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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.
今日は復活祭です。十字架にかけられて死んだイエス様が神の大いなる力で復活させられたことを記念してお祝いする日です。日本ではイースターという英語の呼び名が一般的のようです。イエス様が天の父なるみ神のもとからこの世に降って、乙女マリアから人として生まれたことを記念してお祝いするのはクリスマス・降誕祭でした。復活祭はクリスマスに劣らずキリスト教会では大事なお祝いです。一度死んだ者が復活させられて、死の悲しみが生の喜びにかわるということで、ちょうど暗い寒い冬が明るい暖かい春にかわる時期にぴったりのお祝いにみえます。
ところで、イエス様が復活されたことの何が私たちにとってそんなに喜ばしいことになるのでしょうか?復活祭の本当の意味がわかるために、このことを少し考えてみましょう。イエス様は沢山の苦しみを受けて十字架につけられて死なれたが、復活させられた、ということで、復活祭とはイエス様の不運が幸運に逆転したことを喜ぶお祝いである、と言ったらどうでしょうか?また、イエス様が死んだため悲しみにくれていた弟子たちが、復活させられたイエス様に出会って喜び勇気づけられた、ということで、弟子たちの不運が幸運に逆転したことを喜ぶお祝いである、と言ったら?復活祭とは、歴史ドラマでも観るように、昔の人物たちの運命の変転をハラハラしながら追って最後にめでたしめでたしの気分を味わえるお祝いでしょうか?いいえ、決してそうではありません。イエス様が死から復活させられたことは、当時の人物たちの時代という時間の壁を突き破って、今を生きている私たちの運命の変転そのものに関係することなのです。そのことがわかるために、イエス様の復活とはそもそも何かということを考える必要があります。
そこで、イエス様の復活とは何かをわかるためには、イエス様はなぜ死ななければならなかったのかを考えなければなりません。もちろん、それはイエス様が当時のユダヤ教社会の宗教エリートに楯突いて反感を買って、ローマ帝国の官憲に引き渡されて処刑された、ということなのですが、実はそれは見かけ上の出来事です。見かけの奥にある真実はこうです。旧約聖書に記された神の計画が、イエス様の十字架と復活という形を取って実現したということです。
それでは、旧約聖書に記された神の計画とは何でしょうか?それは、罪にまみれて神聖な神との結びつきを失い死ぬ存在になってしまった人間が、罪を洗い流されて神との結びつきを回復してこの世を生きられるようにするという計画です。この世から死んだ後は永遠に神のもとに戻れるようにするという計画です。それでは、この神の計画とイエス様の十字架・復活はどう関係するでしょうか?それは次のように関係します。まず、イエス様が十字架にかけられたことで、私たちの罪の罰を全部代わりに受けてくれて、神に対して罪の償いを全部してくれました。このように私たちの罪を請け負って神の罰を受けたので、罪はイエス様と一緒に神の罰を受けて破綻しました。こうしてイエス様が自分を犠牲にして罪の力を無力にしたので、私たちは罪の支配から解放されました。さらにイエス様が復活させられたことで、死を超える永遠の命への扉が私たち人間に開かれました。その扉は、罪に支配されたままの者は入れませんが、イエス様を救い主と信じて神から罪の赦しを得て罪の支配から解放された者は入れるようになりました。
このように罪と死の支配から人間を救おうとする神の計画が実現したことで、今度は私たち人間もイエス様と同じように将来復活させられることがはっきりしました。こうして人間は新しい希望をもってこの世を生きることができるようになりました。新しい希望とは、一つには、たとえこの世の人生が終わっても、命は復活の日を経て永遠の命という形をとって続いていく、だから死は終わりではないという希望です。もう一つには、死者の復活が一斉に起きる復活の日、神は御心に従って、懐かしい人同士が合いまみえるようにしてくれるという復活の日の再会の希望です。実に神は、私たちがこうした希望をもってこの世を生きられるようにしてくれたのです。
そういうわけで、復活祭とは、イエス様が復活させられたことで、実は私たちの将来の復活が可能になったことを喜び祝う日です。また、復活させられるという希望と復活の日に再会できるという希望を私たちに与えて下さった神に感謝し喜び祝う日です。確かにあの日復活させられた主人公はイエス様でしたが、それは私たちのための復活だったのです。イエス様自身のためでもなく、弟子たちを喜ばせるためでもなく、イエス様に続いて私たちが復活させられるための復活だったのです。私たちの復活のためにイエス様の復活が起きた - それで復活祭は私たちにとって大きな喜びの日になるのです。
2.
イエス様の復活は、まさに私たちの復活に先だって起きました。イエス様の復活が起きなければ、後に復活は続きません。イエス様の復活が将来の私たちの復活の先駆けになっていることは、先ほど読んでいただいた本日の使徒書である第一コリント15章からも明らかです。23-24節で復活には順序があると言われています。「最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち」、つまりイエス様の復活は今から約2000年前に起きましたが、その他全ての者の復活はイエス様の再臨の日に起きるということです。
第一コリント15章20節には「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」と言われています。「初穂」とは、ギリシャ語のアパルケーαπαρχηの日本語訳ですが、「最初の者」とか「第一子」というのがもともとの意味です。興味深いことに、ドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語訳の聖書では素直に「眠りについた人たちの中で第一子となられました」となっています。英語訳(NIV)では「最初の果実」firstfruitsで、植物になぞらえることで日本語訳に近いです。「初穂」の意味ですが、単純に「年の一番最初に実った穂」という意味の他に、宗教的な意味もあるので注意が必要です。日本の宗教的な伝統では、年一番最初に収穫して神仏に捧げる穀物を意味します。穀物ではないですが、似たようなことがユダヤ教の伝統にもあり、人間であれ家畜であれ第一子は神に捧げられるものとして聖別せよという律法の規定がそれです(出エジプト13章1-2節、12-13節、22章28節、34章19節、民数記3章13節)。ルカ2章に赤ちゃんのイエス様が両親に連れられてエルサレムの神殿に行く場面がありますが、その目的の一つが第一子の聖別でした(23節)。
日本語訳で「初穂」としたのは、何か神に捧げられるものという意味をもたせる意図があったのかどうかはわかりませんが、一つ注意しなければならないことがあります。それは、復活して復活の体を持つイエス様はもう捧げものではない、ということです。イエス様は既に十字架の上で全ての人間を罪の支配から贖い出すために御自身を神聖な生け贄として神に捧げたのです。十字架の出来事の後で、もう神に捧げる犠牲などありません。そうは言っても、十字架の出来事の後にも人間には罪がまとわりつきます。それでは、罪がまとわりつく時、人間が罪の支配から贖われた状態を保てるにはどうしたらいいのか?それはもう、イエス様が成し遂げた全てのことのゆえに、彼こそが自分の救い主だと信じて洗礼を受けてイエス様と結びつくこと、そして聖餐式でイエス様の血と肉を受けてその結びつきをしっかり保っていくこと、それしかありません。
そういうわけで、イエス様は復活の「初穂」と言う時、それは単純に眠りについた者たちの中で一番最初に復活させられた者ということです。私たちに先だって復活した、イエス様の復活が起きたので続いて私たちの復活も起きるということです。皆さん、ここで広々とした田んぼ、または麦畑を思い浮かべてみて下さい。秋の収穫の時が近づきました。どの穂か、最初に実った穂があったかと思うと次々と他の穂も実っていって、田んぼや麦畑は黄金色に輝きます。稲や麦のように私たちもイエス様という初穂に続いて行きます。イエス様の再臨の日、それは復活の日であり、また天地が新しく創造される日ですが、私たちは眠りから覚まされて、復活の体を着せられて天の御国に迎え入れられます。実をならせた穂として。
先ほどみた第一コリント15章20節で「眠りについた人たちの初穂」と言われていますが、聖書ではこの世から死んだ後は、復活の日、イエス様の再臨の日までは「眠り」の期間です。ルターによれば、この「眠り」は、この世の痛みや苦しみから解放された心地よい眠りである反面、眠っている本人にすれば目を閉じてから復活の日までの長い眠りは、本人にはほんの一瞬にしか感じられないという眠りです。眠っているだけなので、飢えも渇きも感じないし、また、この世で生きている人を見守ったり、影響力を及ぼすこともありません。この間ずっと起きて目を覚ましていて、この世の人を見守ったり影響力を及ぼすのは、天地創造の神だけです。死んだ人の霊や魂などではありません。
3. 本日の福音書の箇所で、復活の主イエス様とマグダラのマリアの再会が記されていますが、これは想像を絶する出来事です。というのは、この地上の体を持つマリアが復活の体を持つイエス様にすがりついているからです。復活したイエス様が持っている復活の体とはどんな体なのか?それについては、使徒パウロが第一コリント15章の中で詳しく記しています。「蒔かれる時は朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれる時は卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活する」(42-43節)。「死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着る」(52-54節)。イエス様は、ずばり「死者の中から復活するときは、めとることも嫁ぐこともせず、天使のようになるのだ」と言われます(マルコ12章25節)。
復活というのは、ただ単に死んだ人が少しして生き返るという、いわゆる蘇生ではありません。死んで時間が経てば、遺体は腐敗してしまいます。そうなったらもう蘇生は起きません。復活とは、肉体が消滅しても、復活の日に新しい復活の体を着せられて復活することです。その体は、もう朽ちない体であり、神の栄光を輝かせている体です。天の御国で神聖な神のもとにいられる体です。この地上は、そのような体を持つ者のいる場所ではありません。イエス様は本当なら復活の後、吸い取られるよう天に昇らなければならなかった。なのに、なぜ40日間も地上にとどまったのか?その期間があったおかげで、弟子たちをはじめ大勢の人に自分が復活したことを目撃させることが出来ました。きっと、それが目的だったのでしょう。
復活したイエス様が、私たちがこの地上で有する体と異なる体を持っていたことは、福音書のいろいろな箇所から明らかです。ルカ24章やヨハネ20章では、イエス様が鍵のかかったドアを通り抜けるようにして弟子たちのいる家に突然現れた出来事が記されています。弟子たちは、亡霊が出たと恐れおののきますが、イエス様は彼らに手と足を見せて、亡霊には肉も骨もないが自分にはある、と言います。このように復活したイエス様は亡霊と違って実体のある存在でした。ところが、空間を自由に移動することができました。本当に天使のような存在です。
復活したイエス様の体について、もう一つ不思議な現象は、目撃した人にはすぐイエス様本人と確認できなかったということです。ルカ24章に、二人の弟子がエルサレムからエマオという村まで歩いていた時に復活したイエス様が合流するという出来事が記されています。二人がその人をイエス様だと分かったのは、ずいぶん時間が経った後のことでした。本日の福音書の箇所でも、悲しみにくれるマリアに復活したイエス様が現れましたが、マリアは最初イエス様だとはわかりませんでした。このようにイエス様は、何かの拍子にイエス様であると気づくことが出来るけれども、すぐにはわからない何か違うところがあったのです。
さて、天の御国の神聖な神のもとにいられる復活の体を持つイエス様と、それにすがりつく、地上の体を持つマリア。イエス様はマリアに「すがりつくのはよしなさい」と言われます。「すがりつく」というのは、相手が崇拝や尊敬の対象である場合は、ひれ伏して相手の両足を抱き締めるということだったでしょう。イエス様に気づく前、マリアはずっと泣いていました。イエス様が死んでしまった上にその遺体までなくなってしまって、その喪失感と言ったらありません。では、イエス様に気づいてすがりついた時のマリアはまた泣いたでしょうか?次のように考えて見たらどうでしょうか?最愛の人が何か事故に巻き込まれたとします。もう死んでしまったとあきらめていたか、またはまだあきらめきらないというような時、その人が無事に戻ってきて目の前に現れるとする。その場合、たいていの人は感極まって泣き出して抱きしめたりするでしょう。イエス様にしがみつくマリアもおそらく同じだったでしょう。
イエス様が「すがりつくな」と言ったということですが、ギリシャ語の原文をみると「私に触れてはならない」μη μου απτουです。実際、ドイツ語のルター訳の聖書も(Rühre mich nicht an!)、スウェーデン語訳の聖書も(Rör inte vid mig)、フィンランド語訳の聖書も(Älä koske minuun)、みな「私に触れてはならない」です。英語のNIV訳は私たちの新共同訳と同じで「私にすがりつくな」Do not hold on to meです。聖書の訳にも日米同盟があるみたいですが(もっとも、ドイツ語ルター訳でないEinheitsübersetzung訳をみると、「私にすがりつくな」Halte mich nicht festでした)、イエス様はマリアに対して、「触れるな」と言っているのか「すがりつくな」と言っているのか?
私は、イエス様が復活した体、まさに天の御国の神のもとにいることができる体を持っているということを考えると、ここは原文通りに「私に触れてはならない」の方がよいと思います。イエス様は、この言葉の後にすぐ理由を述べます。「私はまだ父のもとへ上っていないのだから」(17節)。イエス様は、自分に触れるな、と言われる。その理由として、自分はまだ父なるみ神のもとに上げられていないからだ、と言う。つまり、復活させられた自分は、この世の者たちが有している肉体の体とは異なる、神の栄光を体現する霊的な体を持つ者となった。そのような体を持つ者が本来属する場所は天の父なるみ神がおられる神聖な所であり、罪の汚れに満ちたこの世ではない。本当は、自分は復活した時点で天の父なるみ神のもとに引き上げられるべきだったが、自分が復活したことを人々に目撃させるためにしばしの間はこの地上にいなければならない。そういうわけで、自分は天上のものなので、地上に属する者はむやみに触るべきではない。
このように言うと、一つ疑問が起きます。それは、ルカ24章をみると、復活したイエス様は疑う弟子たちに対して、「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい」(39節)と命じていることです。また、ヨハネ20章27節では、目で見ない限り主の復活を信じないと言い張る弟子のトマスにイエス様は、それなら指と手をあてて手とわき腹を確認しろ、と命じます。なんだ、イエス様は触ってもいいと言っているじゃないか、ということになります。しかし、ここは原語のギリシャ語によく注意してみるとからくりがわかります。ルカ24章で「触りなさい」、ヨハネ20章で「手をわき腹に入れなさい」と命じているのは、まだ実際に触っていない弟子たちに対してこれから触って確認しろ、と言っているのです。その意味で触るのは確認のためだけの一瞬の出来事です(ψηλαφησατε、βαλε両方ともアオリスト命令形)。本日の箇所では、マリアはもう既にしがみついて離さない状態にいます。つまり、触れている状態がしばらく続いるのです。その時イエス様は、「今の自分は本来は神聖な神のもとにいるべき存在なのだ。だから触れてはいけないのだ」と言っているのです(απτου現在の命令形)。そういうわけで、イエス様がマリアに「触れるな」と言ったのは、神聖と非神聖の隔絶に由来する接触禁止なのです。確認のためとかイエス様が許可するのでなければ、むやみに触れてはならない、ということなのです。
神聖な復活の体を持って立っているイエス様。それを地上の体のまますがりつくマリア。本当は相いれない二つのものが抱きしめ、抱きしめられている、とても奇妙な光景です。そこには、かつて旧約の時代にモーセやイザヤが神聖な神を目前にして感じた危険はありません。イエス様は、自分は地上人がむやみに触れてはいけない存在なのだ、と言いつつも、一時すがりつくのを許している。マリアに泣きたいだけ泣かせよう、としているかのようです。感動的な場面です。イエス様は、今マリアは地上の体ではいるが、自分を救い主として信じている以上、復活の日に復活の体を持つ者になるとわかっていたのでしょう。イエス様の次の言葉から、そのことが窺えます。「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と」(17節)。イエス様は弟子たちに次のようなメッセージを送ったのです。「今、復活させられて復活の体を持つようになった私は、私の父であり私の神である方のところへ上る存在になった。そして、その方は他でもない、お前たちにとっても父であり神なのである。同じ父、同じ神を持つ以上、お前たちも同じように上るのである。それゆえ復活は私が最初で最後ではない。最初に私が復活させられたことで、私を救い主と信じる者が後に続いて復活させられる道が開かれたのである。」
4.
