金はケチった額では全くなく、まさになけなしの金であったことを見抜きました。やもめの捧げものは、まさに自分自身を捧げる覚悟の結晶でした。金持ちの捧げものにはそのような覚悟はありません。しかし、人々の目は、捧げものの絶対的価値に向けられるので、そのような覚悟の真実性はわかりません。しかし、イエス様はわかっていました。イエス様がわかっていたということは、神もわかっていたということです。
天と地を創造された神は、私たち人間をも造られました。私たち一人一人に命と人生を与えて下さったのは神です。造り主である以上、神は、私たち一人一人がどんな姿かたちをして、どんな心を持っているか全てご存じです。詩篇139篇に、次のように言われています。「あなたは、わたしの内臓を造り、母の胎内にわたしを組み立てて下さった(13節)」。さらに、「秘められたところでわたしは造られ、深い地の底で織りなされた。あなたには、わたしの骨も隠されてはいない。胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。わたしの日々はあなたの書にすべて記されている。まだその一日も造られないうちから(15-16節)」。それゆえ、神は、イエス様が言われるように、人間一人一人の髪の毛の数まで知っておられるのです(ルカ12章7節)。神は、また、人間の外面的な部分だけでなく内面的な部分も全てご存じです。詩篇139篇をもう少し見てみます。「主よ、あなたはわたしを究め、わたしを知っておられる。座るのも立つのも知り、遠くからわたしの計らいを悟っておられる。歩くのも伏すのも見分け、わたしの道にことごとく通じておられる。わたしの舌がひと言も語らぬさきに、主よ、あなたはすべてを知っておられる(1-4節)」。
このように私たち一人一人を造った神が私たちのことを全て知って下さり、絶えず目を注いでいて下さる、というのは、私たちにとって大きな励まし、力添えになります。なぜなら、人生の歩みの中でどんなに困難な状況に陥り苦しい思いをしても、それは、神に忘れられたとか、見捨てられたとか、そういうことでは全くないのです。そのような状況を、まさに神に支えられて一緒に通過する、ということなのです。このことをダビデは詩篇23篇で次の言葉で表現しています。「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける(4節)。」神を信じる者といえども、人生の歩みの中で死の陰の谷のような厳しい危険な状況を通らねばならないことがある、とはっきり言っています。鞭と杖が力づける、というのは、羊が間違った方向に行こうとする時に羊飼いが鞭や杖で、そっちじゃない、と気づかせて方向修正させることです。私たちも、暗闇の中を歩むことになって間違った方向に行きそうになると、羊飼いの神が同じように方向修正をしてくれます。不意にトントンと叩かれて痛くも感じるかもしれませんが、あっ、羊飼いの神がそばにいてくれたんだ、と暗闇の中でも気づくのであります。このように神に全てを知られている、ということは、見捨てられない、いつもそばにいて下さる、ということなのです。それは私たちにとって、大きな励まし力添えになります。
3.
以上、神の目は御自分が造られた人間一人一人の上に絶えず注がれており、特に人の目には取るに足らないと見なされる者にこそ注がれるということについて申し上げました。本日の福音書の箇所が教えるもう一つの大切なことをみていきましょう。それは、何が正しい礼拝の形かについて考えさせるということです。礼拝とは普通、教会の日曜礼拝のように決まった時間に決まった形の宗教的儀式行為をすることを意味しますが、広い意味では神に仕えて捧げものをすることです。神に仕えて捧げものをすることは、宗教的儀式的行為の時間帯だけに限りません。キリスト信仰においては、生きること自体が神に仕えて捧げものをするようになって礼拝的になっていくことを忘れてはなりません。
本日の箇所は、やもめの献身の真実さを示すことで、一種の美談として理解されるかもしれません。しかし、事実はそう単純ではありません。少し考えてみて下さい。この女性はなけなしの金を供え物にしてしまったが、その後でどうなるのだろうか、ということが皆さんは気になりませんか?本日の旧約聖書の日課では、飢饉の最中にやもめがなけなしの小麦粉を使って預言者エリアにパンを焼いた出来事がありました。やもめの小麦粉はその後も壺からなくならず、家族は食べ物に困らなかったという奇跡が起きました。なけなしの金を供えた本日のやもめも同じように大丈夫だったかどうかは、もうわかりません。使徒言行録2章をみると、聖霊降臨の出来事の後に教会が誕生して、そこで信徒たちが自分たちの財産や持ち物を売って、おのおの必要に応じて分けあったことが記されています。どうか、このやもめも信者の共同体の中で無事を得られたように願わずにはいられません。
そういうわけで、本日の箇所は美談というより、本当は悲劇なのではないかと思います。本日の箇所の悲劇性は、箇所の前後を一緒にあわせて読むと明らかになります。まず、本日の出来事のすぐ前でイエス様は、律法学者たちが偽善者であると批判します。律法学者たちが「やもめの家を食い物にしている」と指摘します(12章40節)。イザヤ書10章の初めをみると、権力の座につく者が社会的弱者を顧みるどころか、一層困窮するような政策を取っている、と神が非難しています。そこで「やもめを餌食にしている」として、やもめが戦利品のように略奪の対象になっていることがあげられています。
イエス様の時代に律法学者たちがやもめの家を食い物にしていた、というのも、夫を失った女性に対し、おそらく法律問題にかこつけて財産を上手く支払わせるようなことがあったと考えられます。そのようにやもめの地位はとても不安定で、夫から受け継いだ財産を簡単に失う危険があった。イエス様はそれを批判し、その後で本日の箇所の出来事がきます。まさに、困窮したやもめが最後のなけなしの金を捧げ物にするのです。本日の箇所の次をみると、イエス様は舞台となっているエルサレムの神殿が跡形もなく破壊される日が来ると預言します(マルコ13章1-2節)。金持ちの献金が神の心に適っているかのようにみられ、社会的弱者の献身は無意味なものとして顧みられない、そのようなことを許している礼拝の場所はもう存在に値しないということであります。そして、イエス様の預言通りに、エルサレムの神殿は40年程の後でローマ帝国の大軍によって破壊されてしまいます。
ところでイエス様は、やもめの捧げ物が金持ちの捧げ物よりも大きな価値があるとは認めますが、それでやもめが神の国に入れるとかそこまでは言っていません。イエス様としては、100%神に捧げることは重要であるが、ただ、それが自分の持ちものから捧げ物をして神から見返りに何か恩恵を受けようとする、そんな捧げ方には反対なのです。そんな仕方で100%捧げても、それは神殿の礼拝の論理で動いていることにかわりありません。神に捧げることは重要であるが、見返りの恩恵のために捧げるのではない捧げ、しかも、捧げるからには100%捧げてしまうことが当たり前になるような捧げ、そのような前例のない神への捧げを可能にするためにイエス様はこの世に送られてきたのです。やもめの100%の捧げは、ある意味でそのような新しい捧げを先取りするものでした。イエス様はそれを神殿の礼拝の枠を打ち破って正しい方向に導いていくことを行ったのです。それでは、それはどのようにしてなされたのでしょうか?
答えの鍵は、本日の使徒書「ヘブライ人への手紙」9章24-28節の中にあります。そこには、神殿の礼拝にかわる新しい礼拝のかたちの基本路線が記されています。どんなことかと言うと、まず、エルサレムの神殿の大祭司たちは、生け贄の動物の血を携えて最も神聖な至聖所に入って行って自分の罪と民の罪の双方を神の前で償う儀式を毎年行っていた。それに対して、神のひとり子イエス・キリストは、自分自身は償う罪など何もない神聖な神のひとり子でありながら、全ての人間の全ての罪を一度に全部償うために自分自身を犠牲の生け贄にして捧げた、ということです。神のひとり子の神聖な生け贄ですので、でもう1回限りで十分です。これでも足りないとばかり、また何か生け贄を捧げるようなことをすれば、それは、神のひとり子の犠牲では足りなかったと言うのと同じになって、それこそ神を冒涜することになります。
そういうわけで、神はイエス様の犠牲に免じて人間の罪を赦すという策に打って出たのです。さらに、一度死んだイエス様を死から復活させることで、死を超えた永遠の命の扉を人間のために開かれました。人間は、こうしたことが全て自分のためになされたとわかって、それでイエス様こそ救い主と信じて洗礼を受ければ、神からの罪の赦しがその人に効力を持ち始めるのです。こうして神から罪の赦しを受けられた人間は、かつて堕罪の時に崩れてしまった神との結びつきを回復します。神との結びつきを回復したら、ただちに永遠の命に至る道に置かれてその道を歩み始めます。そうして順境の時にも逆境の時にも絶えず神から守りと良い導きを得られて、万が一この世から死ぬことがあっても、その時は神の御許の引き上げられて、自分の造り主のもとに永遠に戻ることができるようになったのです。これがまさに「罪の赦しの救い」であります。
このようなとてつもない救いを受けた私たちの礼拝のかたちはいかなるものになるのでしょうか?もう神から見返りの恩恵を得るために何かを捧げる必要はなくなりました。なぜなら、私たちの方で何も捧げていないのに、神の方でさっさと捧げることをしてしまって、こうして出来た恩恵を受け取りなさいと言われて、私たちはただあっけにとられてそれを受け取ったにすぎないからです。本当に私たちはこの恩恵を受け取れるために何も捧げていないのです。神が捧げ物を準備してそれを行ってしまったのです!こんなことがあっていいのでしょうか?天地創造の神とはなんと恵み深い方なのでしょうか!
