説教「山上の説教、連続解説説教 第1回」木村長政 名誉牧師、マタイ福音書 5章1~3節

今回の礼拝から「山上の説教」の連続説教をいたします。山上の説教は皆様もよくご存知と思います。有名な聖書の箇所で、主イエス様が山の上で語られた説教と言われます。

(※眼下にはガリラヤの湖が広がっている、素晴らしい眺めです。)

マタイ5章1~2節で記しています、「イエスは、この群集を見て山に登られた。腰を下ろされると弟子たちが近くに寄って来た。そこでイエスは口を開き教えられた。」教えられたとあるように多くの場合、山上の説教には美しい道徳だと思われている、多くの人々が愛しています。実際には山上の説教には5章から7章まであって、そこにはいろいろなことが語られています。簡単には道徳だとは言い切れないものであります。山上の説教を少しでも真剣に自分のこととして取り組んで受け止めようと考えたら、これは美しい道徳の話ではすまない、そんなこと言われても、とても自分には出来ないと思う。そして更に踏み込んで静かに考えてみれば、自分には出来なくとも良い、出来なければ、出来ないだけ、ただ理想としてでもあれば良い、と思うのであります。これが示されている以上は、たとえ絶望的であっても、出来るだけのことは、やってみよう、と思うのであります。そこに人間としてのあるべき生活が開けてくるのではないかと考えるのです。そうして悪戦苦闘して実行してみよう。この山上の説教の内味を題材にした小説や、芸術、音楽などの世界で用いられています。トルストイやシェークスピァの小説などで有名であります。人間の憎しみと赦し、愛の問題の苦闘です。5章44節などには直接に「敵を愛せよ」。とあります。「敵を愛せよ」など出来るものではない。それにも関わらず、この言葉がある、というだけで、どんなに人間に影響を与え慰めとなってきたことが知れないのであります。それは山上の説教の一つの読み方であります。しかし主イエス様は、はたしてそのように望まれたのでしょうか、少しでもイエス様の思いの真相に深く入り込んで見て行きたいと思っています。山上の説教は誰のためになされたのでしょうか。このことは説教全体の背景となる重要なことであります。それによって、その受け取りかたも変ってくるでしょう。5章1~2節では主が山の上で座られると弟子たちが御許に集まってきました。とあります。ルカも6章20~49節の方を見ますと平地であったかもしれません。何れにしても、多くの群集もいたのでしょう。恐らく弟子たちに対して語られたであろうと思われます。更にまたマタイ5章13・14節を見ますと「あなた方は地の塩である。」「世の光である。」とあります。そうしてみると山上の説教は信仰を持っている人のために語られた、と言わねばなりません。信仰を持っていると言うことは、キリストの救いによって罪を赦されている、と言うことになります。次に大事な点は山上の説教はキリスト教の中心であり、真髄を語ったものであると言われます。たしかに信仰の中心的なことは語っていますが教科書のように書いているわけではないのです。それなら何でしょう。それは福音を語っているのです。例えばマタイ4章23節を見ますと、そこに主イエス様が「御国の福音を宣べ伝えた」と書いてあります。このことは大事なことであります。ここで語られていることは「福音」であって、それを主に従うものたちにお話になったのであります。多くの戒めが記されているように見えますがそれは「喜びを告げるメシアの説教」である、と言わねばならないものです。それなら、これを読む私たちもここに福音を読み取ろうとするものでなければならない。ある意味では常識的な考えを捨てて全く新しい思いで読まねばならないものであります。