兄弟姉妹の皆さん、今日は復活祭です。イエス様の復活を通して、私たちにも復活の道が開かれました。イエス様が復活の初穂ならば、私たちはそれに続いて実を実らせる穂です。イエス様は有名な種まき人のたとえの中で、良い土地に蒔かれた種はしっかり成長して、30倍、60倍、100倍の実を実らせると教えました。
十字架の贖いの業のゆえにイエス様を救い主と信じて洗礼を受けてイエス様と結びつく者は、
神の意思に照らせばまだ自分に罪が宿ることを思い知らされつつも、
その度に十字架の主に心の目を向けて、罪の赦しが揺るがないことを繰り返し覚え、
神に対する感謝の念を新たにし、本当に神の意思に沿うように生きようと志向する。
この時、私たちは良い土地に蒔かれた種であり、「罪の赦しの救い」から絶えず栄養を受けて成長していて、やがて30倍、60倍、100倍と実を結び、初穂のイエス様に続いて、復活の日に復活するのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。 アーメン
主日礼拝説教 復活祭2016年3月27日 聖書日課 出エジプト15章1節-11節、第一コリント15章21節-28節、ヨハネ20章1-18節
イエス様が十字架刑に処せられました。十字架刑は、当時最も残酷な処刑法でした。処刑される者の両手の手首のところと両足の甲を大釘で木に打ちつけて、あとは苦しみもだえながら死にゆく姿を長時間公衆の面前に高々と晒すというものでした。イエス様は、十字架に打ち付けられる前に既に、ローマ帝国軍の兵隊たちに容赦ない暴行を受けていました。加えて、自分が打ち付けられることになる十字架の材木を処刑場まで自ら担いで歩かされました。これは途中で通りがかりの人が手伝わされることになりましたが、イエス様の体力は本当に限界だったでしょう。そして、やっとたどり着いたところで痛ましい釘打ちが始まりました。数多くの宗教画に描かれた十字架のイエス様は、釘を打ちつけられた手足から血を流し、血の気を失った体は全体的に色白な感じのものが多かったように思われます。しかし、兵隊たちから暴行を受けた後ですので、本当は全身血まみれだったのでしょう。2004年に公開されたアメリカの映画で「キリストの受難Passion of the Christ」というのがあって、残酷なシーンが多くて世界中で話題になりました。実際はあれくらいのことが起こったのでしょう。とにかく、一連の出来事は、一般に言う「受難」という短い言葉では言い尽くせない多くの苦痛や激痛で満ちています。
イエス様の両脇には二人の本当の犯罪人が十字架に打ち付けられていました。何も罪を犯していないイエス様は、極悪人の扱いを受けたのです。十字架の近くでは、人間の痛みや苦しみに全く無関心な兵隊たちが手持ちぶさたそうにして、処刑者たちが息を引き取るのを待っています。こともあろうに、彼らはイエス様の着ていた衣服を戦利品のように分捕り始めました。十字架の周りを大勢の群衆が見守っています。近くの街道を通る人たちも立ち止って様子を窺います。そのほとんどの者は、イエス様に嘲笑を浴びせかけました。ユダヤ民族の解放者のように振る舞いながら、なんだ、あのざまは、なんと期待外れな男だったか、と。もちろん群衆の中には、イエス様に付き従った人たちもいて彼らは嘆き悲しんでいました。これらが、苦痛と激痛とかすれていく意識の中でイエス様が目にした光景でした。
そのような苦痛と激痛の中にありながらイエス様は、自分にこのような仕打ちをする者たちにも赦しが与えられるようにと神に祈りました(ルカ23章34節)。また、隣の十字架にかけられた犯罪人がイエス様に罪を告白して自分の全てを委ねた時、イエス様はその人に永遠の命を与えました(ルカ23章43節)。そして最後に、愛する弟子の一人に母マリアを引き取って世話をするように命じました。このようにイエス様は力尽きる最後の最後まで愛を実践することを怠りませんでした。
さて、このイエス様の悲惨な十字架の死は、一体何だったのでしょうか?言うまでもなく、十字架はキリスト信仰のシンボルになっています。キリスト教会に掲げられた十字架、礼拝堂の正面に飾られた十字架、そういうシンボルとしての十字架はただ単に、イエス様が十字架にかけられて死んだという見かけの出来事を伝えるだけのものではありません。シンボルとしての十字架は、見かけの出来事の背後にそびえる大いなる真実を象徴しています。その大いなる真実とは何か?それは、イエス様が十字架の上で死なれたことで逆に人間が救われる道が開かれたということです。この人間の救いを十字架は象徴しているのです。「人間が救われる」と言う時の「人間」とは、欧米人だろうがアジア人だろうがアフリカ人だろうが、とにかく人間なら誰でも救われる道が開かれたということです。
それでは、どうしてイエス様が十字架で死なれたことが、人間が救われる道を開くことになったのでしょうか?そもそも、「救い」とは何から救われることを意味するのでしょうか?そうした疑問を明らかにする最初の手掛かりとして、本日の旧約聖書の日課であるイザヤ書の箇所がちょうどよいでしょう。
イザヤ書52章13節から53章12節までの箇所は、明らかにイエス様の受難と死の出来事を指しているとわかります。そこでは、彼の受難と死の目的について詳しく述べられています。(ところで、この預言の言葉が紀元前700年代に由来すると見てよいのか、それとも紀元前500年代に由来するかについては、キリスト信仰者の間でも議論されるところではあります。しかし、いずれにしてもイエス様が歴史の舞台に登場する数百年前に由来することは否定できないのです。)それでは、イザヤ書53章から、イエス様の受難と死の目的がなんであったかを見てみましょう。
イエス様が「担ったのはわたしたちの病」であり、「彼が負ったのはわたしたちの痛み」でした(53章4節)。「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のため」でした(同5節)。なぜこのようなことが起きたかと言うと、それは、イエス様の「受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされ」るためでした(同5節)。神は、私たち人間の罪をすべてイエス様に負わせたのであり(同6節)、神に対する人間の背きのゆえに、イエス様は神の手にかかり、命ある者の地から断たれたのです(同8節)。イエス様は不法を働かず、その口に偽りもなかった。それなのに、その墓は神に逆らう者と共にされた(同9節)。苦しむイエス様を打ち砕こうと主である神は望まれ、彼は自らを償いの捧げ物とした(同10節)。神の僕であるイエス様は、「多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った」(同11節)。イエス様は、自らをなげうち、死んで罪人のひとりに数えられたが、実は、多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのであった(同12節)。
以上から、イエス様が罪ある私たち人間のかわりに神から罰を受けて、苦しみ死んだことが明らかになります。それではなぜイエス様はそのような身代わりの死を遂げなければならなかったのでしょうか?私たち人間の一体何が神に対して落ち度があったというのでしょうか?多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った、と言われるが、私たちのどこが正しくないというのか?余計なお世話ではないか?また、イエス様の受けた傷によって、私たちが癒されるというのは、私たちが何か特別な病気を持っているということなのか?それは一体どんな病気なのか?いろんな疑問が生じてきます。結論から申しますと、聖書は、私たち人間が天と地と人間を造られた神の前に正しい者ではありえないこと、落ち度だらけの者であることを明らかにしています。しかも、イエス様の犠牲がなければ癒されない病気があることも明らかにしています。どういうことか、さらに見ていきましょう。
人間は、もともとは神聖な神の意思に適う良いものとして、神の手で造られました。しかし、創世記3章にあるように、「これを食べたら神のようになれるぞ」という悪魔の誘惑の言葉が決め手となって、禁じられていたことをしてしまう。このように、自分の造り主である神と張り合いたいという傲慢な心を持ったことが原因で、人間は神に対して不従順になり、人間の内に罪が入り込んでしまうことになったのです。この結果、人間と造り主である神との結びつきが壊れ、人間は死ぬ存在となってしまいました。こうして、神との平和な関係が失われてしまいました。
しかしながら、神は、人間に対して、身から出た錆だ、勝手にしろ、と冷たく見捨てることはしませんでした。正反対に、なんとか人間との結びつきを回復しようと考えたのです。ところが、人間と神の結びつきを回復出来るためには、人間を縛りつけて死ぬ存在にしている罪の力を無力にしなければならない。まさに人間を罪の奴隷状態から解放しなければならない。しかし、罪を内在化させている人間は、自分の力でそれを除去することはできず、罪の支配力を無力にする力もない。そこで、神が編み出した解決方法は次の如くでした。誰かに人間の罪を全部請け負ってもらおう。つまり、その誰かを全ての悪の犯人のように仕立てあげて呪われた状態にして、人間の全ての罪の罰を全部その者に受けさせるのだ。それこそ、罪の償いは全部済んだと言える位の罰をその者に下し尽くすのだ。人間は、このなされた償いを自分のものとして受け取ることで罪を赦された者となって、神との結びつきを回復させることができる。このような解決方法を神は考案したのです。
それでは、一体誰がこの身代わりの犠牲を引き受けるのか?一人の人間に内在している罪はその人を死なせるのに十分な力がある。それゆえ、人間の誰かに人類の罪全部を請け負わせることは不可能である。自分の分さえ背負いきれずに滅んでしまうだけなのだから。そうなれば、罪の重荷も汚れも持たない、純白で神聖な神のひとり子しか背負いきれる者はいない。それで、この重い役目を引き受ける者として神のひとり子イエス様に白羽の矢が当たったのでした。
さて、神のひとり子は歴史を超えた天の御国という無限が支配するところにおられます。その方が有限な人間の歴史状況に入って行くというのは、彼が神の形を捨てて、人間の形を取るということになります。いくら、罪を持たない者とはいえ、人間の体と心を持てば、痛みも苦しみもそれこそ人並みに感じられるようになります。まことに先ほど読んでいただいたヘブライ書の聖句にあるように、イエス様は「罪を犯されなかったが、あらゆる点においてわたしたちと同様に試練に遭われた」。それで「わたしたちの弱さに同情できる方」なのです(ヘブライ4章15節)。しかも、自分のあずかりしらない、自分以外の全ての人間の罪を請け負い、その罰がもたらす痛みと苦しみを受けなければならないのです。それをしなければ、人間は神との結びつきを回復するきっかけを持てないのです。
そうして、神のひとり子であるイエス様は、おとめマリアから肉体を受けて人となって、天の父なるみ神のもとから人間の具体的な歴史状況のなかに飛び込んできました。時は約2千年前、場所は現在パレスチナと呼ばれる地域、そして同地域に住むユダヤ民族がローマ帝国の支配に服しているという歴史状況の中でした。このようにイエス様の身代わりの犠牲の役目が、人間の具体的な歴史状況の中で実施されたということはとても大事です。なぜなら、そうしないと、目撃者も証言者も生まれず、彼らが残すことになる記録も生まれません。ちゃんと証言や記録がなければ、同時代の人たちも後世の人たちも神の人間救済計画が実現したことを信じる手がかりがなくなってしまいます。天地創造の神がひとり子の身代わりの犠牲を歴史上の出来事として起こしたのには、ちゃんと理由があるのです。
ところで、ユダヤ民族というのは、天地創造の神の意思を記した神聖な書物、旧約聖書を託されていた民族でした。この神聖な書物の本当の趣旨は全人類の救いということでした。ところが、ユダヤ民族は自分たちの長い歴史の経験から、書物の趣旨を自民族の解放という自分たちの利害関心に結びつけて考えていました。これは旧約聖書の一面的な解釈でした。まさにそのような時にイエス様が歴史の舞台に登場し、神の意思について正しく教え始めました。また、無数の奇跡の業を行って、今の世が終わりを告げた時に出現する神の国とはどんな世界であるか、その一端を人々に垣間見せました。こうしたイエス様の活動は、ユダヤ教社会の宗教エリートたちの反発と憎悪を生み出し、それがやがて彼の十字架刑をもたらしてしまうこととなりました。しかし、皮肉にもまさにそれが起きたおかげで、神のひとり子が人類の罪を請け負ってその罰を全部身代わりに引き受けるという、人間の罪の償いが具体的な形を取ることができたのでした。
このようなわけで、イエス様の十字架上の死というのは、人間の救いが完成したことを現しています。本来ならば、私たちに向けられるべき神の怒りや罰は全てイエス様に投げつけられました。さらに、人間を死ぬ存在に陥れていた罪は、神がイエス様と一緒に十字架の上で刺し貫いてしまったので、その人間を牛耳っていた力は粉砕されてしまいました。このようにして、神は人間救済計画をひとり子イエス様を用いて実現したのです。神はこの実現済みの救いを全ての人間に向けて、さぁ、受け取りなさい、と提供してくれているのです。そこで人間が、ああ、そうだったのか、イエス様の十字架の死は実は2000年後の今を生きる自分のためにもなされたんだ、とわかって、それでイエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、この「罪の赦しの救い」を受け取れて自分のものにすることができるのです。こうして神から罪の赦しを得た人は、神との結びつきが回復して、永遠の命に至る道の上に置かれて、その道を歩み始めるようになります。順境の時も逆境の時も絶えず神から良い導きと助けを得られ、万が一この世から死んでも、その時は救い主が御手をもって御許に引き上げて下さり、永遠に造り主のもとに戻ることができるようになったのです。
「罪の赦しの救い」を受け取った人は、心に大きな安心と平安を持つことができ、神にこれだけ愛を頂いたからには、自分もイエス様が教えられたように、神を全身全霊で愛そう、隣人を自分を愛するが如く愛そう、と志向し始めます。ところが、生きていくうちにそれはそう簡単なことではないと気づかされることがいろいろ出て来ます。この世というものは、神の意思に沿う生き方をできなくしてやろうという力に満ちているからです。とにかく現実の世界で生きていると、そういう力に絶えず直面します。特にあらゆることが混とんとしてしまったような現代では、そうでしょう。ですから、神の意思に沿う生き方に反対する力に遭遇したら、兎にも角にも聖書の御言葉に聞き、神に助けと導きを祈り求めなければなりません。私たちが、イエス様のゆえに、つまりイエス様の身代わりの死に免じて、罪を赦して下さい、と祈ると、神の方で、お前はわが子イエスを救い主として信じているな、と確認できます。そしてすかさず、「この罪はもう取沙汰しないから、心配しないで前に向かって進みなさい」と言って、私たちをまた祝福してこの世に送り出して下さいます。これが、先ほど読んでいただいたヘブライ書4章16節で言うところの、大胆に恵みの座に近づいて、時宜に適った助けを頂くことです。
キリスト信仰者は、もし神の前にへりくだって罪を告白すれば、神はイエス様の身代わりの死に免じて必ず赦して下さる、と知っています。しかしながら、それでも、赦しが得られるかどうか、確信が持てない時も出て来ます。祈っても祈っても苦難や困難から脱せられない時とか、また死が間近に迫った時、信仰者といえでも、果たして神は自分を御許に引き上るのに相応しいと見てくれているのだろうか、自分はまだ罪の汚れが残っているから見捨てられるのではないだろうか、と心配することがあります。そのような時は、ルターにならって、ゴルゴタの丘の十字架に心の目を向けるとよいでしょう。あそこに、首を垂れたイエス様がかかっている。あの方の肩には全世界の人々の罪が重くのしかかっている。私の罪もああして全部、あのお方の肩に貼りつけられている。このことを心の目で目撃できれば、罪の赦しは間違いなくある、どんな境遇にあっても神との結びつきはしっかり保たれている、と確信できるはずです。
十字架上のイエス様というのは、イエス様を救い主と信じて救いを既に受け取った者にとっては、絶えず立ち返るべき原点です。その人にとっては、残存する罪は、もはや死と罰に追いやる力はありません。逆に罪は、その人を絶えず十字架のもとに立ち返らせる契機に変わったのです。まだ救いを受け取っていない人たちにとっては、十字架は言うまでもなく目指すべき目的地です。目的地に到達するや否や、今度はそれは立ち返るべき原点にかわる、それが十字架上のイエス様であります。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
