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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.
本日の福音書の箇所でイエス様は、実際に起きた出来事ではなくて架空の話を持ち出して教えています。この箇所でイエス様は実にいろいろなことを私たちに教えています。今日はそれらについてじっくり見ていきましょう。
まず、イエス様の話の中に登場する金持ちは富を持ちながら神にではなく富に従属してしまった人です。毎日贅沢に着飾って、優雅に遊び暮らしていたというから億万長者です。その大邸宅の門の前に、全身傷だらけの貧しい男が横たわっていた。名前はラザロ。ヨハネ福音書に登場するイエス様に生き返らされたラザロとは関係はないでしょう。ヨハネ福音書の場合は実際に起きた出来事に登場する現実の人ですが、本日の箇所はつくり話の中に出てくる架空の人物です。
ラザロΛαζαροςという名前は、旧約聖書のあちこちに登場するヘブライ語のエルアザルאלעזךという名前に由来します。「神は助ける」という意味があります。門の前を通りかかった人々はきっと、この男は神の助けからほど遠いと思ったことでしょう。ラザロは、金持ちの食卓から落ちてゴミになるものでいいから食べたいと思っていたが、それにすら与れない。野良犬だけが彼のもとにやってきて傷を舐めてくれます。「横たわる」という動詞は過去完了形(εβεβλητο)ですので、ラザロが金持ちの家の門の前に横たわり出してから、ずいぶん時間が経過したことがわかります。しかし、こんな近くに助けをずっと求めている人がいたのに、金持ちはそれを全く無視して贅沢三昧な生活を続けていました。金や品物が人の心を麻痺させてしまった典型例と言えましょう。
さて、金持ちは死にました。「葬られた」とはっきり書いてあるので、葬式が挙行されました。さぞかし、盛大な葬儀だったでしょう。ラザロも死にましたが、埋葬については何も触れられていません。きっと、彼の遺体はどこかに打ち捨てられたのでしょう。
ところが、話はここで終わりませんでした。これまでの出来事は序章にしかすぎないと言えるくらい、本章がここから始まるのです。金持ちは、「陰府」の世界に行き、そこで永遠の火に毎日焼かれなければならなくなった。ラザロの方は、天使たちによって天の御国に連れて行かれ、そこでアブラハムと共に「宴席についた」。まさに名前の意味「神は助ける」がやっと実現したのです。
金持ちは、罪の罰を受けたのです。何の罪かというと、まず「隣人を自分を愛するが如く愛せよ」という隣人愛にあからさまに反する生き方をしたことです。それだけではありません。なぜ隣人愛を踏みにじったかというと、それは、神に従属せず富に従属して仕えたからで、それは「神を全身全霊で愛せよ」という神への愛に反する生き方だからです。つまり、二重の罪というわけです。もし、金持ちが富にではなく神に従属して、富の主人となって、富を神の意思に沿うように用いていれば、罰は受けなくて済んだのです。
以上が本日の福音書の箇所の要旨です。読めば誰でも、ああ、イエス様は神に仕えず財産に仕えてしまったら天国に行けない、財産を隣人愛に用いないといけない、と教えているんだな、とわかります。それはそれで間違いではありませんが、それではまだまだ不十分です。本日の箇所は、天国や地獄というものについて、また神の正義ということについてもいろいろなことを教えています。今日はそれらについて明らかにしていきたいと思います。
天国や地獄などと言うと、人によっては、人間がすべきことやしてはならないことをそういうものを引き合いに出して教えるなんて、時代遅れのやり方だと思う方もいるかもしれません。しかし、人間はこの世に生まれてきて、いつかこの世を去らねばならない存在である以上、死んだらどこにいくのかとか、そのどこに行くという時、この世での生き方が何か影響があるのかないのか、という問題は、いつの時代でも気になる問題ではないかと思います。人によっては、どこにも行かない、死んだらそれで終わりで消えてなくなる、だからこの世では他人に迷惑をかけないで自分の好きなことをするのが一番いい生き方なのだ、と考える人もいるでしょう。また人によっては、死んだら魂だけ残って、どこか安逸な場所に行って他の魂たちと会することになるとか、または新しく別の人間ないし動物に生まれ変わるとか、いろいろあると思います。では、天地創造の神とそのひとり子イエス様は、このことについてどう教えているか?これは聖書全体を見渡さないといけない大きな問題ですが、今回は本日の福音書の箇所をもとにみていきたいと思います。
2.
本日の箇所は、よく見ると、あれ少しおかしいなと思わせることがあります。金持ちは地獄で永遠の火に焼かれ、ラザロは天国でアブラハムと共に宴席に着く。そう書いてあります。しかし、よく見ると、金持ちが陥ったところは地獄と言われておらず、「陰府」と言われています。ギリシャ語ではハーデースαδηςという言葉で、人間が死んだ後に安置される場所です。しかしながら、本来そこは永遠の火の海の世界ではありません。火の海はギリシャ語でゲエンナγεενναと言い、文字通り「地獄」です。
黙示録20章を見ると、「イエスの証しと神の言葉のために」命を落とした人たちが最初に死から復活させられます。つまり、復活の体を着せられて神の御許に迎え入れられます。その次に、これ以外の人たちが復活させられますが、この者たちは前世での行いに基づいて裁かれます。彼らの行いが全て記された書物が神のもとにあり、ある者たちは地獄に落とされてしまう(4-6節)。これに続いて、新しい天と地が創造されて古い天と地に取って代わり(21章1節)、そこに神の国が見える形をとって現われます(2節)。地獄に落とされなかった人たちが、復活の体を着せられてそこに迎え入れられます。
こうしてみますと、神の国つまり天国とか地獄というものは、将来、復活や最後の審判が起きる日になって、迎え入れられたり、投げ込まれたりするところです。そういうわけで「陰府」とは、復活や最後の審判が起きる日まで死んだ者が安置される場所で、今の天と地がまだ存在している時にあるものです。それがどこにあるかは、神のみぞ知るとしか言いようがありません。ルターは、人が死んだ後は、復活の日までは安らかな眠りにはいる、たとえそれが何百年の眠りであっても本人にとってはほんの一瞬のことにしか感じられない、目を閉じたと思って次に開けた瞬間にもう壮大な復活の出来事が始まっている、と述べました。復活の出来事が起きる前には、このような安らかな眠りの場所があるのです。
そういうわけで、死んだ者が神の国に迎え入れられるか、火の地獄に投げ入れられるかは、これはまだ先のことで、今の天と地がまだ存在する段階では「陰府」で安らかな眠りについている。とすると、本日の箇所で金持ちが落ちた火の海は、地獄と言った方が正確ではないかと思われるのですが、イエス様はどうして「陰府」と言ったのか?この点については、各国の聖書の翻訳者たちも困ったようです。英語NIVではhell「地獄」 と訳されていますが、脚注で「ギリシャ語ではハディス」と記しています。つまり、ギリシャ語では地獄ではなく陰府を意味する言葉が使われているが、事の性質上、地獄と訳しました、と断っているのです。ドイツ語訳を見ると、ルター訳はHölle「地獄」ですが、Einheitsübersetzung訳では「地下の世界」Unterweltで、「地獄」と区別しています。スウェーデン語訳では「死者の世界」、フィンランド語訳でも同じことを意味する言葉が使われ、しっかり地獄と区別されています。
どうしてイエス様は、復活と最後の審判が起きる日に投げ込まれる地獄をそう呼ばずに「陰府」とよんだのでしょうか?ひとつ考えられることは、イエス様は何か大事なことを教えるために、時間の正確な流れにこだわらなかったということです。金持ちが地獄にいて、ラザロが天国にいるということは、正確に言えば、今の天と地がなくなって復活と最後の審判が起きる将来のことです。ところが、金持ちはラザロを自分の家の兄弟のもとに送ってくれと頼みます。つまり、まだ今のこの世は終わっていないことになります。もし、地獄と言ってしまうと、復活と最後の審判が起こったことになってしまいます。つまり、今の天も地も自分の家もなくなって、兄弟たちも既に裁かれてしまったことになる。しかし、そうしたことはまだ起こっていない。これが、イエス様が火の海を地獄ではなく陰府と言った理由と考えられます。このようなことは、自由な創作をすれば起きることで、イエス様は理解不足だったなどと考える必要はないでしょう。イエス様はこの話を通して何か大事なことを教えようとした、それで時間の正確な流れにはこだわらなかった、ということです。それでは、その大事なこととは何かと言うと、一つは神の正義について、もう一つは死からの復活を信じることと旧約聖書との関係についてです。後ほどこれらについて見ていきますが、ここではもう少し天国と地獄について注意すべきことを見ていきたいと思います。
22節と23節でラザロがアブラハムと共に「宴席」についていると言われていますが、実はギリシャ語の原文では宴席のことは何も言われていません。ラザロはアブラハムの「胸元」にいると言われています。まるで子供が親に抱きかかえられてすやすや眠っているような印象を受けます。英語訳NIV、ドイツ語訳、スウェーデン語訳、フィンランド語訳の聖書どれを見ても「宴席」はありません。アブラハムの「胸元」ないしは「脇に」とか「傍らに」と訳されています。なぜ、日本語では宴席が出てきてしまったのでしょうか?これは、黙示録19章にあるように、天国が盛大な祝宴にたとえられていることからきていると思われます。さらに、ラザロと金持ちの間にはお互いの往来を不可能にする大きな淵があるということが、天国を連想させたと思われます。それで、ラザロは天国の祝宴で祝杯をあげていると考えられたのかもしれません。このように、ラザロと金持ちはそれぞれ天国や地獄を連想させる場所にいるのですが、イエス様は実はそこまではっきり言い切ってはいません。金持ちに関しては地獄と言わず「陰府」と言い、ラザロに関しては宴席とまでは言わず、アブラハムの「胸元」と言っています。実に微妙です。時間の正確な流れにこだわらないと言いつつも、ある意味では正確さも期しているのです。(注)
ところで、死んだら復活と最後の審判の日までは神のみぞ知る場所にて安らかに眠る、その場所が陰府ということにすると、聖書には例外もあるということに注意が必要です。復活や最後の審判の日を待たずにそのまま神の御許に引き上げられた人がいるのです。有名な例は預言者エリアです(列王記2章)。またユダヤ教の伝統の中で、創世記5章に出てくるエノクもそのような者と考えられました。モーセも死んだ時、神以外誰にも知られずに神によって葬られたとあります(申命記34章5節)。イエス様がヘルモン山の山頂で真っ白に輝いた時にエリアとモーセが現れましたが、あたかも天国から送られてきたようでした。このように、復活や最後の審判の日を待たずに天国に引き上げられた者がいるのです。それでは、他にも引き上げられて今天国にいる者があるのかどうかということですが、これはもうそこにおられる父なるみ神しか知ることができません。聖人の制度を持つカトリック教会は、教会が知っているという立場をとっていると言えます。ルターは聖人の存在は認めましたが、それは崇拝の対象ではない、崇拝の対象はあくまで三位一体の神であるということをはっきりさせていました。
3年前、SLEYの元日本宣教師で文字通り生涯を日本での福音伝道に捧げたパップ・カタヤさんという方がこの世の人生の歩みを終えて永眠に入られました。国教会の牧師をされている兄弟の方が追悼文をSLEYの新聞に寄稿しまして、その最後の文がとても印象的だったのを覚えています。「安らかな眠りについているバップの前で今祝宴の準備がなされています」というものでした。これは、キリスト信仰の死生観をとても正確に言い表していると思いました。姉は天国に近いところにいるという希望を表明しつつも、まだ天国の祝宴の席にはついていないことをはっきりさせているからです。それは復活の日を待たなければならないのです。日本では仏教や神道の方でも多くの方は、亡くなった方が今天国から見守ってくれているという言い方をするのをよく聞きます。天国というキリスト教的な言葉を使いますが、そこには復活や最後の審判の考えはありません。亡くなった方が安らかに眠ると、一体誰がこの世にいる私たちを見守ってくれるのか、と心配になってしまうでしょう。キリスト信仰では、天と地と人間の造り主である父なるみ神が見守ってくれるので何も心配はいりません。創造主である神が死からの復活を起こす日がいつかやってくるのです。
3.
