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信徒礼拝

 

本日の説教は高木 賢宣教師(SLEY)から頂いた本日の聖書の箇所の説明を青木千恵 姉が朗読しました。

7月27日(日曜日)の聖書(使徒書)の箇所についての説明

(はじめに)

聖書の訳は原則として口語訳によっています。「ローマの信徒への手紙」の説明は、フィンランドで入手可能なルター派の説明書を翻訳したものですが、わかりやすくするために翻訳者(私)の責任で文章に手を加えてあります。これは説教用の文章ではなく、聖日の聖書箇所の学びのための文章ですので、その点はご承知ください。それでは、御言葉によって祝福されたひと時をお過ごしください。(高木賢、フィンランドルーテル福音協会)

ローマの信徒への手紙7章15〜25節の説明

この箇所が、ローマの信徒への手紙7章の核心です。パウロはここで誰について話しているのか、たくさんの議論が戦わされてきました。それらは大きく二つに分けられます。パウロは、まだ神様の方に向き直る以前の段階の非キリスト信仰者のことを意味している、と考える人もいますし、キリスト信仰者のことを意味している、と考える人もいます。パウロは、キリスト信仰者が同時に罪深い者でも聖なる者でもある、と言いたいのでしょうか、それとも、キリスト信仰者は、罪のない状態で、よい生活を送ることができる、と言いたいのでしょうか。この問題は、決定的な重要性を帯びています。

教会の歴史で指導的な役割を果たした教会教父たちの多くは、この箇所を非キリスト信仰者について語っているものとして理解しました。それと同じ理解をもった教会には、たとえばローマ•カトリック教会がありましたし、また、信仰者の聖化(つまり、聖なる者となっていく過程のこと)を重視する多くのプロテスタント教会もそうでした。「神様に自分を委ねたはずの人間が相変わらず罪深い存在でありえようか」、と彼らは考えます。聖書学者の大多数もこの立場を支持しています。

アウグスティヌスなど数人の教会教父たちは、それとは異なる立場を取りました。これは、後にルターの神学の礎ともなりました。すなわち、パウロはこの箇所で、ほかでもない自分自身の罪深さを嘆くキリスト信仰者について語っている、という見方です。ルター派の神学はこの立場を取っています。一番大事な論点は、ここでの対象がキリスト信仰者か、それとも非キリスト信仰者か、ということです。それに比べると、ここでの対象がパウロ自身のことなのか、それともキリスト教徒一般のことなのか、ということは、さほど重要ではありません。

それでは、「パウロはここでキリスト教徒を意味している」という見解に基づいて、話を進めて行くことにします。この見解を支持する聖書的な根拠として、パウロがこの世での人生の歩みを終えた後でようやく訪れる罪と死からの解放を心から待ち望んでいる、という「コリントの信徒への第一の手紙」15章50〜58節をあげることができます。

15:50兄弟たちよ。わたしはこの事を言っておく。肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない。 15:51ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。 15:52というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。 15:53なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。 15:54この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。15:55「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。

15:56死のとげは罪である。罪の力は律法である。15:57しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。 15:58だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。(口語訳)

ここでパウロは自らの罪深さを嘆くキリスト信仰者について語っている、という見方を支える聖書の箇所として、もう一つ、「ガラテアの信徒への手紙」5章17節をあげておきます。

5:17なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる。(口語訳)

パウロは、このテーマを次のように展開していきます。律法自体には何の落ち度もありません。人間の側にこそ問題があるのです。「私は善を行うことができない」、とパウロ自身、告白しています。彼は神様の律法に従うことができず、彼の心の中には、彼に悪いことを行わせる罪が住みついています。人間は、自分の行いが悪くて間違っていることを知りつつも、自分の罪深さに束縛されています。人間は、善を行うことを望んでも、それを実行する力に欠けています。人間は、悪を行うことを望まないとしても、やはりそう行っています。なぜなら、心の中に住みついている悪の方が人間よりも強いからです。

このように、パウロは相反する二つのものの間にいます。一方で、彼は喜んで神様の律法の教えに賛同し、それが善いものだと、証します。他方で、彼の中には悪が住みついており、彼に悪いことを行わせます。パウロは、この二律背反の構図から逃れることができません。 いかにして罪が人間をがんじがらめにして、神の御国の外側に追いやるものか、人は自らの身体の感覚によっては察知することができません。

「私は惨めな人間です。誰がこの死の身体から私を救ってくれるのでしょうか」(24節)これはパウロの心からの嘆きの言葉です。その同じ心からは、神様への感謝も出てきます。キリストは人間の罪の罰をすべて代わりに引き受けてくださいました。そのおかげで、罪深い人間は「神様の側に属する者」とされたのです。

キリスト信仰者は、他のことと比べて、とりわけ自分の罪深さと弱さに関しては、それらを瞬く間に忘れてしまう傾向があります。この世にいる限り、彼らは、自分の罪深さを気にもかけず悲しみもしないで過ごしていることがしばしばあります。ところが、いったんキリストの意味がわかると、今まで乱雑だったすべての事柄が徐々に整理整頓されていくようになります。キリストを信じるようになったばかりの人は、自分自身の罪深さを過小評価しがちです。それはたとえば、コーヒー依存症だったり、異性を視線で追うことだったり、過去の趣味への執着だったりします。人間は、心が神様に向かって燃えている時には、 神様が捨てるように望んでおられる事柄を素直に捨てて、ひたすら主に向かって生きて行く心の準備をするものです。こうした態度には、信仰に入ったばかりの人が周囲に放つ初々しい愛の香りが漂っています。ですから、信仰に入ってからの経験がまだ少ない人に対しては、あまりに厳しく接してはいけません。もちろん、神様は、しばらくすると、もう少し深い世界を眺めるようにと、その人を教えてくださいます。ただし、このことが実現するためには、聖書に基づく「律法と福音」についての教えがその人に正しく宣べ伝えられている必要があります。

ある特定の罪は、ひどい罪であるとみなされます。たとえば、神様を無視して生きていた時に浮気をしたことがあるとか、飲酒の虜になったとか、何かを盗んだとか、などです。神様は、これらの罪から人間を解放して、御自分の民としてくださいました。しかし、ここで大切なことがあります。それは、上記の罪の行いをやめることだけならば、たんに皿の外側をきれいに磨くことにすぎない、ということです。もしも依然として皿の内側がそれを覗き込むと誰でも気分が悪くなるほど汚れているのであれば、一体何の助けになりましょうか。実のところ、私たちは、神様の御前ではまさしくそのような存在なのです。人間の心は腐敗の源です。その中から、いつも新たな腐敗が湧き出てきます。たとえ目立つ最悪の罪の行いが取り除かれたとしても、悪の源泉自体は依然として温存されたままです。具体例で説明しましょう。暴力行為をやめるかわりに意地悪な態度を取るようになったり、盗みをはたらくかわりにある程度の物欲と物事への執着が生まれたり、実際に浮気するかわりに心の中で密かに行ったり、悪い行いをするかわりに悪い言葉を吐いたり、悪い言葉のかわりに悪い考えが置き換わる、といった具合です。