主日礼拝説教 聖金曜日2016年3月25日 聖書日課 イザヤ52章13節-53章12節、ヘブライ4章14節-5章10節、ヨハネ19章17-30節
受難週の初めの日である「枝の主日」の今日、イエス様が辿った受難の道を教会音楽と聖書朗読で再現する音楽伝道礼拝「ヴィア・ドロローサ」を行いました。
昨年これを始めた理由は、日本では受難週の時、特に聖金曜日が休日でないため礼拝に来られない人が多く、イエス様が十字架にかけられたことを深く心に留めることなくして、復活祭を迎えてしまう場合が多いのではないか。もし、そうだとイエス様の復活が私たち人間とどう関わり合いがあるのか明らかにならないのではないか、ということを心配したことがきっかけでした。それで、復活祭の前の日曜日である「枝の主日」の礼拝後に行うこととなりました。今年で二回目です。
プログラムの内容は、エルサレムを巡礼するキリスト教徒が行うように、「立ち止まり地点」を14か所設けて、それぞれに音楽と聖書朗読を織り交ぜて、ゴルゴタの丘までの道のりを辿るというものです。今年は昨年に比べて、演奏楽器も増え、ソプラノ独唱も加わり、音楽性がぐっと高まりました。参加者の中からは、昨年同様、「イエス様の受難をとても身近に感じられた」、「イエス様が背負っていった人間の罪の重さから自分の罪を深く思いなおす機会になった」という声を頂きました。
天におられる私たちの父なるみ神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1. 今年の四旬節も、もう「枝の主日」となりました。復活祭の前のこの主日が「枝の主日」と呼ばれるのは、イエス様が受難を受けることになるエルサレムにろばに乗って入城した時に、群衆が自分の服と木の枝を道に敷きつめたことに由来します。本日用いておりますルカ福音書では、群衆が道に敷いたのは衣服だけですが、マタイ福音書では衣服と木の枝(21章8節)、マルコ福音書では衣服と葉の付いた枝(11章8節)と少し詳しく記されています。ヨハネ福音書では、道に敷かれたことは言われていませんが、群衆がなつめやしの枝を持ってきたと記されています(12章13節)。いずれにしても、私たちは、今日から始まって聖金曜日を経て復活祭に至るこの1週間、約2000年前のエルサレムで起きた人類の救い主の受難の出来事について、聖書の御言葉をもとに思い起こし、彼がゴルゴタの丘の十字架まで歩んだ受難の道を心の中で辿らなければなりません。その意味で、本日礼拝後に当教会で行われる音楽伝道集会「ヴィア・ドロローサ(受難の道)」は、良い機会になると思います。
さて、ルカ以外の三つの福音書を見ると、ろばに乗ったイエス様がエルサレムに入城する時、群衆は「ホサナ」という歓呼の言葉を叫びます。これは、もともとは旧約聖書が書かれたヘブライ語で「ホーシーアーンナー(הושיעה-נע)」という言葉が、イエス様の時代のパレスチナで話されていたアラム語に訳されたものです(ホーシャーナーהישע-נא)。どちらも神に、救って下さいとお願いする意味がありましたが、古代イスラエルの伝統では、群衆が王を迎える時の歓呼の言葉としても使われていました。従って群衆は、子ろばに乗ったイエス様を王として迎えたのであります。しかし、これは奇妙な光景です。普通王たる者がお城のある自分の町に入城する時は、大勢の家来ないし兵士を従えて堂々とした出で立ちだったしょう。ところが、この「ユダヤ人の王」は群衆には取り囲まれていますが、子ろばに乗ってやってくるのです。
またイエス様は、子ろばを連れてくるようにと弟子たちに命じた時、まだ誰もまたがっていないのを持ってくるようにと言いました。まだ誰にも乗られていない、つまりイエス様が乗るという目的に捧げられるという意味であり、もし既に誰かに乗られていれば使用価値がないということです。これは、聖別と同じことです。神聖な目的のために捧げられるということです。イエス様は、子ろばに乗ってエルサレムに入城する行為を神聖なもの、神の意思を実現するものと見なしたのです。さて、周りをとり囲む群衆から王様万歳という歓呼で迎えられつつも、これは神聖な行為であると、一人子ろばに乗ってやってくるイエス様。これは一体何を意味する出来事なのでしょうか?
加えて、もう一つわかりにくいことがあります。それは、イエス様がエルサレムの町を見て泣いたことです。43-44節をみると、イエス様はエルサレムが破壊される日が来ることを預言しています。これは、本当にこの時から40年位後にローマ帝国の大軍が押し寄せてきて、その通りになってしまいました。イエス様は、こうなってしまうのは、エルサレムの人たちが「平和への道をわきまえていなかった」、また「神の訪れて下さる時をわきまえなかった」からだと言います。「平和への道をわきまえていなかった」とは、ギリシャ語原文を忠実にみると「平和に関することを何も理解していなかった」です。ここで言う「平和」とは、38節で群衆が「天には平和」と叫んでいる「平和」、つまり天地創造の神のもとにある平和です。罪ある人間には到達できない平和です。イエス様は、人々がそういう天にある平和について何もわかっていない、と言うのです。「神の訪れる時をわきまえなかった」というのも、ギリシャ語では「神の訪れる時をわからなかった」です。これも、自分のエルサレム入城はまさしく神のひとり子の訪れなのに、人々は何か勘違いをしている、というのです。一体、人々は「天の平和」やイエス様の入城をどう誤解していたのか?そして、勘違いや誤解が原因でどうしてエルサレムが破壊されることになるのか?
以上のように、本日の箇所は一読すると、ふんふん、なるほどと出来事の流れだけはわかったような感じになりますが、本当は何が起きていたのかを理解しようとすると難しい箇所なのです。以下これらのことを明らかにしてまいりましょう。
2. このイエス様の子ろばに乗った神聖な行為は、本日の旧約の日課であるゼカリヤ書にある預言の成就を意味しました。ゼカリヤ書9章9-10節には、来るべきメシア、救世主の到来について次のように預言していました。
「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗って来る 雌ロバの子であるろばに乗って。わたしはエフライムから戦車を エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ 諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ 大河から地の果てにまで及ぶ。」
「彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく」というのは、原語のヘブライ語の文を忠実にみると「彼は義なる者、勝利に満ちた者、へりくだった者」です。「義なる者」というのは、神の神聖な意志を体現できる者です。(私たちは、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によって、神から義を与えられて、義なる者とされます。)「勝利に満ちた者」というのは、今引用した箇所から明らかなように、神の力を受けて世界から軍事力を無力化し、天のみ神のもとにある平和を確立する者です。「へりくだった者」というのは、世界の軍事力を相手にしてそういうとてつもないことをする者が、大軍隊の元帥のように威風堂々とやってくるのではなく、子ろばに乗ってやってくることです。イエス様が弟子たちに子ろばを連れてくるように命じたのは、このゼカリア書の壮大な預言を実現する第一弾だったのです。
「神の神聖な意志を体現した義なる者」が「へりくだった」態度をもって、全世界を神の意志に従わせて神の平和をもたらすという預言はイザヤ書11章1-10節にも記されています。
「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで その根からひとつの若枝が育ち その上に主の霊がとまる。知恵と識別の霊 思慮と勇気の霊 主を知り、畏れ敬う霊。彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず 耳にするところによって弁護することはない。弱い人のために正当な裁きを行い この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち 唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。正義をその腰の帯とし 真実をその身に帯びる。狼は小羊と共に宿り 豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち 小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ その子らは共に伏し 獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ 幼子は蝮の巣に手を入れる。わたしの聖なる山においては何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように大地は主を知る知識で満たされる。その日が来ればエッサイの根はすべての民の旗印として立てられ 国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く。」
「狼は小羊と宿り」というところから始まる部分は、危険や害悪が全くない、全てが神に守られている世界が到来することを預言しています。これはもう今私たちがいるこの世の世界ではありません。今の世の後に到来する新しい世の世界です。今の世が新しい世に取って代わる時に裁きを行う者が現れる。それが「エッサイの根」と呼ばれる者ですが、これは何者かというと、エッサイはダビデの父親の名前です。つまり、ダビデ王の家系に属する者ということで、イエス・キリストを指します。今の世が終わりを告げて、全てのものが神の神聖な意志に従う新しい世が到来する。その時、誰が新しい世の世界に受け入れられるか、それをイエス・キリストが判断を下すというのであります。
このように、子ろばに乗ってエルサレムに入城するというのは、まさに、今の世が新しい世に取って代わるという預言された大事業をイエス様が担って、それを預言にある手順を踏みながら進めているのです。それでは、この大事業は、イエス様によってどのように進められていったのでしょうか?
3. この大事業は実は、当時のユダヤ人にとって理解をはるかに超えるものでした。旧約聖書を読んでいたのに、なぜ彼らは理解できなかったのでしょうか?それは、彼らにとって、ダビデ王の末裔が新しい国を打ち立てるという旧約の預言は、なによりもローマ帝国の支配を打ち破ってイスラエルの王国を再興するということを意味していたのです。このような期待には、今の世が新しい世に取って代わるということは必ずしも視野に入っていません。再興される王国は、今の世の中にあるからです。他方では、イザヤ書65章17-20節や66章22節とかダニエル書12章1-3節を見ると(他にゼカリア14章7節、ヨエル3章4節など)、今のこの世が終わりを告げて今ある天と地に替わって新しい天と地が創造され、死者の復活が起きるという預言があり、これに注目した人たちもいました。その場合は、ダビデ王の末裔が君臨する王国とは、今のこの世のものではなく、新しい世の王国と理解されました。
さて、今のこの世の中に樹立される王国であれ、新しい世に現れる超越的な国であれ、どっちをとっても、当時の人々は、ユダヤ民族の国が再興されるというイメージでいたことに変わりはありませんでした。先ほど見たゼカリア書9章の他に、ゼカリア書14章やイザヤ書2章にも、世界の国々の軍事力が無力化されて、神の力を思い知った諸国民が神を崇拝するようになってエルサレムに上ってくるという預言があります。それだけを見ると、再興したユダヤ民族の国家が勝利者として全世界に大号令をかけるという理解が生まれます。しかしながら、これは旧約聖書の一面的すぎる理解でした。旧約聖書の奥義は、こういう一民族中心主義を超えたところにあるのであり、イエス様が担った大事業はもっと普遍的なことに関わるものだったのです。そのイエス様がエルサレムに乗り込めば、そこでユダヤ民族の宗教指導者たちと真っ向から衝突するのは火を見るより明らかでした。この衝突がエスカレートして、イエス様は逮捕され、迫害され、十字架刑に処せられます。宗教指導層がイエス様を生かしてはおけないと考えるに至った理由は以下のようなものでした。
まず、イエス様が自分のことを、ダニエル書7章に出てくる、この世が終りを告げる時に現れる救世主「人の子」であると公言していたことがありました。つまり自分を神に並ぶ者とし、さらにはもっと直接に自分を神の子と言っている。これは、宗教指導層にとっては神に対する冒涜以外の何ものでもありませんでした。しかし、イエス様は、本当に神のひとり子だったのです。
もう一つの理由は、イエス様が群衆の支持と歓呼を受けて公然と王として立ち振る舞ったことも問題視されました。そんなことをすれば、ユダヤ地域を占領しているローマ帝国当局に反乱の疑いを抱かせることになってしまいます。宗教指導層としては、ユダヤは占領されてはいるが安逸を得られ、エルサレムの神殿を中心とする宗教システムも機能している。それなのに、イエスに好き勝手をさせたら、ローマ帝国の軍事介入を招いてしまう、と危惧したのです。
さらに、宗教指導層の憎悪に油を注いだのが、本日の福音書の箇所にもある神殿からの商人の追い出しでした。宗教指導層は、現行の神殿が旧約に記された神の意思を実現していると考えていました。商人たちも、神殿での礼拝をスムーズにするために生け贄用の鳩を売ったり、各国から来る参拝者のために両替をしていました。しかし、神のひとり子イエス様からみれば、現行の神殿は神の意思の実現からはほど遠いものでした。イザヤ書56章7節の預言「私の家(神殿)は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」からかけ離れていました。イエス様が商人たちを叩き出した時、それは、ゼカリヤ書14章21節の預言「万軍の主の神殿に商人はいなくなる」を実現するものでした。しかし、商人の追い出しは、現行の宗教システムに対するあからさまな挑戦と受け取られたのです。
イエス様は、神のひとり子ですから、旧約聖書に記された神の意思を正確にわかる者としてこの世に送られました。それにもかかわらず、わかっていないのにわかっているつもりの宗教指導層が彼を迫害し殺すために占領者の官憲に引き渡してしまったのです。そればかりか、それまでイエス様のことを、ただ自分たちの民族のスーパー・ヒーローだと祀り上げていた人々も、いざ彼が逮捕されると、直近の弟子たちから逃げ去り、群衆も背を向けてしまいました。この時、誰の目にも、この男が民族の王国を再興する王になるとは思えなくなっていました。王国を再興するメシアはこの男ではなかったのだと。しかしこれは、旧約聖書を一面的にしか見ていなかったことによる理解不足でした。ところが、イエス様が十字架にかけられた後に、旧約聖書の奥義が全て事後的に理解できるという、そんな出来事が起きました。イエス様の死からの復活がそれです。
4. イエス様が死から復活させられたことで、死を超えた永遠の命が存在すること、そしてその扉が人間に開かれたことが明らかになりました。神に最初に造られた人間アダムとエヴァが造り主に対して不従順になって罪を犯したために、人間は死ぬ存在になってしまいました。しかし、この堕罪のために閉ざされてしまっていた永遠の命への扉が開かれたのです。さあ、これで人間は死を超えた永遠の命を持つことが出来るでしょうか?ここで起きる疑問は、人間が死を超えられなくなってしまったもともとの原因である神への不従順と罪の問題はどう解決できるのか、ということです。
それが、解決しているのです。正確に言えば、解決してもらっているのです。どうやって?それは、イエス様が十字架の上で、罪がもたらす神罰を全部人間に代わって引き受けて下さったことで解決しました。イエス様がこの私の罪の罰も全部代わりに引き受けて下さった、だからイエス様は私の救い主なのだ、そう信じて洗礼を受ければ、神はイエス様の犠牲に免じて罪を赦して下さいます。このように神から罪を赦された者は、永遠の命に至る道に置かれてその道を歩み始めます。もう罪と死がその人の運命を左右する力はありません。もちろん、罪と死が左右するように見えたり感じたりする時もあります。しかし、見えたり感じたりすること自体には本当の力はありません。私たちの運命を左右する本当の力は、ゴルゴタの丘の上に立てられた十字架にあります。その十字架に心の目を向ける時、私たちはその力に与れます。