以上、天国と地獄について注意すべきことを述べました。これから、イエス様が金持ちとラザロの話で教えようとしている二つの大事なことを見ていきます。一つ目は、神の正義についてです。神は正義をどう実現されるか?イエス様の教えから明らかになることは、この世で起きた不正義で解決されないものがあっても、遅くとも最終的には次の世で必ず解決されるということです。ルターなどは、この世で悪が罰せられずに我が物顔でのさばればのさばるほど、次の世で受ける報いもそれに比例して大きくなると言っています。本日の箇所の25節でイエス様はアブラハムの口を借りて次のように言います。「子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。」まさに、「高くするものは低められる。低くするものは高められる」というイエス様の教え通りです。このように、復活の日、最後の審判の日には、歴史上全ての人間のあらゆる行いと心の有り様全てについて、神の正義の尺度に基づいて総決算が行われるのです。
黙示録20章に人間の全ての行いが記されている書物が神のみもとに存在するということが言われていますが、これは、神はどんな小さな不正も罪も見過ごさない決意でいることを示します。仮にこの世で不正義がまかり通ってしまったとしても、いつか必ず償いはしてもらうということです。
この世で数多くの不正義が解決されず、多くの人たちが無念の涙を流さなければならなかったという現実があります。そういう時に、来世で全てが償われるなどと言うのは、この世での解決努力を軽視するものと思われるかもしれません。しかし、神は、人間が神の意思に従うように、つまり神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するが如く愛するようにと命じておられます。このことを忘れてはなりません。つまり、たとえ解決が結果的に来世に持ち越されてしまうような場合でも、この世にいる限りは神の意思に反する不正義や不正には対抗していかなければならないのです。それで解決が得られれば神への感謝ですが、時として力及ばず解決をもたらすことが出来ない時もある。しかし、その解決努力をした事実は神から見て無意味でも無駄でもなんでもない。神はあとあとのために全部のことを全て記録して、事の一部始終を細部にわたるまで正確に覚えていて下さるからです。たとえ人間の側で事実を歪めたり真実を知ろうとしなくても、神は事実と真実を全て把握しているのです。神の意思に忠実であろうとしたがゆえに失ってしまったものがあっても、神は後で何百倍にして返して下さるのです。それゆえ、およそ、人がこの世で行うことで、神の意思に沿わせようとするものならば、どんな小さなことでも、また目標達成に程遠くても、無意味だったとか無駄だったとかいうものは何ひとつないのです。
ところで、キリスト教に地獄のような裁きや罰の考えが強くあるのは、多くの人にとって意外に思われるかもしれません。「キリスト教って確か赦しの宗教じゃなかったの?」と思われるからです。その通り、キリスト信仰は罪の赦しを土台とする信仰です。しかし、取り違えをしてはいけません。キリスト信仰の罪の赦しとは、それまで神に背を向けて生きていたことを間違いと認めて、このような至らない私の罪をイエス様は十字架まで背負って行かれて、そこで私のかわりに神の罰を受けて死なれた、だからイエス様は私の救い主です、そのイエス様の犠牲に免じて私の罪を赦して下さい、このように祈れば、神からいただける赦しです。このような立ち返りをすれば、どんな極悪非道の悪人でも、たとえ世間は赦さないと言っていても、神は赦し受け入れて下さるのです。本日のイエス様の教えの趣旨からははみ出しますが、金持ちについても、もしラザロが死んだ後で神のもとへ立ち返る生き方を始めていたならば、火の海に投げ込まれずにすんだのです。
4.
二つ目の大事な事は、死からの復活の信仰と旧約聖書の関係についてです。イエス様はアブラハムの口を借りて、「モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」と言いました。モーセと預言者とは旧約聖書を指します。旧約聖書をしっかりわかっていないと、死から復活させられたイエス様を信じることはできないのでしょうか?私たちがイエス様を救い主と信じる信仰に入った時、一体どれだけ旧約聖書のことをわかっていたでしょうか?
旧約聖書を知らず、また天と地と人間を造られた神を知らいまま、死者から生き返った者を見たら、特に日本人だったら、自分の伝統的な宗教の枠内で出来事を把握しようとするか、または新しい宗教団体を結成してしまうでしょう。そのようにして、聖書の神からますます遠ざかってしまうでしょう。しかしながら、死から復活したのがイエス様である場合は、逆に人間を聖書の神に引き戻す力が働くのです。イエス様の十字架の死と死からの復活を目撃した者たち、そして彼らの証言を聞いて信じた人たちは皆、私たちも含めて、本当にモーセと預言者に立ち戻ることになったのです。天地を創造し人間を造られた神に立ち戻ることになったのです。どうしてそのようなことが起きたのでしょうか?
それは、イエス様の十字架の死と死からの復活を出発点として、遡るようにして旧約聖書の意味が明らかになっていったことがあります。死からの復活が現実に起きたことを知った人たちは、みんなが預言者と騒いでいたあのナザレのイエスは真に神の子だったのだ、と。そう言えば、彼は自分でも自分のことを神の子と言っていたし、またメシアとか、ダニエル書で預言されている「人の子」とも言っていたが、全て預言通りだったのだ、と。なぜ神の子が死ななければならなかったのか?それは、イザヤ53章に預言されているように、人間が受けるべき罪の罰を全て引き受けられたのだ、と。イエス様が罰を全部引き受けて下さったので、私たちは罰を免れる状態にあるのだ、と。まさにこれで、アダムとエヴァの堕罪の時に壊れてしまった造り主の神と造られた私たち人間との関係が回復したのだ、と。私たちの身代わりとなって私たちを罪と死の奴隷状態から贖って下さったイエス様を自分の救い主と信じる信仰、この信仰によって私たちは神との結びつきを取り戻すことができ、この結びつきの中でこの世の人生を歩むことができることになったのだ、と。イエス様を死から復活させたことで、神は永遠の命の扉を私たちのために開かれた。だから、私たちは、万が一この世から死ぬことになっても、信仰によって神と結びついた者を、神は御手をもって御許に引き上げて下さるのだ、と。
このように、イエス様を救い主と信じる信仰に生きる人は、既に旧約聖書に貫いている神の人間救済計画を体得しているのです。天と地と人間を造り、私に命と人生を与えて下さった神は、私がこの世に誕生するはるか以前に、このようなことをずっと計画していて、ひとり子イエス様をこの世に送られることで計画を実現されたのだ、と。このようにして、イエス様を救い主と信じる信仰に生きる者は、この神の意思に沿って生きようとすることが当然という心意気になり、神の意思をちゃんと知ろうとして、旧約も新約も同様に日々繙いて、そこから神の御言葉に聞こうとするのです。このようにして私たちに新しい人生を与えて下さった父なるみ神は永遠にほめたたえられますように。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
主日礼拝説教 2013年9月29日(聖霊降臨後第十九主日)
「ヘブライ人への手紙」13章
1年以上続いたこの講座もいよいよ今回で最終章です。先生はこの手紙は手紙と言うよりは説教に近いと仰っていました、もしこれが説教だとしたら話す方も聞く方も相当なエネルギーが必要だったと思います。先生はいつも講座の折には幾通りかの聖書を携えていらっしゃいました。気になる聖書の箇所をギリシャ語・ドイツ語・英語・フインランド語・スェーデン語そして日本語と、各々を比較検討して解説してくださいました、そのために国によって内容に微妙な違いがあることがよく分かりました。
本日の旧約聖書の日課コヘレト8章10-17節と福音書の日課ルカ16章1-13節はとても難しいところです。まずコヘレトを見ると、12-13節で、罪を犯し百度も悪事をはたらいている者が長生きしているという現実があるにもかかわらず、本当は神を畏れる人が幸福になり、悪人は神を畏れないから長生きできず幸福になれない、と確信をもって言う。ところが、続く14節で、善人でありながら悪人の業の報いを受ける者があり、悪人でありながら善人の業の報いを受ける者がある、これまた空しい、と言う。さっきの確信はどうしてしまったのか?さらに15節をみると、快楽をたたえる、などと言う。人間には飲み食いして楽しむ以外の幸福はない、快楽は神が人間に与えた人生の日々の労苦に添えられたものだ、などと。まるで、神を畏れて正しく生きようとしても結局いいことはなく、悪を行っても罰せられずに逆にいいことが起こるのだから、快楽に身をまかせてしまった方が意味がある、とさえ受け取られます。なぜこんな書物が聖書の中に収められることができたのでしょうか?