「神様の側に属する者」とされたはずの人にとって、万事がうまく運ぶわけではないことに気がつくのは、かなり動揺をもたらすことかもしれません。神様が私たちに、私たちの本当の姿を少しでもお示しになるなら、私たちはそのあまりのひどさにすっかり希望を失ってしまうかもしれません。もう罪がないはずのところからも、依然として罪が見い出されることになるからです。隣り人や、友だちや、自分の家族との関係からも、罪が見つかります。また、行いや、言葉や、思いの中にも、依然として罪が残っています。私たちの信仰生活が様々な罪で満ちている、という事実を直視するのは、最悪に衝撃的なことかもしれません。信仰生活は、不信仰と不確実な事柄であふれかえっています。人は神様の御旨に対して根強い疑いを抱いていることなどがその一例です。私たちは自分の罪深さを嘆くこともしませんし、神様が憎まれる事柄を憎むこともしません。神様の愛についても、本来なら喜びに満たされるはずの事柄なのに、そうなりません。これらのことが罪でなくて一体何でしょうか。つまり、私たちは本当に、神様の栄光が欠けている罪深い存在なのです。もしも神様が私たちを裁き始めるなら、私たちは全員、主の御前から永遠の滅びの世界へと落下して行くほかありません。

今までの御言葉の学びを通じて、私たちはパウロと共に、神様に助けを願い、自分自身の惨めさを素直に告白する準備ができました。パウロは、自分が「キリストの側に属する者

であることを、信じて告白しています。このパウロに倣って私たちもまた、自分が「キリストの側に属する者」であることを告白できるのが望ましいです。神様は、私たちの抱えている惨めな罪深さをよくご存知です。たとえ私たち自身にはその惨めさのごく一部しか見えていないとしても、神様はその全体をすっかり見通しておられます。まさにそれゆえに、聖書はこう言っています、「父親がその子たちを憐れむように、主の憐れみは御自分を畏れる者たちの上にあります。主は私たちの造られた有様をご存知であり、私たちが塵にすぎないことを覚えておられるからです」(「詩篇」103篇13〜14節)。本来ならば、地獄に落ちるのが当然の罪深い者でありながら、それでも私たちは、キリストの血によって清められており、まったく落ち度のない、神様にとって言いようもないほど愛しい存在なのです。私たち自身のおかげではなく、ゴルゴタでのイエス•キリストの生け贄のゆえにそうなのです。これは確実なことです。なぜなら、その通りであると、主の使徒であるパウロの口を通して、神様御自身の御言葉が証しているからです。

本日の福音書、マタイによる福音書11章で、イエス様は罪の重荷に苦しんでいる私たちに対して優しくこう言われています。

11:28すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。 11:29わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。 11:30わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。

終わりに、ルターによるローマの信徒への手紙7章25節の説明を紹介して、本日の聖書の学びを閉じることにいたしましょう。

「このようにして、私自身は、心では神様の律法に仕えていますが、肉では罪の律法に仕えているのです」(「ローマの信徒への手紙」7章25節より)。

これはとても明確なメッセージです。同じ一人の人間が、「神の律法」と「罪の律法」とに同時に仕えている、というわけですね。要するに、人は同時に、義とされた存在でもあり、罪深い存在でもあるのです。上の御言葉でパウロは、「私の心は」神の律法に仕えています、とも、「私の肉は」罪の律法に仕えています、とも言ってはいないことに注意しましょう。「私は」、とパウロは言っています。つまり、同じ人格である一人の人間である「私」という全存在が、同時に二面的な事柄に仕えているのです。そういうわけで、彼は、一方では、自分が神の律法に仕えることができることを感謝しており、もう一方では、罪の赦しを願っています。なぜなら、彼は罪の律法にも仕えているからです。しかしこれは、「肉的な存在である人間が神の律法に仕えている」、という意味ではありません。私が先ほど言ったことを思い出してください。神聖なるキリスト信仰者たちは、同時に、罪深い存在でもあり、義とされた存在でもあります。彼らは義とされています。なぜなら、彼らはキリストを信じており、 彼らを覆うキリストの義を「彼らの義」でもあるとして父なる神様が認めてくださっているからです。しかし、一方では、彼らは依然として罪深い存在でもあります。なぜなら、彼らは律法を完全に守ることができないし、罪深い欲望をもたずには生きることもできないし、いわば医者にかかりっきりの病人に等しい存在だからです。実際、彼らは依然として病気なのですが、その一方では、治癒も始まっているので、健康になる希望をもつことができます。つまり、彼らは治りかけの患者のようなものなので、今後の健康は予断を許さない状態にあります。処置の仕方によっては、以前よりも症状が悪化する可能性もあるからです。

(マルティン•ルター 「ローマの信徒への手紙についての講義」より)

信徒礼拝

本日の説教は高木 賢宣教師(SLEY)から頂いた本日の聖書の箇所の説明を堀越教子 姉が朗読しました。

7月20日(日曜日)の聖書(使徒書と福音書)の箇所についての説明

 (はじめに)

聖書の訳は原則として口語訳によっています。「ローマの信徒への手紙」および「マタイによる福音書」の説明は、フィンランドで入手可能なルター派の説明書を翻訳したものですが、わかりやすくするために翻訳者(私)の責任で文章に手を加えてあります。これは説教用の文章ではなく、聖日の聖書箇所の学びのための文章ですので、その点はご承知ください。それでは、御言葉によって祝福されたひと時をお過ごしくださいますように。

(高木賢、フィンランドルーテル福音協会)

 本日の使徒書であるローマの信徒への手紙6章15〜23節の説明に入る前に、その前の箇所6章1〜14節を読みましょう。後ほど6章の内容をまとめて扱う際に必要になるからです。

 (聖書の箇所)

6:1では、わたしたちは、なんと言おうか。恵みが増し加わるために、罪にとどまるべきであろうか。 6:2断じてそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なお、その中に生きておれるだろうか。 6:3それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。 6:4すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。 6:5もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。 6:6わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。 6:7それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。 6:8もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。 6:9キリストは死人の中からよみがえらされて、もはや死ぬことがなく、死はもはや彼を支配しないことを、知っているからである。 6:10なぜなら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。 6:11このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。 6:12だから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従わせることをせず、 6:13また、あなたがたの肢体を不義の武器として罪にささげてはならない。むしろ、死人の中から生かされた者として、自分自身を神にささげ、自分の肢体を義の武器として神にささげるがよい。 6:14なぜなら、あなたがたは律法の下にあるのではなく、恵みの下にあるので、罪に支配されることはないからである。(口語訳)

 それでは、本日の使徒書の箇所の説明に移ります。

 (15〜23節についての説明)