イエス様の十字架の死と死からの復活が起きたことで、旧約聖書の奥義が次々と明らかになりました。例として、イザヤ53章に預言されている「神の僕」とはまさにイエス様のことを指していることが明らかになりました。
「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼がになったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた。」(3-6節)
「彼は自らの苦しみの実りを見 それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし 彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで 罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをなしたのはこの人であった。」(11-12節)
実に、イエス様の十字架の死と死からの復活は、ユダヤ民族であるかないかに関係なく、人類すべてに「罪の赦しの救い」をもたらしたのです。イエス様の神聖なエルサレム入城は、この救いの大事業の第一弾でした。今のこの世が終わって新しい世が到来する時に裁きを行うイエス様が現れるというのは、まだ先のことだったのです。それは、イエス様の再臨の時のことだったのです。天地創造の神を崇拝するようになった多くの民族の人たちがエルサレムに上ってくるという預言も、それはもはや地理上のエルサレムをささず、黙示録21章にある天上のエルサレムをさすのです。つまり、それは神の国です。こうしたことは、当時、歓呼の声をあげて付き従った人々も、エルサレムで衝突することになる人たちも誰もわかりませんでした。彼らはただ、自民族の宗教システムの温存が大事だったり、また自民族の解放と復興がもたらす平和が大事だったのです。それでイエス様に反対したり、逆に王に祀り上げたりしたのです。
このような自民族中心主義に縛られている限り破滅は避けられないということをイエス様はよくわかっていました。かと言って、十字架と復活が起きる前に「罪の赦しの救い」がもたらす平和など誰も理解できないこともわかっていました。また、十字架と復活が起きても、全ての者が理解するわけでなく、多くの者は自民族中心主義を続けてしまい、それがローマ帝国との衝突に至ってしまうことも。イエス様は、これらのことが全部わかって泣かれたのでした。
5.以上、イエス様が子ろばにのってエルサレムに入城したというのは、人間救済という天地創造の神の一大事業の第一弾であったことが明らかになりました。この大事業は、旧約聖書を与えられて読んでいたはずのユダヤ人たちにとって理解を超えるものでした。でも、旧約聖書の奥義は、ユダヤ民族という一つの民族の思いを超えた、全人類にかかわるものでした。それが神の意思でした。イエス様は、神が送られたひとり子であるがゆえに、この神の意思を人間よりもご存知でした。そして、このひとり子は、神の意思を明らかにしただけではなく、それを身をもって実現したのです。 私たちは、十字架と復活の出来事の後の時代を生きていますが、これはイエス様が再臨する時に終わりを告げ、新しい世にとってかわります。この二つの出来事の間の時代はまた、一方で、イエス様を救い主と信じて「罪の赦しの救い」を受け取って永遠の命に至る道を歩み始めた者と、他方で、そうでない者の二つに分かれる時代でもあります。神は、救いを全ての人間のために準備した以上、できるだけ多くの人がその受取人になってほしいというのが本心です。それゆえ、私たちキリスト信仰者は、隣人愛を実践する時にも、どうすれば隣人の心を人間の造り主であり贖い主である神に向けさせて、救いの受取人になれるようにしていけるか、ということに心を砕かなければなりません。
主日礼拝説教 枝の主日2016年3月20日の聖書日課 ゼカリア9章9-10節、フィリピ2章6-11節、ルカ19章28-48節
今日の聖書日課としては、20章9~19節までであります。ここには、イエス様が語られた「ぶどう園と農夫のたとえ」の話です。このたとえの話を、イエス様が、どんな状況の中で語られているか、そのことを、まず十分知ることで、たとえの話の意味を知る重要なことであります。それでは、そのたとえ話を語られた状況というのは、どういうところかといいますと、20章1~9節であります。1節を見ますと「イエスが神殿の境内で、民衆に教え、福音を告げ知らせておられると、祭司長や律法学者たちが長老たちと一緒に近づいてきて、言った」とあります。今日の礼拝は、受難節であります。1~9節の出来事は、イエス様が十字架にかかられる3日前の出来事です。
イエス様は、エルサレムの神殿で、過越の祭に集まってきている民衆に福音を教えておられた。マタイの記事の方では、この部分は書いていません。しかしルカは「世界に向けた福音宣教」のことが、イエス様の使命であったことが重要なこととして、しっかりと書いているのです。 さて、そこへ、祭司長たち、律法学者、そして長老がイエス様の前に登場しました。ここに登場してきましたのは、サンへドリンと言われる、いわゆるユダヤの最高議会を構成しているメンバーの、幹部の連中であります。この世で政治的な権力を持っている、プライドの高い連中であります。 まず祭司長というのは、大祭司が選出される母体となる者たちです。普通、誰でもなれる者ではありません。先祖たちから受け継がれた、レビ族の伝統の中でつちかわれた、非常に宗教的プライドの高い人々です。この神殿のすべての管理と祭儀をとり行う任務を負っています。年に1度大切な祭りの最中であります。 律法学者たちは、旧約聖書の律法の研究や解釈では、高い学識とプライドがあり、会堂で律法を教え、守るようにとりしまっている学者たちです。 サンヘドリンの大部分の勢力を持っていたのは、サドカイ派といわれる党派でした。それに対抗して、パリサイ派といわれる派閥の長老たちです。 普段は、いろいろな利害関係で対立しているグループの幹部が、今、一同に集まって、イエス様に対抗して、議論をしかけて来たわけです。ですから、神殿において、ユダヤ今日の宗教の権威と議会と学者などの権威を総動員して、イエス様の宗教の権威と対立していると言ってもいいのであります。
イエス様の側には、教えを熱心に聴こうと集まっている群衆がいます。彼らは、エルサレム入城の時から、イエス様がろばに乗ってこられる、ホサナホサナと、民衆が、歓喜の叫びで迎えています。ものすごい、人気が上がっているのです。 サンヘドリンの議会や、ユダヤ教としては、この群衆が恐ろしいのであります。暴動によって、何が起こるかわからない。この者を、排除してしまわなければならい、ち、ひそかな計画がすすめられているわけです。
いつかは、正面と向き合って、対決することになるだろうということは、もうすでにあって、いよいよぶつかったのであります。 長老たちは、イエス様に問いかけたのです。「何の権威によって、これらの事をするのか」と。「そうする権威を与えたのは、誰か」というのです。 これらの事と彼らが言ったのは、前日に、イエス様が神殿で行われた宮清めのことを言っているのは、わかりきったことです。 イエス様は前日、神殿で商売をしているものたちの台をひっくり返し、いけにえのやぎや、子羊や、はとを、追い払い、ものすごい怒りを爆発させて、宮清をされました。「わたしの家は、祈りの家でなければならない」と書いてあるのに、あなた方は、強盗の巣にした。商売をしている者たち、そして、宮の管理をまかされていた祭司長たちが、このイエス様のいかりに対して、だまっていなかったのは当然でしょう。
「誰の権威でやっているのか。」これに対して、イエス様は、すぐに直接に答え給わない。まず、ではたずねるが、「バプテスマのヨハネは、天からのものだったか、それとも人からのものだったか。」彼らは、答えられなかった。 そうして、イエス様は9節から19節にありますように「ブドウ園と農夫」のたとえ話を祭司長たち長老たち、そして群衆にも語られていったのであります。 この譬話は、聞く人々にすぐわかるものでした。イエス様の時代、たびたび実際に起こっていた事件であったと思われます。ぶどう園の主人は、農夫たちの反行に対して最後に、愛する息子を送ったのでありますが、その息子も、ぶどう園の外に、ほうり出して、殺してしまった。15節には、「さて、ぶどう園の主人は、農夫たちを、どうするだろうか。戻ってきて、この農夫たちを殺し、ぶどう園を、ほかの人たちに与えるにちがいない。」 つまり、ぶどう園の主人である神様は、農夫たちである祭司長たちを、皆、ほろぼし、異邦人の手に渡されて、神の御国の宣教は広げられていく、ということを予言しているわけであります。
ルカは、この御言葉がどんなに深くたとえ話の聴衆の良心に食いこんだかを、描いたのです。 彼らは自分たち自身に、神のさばきの判決が下されるのを知ったのです。 このたとえ話は、イエス様が父なる神より遣わされた神の子であることを示すためであったのです。イエス様が宮清めをされた、「これらの事をなす権威」は、だれによってだったか。それは神御自身であることを明らかにされたのであります。
17節以下~19節までをみますと「イエス様はさらに、旧約聖書詩篇118篇22節からの引用で建築家の話をされています。17節「それでは、こう書いてあるのは何の意味か。家を建てる者の捨てた石。これが隅の親石となった。」その石の上に落ちる者は誰でも打ち砕かれ、その意思がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。言い換えますと、イスラエルの指導者たちに捨てられた石、つまり、イエス・キリストが隅のかしら石となるのだ。神の民としての土台石となるのである。
ダニエル書2章34~35節の言い直しで、この石であるキリストは滅びる者にとっては恐るべき破壊者であることを語っています。 神様がキリストによって新しい神の民を起こすこと、そして古い民・イスラエルは、キリストにつまずき滅亡するのだ。とすでに予言で言われているということです。
イエス様こそ、全人類の罪を負って隅の頭石となられた。十字架の死を負って、復活し、今も生き給う、私たちの救い主であります。アーメン。
人知では、とうていはかり知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いを、キリスト・イエスにあって守るように。
真冬に戻ってしまったような寒い土曜日の午後、家庭料理クラブは「コルバプースティ」を作りました。
今回はフィンランドのラッペーランタ市の日本語学校から、校長先生と生徒さんの参加もあり、楽しい開催になりました。
最初に吉村先生のお祈りからスタートしました。材料の計量に生地作りへと、日本語とフィンランド語が飛び交う、賑やかなテーブルを囲み、作業が進みます。
ブッラ生地の発酵を待つ間に、細巻き寿司も作りました。
試食タイムは、焼きたてのブッラと細巻き寿司で楽しい交流の場になり、パイビ先生からは、コルバプースティの思い出や、イースターに向けてのお話、可愛い手作りイースターエッグの登場に歓声が上がりました。
参加の皆様、お疲れ様でした、次回は4月9日を予定しています。
フィンランドで昔からコーヒーと一緒に食べたものは菓子パンで、フィンランド語でプッラと言います。今日一緒に作ったコルヴァプースティは菓子パンの一つの種類です。私のお祖母さんの時代には、コルヴァプースティは高価なものだったので、生地に砂糖とバターを少なく入れた、シナモンも使わない簡単な菓子パンが普通でした。その時代は、菓子パンは毎日食べるおやつではなく、クリスマスとかイースターとか夏至祭のようなお祝いの時しか食べませんでした。そしてお祖母さんの時代に作られた菓子パンは、このような細長い編んだものが普通でした。細長い編んだ菓子パンを薄く切ってコーヒーと一緒に食べたのです。
時代が変わって、菓子パンは毎日のおやつでも食べられるようになって、ほとんどの家庭で毎週菓子パンを焼くようになりました。お祝いの時は、菓子パンの他にもいろいろなケーキやクッキーが出されるようになりました。しかし、ケーキやクッキーの種類が沢山あっても、菓子パンの重要性に比べられません。特に年配の人たちは、お祝いの時のコーヒーの出し物に菓子パンがないとお祝いの価値がなくなると思うほどです。
フィンランドの菓子パンはいろんな形や味のものが作られます。今日作ったコルヴァプースティは、菓子パンの中で最も人気があるもので、菓子パンの王とも言われます。フィンランドでは、10月4日は「コルヴァプースティの日」と定められています。これは、2006年から始まりました。この日を定めた目的は、コルヴァプースティが家庭でもっと作られるようにし、興味を持たせることです。フィンランド人にとって、焼きあがったばかりの温かいコルヴァプースティを冷たい牛乳と一緒に味わうのは、とても大きな楽しみです。
家庭でコルヴァプースティが作る習慣があると、それは子供たちが大きくなっても忘れられない大切なことになります。ほとんどのフィンランド人は、自分のお母さんが作ったコルヴァプースティが思い出の中にあります。フィンランド人に一番美味しいコルヴァプースティを作るのはだれ?と聞くと、きっと自分のお母さんと言うでしょう。フィンランド人の子供たちは学校から帰ると、家の外にコルヴァプースティの香りが拡がっていて、お母さんがコルヴァプースティを焼いているということが良い思い出になっていると言えます。コルヴァプースティの香りは、フィンランド人にとって子供時代の香りとも言われます。子供時代の良い思い出は大人になっても忘れられず、大人になった時、自分の子供にも伝えたいと思うようになります。このようにフィンランドのコルヴァプースティは、世代と世代をつなぐ役目を果たしているのです。
今イースター・復活祭が近づいているので、イースターについて子供時代の思い出のひとつをお話ししたく思います。フィンランドでは、イースター・復活祭は大きなお祝いで、休みも聖金曜日から次の週の月曜日まで4日間あります。この大きなお祝いのために家庭ではいろいろな準備をします。家の掃除を普段より丁寧に行って、イースターの料理やお菓子を作ることです。私は子どもの頃、イースターを兄弟姉妹たちと一緒に楽しく待ちました。どうしてかと言うと、イースターのきれいな飾り物を作ることや美味しいお菓子を焼くことがとても楽しかったからです。特に子供たちをワクワクさせる楽しみは、イースターの日曜日の朝にありました。
私の母はイースターの前に、チョコレートでできたイースター・エッグやあめなどを子供たちが分からない時にひみつで買いました。イースター前日の土曜日の夜、子供たちが寝ている時に母は買ったお菓子をきれいな袋に入れて、みんなのベッドの端っこに置きました。次の日イースターの朝、子供たちが起きると、すぐ母が置いた袋を見つけて、その中身を見て、チョコレートのイースター・エッグを見つけていつも大喜びでした。その頃、あめとか甘いものはそんなにたくさんなかったので、このように沢山甘いものをもらえるのは嬉しいことでした。子供たちは、このようなやり方を通しても、イースターは喜びのお祝いだということをわかっていくのです。
それでは、イースター・復活祭はどうして喜びの日になったのでしょうか?聖書は、このことについて詳しく書いてあります。最初にイースターの前にイエス様が受けられた苦しみについて書いてあります。イースターの前の週の木曜日イエス様は、イエス様に反対する者たちに捕らえられて、沢山の苦しみを受けなければなりませんでした。そして、イースターの前の週の金曜日、イエス様は何も悪いことはしていなかったのに、十字架にかけられて死なれました。亡くなられたイエス様の体は十字架から下されて、布に巻かれて、岩に掘った墓に入れられました。でもこの日から3日目の日曜日の朝イエス様は復活されたのです。その朝、イエス様の教えをよく聞いて従った女性たちがイエス様のお墓に行きました。ところが、イエス様の体はもうお墓の中にはありませんでした。そこへ天使が現れて、イエス様は復活されたのだと女性たちに告げ知らせました。女性たちはこれを聞いて大喜びしました。
イエス様が死から復活されたことは、あの女性たちだけではなく、私たちや全世界の人々にとっても大きな喜びになりました。その喜びは、どんなことでしょうか?イエス様は私たちや世界の全ての人々の罪を全部背負って十字架の上まで運んで、そこで私たちの代わりに神様の罰を受けて死なれました。私たちは、イエス様のおかげで神様から罪の赦しをいただけるようになりました。しかし、それだけではありませんでした。神様はイエス様を死から蘇らせました。そうして、死を超えた永遠の命への扉が開かれたのです。死から復活されたイエス様は、今日も明日もいつも永遠に私たちと共にいてくださるのです。これは本当に大きな喜びのことです。