実を言うと「コヘレトの言葉」は、そういう、神を畏れて生きるのは意味がない、だから快楽主義でいいんだ、と言っている書物ではありません。本当は全く逆なのです。この書物のすぐ前にソロモン王の「箴言」という有名な書物があります。その1章7節に「主を畏れることは知恵の初め」と言われます。実は、「コレヘトの言葉」もこれと全く同じ土台に立っているのです。それでは、なぜそう見えないのか?「コレヘトの言葉」も「主を畏れることは知恵の初め」という土台に立っていることは、この書物が書かれた背景をしっかりみればわかってきます。そういうわけで本日は、この「コレヘトの言葉」の日課を正しく理解することに努め、それを通して、私たちが生きる人生の方向性を明らかにしたいと思います。
とは言いつつも、ルカ福音書の箇所もとてもやっかいなところです。イエス様が不正を働いた管理人をほめて、不正にまみれた富で友達を作れ、などとは一体どういうことなのか?この難しい教えについて、いろいろな解釈がなされてきました。そのひとつとして、イエス様は人生の危機の打開のために早急な決断を下すことが大事だと教えている、そう理解する人もいます。しかしながら、素早い決断が危機打開の決め手、優柔不断では危機は乗り越えられない、というのは、なにも神のひとり子がわざわざ天から降ってまでして教えなくても、人間の知恵で十分わかります。イエス様は、人間の知恵をなぞり書きしたりお墨付きを与えるために天の父なるみ神のもとからこの世に送られたのではありません。人間の知恵をはるかに上回る神の知恵を知らしめ、場合によっては、人間の知恵を粉砕して、私たちを神の知恵に服させるために来たのです。
実は、この福音書の箇所は、3年前、本スオミ教会の説教で解き明しをしておりまして、今回それを読み返してみたら、修正する必要がないとわかりました。それで、本説教にてそれをそのまま読み上げてもよいかなと思ったのですが、やはりコヘレトの箇所を今回も放っておくわけにはいかないと思いました。どうしたらよいかと思ったのですが、ルカ福音書の方は、3年前お聞きにならなかった方もいらっしゃるので、短く要点だけをお話ししようと思います。その後でコヘレトの箇所を解き明かしてみたく思います。
ルカ16章1-13節を理解できるために、この箇所で一番大事なポイントを見つけてそこから全体を見渡してみることをしてみます。大事なポイントは最後の13節にあります。神と富の双方に仕えることはできない、ということです。イエス様の教えの主眼は、神こそ仕えるべき主人である、富を主人にしてはいけない、逆に富に対しては主人になりなさい、富を奴隷にしなさい、ということです。人が富に対して主人になるというのは、富を神の御心に沿うように自由に使うということです。神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するが如く愛する、これに沿うように使いなさい、ということです。
イエス様がこのことを教えなければならなった背景には、人が富の主人になれずに、逆に富の奴隷になってそれに仕えてしまって神に仕えられないという状況が一方にありました。他方では、弟子たちの中に、イエス様に付き従うためには富を一切捨てなければならないという考えがありました。しかし、捨てることが出来れば、自分は大決断をしたので神から見返りを与えられて当然だ、という考え方になってしまいました。人間が自分の業で神に指図することになってしまいます。そこで、イエス様は、たとえ富を持っていても、それに対して主人のように振る舞えれば問題ない、その富を神の意思に沿うように用いれば、富を持っていながら神を主人とすることができる、という第三の道を示したのです。
「不正な」富という時の「不正な」という言葉は、元にあるギリシャ語の言葉アディキアαδικιαの使い方を見ると、「神を神とも思わない」とか「神からかけ離れた」という意味を持つことがわかります。富と言うのは本質上、人の心を神から引き離す力を持っている、その意味で富は「不正な」ものですが、それに対して主人として振る舞い、神に対しては仕える者として生きれば、永遠の命に与ることに何も問題はないのです。不正な管理人という、おそらく実際に起きた出来事を題材にして教えることで、そのことが強調されます。
そこで、神に仕えつつも富に対して主人として振る舞うことが本当にできるかどうかということについてですが、十字架と復活が起きる前の段階では不可能に思えたでしょう。しかし、十字架と復活の出来事の後、神はひとり子イエス様を犠牲にして人間を罪の奴隷状態から買い戻した、自由な身にして下さった、そのことがわかってイエス様を救い主と信じる信仰に入った者からすれば、富は色あせたものになり、主人になることができる道が開かれたのです。
それでは、コヘレト8章10-17節の解き明しに入ります。まず「コヘレト」、ヘブライ語でコーヘレトゥקהלתとは誰か?これは人の名前ではありません。1章1節に「エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉」とあって、ダビデの子供にそんな名前の者がいたかと思われてしまいます。これはヘブライ語の「集める、召集する」を意味する動詞カーハールקהלを名詞化した形と考えられています。ただ、それが具体的に何を意味するかは研究者の間で一致がありません。そこで、旧約聖書のギリシャ語の翻訳をみると、コーヘレトゥは「伝道者」「説教者」を意味するエクレーシアステースεκκλησιαστηςという言葉に訳されています。それで、この書物のタイトルはラテン語でEcclesiastesとなって、英語訳NIVの聖書でも同じタイトルを用いています。スウェーデン語やフィンランド語の聖書でも、これがもとになって「伝道者」、「説教者」を意味する言葉をタイトルにしています。日本語の聖書はヘブライ語の言葉をカタカナにしただけなので、以上の事情が分からないと、ダビデにそんな名前の子がいたと勘違いしてしまいます。
それでは、ダビデの子でエルサレムの王になった「コヘレト」とは誰かというと、これは紛れもなくソロモン王であります。それでなぜ、そうはっきり言わなかったのか?すぐ前の書物「箴言」ではソロモン王の名が冠せられているのに。この書物を読むとたいていの方は、とても悲観的なことが書いてあるという印象を持ちます。本日の箇所をみても、神を畏れる生き方をしても悪い報いが起き、悪を働いても罰も受けずに長生きしているのが現実だ、全ては空しく、だから快楽に身を任せていいのだ、と言っているように見えます。とても「箴言」を著した同じ人物の書物には思えません。人によっては、ギリシャ哲学のいろんな潮流の影響をみる向きもありますが、そうなるとこの書物はソロモン王のずっと後の時代に成立したことになります。
このように、この書物の趣旨を悲観主義とみなすと、ソロモン王と関係ない書物になってしまうのですが、実は関係があるのです。フィンランドのA.ラートという旧約聖書学の教授は、「コヘレトの言葉」のような書物がなぜ旧約聖書の中に収められたかということについて次のように述べております。この書物はユダヤ教の伝統の中で古くからずっと権威ある地位を持っていた。その伝統の中で同書は、晩年のソロモン王が自分の犯した過ちを振り返ってそれを悔い、神への畏れに基づく真の知恵に再び戻った、そういう内容の書物である、そう理解されてきた。それでこの書物はユダヤ教の伝統の中で紛れもなく聖書の一つとなりうる、権威ある書物と見なされてきたのである。
ソロモン王が犯した過ちとは何か?ソロモン王と言えば、たいていの方は、ダビデ王の後を継ぎイスラエル国家の全盛期を築いた人物、エルサレムの大神殿を完成させ、彼が神の御前で祈った祈りは、聖書の神を信じる者にとって祈りの模範と見られています。王はまた、神から知恵を授けられ、それに基づいて国民を指導し、周辺諸国の王たちもソロモン王に聞き従い、貢物を携えて王のもとに出入りした。エルサレムは、諸国がもたらした財宝で溢れかえった。まことに神から大きな祝福を受けた王でした。
ところが、この後で何が起こったでしょうか?列王記上11章を見ると、状況が一変します。ソロモン王は、諸国から女性を招いて妻にしたり愛人にします。11章3節をみると、王妃が700人、側室が300人、合計1,000人いました。これは文字通りハーレムです。実は、この1,000人の女性のことは、コヘレト7章28節に言及されています。いったい、「汝、姦淫するなかれ」という十戒の第六の掟はどうなってしまったのか?女性が未婚者であれば不倫にあたらないと思ったのでしょうか?それとも、相手の女性たちはイスラエルの民に属さないので、十戒は関係ないと考えたのでしょうか?状況を一層悪くしたのは、まさに相手の女性たちが異教の神々を崇拝する他民族出身だったことでした。ソロモン王は、関係を持った女性たちの神々を崇拝し出します。このように、「ソロモンの心は迷い、イスラエルの神、主から離れたので、主は彼に対してお怒りになった」(11章9節)。
そのような経歴を辿ってしまったソロモン王が晩年に過去を振り返り、自分がいつの間にか神の知恵から離れ、自分の知恵、人間的な知恵に頼って生きるようになったことに気づく。真の知恵は神を畏れることから与えられるのに、人間的な知恵に頼ろうとしたのは神を畏れなくなってしまったからだと気づく。そこで、「コヘレトの言葉」の最後に結論として次のように言われます。
「すべてに耳を傾けて得た結論。『神を畏れ、その戒めを守れ。』これこそ、人間のすべて。神は、善をも悪をも一切の業を、隠れたこともすべて裁きの座に引き出されるであろう。」(12章13-14節)
これが、この書物の一番大事なポイントなのです。神を畏れることを止めて、人間的な知恵に頼るようになり、出口のないトンネルに入ったようになって、悩みに悩んで悲観的なことを言って、最後にたどりついたのがこれだったのです。以上のような背景を意識して読むと、本日の箇所も正しく理解できます。
まず、8章10節。これは、とてもやっかいな節です。原文のヘブライ語の文ですが、一番権威ある写本の文が難しく、意味の通る文にしようとして、翻訳によっては違う写本を用いるものもあります。日本語の新共同訳は権威ある写本を用いていますが、この訳でも不十分な気がします。詳しいことはここでは立ち入りません。英語やフィンランド語の訳は違う写本に基づいているので、文の内容自体が日本語と違うものになっています。これも果たして良い解決法かどうか、疑問ありです。スウェーデン語訳の聖書などは、この節は(….)となっていて、もうお手上げです、とさじを投げています。そんな中で、日本語訳は頑張っていると思うので、大体このような意味のことを言っているのだな、という受け止め方でいきましょう。