こうして恩恵をあっさりと受け取ってしまった私たちは、これからどうすればよいのでしょうか?何も神に捧げることはしなくてもよいのでしょうか?この疑問に対する答えは、「ローマの信徒への手紙」12章の最初の部分にあります。使徒パウロは次のように教えます。「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはいけません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい(1-2節)」。
「なすべき礼拝」というのは、原語のギリシャ語(λογικος)では「理性的」とも「霊的」とも訳される言葉です。理性的な礼拝、霊的な礼拝とはとてもわかりにくいので、新共同訳では「なすべき礼拝」とうまくかわしたのではないかと思います。ルターのドイツ語訳やフィンランド語訳の聖書では「理性的な礼拝」、英語NIVでは本文には「霊的な礼拝」とあって、脚注に「理性的な礼拝でもよい」などとあります。スウェーデン語訳の聖書では「霊的な礼拝」です。次のように考えれば意味はわかります。まず、何が「理性的、霊的でない礼拝」かを考えます。言うまでもなく、それはエルサレムの神殿で行われていたような、人間が何か生け贄とか何かを捧げて罪を償ったり神から見返りとして恩恵を頂くという礼拝です。
ここで使徒パウロが教えることは次のことです。イエス様の十字架と復活の後はもうそういう礼拝の時代は過ぎ去ったのである。キリスト信仰者は、イエス様の十字架と復活を土台にして神から「罪の赦しの救い」の恩恵を受け取ったのである。だから、もう、恩恵を受け取る前の単なる肉だけの存在ではないのである。聖霊を注がれて新しい霊性を備えた存在なのである。神の恩恵が頭のてっぺんからつま先まで満たされているので、その人の体や心や魂は本当はもう神に喜ばれる聖なる生け贄になっているのだ。だから、本当は神の思いに反するこの世の思いに従わないのは当たり前のことになるのだ。イエス様の十字架と復活のゆえに心が一新して変えられた者として、何が神の御心か、何が善いことで神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるのが当然になるのだ。パウロはこうしたことを読者に思い起こさせているのです。
こうなると、神の恩恵を受け取った人というのは、今生きているのは自分なのか神の意思なのかわからなくなります。使徒パウロが「ガラテアの信徒への手紙」2章20節で、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内にいきておられるのです」と言っている通りになります。しかしながら、現実の世界を生きていく時、いろんな課題に直面し人間関係に揉まれていくうちに、こうした霊的に研ぎ澄まされた心が濁ってきたり萎えてしまうことはしょっちゅうあります。まさにそこに信仰の戦い、霊的な戦いがあります。それゆえ、キリスト信仰者は絶えずイエス様の十字架のもとに立ち返って、あそこで自分は神から計り知れない恩恵を与えられたのだと思い起こさなければなりません。まさにそのために主日の礼拝が重要です。主日の礼拝は、十字架のもとに立ち返ることができる大事な時です。今まさにしているように神の御言葉を聞いてキリスト信仰者としての自分の立ち位置を確認します。また、恵み深き神を歌声をもって賛美し、神の助けと導きに信頼して祈りを捧げます。聖餐式ではパンとぶどう酒の形を通して神から霊的な糧を受けます。その糧を受ける時、私たちは聖卓の前で神のみ前に全く無に等しい者として受けます。実に聖餐式では私たちは神に自分を100%捧げているのです。それこそ本日の福音書の箇所のやもめのように100%自分を神に捧げているのです。しかも、主の十字架と復活の後の時代に相応しい仕方で、です。
そういうわけで兄弟姉妹の皆さん、私たちは既に神から罪の赦しの恵みを頂いているのですから、この世の思いに振り回されず、神の思いにしっかり立ち、自分を神に喜ばれる生け贄として捧げてまいりましょう。そして、十字架のもとに立ち返ることができる主日の礼拝を大切にしてまいりましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
主日礼拝説教 聖霊降臨後第25主日 2015年11月15日の聖書日課 列王記上17章8-16節、ヘブライ9章24-28節、マルコ12章41-44節
冷たい雨が降る寒い土曜日の午後、家庭料理クラブはカルヤランピーラッカを作りました。
お祈りの後、レシピの説明です、今回は、ミルク粥とじゃがいものムースの2種類。
ライ麦粉と小麦粉を使った生地作りからスタートです、薄く薄く伸ばした生地は、高く重なって行きました。次はミルク粥とじゃがいものムースを包みます。刷毛で余分な打ち粉を払い、苦心しながらも、キレイなピーラッカが鉄板に並びました。
焼き上がりにバターを塗り、美味しく完食しました。
パイビ先生からは、心に響くお話も聞かせて頂きました。
ご参加の皆様、お疲れ様でした。
次回は12月12日を予定しています。
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.はじめに
本日の福音書の箇所の直前ですが、サドカイ派とよばれるユダヤ教の一派とイエス様の間の論争がありました。そこでは、死者の復活ということは起こるのかどうかが議論になりました。復活などないと主張するサドカイ派を、イエス様は旧約聖書にある神の御言葉に基づいて打ち負かしました(マルコ12章18-27節)。その一部始終をみていたある律法学者が、この方こそ神の御言葉を正しく理解する方だと確信して聞きました。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか?」「第一」(πρωτη)というのは、「一番重要な掟は何ですか?」と聞いているのです。
なぜこんな質問が出てくるのかというと、律法学者はユダヤ教社会の生活の中で起きてくる様々な問題を神の掟すなわち律法に基づいて解決する役割がありました。それで職業柄、全ての掟やその解釈を熟知していなければなりません。その知識を活かして弟子を集めて掟や解釈を教えることもしていました。神の掟としては、まず私たちが手にする旧約聖書の中に収められているモーセ五書という律法集があります。その中に皆さんよくご存知の十戒がありますが、それ以外にもいろんな規定があります。神殿での礼拝についての規定、宗教的な汚れからの清めについての規定、罪の赦しのためいつどんな犠牲の生け贄を捧げるかについての規定、人間関係についての規定等々数多くの規定があります。それだけでもずいぶんな量なのに、この他にもモーセ五書のように文書化されないで、口承で伝えられた掟も数多くありました。マルコ7章に「昔の人の言い伝え」と言われている掟がそれですが、ファリサイ派というグループはこちらの遵守も文書化された掟同様に重要であると主張していました。
これだけ膨大な量の掟があると、何か解決しなければならない問題が起きた時、どれを適用させたらよいのか、どれを優先させたらよいのか、どう解釈したらよいのか、という問題は頻繁に起きたと思われます。それだけではありません。膨大な掟に埋もれていくうちに、次第に何が本当に神の意思なのかわからなくなっていき、神の掟と思ってやったことが実は神の意思から離れてしまうということも起きたのです。例として、両親の扶養に必要なものを神殿の供え物にすれば扶養義務を免れるというような言い伝えの掟があって、イエス様はこれを十戒の第4の掟「父母を敬え」を無効にするものだ、と強く批判します(マルコ7章8-13節)。そういう時勢でしたから、何が神の意思に沿う生き方かということを真剣に考える人にとって、「どれが一番重要な掟か?」という問いは切実なものだったわけです。それは、現代を生きる私たちにとっても切実な問いです。
イエス様は、「第一の掟は、これである」と言って教えていきます。「イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」。これが第一の掟、一番重要な掟でした。ところが、律法学者は「第一の掟は?」と聞いたのに、イエス様は「第一」に続けて「第二」(δευτερα)の掟、すなわち二番目に重要な掟も付け加えます。それは、隣人を自分を愛するが如く愛せよ、でした。二番目に重要だから、少し重要度が低いかというと、そうではなく、「この二つにまさる掟は他にない」と言われます。それで、この二つの掟は神の掟中の掟であるということになる。山のような掟の集大成の頂点にこの二つがある。ただし、その頂点にも序列があって、まず、神を全身全霊で愛すること、これが一番重要な掟で、それに続いて隣人を自分を愛するが如く愛することが大事な掟としてある、ということです。
この二つの掟をよく見てみると、それぞれ十戒の二つの部分に相当することがわかります。十戒は皆様もご存知のように、初めの3つは、天地創造の神の他に神をもって崇拝してはならない、神の名をみだりに唱えてはならない、安息日を守らなければならない、というように、神と人間の関係を既定する掟です。残りの7つは、両親を敬え、殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、隣人に属するものを欲して手段を講じて自分のものにしてはならない、隣人の妻など隣人の大切なものを欲して手段を講じて自分のものにしてはならない、というように、人間と人間の関係を既定する掟です。最初の、神と人間の関係を既定する3つの掟を要約すれば、神を全身全霊で愛せよ、ということになります。人間と人間を既定する7つの掟も要約すれば、隣人を自分を愛するが如く愛せよ、ということになります。
このようにイエス様は、十戒の一つ一つを繰り返して述べることはせず、二つの部分にまとめあげました。それで、天地創造の神以外に神をもって崇拝してはならない云々の3つの掟は、つまるところ神を全身全霊で愛せよ、ということになる。同じように、両親を敬え云々の7つの掟も、つまるところ隣人を自分を愛するが如く愛せよ、ということになる、というのであります。話は少し脱線しますが、フィンランドは現在国民の75%がルター派の国教会に属しています。その中で中学2年を終えた子供たちの90%近くが堅信礼を受けます。堅信礼に先だって10日間から2週間くらいの合宿性の研修を受けますが、聖書の箇所や教義についていろいろ暗誦しなければならないことがあります。十戒とイエス様の2つの掟も暗誦箇所の一つです。
さて、イエス様から二つの掟を聞かされた律法学者は、目から鱗が落ちた思いがしました。目の前にあった掟の山が崩れ落ちて、残った二つの掟が目の前に燦然と輝き始めたのです。律法学者はイエス様の言ったことを自分の口で繰り返して言いました。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす捧げ物やいけにえよりも優れています。」律法学者はわかったのです。どんなにうやうやしく神殿を参拝して規定通りに生け贄を捧げたところで、また何か宗教的な儀式を積んだところで、神への愛や隣人愛がなければ、神からみて何の意味も持たない空しい行為にすぎない、ということが。律法学者が真理の光を目にしたことを見てとったイエス様は言われます。「あなたは、神の国から遠くない。」
これでこの件はめでたしめでたしの一件落着かと言うと、実は全然そうではないのです。イエス様が言われたことをよく注意してみてみましょう。「あなたは、神の国から遠くない」と言っています。「神の国に入れた」とは言っていません。「神の国に入れる」というのは、どういうことでしょうか?それは、人間がこの世から死んだ後、復活の日に目覚めさせられて新しい復活の体を着せられて創造主の神のもとに迎え入れられて永遠に生きることを意味します。今のこの世の人生と次に来る新しい世の人生の二つを合わせた大きな人生を生きられることです。そのような人生を生きられるために守るべき掟として、一番重要なのは神への愛、二番目に重要なのは隣人愛である、それらを具体的に言い表したのが十戒で、その他の掟はこれらをちゃんと土台にしているかどうかで意味があるかないかがわかる。こうしたことを知っていることは、神の国に入れるために大切なことではあるが、ただ知っているだけでは入れないのです。実践しなければ入れないのです。知っているだけでは、せいぜい「遠くない」がいいところです。この点は、先ほど触れたフィンランドの中学2年生もかわりません。教会で厳かに堅信礼を受けて、その後で親戚一同を集めて盛大にパーティを催しても、覚えたことが単なる知識に留まって、それも時間と共に忘れられてしまって、神の国からどんどん遠ざかってしまう人たちも大勢います。
それでは、どのようにすればイエス様が教えるような神への愛と隣人愛を実践することができるのでしょうか?それらの実践は果たして可能でしょうか?
イエス様が教えた2つの重要な掟が実践可能かどうか、まず一番重要な掟、神を全身全霊で愛することからみていきましょう。全身全霊で愛する、などと言うと、男女がぞっこん惚れぬいた熱烈相愛みたいですが、ここでは相手は人間の異性ではありません。全知全能の神、天と地と人間を造られ、人間一人一人に命と人生を与えられた創造主にして、かつひとり子イエス様をこの世に送られた父なるみ神が相手です。その神を全身全霊で愛する愛とはどんな愛なのでしょうか?