山上の説教のはじめには九つの教えがあります。それは「さいわいである」と言う言葉がついているのです。文語訳では、はじめに「幸福なるかな」となっています。この方がもとの言い方に近いし意味の上からもそう言えるものです。さて、3節を見ますとそこには「心の貧しい人は、さいわいである、天国はかれらのものである」とあります。ほんとうは、いきなり「さいわいなるかな」、「幸福であるよ」と言っているのです。もちろん、心の貧しさは「さいわい」である、と言うのでしょうが、まず何よりも先に、さいわいである、あなた方はさいわいである。と叫ぶように語り掛けているのです。英国のある聖書学者が同じように読んでいます。その人はこう言うのです。これは最も重要なことです。なぜなら至福の説教は来るべきことに対する信仰深い望みではありません。また未来の祝福に対する漠然とした預言ではないのです。それは今あるものに対する祝いなのです。今の祝福なのです。「おお、キリスト者であることの祝福よ。おお、キリストに従う喜びよ。おお、イエス・キリストを救い主、主と知ることのなんと言う喜びよ」と、ここには書いてあるのだ。こういうことをしたら幸いになる、と言うのではなく、すでに今さいわいになっているのです。話はそこから始まるのであります。3節には「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである。」と言うことですが、ある人がこう言いました。「さいわいであると言うのは、天から鐘の音が何度も何度も歌われ、鳴り響いている。この世に鳴り響き渡って、すべての人に御國に入るように招いているのである」私たちは現実の祝福されていない、この世でそんな風には普通考えない。すでに招かれているので、それに答えて行きさえすれば祝福されるのです。その準備はすでに整えられているのです。だからこそ、その恵みを告げる鐘が鳴っているのです。救いは成就した、ただそれを受けなさいと言うことです。ところが、それなのに私たちは、神の恵みの御業が本当にはよく分かっていないので、いつでも自分が何とかしなければ祝福は無いはずだと思い込んでいるのです。それは、この「さいわい」を作ってくださった神さまからの恵みをというものを忘れているのです、全く気づいていないのです。イエス・キリストが十字架にかかり、死んで甦って下さったことが、何を与えたか、と言うことが分かっていないのです。それを受けても、やはり、また何かを自分の力でしないと、さいわいになれないと思うのであります。ここに、すべてのことはもう出来上がっているので、これを元として幸いな生活が始まることを忘れているのです。すでに、「さいわい」になっていることを見落としているのです。「幸い」という字は、そのまま祝福という字ではありませんが、しかし信仰生活においては「さいわい」と言うのは祝福されていることです。「神が祝福する」と言うことであります。そのために人間が何もしなくても良いのです。どんな状態にあろうとも神が救いを与えてくださる、と言うことであります。そうすると「さいわい」と言うのは、これから造りだすものではなくて、すでに与えられているものであります。そういう人々に対して、これらの言葉が語られているわけであります。

さて、「心の貧しい人たちは、さいわいである」と言うことですが、これは心を貧しくしなさい、と言う戒めではないことはわかります。むしろ、あなた方は救われているから心貧しき者たちであるのですよ、と言うことです。ルカ福音書の方では6章20節に「あなた方貧しい人たちはさいわいである」とあります。これが、もし戒めであるとすれば、貧しい人になりなさい。と言うことになります。これは正しくないことは誰にもわかることであります。それだけでなく、ここには「あなた方、貧しい人」と書いてあって、あなた方はすでに貧しいのだ!と言っているのです。そうであるとすれば「あなた方は心の貧しい者である」と言われることを正直に聞かねばなりません。キリストに救われた者がどうして心の貧しい者であるか、と言うことであります。それは救われた時のことを考えてみれば分かります。私たちは何のいさおもないのに救われるといわれます。それは何の良いところもないのに救われると言うことであります。ただ、神の恵みによって救われるのです。これならば救われた人は自分を頼みとしないで、ただ神を頼みとしている筈なのであります。だから、心の貧しい者….と言うのは神に頼む者であります。手に何も持たずに神の前に立つことであると、ある人は言いました。自分の方にこれがあると言って、手に持っているものを見せようとすることではない、と言うことなのです。心と言うのはほかのところでは「霊」と訳されている字でもあります。聖霊の「霊」ですね、霊というのは心の最も深いところ、ということでありましょう。そうすると霊において考えて行くと貧しい者というのは全く貧しいということになることであります。自分には自分を救う力がない、神の御力によって、生きているだけであると言うことであります。そのことをはっきり知って、そのことによって生きている者ということであります。これこそ、まさに自分の貧しさを知っている、心の芯まで本当に自分の中に何にも無い貧しき自分を知っている、と言うことであります。「心の貧しい者」と言うのは美しい言葉であります。誰でもそうなりたい、と思うに違いありません。しかしそれは謙遜になろうとしたり、自分の弱点を数え挙げてできることではありません。神の前において自分を見ることが出来なければ、出来ることではあります、霊において心のままに自分を見ることでしょう。しかし神の前で反省しても、懺悔しても心が貧しくなれるものではありません。それは救われなければ出来ないことです。文字通り救われるのには自分に何も無いことを言い表さなければならない。それは神によって救われ、神の恵みによってだけ生きられる、と言うことが分からなければあり得ないことであります。救われた者はそのようになっている筈であります。心の貧しい者と言うのは、そういう意味から言えば、救われている者の姿の一つであると言えるのであります。