これは、真剣に罪と戦うようにと、ローマのキリスト教徒たちに対して、パウロが説得を試みている箇所です。キリスト信仰者は、律法の下にではなく、恵みの下にいます。ですから、私たちはもはや罪の中にどっぷり浸かって生活してはいけないのです。人間には、神様に仕える者であるか、それとも、罪の奴隷であるかの、どちらかの状態しかありません。信仰に入る以前には、ローマのキリスト教徒たちは罪に浸った生活を送りながら、それをちっとも悪いこととは思っていませんでした。また、神様のことも天の御国のことも気にかけずに日々を過ごしていました。その結果どうなったでしょうか。彼らは神様との関係がだめになり、永遠の滅びの道へと転落して行ったのです。ローマのキリスト信仰者たちは自分の恥ずべき過去の行状を思い出したくはないだろう、とパウロは書いています。私たちの人生の歩みの中にも、もしかしたら神様から遠く離れて罪深い生活に染まっていた時期があるかもしれません。キリスト信仰者はそのことを後から思い出したくはないものです。ここでパウロは、誰であれ私たちが、人生を逆戻りして以前と同じ罪深い状態に陥ることがあってはならない、と真剣に警告しています。キリスト信仰者は、「古い人」に活動の隙を与えて、自分自身の罪と戦うのをやめてしまうなら、再び罪の奴隷になり下がってしまいます。パウロは、キリスト信仰者が神様の子どもであり続け、神様の子どもとしてふさわしい生活を送ることを願っています。 罪のもたらす報酬は死でした。そして、それは今も同じです。それに対して、神様の恵みの賜物は、キリスト•イエスにおける永遠の命なのです。

 ここで、ローマの信徒への手紙6章全体のメッセージを見てみることにしましょう。

 考えてみると、「ローマの信徒への手紙」6章は、奇妙な文章です。そこでは、私たちが普通なら相反するものとみなしている二つの事柄が並行して語られているからです。

まず、神様が洗礼の恵みを通して私たちのすべての罪を赦してくださる、という神様の尽きない善き御心を、この章から読み取ることができます。この点に関しては、私たち自身の行いや善さがどれほどのものであるか、といったことは問われていません。神様御自身が働いてくださるのであり、私たちはその働きかけを受ける立場にあるからです。まさにこのようにして、神様は私たちひとりひとりにキリストのあがないの御業をプレゼントしてくださいます。すべては神様からの賜物なのです。

ところがその一方で、パウロはこの箇所で、キリスト信仰者の正しい生き方を皆に勧めています。昔のキリスト信仰者はこの聖書の箇所を念頭において、「あなたの心の中にあるのは平和ですか、それとも争いですか」、と尋ね合ったものです。誰かが、「私の心には平和があります」、と答えた場合には、それは間違った答えでした。なぜなら、キリスト信仰者の心の中は常に「戦争状態にあるからです。どういうことかというと、「新しい人」が「古い人」に対して戦っていますし、義が罪に対して戦っているからです。そして、キリストが悪魔に対して戦っておられます。この戦いは私たちを苦境に立たせます。何度も敗北を喫することになるかもしれません。それでも、私たちは、 この戦いにおいて神様御自身がしっかり私たちの面倒を見てくださっている、と信じてよいのです。なぜなら、すでに神様は私たちのために、「最後の決戦において勝利を収めておられるからです。この「最後の決戦とは、十字架の死と死者からの復活とによって、イエス様が罪と死と悪魔に完全に勝利なさったことを意味しています。このイエス様の御業のおかげにより、私たちを待ち受けているのは、もはや罪の報酬としての死ではなく、神様の恵みの賜物、すなわち、永遠の命になっているのです。そして、この永遠の命の世界において、「古い人」と「新しい人」との間の戦争は「新しい人」の勝利をもって終結し、永遠の平和が始まるのです。

 以上が本日の使徒書の説明です。次に福音書の説明に移ります。

 (マタイによる福音書10章34〜42節の説明)

 この世は、イエス様を信じる者たちに対して敵意を抱いています。しかし、まさしくそのようなこの世の中で、イエス様を信じていることを公に告白することが大切になります。私たちには次に述べる二つの選択肢しかありません。第一の選択肢は、どのような犠牲を払うことになろうとも、イエス様の側に属するあり方です。第二の選択肢は、この世でも、また、最後の審判の時にも、イエス様の側には属そうとしないあり方です。しかし実は、最後の審判の時に、罪が赦されて天の御国に行けるか行けないかを決定する唯一の基準は、イエス様が私たちを御自分の側に属するものとして認めてくださるかどうか、ということなのです。イエス様は平和をもたらすためにこの世に来られました。しかし、そのおかげでイエス様を信じる人々は万事において仲良くなり、意見も一致する、などと考えるべきではありません。それとは反対に、意見の相違と仲違いが否応なく生じてしまいます。「剣」という言葉で、イエス様はこの仲違いの状態を表現なさいました。福音が宣べ伝えられる時、家族の中でも仲違いや意見の相違が生じるようになるかもしれません。しかし、そのような場合には、誰か特定の人間に対する愛情がイエス様に対する愛に勝るようなことがあってはなりません。人生をこの世的な意味でできるだけ豊かなものにすることとか、あるいは、周りにいる友人や知人との関係を良好に保つこととかを、人生の目標に掲げる人もいるかもしれません。しかし、こうした目標を達成するために、イエス様を信じることについて何らかの妥協を強いられる場合には、人は真の命を失ってしまうことになります。つまり、「人生で成功する」はずのための方法が、実際は、「人生で完全に失敗する」方法になってしまう場合もある、ということです。

 本日の福音書であるマタイによる福音書10章の冒頭にこうあります。

 10:1そこで、イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊を追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやす権威をお授けになった。10:2十二使徒の名は、次のとおりである(以下略)。

 このようにして、十二使徒の名前が挙げられていきます。

つまり、この十二弟子は「使徒」と呼ばれる存在です。使徒とは、主の御旨を伝える正式な代行者として派遣された者のことです。使徒を受け入れることは、イエス様御自身を受け入れることでもあります。ということは、御子を遣わした父なる神様を受け入れることでもあります。このようにして、神様はこの世に来られますし、私たちの近くに来てくださるのです。この意味で、神様の福音を御言葉通りに宣べ伝える使徒たちを受け入れることは、救いと永遠の命を受け入れることでもあるわけです。このことは使徒だけではなく、「義人」にもあてはまります。「義人」とは、神様の御国に入ることを許された人であり、キリストが 十字架の死と死者からの復活を通して確保してくださった義のおかげで、私たち罪深い者はイエス様への信仰を通して神様に受け入れていただける、という真理から日々生きる力を得ている人であり、この神の義を他の人にも伝えたいと望んでいる人のことです。そして、このような義人たちが主の救いの御業について証することを信じて受け入れる人は、神様に義なる存在として認めていただけることになります。これらの義人は、人間的には、取るに足らないように見える者、つまり「小さい者」(42節)かもしれません。それでも、彼ら「小さい者」は主の御旨を御言葉の通りに伝えて止まないことでしょう。そして、暑い夏には、彼らがイエス様の弟子であるという理由から、一杯の冷たい水を彼らに提供する信仰の兄弟姉妹がちゃんと旅先で備えられることでしょう。彼ら御言葉を伝える者たちに行ったことは、実はイエス様に行ったことでもあるのです。なぜなら、イエス様は御言葉を伝える者の後ろに控えていらっしゃるからです。このことについて、イエス様は、人の子が「最後の審判」の時に裁きの座にお就きになる様子を伝えるたとえを通して、教えてくださっています。イエス様の御言葉を正しく伝える人々がどれほど「小さな者」であろうとも、私が彼らを助けるために行うことは、イエス様御自身に対して私がそれを行っていることとして認めていただけるのです。このことを教えているのは、次の聖書の箇所です 。