その答えは、この一番重要な掟の最初の部分にあります。「わたしたちの神である主は、唯一の主である。」これは命令形でないので、掟には見えません。しかし、イエス様が一番重要な掟の中に含めている以上は掟です。そうなると、「神を全身全霊で愛せよ」というのは、神があなたにとっても私にとっても唯一の主として保たれるように心と精神と思いと力を尽くせ、ということになります。つまり、この神以外に願いをかけたり祈ったりしてはならないということ。この神以外に自分の運命を委ねてはならないし、またこの神以外にそれが委ねられているなどと微塵にも考えないこと。自分が人生の中で受ける喜びを感謝し、苦難の時には助けを求めてそれを待つ、そうする相手はこの神以外にないこと。さらに、もしこの神を軽んじたり、神の意思に反することを行ったり思ったりした時には、すぐこの神に赦しを乞うこと。以上のようにする時、神が唯一の主として保たれます。
実は、このような全身全霊を持ってする神への愛は、私たち人間には生まれながら自然には備わっていません。私たちに備わっているのは、神への不従順と罪です。それでは、どのようにしたらそのような愛を持てるのでしょうか?それは、神は私たちに何をして下さったのかを知ることで生まれてきます。それを知れば知るほど、神への愛は強まってきます。神は私たちに何をして下さったのか?まず、今私たちが存在している場所である天と地を造られました。そして私たち人間を造られ、私たち一人一人に命と人生を与えて下さいました。悲しむべきことに、人間が自ら引き起こした神への不従順と罪のために神と人間の結びつきは失われてしまったが、神はこれをなんとしてでも回復させようと決意されました。まさにそのためにひとり子のイエス様をこの世に送られました。そして本来私たちが受けるべき罪の罰を全てイエス様に負わせて十字架の上で死なせ、その犠牲の死に免じて人間の罪を赦すことにして下さいました。さらに一度死んだイエス様を死から復活させることで、死を超えた永遠の命の扉を人間のために開かれました。もし人間がこれらのことは全て自分のためになされたとわかって、それでイエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受けると、神からの罪の赦しがその人に対してその通り本当のものになるのです。神から罪の赦しを受けた者として、その人は永遠の命に至る道に置かれてそれを歩み始めるようになり、こうして順境の時も逆境の時も絶えず神から助けと良い導きを得られながら歩み、万が一この世から死んでもその時は神の御許に引き上げられ、永遠に自分の造り主のもとに戻ることができるのです。
このように私たちは、神が私たちにして下さったことのなんたるやがわかった時、神を愛する心が生まれるのです。神がして下さったことがとてつもなく大きなことであることがわかればわかるほど、愛し方も全身全霊になっていくのです。
4.
次に二番目に重要な掟「隣人を自分を愛するが如く愛せよ」を見てみましょう。これはどういう愛でしょうか?
隣人愛と聞くと、大方は苦難や困難に陥った人を助けることを思い浮かべるでしょう。しかし、人道支援という隣人愛のかたちは、キリスト信仰者でなくても、他の宗教を信じていても無信仰者・無神論者でもできるということは、日本で災害が起きるたびに多くの人がボランティアに出かけることを見てもわかります。人道支援はキリスト信仰の専売特許ではありません。しかし、キリスト信仰の隣人愛にあって他の隣人愛にないものがあります。それは、先ほども申しましたが、神への全身全霊の愛に基づいているということです。神への全身全霊の愛とは、神を唯一の主として保って生きることです。そのように生きることが出来るのは、神がこの自分にどんなにとてつもないことをして下さったか、それをわかることにおいてです。このため、隣人愛を実践するキリスト信仰者は、自分の業が神を唯一の主とする愛に即しているかどうか吟味する必要があります。もし、別に神はいろいろあったっていいんだ、とか、聖書の神は多数のうちの一つだ、という態度をもって行った場合、それはそれで人道支援の質や内容が落ちるということではありません。しかし、それはイエス様が教える隣人愛とは別物です。
イエス様が教える隣人愛の中でもう一つ注意しなければならないことがあります。それは「自分を愛するが如く」と言っているように、自分を愛することが出来ないと隣人愛が出来ないようになっています。自分を愛するとはどういうことでしょうか?自分は自分を大事にする、だから同じ大事にする仕方で隣人も大事にする。そういうふうに理解すると、別にキリスト教でなくても一般的な当たり前の倫理になります。イエス様の教えを少し掘り下げてみましょう。
イエス様は隣人愛をあげた時、レビ記19章18節から引用しました。そこでは、隣人から悪を被っても復讐しないことや、何を言われても買い言葉にならないことが隣人愛の例としてあげられています。別のところでイエス様は、敵を憎んではならない、敵は愛さなければならない、さらに迫害する者のために祈らなければならないと教えました(マタイ5章43-48節)。そうなると、キリスト信仰者にとって、隣人も敵も区別つかなくなり、全ての人が隣人になって隣人愛の対象になります。しかし、そうは言っても、「隣人」の一部の者が危害を加えたり、迫害をすることも現実にはありうる。そのような「隣人」をもキリスト信仰者が愛するとはどういうことなのでしょうか?
イエス様は、敵を愛せよと教えられる時、その理由として、父なるみ神は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて下さる方だからだ、と述べられました。もし神が悪人に対して太陽を昇らせなかったり雨を降らせなかったりしたら、彼らは一気に滅び去ってしまいます。しかし、神は悪人が悪人のままで滅んでしまうのを望んでいないのです。神は悪人が悔い改めて、神のもとに立ち返ることを望んでいて、それが起きるのを待っているのです。彼らがイエス様を救い主と信じる信仰に入って、永遠の命に至る道を歩む群れに加わる日を待っているのです。そういうわけで、神が悪人にも太陽を昇らせ雨を降らせるというのは、神は無原則な気前の良さを持っているという意味では全くなく、悪人に神のもとへ立ち返る可能性を与えているということなのです。
ここから、敵を愛することがどういうことかわかってきます。イエス様が人間を罪と死の奴隷状態から救い出すために死なれたのは、全ての人間に対してなされたことでした。神は、全ての人間がイエス様を救い主と信じて、この「罪の赦しの救い」を受け取ることを願っているのです。キリスト信仰者は、この神の願いが自分の敵にも実現するように祈り行動するのです。迫害する者のために祈れ、とイエス様は命じられますが、何を祈るのかというと、まさに迫害する者がイエス様を自分の救い主と信じて神のもとに立ち返ることを祈るのです。「神様、迫害が終わるために迫害者をやっつけて下さい」とお祈りするのは、神の御心に適うものではありません。迫害を早く終わらせたかったら、神様、迫害者がイエス様を信じられるようにして下さい、とお祈りするのが御心に適う祈りでしょう。
このように、キリスト信仰の隣人愛は、苦難困難にある人たちを助けるにしても、敵や迫害者を愛するにしても、愛を向ける相手が「罪の赦しの救い」を受け取ることができるようにすることが視野に入っているのです。神がひとり子イエス様を用いて私たち人間にどれだけのことをしてくれたかを知れば知るほど、この神を全身全霊で愛するのが当然という心が生まれてきます。神がしてくれたことの大きさを知れば知るほど、敵や反対者というものは、打ち負かしたり屈服させるためにあるものではなくなります。敵や反対者は、神が受け取りなさいと言って差し出してくれている「罪の赦しの救い」を受け取ることが出来るように助けてあげるべき人たちになっていきます。
こうしたことがわかると、キリスト信仰で「自分を愛する」というのはどういうことかもわかってきます。つまり、神は御自分のひとり子を犠牲にするのも厭わないくらいに私のことを愛して下さった。私はそれくらい神の愛を受けている。私はこの受けた愛にしっかり留まり、これを失わないようにしよう。これが「自分を愛する」ことになります。つまり、神の愛が注がれるのに任せる、神の愛に全身全霊を委ねる、これが「自分を愛する」ことです。そのような者として隣人を愛するというのは、まさに隣人も同じ神の愛を受け取ることが出来るように働きかけたり祈ったりすることになります。隣人がキリスト信仰者の場合は、その方が神の愛の中にしっかり留まれるようにすることです。
5.
最後に、イエス様が教えた二つの重要な掟がちゃんと実践できない場合はどうしたらよいかについて一言述べておきましょう。信仰者といえども、やっぱり自分は神を全身全霊で愛していない、隣人を自分を愛するが如く愛していないことに気づかされることは日常茶飯事です。特にイエス様は、十戒の掟は外面的に守れてもダメ、心の有り様まで神の意思が実現していなければならないと教えました。そのため使徒パウロは、十戒というものは守って自分は大丈夫と思わせるためにあるのではなく、守れない自分を映し出す鏡のようなものだと教えました。そうなると私たちは永遠に神の掟を実現することはできず、知識で知っている状態に留まり、せいぜい神の国から遠くないというだけになります。
ここで次にことを思い起こさなければなりません。それは、イエス様は十字架と復活の業をもって私たちの出来ない部分を埋め合わせて下さったということです。それはかなり大きな部分と言わなければなりません。この私たちの出来ない部分を埋め合わせるために、イエス様は十字架と復活の業を行ったのです。私たちはイエス様を救い主と信じて、神が提供する「罪の赦しの救い」を受け取った。それで神は、私たちがあたかも掟を完全に守れている者であるかのように扱って下さるのです。本当は掟を守り切れていないにもかかわらず、イエス様のおかげで、神の国に迎え入れても大丈夫な者とみて下さるのです。これは、真に信じられないことです!このように扱ってもらっているのに、どうして神の御心に背いていいなどと思うことができるでしょうか?このように扱ってもらっている以上は、掟に示された神の意思に沿って生きるのが当然という心になるのではないでしょうか?それでもまた守れない自分に気づかされたら、すぐ神にそのことを認めて赦しを願います。すると神はすぐ、あなたの心の目の前にゴルゴタの十字架を示され、あのイエスのおかげでお前は大丈夫だから心配しなくてもよい、と言って赦して下さり、また永遠の命に至る同じ道を歩み続けられるようにして下さいます。そのような神への賛美と感謝を忘れずに日々を歩んでまいりましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン
主日礼拝説教 聖霊降臨後第24主日2015年11月8日の聖書日課 申命記6章1-9節、ヘブライ7章24-28節、マルコ12章28-34節
今日の聖書研究会は黙示録19章を学びました。19,20章は神様のみ業が成就する様子が描かれている箇所であると先生が述べられました。10節にある「イエスの証は預言の霊なのだ」について吉村先生とH姉から含蓄ある解説をいただきました。