イースターの時に飾りつけをしたり食べたりする卵は、イースターの意味をよく表しています。卵の殻はイエス様が出て行かれた空っぽのお墓を象徴します。そして卵の黄身はで、イエス様の復活を通して得られることになる永遠の命を象徴します。そして卵の中から出てくるひよこは、喜びそのものです。
1.はじめに
本日の福音書の箇所にある放蕩息子の話は、キリスト教会の内外を問わず聖書を読む人なら恐らく誰でも知っている有名なイエス様のたとえ話です。こういう、みんなが知っている話が繰り返し説教の課題聖句になると説教者は少し苦労します。もうみんなが知っている話だから、何か新しい変わったことを言わなければつまらなくなってしまうだろう、それでは、その新しい変わったこととはなにか?私自身、3年前に別の教会の礼拝でこの箇所について説教しましたが、運よくイエス様の十字架と復活について述べることができました。さて今回、どうなるか?意外にも3年前に気がつかなかったことがひとつ見つかりまして、それが、イエス様の十字架と復活を述べるのにもっと相応しいとわかったのです。驚きでした。
聖書は、まことに不思議な書物です。時間がたって読み返して以前とは違った角度から読むことになっても、必ずイエス様の十字架と復活、そしてそこに現れた父なるみ神の愛と恵みということに行き着くからです。本日も放蕩息子の話を通して、私たちがどれだけ神に愛されているかを明らかにしてまいりましょう。
2.放蕩息子のたとえのあらすじ
放蕩息子の話の内容は、ご存知の方は多いと思いますが、とりあえずあらすじを見てみましょう
あるところに多くの使用人を雇えるくらい金持ちの人がいて、彼には息子が二人いた。そのうちの次男が、こともあろうにまだ健在の父親に向かって、遺産相続の前払いをしろと言わんばかりに財産分割を要求する。いくら将来自分の取り分になるとは言え、父親が死んだも同然と言わんばかりの要求である。十戒で言えば、第4掟「父母を敬え」と第10掟「隣人のものを貪るべからず」を破るのは明らかなのだが、なぜか父親は息子の言う通りにしてしまう。父親のこの気前の良さは一体なんなんだ、という疑問が起きるかも知れません。しかし、これはたとえ話で、何か大切なことを教えるための作り話だと考えると、父親の気前の良さも大切なことを教えるための仕掛けだとわかり、この父親は父親として適格かどうかとか、そういう話はする必要はありません。
さて、息子は得た金で渡航準備をして遠い国に旅立つ。そこで贅沢三昧、欲望全開の生活を送る。このイエス様のたとえを聞いていた人たちは、恐らく、ギリシャの繁栄した港町やローマの都を思い浮かべたことでしょう。イエス様の話は、たとえであることを忘れさせるくらいに現実味を帯びて聞こえたことでしょう。後で息子の兄が、この男は娼婦どもと一緒に親の財産を食いつぶした(30節)と言うくらいなので、十戒の第6掟「姦淫するなかれ」を破っていたことも明らかである。
さて、まもなくして息子は金を使い果たす。さらに運悪いことにその国を飢饉が襲う。困った息子は、その地で贅沢三昧していて時に知遇を得たであろう金持ちに取り入って、なんとか豚の群れの飼育の仕事にありつける。しかし、飢饉の最中なので安給料では食べ物はろくに食べられないし、人々も自分の食糧の確保で忙しいから、彼にかまってなどいられない。しまいには、豚のえさまでが喉から手が出るほどほしくなる始末。
まさにその時、息子は「我に返って」言う。故国の父さんの家には召使いが沢山いて、彼らにはパンが有り余るほどあったなあ、それに比べて自分はなんと惨めな状況に陥ってしまったのだろう。このままでは飢え死にだ。故国に帰って、父親に謝って、召使の一人にしてもらおう。そう言って帰国の途につくことにした。
やがて、懐かしい家が向こうに見えてくる。その時、父親の方が先に向こうからやってくる息子に気がつく。息子は、飢えと過酷な肉体労働でやつれてみすぼらしい恰好です。すぐ後で父親が召使いに命じて息子に上等な服を着せ、靴も履かせることから、息子はぼろを着て裸足だったことが窺えます。父親はそんな息子を見て、なんとかわいそうなことかと心から憐れに思って自ら走り寄って抱きしめます。これは、息子にとって全く予想外のことでした。きっと、白い目で見られ相手にもされないと思っていたのに、こんなに愛情をもって受け入れてくれるとは。父親は召使いたちに、息子の身なりを元通りにして、肥えた子牛を屠ってすぐ祝宴の支度をしなさいと命令します。息子は召使いにならず、息子としての地位を保持することが許されました。
そこに、長男が畑仕事から帰ってくる。どうも家の中が大変なお祭り騒ぎになっている。なんだあれは、と召使いに聞くと、家を出ていた次男さんが無事に帰ってきたのでお祝いをしています、と言う。長男はもう怒りが全身にこみあげて家になど入れない。それに気づいた父親が出てきて、中に入って一緒にお祝いしようと促す。しかし長男は、自分は何年も父親に仕えてその言いつけをちゃんと守ってきたのに子山羊一匹すらくれなかった、それなのに父親と天のみ神の双方に背いた弟には肥えた子牛を屠ることまでする。不公平極まりないではないか。
この不公平感は、もっともに聞こえます。それでも父親は、盛大なお祝いをしなければならない理由として次のことを言います。「お前の弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかった」(32節)。ギリシャ語の原文に忠実に訳すと、「お前の弟は死んでいたのに、生きだした/生き始めた。失われていたのに、見出された」です。以上が放蕩息子のあらすじです。
3.
「死んでいたのに、生き始めた」というのは、本当に死んでしまった者が死から蘇った、という意味ではありません。生きていても意味がない生き方をしていた者が、生きていて意味がある生き方をし始めた、ということです。そのように言うと、黒澤明の映画「生きる」を思い起こさせます。もう60年以上前に作られた古い白黒映画です。映画の主人公は、ただ機械のように仕事をする役所の課長で、ナレーションでも「この男は生きているが実は死んでいるのである」などと言われます。その主人公が、癌を告知されて余命いくばくもないとわかって、救いを求めてもがきます。最後に見つけたことは、遊び場のない子供たちに公園を作ってあげようと決心して、そこに残された人生を生きる意味を見いだします。それから人が変わったように働き出し、いろいろな困難に遭遇してもそれらを乗り越えて最後には公園を完成させる。主人公は死ぬ直前、雪の降る夜、完成した公園のブランコに一人揺られ、「命短し恋せよ乙女」という、自分が若い時に流行していた歌を口ずさみます。
映画の中では、公園を作ることが主人公に生きる意味を与えました。それでは、イエス様の教えの中では、生きる意味を持って生きるとはどんな生き方でしょうか?この問いの答えは、「見失われていたのに、見出された」という言葉が鍵です。「見失われていた」というのは、天と地と人間を造られて人間一人一人に命と人生を与えた神に対して背を向けて、神から見失われた状態でいた、ということです。それが神の方に向き直って神のもとに立ち返る生き方をし始めると、自分の造り主である神に見出されたことになります。すなわち、「神から見失われた」状態が「生きる意味を持たない、死んだ」状態であり、「神に見出された」状態が「生きる意味を持って生きる」ことになります。
たとえの父親は戻って来た息子を見てとても喜び、周りからみるに不公平に感じられるくらいの大きなお祝いをします。実はここでイエス様は、神から見失われて死んだ状態にいた者が神に見出されて意味を持って生きるようになると何が起きるかについて、つまり、神も祝宴を開きたいと思うくらい大きな喜びを感じるのだ、ということをこのたとえを聞く人にわからせようとしたのです。そのために、たとえの父親の喜びようを詳しく話したのでした。
それでは、イエス様はどうしてこのような、見失われた者が見出されると神の喜びはとても大きいということをわからせようとするのか?これは、ルカ15章全部をしっかり読むとわかります。実は放蕩息子の話は、そのすぐ前でイエス様が語る二つのたとえの続きでして、連続する三つのたとえのクライマックスになっています。
イエス様が三つのたとえを続けて話したのには理由がありました。初めに、イエス様が当時のユダヤ教社会で罪びとの最たる者と目されていた取税人たちと食事の席を共にしたということがスキャンダルになりました。当時、食事を共にするということは、家族同様の親密な関係を持つことを意味しました。それで、今注目の的となっているこのナザレのイエスという教師は何と不埒な輩か、とファリサイ派や律法学者たちは批判を浴びせるのであります。これに対してイエス様は、自分のやっていることの正さを明らかにするために、三つのたとえを話されたのです。
最初のたとえは、群れからはぐれた1匹の羊を見つけるために99匹を置き去りにしてまで探しに出かける羊飼いの話です。羊を見つけると彼は肩に担いで大喜びで帰って、友人たちを呼んで一緒に祝います。二つ目のたとえは、10枚の銀貨のうち1枚を紛失して家中をくまなく探しまわる女性の話です。それを見つけ出した女性は、大喜びで友人たちを呼んで一緒に祝います。二つとも締めくくりの言葉は同じで、こういう見失ったものを見つけた時の喜びというのは、まさに罪びとが神のもとに立ち返る生き方をするようになった時に天国で持たれる喜びと同じである、と言います。つまり、イエス様と食事を共にする罪びとたちは、イエス様の教えを聞き、彼の行った奇跡の業をみて、この方こそ約束された救い主だと信じ、神のもとに立ち返る人生を歩むようになった人たちなのです。
それなら、ファリサイ派はなぜ文句をつけるのか?それは、イエス様と一緒に食事をする罪びとたちが本当に神のもとに立ち返る生き方をしているかどうか、まだ信じられないのです。加えて、ファリサイ派からすれば、罪の赦しが間違いなく神から与えられたものと言えるためには、宗教上の規定に従っていろいろな償いの儀式をしなければならない。それなのに、ナザレのイエスを救い主と信じるだけで赦しが得られるとは何事か、そんなのは赦しでもなんでもない、という頑なさだったのです。放蕩息子のたとえの後半で弟を受け入れられない兄が登場しますが、これはたとえを聞いているファリサイ派の人たちに、君たちはこのレベルなのだ、とわかりやすく教えているのです。
いずれにしても、イエス様からすれば、彼と一緒に食事をした罪びとは神のもとに立ち返る道を歩み始めるようになった人たちなのです。最初のたとえに出てくる1匹の羊のように、また二番目のたとえの1枚の銀貨のように、一度見失われてしまったが再び見出されたものです。見失われたというのは、人間が自分を造られた神に背を向けて生きてしまうということです。見出されたというのは、再び神の方を向いて神のもとに立ち返る道を歩むようになったということです。イエス様は、自分と一緒に食事の席に着く罪びとたちが神のもとに立ち返る生き方を始めたとして、彼らの内面の変化は真実であると言うのです。天国では、このような内面の変化が起きることが神の御心に適っており、天使たちにもお祝いされるのだ、と教えるのです。
ところが、最初の二つのたとえで注意しなければならないことがあります。それは、迷った羊、なくなった銀貨は動物であり、物であるということです。それで、悔い改め、つまり神のもとに立ち返るということを教える題材としては適当ではありません。羊や銀貨の内面の変化など辿ることは不可能です。そこで、三つ目のたとえである放蕩息子の話がでてくるのです。そこでは最初の二つのたとえと同じように、見失われたものが見出された時の天の喜びはとても大きいということも述べられますが、それに加えて、神のもとに立ち返るとはどういうことか、そのことについて人間の内面の変化が辿られます。
そこで、神のもとに立ち返るようになるという内面の変化ですが、放蕩息子の場合はいつそのような変化が起こったでしょうか?17節を見ると、「我に返って言った」とあります。息子が飢えて惨めな状況にいた時のことです。18節では息子の気持ちはもっと詳しく記されて、イエス様は彼に次のセリフを言わせます。「父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどのパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください』と。
ところでこの内面の変化は純粋なものでしょうか?空腹に耐えきれずパンを腹一杯食べたいので、家に帰ることに決めた、ただし父親はもう自分を受け入れてくれないだろうから、それならば息子として扱われなくていいので、せめて雇い人にしてもらおう。これが何よりも大事なことである、なにしろ、あそこは雇い人にもパンが沢山与えられるのだから。まあ、こういう論理でしょう。
結局、パン欲しさのための謝罪と言われても仕方がなく、息子の反省はこの段階ではそれほど深くはなかったと言えます。もちろん、雇い人としてでも受け入れてもらえるためには、自分の非を認めてしっかり謝らなければなりません。その意味で息子の謝罪は必ずしも形だけのものでも嘘でもない。しかしそれでも、パン欲しさのための謝罪ということは否定できない。親を死んだ者同然に扱って遺産を前払いさせて、それを自分の欲望を満たすために使った者が、親のところに戻って食いつなごうとする。ちょっと虫が良すぎるのではないか。どうも謝罪は、食いつなぐための手段のように見えます。
ところが、どうでしょう。父親に心からの出迎えを受けた息子は何と言ったでしょうか?「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません」(ルカ15章21節)。お気づきになったでしょうか?ここには「雇い人の一人にしてください」はありません。「雇い人の一人にして下さい」というのは、パンを食べれるようになるために言わなければならない言葉でした。それが言えるためには、先に謝罪を言う必要がありました。そのために謝罪は、「雇い人の一人にしてもらって、パンを腹一杯食べる」という目的のための手段に見えてしまうのです。ところが、息子が実際に述べた言葉の中には、「雇い人の一人にして下さい」はありません。よく見て下さい。つまり、本当の目的が消えてなくなったのです。それに伴って、謝罪は手段ではなくなりました。謝罪が本当の目的になったのです。
どうしてそんな変化が起こったのでしょうか?息子が帰国すると決めてから、故国に到着してこの言葉を発するまでの間に何が起こったのかをみてみましょう。遠くに息子を見てとった父親は「憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」(ルカ15章20節)。これは、息子にとって想定外のことでした。なぜなら、父親は絶対自分を受け入れてくれないだろう、もう息子として扱ってもらえないのは火を見るより明らかだ、だから、食べ物を得られるためになんとかして雇い人の一人にしてもらえるよう頑張らなくては。息子はそのようなつもりでいたのでした。それゆえ、父親の示した愛情は本当に全く想定外でした。こんなに自分のことを思ってくれている、愛してくれている、帰って来るのをずっと待ってくれていたのだ、忘れないでいてくれていたのだ。それなのに自分はそんな父親を単なる財産の提供者くらいにしか見なさず、まだ生きている間に遺産分割の先払いをさせて、それを自分の欲望を満足させるために使い果たしてしまった。そんな、父親に受け入れてもらうに値しない者なのに、父親は思ってくれている、愛してくれている.......。
そんな思いでいる時に口から出る謝罪の言葉は、何か別の目的に仕えるという手段の言葉ではなくなって、本当の謝罪になるでしょう。それで、「雇い人の一人にして下さい」は削除されたのです。最初に謝罪の言葉を考えた時にまとわりついていた余計なものが一気にそぎ落とされて、純粋な謝罪になりました。父親の愛が謝罪を純化したのです。
加えて、「あなたの息子と呼ばれる資格はありません」という言葉も、最初は「息子と呼ばれる資格がないので、雇い人に雇って下さい」という結びつきの中で言う言葉でした。それが、「雇い人にして下さい」が削除された今、「息子と呼ばれる資格はありません」だけ言うのは、本当に自分を恥じる言葉になりました。ところが、父親は最上の服、履物、指輪を息子につけてあげて、大きな祝宴を開きました。つまり父親は、「息子と呼ばれる資格はない」という息子の言葉を行為で否定したのです。息子は、愛する子としての資格があることを認めてもらったことがわかりました。これからの息子の生き方は、この純粋な謝罪と息子として認めてもらったことに基づかなければなりません。「息子と呼ばれる資格はない」ではなく、「息子と呼ばれる資格を持つ者」に相応しい生き方をする以外に道はなくなったのです。このように父親の愛によって息子は今までと全く違う新しい人間に作り変えられたのでした。
5.