 (マタイによる福音書25章31〜40節)

25:31人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。 25:32そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼が羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、 25:33羊を右に、やぎを左におくであろう。 25:34そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。 25:35あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、 25:36裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』。 25:37そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。 25:38いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。 25:39また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。 25:40すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。(口語訳)

 ローマの信徒への手紙6章は、洗礼の意味を教えてくれる大切な箇所です。

この章についての聖書のメッセージをもって、本日の聖書の学びを結びたいと思います。

 「洗礼とは、契約の内容を守ることです」

 洗礼は、神様から贈られた証書です。神様が私たちに与えてくださったこの証書よりも素晴らしい遺言状を残すことができる者は、他には誰もいません。聖なる洗礼を通してのみ、私たちは、救い主との個人的な親しい関係の中に入れていただけるのです。洗礼の意味を誤解する人が出てくるのは、無理もありません。洗礼を受けている人たちが皆、信仰を持って生きている訳ではないからです。

 それは確かにそうなのです。しかし、キリストに喜んでいただけるような生き方をするために、この神様からの賜物に感謝して、日々自己中心的な生き方を正していく人は誰であれ、キリスト信仰者なのです。神様からいただいたこの尊い「相続財産」を守る人は、誰であれ、神様の子どもなのです。そして、キリスト御自身がその人の「神様の子ども」という立場を擁護しておられます。

 堅信式は、洗礼を通していただいた神様からの贈り物をこれからもしっかり守って行くことを公に表明する場です。キリスト信仰者として生きて行くことに関わるあらゆる事柄も、この神様からの賜物をしっかり守って行くことにつながっています。それは、「主よ、どうか今日も私を用いてください」、という日々の態度表明でもあります。主は、洗礼を受けている人たちを、御自分と共に積極的に活動していくように、招いておられます。「誰であれ私の後について来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、私に従いなさい」(「ルカによる福音書」9章23節)。

 洗礼式は、キリスト信仰者の人生において、たんなる過去の出来事ではありません。洗礼式では、洗礼を受ける者の上に十字架を切る習慣があります。これは、その人が全人生を通じて自分の十字架を積極的に担って行くことを意味しているとも言えます。洗礼の恵みの中で生きることは、 目減りしない莫大な相続財産を日々紙幣やコインに両替して行く過程になぞらえることができるかもしれません。

 洗礼がそれを受ける人のその後の人生全体を覆い尽くすほど大事な出来事であることを正しく理解できるように、私たちは霊的に成長して行かなければなりません。遺憾ながら、現代の教会では、洗礼式や堅信式をたんなる行事ととらえ、人のその後の人生に与える影響については至って無関心である場合が多いようです。しかしながら、初期の教会のキリスト信仰者たちは、個々の信仰者だけではなく、教会全体が、「水の上に建てられている」という事実を信仰の基点としていました(引用は使徒教父からのものです)。

 洗礼を通して私たちは、死者からの復活の恵みを自分の相続財産として受け継ぐ権利をいただいています。ですから、この世の高価な品々は、実はそれほど大切なものではなくなります。これほど素晴らしい相続財産をいただいておきながら、今までとは違う生き方をする勇気をもてないようなら、ずいぶん奇妙なことと言わざるを得ません。

 (レイノ•ハッシネン)

 

7月19日の料理クラブの報告

牧師館のパン、フィンランド、パン台風のため1週間延期した家庭料理クラブは「Pappilanlimppu」を作りました。

料理クラブは最初にお祈りをしてからスタートです。

黒ビールにシロップを入れて温めた中に、数種類の粉を入れて捏ねていく作業は重労働、重くねっとりした生地に手を焼きながらも、とてもきれいな生地に仕上がフィンランド、パン、牧師館のパンりました。

発酵の時間に、パンに会う複材の準備です、
茹で卵、サラミ、ニシン、サワークリーム、キュウリのマリネ、そしてディル、
簡単なものばかりですが、牧師館のパンとの相性はばっちりでした、牧師館のパン、フィンランド、パン香ばしい香りと共に、パンは焼き上がり、
フィンランドの聖書日課を読んでいただいて、試食会はスタートしました。

参加の皆さま、後片付けもきれいにしていただいて、有難うございました。

次回の料理クラブは、9月13日を予定しています。

 

吉村博明 先生の「フインランド便り」

「スオミ教会とその礼拝に繋がる皆様 主の御名を賛美します。

 皆様お元気ですか?こちらフィンランドは、7月5日頃から急に暖かくなりだし、それまで5~15度位だったのがいきなり、25~30度位の陽気になりました。暑いですが、日本と違って湿気がないので、クーラーが過ごしやすいです。子供たちはほとんど毎日プールに泳ぎに行っています。

 さて、7日月曜日と9日水曜日にスオミ教会を支援する教会の訪問がありました。7日はサロ市教会の海外伝道を覚える集会、9日はマルッティラ教会の集会でした。それぞれトゥルクから50キロ、30キロいったところです。

 今フィンランドは夏休みで、皆さん旅行中だったり、サマーコテジに引きこもってしまうので、この時期に集会を行うとあまり人が集まらないのですが、それでもサロは20人、マルッティラは30人の方が集まりました。集会の内容は、日本の最近の事情とスオミ教会の活動についての報告、私の聖書のメッセージ、ヨハンナのヴァイオリン(「故郷」や「七つの子」等)、その後で、参加者からの質疑応答があり、スオミ教会や日本伝道のためにみんなで一緒にお祈りしました。今年中学生になった悦才は学生服で登場して、会場を沸かせました。一つ残念だったのは、私の体調がすぐれず、マルッティラの集会には出席できませんでした。

 写真を三枚添付いたします。最初のものは、前回お知らせしたSLEYの全国大会の全体会での基調報告の様子、二枚目はサロ教会での集会でパイヴィが日本のことについて写真を交えながら話しているところ、三枚目はマルッティラで集会が終わった後も何人かの人は帰らずずっと話をしている様子です。

 日本もこれから暑さが本格化することと思います。皆様、どうかお身体にはくれぐれも注意してお過ごしください。

主の平安 吉村博明」

 

 

説教「鳩のように素直に」木村長政 名誉牧師、マタイによる福音書10章16節~33節

 