今日の福音書は、有名な「山上の垂訓」と言われる、イエス様が山の上で弟子たちに説教された話です。とてもシンプルな一言、一言ですが、その言われている言葉の意味は、深い真理が込められている含蓄のある言葉です。この山上での説教は誰のために書かれたか、ということが大切なことです。5章1~2節を見ますと「イエスは、この群集を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄ってきた。そこで、イエスは口を開き教えられた」とあります。山上の説教は、マタイでは、5~7章にかけて語られています。ルカの方では、6章20~49節に書いてあります。イエス様が山の上で語られた、その山からは、ガリラヤの湖がなだらかな高原の先に見えます。静かな小高い丘の上といったところです。現在はもう2000年以上たって、まわりに大きな木々が森のように囲っていて、小鳥がさえずっています。イエス様が山の上で座られると弟子たちが、みもとに集まってきました。おそらく群集も多く、イエス様の話を聞きたいと集まっていることでしょう。イエス様としては、群集より弟子たちに対して語られたのでしょう。「あなた方は、地の塩である。」と13節に語られています。また「あなた方は世の光である」とも言われました。(14節)
信仰のない人が「地の塩である」とか「世の光である」とか言われることはないはずです。ですから、この山上の説教は、信仰を持っている人のために語られた、ということです。それなら、私たちにも、信仰を持って弟子たちと同じように語られている、ということです。信仰を持っている、ということは、つまり、キリストの救いによって罪を赦されている、ということになります。それなら、この山上の説教が弟子たちに与えられた、ということは今日の私たちから言えば、キリストに罪を赦された者として、読む、ということになるのです。(山上の説教の内容に入る前に、こうしたことを充分ふまえて見ることが、イエス様の教えの根底にあるのです。)傲慢な人間は自分の力で、神のみ心にかなう人間になることができる、と考えています。自分に欠けたことがあることは知っていても、それは、いつかは何とかすることができる、と内心は思っているのです。自分にはできなくても、人間は、いつかは、できるものである、と思うのであります。そうした人間に対して「人間は神によって救われなければ、ほんとうの人間になれない」ということを、知らせる必要がある。しかし、それは、容易なことではないのであります。神のお求めになることが何であるかを完全に知らなければならないのです。それは、十戒のいましめ、そして、この山上の教え、という一番基本となる、真理をぶっつけて、悔い改めさせるほかないのです。このようにして、山上の説教を読む者は、人間の生活に美しい理想を描くどころではない。それによって、人間は全くどうしょうもない、罪ある者であって、神に救われるほか、ない、と悟るに至るのであります。
これが、山上の説教全体の一番根底にある、ということを覚えていてください。山上の説教は、今日で言えば、教会にいる者に、告げられたものでありましょう。イエス様の、このころの言葉で言いますと、神の国のためであります。神の国は近づいた、悔い改めよ と叫ばれた。そこには、神の国を予想して、そこで、どういう生活をするか、ということであったにちがいありません。戒めのようなものが少なくないことも事実であります。しかしそれも、ただ人間が守るべきもの、ということではないのです。神の国の中にいる者の、生活の仕方である、ということです。と、すれば、それは神の恵みによって、生きている者の生活、ということになります。神様は、モーセに十戒をさずけられました。十戒は、ただの、いましめではありません。十戒のはじめには「わたしは、あなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である」とあります。十戒をとなえる前に、しっかりと、このことを示されています。つまり、「十戒」は、救いを与えられた者が、その救いを受けた物に、自分に従うことを求められたものであります。だから、こうしなさい、と言うよりは「このようになるはずではないか」ということなのであります。恵みを受けた者が、その恵みに答え、その恵みに生かされる道であります。山上の説教の、はじめの方に九つの教えがありますが、そこには、みんな「さいわいである」と言う言葉が付いているのです。文語訳では「幸いなるかな」と、はじまって、心の貧しい人は、なぜなら、点の国は、その人たちのものである。「幸いなるかな」、悲しむ人々は、その人たちは慰められる。このように「幸いなるかな」と、いきなり宣言されて、何を言うよりも先に、「さいわいである」。あなた方は、何んと幸いであることか、と叫ぶように語りかけて」いるのです。こういうことをしたら「さいわいになる」と、いうのではなく、今、すでに「さいわい」になっているのであります。
なるほど、私たちに与えられている祝福、さいわい、が完全に成就するのは、神のみ前に出た時であるかもしれません。しかし、今までに、その祝福に、あずかっているので、さいわいなのである、というのであります。話は、そこから始まる。3節から始まって12節までの「さいわい」の中で4節だけを少し深く見てみますと、4節には、「悲しむ人々は幸いである。その人たちは、慰められる」とあります。信仰者の生活には、深い悲しみがあると思います。人には言えない、悲しみもあるでしょう。ある人が言いました。「涙と共にパンを食べ、床の中で泣き明かしたことのない人は、ほんとうの恵みを知ることができない。」ここで、語られていることはただの人間の、悲しみではありません。救いを受け幸いである、と語られている人の悲しみであります。つまり、信仰生活をしている人の悲しみであります。「悲しんでいる人たちは幸いである。彼らは慰められるであろう」という、この御言葉は悲しんでいる人が慰められる時に用いられるもの、と考えられているのではないでしょうか。従って信仰を持っている人は、その悲しみが慰められることを喜んでいるはずなのでは、ないでしょうか。それなら、信仰者の悲しみというのは、どういうものでしょうか。
信仰を持って、生きると言うのは、正しい生活をすることであります。罪深い、この世にあって、信仰生活をすることは決して喜びだけではありません。信仰者、この世の罪と闘い、罪をうれえ、悲しむ生活にちがいはありません。それは、むしろ信仰生活の特徴であって、これを避けることはできません。なぜなら、信仰者は、自分が罪人であることを知っていますから、世をいたずらに、さばくことができないのです。自分も、この世の人々と同じ人間であることが、よくわかっているはずですから、この世の罪は自分の重荷として荷わなければならないはずだからであります。人ごとのように言うことができないのです、ここにも信仰者の悲しみがあるにちがいがありません。それは実はキリストに従う者の悲しみ、というべきでしょう。それなら、ここで言われる悲しみとはどういうものでしょうか。まず、ここでは心の貧しいに者に続いて語られているのです。3節の「心の貧しい者と悲しむ者」とは関係がある、ということでしょう。
九つの「幸い」といわれる説教はキリストの救いによって「さいわい」にせられた者を考えているのであります。そこで信仰者は信仰をもっているがゆえに、何を悲しむのでありましょうか。宗教改革者のルターは95ヶ条の項目を城教会のとびらにうったえました。その第1条にルターは多くのことを言っていますが、その主な点は信仰者の生涯は絶え間のない悔い改め、回心の連続であるべきとである、と、うったえています。つまり、私たちの悲しみの中心は罪に対する悲しみであります。罪の赦しを得た時には、この罪がどんなに高くついたものであったか、すなわち、神の御子の十字架の死を必要としたことが分かり、その恐ろしさを改めて知る思いであります。悲しむという字は、悲しみ続けている者という字なのです。今も、いつも悲しみが続いている、という字です。それこそ、罪に対する悲しみの特徴であります。誰でも、悲しみではなく、喜びを求めているに、ちがいありません。悲しみの中で知ることのできる喜びというものがあります。それは、実は慰めであります。慰められることができれば、悲しみの中にも喜びがあるはずです。まことの喜びは 慰めであります。その慰めも、ただひとつであります、ここで言う「ただひとつ」というのは、この慰めが、あらゆる、ほかの慰めのもとになるもの、であるということです。この慰めが得られなかったら、ほかの慰めも喜びも空しいものになってしまう、そういう、もとにある一つの慰めです。しかも、それは罪を悲しんでいる者のみが、それを知ることができるのであります。なぜでしょう。それは罪を悲しむ者は、神との関係が断たれたことを悲しんでいる者であります。それなら、それを慰められるというのは、神との交わりが打ち立てられた者のことであります。ですから、ここにあらゆることのもとがあるのです。慰められる、というのは受身の言葉です、それなら慰める者がいたはずではないでしょうか。だれが慰めるのでしょう。それは、いうまでもなく神様であります。神様は、その名を出していませんが、神様こそ、悲しんでいる者を慰めてくださるのです 神はいつも見えませんが、主役なのであります。神はどうしてくださるのでしょう。神は彼らの重荷を取り去ってくださる、重荷と言っても罪の重荷です。では重荷がどう取り除かれるのでしょう。それは、神に対する罪の責任が除かれるとうことです。そして、それは神様の方からその責任を除いていただくしかないのです。つまり、神から赦していただくほか、ないはずであります。それは、どのようにしてできるのでしょうか。それは、慰めるという字が手がかりになります。「慰め」という字は自分のかたわらに呼ぶという字です。自分のために弁護してくれるようになるということです。神は、そういう意味で私たちの味方になってくださったのでああります。重荷が除かれる、というのは私たちが罪を犯して背いていたにもかかわらず、神様は私たちの味方になってくださった、とうことなのです。
最後にヨハネ福音書14章18節にあるみ言葉を読みます。イエス様は言われました。「わたしは、あなた方をすてて孤児とはしない。あなた方のところに帰ってくる」。神様は、私たちのただひとつの方、慰めになってくださるのであります。 ハレルヤ・アーメン
主日礼拝説教 全聖徒の日2015年11月1日の聖書日課 マタイ5章1~12節
本日は、ルター派のキリスト教会では宗教改革主日と定められています。ドイツのヴィッテンベルグ大学の聖書学の教授、神学博士マルティン・ルターがヴィッテンベルグ城の教会の扉に有名な95箇条の論題を釘づけして、当時のカトリック教会に挑戦状をたたきつけて宗教改革の口火を切ったのは、1517年10月31日のことでした。今度の土曜日がその記念日となります。宗教改革の歴史やルターの神学は、それ自体興味の尽きないテーマで、礼拝の説教の場を借りてお話しすることもふさわしいかもしれませんが、説教は説教。講義や講演ではありませんので、ここは本日与えられた福音書の日課の解き明しに専念したく思います。もちろん、解き明しは、いつものように宗教改革の精神に基づいて行いたく思います。つまり、人間の救いは、神の御言葉である「聖書のみ」、イエス・キリストを通して示された「神の恵みのみ」、そのイエス様を救い主と信じる「信仰のみ」、という三つの「のみ」に基づく。これが宗教改革の精神です。
本日の福音書の箇所は、イエス様が弟子たちや群衆を従えてエルサレムに向かう途中でエリコという町に立ち寄り、そこで一人の盲人の物乞いの目を見えるようにしたという奇跡についてです。本日の説教では、次の2つの事柄について考えてみたく思います。
一つめは、イエス様がこの盲人の男バルティマイを癒す直前に、「あなたの信仰があなたを救ったのだ」と言われますが、これは一体どんな意味なのか?癒された後でそう言ったならば、信仰があったから見えるようになったと言っているのだとわかります。しかし、イエス様は癒す前にそう言ったのです。そこで、イエス様は信仰があれば病気は治ると前もって言って、それを事後的に実現して見せた、と理解することもできます。後に言うべき言葉を先に述べたというわけです。そうすると今度は、病気が治るというのは信仰があったおかげということになり、もし治らなければ信仰がないということになってしまいます。イエス様は本当にそんなことを言っているのでしょうか?