しかし、この世において信仰によるこのような生活は簡単なことではありません。貧しいと言うことは、ただ貧しいだけで終わるわけではありません。貧しいゆえに、いろいろな圧力がかけられてくるでしょう、この生活の只中で物質の面でも精神の面でも,辛くなることもあります。人々から侮辱を受け、踏みつけられるような辛いこと、痛いこと、言葉に言えない迫害を受けることもある。貧しいゆえに心を空っぽにするゆえに、おのれを空しくすることは、いろいろなことにぶつかって、人々が大事なことと痛感することであります。生易しいことではありません。なぜなら、それは自分を赦すことになるからであります、しかしそのことは神の御国においては「幸いな、よろこびの世界」となるのであります。それには、ただ一つの道があります。それは自分の罪を知ること、その罪を赦されることであります。それが与えられれば私たちもまたその祝福にあずかることが出来るのであります。心を貧しくすることについてルターは興味深いことを言っています。祝福の説教を十戒になぞらえて「心の貧しい人を十戒の第一の戒めである、神のほかに何ものをも神としてはならない」このことからルターは「心の貧しい人」と言うのはいかなる偶像をも拝まず、ただ神のみを拝む者のことである。というものであります。ルターの言葉をそのままに言えば、それは偶像を拝まないとというだけでなくて、「心の中に地上のいかなる物、いかなる被造物にも執着することなく素直な自由な心で、ただ神にのみ尽くすことであります。」そうしてみると貧しいと言うのは自分に誇るべきものは何も無い、ただ神のみを仰ぐと言う信仰のことであり、それがキリストの救いによって与えられると言うことになるわけであります。実際には神によってでなければ生きることが出来ないという事なのであります。それがまことの貧しさであると言うことになります。それに続いて「天国は彼らのものである」とあります。ここには「なぜならば」という字がはっきりと記されています。このことは大変大事なことであります。普通には心の貧しい者はさいわいである。彼らには神の国が与えられるであろう、と言うように考えるでしょう。特別に考えることなく何となくそう思っているのであります。しかしここにはそう書いていないのです。まず何となればという理由があります。その上で天国は彼らのものである。となっていて彼らのものになるであろうとは書いていないのであります。心の貧しい者はさいわいなのです。それは天国が彼らのものだからなのであります。これから天国が彼らに与えられるからとは書いていないのです。<このことは間違いやすいことであります。>神の国といってもそういう国があるわけではなくて神が支配されるところと言うことであります。そうすると、ここの意味は次のように言える。神に救われて、ただ神によってのみ生きている人々は幸いなのである、なぜならもうすでに神は彼らの間にいきておらるからである。イザヤ書57章15節にこう書いてあります。”わたしは高く、聖なる所に住み、また心砕けてへりくだる者と共に住み、へりくだける者の霊をいかし、砕けたる者の心を生かす。”神はすでに私たちを省みていてくださるのです。私たちはその神が何かためらっておられるように思うのであります。しかし神がわたしの救い主であり、わたしを支配しておられることは明らかなのであります。それゆえに幸いである、と言えるのです。

ハレルヤ・アーメン  3節は以上。

 

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