先週の聖書に続いて、今週はマタイ福音書10章16~33節です。 表題でわかりますように、「迫害を予告する」となっています。

先週の10章15節までは、イエス様が12人の弟子を選んで伝導に遣わすことを命じられました。 この時、イエス様は、異邦人の地に行ってはならない、と言われています。 ユダヤの民への福音を宣べ伝える事でした。 そして、病人をいやし、死者を生き返らせなさい。金、銀は何も持って行くな、という命令でした。

ところが、今日のところでは、16節に「わたしは、あなた方を遣わす」と言われて、「それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ」と予告されています。

5~15節までのところでは、異邦人の所へは行くな、でしたが、18節を見ますと、彼らは異邦人に証しをすることになる。

次に、病人をいやしたり、死者を生き返らせなさいどころではない。弟子たち自身が迫害にあい、生きるか死ぬか、という深刻な状況となる派遣です。 21節を見ますと、「兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう」という、恐ろしい予言です。 そして最後のところでは、22節には「わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる」。そして「最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」とあります。 だから、今日の派遣の予告のところでは、これから弟子たちの上に起こって来るであろう、迫害に対して、どう戦っていったらいいか、という戦いの予告なのです。

まず、あなた方は、狼の群れの中に羊を送り込むようなものだと、断言されています。ここに、どんなことが言おうとされているか。 この言葉を聞いて誰でも思うことは、狼の群れに羊を送り込まれたらどうなりますか。狼は獣の中でも肉食の群れですから、羊は食いちぎられて、むざんな最後となってしまうでしょう。 ここを原文にそって言いかえますと、「見よ!私は狼の真っただ中に行く羊のように、あなた方を送り出す」とイエスは言っておられるのです。 17節以下は、激しい迫害が待っている、そういう迫害が想定されて言われている言葉です。 これは、イエス様が復活されて昇天された後、やがて弟子たちがユダヤだけでなく、異邦人の地にまで、福音伝道が開始された後に発生して来る、迫害の戦いに身を置く事になる。

さて、この戦いに耐え忍んでいく時、どうすべきかを予言として語られているのです。この状況は、たとえて言えば「狼の群れに羊を放り込むような状況だ」 と、マタイは表現して記しているわけです。このことをまず前提にして、この言葉の意味を少し深く見ていきたいと思います。 この場合、たとえで言われている「狼の群れ」というのは、17~18節で言われているように、「人々を警戒せよ。彼らは、あなた方を地方議会に引渡し、彼らの会堂で鞭打つであろう。又、あなた方は私のため、総督や王たちの前に連行される。」

これでわかるように、戦いの相手はサンヘドリンと言われた、イスラエルの最高議会の権力者たちです。70人の議員がいて、地方には同じように30数人の議員で成った議会があった。地方の住民は、直接的には彼らの権力の手の下に支配されていたわけです。そしてユダヤ教の祭司長たちです。 弟子たちがこの群れに対して、「あなた方が十字架につけたイエス・キリストこそ、よみがえって救い主となられたメシヤである。」と、福音宣教を叫んだところで、彼らが従順にその声に服して信仰にはいるでしょうか。 ユダヤの民は、イエス様の言葉に耐えきれず、むしろ、まるで狼が羊を食いつくすように、ありとあらゆる悪しざまな仕打ちを、用意するであろう。

その時弟子たちは、狼の間にいる羊のように生きなければならない。 ユダヤ教の戦いの手口は、「目には目を」「歯には歯を」の思想である。 そこで、弟子たちであるキリスト者は、彼らと同じであってはならない。 憎しみに対し憎しみ、悪口に対し悪口、暴力に対し暴力をもって返す、これと同じような仕方、武器をもって戦うな!と命じておられるのであります。 これが羊の意味です。無防備、無抵抗、敵を愛するのみ。

21世紀に生きる私たちの世界は、どうでしょうか。 エジプトやイラクでは、政府、反政府に宗教がからんで内戦が続いています。イスラエルとパレスチナも何十年と戦い続けています。武力をもって相手と戦い、武力をもって返してきます。憎しみをもって憎しみを返す悲劇が続いていきます。 日本の現状はどうでしょうか。平和憲法のもと、無防備で戦争は決してしません、と宣言して来ましたが、そうは言っても周りから、武力をもって戦いを挑んで来ています。もう堪忍袋の緒が切れてしまって、武力に対して武力の構えをして来ました。これから注目すべきは中国と韓国の動き、そして北朝鮮はどうなっていくでしょうか、微妙な政情になってきました。今年、いろんな事が起こってきますでしょう。

さて、イエス様は弟子たちを、無力な羊のように狼の群れにほうり出される。この危険な只中でどうなっていくのか、イエス様ご自身は充分承知の上で、気をつかって見守っておられます。そして、次のように言われます。「だから蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」。 ここに出て来る、蛇のようにということと、鳩のようにということが、どうしてもむすびつかない、よくわからない。 どうして、蛇と鳩を出して言われるのか、わからない。 鳩は平和のシンボルとして見られます。蛇は人間が一番きらう生き物。特に女性はきらいでしょう。

蛇のように賢くありなさい。当時のユダヤ人たちは、キリスト者に対してほんの少しでも弱点を見つけるやいなや、自分たちに有利になるように、情け容赦なく襲いかかって来る、そういう敵対者の中にいることになる。 ですから、敵対者を鋭く観察し、一寸のすきも与えない。すばしこく対応して耐え忍ぶすべを持っていなさい、という警告でしょう。 蛇のように機敏に立ち回って危険を乗り越えて進みなさい、というイエス様の教訓の予言です。 次に「鳩のように素直になりなさい」と言われます。 「素直になる」という部分で用いられているギリシャ語は、「アケライオス」といい、「混ぜる」という動詞の否定形で、「混じり気のない」とか「純真な}というのが元の意味であるというのです。 そうすると、この反対は、多くの種々雑多のものが混じっている状況ということになります。 想像してみて下さい。この世の人間は、争いがたえない戦いがうずまいています。戦いの矢先に立たされる時、決断を迫られるわけですが、何を判断の基準にしたらいいか、様々な思いが入り混じって混乱し、迷わざるをえない。 「鳩のように素直であれ!」というのは、これらの反対ですから、心を単純にしてまっすぐに進め、キリスト者はひたすら主の言葉だけを基礎に置いて、主のみこころのままに信じて進み行け、ということです。 もちろん、そこに具体的な状況の中で、事をするどく認識し、分析し、賢くふるまうこと。そして最終的には、そこで、いかなる事態が起こって来ようとも、 しっかりと主の御心の一点に向かって、信ずる道を断固として進みなさい。 まことに単純にして明快です。そうすると、最後には主の御旨に従ったのですから、主が責任をとって解決して下さる。そうすると勇気が与えられるのです。