「私はあなたの息子と呼ばれる資格はありません」と思っていたところ、父親からお前は紛れもなく私の息子だと態度と行いをもって示されました。これで息子はもう、息子の資格に相応しい生き方をする以外に道はなくなりました。ここで、実はみなさん、これと同じことが私たちと天の父なるみ神との間にも起きているのです。そのことに気づくようにしましょう。どういうことか、次に見てみます。
私たち人間は、罪のために自分の造り主である神との結びつきが失われてしまいました。罪を持つために神との結びつきが回復できず、他人に対しても自分自身に対しても良からぬことを考えたり、悲劇を繰り返す私たちでした。神は私たちをこの憐れな状態から助けようとして、それでひとり子のイエス様をこの世に送られました。そして、罪のゆえに人間に課せられる全ての神罰を全部イエス様に負わせて、ゴルゴタの丘の十字架の上で死なせました。神は、ひとり子イエス様の身代わりの犠牲の死に免じて、人間を赦すという方法を取ることにしたのです。さらに神は、一度死なれたイエス様を三日後に復活させて、永遠の命に至る扉を私たち人間のために開かれました。こうして人間は、これらのこと全ては自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、今度は神がイエス様の犠牲に免じて罪を赦して下さり、私たちを自分の子として見てくれるのです。こうして、神の子とされた私たちは、神との結びつきを回復してこの世を生きることが出来るようになり、順境の時も逆境の時もいつも神から良い導きと助けを得られるようになり、万が一この世から死ぬことになっても、その時は神は御手を持って御許に引き上げて下さり、こうして自分の造り主である神のもとに永遠に戻ることができるようになったのです。
このように神は、神の子と呼ばれる資格を私たちに与えようとして、イエス様をこの世に送って、十字架と復活の業を成し遂げられたのです。イエス様を救い主と信じる者は、もう「自分は息子と呼ばれる資格はない」などと言ってはいけません。ただ、そうは言っても、神の子として認められたにもかかわらず、罪が頭をもたげて自分を支配しようとして、神の子の資格に相応しくない思いや行いや言葉を言わせたり行わせたり思わせたりしようとします。その時は、父なるみ神に向かって「私の罪を主イエス様の犠牲に免じて赦して下さい」と言いましょう。その時、神は必ず「お前の罪は既にあそこで罰を完全に受けているので、本当はお前を支配する力はもうない。だから恐れたり心配する必要はないのだ」と言って、私たちの心の目をゴルガタの十字架に向けさせます。その時私たちは、これからは神の子として父なるみ神に、またイエス様に恥じない生き方をしなければ、と心を新たにすることができるのです。
兄弟姉妹の皆さん、このように私たちは、イエス様の十字架のおかげで何度でも何度でも心は純化されて、神の子と呼ばれる資格を持ち続けることができるのです。このことを忘れないようにしましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン
主日礼拝説教 四旬節第四主日2016年3月6日の聖書日課 イザヤ12章1-6節、第一コリント5章1-8節、ルカ15章11-32節
1. はじめに
本日の説教題は「キリスト信仰者の覚悟と本懐」です。「覚悟」という言葉の意味は、誰でもわかると思います。一応辞書で確認しますと、「危険な状態や好ましくない結果を予想し、それに対応できるよう心構えをすること」とありました。「決死の覚悟」とか「危険は覚悟の上だ」とか「覚悟はできている」という用例がありました。ところが「覚悟」には、こういう「対応の心構え」とは逆に、「あきらめる」とか「観念する」の意味もありまして、その場合は「もうだめだ、と覚悟する」などと言います。本説教で言う「覚悟」は、「あきらめ」ではなく、「来るべき試練に対応すべく心構えをする」の意味です。
「本懐」はあまり聞きなれない言葉かもしれません。辞書に載っている意味は、「もとから抱いている願い」、「本来の希望」、「本意」、「本望」などとあり、それで「本懐を遂げる」という用例がありました。「本望を遂げる」と同じでしょう。それならば、どうして「本望」を使わずに「本懐」を選んだかと言いますと、30年程前に出た城山三郎のノンフィクション小説に「男子の本懐」というのがあり、テレビドラマにもなりましたが、主人公の浜口雄幸という1930年代初めの総理大臣がこの言葉を使っていて、それが「覚悟」という言葉とうまくペアを組むと思ったからです。
どういうことか、簡単に説明しますと、当時の日本は天皇主権の大日本帝国憲法のもとで国が統治されていました。それでも、議会は選挙権が拡大して男性の普通選挙が実現して、議会の多数を占めた政党が政府を形成するという議会制民主主義が根付き始めていました。そのような時に首相になった浜口は軍縮を実行します。当時の内閣は今の防衛大臣と違って海軍大臣と陸軍大臣がいて軍の発言力はとても大きかったのですが、浜口は今で言えばそれこそ立憲主義の原則にたって事を進めていきます。しかし当然のことながら軍は反発、浜口のやっていることは軍を議会や政府の意思に従わせるものだ、それは天皇の主権を侵すものだ、と主張しだす。それはまさに立憲主義に関して当時の憲法の限界点を露呈する出来事でした。浜口首相は右翼の青年に銃撃されて重傷を負い、それがもとで命を落としてしまいます。そんなことが戦前の日本にあったのです。
浜口首相が「本懐」という言葉を使ったのは、私のつたない記憶ですが、首相に就任した時に、「自分は決死の覚悟で職務を行うので、道半ばで倒れるようなことがあっても、それは男子の本懐である」という趣旨のことを言っていました。また、銃撃された時も「男子の本懐だ」と言っていたと記憶します。要するに、何か私利私欲を超えた大きなものを目指してそれに向かって進んで行くが、たとえ道半ばで命を落とすことになっても、それは残念無念ではなく、目指す方向を向いて落とせるのであれば何も不足はない、本望である、本懐である、そのように理解してよいと思います。
以上のように「本懐」とは、「何か大きな目指すものをいつも向いて歩んでいるので、人生何があっても不足はないと思える心意気」と理解できることがわかりました。最初に「覚悟」とは、「来るべき試練に対応すべく心構えをすること」であると申しました。実は、本日の福音書の箇所、特に13章の1節から5節までの箇所は何度も何度も読んでいきますと、まさにそのような「覚悟」と「本懐」を与えてくれる御言葉であることがわかってきました。本日は、そのことを皆様にお伝えしたく思います。
2.二つのタイプの災難苦難とイエス様の主眼
ある人たちがイエス様にある出来事について報告しに来ました。それは、ローマ帝国ユダヤ地域総督ピラトが「ガリラヤ人の血を彼らの生け贄に混ぜた」という事件でした。ガリラヤ地方からエルサレムの神殿に何かの祭事の時に生け贄を捧げに来た人たちがいて、総督ピラトが何らかの理由で彼らを捕えて殺害させ、その血を彼らが捧げようとした生け贄にかけたか、または生け贄の血に混ぜたということです。とても残虐な出来事です。残虐な上に神殿でこのようなことがなされたのであれば、ユダヤ人が神聖と崇める神殿に対するとてつもない冒涜でもあります。(注1)
この報告を受けたイエス様は、ある出来事について述べます。それは、エルサレムの町のなかにあったシロアムの塔が倒れて、18人が犠牲になったという事故です。シロアムというのは、ヨハネ9章でイエス様が盲人の目を見えるようにしたシロアムの池という場所がありますが、もし塔がその近辺にあったものであれば、エルサレムの町の南部で起きた出来事ということになりましょう。イエス様が「あの(あれらのεκεινοι)18人」と言うように、聞いた人はすぐ何の出来事を指すかわかるような、多くの人の記憶に残っている出来事であったと言えます。
ところで、ピラトの事件は人間の残虐行為の犠牲と言うことが出来ます。シロアムの塔の場合は、人間の行為によるものというより、不慮の事故による犠牲と言えます。もちろん手抜き工事による事故なら人災と言うこともできますが、ここではそんな込み入ったことには立ち入らず、一方は人間の意図的な残虐行為による犠牲、他方はそうではない不慮の事故による犠牲ということにしましょう。そうすると、本日の福音書の箇所で言われる苦難災難は、人間がこの世で被る苦難災難の二つの大きな範疇を網羅していると言うことが出来ます。
さて、イエス様にピラトの事件を報告しに来た人たちは、何が目的で報告しに来たのでしょうか?彼らには、この事件を通して何か知りたいこと、イエス様に聞きたいことがありました。それが何であるかは直接的には記されていませんが、報告を聞いたイエス様の言葉から、彼らの関心事は明らかです。イエス様の言葉はこうでした。お前たちは「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか?」つまり、報告者の関心事は、「罪深さの度合いが高いと、そのような災難に遭遇しやすくなるのですか?」ということだったのです。裏を返して言えば、「罪深さの度合いが低ければ、災難に遭遇しにくくなる、ということなのですか?」さらに言えば、「罪を犯さなければ、災難に遭遇しない、ということなのですか?」です。つまり、報告者たちは、「イエス様、こういう苦難災難というものはやはり、罪が苦難災難を罰としてもたらすという因果応報の観点で説明がつくのではないでしょうか?」と確認を求めたのであります。
因果応報の観点の確認を求められたイエス様は次のように答えます。3節です。「決してそうではない。」ギリシャ語のウーキ(ουχι)は通常の否定辞ウー(ου)よりも強い否定の意味を持ちます。イエス様は何を否定して「決してそうではない」と言っているのか?二つのことが考えられます。一つは、この世の苦難災難は因果応報なんかで説明はつかない、と因果応報の観点を否定したことです。もう一つは、災難に遭遇したガリラヤ人も遭遇しなかったその他のガリラヤ人もみな罪深さには優劣はなく、両者ともに同じくらい罪びとである、ということです。その場合、両者ともに同じくらい罪びとであると言っているので、その他のガリラヤ人も潜在的には災難に遭遇する可能性はあり、この時はたまたま事件のガリラヤ人が犠牲になっただけだということになる。そうなると、それはもう因果応報とは関係のないことになります。そういうわけで、二つ目の意味をとっても、因果応報はあてはまらないと言っていることになります。いずれにしても、「決してそうではない」は因果応報の観点を否定するものであることは明らかです。
イエス様は同じ言葉「決してそうではない(ουχι)」を、シロアムの塔の倒壊事故を話した時にも使います。5節です。この意味も、3節と同じように二つ考えられます。一つ目は、この世の苦難災難は因果応報なんかで説明はつかない、と因果応報の観点を否定すること。二つ目は、塔の下敷きになった住民もそうならなかった住民も罪の深さには優劣はなく、両者ともに同じくらい罪びとである、ということ。これも3節と同様に、両者とも同じくらい罪びとであると言うからには、犠牲者でない住民も潜在的には事故に見舞われる可能性はあり、この時はたまたま事故の住民が犠牲になっただけで、それはもう因果応報とは関係のないことになる。そういうわけで、二つ目の意味でみても、因果応報はあてはまらないと言っていることになります。そういうわけで、「決してそうではない(ουχι)」は3節同様、因果応報の観点を否定するものです。(注2)
3.「滅び」はこの世で遭遇する苦難災難ではない
「決してそうではない」と言うイエス様は因果応報の観点を否定していることが明らかになりました。ところが、どうでしょう。イエス様は続けて、お前たちも悔い改めなければ皆同じように滅びる、と言われます。これは、もし悔い改めず罪の中にとどまるのならば、お前たちも同じような人為的な暴力の犠牲になったり、不慮の事故の犠牲になる、と言っているように聞こえます。裏を返して言えば、もし悔い改めれば、苦難災難には遭遇しない、と言っていることになります。それでは因果応報ではありませんか?「決してそうではない」と言って、因果応報の観点を否定しながら、結局は肯定しているのか?イエス様は矛盾していることを言っているのでしょうか?
実は、イエス様は何も矛盾していることは言っていません。イエス様が因果応報の観点に与していないこと、人間悔い改めれば苦難災難には遭遇しない、などと考えていないことは、例えばヨハネ16章33節を見ても明らかです。そこでイエス様は愛する弟子たちにさえ、お前たちには世で苦難がある、と言っています(ヨハネ9章3節も参照)。
それならば、イエス様は何を言っているのでしょうか?イエス様の言葉が因果応報の観点で言っているように見えてしまう大きな原因があります。何かと言うと、「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と「滅びる(απολλυμι)」という動詞がありますが、これを残虐行為や不慮の事故に遭って命を落とすことだと理解してしまうとそうなってしまいます。実は、この「滅びる」は「苦難災難に遭遇して死んでしまう」という意味ではありません。それでは、どんな意味でしょうか?