もう一つ考えてみたく思うことは、お祈りすることにはどんな意味があるのか、ということです。イエス様は、天の父なるみ神は私たちが願う前から必要なものを全て知っている、と教えました(マタイ6章8節)。神は既になんでも知っているのであれば、なぜあえてお祈りする必要があるのか?本日の箇所でも、イエス様はバルティマイが見えるようになりたいと知っていて、何をしてほしいのか?などと聞くのです。神は既に知っていても、私たちはそれをあえて神に打ち明けて知らせなければならないのです。なぜでしょうか?そのことも考えてみたく思います。
2.「あなたの信仰があなたを救ったのだ」
「あなたの信仰があなたを救ったのだ」というイエス様の言葉の意味について。この言葉は、同じ出来事が記されているルカ18章にも言われています。また違う出来事の時にも同じ言葉が使われています。マルコ5章とマタイ9章で、12年間出血が止まらず治療に財産を使い果たした女性がイエス様の服に触れば治ると考えて、それをして出血が止まりました。この時イエス様は女性が癒された後で問題の言葉を述べました。信仰があったから治ったと言っているように聞こえます。でも、そうすると、病気が治らないのは信仰がないことになってしまいます。ルカ7章をみると、何か大きな罪を犯した女性がイエス様から赦しを受けて、感謝の行為をイエス様に行う出来事があります。その時、イエス様は「あなたの信仰があなたを救った」と言います(50節)。この時は特に病気の癒しはありません。そういうわけで、「信仰が救った」というのは、必ずしも病気が治ることに結びつくわけではないということになります。
このイエス様の言葉の意味を考える時、ギリシャ語の原文を見てみるのがよいです。以上述べた5か所で「救った」という動詞は現在完了形です(セソーケンσεσωκεν)。現在完了などと言うと英語の授業みたいで嫌ですが、ギリシャ語の現在完了は英語とは違うところがあるので英語のことは忘れましょう。ギリシャ語の現在完了の基本的な意味は、「過去のある時点で起きたことが現在まで続いている状態にある」ということです。それに即して問題のイエス様の言葉の意味を考えてみると、こうなります。「過去のある時点から現在まであなたは信仰によって救われた状態にある」ということです。過去のある時点と言うのは、イエス様を救い主と信じた時です。つまり、イエス様を救い主を信じた時から現在に至るまで、その人は救われた状態にあった、ということです。これは少し変です。というのは、まだ目が開かれる前に既に救われていたと言うからです。普通なら、病気が治ったことをもって救われたと言うはずのに、イエス様ときたら、治ってもいない時にお前は既に信仰によって救われた状態にあるというのです。なぜでしょうか?
それは、イエス様にしてみれば、病気が治ることと救われることとは別問題だからです。病気の状態にあっても救われた状態にあると言っているのです。それでは救いとは一体何なのか?それは、人間が堕罪の時に神との結びつきを失ってしまったことに対して、その結びつきを回復して神から守りと導きを受けてこの世を生きられるようすること、そして万が一この世から死んでもその時は神が御手をもって自分を御許に引き上げてくれて永遠に神のもとに迎え入れられること、これが救いです。そのような神との結びつきの回復を妨げているものとして、堕罪の時に人間の内に巣食うようになってしまった罪があります。神から送られたひとり子のイエス様は、人間の全ての罪を全部自分で請け負って、まるで自分に人間全ての罪の責任があるかのようにされて、神から来る全ての罰を受けてゴルゴタの十字架の上で死なれたのです。そして三日後に死から復活させられて、今度は死を超えた永遠の命に至る扉を開かれたのでした。これらのことが自分のためになされたとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受ける者は、まさにイエス様の身代わりの犠牲の死に免じて神から罪の赦しを受けられます。神から罪の赦しを受けられれば、神との結びつきが回復でき、今のこの世と次の世を合わせた大きな生を神との結びつきの中で生きることができるようになったのです。これが救いです。
この救いは、まさに神がひとり子イエス様を用いて人間にかわって人間のために整えてくれたものです。そういうわけで、救われるために人間がすることと言えば、全てが自分のためになされたとわかって、それでイエス様こそ救い主と信じて洗礼を受けるだけです。それで、この救いを受け取ることができます。受け取る人が健康であるか病気であるかは関係ありません。また、救いを受け取ったとき、それで病気がすぐ治るということでもありません。もちろん、医療の発達やそれこそ奇跡が起きて病気が治ることもあります。しかし、たとえ治らなくても、病気の信仰者が受け取った救いは健康な信仰者が受け取った救いと何ら変わりはありません。もし重い病気が奇跡的に治ったら、その人は、神の栄光を今度は病気の時と違った形で現わしていかなければならない、まさにそのために命が助けられたのだと理解しなければならないでしょう。
ところで、盲人バルティマイの場合、まだ十字架と復活の出来事は起きていません。それなので、「あなたの信仰があなたを救った」と言われても、なかなか自分は救われているとは思えないでしょう。「あなたは私を救い主と信じる信仰によって既に救われた状態にあった」と言われても、何も起きなかったらただの口先にしか聞こえないでしょう。その意味で、癒しが与えられたことはイエス様の言葉は口先だけではないことが明らかになりました。イエス様の言葉は口先だけのものではないということは、マルコ3章の全身麻痺の人の癒しのところでも起きました。イエス様は、その人とその人を必死になって連れてきた人たちの信仰を見て、「あなたの罪は赦される」と言いました。これに対して、様子を窺っていた律法学者が、人間の罪を赦すことが出来るのは神しかいないのにこの男は口先でこんな出まかせを言って自分を神同等扱いにして神を冒涜した、と批判する。これに対してイエス様は、自分の口から出る言葉は単なる音だけでないことを示すために、男の人に立ちあがって行け、と命じると、その人の麻痺状態は消え去って本当に歩いて行ってしまった。「罪は赦される」と言った言葉が口先だけでないことが示されたのです。
ルカ7章の罪を赦された女性の場合は、病気の癒しはありませんが、罪の赦しを与えてくれたイエス様に対して深い感謝の気持ちを現わしました。罪の赦しを与えられたことで、断ち切れていた神との結びつきが回復する。そしてまだ罪を内にもっていながらも、イエス様の十字架の贖いの業のおかげで、いつも罪の赦しの恵みの中で生きられるようになる。こうして神との結びつきをもって、今のこの世と次の世を合わせた大きな生を生きられるようになる。これが救いで、それはイエス様を救い主と信じる信仰で持つことが出来る。ここから生まれ出る感謝の念が、神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するが如く愛する心と力を生み出していく。罪を赦された女性はその例であると言えます。
3.祈ることの意味
次に、お祈りすることの意味についてみてみましょう。お祈りすることにはどんな意味があるのでしょうか?特に、天の父なるみ神は祈る前から私たちの必要なものを知っている。それなら、なぜあえて祈る必要があるのでしょうか?
一つには、祈りは私たちが神を信頼していることを神に対しても自分に対しても示す最高の機会ということがあります。もし、神に祈ることもせず心の中にあるものを打ち明けもしなければ、それは相手が神では意味がない、とか、自分はこの課題を自分の力で解決する、とか、ひょっとしたら別の何ものかの力を借りて解決すると言っているのと同じです。そういう人は、神をもう信頼していません。
使徒パウロは、キリスト信仰者は聖霊の影響力により神のことを「アッバ、父よ」と言って呼ぶのだと述べています(ローマ8章15節、ガラテア4章6節)。アッバというのは、アラム語の父という単語の呼び名の形です。日本語に直せば、お父さん、お父ちゃん、パパ、というところでしょう。ルターによれば、神は自分がそのように呼ばれるのを聞くと、とても心を動かされ、そう呼んだ人の祈りを聞かないではいられなくなるということです。人間の父親だって、自分の子供が何か必要なものがあればそれを用意してあげようと思うことが出来るのだから、人間の造り主でもあり人間との絆を回復するために自分のひとり子を犠牲にするのも厭わない方であれば、なおさら必要なものを用意して下さるのではないでしょうか?
ここで一つつまずきの種になることがあります。それは、神がそれくらい祈る人を大事に考えてくれるのならば、なぜ祈ったことが起こらないということが往々にしてあるのか。また起こったとしてもあまりにも時間がかかりすぎるとか、祈ったことと全然違うことが起こるとか、どうしてそういうことが起こるのかということです。これについてルターは、神に助けを祈り求める人は、いつ、どんな仕方で、誰を通して等々、神を縛りつけるような祈りはしてはいけないと教えます。そんな祈りをしたところで、いつ、どんな仕方で、誰を通して等々については神が自分の判断で決めるので、神が良かれと判断しなければ何も起こりません。祈り求めたことには、必ず答えが返って来る。それが、祈り求めた内容と一致しなくても、時間がかかったとしても、それは神が良かれと判断してそうしたことなので受け入れなければならない。人間の救いのためにひとり子をこの世に送り犠牲にすることも厭わなかった神の判断である。だから、自分が祈り求めた内容よりも、神が与えた祈りの答えの方がよいものとして受け取らなければならないのです。
このことに関連して、特別支援の必要な子供が生まれた両親の祈りについて触れておきましょう。両親ともにキリスト信仰者で、健康な赤ちゃんが生まれますようにと祈り続けていました。ところが期待に反する結果になってしまった。子供の染色体に異常があったことが原因ですが、そのような異常は何万人のうちに一人生じる。そうするとどなたか両親がそのような子供を引き受けなければならない運命にある。よりによって自分たちにその役が回ってきてしまった。白羽か黒羽かわからないが神から弓矢を向けられて見事命中してしまった。あなたたちやりなさい、と神に選ばれてしまったわけだが、それは逆に言えば神はこの家族に目をつけたということで、その意味で当たった矢は案外白羽で、目をつけた以上、神はこの家族を見捨てないということがわかってきました。