次に11節から13節までですが、日本語訳では大体こうでした。悪事に対して何も対策が取られなければ人は大胆に悪事を働き、罪を犯し百度も悪事を働いている者が長生きしている、そういう現実がある。それにもかかわらず、私は次の真理を知っている。つまり、神を畏れる人は畏れるからこそ幸福になり、悪人は神を畏れないから長生きできないし幸福にもなれない。ところが次の14節では、そういう真理を知っていても、やはり善人でありながら悪人の業の報いを受ける者がいたり、悪人でありながら善人の業の報いを受ける者がいる、と現実には真理が覆される状況がある、と言っている。これを「空しい」ことと言っています。まるで、神を畏れて神の意思に従って善を行っても、悪人が受けるような報いを受けてしまう、だから神を畏れたり善を行うことは空しいのだ、と言っているようにみえます。ところが、前に述べた背景を考えながら読むとそうでないことがわかります。
(11節から13節までをヘブライ語に即してみると、「にもかかわらず」の前後の文を訳と逆にするのが正確だと思います。つまり、私は、神を畏れる人は畏れるから幸福になり、悪人は畏れないから長生きできないし幸福になれないという真理を知っていたにもかかわらず、対策が取られないので人は悪事を大胆に働き、彼らは長生きしている、そういう現実がある。この不条理な現実の描写が14節でも続き、善人でありながら悪人の業の報いを受ける者がいたり、悪人でありながら善人の業の報いを受ける者がいる、ということになります。このほうが訳のように行きつ戻りつせずに、すっきりするのではないかと思います。)
「空しい」こととはどういうことか?神を畏れても、善を行っても、あるべき結果と正反対のことが起こるので「空しい」ということなのでしょうか?そうではありません。「空しい」とは「空虚」とか「無意味」ということですが、コヘレトの他の箇所で何度も「空しい」と「風を追うこと」が一緒に使われていることに注意しましょう(2章17節、26節)。「風を追うこと」とは、風をつかまえようとすること、手に入れようとすることです。それは不可能で、やっても意味のないこと、それで空しいことです。そこで、神を畏れる者や善を行う者に相応しい結果が現れないことが空しいというのは、どういうことかと言うと、それは、そういう不条理なことがどうして起きるのか、それを解明したり説明しようとすることが「風を追う」ようなことであり、空しいということなのです。神を畏れることや善を行うことが、空しいとか風を追うことと言っているのではなくて、この世で起きてしまう、不条理な出来事を理解できると思って捉えようとすることが空しいのです。「空しい」のもとにあるヘブライ語の言葉ハ-ベルהבלですが、英語NIVでは「無意味」、フィンランド語では「無駄なこと」と訳されています(スウェーデン語では「空っぽ」、「空虚」)。
そこで、もし、不条理なことを人知で解明できると思ってそれをしようとすると、神は全知全能で愛と恵みに満ちた方という考えと衝突することになります。神はやはり全知全能ではなく力に限界があったのだ、とか、神は首尾一貫性がなくて気まぐれなのだ、とか、そういう神の本質を疑う考えが出てきてしまう。人間の理性や知恵で答えを出そうとすると、神がそれらで捉えられる存在に貶められて、神を人間と同じレベルで考えてしまうのです。場合によっては、神など存在しないのだ、という無神論の考えも出て来るでしょう。または天地創造の神ではだめだ、別の神がいいんだという考えも出るかもしれません。ソロモン王がどうして異教の神々を崇拝するようになったかを考える時、好きになった女性たちが崇拝しているので、情欲と一緒に目が曇らされて流されてしまったということかもしれない。または、自分は知恵に満ちた者だ、解明できないことは何もない、と驕りだして、そこで神を畏れても不条理なことが起きるという問題を人間的な知恵で解明しようとして行き詰り、天地創造の神に疑いを持つようになった。その隙を、女性たちが崇拝する異教の神々にうまく突かれてしまったのか。いろんな推測ができます。
いずれにしてもソロモン王は、人間の知恵と能力で神のなさることの全て、特に人間の目では理に適わないと思えることを解明しようとすることは、空しい、風を追うようなことだということがわかったのです。16-17節で王は、神のすべての業を観察したが、太陽の下に起こるすべてのことを人間は解明できない、どんなに労苦し追及しても出来ない、賢者が自分はわかったと言っても本当は解明できていない、と断言しますが、これが空しいこと、風を追うことなのです。神を畏れ神の意思に従って善を行うことが空しいのではありません。
15節をみると、空しいから快楽をたたえる、などと言っていますが、そんな訳だと悲観主義の刹那主義になります。そうではありません。まず「快楽」と訳されているヘブライ語の言葉シムハーשמחהは、そんな強い意味はなく、ただの「喜び」です。人生の日々の労苦の中で食べたり飲んだりできるという喜びを讃える、ということです。神を畏れ神の意思に沿って善を行っても良いことがかえってくるとは限らず、正反対なことさえ起きる。それは人間の能力では解明できない。風を追うようなことだ。そんな中で良いことが確実にあるとすれば、それは飲んだり食べたり、また他の具体的な喜びがそれで、それらは人生の日々の労苦の中にあっても人について来るものである。神が人間に人生を与える以上、そうした喜びも神から与えられるものである。そういうわけで、こうした喜びを味わうというのは神に感謝して行う、そういう謙虚な慎ましい喜びです。神に背を向けて大胆に快楽に走ることではありません。9章9節に「太陽の下、与えられた空しい人生の日々、愛する妻と共に楽しく生きるがよい」というのも同じことです。ここで「妻」とは単数形で一人の妻です。ソロモン王が正気に返ったことがわかります。
解明不可能な不条理なことばかりで労苦を強いられるこの世にあっては、神を畏れることが全てだ、というのが「コヘレトの言葉」の結論でした。それでは、神を畏れたら、こうした難しい問題の解決になるのか?そもそも、神を畏れるとはどういうことか?
人間の知恵で不条理なことを解明しようとすると神を人間のレベルに引き下げることになる、と先ほど申し上げました。そのようなことをすると、神を畏れることを止めることになります。神を畏れるとは、大体次のような心意気になることです。
神は全てを知っている。私そのものについても、私の身に起こることについても全て、私以上に知っている。なぜなら、神は私を造り私に命と人生を与えた永遠の創造者だからだ。しかし私は造られた者で限りある存在だから、そうした神が知っていることをまさに神が知るように知ることはできない。私が出来ることと言えば、自分に起こる全てのことは神が知っているのだから、知ることは神に任せて、自分は神の意思に沿うように生きるだけだということだ。神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するが如く愛するだけだ。知ることを神に任せてもいいと言うくらいに神を信頼しきれるのは、神がひとり子のイエス様を私の救いのために送って下さったことによる。最後の審判の時、「裁きの座で善だけでなく悪をも一切の業を、隠れたことも全て引き出される」とき、私が永遠の死の滅びに陥らないように、私の至らない部分、罪をイエス様に全部負わせて十字架の上まで運ばせて、イエス様がそこで私の罪の罰を代わりに受けて下さるようにしたのが、私の造り主である神であった。それで、私はこの世にあっては絶えず、順境であろうが逆境であろうが、神の守りと導きを受けられるようになった。万が一この世から死んでもすぐに神の御許に引き上げられ、復活の日に永遠に造り主のもとに戻れるようになった。知ることを神に任せて、あとは神の意思に沿うように生きれば、不条理なことの結末と全容は後で必ず目の前に明らかにされる。神がよかれと思われる時に。もし、この世の段階で明らかにされない場合は、遅くとも最終的には復活の日、「全ての目から涙が拭われる」(黙示録21章4節)日に全て明らかにされる。死からの復活があることも、神がイエス様を復活させられたことではっきり示された。もし、知ることを神に任せず、神の意思に沿うように生きなければ、不条理なことは結末を迎えることなく、不条理なままで終わってしまう。
そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、この世というところは解明できないことだらけですが、このような心意気を持って歩んでまいりましょう。
第7回 マタイ福音書5章9節
説教題「平和を実現する人々は、幸いである」 2016年9月11日(日)
今日の礼拝はマタイ5章9節で、山上の説教の連続講解説教の第7回目になります。5章9節でありますが「平和をつくりだす人たちは幸いである。彼らは神の子と呼ばれるであろう」とあります。今回のテーマは「平和」と言うことでです。聖書にはいろいろな形で「平和」が語られています。「平和」という字は聖書では平安という字ですが、この二つはよく似ているようですが全く同じではない。「平安」というものが、もとになっているのですが平安と言えば平和も入っているのでしょうがそれだけではなさそうです。マタイ福音書10章12節を見ますと、そこにイエス様が弟子たちを伝道に遣わされました。その際イエス様は言われました「どこの家にも平安を祈ってあげなさい」。平和では言い切れないものがそこにあるような気がします。私たちは「平和」と言えばすぐに「戦争」に対する「平和」を考えます。戦争の悲惨さ、というものを知っているから平和を望むのです。誰でも平和な世の中であるように、と願っています。これは大きな課題です。聖書に言う「平和」というものは、もとを言えば戦いに対する言葉というよりは社会や国の混乱に対するものであります。
旧約聖書の主な言葉を集めた辞典を見ますと「平和」のもとになっている「シャローム」という字について細かい字で16頁に渡って解明されていてその見出しは「十分に持っている」となっています。しかしそれはものを十分に持っていることではなくて神によって富まされている、ということであります。神によって祝福され、守られ、恵み深く扱わられる、ということなのです。従ってそれはいつも神との関係からはじめて言えることなのであります。「平安」の最高の状態は何か、と言いますと旧約聖書、民数記6章24~26節に書いてあるアーロンの祝祷の言葉であると言われます。このアーロンの祝祷は実は私たちが礼拝の中で最後の祝祷に取り入れられているものです。口語訳で申しますと、「願わくば主があなたを祝福し、あなたを守られるように。願わくは主がみ顔をもってあなたを照らし、あなたを恵まれるように。願わくは主がみ顔をあなたに向け、あなたに平安を賜るように。」これを見ると平安というものがどういうものであるか、よくわかります。それはひと言で言えば信仰生活ということになります。平和と言うとき、こういう背景があることを知っていなければなりません。預言者エレミヤが6章14節で「彼らは手軽にわたしの民の傷を癒し、平安がないのに『平安、平安』と言っている。」エゼキエル書のほうでは13章10節で「平和がないのに『平和』と言い」というように訳されて」います。どちらの場合もその背景は戦争ではなくて神にそむく偽りの生活であります。もし敵対する、ということを考えれば人に対する平和がであることもありましょうが、むしろ神に対する平和が先になるはずである、と言っているのです。