キリスト者が迫害され、苦しみ、戦いの中でいかに対処すべきか、ということを、イエス様は予言の言葉で教えておられる。 しばしば、大きな危険を招き、時には殉教の死をも覚悟しなければならない道であったのです。 この教えで大切なことのもう1つは、一寸のすばしさを持って正しいことを機敏に対応していく、蛇の姿と同時に子供の無邪気さで親しまれていく、無心の 愛をもつ鳩の姿とを同時に備えていなさい。というのがイエス様の教えです。 時に賢くふるまい、時に純真な心と愛を土台にすえた、この二つの対比を合わせ持って、困難を乗り越える事を示されているのです。 弟子たち、そして私たちすべてのキリスト者は、どんな時代の困難に遭遇しても、神を知っている。 この世の人や、物や金に頼らない、神にのみ御国への希望を持って耐え忍ぶのであります。

21節から22節を見ますと、そこには具体的な激しい困難の様が予言されています。たよりとする聖なる家庭の中で、両親と子供を結ぶきずなが断ち切られる。弟子たちは、すべての者を自分たちの敵にまわし、すべての人に憎まれる。それは、ただ、イエス様の御名のために、そうなる。 世界に向かって、イエス様をすべてのものの主として証しするからであります。 しかし、終わりまで耐え忍ぶ者は救われるであろう。 すばらしい救いの約束であります。 ハレルヤ、アーメン。

 

聖霊降臨後第五主日  2014年7月13(日)

説教「力を頂く」マルッテイ・ポウッカ牧師、

マタイによる福音書9章35~10章15

 



人間には、それぞれ、いろいろな タレント、また、いろいろな職務があります。その一つ一つは、この社会のためにいいものです。教師も、運転手も、政治家など、どれもこの社会がうまく動くために必要なものだと思います。


始めに

イエス様ご自身も、神様のご計画に従うとても大切な仕事をして下さいました。



マタイ9:35
「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。」

イエスがなさった仕事の内容は、どんなものなのでしょうか。

イエスの御業というのは
まず、イエスは苦しむ者を助け、病める者を癒し、死者を甦らせました。また、神から与えられた権威をもって、人の罪を赦されました。これらの業は彼の愛を示すと同時に、神の国の力がすでに世の中に影響を及ぼしつつあることを示しているのです.
たとえば、イエスがナインの寡婦の息子を甦らせた出来事があります。これは、ルカ7:2-17を読んでみてください。 
また「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちところに来ているのだ」(ルカ11:20)とあります。



この青い空の下にいろいろな苦しみがあります。 けれども、イエスは人間の苦しみをお知りになりました。

マタイ9:36
「また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」

イエスは、愛をもって、弟子たちにこう言われました。

マタイ9:37
「そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。」

次に

そして、イエスは神様の計画に従うご自分の仕事を続け弟子たちをお選びになりました。

マタイ10:1−4
「イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。」
十二使徒の名は次のとおりである。

まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。」

この弟子たちのなかにも、いろいろな職務を持った人がいました。そして、イエス様に招かれて、イエスに従いました。性格も職業も違う弟子たちはイエスの教えを学んだり教えられたことを実行したりし始めました。

最後に

イエスのエンパワーです

イエスは神様のみ子として人間の弱さをよくご存知です。それにも、私たち罪人の弱い人間に仕事と、力と、助言を与えて下さいました。


 
マタイ10:8。
「病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」

ですから、神様に頂いたプレゼントを人々に分かち合いましょう、福音を伝えましょう。イエスのエンパワーによって。

このような教えが書いてあります。
救い主の命令によって、福音は全ての国の民に宣べ伝えられなければなりません。

教会はこの活動に、宣教の事業を通して参加します。
ルーテル教会は「彼らはみな一つになるように」との主の望みを成就するために、他の教会と協力しています。
「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16:15)。

また、
マタイ10:4。「あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。」


すべての人が福音の素晴らしいメセージを聞きたいわけではありませんが、神様はこの世の全ての人を大切にして下さって、愛して下さいます。そして、イエスは全ての人の救いのために死んで下さいました。これは永遠の命の希望の元です。それを分かち合いましょう。そのために、祈りつつ、神様の約束して下さった力を頂きましょう。




 祈りましょう  
天の父なる神様。二千年前イエスは12人の人々を弟子にしてくださいました。このことを通しても、あなたは弟子たちに対する、またはすべての人間に対する深い愛を表してくださいました。あなたの御前で私たちには価値があります。私たちは、どんな痛があっても、あなたのところに行くことが出来ます。そのことを感謝します。またあなたは教会の働きを通して私たちを招いてくださっています。この招きにしたがって、私たちがあなたの御国のためにできる仕事を教えてください 私たちは色々な才能と職務を頂いています。 どうすれば福音を世界へ伝えることができるのか私たち一人一人を導いてください。知恵と力も与えて下さい。どうか敵をも愛することができるように助けてください。よい僕になれるように導いてください。あなたの御言葉がわかるように、あなたの御心に従うことが出来るように私たちを教えてください。また、隣人を愛せるように、苦しんでいる人を助けられるように、互いに仕え合うことが出来るように私たちの愛を主イエスキリストによって強めてください。心の中にあなたの光を照らすことが出来ますよう に。 
この祈りを主イエスキリストによってお祈りいたします。アーメン。

 

ポウッカ先生の送別会

 ポウッカ先生を囲んで懐かしい思い出に話は尽きませんでした。また、今度は是非お二人でこられることを願ってやみませんでした。 

 

 

吉村博明 先生のフインランド便り

「スオミ教会とその礼拝に繋がる皆様」

私たちがフィンランドに来て早くも2週間以上が経ちました。皆様にはお変わりありませんでしょうか?今そちらはポウッカ先生のもとで元気に礼拝を守られていることと思います。さて、先週6月27日から29日までの三日間に渡って、ラハティ市で開催されたSLEYの全国大会に出席したので、挨拶を兼ねてその様子を簡単にお知らせしたく思います。ラハティ市は、国際的なスキー競技大会がよく開催される、ウィンタースポーツのメッカです。郊外にある3つの大きなスキーのジャンプ場は市のシンボルにもなっています。27日、現住地のトゥルク市を車で出発するや、全行程210キロの半分少しを行ったところで、車が故障してしまいました。至急レッカー車を呼んで修理工場に運んでもらい、さて果てしなく続く森の中の国道に取り残された私たちは、タクシーを待っていました。ちょうど偶然にもSLEYの大会に向かっていた元日本宣教師のリーッタ・ポホヤンパロさんに見つけられて、彼女の車で到着することができました。私たちは、リーッタさんのことを、「神様がボルボを運転する天使を送ってくれた」と言って笑いあいました。

 三日間の大会の参加人数は、まだSLEYからの発表は出ていませんが、例年と変わらなければ2万人前後でしょう。フィンランドの人口は500万ですので、大きな数字と言えます。大会は今年で140回目となります。 大会の行事プログラムの詳細は、私たちが帰国した時にお話しいたしますが、私の役割は、28日土曜日の午前のプログラムで5千人位の聴衆の前で、日本の伝道についての基調報告を行いました。あと、日本のミッション展示資料室の案内役が金曜日と土曜日の2時間ずつ。それから、日本福音ルーテル教会からの招待客の白川事務局長と本郷教会の安井先生に通訳する仕事もあったのですが、私の体調がすぐれないこともあって、それはかわってもらいました。29日日曜日は午後のプログラムで、派遣される宣教師たちの按手式があり、主の聖壇の前で、かつ1万人近い会衆が見守る中で、家族一緒に按手を受けました。これ以上は長くなるので、帰国した時にゆずることとしたく思います。少しでも雰囲気が伝わるように写真を二枚ほど添付します。土曜日の夕礼拝とその聖餐式の列の写真です。