加えて、特別支援の子供の誕生は、キリスト教信仰の中で最も大事な事柄の一つである復活ということをとても身近なものにしました。使徒パウロの教えによれば、復活の日、朽ちる体は朽ちない体に変えられ(第一コリント15章35~55節)、イエス様によれば、復活した者は皆天使のようになります(マルコ12章25節)。神は全てが可能な方なので、この世の人生の期間中に染色体異常が解消することが起きるかもしれない。しかし、それが起きなくても、復活の日が来れば神の栄光を映し出す朽ちない体を与えられて懸案はそこで最終的に解決するのです。そういうわけで、特別支援の子供の誕生は、両親にとってとても終末論的な出来事になりました。終末論的出来事というのは、そのような子供が生まれて、この世が終わったという気分になったということではありません。そうではなくて、人生とは今のこの世の期間と次の新しい世の期間の双方を合わせたものという具合に突然広がりをもったということです。
話しが少し横道にそれましたが、以上、祈るのは、私たちの神に対する信頼を神に対しても自分に対しても示すためであり、またその信頼関係を私たちの側で維持したり強めていくために必要であるということを申し上げました。
祈るもう一つの理由として、私たちが課題や心配事に押し潰されないためということもあります。そのことについて、ルターが「ペトロの第一の手紙」5章7節の聖句を解き明かした時によい教えを述べているので、それを見てみたいと思います。第一ペトロ5章7節というのは、新共同訳では「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」となっています。この訳は少し弱いと思います。原文のギリシャ語はもっと強く、「思い煩いは、何もかも神に投げ捨ててしまいなさい。なぜなら神はあなたがたの面倒をみて下さる方だからです」となります。「神は心にかけてくれる」では弱すぎます。「神は面倒をみてくれる」のです。英語やドイツ語やスウェーデン語やフィンランド語の聖書の訳をみても、強い意味をとっています。スウェーデンやフィンランドでは、キリスト信仰者は試練にある兄弟姉妹を励ます時によくこの聖句を贈り言葉に用います。日本の信仰者は、どの聖句を用いるでしょうか?話が脇にそれましたが、この聖句についてのルターの教えを以下に引用します。
「あなたたちは抱えている課題をただ自分の重荷に留めてしまってはいけない。なぜなら、あなたたちはそれを負い続けることは出来ないからだ。そんなことをしていたら、やがてはその重荷に押し潰されてしまうであろう。そうではなくて、重荷をかなぐり捨てて、それを喜んで安心して神に投げ捨てて、神が処理してくれるのに任せなさい。そして次のように祈りなさい。『父なるみ神よ、あなたは私が仕えるべき主であり、私の神です。あなたは、私がまだ存在しない時に私を造って下さり、それだけでなく、あなたのひとり子イエス様を通して私を罪と死の奴隷状態から自由の身にして下さいました。そのあなたが、成し遂げなさいと言ってこの課題を私に与えてくださいました。ところが、それは私が望む通りにはうまくいきませんでした。多くの事柄が私の心身を重苦しくして、心配事が次々に押し寄せてきます。もう自分自身で助けも助言も見つけられません。どうか、あなたが助けと助言をお与えください。どうか、これら全ての課題や困難や心配事の中であなたが全てを掌る全てになって下さい。』
この祈りは、真に神の御心に沿う祈りである。神は、私たちにしなさいと言っておられるのは、与えられた課題に取り組むことだけである。それ以上のこと、例えば、取り組みがどんな結果をもたらすかの心配については、それは神が持っていればよいのである。
このように祈れるキリスト信仰者の課題や心配事への向き合い方は、そうでない者たちよりも勝っている。キリスト信仰者は、心配事の鎖から自由になる術を心得ている。他の者は、自分で自分をいじめるような不幸を背負い、しまいには希望のない状態に陥ってしまう。それに対して、キリスト信仰は次の聖句をしっかり握りしめている。『思い煩いは、何もかも神に投げ捨ててしまいなさい。なぜなら、神はあなたがたの面倒をみて下さる方だからです。』そして、この御言葉は真にその通りであると信じて疑わないのである。」
4.主の祈り - 祈りの中の祈り
祈りについて、最後にもう一言付け加えておきたく思います。祈る課題の性格上、祈りづらい、祈れない、ということもあります。どうしても解決不可能にみえる課題があり、その解決を神にお願いしても、もし得られなかったらどうしよう、神に責めを着せたくないために祈れないということもあります。例えば、病気が重くなってもう医者も万事休すと言う時、まだ奇跡が起きますようにと祈ることはできます。しかし、愛する人が亡くなった時、神様どうして癒しを与えてくれなかったのですか?死んでしまったら、さすがに生き返らせて下さいとはもう祈れません。そういう時何をどう祈っていいのか?出てくる言葉はきっと、神様なぜなのですか?でしょう。
どう祈ってよいのかわからない時、祈る言葉が見つからない時、それでも、神との信頼関係を保つために、自分が心配事に押し潰されないために祈らなければならないのならば、どう祈ればよいのでしょうか?イエス様がこう祈りなさいと教えた「主の祈り」がまさにそのためにあります。その祈りには、どんな状況に置かれていてもキリスト信仰者ならば祈らなければならないことが全て入っています。すなわち、祈る人がどんな状況に置かれていても、
父なるみ神の御名が神聖なものとして保たれますように、
神の御国が神の決められた時に到来しますように、
神の御心が御国と同じように地上でも行われますように、ということです。
これらは祈る人がどんな状況に置かれても祈らなければならない事柄です。さらに「主の祈り」には、神にお願いしなければならないことがまだあります。
日常に必要な食べ物、着る物、家族や友人がありますように、
神から罪を赦された者として隣人の自分に対する罪を赦すことができますように、
そして襲いかかる誘惑や悪から守られますように、ということです。
これらはいつどこででもどんな状況に置かれていてもお祈りしなければならないことです。私たちには、このような「祈りの中の祈り」を与えられていることを忘れないようにしましょう。
主日礼拝説教 聖霊降臨後第22主日2015年10月25日の聖書日課 エレミア31章7-9節、ヘブライ4章1-13節、マルコ10章46-52節
10月の第三火曜日、秋のさわやかな陽気の中で手芸クラブを開きました。今回は人数も多くて、明るく賑やかな雰囲気になりました。手芸クラブは、最初にお祈りをして始めます。
今回の作品は、フェルトのコロコロビーズのネックレス。はじめに作品のモデルを見て、各自作ってみたいフェルトの色を選びました。色は沢山あるので選ぶのはなかなか簡単ではありませんでしたが、やっと五色のフェルトを選び、それから作り始めました。
フェルトをエアクッション・シートの上に薄く置いて、少し石鹸が入っている水でぬらしてからエアクッションの中でコロコロまるめます。それが終わると今度はフェルトの色を変えてまた同じことを繰り返します。これを何回かやって、フェルトが固い棒みたいになります。
次は今回の作業の中で一番ワクワクさせるところです。まず、フェルトの棒をカッターで切ります。すると、きれいな色の中身が出てきます。切ったビーズの真ん中に穴をあけて糸を通します。一人一人違う色のフェルトのビーズを作って、素敵なネックレスの出来上がりです。
ビーズができた後で、聖書のルカ福音書10章38-42節の読み聞かせがありました。マルタとマリアの姉妹についての話です。朗読の後、パイヴィ宣教師から、次のようなお話がありました。「料理とか、もてなしとか、生活のための必要なものは私たちにとって大事ですが、私たちの人生にとって一番大切なことはそれらではありません。私たちの人生にとって最も大切なことは、天と地と人間を造られた神様についてイエス様が教えたことです。イエス様の教えから、神様の計り知れない愛を知ることができます。イエス様が『マリアは良い方を選んだ』と言われたのは、私たちにとって良い例になるでしょう。創造主の神様のことを知ることと、イエス様を信じて神様の子供とされること、これらは、人生にとって一番大切なことだと思います。」
次回の手芸クラブは11月18日の予定です。ヒッメリという、フィンランドのクリスマスの飾りです。詳しくは、少し後、スオミ・キリスト教会のホームページの案内をご覧ください。
1.ある男の人がイエス様に「永遠の命を受け継ぐためには何をすべきですか?」と聞きました。永遠の命とは、キリスト教信仰で最も大事な事柄の一つです。私たちは今のこの世の人生を生きています。キリスト教信仰では、将来いつか今のこの世が終わって新しい天と地が創造される新しい世が来る、その時既に死んで眠りについていた人たちが眠りから起こされて、ある者は新しい復活の体を与えられて自分の造り主である神のもとに迎え入れられる。これが永遠の命です。ただし、別の者は、そうならないで、永遠に自分の造り主と切り離された悲惨な状態に陥ってしまいます。
そこで、復活した者たちが迎え入れられるところとはどんなところかと言うと、これは盛大な結婚式の祝宴に例えられるくらい(黙示録19章、マタイ22章、ルカ14章)、この世の労苦が完全に労われるところです。また、「全ての涙が拭われる」と言われるくらいに(黙示録21章4節、7章17節、イザヤ書25章8節)、この世で被った不正や悪が神の正義の尺度で完全かつ最終的に清算されるところです(ローマ12章19節、イザヤ35章4節、箴言25章21節)。さらに、この世で神の意思に沿うように生きよう、神の愛を周囲に伝え自らも行っていこうとしたのだが、いろいろうまくいかなかったとしても、それらは全く無駄ではなかったことが明らかになるところです。そういう復活した者たちが迎え入れられるところをキリスト教では、「神の国」とか「天の御国」とか「天国」とか言います。そういうわけで、永遠の命を得るというのは、復活させられて永遠に神の国に迎え入れられるということです。
この男の人は、永遠の命を受け継ぐには何をすべきか、と聞きました。「受け継ぐ」というのはギリシャ語の単語(κληρονομεω)の直訳ですが、まさに財産相続の意味を持つ言葉です。男の人はお金持ちだったので、永遠の命というものも、何か正当な権利があって自分のところに転がり込んでくる財産か遺産のように考えていたのでしょう。自分は何をしたらその権利を取得できるのか?