それがわかる最適な箇所があります。ヨハネ3章16節です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」ここでも、「滅びる(απολλυμι)」という動詞が出てきます。同じギリシャ語の動詞です。この「滅びる」は、「永遠の命を得る」と反対の事を意味しています。「永遠の命を得る」とはどんなことかと言うと、それは、この世から死ぬ時、自分の全てを自分の造り主である神に全部委ねて、神の方でしっかりキャッチしてくれる、そして復活の日が来たら朽ちない復活の体を着せてもらって創造主である神のもとに永遠にいられるようになるということです。そうすると、永遠の命を得られない「滅び」とは、この世から死ぬ時、神にキャッチしてもらえない、復活の日に神のもとに永遠に戻れないことを意味します。このように「滅びる」は、「この世で苦難災難にあって死んでしまう」という意味ではありません。イエス様にピラトの事件を報告した者にとって、「滅び」はこのようなこの世にかかわるものでした。イエス様にとって、「滅び」はこの世の後に来る新しい世にかかわるものでした。そういうわけで、イエス様の答えの意味は次のようになります。「お前たちは悔い改めなければ、一様に罪びとである全ガリラヤ人または全エルサレム住民と同様、神から罪の赦しを受けていない者として、死んだら永遠の命を得られなくなってしまう。」
このようにイエス様にとって「滅び」とは、この世の後に来る新しい世に関係する滅びでした。人間がこの世を去る時に神にキャッチしてもらえず、新しい世が来た時に永遠の命を得られないということが「滅び」でした。そうすると、もし人間が神にキャッチしてもらえて永遠の命を得るのであれば、たとえこの世で苦難災難に遭って命を落とすことがあっても、それは「滅び」ではなくなります。先ほど引用したヨハネ16章33節でイエス様は、愛する弟子たちに、お前たちにはこの世で苦難がある、とは言いましたが、それゆえにお前たちは滅ぶ、とは言っていません。それでは、人間がこの世では永遠の命に至る道を歩むということ、そして、たとえ歩みの途上で苦難災難にあって命を落とすことになっても、滅ばずに永遠の命を得るということは、どのようにして可能なのでしょうか?
4.神のもとへの立ち返り
その鍵は、イエス様の答えの中にある「悔い改める(μετανοεω)」ということにあります。メタノエオ―μετανοεωのもともとの意味は、「考えを改める」とか「考え直す」です。日本語の聖書では「悔い改める」と訳されますが、ここで注意しなければならないことは、誰に対して悔い改めるかということです。もし私たちが自分の無思慮さや身勝手さのために隣人を傷つけるようなことを言ってしまったり行ってしまった場合、それを後悔したり恥じたりして相手の人に謝罪をするでしょう。この時、「悔い改め」はその相手の人に向けられていると言えます。ところが、キリスト教信仰では、隣人に対して謝罪したり償いをすることは当然ながら、それに加えて「悔い改め」は天と地と人間を造った神に対しても向けられることになります。なぜなら、隣人愛をせよという神の意志に背いたということが出てくるからです。このようにメタノエオ―は、神に背を向けてしまった生き方を改めて神に向きなおって生きるという意味で、「神のもとに立ち返る」と訳してもよいでしょう。
それでは、この「神のもとへの立ち返り」とは、一体どのようなことなのでしょうか?それがわかるために、まず、人間はどうしたら、この世の人生では永遠の命に至る道を歩めて、この世から死んだ後は神にキャッチしてもらえて永遠の命を得られて神のもとに戻ることができるようになるのか?このことについて見る必要があります。
十字架と復活の出来事が起きる前のイエス様の教えはとても厳しいものでした。マタイ5章でイエス様は、兄弟を憎んだり罵ったりすることは人を殺すのも同然で十戒の第五の掟を破ったことになる、異性を欲望の眼差しで見ただけで姦淫を犯すのも同然で第六の掟を破ったことになる、と教えます。十戒を外面的だけでなく内面的にまで完璧に守れる人間、神の意思を完全に体現できる人間は存在しません。マルコ7章の初めにイエス様と律法学者・ファリサイ派との論争があります。そこでの大問題は、何が人間を不浄のものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまうか、という論争でした。イエス様の教えは、いくら宗教的な清めの儀式を行って人間内部に汚れが入り込まないようにしようとしても無駄である、人間を内部から汚しているのは人間内部に宿っている諸々の性向なのだから、というものです。つまり、人間の存在そのものが神の神聖さに相反する汚れに満ちている、というのであります。当時、人間が「神のもとへの立ち返り」をしようとして手がかりになったものは、十戒のような掟や様々な宗教的な儀式でした。しかし、掟を外面的に守っても、宗教的な儀式を積んでも、それは神の意思の実現には程遠く、永遠の命を得る保証にはなりえないのだとイエス様は教えたのであります。
人間が自分の力で罪の汚れを除去できないとすれば、どうすればいいのか?除去できないと、この世から死んだ後、自分の造り主のもとに永遠に戻ることはできません。何を「神のもとへの立ち返り」の手がかりにしたらよいのか?この大問題に対する神自身がとった解決策はこうでした。自分のひとり子をこの世に送って、本来は人間が背負うべき罪の神罰を全部そのひとり子に負わせて十字架の上で死なせ、その身代わりの犠牲に免じて人間を赦す、というものでした。そこで人間は誰でも、このひとり子イエス様を犠牲に用いた神の解決策がまさに自分のためになされたのだとわかって、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けることで、この「罪の赦しの救い」を受け取ることができます。洗礼を受けることで人間は、罪が残った汚れた状態のままイエス様の神聖さを純白な衣のように頭から被せられます。こうして人間は、イエス様を救い主と信じて、純白な衣をはぎ取られないようにしっかり掴んで纏っていれば、神の方で目に適う者と見なされて、永遠の命に至る道に置かれてその道を歩み始め、順境の時にも逆境の時にもいつも神から守りと良い導きを得られ、万が一この世から死ぬことがあっても、その時は神にしっかりキャッチしてもらえて、永遠に神のもとに戻ることができるようになったのです。
以上のような次第で、人間は、イエス様の十字架と復活の出来事の後に、永遠の命を保証する真の「神のもとへの立ち返り」の手がかりを得ることができました。それは、掟を外面的に守ることに専念したり、宗教的儀式を積むことではなくなりました。そうではなくて、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けること、そうして、まだ肉に宿る罪に結びつく古い人を日々死に引き渡し、洗礼によって植えつけられた聖霊に結びつく新しい人を日々育てながら、また聖餐式で霊的な栄養を摂取しながら、「神のもとに立ち返る」道を歩むこと、それであります。
5.キリスト信仰者の覚悟と本懐
以上からイエス様が教えていることは、本当の「滅び」とは今のこの世の後に来る新しい世に関係した滅びであること、それゆえ、人間がこの世で遭遇する苦難災難というものは、たとえそのために命を落とすことになっても、「神のもとに立ち返る」生き方をするキリスト信仰者にとっては「滅び」でもなんでもない、ということが明らかになりました。キリスト信仰者はここに覚悟と本懐を見いだすことができると思います。
このことを少し具体的な例にあてはめてみようと思います。もし絶体絶命の時が来たとき、例えば、重い病気でついに最期の時が近づいたとか、また目の前に津波とか雪崩が押し寄せて来たとか、まさにそういう時、キリスト信仰者なら、イエス様の教えに基づいて、瞬間的にでも次のように思い起こすのが適当ではないかと思います。「ああ、私を造られた神が私に与えて下さったこの世での人生の長さはここまでだったのだな。神よ、私をここまで導いて下さってありがとうございました。至らないことだらけでしたが、イエス様の神聖な衣を頭から被せられた者として生きてまいりました。中身は汚れがまだたくさん残っていますが、イエス様という衣を自分から脱ぎ捨てることもせず、引きちぎることもせず、必死にこれしかないというくらいに、すがりつくように纏ってまいりました。あなたに認めてもらうために私が自信をもって示せるのはこの衣しかありません。今、私の全てをあなたの御手に委ねます。どうかイエス様のゆえに私を受け止めて下さい。主の御名は永遠にほめたたえられますように。アーメン。」そのような人は、ルターの言葉を借りれば、「瞬きした一瞬に、完全に健康な者として、元気に溢れた者として、そして清められて栄光に輝く体をもって、(…)天上の雲にいます我々の主、救い主に迎えられる」のです。
最期の時が果たしてこのように思い起こしたり、祈ったりする猶予を与えてくれるかどうか実際には厳しいのではないかと思います。そうであればこそ、常日頃から、そのような思いが自分の内にしっかり根付くようにする、それが信仰生活というものではないでしょうか?そうすれば、キリスト信仰者はいつも覚悟がある状態にいて、もしもの時は本懐だ、と言うことができるのです。
ところで、いよいよ最期の時に、父なるみ神よ、私をキャッチして下さい、と言って全身全霊を委ねたつもりが、神の御手と思って掴んだものが、実は高い木の枝か何かを掴んでいて助かってしまったとか、そういう予想外のことが起きることもあります。その時は、「ああ、神は何らかの理由で私のこの世での人生の長さを延ばして下さったのだな」と理解して、神に素直に感謝して、再び「神のもとへの立ち返り」の道を歩み始めることになります。ただし、その場合、なぜ神は自分を生きながらえさせて下さったのか、このことをちゃんと考えなければなりません。このように奇跡的に助かった自分がただ自分だけのために生きてよいとそれで神は助けてくれたのだと思うのはちょっと問題でしょう。まだ救い主を知らずにいて、神のもとへの立ち返りの道を歩んでいない人たちに救い主イエス様のことを知らせ、その道を歩めるようにしよう、そうしてその人たちもキリスト信仰者の覚悟と本懐を持てるようにしよう、そういう役割が与えられたのだと自覚すべきではないかと思います。もちろん、奇跡的に助かったというような経験がない信仰者でも、キリスト信仰者の覚悟と本懐が持てれば、同じ役割の自覚は生まれるはずです。
(注1)この事件については、ヨセフスの歴史書やローマ帝国の歴代誌等にも記載がなく、記述はこのルカ福音書のものだけです。しかし、総督ピラトはユダヤ人に対して強圧的かつ残虐な統治を行ったことで知られるので、もし反乱の疑いを持たれれば、このような事件は容易に起きたでしょう。ところで、ピラトが残虐だったというのは、ヨハネ福音書に記されたイエス様の裁判の様子からは想像できないかもしれません。ただ、在任期(A.D.26-36)の終わり頃のピラトはローマ帝国における政治的地位が弱まっていた頃で、ユダヤ人の要求など聞くものかという思いと、言う通りにナザレ人を処刑しないと皇帝に直訴されるかもしれない、という心配の板挟みにあったとも言われています。
(注2)「罪びと、罪深い者、罪にある者、罪を犯す者」を意味する単語について、2節のガリラヤ人のところではαμαρτωλοςが用いられ、4節のエルサレム住民のところではοφειλετηςが使われていることに注目しましょう。οφειλετηςには、「負債のある者」という意味があります。負債のある者がどうして罪びとの意味になるかというと、神に対する不従順や罪というものは、人間が神に対して負っている負債のようなものと言う考え方が聖書にあるからです。人間は、最初の人間が神に対して不従順に陥り罪を犯したために、死する存在となってしまった。死ぬというのはまさに罪の報酬である、と使徒パウロが述べている通りです(ローマ6章23節)。不従順と罪を赦されて神に義と認められて永遠の命を持てるために、人間は、負っている負債を支払わなければならない。このことは詩篇49篇8-9節に端的に述べられています。「神に対して、人は兄弟を贖いえない。神に対して身代金を払うことはできない。魂を贖う値は高く、とこしえに、払い終えることはない。人は永遠に生きようか。墓穴を見ずにすむであろうか。」
ところが、人間にこの代価、身代金を支払って下さる方がついに現れたのです。それが、イエス様の十字架の死の意味だったのです。神のひとり子が犠牲となって十字架の上で血みどろになって流した血があらゆる財宝にも勝る代価、身代金となったのです。それをもって、人間を奴隷状態にしていた罪と不従順の力から私たちを解放し、造り主である神のもとに買い戻して下さったのです。マルコ10章45節でイエス様は、自分は多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来たのである、と言いますが、まさにその通りだったのです。
私たち人間は、神がこのようにひとり子を用いて整えられた救いがまさにこの自分のためになされたとわかり、それでイエス様を救い主と信じ、洗礼を受けることで、この整えられた救いを受け取り所有することが出来ます。洗礼を受けることで、私たちはまだ罪と不従順を持っているにもかかわらず、イエス様の神聖さを純白な衣のように頭から被せられることになります(ローマ13章14節、ガラテア3章27節)。
ご参考までに、罪が神に対する人間の負債ということを表す言葉は、またマタイ6章12節にある「主の祈り」のところにも使われています(οφειλετης)。
主日礼拝説教 四旬節第三主日2016年2月28日の聖書日課 出エジプト3章1-15節、第一コリント10章1-13節、ルカ13章1-9節
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
本日の説教題に「汝の信仰なんぢを救へり」という昔の文語訳を用いましたが、これには理由があります。私たちが使っている新共同訳では、このイエス様の言葉は「あなたの信仰があなたを救った」となっています。「救った」というのは過去形ですが、少し詳しく見ると、過去の意味だけでなく、完了や存続の意味も持つことができます。例えば、「先週、あなたの信仰があなたを救った」と言えば、先週そんなことが起きたと過去の事実を述べるだけで、今週はどうかは何も言っていません。ところが、「あなたの信仰があなたを救った。だから安心しなさい」と言ったらどうなるでしょう。救ったことが起きたのは過去だが、その状態が現在も続いているので、心配いらない安心しなさい、という意味になり、「救った」ことが現在も効力を持って存続している、それくらい「救った」ことはしっかり完了している、という具合に完了・存続の意味を持ちます。このように同じ「救った」と言っても、文脈によって意味が異なります。
ところで、文語訳聖書の「救へり」は意味が限定されていて、これは完了・存続の意味です。過去の意味は持ちません。もし過去の意味を出そうとすれば、「救ひけり」、「救ひき」になるでしょう。どうしてこんな高校の古文の授業のようなことを言い出すのかと言うと、実は問題となっているイエス様の言葉は、ルカ福音書の書かれた原語のギリシャ語を見ると、過去の意味ではなく完了・存続の意味で言っているからです(σεσωκεν 現在完了形)。それで、その意味をはっきり表している文語訳の「救へり」が原語の意味と一致するので、そちらを説教題に選んだという次第です。それでは、「救った」が過去ではなくて完了・存続の意味を持つと、このイエス様の言葉はどんな意味を持つのか?このことは後でみていきます。
本日の福音書の箇所ですが、大きく分けてイエス様の二つの教えからなっています。最初の教えは、旧約聖書に記された預言者たちの預言の意味について教えるものです。預言の意味について、この後すぐに見てまいります。
もう一つの教えは、イエス様がこれから癒すことになる盲目の人に向かって「あなたの信仰があなたを救った」と言ったことに関係します。先ほど、「救った」には過去ではなくて完了・存続の意味があると申したところです。この箇所を読む人は大抵、おやっと思わされます。というのは、イエス様は、男の人の目を見えるようにする前に「お前の信仰がお前を救った」と言ったからです。男の人の目が治ってからそう言った方が意味が通じるのではないかと思われます。実はイエス様は、同じ言葉をマタイ9章22節でも言っています。12年間出血状態が続いて治らない女性に対して、まず「あなたの信仰があなたを救った」と言って、その後で女性は治ります。どうして、病気が治った後に言わないで、治る前に言ったのでしょうか?