神の祝福を受けるようにする、ことこそ平和を尽くすことになるでありましょう。そのように考えると、もし平和としても、それは神と人との平和、人と人との平和を考えなければなりません。しかも神と人との平和のほうが中心にならねばならないことは明らかです。クリスマスにいつも読むルカ福音書2章14節の天使の賛美の歌は次のように歌われます。「いと高きところでは神に栄光があるように。地の上ではみ心にかなう人々に平和があるように。」地には平和と言うのですがそれは天において神に栄光が帰されますように、ということで,はじめて言えることです。しかもその平和は主なる神がお喜びになる人々に与えられるものであります。と言うことは主なる神との間に平和ができた者に対して平和が与えられる、と言うことです。同じことがエレサレム入城の時にも言われています。ルカ福音書18章38節のところを見ますと「主の御名によって来る王に祝福あれ、天には平和、いと高きところに栄光あれ。」と言うのです。ここでは平和は天にあるように言われています。天に平和と言うのは分かりにくいことであります。なぜ神に平和と言わねばならないのか、と言うことです。これは恐らく平和をつくり出すものとしての神と言うことでしょう。そしてその平和とは言うまでもなく、キリストによる救いのことでありましょう。それならば主の誕生の時も、受難の時も同じように神による平安が讃えられている、と言うことになるのであります。その意味で神は平和の神(ピリピ書4:9にあります)そしてコロサイ人への手紙3:15節で言われるキリストの平和と言われているのであります。これらのことから明らかにされることは、平和は神との平和をもとにしなければならない、ことであります。それは平和は正しい生活と切り離しては考えられないと言うことです。もし平和は和解をもとにするものである、とすればそれは先ず正しさによる平和でなければならないのであります。平和と義とは離すことができない、と言うことであります。平和のためには神との平和が必要である、と言うことです。神に対して平和を得たという確かな信頼のないところには人と人との平和もないのであります。ローマ人への手紙5章1節で「このように私たちは信仰によって義とされたのだから、私たちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ている」とあります。それならば、すでに罪によって汚されている世界において
平和をつくるにはキリストの救いによるほかありません。パウロはコロサイ人への手紙1章20節で言っています。「その十字架の血によって平和をつくり、万物すなわち地にあるもの、天にあるものを悉く彼によってご自分と和解させて下さったのである」。キリストが十字架の上で流された血によって神との和解ができ、神に対して平和が得られる。それだけでなく天地のあらゆるものが神に対して平和を持って神のものとせられるのであります。それでは「平和をつくり出す」とはどういうことになるのでしょうか。もし平和のもとが聖書が言うようなものであるとするなら、平和をつくると言うのは平和運動をすることよりも、伝道することのほうが大切になると思います、福音を語ることであります。なぜなら先に言いましたように、平和の君である主イエス・キリストの御業は罪を犯して神の敵となっている者を、神と和解させることであったからです。神との平和をつくり平安を与えることであったからです。それなら平和をつくるのは福音を述べ伝えて伝道することである、と言っても良いのでありましょう。しかもこの方法においては人間の罪を問題にするのであります。現実の人間の生活の中で平和はどう考えたら良いのでしょうか。信仰者の立場から言えば二つのことが重要と言えます。一つは主が栄光を持って再びおいでになる時のことを最後の望みとしていることであります。神が成就してくださることに望みをつなぐことであります。もう一つは祈りであります。祈りこそは平和の第一の要件であるということ。やはり聖書の言う平和のもとに立ち帰るほかはありません。信仰者だけがこの絶望的なことの中にまことの望みを持って人と人との和解をすることができるのであると信じています。平和をつくり出す人々は神の子と呼ばれる。とイエスは言われています。神の子と呼ばれると言う事はどういうことでしょうか。実際に神の子というならば大変なことです。従ってこれを文字通りにとるか、と言うことであります。ここには「神の子と呼ばれるであろう」とは言っていますが誰に呼ばれるのかは書いてないのです。私たちはふつう人間が神の子と言われるとは考えることができないので「神の子らしい、と呼ばれる」と言いたいのであります。しかし、もし神の子と呼ばれると言うのが人々に言われるのではなくて、神にそう呼ばれると言うのであったらどうでしょう。神が神の子と呼ぶということであれば、それは全く違ったことになるのではないでしょうか。聖書においては神の子と呼ばれるのは主イエス・キリストだけであります。その他の場合は神の子にせられた者ということになるのであろうと思われます。その場合でも平和をつくる人、すなわち人と人との平和のもとである、神と人との和解のために働く者はその業のゆえに神の子と言われるのでなくてその仕事をするようにさせられているから神の子と呼ばれると言うことであります。この人々は平和をつくるように、神との和解ができるように働くようにせられている人々であります。いまは不十分にしか出来ないが主のおいでになることを確信して待ち、日毎にそのために祈ることによってその成就する道におかれているのであります。それに向かって生きるようにされているのであります。そのことは神の子とせられた者でなければ出来ないことであります。従って彼らは神の子と呼ばれるようになるのであります。 〈ハレルヤ!アーメン!〉
1. 本日の礼拝説教は、旧約聖書の日課、申命記29章1-8節をもとに行おうと思います。本日の福音書の箇所ですが、これは難しいところでして、本当はこちらをもとに説教すべきとも思ったのですが、実はこの箇所をもとに三年前、当教会の礼拝にて説教をしておりました。それを読み返してみたら、ほとんど変える必要がないとわかりまして、復習の意味で同じ原稿を読んでもいいかなと思ったのですが、今回は三年前に比べて申命記の日課が語りかけてくるものに何か力を感じまして、それでそちらをもとに説教することにした次第です。
本題の申命記に入る前に、福音書の日課について三年前どんな解き明しをしたか手短に述べます。ルカ14章25-33節には、二つの大きな問題があります。一つは、父母、娘息子、兄弟姉妹を「憎む」ことをしないと弟子になれない、とイエス様が教えていることです。イエス様は十戒の第四の掟「父母を敬え」に反することを教えているのか?また彼自身、「隣人を自分を愛するが如く愛せよ」と教えているのに、肉親を憎まないと弟子にはなれない、とは、どういうことなのか?
これは、福音書が書かれたギリシャ語の文で「憎む」を意味する動詞(μισεω)が使われていることによります。イエス様はこの場面では間違いなくアラム語を話していたでしょう。アラム語とは旧約聖書の言語ヘブライ語に近い言語です。イエス様がアラム語で話した事柄は、福音書に書き記されるまでの過程の中でギリシャ語に訳されていきます。もちろん、イエス様が話したアラム語の言葉は記録がないのでわかりません。しかし、イエス様の教えや思想の土台にある旧約聖書のヘブライ語の「憎む」を意味する動詞שנאサーネーアをみてみると、これは「憎む」を超えていろんな意味を持つことがわかります。創世記29章や申命記21章では「二つのうち一方をより多く愛して他方を少なく愛する」とか「一方を愛して他方を疎んじる」という意味で使われています。「他に比べて疎んじられる、少なく愛される」ということで、「憎まれる」ということではありません。
これを土台にして考えると、イエス様が弟子の条件として肉親を「憎む」ことと言ったのは、神への愛を最優先するということ、肉親への愛は神への愛を下回らなければならないということになります。これはイエス様の隣人愛の教えと矛盾しません。なぜなら、イエス様は、二つの最も重要な掟について、一番目は「神を全身全霊で愛せよ」、その次に来るのが「隣人を自分を愛するが如く愛せよ」と、ちゃんと優先順位をつけて教えたからです。三年前の説教では、神への愛を第一にして行う隣人愛とはどんな愛かについて述べてみました。
ルカ14章25-33節のもう一つの問題は、塔を建てる人と戦争に臨む王のたとえです。二つのたとえは、向う見ずなことはするな、無謀なことはするな、と教えているようにみえます。ところが、33節でイエス様は、自分の持ち物を捨てる覚悟がないと自分の弟子にはなれない、と言われる。無謀なことはするな、と教えているようで、実はそうしないと弟子にはなれない、とは、イエス様は一体何を言いたいのか?
どういうことかと言うと、イエス様はつき従う群衆に対して、お前たちは塔の建設者がするように、後で笑い者になることを心配して前もって綿密に計算をするであろう、また、素早く計算して負けが明らかな戦をしないで講和を結ぶ王と同じようにするであろう、これが今のお前たちの姿だと指摘するのです。そこで33節で、このように自分の持っている物を捨て去る覚悟のない者は私の弟子にはなれない。つまり、塔建設者や王のように計算づくではだめだ、ということになるのです。
そうなると、キリスト信仰者とは単に無謀、向う見ずな生き方をする者になってしまわないか。そんな生き方では、どんな事業も経営も失敗・破綻するするだろう、計算は前もってしっかり立てて物ごとに臨むべきではないか、そういう疑問が起きてきます。三年前の説教で私は、イエス様の教えていることは、あくまでイエス様の弟子として生きるということ、つまり、イエス様を救い主と信じる信仰を携えて生きること、そして、神に対する全身全霊の愛に立って隣人を愛すること、言うなれば、信仰そのものに関係することなのだ、ということを強調しました。何か事業を起こしたり、建物を建てたりする時に見積もりや見通しを立てないでやれ、ということではないのであります。
2.それでは本日の本題である申命記29章1
8節の解き明しに入ろうと思います。申命記29章の舞台は、預言者モーセがイスラエルの民を引き連れて、奴隷の国エジプトを脱出して、シナイ半島の荒野の中を40年近くかけて移動した後、北上してヨルダン川東岸のモアブの地に到達、今や神が約束したカナンの地を目前にするところです。ここで、かつてシナイ山で結ばれた神とイスラエルの民の間の契約を新たなものにします。神はイスラエルの民の神となり、民はこの神の民となるという契約です。その時モーセは、イスラエルの民の前で神の意思を宣べ伝えます。そこで、本日の箇所の3節で不可解なことを言います。「主はしかし、今日まで、それを悟る心、見る目、聞く耳をあなたたちにお与えにならなかった。」
モーセは、このすぐ前の1節と2節で、神がイスラエルの民を守るためにエジプトに対して行った罰の業を民は目で見た、と言っています。それなのに、今日の今日まで神は、それらの業を理解する心、見る目、聞く耳を民に与えなかった、と言う。これは、どういうことか?