これに対してイエス様は、お前は十戒を知っているだろう、と言って、そのいくつかを述べます。殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え。すると男の人は、先生、そうしたものは若い時から守ってきました、と答える。これで十分なのですか?他にすることはないのですか?あればおっしゃって下さい。それも守ってみせます。全ては永遠の命の権利を取得するためですから。そんな思いが男の人の答えから伺えます。ところがイエス様はとんでもない冷や水を浴びせかけました。「お前には欠けているものがひとつある。所有する全ての物を売り払い、貧しい者たちに施しなさい。そうすればお前は天国において宝を持つことになる(εξεις未来形)。それから私の後に従って来なさい」と答えました。「天国において宝を持つことになる」とは、永遠の命をもって神の国で生きることを意味します。地上における宝、富と対比させるために、永遠の命を天国の宝と言ったのでした。
男の人は悲しみに打ちひしがれて退場します。金持ちのその人は、永遠の命という天国の宝を取るか、それとも地上の宝を取るかの選択に追い込まれてしまい、前者のために後者を捨てることができませんでした。天国の宝などという目に見えないものよりも、やはり地上の宝という実際手にしているものの方に人間の心は向いてしまうのだ、と私たちも男の人の気持ちがわかったような気がします。実は、ここは、もっと深い意味があるので以下それを見てみましょう。
この男の人は、単なる私利私欲で富を蓄えた人ではなかったと言えます。まず、イエス様のもとに走り寄ってきます。そして跪きます。息をハァハァさせている様子が目に浮かびます。永遠の命を受け継げるためには、何をしなければならないのか、本当に知りたい、とても真剣そのものです。イエス様に十戒のことを言われると、若い時から守ってきています、と答えます。これは、自分が非の打ちどころのない人間であると誇示しているというのではなく、自分は若い時から神の意思を何よりも重んじて、それに従って生きてきましたという信仰の告白です。イエス様もそれを理解しました。皆様のお手元の聖書には「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた」と書いてありますが、「慈しんで」というのはギリシャ語の原文では「愛した(ηγαπησεν)」です。イエス様がその男の人を「愛した」というのは、その人の十戒を大事に思う心、神の意思を重んじる心が偽りのないものとわかって、それで、その人が永遠の命を得られるようにしてあげたいと思ったということです。ところが同時に、その人が永遠の命を得られない大きな妨げがあることも知っていた。その妨げを取り除くことは、その人にとって大きな試練になる。その人はきっと苦悩するであろう。イエス様は、そうしたことを全てお見通しで、それで同情したのです。愛の鞭がもたらす痛みをわかっていました。そして愛の鞭を与えたのです。
この男の人の問題はなんだったのでしょうか?それは、神の掟をしっかり守りながら財産を築き上げたという背景があったため、なんでも自分の力で達成・獲得できると思うようになり、永遠の命も財産と同じように自分の力で獲得できるものになってしまったということです。また、神の意思に従って生きて成功した人は往々にして、自分の成功はそうした生き方に対する神からのご褒美と考えるようになることがあります。詩篇1篇を見ますと、「主の教えを愛して、それを昼も夜も口ずさむ人」はどんなに神から祝福を受けるかということが述べられています。「主の教え」というのは、ヘブライ語でトーラー(תורה)で、まさに律法ないし十戒を指します。そのような人は、「流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人がすることはすべて、繁栄をもたらす」と言われています。この男の人の生き方は、一見すると詩篇1篇で言われていることを絵に書いたような具体例に見えます。
詩篇1篇の理解の仕方について、研究者たちから、これは律法を守れば褒美として神から繁栄をいただけると理解してはいけないとの指摘がなされてきました。ある研究者によれば、この箇所は、人間の造り主が定めた掟を守って生きればちゃんと育って実を結ぶ木のようになると言っているだけで、必ずしも金持ちになるという意味ではない、金持ちでなくてもいろんな育つ仕方や実の結び方がある、ということです。また別の研究者は、十戒を守る人の成すことは金持ちであろうがなかろうが、すべて神の目から見てよいものである、ということを意味しているにすぎないと言います。いずれにしても、詩篇1篇は数と量で量られる繁栄をもって神の祝福のあらわれであると理解しないように注意しなければなりません。
しかしながら、そういう理解の仕方の教わっていないところでは、どうしても、十戒をしっかり守って財産を築き上げたというのは、やはり神からの祝福の現われ、神の祝福は努力に対するご褒美、報酬というふうに考えてしまうのは人情でしょう。弟子たちが驚きの声をあげたこともよく理解できます。神から祝福を受けて繁栄した人が神の国に入れるのは駱駝の針の穴の通り抜けよりも難しいと言うのならば、それでは、それほど神から祝福を受けていない人はどうなってしまうのか?駱駝どころか恐竜が針の穴を通るよりも難しくなってしまうのではないか?財産を売り払ってしまいなさい、というイエス様の命令は、今まで神の祝福の証と考えられていたものが実はそうではなかったと思い知らせるショック療法でした。加えて、永遠の命というものは、人間の力や努力で獲得できるものではないということも思い知らされました。
人間が神の御心に適う者になれるかどうか、神の目に相応しいと認められて永遠の命をいただけるかどうかという問題について、イエス様は実に厳しいことを教えました。他にもいろいろあります。
マタイ5章では、兄弟を憎んだり罵ったりすることは人を殺すのも同然で十戒の第5の掟を破ったことになる、また、異性を欲望の眼差しで見ただけで姦淫を犯すのも同然で第6の掟を破ったことになる、と教えます。十戒を外面的だけでなく心の中まで完璧に守れる人間、神の意思を完全に満たせる人間は存在しないのであります。マルコ7章の初めにはイエス様と律法学者・ファリサイ派との有名な論争がありました。何が人間を不浄のものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまうか、という論争でした。イエス様の教えは、いくら宗教的な清めの儀式を行って人間内部に汚れが入り込まないようにしようとしても無駄である、人間を内部から汚しているのは人間内部に宿っている諸々の性向なのだから、というものでした。つまり、人間の存在そのものが神の神聖さに相反する汚れに満ちている、というのです。当時、人間が「悔い改め」をしようとして手がかりになるものは、十戒のような掟や様々な宗教的な儀式でした。しかし、十戒を外面的に守っても、宗教的な儀式を積んでも、それは神の意思の実現には程遠く、永遠の命を得る保証にはなりえないのだとイエス様は教えるのであります。
それではイエス様は何のためにこの世に送られてきたのでしょうか?神の意思に従って生きるように教えながら、そんなことをしても永遠の命は得られない、などとは。イエス様は、ただ人間の限界を思い知らせて、人間をがっかりさせるためにこの世に送られてきたのでしょうか?
いいえ、そうではありません。全く逆です。イエス様は、人間が超えられない限界を改めてわらかせた上で、今度は自らその限界を人間にかわって超えてあげる、そうすることで人間が永遠の命を持てるようにする、そのために送られたのです。それでは、どうやってイエス様は人間にかわって人間の限界を超えてくれたのでしょうか?
人間が永遠の命を持てない、神の国に入れない最大の原因は、人間に宿る罪の汚れでした。神は神聖な方なので、罪の汚れを持つ人間がその前に立とうものならたちまち焼き尽くされてしまいます。人間が永遠の命を持てて神の国に入れるようになるためには、人間に宿る罪の汚れをなんとかしなければなりません。人間はそれを自分の力では洗い落とすことができません。ではどうすればよいのか?神が講じた策は以下のことでした。神のひとり子イエス様を犠牲の生け贄にして、彼に人間の罪を全部請け負わせて、あたかも彼が全ての罪の原因であるかのようにして、その罰を全て負わせて、ゴルゴタの十字架の上で死の苦しみを受けさせた。こうして神のひとり子の身代わりの犠牲に免じて、人間は神から罪を赦してもらえるという可能性が開かれた。さらに神はイエス様を死から復活させることで、今度は永遠の命に至る扉を人間のために開かれた。人間は、これらの出来事が自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、この神の罪の赦しがそのまま頂けて、その人は永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩み始めることになる。
十戒の掟、神の意思は、人間が罪を行為にして犯さないように人間を縛り、見張っています。それでは心の中の罪はどうなるでしょうか?罪は行為として犯さなくても、心の中では残ります。それに対して神が十戒をもって見張っていて、いつでも落ち度を見つけようとしていると思っただけで死にそうになります。しかし、イエス様を救い主と信じる者は落度があるとわかっていながら、良心の平和があるのです。イエス様の十字架に心の目を向けることで、確かに自分は罪深い者ではあるが神はあのイエス様の犠牲に免じてこの自分を赦して、神の子として扱って下さっているのだ、その証拠にあの十字架があるのだ、と言い聞かせることができるのです。ここから、どんな時でもどんな状況でも神に対して感謝する気持ちが生まれ、永遠の命に至る道を歩み続けることができるのです。
このようにして、罪を内に持っていながらも永遠の命を得られることが可能になったのです。それは、神がイエス様を用いて罪の赦しの救いを実現したことと、それが本当にあった、それでイエス様こそ救い主と信じる信仰の二つがタイアップして、永遠の命が得られるようになったのです。一方で神が行ってくれた業があり、他方でそれを信じて受け入れる信仰が一緒になって、永遠の命が得られるのです。もう、財産があるかどうか、自分に能力や実力があるかは全く関係なくなったのです。本日の福音書の箇所の最後でイエス様は、「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」と言っていますが、これは、まさに、永遠の命を自分の力で獲得できると考えている人たちが先の者で、彼らが先頭から後部に置かれてしまうということなのです。また、永遠の命を自分の力で獲得などできないとうていできないと無力感の中にあった後部の人たちが、イエス様を救い主と信じて神の整えた救いを受け入れることで永遠の命を得られるようになって先頭に置かれるということなのであります。
しかしながら、こうしたことは、まだイエス様の十字架と復活の出来事が起きる前の段階ではわかりません。イエス様に、捨ててしまいなさい、と言われて、男の人はそれが出来ずに肩を落として立ち去ってしまいました。まだ神が罪の赦しの救いを実現する前のことなので仕方ありません。願わくば、その男の人が、十字架と復活の出来事の後、神が人間にかわって救いを実現してくれたという福音を聞いて、イエス様こそ救い主と信じて、本当に永遠の命を手に入れることができたように。そして、永遠の命という天国の宝は、地上の宝を量る物差しで測りきれない価値があり、その前では地上の宝など色あせてしまうことがわかったように願わないではいられません。
ところが、逆に、捨てなさい、売り払ってしまいなさい、と言われて、そうですか、わかりました、やってみせましょう、という人も出てくるかもしれません。これは、一見豪傑に見え、神といえども一目置かざるを得なくなるようにみえます。しかし、これは、永遠の命や救いを人間の力や努力で獲得しようとする考えで、金持ちの男の人と同じです。男の人の場合は、永遠の命は人間の力で獲得できるものだが自分は力及ばずと言って退場しました。売り払えると言う人は、自分にはその力があると言う人です。どちらももともとの考え方は同じです。
実は、ペトロが弟子たちを代弁して、この考えを口にしました。「わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。」あの金持ちは捨てることが出来なかったが、私たちは違います。だからイエス様、永遠の命を得られるのでしょうか?これに対するイエス様の答えは、一見ペトロに同意しているように見えます。私のため福音のために親兄弟家財の一切合財を捨てた者は、百倍受け、永遠の命を受ける。だから、お前たちも捨てた以上は受けるのだ、という具合です。しかし、よく注意しましょう。捨てる根拠として、「イエス様のためだけ」ではなく「福音のために」とも言っています。この段階ではイエス様の十字架と復活の出来事はまだ起きていません。福音とは、先ほども申しましたように、イエス様の十字架と復活があって、それで永遠の命と救いが神の力で実現したという朗報です。まだこの段階ではその朗報自体がないので、イエス様のこの言葉は将来に向けられたと考えるべきです。それで、弟子たちが全てを捨てたと言っても、100倍受けて永遠の命も受けられるほどの捨て方になるのは、まだ先のことで、この時点での捨て方は永遠の命を保証するものではありませんでした。このように福音がなく、ただイエス様人物だけでは、カリスマ的な指導者に帰依するだけのことです。
ここで、このイエス様の言葉がもたらす大きな難しさについて見てみましょう。永遠の命を受けられるためには、親兄弟家財の一切合財を捨てなければならないのでしょうか?財産を即刻売り払って家族のもとを立ち去らなければならないのでしょうか?