一つの考え方として、お前の信仰がお前に健康回復をもたらすことになるんだぞ、と本当は未来形の言い方をするところを、イエス様の方では癒しは必ず起きるとわかっているので、それがもうさも実現したかのように考えて、「救った」などという言い方を先回りして用いたのではないか、などと考えることもできます。ちょっと複雑ですが、理屈は通っています。ところが、ルカ17章19節をみると、イエス様が10人のらい病の人たちを完治して1人だけが感謝のために戻ってきたとき、イエス様は同じ言葉「あなたの信仰があなたを救った」と言います。この時は、先回りしていません。健康回復の後に言いました。さらに、ルカ7章50節でイエス様に罪を赦された女性が彼に深い感謝の気持ちを表した時にも、イエス様は「あなたの信仰があなたを救った」と言います。この時は、何か病気が治ったということはありません。以上の4つのケースがありますが、2つは癒しの奇跡に関係して健康回復の前に言われたケース、1つは癒しの奇跡に関係しているが健康回復の後に言われたケース、最後の1つは癒しの奇跡と無関係に言われたケースということになります。結論から言いますと、どのケースをみても、ある共通したことがあって、それでこの言葉を健康回復の前に言っても全然おかしくない、ということがあります。何のことか今のところはわかりませんが、後ほどわかるようになりますので、頑張って聞いていて下さい。
2.シンボル的な預言が具体的な出来事に
まず初めに、旧約聖書に記された預言者たちの預言の意味についてのイエス様の教えです。31節でイエス様は、これから行こうとしているエルサレムにて、預言者を通して記されたこと全てが人の子に実現する、と言います。実現することとしては、次のことを挙げます。まず人の子が異教徒、つまり神の民でない人たち、非ユダヤ人の手に引き渡され、侮辱され、辱めを受け、唾を吐きかけられ、そして鞭うちの刑の後に殺される、しかし三日目に死から復活する。弟子たちは、これらのことが何を意味するのか全く理解できませんでした。
翻って私たちは、イエス様が言われたこれらのことを理解できます。ああ、イエス様は御自分がエルサレムで受けることになる受難、十字架の死、そして死からの復活を前もって予告しているのだな、と。しかし、私たちが理解できるのは、これらの出来事が起きたことを知っているからでして、起きた出来事をもって予告されたことを確認できるからであります。しかし、弟子たちにしてみれば、まだ十字架と復活が起きていない段階ですから、確認する術がありません。
それならば、弟子たちには旧約聖書に記されている預言者たちの預言があるではないか?イエス様は預言が実現すると言われるのだから、旧約聖書の内容を知っている人ならば、ああ、いよいよ預言が実現するんですね、という具合に理解できるのではないか、そう思われるかもしれません。しかし、事はそう単純なことではなかったのです。旧約聖書に記されているとは言っても、どこに、人の子が異教徒の手に引き渡される、と書いてあったか?また、どこに、人の子が侮辱され、鞭うちの刑を受け、殺される、と書いてあったか?そして、どこに人の子が三日目に復活すると書いてあったのか?旧約聖書にこれらのことがはっきり記されている箇所は見つからないのです。預言がこのような形で実現すると言われても、旧約聖書のどこにあるのか見当たらない。弟子たちが途方に暮れるのも無理はありません。
しかし、実はこれらの出来事は全て旧約聖書の中に、あまり具体的には見えなくとも、しっかり記されていたのです。イエス様は、シンボル的な言い方で預言されていることが、人間の歴史の特定の時代の舞台と状況のなかで具体的な形で実現することを言っているのです。イエス様自身は、シンボル的な言い方で預言されていることがどう具体的に実現するか前もって既にわかっているので何も問題ありません。しかし、弟子たちの方は、まだ具体的な形をとって実現することは見聞きも体験もしていません。それでイエス様が言われたことが、シンボル的な言い方で預言されていることとどう関係するのか、まだわかりません。
それでは、預言されていることと、実現したことの関係をみてみましょう。まず、「人の子」について。これは、ダニエル書7章13節に登場する謎めいた人格を持つものです。今あるこの世が終わりを告げて新しい世にとって代わる時、ある強大な国家が神の力で滅ぼされて、神の御国が現れます。その時、神から王権と権威を授けられて、御国の統治者・君臨者となるのが「人の子」です。こうして、「人の子」はイエス様の時代には、この世の終わりに到来する神の御国の統治者・君臨者として理解されていました。加えて、「人の子」は、神から王権と権威を授けられる前に、迫害を受けるものとも理解されていました(ダニエル7章25節参照、マタイ16章14節も)。
さらに「人の子」とは別に、神に近い者として「神の僕」という者がイザヤ書53章に登場します。人間が受けるべき神罰を変わりに引き受けて苦しんで死ぬことが預言されています。イエス様が預言者の預言が全て実現すると言う時、それは、ダニエル7章で言われる「人の子」が受ける迫害、イザヤ53章で言われる「神の僕」が受ける犠牲の苦しみというものが、具体的な歴史の中で、異教徒への引き渡し、侮辱、鞭うち刑、刑死という具体的な形をとって実現するのだ、と明らかにするのであります。ただ、出来事が起きる前の弟子たちにとっては、引き渡し、鞭うち云々と言われても、あれっ、聖書のどこに書かれていたっけ?となってしまうのであります。
次に、三日後に死から復活する、ということについて。これも旧約聖書のどこにはっきり記されているか、見つけるのが難しいことです。それでも、死からの復活が起きるということ自体は、イザヤ書26章19節、エゼキエル書37章1-10節、ダニエル書12章2-3節に預言されています。そこで、復活が死んでから三日目に起こるという、三日目の復活という出来事については、ホセア6章2節とヨナ2章1節が鍵になります。特に、ヨナは、大魚に飲み込まれて三日三晩その中に閉じ込められ、三日目に神の力で奇跡的に脱出できたという、過去の出来事について述べているので、これは未来を言い表す預言には見えません。しかし、ユダヤ人にとって、この箇所は、神の力で三日後に死の世界から復活するというシンボル的な出来事になるのです。マタイ12章でイエス様自身、ヨナの出来事を過去の出来事としてではなく、自分の復活についてのシンボル的な預言であると言っています(38-41節、16章4節)。そして、それがイエス様の復活が起きたことによって、もはや単なるシンボルではなくなって実際の出来事になるのであります。
しかしながら、預言はどれもシンボル的に記されていて、いろいろな書物に散らばっています。そのため、これらはこういう具体的な形で、繋がりを持ってこう実現するんだ、つまり、「人の子」が異教徒に引き渡されて、刑罰を受けて殺されて、三日目に復活するという形で実現するんだ、といくら言われても、実際に起きてみないと、なんのことか理解できないのであります。それが、十字架と復活の出来事を一通り目撃し体験すると全ては繋がり、シンボルはもはやシンボルでなくなって生身の現実、すなわち文字通り預言の実現になるのです。弟子たちは、事後的に全てのことを理解できたのです。
ところで、弟子たちが事後的に理解できたというのは、ああ、旧約聖書のあれこれの預言は、神のひとり子イエス様が異教徒に引き渡され、侮辱と辱めを受け、唾を吐きかけられ、鞭うちの刑を受けて殺され、そして三日後に復活するという形で実現したのだ、それで旧約聖書の預言の一つ一つが実際起きた出来事の各部分にしっかり結びついているのだ、という具合に、起きた出来事と預言との結びつきを確認できたということです。しかし、結びつきの確認だけにとどまりません。弟子たちは、この結びつきが何を意味するのか、それがわかったのであります。実はそちらの方が大事なことでした。それでは、この起きた出来事と預言の結びつきは何を意味するのでしょうか?
それは、天地創造の神の人間救済計画の実現を意味しました。どうして人間は神に救われなければならなくなったかと言うと、最初の人間アダムとエヴァが悪魔の誘惑にかかって神に対して不従順になり罪を犯したことが原因で、人間は神との結びつきを失い死ぬ存在になってしまったからでした。こうして、造り主である神と造られた人間の間に深い断絶が生じてしまいました。しかし神は、人間が再び永遠の命を持って造り主のもとに戻れるようにしようと計画を立て、それに従って、ひとり子イエス様をこの世に送り、これを用いて救済計画を実行しました。それでは神は、どのようにしてイエス様を用いて人間救済計画を実行したのでしょうか?それは、人間の罪がもたらす神罰を全てひとり子イエス様に負わせて十字架の上で私たちの身代わりに死なせ、彼の身代わりの死に免じて、人間の罪を赦すことにしたのです。さらに、イエス様を死から復活させることで永遠の命への扉を私たち人間のために開かれました。人間は、こうしたことが全て自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けることで、この神が整えた「罪の赦しの救い」を受け取ることができます。これを受け取った人間は神との結びつきが回復して、この世の人生において永遠の命に至る道に置かれてそれを歩み始め、順境の時にも逆境の時にもいつも神の守りと導きを受け、この世から死んだ後は、永遠に造り主である神のもとに戻ることができるようになったのです。
3.信仰があなたを救われた状態にしている
以上、旧約聖書にシンボル的に預言されたことが全て、イエス様を通して具体的に実現したこと、そして預言の実現は天の父なるみ神による人間救済計画の実行であったことを明らかにしました。
次に見ていくイエス様の教えは、「あなたの信仰があなたを救った」という不思議な言葉です。初めに申しましたように、この言葉は、盲目の人の目が見えるようになった段階で言った方がすっきりするのではないかという疑問が起きます。ところが、イエス様は同じ言葉をある時には、本日の箇所のように癒しの奇跡を起こす前に言っていますが、ある時は奇跡の後に言い、またある時は奇跡と無関係に言われました。この不可解な言葉について見ていきましょう。
この言葉は日本語では「あなたの信仰があなたを救った」と過去の出来事にも完了や存続の意味にも介される表現になっていますが、原語のギリシャ語では「救う」という動詞は過去を言い表す形ではなく、現在完了形で表されています。これは本日の福音書の箇所だけでなく、最初で触れた4つのケース全て同じです。ギリシャ語で現在完了の形だとどんな意味になるかと言うと、過去の時点で起きたことが現在まで続いている、効力を持っている、完了している、存続しているという意味です。従って日本語訳で「あなたの信仰があなたを救った」と言うのは、正確には「ある過去の時点から現在まであなたの信仰があなたを救われた状態にしていたのだ」という意味です。過去の時点とは、明らかにイエス様を救い主と信じ始めた時点です。つまり、この箇所は、イエス様を救い主と信じた日から、イエス様がこの言葉を述べる時までの間ずっとこの盲目の男の人は救われていた、という意味になります。つまり、癒しを受ける以前に既に救われていたということになります。
さて、ここで疑問が生じます。まだ癒しを受ける前に救われていたというのはどういうことなのか、と。まだ盲目の状態にあったのに、どうして救われていたと言えるのか?
その答えはこうです。救われるということが、病気が治るとか、そういう人間にとって身近な問題の解決を意味していないということであります。それでは、救われるとはどういうことか?それは、先ほども申しましたように、堕罪のために断ち切れてしまっていた人間とその造り主である神との結びつきが回復されて、神との結びつきをもってこの世の人生を歩むこと。そして、この世から死んだ後は、神のもとに永遠に戻れること。これが救われるということです。これが出来るためにはどうすればよいかというと、これも先ほど申しました。神が2000年も前の昔に彼の地でなさったことは、実は今の時代を生きる自分のために行われたのだとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで出来るのであります。こうすることで、人間は、神が自分で整えた「罪の赦しの救い」を受け取ることができて、それを自分のものとすることができるのであります。盲目の男の人は、盲目の状態にありながら、イエス様を救い主と信じる信仰によって、既に神との結びつきをもって生きる者となっていた。つまり、既に救われていたのであります。癒しを受けていなくても、救われていたのであります。その後で癒しを受けたのは、付け足しのようなものでした。
これと同じことが、マタイ9章で、12年間出血状態が続いた女の人にも起こります。イエス様は、この女性にも同じ言葉を述べます。「あなたの信仰があなたを救った」。つまり、「私を救い主と信じた日から、今の時までずっと、あなたは救われていたのだ。神との結びつきを回復して生きる者となっていたのだ。」その後で、女性は健康になります。癒しは、付け足しのようなものでした。
以上、癒される前の状態、つまり病気の状態にいても、人間はイエス様を救い主と信じる信仰によって救われている、つまり人間の造り主である神との結びつきを回復した者になって、この世の人生を歩むこととなり、この世から死んだ後は永遠に神のもとに戻れるということが明らかになりました。このことがとても大事なのは、もし病気から癒されることそのものを救われることと言ってしまったら、不治の病の人はいくらイエス様を救い主と信じても救われないということになってしまいます。健康な人が健康だという理由で、神との結びつきが回復しているとか、病気の人は病気だという理由で神との結びつきがない、というのは全くのナンセンスです。そうではありません。不治の病の人も、一生治らない障害を背負っている人も、イエス様を救い主と信じ受け入れたからには、健康な人と同じくらいに救われているのです。同じくらいに罪を赦されて神との結びつきが回復して、同じくらいに神との結びつきをもってこの世の人生を歩み、この世から死んだ後は、同じくらいに神のもとに永遠にもどれるのです。
逆に健康だからといって、また癒しがあったからといって、それが神との結びつきの回復の証明にはなりません。ルカ17章で10人のらい病の人が癒しを受けた時、一人だけがイエス様のところに戻ってきて神に賛美を捧げました。イエス様は、この男の人に「あなたの信仰があなたを救った」と言ったのです。つまり、お前が私を救い主と信じた日から現時点までお前は救われた状態にいたのだ、ということです。他の9人の健康を回復した人たちには、この言葉は述べられませんでした。健康な人でも、イエス様を救い主と信じ告白する者が救われるのです。
ルカ7章のイエス様から罪を赦された女性の場合は、病気からの癒しの奇跡は関係ないので、健康な人だったでしょう。女性はイエス様に心からの感謝を捧げ、イエス様は彼女に同じ言葉を述べます。つまり、その女性は、イエス様を救い主と信じた日から現時点まで、そしてこれからも信じ続ける限り、救われた状態にいるということです。
このように人間が救われているかいないかは、健康であるかないか、人生が成功だらけか失敗だらけか、ということは関係なく、イエス様を救い主と信じるかどうかによるのです。そういう訳で、キリスト信仰者というのは、仮に不治の病にかかっても、何か事業や計画に失敗しても、イエス様を救い主と信じる限り、神との結びつきはしっかり保たれているんだ、ひとり子をこんな自分のために送って下さった神の愛は境遇の上がり下がりにかかわらず同じくらいこの自分に注がれているんだ、と確信する者です。そして、その確信が生きる命そのものになっている者だと言うことができます。使徒パウロがまさにそのような者であることは、「ローマの信徒への手紙」8章38-39節にある彼の言葉からも明らかです。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」
最後に兄弟姉妹の皆さん、通らなければならない逆境があまりにも大きすぎて、回復した神との結びつきに確信が持てなくなってしまう危険に晒された兄弟姉妹たちがいることを忘れないようにしましょう。私たちは、彼らのために時間を割いてしっかりお祈りして、私たちの祈りを通しても、彼らを父なるみ神の御手にお委ねしてまいりしょう。
主日礼拝説教 四旬節第二主日2016年2月21日の聖書日課 エレミア26章7-19節、フィリピ3章17節-4章1節、ルカ18章31-43節