 大会後は、私たちは全国各地の支援教会の訪問を行います。一番北はトゥルク市から600キロほどいったオウライネン、一番南はトゥルクから半径50キロ内の諸教会、あとはトゥルクから300~400キロ北に行ったパイヴィの実家の地方です。今のところ、12の教会の訪問が決まっていて、一つは日曜日に当たってしまったので礼拝説教をすることになっています。今残念なことが起きてしまいました。フィンランドは今、10~15度位の寒い夏で、パイヴィがひどい風邪を引いてしまい、明日予定されていたマルッティラ教会の訪問行事は中止となってしまいました。また新しい日にちを決めなければなりません。パイヴィの健康状態もお祈りにお覚え下さい。

 それでは、日本も天候不順な日が続いている由、皆様もくれぐれもお大事になさってお過ごしください。スオミ教会に繋がる皆様一人一人の上に、天の父なるみ神からの祝福が豊かにあるようにお祈り申し上げます。

 主にあって

 吉村博明

説教「主が探される」マルッテイ・ポウッカ牧師、マタイによる福音書9:9-13

 


女性はたいてい洋服とか飾りが好きですが、道具の好きな人もいます。特に男性はたいていそうでしょう。私も、何も考えないで店に入って、少しすると、新しい スクリュードライバーとか「マきた」をもって出てきます。「あなたはもう道具をたくさん持っていますけれども、今度の買い物は本当に必要ですか。」と質問されたら、なかなか答えが見つかりません。新しい道具が本当に必要な場合もあることはありますが・・・。とにかく、時々ショッピングするのは楽しみです。新しい道具を見つけると嬉しいものです。 
では、神様は何を探されるでしょうか。 
神様は私たちを探していらっしゃいます。 
私たちが神を知り得るのは、神が私たちに御自身をお示し下さるからです。 
神は愛をもって私たちに近づき、私たちを御自身の御許に引き寄せられます。聖書にはこう書いてあります。 
「遠くから、主はわたしに現れた。/わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し/変わることなく慈しみを注ぐ」(エレミヤ31:3)。 
「この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に 話しているのか、分かるはずである」(ヨハネ7:17)。 
 
私は道具を店で探しましたが、今日の聖書の箇所で、イエスは人間を探していらっしゃいます。イエス様の愛というのは、私たちには理解できないほどすばらしいと思います。今日の聖書の個所を読みましょう。

9.9.イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。 
マタイは即座に立ち上がりました。『すばらしい先生が私を招待してくださいました』と思ったでしょう。そして、どんなに喜んだことでしょう。 
10.イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。 
みな大喜びでした。イエスは大勢の人々と共に食事をしておられました。 
彼らは、自分たちは愛されているという感じがしたに違いありません。 
 
しかし、他の人たちはそれが気に入りませんでした。 
11.ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。 
ファリサイ派の人々は『私たちは偉い』と考えていたでしょう。そして、イエスはそれをご存知でした。神様の御子だからです。 
12.イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。」 
 
さて、ある友達の話をいたしましょう。 
私が前に働いていた教会の友人のラッセという男性は私にこんな話をしてくれました。先ほどのみ言葉の意味がよくわかる具体的な例として、この話を考えてみてください。 
そのとき、ラッセはおおよそ四十歳で、外見は何も問題がないようでしたが、内心はとても暗く、酒癖が悪く、自分でも幸せな生活ではないと告白していました。 
ラッセはある日、信徒説教者の話をききました。その説教者は私の家内の父でした。その話の中にこの聖書の一節が出てきました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。」この言葉を聴いて以来、ラッセは自分は「別の世界」に入ったと言いました。彼は神様の国に入ったのです。そして、彼の生活はすっかり変わって、心の平安と人生の目的が見つかりました。奇跡でした。その後、ラッセは自分自身も神様の国のことを人々に話し始めました。心の希望が生まれたのです。 
   
聖書の箇所に戻りましょう。 
13.『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」 
こうしてイエスはファリサイ派の人々に答えて、神様の恵みについて教えてくださいました。 
イエスが教えられた神の御恵みはどんなものなのでしょうか。 
 
イ エスは特に失われた者や罪人と交際しました。このことは彼らにとっては大きな慰めでしたが、他の人々には躓きとなりました。しかしイエスはこれによって罪 人を求めてこれを救う神の言い尽くし難い愛を示したのです。このように私たちに何の価値も無いのに与えられる神の愛が恵みと呼ばれるのです。 
「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイ9:13)。 
「見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」(マタイ11:19)。 
イエスの考え方はファリサイ派の人々と全く違いましたね。 
 
イエスはマタイを友達として愛されました。そして、弟子にされました。マタイはそれからイエスと共に働きました。私の友人のラッセも神様のみ言葉によって神様の国のために働き始めました。そして、私たちも自身も、神様の道具としてイエスと共に働くことができるのです。 
 
今、神様の恵みによって、わたくしたちは喜ばしい自由な心をもっています。 
キリスト者は、強制の下にいやいやながらしたり、または報酬を目当てにしたりするのではなく、むしろ、自らすすんで「喜びのある自由な心」から、神の御旨を遂行します。 
「喜び祝い、主に仕え/喜び歌って御前に進み出よ」(詩篇100:2)。 
「喜ばしい自由な心をもって働け」

(マルティン・ルター)。 


イエスのみ業によって喜びましょう。 
ローマ5:11.それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して(とおして)和解させていただいたからです。 
 
私は新しい道具を探しました。そして、何か見つかったら喜びました。神様は、新しい人とか神様から離れて生き続けた人が見つかると天国で大喜びをされるのです。 
 
祈りましょう 
天の父なる神様。二千年前イエスはマタイを弟子にしてくださいました。このことを通しても、あなたはマタイに対する、またはすべての人間に対する深い愛を表してくださいました。あなたの御前で私たちには価値があります。どんな痛みやがあっても、あなたのところに行くことが出来ます。そのことを感謝します。またあなたは教会の働きを通して私たちを招いてくださっています。この招きにしたがって、私たちがあなたの御国のためにできる仕事を教えてください。どうすれば福音を世界へ伝えることができるのか私たち一人一人を導いてください。どうか敵をも愛することができるように助けてください。よい僕になれるように導いてくださ い。あなたの御言葉がわかるように、あなたの御心に従うことが出来るように私たちを教えてください。また、隣人を愛せるように、苦しんでいる人を助けられ るように、互いに仕え合うことが出来るように私たちの愛を主イエスキリストによって強めてください。心の中にあなたの光を照らすことが出来ますように。 
この祈りを主イエスキリストによってお祈りいたします。