確かにイスラエルの民は、神がエジプトに様々な罰を下してイスラエルの民の脱出を可能にしてくれた、数々の奇跡的な業を自分たちの目で見ました。しかし、そうしたイスラエルの民を助ける神の業が何を意味するのかを理解できていなかった。それが理解できない以上は、本当に見たこと、聞いたことにならないのであります。それでは、神の業は何を意味していたのか?
それは、神が金属や木材で出来た偶像とは異なり、意志を持ち考えて計画して、それを実行に移すまさに生ける神であるということ、そして計画したことを必ず実現させる力を持った方であるということ、さらに自分を信じ信頼しきる者を決して見捨てない方である、ということを意味したのです。このように、天と地と人間を造られた創造の神とは、生ける方、力のある方、見捨てない方なのである。このことを理解できなければ、それは本当に「見た」こと「聞いた」ことにならず、神の奇跡の業がただ目の前に映って通り過ぎただけにすぎないのです。
本当に見ることのできる目、聞くことのできる耳、理解することのできる心をイスラエルの民が持っていなかったことは、彼らが神に抱いた畏敬や感謝の念がいつも一過性のものにすぎなかったことに明らかです。エジプト脱出の時から何度も神に助けてもらったにもかかわらず、荒野で食料や水に困ればすぐ不平を言いだして、エジプトで奴隷をした方がましだったとなどと言ったり、モーセがシナイ山頂からなかなか戻らなければ、金で雄牛の像を造って拝み始めるとか、そういうことを繰り返してきました。
そして今、紆余曲折を経ながらも、イスラエルの民はモアブの地に到達し、シナイ山で結んだ契約を新しくするところに来た。「今日まで、悟る心、見る目、聞く耳を与えなかった」というのは、今日与えるということです。つまり、イスラエルの民よ、お前たちは今日、神が生ける方であり、力ある方であり、見捨てない方であることがわかる心と目と耳を持つことになったのだ、ということです。4節と5節のモーセの言葉は、このことを確信させたでしょう。お前たちは40年荒れ野を移動していたにもかかわらず、着物は古びず、靴も磨り減らなかったではないか。パンも食べずぶどう酒も濃い酒も飲まずにすませ、今約束の地の手前まで到達したではないか。これを聞いた民は、自分たちの服や靴をみて、神がどのような方であるか本当にわかったでしょう。
こうしてイスラエルの民は、本当の心、本当の目、本当の耳を持った民としてカナンの地に入って行きます。その地には偶像を崇拝する民族が多数おりました。神が約束した土地ですので、神が忌み嫌う偶像崇拝は排除しなければなりません。そのような入り方をすれば、それらの民族との武力衝突は避けられません。最終的にイスラエルの民はカナンの地の隅々まで入植しますが、現実にはカナンの地は、イスラエルの民が独占的に居住する地にはなりませんでした。もとからいた民族はかなり残り、周囲も偶像崇拝する諸民族が取り囲むという状態でした。そういうわけで、イスラエルの民を偶像崇拝に陥らせる力はその後もずっと内外両面にわたって強く働いたのでした。
実際、イスラエルの民がモアブの地で与えられたはずの、神のことを知る本当の心、本当の目、本当の耳は長続きしませんでした。それは、サウル王が登場する前の時代、士師という政治権力と宗教権力を兼ねた指導者の時代に既に起きてきます。王国の時代になって、サウル王が死者の霊にお伺いを立てますが、これは神が最も忌み嫌うことの一つでした。神は「見えるものと見えないもの」の造り主ですから、被造物の人間が造り主の神をさしおいて別の被造物に自分の運命についてお伺いを立てることなど許せないのです。さらに、ソロモン王でさえ晩年は異国の神々を崇拝するようになってしまいます。
王国が南北に分裂した後、北のイスラエル王国はバール神崇拝に走り、最後はアッシリア帝国に滅ぼされます。南のユダ王国は偶像崇拝に陥ったり、天地創造の神への信仰に戻ったりが繰り返されます。ユダ王国で活動した預言者イザヤに対して神は次のように命じます。すでに心が頑なになってしまったこの民の心を一層頑なにせよ、目をもってしても見えなくなるようにせよ、耳をもってしても聞こえなくなるようにせよ、と。恐れおののくイザヤが、いつまで民をそうした状態に置かなければならないのですか、と聞くと、神は答えます。国が荒らされて、民が十分の一になってもさらに大木のように切り倒されて、最後に切り株を残すまでだ。その切り株を神は「神聖な種」と呼びます(6章13節)。それは、神を知る本当の心、本当の目、本当の耳を持つ新しい民の誕生を預言するものでした。
そのような新しい民は生まれたのでしょうか?ユダ王国も紀元前500年代初めにバビロン帝国に滅ぼされ、主だった人たちは異国の地に連行されてしまいました。イザヤ書の40章から55章をみると、イスラエルの民がこのバビロン捕囚から解放されてイスラエルの地に帰還することを示唆する預言があります。この祖国帰還は紀元前538年に歴史的事実として実現しますが、イザヤ書の当該箇所を見ると、民の目や耳が開かれるということが随所に言われます。これは、かつてモーセがこれからカナンの地に入ろうとするイスラエルの民に本当の心、目、耳が与えられる、と言ったことを思い起こさせます。神の民を滅ぼして連行した大帝国が滅び、捕囚の民が祖国に帰還できるというのは、普通ではありえない、まさに出エジプトの出来事に匹敵する神の業でした。本当に、神は生ける方、力ある方、見捨てない方であることを示す業でした。祖国に帰還する民に本当の心、目、耳が与えられた瞬間でした。
ところが、帰還したイスラエルの民は本当に「神聖な種」になったのでしょうか?バビロン帝国滅亡後もイスラエルの民はほとんどの年月を、ペルシャ帝国、アレクサンダー帝国、ローマ帝国という大帝国の支配のもとで過ごさなければなりませんでした。帰還後の時代のイスラエルの状態がどのようなものであったかについては、旧約聖書は明確に記していません。それでも、祖国帰還後のイスラエルの民の状態について述べているイザヤ書の終りの方をみると、預言者の次のような叫びがあります。「なにゆえ主よ、あなたはわたしたちをあなたの道から迷い出させ、私たちの心をかたくなにして、あなたを畏れないようにされるのですか」(63章17節)。神がイスラエルの民に本当の心、目、耳を与えないようにしている状態がまだ続いていることを示しています。まだ「神聖な種」は生まれていなかったのです。それでは、神を知る本当の心、目、耳が与えられる新しい民はいつ生まれるのでしょうか?
3. 神を知る本当の心、目、耳は、イエス様の出来事を通して与えられることとなりました。しかもそれらを与えられる人は、もはや血で繋がるイスラエルの民族ではなくなって、イエス様の出来事を心で受け入れて、彼を救い主と信じる人全てに与えられるようになりました。
イエス様が言葉と奇跡の業を通して、人々に神の意思や神の御国について正しく教えていた時、イスラエルの民の宗教指導者たちと衝突を繰り返しました。宗教指導者グループの一つであるファリサイ派との論争の中で、イエス様は、お前たちは自分では見えていると言っているが、本当は見えていない、と指摘するところがあります(ヨハネ9章)。指導者たちからすれば、自分たちは神のことをよく知っている、本当の心、目、耳を持っているということなのですが、神のもとから送られた、神のひとり子であるイエス様からみれば、そんなものは本当のものでもなんでもない。イエス様は、自分がこの世に送られた使命について次のように述べています。見えない者が見えるようになり、見える者は見えないようになる、そういう裁きを行う(ヨハネ9章39節)、と。つまり、神のことをわかっていないことに気づき、それではいけないとわかった人には理解できる心、見える目、聞こえる耳を与える。しかし、神のことをわかっていないことに気づかず自分はわかっているから何も問題はないと思っている者には与えない。これがイエス様の行う裁きなのです。前述した旧約の教えから明らかなように、理解できる心、見える目、聞こえる耳を与えたり、与えなかったりするのは神です。イエス様はまさに神と同じ働きをすると言っているのであります。
それではイエス様はどのようにして、神が生ける方、力ある方、見捨てない方であるということを知る心、目、耳を与えるのでしょうか?それは、イエス様がゴルゴタの丘の十字架で死んだことと、死から三日後に復活されたことで与えられるようになりました。これは、かつて神が示した業、例えば天から食物が与えられるとか、敵の軍勢が壊滅するとか、異国の土地を征服するとか、祖国に帰還できるとか、そういうものとは全く質が異なる業でした。それは、神のひとり子が人間の救いのために自らを犠牲にしたということ、そして一度死んだ者を今度は神が力を及ぼして復活させたという業でした。宗教指導者たちがイエス様に、お前が神の子ならしるしをみせろ、と要求したことがあります。イエス様の答えは、かつて預言者ヨナが大魚の腹に三日間閉じ込められた後に外に出られたがそれと同じことが起こる。それがしるしだ、と答えました(マタイ12章38- 41節)。ヨナの遭難と救出の出来事は、イエス様が死んで葬られ三日後に復活して墓から出るという出来事の預言的出来事だったのです。