いいえ、そういうことではありません。イエス様が「わたしと福音のゆえに」と言っていることに注意する必要があります。つまり、イエス様と福音を選ぶか、親兄弟家財を選ぶか、という二者選択の状況に追い込まれた時はじめて、この捨てるという問題が出てきます。もし幸運にも家族の者が皆同じ信仰を持っていれば、二者選択の問題は生じないので、「捨てる」ということもでてきません。
さらに、自分は迫害に見舞われた時でもそれを遥かに上回る良いものを得ることができるのだ、次の世では永遠の命を得ることが出来るのだ、と信じて疑わない人は、たとえ財産を持っていても、それは心を縛りつけるものではなくなって、たまたま神から有効に使いなさいと預かっているものにしか感じられなくなります。ルターが教えているように、そのような人は富の奴隷ではなく、主人なのです。彼の言い方にならえば、自分の持っているお金に対して、「親愛なる私の金貨君、あそこに着る服がなく震えている人がいる。さあ、すぐ行って助けてあげなさい」と言える人です。
しかしながら、もし肉親が無神論者であったり、異なる信仰を持っていてキリスト信仰に難癖をつけたり、最悪の場合それを捨てるように要求する場合には、二者選択の問題がでてきます。そこでイエス様と福音を選ぶ時、「捨てた」ということが起きます。それでは「捨てる」とはどういうことか?家を出てしまうということか?これもそうではありません。イスラム教国のようにキリスト教徒になれば家族といえども命の危険が生じる場合は家を出るのはやむを得ないと思いますが、日本社会ではそういう危険はないでしょう。家に留まっても、イエス様と福音を選んでいる以上は、それらのゆえに、反対する肉親を捨てているということは起きています。同じ屋根の下にいて「肉親を捨てている」などと言うと、何か、口も聞かず、背を向き合っているような冷え切った人間関係が支配するような感じがしますが、これもそうではありません。そのことを最後に述べて、本説教の締めにしたいと思います。
私が昔フィンランドで聖書の勉強を始めた時、教師に次のような質問したことがあります。「もし非キリスト教徒の両親が子供のキリスト信仰を悪く言ったり、場合によっては信仰を捨てさせようとしたら、第4の掟『父母を敬え』はどうしたらよいのか?」彼は次のように答えて言いました。「何を言われても騒ぎ立てず取り乱さずに落ち着いて自分の立場をはっきりさせておきなさい。意見が正反対な相手でも尊敬の念を持って尊敬の言葉づかいで話をすることは可能です。ひょっとしたら、親を捨てる、親から捨てられる、という事態になるかもしれない。しかし、ひょっとしたら親から宗教的寛容を勝ち得られるかもしれないし、場合によっては信仰に至る道が親に開ける可能性もある。だから、すべてを神のみ旨に委ねてたゆまず神に祈り打ち明けなさい」ということでした。
このように、肉親と家財に対してはイエス様と福音を選びながらも、肉親に愛を持って仕え、財産の主人になることは可能です。というより、イエス様と福音を選んでこそ、そうできるようになると言ってよいのでしょう。
主日礼拝説教 聖霊降臨後第21主日2015年10月18日の聖書日課 アモス5章6-15節、ヘブライ3章1-6節、マルコ10章17-31節
女性と男性のことを考えると、女性はよく家庭とか料理について話しますが、男性機械とか自動車の話が好きと思います。
どの男の子が知っているとおりに車には運転するためにエンジンがあります。もしエンジンが無いと運転することもできません。車は動きません。
これに従って、社会の「エンジン」は何でしょうか。お金ですか。それも必要ですが、どの社会にも家族があります。それは社会の一番大切な「エンジン」だと思います。
今日の聖書の箇所を読むとイエスも家族を大切にされたということがわかります。
1.家族を大切に
マルコ10.2.ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。
イエスはご夫婦について質問されました。質問をされたファリサイ派の人々の目的はなんでしょうかは分かりませんが、答えにはイエスが家族のことをとても大切にしました。
6.しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。7.それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、8.二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。9.従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」
イエスが教えになったことは、神様に与えられた家族の目的は、夫と妻は喜びの時も苦しみの時も一緒につづけることです
家庭および家族についてこのような教えがあります。
良い家庭は神の偉大な賜物であり、両親や子供や、また他の家庭の者と睦み合います。家庭の基礎は結婚ですが、結婚によって夫と妻とは全生涯の契約を結ぶのです。夫婦の使命はお互いとその子孫とを敬虔な心で擁護し、また教育することです。
「結婚はすべての人に尊ばれるべきであり、夫婦の関係は汚してはなりません」(ヘブライ13:4)。
わたくしたちの罪のために結婚生活はいつも成功しませんが、つづけるのは神様に与えられた目的です。
2.私のところに来なさい
マルコ10.13.イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。14.しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。15.はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」
16.そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。
子どもたちをイエスのところにつれて生きましょう。イエスが教えになったことは子どもにとってもよいことですから。聖書のの話、祈り、歌など子どもと一緒に。
3.子どもとプレゼント
最後に子どもとプレゼントのことを考えましょう。わたくしたちは子どもにプレゼントを上げると子どもはそれを喜んでもらいます。
わたくしたちは信仰によって救われる。神様の恵みはプレゼントみたいなものです。
宣義というのは、
信仰によって、キリストを救い主として受け入れるならば、神はキリストの功のために、私たちに罪を負わせず、その罪を赦し、キリストの聖めと義とを着せてくださいます。このようにして、神は私たちを義とされるのです。
「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで、信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです」(ローマ1:17)。
「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており」(ローマ5:1)。
「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」(ローマ8:1)。
「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです」(エフェソ1:7)。
「この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます」(ローマ8:16)。
私たちは子どものように神様の恵みのプレゼントを頂きましょう。そして、イエスが教えられた家族を大切にしましょう。
祈りましょう
天の父なる神様、私たちはあなたののみ前で大切な人間です。家族も子どももそうです。私たちには理解ができないほどあなたは私たちを愛してくださっています
子どもの例えに従ってあなたの素晴らしいプレゼントを頂くように。あたたに頂いた救いの希望のプレゼントです。子どもたちにもこのことについて教えられるように。
よいニゥウズは、イエスが復活されたということです。これは私たちの一番大きな喜びの元です。あなたはイエスを私たち人間の救いのために、罪の赦しのために送ってくださいました。そして、私たちの本国の天への道も教えてくださいました。それは私たちの人生の目的です。どうか私たちの天国への道を見せてください。ペテロのように私たち一人一人に任務(にんむ)を教えてください。あなたの教えを聞けるように導いてください。私たちは信仰によってあなたの子どもです。私たちは恵みによって救われます。どうか、私たちがあなたの父なる神様のみ守りに信頼できるように私たちを強めてください。イエスと共に人生の道を歩めますように。私たちがあなたの子どもとして出来る社会的な義務や御国のためにできる仕事を教えてください。福音や神の招き、復活の喜びをどうすれば世界へ伝えることができるのか、私たち一人一人に教えてください。また、子どもと隣人をあなたに与えられた力によって大切にするように、大震災によって苦しんでいる人を助けられるように、互いに支え合うことが出来るように私たちの愛を主イエスキリストによって強めてください。心の中にあなたの光を照らすことができますように。この祈りを主イエスキリストのみ名によってお祈りいたします。 アーメン
先日、テレビで有名な作家を招いてインタビューする番組をみていました。その対談の中で中国の古い言葉について話が出たのです。その言葉というのは、
「理解は偶然、誤解は当然」。日本という国に、1億2千万もの人が生活している中で考えてみたら、自分のことさえ、よくわからないのに自分の言葉を理解してもらえる、というのはものすごいこと、理解されたのは偶然で、誤解されるのが当然という話です。
自分の伝えたい、本当の心を真に理解し、わかってもらえた、心底、理解し合えるというのは、まさに偶然でしかない。いくら説明しても、わかってもらえない、相手が「はい、わかりました」と言っても全然わかっていない。何も変わらない。いかに人間というもの、理解されないまま、形では、わかったふりをして私たちは何と誤解され、誤解したまま、すごしていることでしょう。
本心から理解し合えるなんて、偶然でしかない。理解されないし、又自分も理解していない。人間というものは、何とあいまいで、ごまかされていることだろう。自分でも、うんざりしてしまう。
実に味わい深い、真実の言葉だなあと、この頃ずうっと心に残っています。
「理解は偶然、誤解は当然」
このことを、心にとめて、少しでも暖かい心で、根掘り葉掘り、コミ二ュケー
ションを深め、本心から理解し合えるようにしていきたい、大きな課題です。
人は変えられるのか、理解するのは難しい!
さて、今日のみ言葉について見ますと、まずマルコ8章31~37節にイエス様が弟子たちに、ご自分の十字架上で死ぬ、ことと3日の後、復活することを予告されます。そして9章30~32節で、もう一度話されました。「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後、復活する。」弟子たちは、この言葉がわからなかったが、怖くて尋ねられなかった、とあります。イエス様が殺されるなんて、とても弟子たちには理解できなかったのです。
まして、三日の後に死んだ人が復活するということなど、とても信じられない、弟子たちには理解されなかった。8章31節からの第1回目に予告されたのが、詳しく話されています。31節「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、司祭長、律法学者たちから排斥され、殺され、三日の後に復活することになっている。と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことを、はっきりお話になった」この話を聞いた弟子たちには大変に驚いたことでしょう。また何のことか、よくわからなかったでしょう。するとペトロはイエスをわきにお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って弟子たちを見ながらペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず人間のことを思っている。」
ここでイエス様はペトロに、サタンに「引き下がれ」と言われて、神のことを思わない者はサタンの誘惑に負けている。弱い者だから神のことを思わないようにと、サタンが支配している。そうした上で、今日のみ言葉の9章42~47節
を見ると具体的に結果としてどうなるか、弱い者をつまずかせる者、罪へ誘惑する者は地獄に投げ込まれるのだ。命にあずかりたいなら罪の誘惑へ、つまづかせる手やあし、目さへ切り取ってしまえ、と言われる。大変きびしいお言葉です。
42節「わたしを信じる、これらの小さな人をつまづかせる者は、大きな石臼を首にかけられて海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。もし片方の手があなたをつまづかせるなら切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火のなかに落ちるよりは片手になっても命にあずかる方がよい。もし片方の足があなたをつまづかせるなら切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりも、片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまづかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは一つの目になっても神の国に入る方がよい。」
弱い、どうしようもない自分が、神の前に立たされている。そして罪を犯す手や足を切り捨ててでも神のみ国に入りなさい、神の命に生かさるようにしなさい。というのが今日のメッセージです。イエス様は罪の誘惑の恐ろしさというものを知ってほしいと思っておられるのです。罪の誘惑の深刻さを、わたしたちは、あいまいにしていたので、イエス様は十字架の苦しみを受け、私たちの罪をあがなって下さったのです。純心で罪の誘惑に落ちてしまいがちな弱い者たちをつまづかせる者には、イエス様は何の恵みも持ちあわせておられない、ということです。だから、つまづかせる者に対して最悪の警告をしておられるということです。この箇所には、罪につまづかせる片手と片足、片目をすててしまいなさいと、言ってありますが、それだけではない、もっと人をつまづかせ人の心を傷つけてのは、自分の舌、自分の口がしゃべっている言葉でしょう。
自分では気づかないところで、私たちは心を傷つけ苦しめてしまっていることでしょうか。神の前に立って、罪を犯してしまう、それらのものを切り捨ててでも究極的に一番大切なものは、命にあずかる方がましだ、と言っておられる。
また神のみ国に入る方がましだ、と言っておられる。この二つです。そして、あなた方は、この世にあっては塩味のきいた塩になりなさい。49~50節で言われています。塩は良いものである、自分自身の内に塩をもちなさい。この塩こそは、私たちの罪のいっさいを十字架の上であがなって下さった、イエス・キリストを「私の救い主」と信じることです。
最後に、みなさん世界の喜劇王と言われた「チャップリン」をご存知でしょう。沢山の映画に出演し劇場で人々を笑わせ、」皮肉って、皮肉って笑わせたいと命をかけてきたチャップリンが言った言葉「人生は地獄だ」と言ったのです。チャップリンから見たこの世の姿はまさに「地獄」だと言っているのでしょう。
私たちは、いつもイエス・キリストと共にこの世にあってイエス・キリストの命にあずかって生きとうございます。 アーメン・ハレルヤ!
主日礼拝説教 聖霊降臨後第19主日2015年10月4日の聖書日課 マルコ福音書9章38~50節