アーメン。 
 
 
 


 

パイヴィ・ポウッカ:「この青い空の下に」

パイヴィ・ポウッカ先生が私たちのために「この青い空の下に」を解説して下さいました。この曲は賛美歌ではありませんがフインランドの人々の愛唱歌のようです。スオミ・キリスト教会でも愛唱歌として、ことあるごとに歌われて来ました。少し長いですけれどどうぞ一読下さい。

この青い空の下に

1.
この青い空の下に
頭上高く広がる青い空と人間が住むこの美しい世界は誰もまねのできない傑作だと思います。冬の後だんだん緑に移り変わる自然、春の花の芳しい香りと喜びを歌う小鳥は皆神様の素晴らしい御業について語っています。

周りの景色を上から、例えば、展望台とか岡の頂上とか飛行機の窓から見ると、世界の美しさはより深く感じられます。もちろん、ロケットから青い地球に感動した人もいますが、それはわずかな宇宙飛行士の特権ですね。この青い空の下に、人類の歴史の中で様々な人間が何億人も生まれました。人々は大勢ですが、天地万物の視点から考えると一人の人はほんの小さな者です。例えば、飛行機が地上から少し上がっていくと、人の姿はもう見えなくなってしまいます。しかし、小さい者なのに、私たちは皆掛け替えのない価値を持っています。あなたも私も聖なる神様の栄光を表すために作られた者です。残念なことですが、私たちはその栄光を少しか輝かすことができません。

お生まれになった彼
しかし、この青い空の下に神様の栄光を完全に表す方もお生まれになりました。それ以前も、それ以後も、その方のような者はこの地上で生きたことがありません。その方はもうこの世界が創造された時からおられました。そして、神様のもとからこの世に来られました。私たちのところに来られた方は神様の御子でした。

希望、新しい命与えて下さった。
なぜ神様の御子は人の世界にいらっしゃったでしょうか。人は、この世に神様から素敵な命をいただきました。けれども、罪のせいで人生はめちゃめちゃになってしまって、人々は苦しんでいました。思い上がった私たちは創造物であることに満足せず、神様のように善悪をわきまえる者になりたかったのです。

自由に我を忘れた私たちは、人々を愛され、人々にとって最も良いことを考えて下さる神様でなく、大きな利益を約束した蛇の誘惑に耳を傾けました。すると、悪魔が心に入り込んで、私たちは不従順な心から禁止された木の実を食べました。そして、その結果はご存知の通りです。私たちはプライドと不信心のために大事なことをなくしてしまいました。心の純潔を失いましたし、神様との関係も切られてしまいました。そして、様々な罪が生活の中に入りました。恥、恐れ、不調和、疑い、責め合う事、病気、苦しみ、そして、最もひどいこととして、死も人生の幸せをそこない始めました。

こんな不幸に陥った私たちのことをご覧になった神様は、希望と新しい命を与えるために御自分の御子を世に派遣されました。

この青い空の下に
その御子、イエス・キリストは、高く青い空の下にお生まれになりました。本当の神で本当の人間であるイエスは喜びと悲しみ、笑い声と泣き声がある世に来られました。神様が私たちをこれほど愛しておられるという素晴らしいことが理解できたら、私たちの驚きは絶えないでしょう。

苦しい人のため。
イエスは苦しい人のために来られました。私たちは自分の経験から、人生は幸せなことばかりではないということがよく分かっています。仕事があることは人の喜びですが、仕事の多さに疲れたり、責任の重さに圧倒されたり、疲労で病気になったりする恐れがあります。足下の地面が実際に崩れたことや、津波で流されてしまったことを経験した人もいます。更に、罪への自責心と怠慢による重荷に悩んで落ち込むこともあるでしょう。

2.この青い空の下に
この青い空の下に様々な人生があります。人は地理的な豊かさの中で、例えば、熱帯雨林や砂漠、山々や森林の中で神様から頂いた命を生かしています。住むために、また世話をするために与えられた地球で、私たちは家を建てたり、子供を育てたり、動物を飼ったり、木を植えたりしますね。

十字架をたてたよ
ある日、この地球にまた一本の木が立ちました。それは種とか苗から育った木ではありませんでした。それは重い罪を犯した人に罰を与えるために人間が作った、拷問と死の十字架でした。私たちは、私たちの元に来られた神の御子も強盗人物としてそこにくぎで打ちつけました。けれども、人の計画の通りになりませんでした。全ては急に覆りしました。彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。(イザヤ書/ 53 章 4~5節)

嵐が吹く寒い夜も
私たちは真理と罪についての教えを聞きたくなかったので、イエスを十字架につけて殺そうとしました。けれども、イエスは十字架の死を通して、罪の夜に身震いしている、また人生の嵐で弱くなる私たちの救い主になりました。それを受け止める人は安心できました。
人生での全てのものが倒れても、十字架の出来事は確かです。

支えの十字架で
イエスの十字架は皆を驚かせました。
イエスの死は普通の死ではなかったのです。
十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。
(ペトロの手紙一02 章24 節)

十字架は私たちを支えてくれるものになりました。

この青い空の下に
イエス・キリストの十字架のおかげで、この青い空の下に想像もできないことが行われました。人類の歴史で一番大きい出来事でした。

希望の木たてたよ。
死の木は命の木になりました。イエスの十字架は新しい可能性と希望を与えました。人にとって、一番危ない敵、つまり罪と死と悪魔の力に打ち勝ちましたから。
彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。(イザヤ書/ 53 章 5節)

3.
この青い空の下に
頭上高く広がる青空の下で、私たちは命のあるかぎり、毎朝目を覚まして新しい日を迎えます。

今日も種を蒔いて
今年も
春空の下で、私たちは食事を得るために種を蒔きます。神様の御言葉の種を蒔くこともできます。その種を惜しまずに、たっぷり周りに蒔きましょう。それには命と力が
ありますから。

死にはもはや力はない
この世界に住んでいる間、私たちは罪と病気におかされていますが、神様の許し、助けと恵みによって生きていけます。死にはもう力はありません。それは滅ぼされました。

イエスは死に打ち勝ち
イエスは死に打ち勝たれました。この勝利を確かなものにするために、神様はイエスを復活させて下さいました。

この青い空の下に
この青い空の下にいる私たちはもう死を恐れなくていいです。

「ヤコブよ、あなたを創造された主は/イスラエルよ、あなたを造られた主は
/今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。」(イザヤ書 43 章 1 節)

神様は天国への扉を私たちに開いて下さいましたから、人生の歩みは天の父なる神様の下に行く道です。

聞こえる愛の声
あなた、私と世界の全ての人を愛しておられる神様はこのようにおっしゃいます。

「山が移り、丘が揺らぐこともあろう。しかし、わたしの慈しみはあなたから
移らず/わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはないと/あなたを憐れむ主は言われる。」(イザヤ書/54 章~10 節)

明日に向かってひらく希望の花ひらく!!!

Päivi Poukka
15.06.2014