さて、死からの復活が起きたことで、イエス様とは何者だったのかということが明らかになりました。それは、神が「死の陰府に捨てておかない、その体は朽ち果てることがない」と約束した(使徒2章27節、詩篇16編10節)方であることが明らかになりました。それにあわせて、かつてダビデ王自身が「主」と呼んだ、神のひとり子であることも明らかになりました。そして、神がこの世に送ったひとり子が十字架の上で死ぬというのは、これは、人間が神に対して負っている罪という負債を人間に代わって帳消しにしてくれる、そういう神聖な犠牲の生け贄であることも明らかになりました。この出来事を前にして、人間はどういう態度をとるのか?こういうことが起きた以上、自分が罪ある存在であることから目を背けることはできないと観念して、この私が神から罪の罰を受けないで済むようにと、ひとり子を犠牲にすることさえ厭わなかった神は本当に愛と恵みに満ちた方だとわかるようになるのか。その神の愛と恵みの実現のために自分自身を犠牲にすることを厭わなかったイエス様こそ真の救い主と信じられるようになるのか。そう信じる時、神は本当に生ける方、力ある方、見捨てない方だとわかっているのです。いつの間にか神のことを知る本当の心と目と耳が与えられているのです。
神は一度死なれたイエス様を復活させる力を及ぼしました。そこで、イエス様の十字架と復活の出来事は自分のために起きたのだ、それゆえイエス様こそ自分の救い主だ、と信じて洗礼を受ける者に、神はこの同じ力を及ぼして復活の日に死から復活させて下さいます。その日が来るまでは、洗礼を受けイエス様を救い主と信じる者は、神の御手の中で生きて行くことになり、絶えず神の守りと助けと導きを受けます。洗礼には莫大な力が秘められています。罪には、人間を復活のない死の滅びに陥れようとする力がありますが、洗礼にはそれを無力にする力があります。洗礼には、復活された主イエス・キリストと自分をしっかり結びつける力があります。神の愛と恵みが十分に含まれているのです。
もちろん、無力化されたはずの罪はいろいろな隙を狙っては、信仰者が受けた神の愛と恵みを忘れさせようとします。本当の心と目と耳を失わせようとします。しかし、その都度、心の目をゴルゴタの十字架に向ければすぐ、あそこで罪は死滅したと言っていいくらいに無力化されたことがわかります。神に「イエス様は私の救い主です。私の罪の赦して下さい」と祈れば、神は「心配するな、お前の罪はあそこで赦されている」とおっしゃるのです。十字架のおかげで、罪の支配の下ではなく、神の愛と恵みのもとで生きられるのです。
本日これから執り行われる聖餐式にも莫大な力が秘められています。洗礼の時に受けた、罪を無力にする力を自分の内に強め、復活の主と自分との結びつきを一層強める力です。本教会では聖餐式は月一度ですが、兄弟姉妹の皆さん、聖餐式を自分自身の信仰と命そのものにとって大切なものであることを忘れないようにしましょう。
マタイ 5章7節 (第5回)
「あわれみ深い人たちは、さいわいである」
山上の説教連続で第5回目です。5番目の祝福は「あわれみ深い人たちは、幸いである。彼らは、あわれみを受けるであろう」ということです。これまでの4つの祝福は、神に関することでありました。心の貧しい人々、次は悲しんでいる人々、柔和な人々、義に飢え渇く人々、は幸いである。これらは神との関係でありました。これからのことは人の性格に関することにことになります。人の心構えと言っても良いでしょう。あわれみ深い人々と言っても普段にはあまりことさら考えないでしょう。それは信仰のことだからです。「あわれみ深い人々」と言うことが「義」に飢え渇く人々の後に出てくることは大事なことです。なぜなら、この「あわれみ深い」と言うことは義に関係があるからです。ふつうに考えれば義と、あわれみとに何の関係があるかと思います。それは「義」も「あわれみ」も信仰の言葉として受け取っていないからです。ある人が言いました、「あわれみというのは、このあわれみのない世の中にある義のことである」それは不義に苦しむ者を助け、励まし、義を求めさせる、というのであります。「あわれみ」と言うのはやさしい気持ちであって、義とか正しさ、と言うことと結びつかないように思われます。あわれみを求める人はどういう人でしょうか。それは何かのことでひどい目にあっているのでしょう。そのひどい目と言うのはしばしば正しいことが行われていない、不当に扱われている。きっと許せないものがあっても犠牲にさせられているのでしょう。或いは気の毒なことにあって悩んでいる人々でありましょう。どちらの人々もいろいろ苦しんだ末、神はなぜこんなに不公平をなさるのか、と悩むと思います。不正に苦しむ人は「神は、なぜこんな不公平を許しておられるのか」と思うでありましょう。困った立場にある人も、神はなぜかえりみて下さらないのかと思うでありましょう。その時に、「そうではなくて神の義が行われていることを告げることは、この人々に対する何よりのあわれみである」と言うことです。神の義が示されている、神の正しさ、神の愛を示す義であります。神の義と言うものが示されれば、その人々にとっては何よりのあわれみであります。あわれみは、ただ同情の言葉をかけることではすみません。神の恵み、と、あわれみ、とを悟るまではその人々は慰められることができないのです。正しい人、すなわち神が愛を持って支配しておられることを信じている人こそあわれみ深くあることができる人でありましょう。「あわれみ深い」と言う字は、このマタイ5章7節とヘブル書2章17節しかしか出ていません。ここ(2:17)では「イエスは神の御前において憐れみ深い忠実な大祭司となって民の罪をあがなうために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです」とあります。テモテへの手紙第2の手紙1章2節のあいさつの言葉として「・・・・・・主・イエスからの恵み、憐れみ、そして平和があるように」ここでは恵みとあわれみとが並べられています。そこで気づくことは恵みと憐れみとは、どうちがうか、ということです。恵みの方は罪に悩む者、あわれみは一般にいろいろ苦しみに悩む人となるようです。悲惨な状態になっている人に対するもの、ということです。悲惨なことが結局はその原因が何かの意味で罪にある、ということです。そうして見ると、どちらも罪に関係があるということになるのではないか。つまり原因になっている罪を問題にしなければならない、ということになるでしょうか。それならば恵みも、あわれみもどちらも罪を赦すということが大事になるのです。ルターは次のように言っています。「あわれみ深い人、というのはまずその人の罪を赦すことがなければ本当のあわれみにならない。」というのです。憐れみは、ただかわいそうに、と言うだけではありません。かわいそう、とは言えない何かがあるように思える。気の毒にはちがいないが憐れみに思うことができない。
そこに、赦すと言うことがなければ、あわれむことができない。それならば、誰が人を赦すことができるのか、ということになります。それは自分の罪を赦されている人である、ということになりましょう。そういう人でなければ人の罪を赦すこともできませんし、人に同情しそれを心からあわれむ、ということもできません。それなら、ここに信仰者、すなわちキリストに罪を赦された者が、あわれみ深い人になることができる。このことがわかるのであります。あわれみは信仰そのものを表す一つの言葉である、と言っても良いのではないか、と思われるのです。旧約聖書の中心的な信仰を表す言葉は義と真実と憐れみという言葉である、といわれます。憐れみは、恵みとも、義とも真実ともちがうにはちがいがありませんが、しかし一面ではこれらの事がみな深くつらなっている、一つの事のように見える、と言うのです。それは要するに信仰ということを、それぞれに表した言葉であって、いずれも神の赦しの各々の側面を表している、と言うのです。要するに憐れみということも、信仰の中心である神の赦しを知らなければならない、と言うことであります。また憐れみには神の裁きを予想している」と言われます。それは・・・・あわれみが気の毒な人をあわれむことだけでなく、神の裁きの前に赦しが与えられることからことから出てくることになるのであります。憐れみを行う前に神の憐れみを受けることが大切なのであります。それによって憐れみ深い人になる道がつけられるのであります。神の憐れみこそが私たちをあわれみ深くしてくれるのであります。すでに憐れみを受けて、いま全く憐れみ深い者にはなれないかもしれないが神の憐れみに励まされて、あわれみ深いことを少しはすることができるかもしれない。詩篇103篇8節には「主は憐れみ深く、恵みに富み、忍耐強く慈しみは大きい」とあります。ある人の言葉です。「あわれみの問題は神があわれみ深くある、ことから始まる。その憐れみを受けるからこそ私たちは他の人をあわれむことができるのです。私たちが憐れみ深くあるのは、神の私たちに対する憐れみを表すことになるのです。従って私たちがあわれめば、あわれむほど神の憐れみは深くなるのであります。 アーメン・ハレルヤ!
マタイ5章6節 (第4回)
説教題:「義に飢え乾く人たちは、幸いである」
今日は、山上の説教の第4回目になります。マタイによる福音書5章6節の御言葉です、「義に飢え乾く人々は、幸いである。その人たちは満たされる」。あらためて、ここで「義に飢え乾く人たちは、幸いである」と言われていますが、ふつう「義に飢え乾く」などということをしているだろうか。普段はあまり考えていないでしょう。義というのは正義の義、正しい、ということでしょう。正しい人になりなさい、という気持ちは誰でも持っているでしょう。文語訳の聖書では、ここのところを「飢え乾くように義をしたう人々は、幸いである」となっています。義をしたう・・・・・これは簡単に言えないことです。なぜ、そんなに「正しい」ことが問題になるのでしょう。なかなか、答えが出てきません。私たちは、みんな正しくありたい、この世も正しくあったら、どんなに平和になるだろうと思います。生まれながらに、そなえ持っている」思いでしょう。特に私たち信仰者も同じであろうと思います。なぜなら、私たちには神様があるからです。正しい神がおられます。神が正しいお方だから神に従う私たちも、正しい生活をしなければ、と思っています。よくわかることです。神様がおられないとなれば、正しいも、なにもない、思いのままに争いと、分列と、そして滅びとなるでしょう。神様は何よりも人間の罪のことを問題にされています。人間の生活には多くのことがあるのに、神は何よりもその罪を問題にしておられるのです。それに、いわば全力を注ぎ御自分のひとり子を、そのためにお遣わしになったのであります。それが、私たち人間がどんなことがあっても正しく生きなければならないことの、ただ一つの理由であります。ここに神がまことに正しい方であることがあらわされている、と言っても良いのであります。正しさ、を求める者は自分だけが正しいのでは満足できません。正しいことが皆に認められなければ、安心して正しい生活をすることができないのではないかと思います。神が正しくあられるだけでなく、その正しい神が最後にはすべてに勝って、勝利をつかんで、そのゆえに正しいことが何時も認められなければ本当に正しい生活はできないのであります。そのために自分の罪から開放されたいし、この世も罪から開放されることを望まないではおられないのであります。神がキリストによってこの世を私たちを罪から救ってくださる事が大事なことになるのであります。それなら、その神を信じ、その神から正しさを求めることがどうしても必要であります。そうして見ると「義」を求めることは実は神を求めるということになるのです。
ルターは、ここに書いています。「義という字は敬虔」すなわち「信仰」と訳しました。義を切に求めることは信仰を求めることである。義に飢え乾く、と言いますがふつう一般の人々のことを言っているのではありません。ここでは神の祝福を受けた人々であります。当面のこととしてはキリストの弟子たちであります、今の言葉で言えば信仰者のことであります。信仰を持っている者がどんなに義をもとめているはずの者であるか、ということです。信仰者にとっては、神が義であることは分かりきったことであります。その神から義を求めるということなのであります。この事について私たちは自分の信仰生活がどういうものか、といことをよく考えてみる必要があると思います。義を求める、と言いますが実は私たちの信仰生活は義を求めることから始まったはずであります。人は誰でも自分が正しい、と思います。自分の義を主張するのです。しかしそれが間違っていたことに気づくことが信仰生活の糸口でありました。自分の正しさを主張しながら自分こそまことに正しくない者、罪人であることに気づいたのであります。それゆえに何よりも神によって正しい者にしていただきたかったのであります。神に救われると言うのは病気から救われる、ことでもなければ不安から救われることでもなく、罪から救われることでありました。それは罪から開放されて正しい者にあることであります。それが神との関係を正しく、神の恵みを知り、不安から抜け出す道であるに違いありません。こういうことですから信仰者は始めから義を求めていたのであります。罪人であるのに神によって義とされたということ、従って罪が赦されて喜んで信仰生活をしていることは義を求め続けていることになるのであります。 それなら、その生活をしながら何故なおも義を求めるのでしょう。それは一つには義を求めて義を与えられることによって確信させられた神の恵みをいっそう喜ぶことであります。しかし、もう一つはどこまでも正しくありたい、ということではないかと思います。それはどこまでも清くありたいということであると言っても良いかも知れません。救いを受けている私たちですが、はじめの願いである清くなることが、まだ完全にはできていないのであります。それならば日毎にそれを求めるのであります。ピリピ人への手紙3章12節には次のようにあります。「わたしが、すでに得たとか、すでに完全な者になっていると言うのでなく、ただ捕らえようとして追い求めているのである。そうするのはキリスト・イエスによって捕らえられているからである」。この言葉は信仰生活者が義を求めることをよくあらわしていると思います。
正しさを求めることから始まったのです、しかしもう完全な者になったのではなくて、ただそれを得たいと思って追い求めているのであります。しかも大切な事は、そのためにキリスト・イエスがわたしを捕らえてくださったのである、ということであります。それならばキリストによって捕らえられ恵みを与えられ更に義を追い求める者にされた、ということになるのであります。詩篇107篇9節は有名なすばらしい歌です。「主はかわいた魂を満ち足らせ、飢えた魂を良き物で満たされるからである」。アモス書8章11節というところに次のような言葉があります。「それは、パンの飢きんではない。主の言葉を聞くことの飢きんである」。主の言葉に飢え渇いているということでしょう。イザヤ書55章2~3節には「飽きることもできぬ者のために労するのか。わたしは、あなた方ととこしえの契約を立ててダビデに約束した、変わらない確かな恵みを与える」。ここでも神の契約に飢えている姿が書かれているのです。それに対してマタイは「義に飢え渇く」と言うのです。それは神の言葉に飢えていることであり、神の約束に渇くことでもあるのです。それらのことを「神の義」ということでまとめたのであろう、と言われるのであります。詩篇42篇2~3節の有名な詩があります。「神よ鹿が谷川を慕いあえぐように、わが魂もあなたを慕いあえぐ。わが魂は渇いているように神を慕い、いける神を慕う」。こうしてみると、預言者たちや詩篇の作者たちが、神の言葉や約束を求めたのは実は神の義を求めたのであります。それは結局、神の慕いあえぐことになるのではないでしょうか。神の義は神からしか得られません、神を知り、神を得てこそはじめて神の義が与えられるのであります。 アーメン・ハレルヤ!
(Ⅳ) 7月31日(日)聖霊降臨後第11主日(詩138編)
日 課 創18:16~33、コロ2:6~15、ルカ11:1~13
説教「主の教えたまいし祈り」
1 詩編138編:ダビデの詩編の一つ、聖なる集いにおける讃歌。
詩編137編「嘲る民(バビロンの民)が“歌って聞かせよ。シオンの歌を”と神の民に対して挑戦的に嘲笑的にののしる言葉に対応している。
ダビデはいう「呼び求めるわたしに答え、あなたは魂に力を与え、解き
放ってくださいました。」と。
なお、ダビデの詩編はこの138編から144編まで、つまり詩編の終章、ハレルヤ詩編の直前まで続いている。素晴らしい祈りと讃美の詩編である。
<祈りは聴かれる!主は答えてくださる!>
2 今日の旧約聖書は、創世記18章「ソドムのための執成しの祈り」である。
自らを「塵あくたに過ぎないアブラハム」(27節)の祈りである。
アブラハムの信仰は明らかである。(25節)
「正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。」
“正しい者が50人いれば、45人、40人、30人、20人ついに10人いれば!”
主はお答えになった「その10人のために、わたしは滅ぼさない」と。
しかし、ソドム、ゴモㇻは滅ぼされた。ではアブラハムの執り成しの祈りは無駄であったのであろうか?決してそうではない。
◎注目したいのは、このアブラハムと神との“祈りの対話”において、アブラハムはきわめて人間的である、つまり理性的、理論的である。
正しい人の人数を、神の応答を確かめながら、50人、45人、40人、
30人、20人、10人と、神との取り引きで、次第に減少させている。
しかし、それに対して、神の答えは絶対的である。それは神には赦しがある!
という事実である。そのことをアブラハムは確信した。
1
3 今日の福音書の日課は『弟子たちに教えられた“主の祈り”』である。
今日は、主の祈りについて全体的なことについて学びたいと思う。
◎ 主の祈りは福音書のマタイとルカに記されている。
対比してみると明らかなように、マタイは祈りの全体を記録しているが、
ルカは、第3の願い「み心が地の上にも行われますように」と、第7の願
い「悪い者から救ってください」の二つの願いが欠けている。
相違についての様々な学問的な研究や推測がなされてきたが、現在は以下のように理解できるであろう。
第一は、本来、主の祈りは一つの形であった。
第二は、主の祈りは礼拝の中で用いられてきたが、二つの別々な地域(エルサレム=ルカ、ガリラヤ=マタイ)の信仰共同体で用いられるうちに、異なった発展をしたとの理解である。
Ⅰ 主の祈りは「礼拝の祈り
である。
教会の礼拝、また個人的な礼拝にも用いられる“信仰告白の祈り”である。
Ⅱ 主の祈りは「信仰の戦いの祈り」、慰め、恵みと力をいただく祈りである。
私たちの生活はいつも厳しい状態におかれている。
身体的にも絶えざる健康のこと、どの年代にも病の不安がある。障害の問題を抱えている人もある。
今の時代、心理的、精神的に、孤独や悩みはつきものであり、誰にもある。
社会的にも様々な戦いがある。生活や仕事の苦しみ、人間関係等々。
Ⅲ 主の祈りは「信仰共同体=教会」(我ら)の共同の祈りである。
主イエス・キリストは、「我ら」と祈るようにお教えになった。
私たちの祈りは、しばしばそれに反して、我、私の祈りである!
Ⅳ 主の祈りは「世界を包む祈り」である。
この分裂と亀裂の世界的状況のなかで、それを癒す祈り、希望の祈りである。
Ⅴ M.ルターは、大教理問答書、小教理問答書を通して懇切、丁寧に教えた。
今、ルーテル教会はルターの「宗教改革500年」を記念して、エンキリディオン(小教理問答書)である。このなかで心して「主の祈り」を学びたい。
2
4 祈り、主のいのりについての雑感
Ⅰ讃美歌について
① オルガンを練習し始めて、初めて覚えた曲が「讃美歌362(主
よ、今われらの罪を赦し)である。
② 今日の主題讃美歌は教会讃美歌364である。(1~4)と(5~8)に.
分けて歌うが、ご存知の通りこれは、Mルター自身の作詞、作曲による有名な讃美歌である。
J.Sバッハのオルガン小曲集にも「天にまします我らの父よ」がある。
Ⅱ 主の祈りを、敵&味方一緒に祈った兵士たち
第二次世界大戦中にフィリピンに従軍したある日本人の軍人がいた。
彼の所属する部隊は、アメリカ軍の攻撃を受けてバラバラになり、ついに、数名と共に捕虜になり、サマル島の町はずれにある捕虜収容所に入った。
すでに日本の敗戦が色濃い1945年6月半ばのことである。小雨の降る
捕虜収容所に隣接するテントでは、アメリカ軍兵士のための礼拝が行われていた。讃美歌が歌われ、聖書が読まれ、説教が語られていた。
その捕虜収容所にいた一人の軍人は、それがキリスト教の礼拝であることを知っていた。彼は旧制高等学校から大学生の時代に、教会の礼拝に出席していたからである。やがて主の祈りが祈られた。捕虜の身である、その日本の
軍人は、かつて教会の礼拝で祈っていた主の祈りを、日本語で唱えた。
彼はその時、言葉に表せない感動に覚えた。敵国のアメリカの兵士たちと
囚われの身である日本の軍人が、時を同じくして主の祈りを祈ったのである。
その経験が出発点となって、帰国してからこの軍人はクリスチャンになり、やがて献身して、牧師になった。私はこの方の説教を神戸で聞いた。
主の祈りには争いを、真に終結させ、敵味方となって戦った憎しみを癒す力がある。あらゆる憎しみや不安を癒し、克服する恵みの力がある!
(Ⅲ) 7月24日(日)聖霊降臨後第10主日(詩15編)
日課 創18:1~14、コロ1:21~29、ルカ10:38~42
説教「すべては御言葉を聴くことから始まる」
1 詩編:「どのような人が、聖なる山に住むことができるでしょうか?」
“聖なる山”それは“神の家”である。言い換えれば神と共なる生活である。
神の家での生活、神と共なる生活で大切なことは何か?
ダビデは、神をほめたたえながら告白する(2節):
「それは完全な道を歩き、あなたの幕屋に宿り、心には真実な言葉がある人」
つまりここでは「心には真実な言葉がある人」が、最も大切な聖句である。
“真実は言葉”とは何か?
原文では「心から真実を語る人」。口語訳聖書も同様に訳されている。
しかも、「神の恵みの言葉に基礎づけられた」言葉ということができる。
人間の言葉は極めて、自己中心的であり、時には自己欺瞞でさえある。
私たちは日常生活に言葉を使う以上、常に神のみ言葉に聴き、神の恵みの
言葉に塩漬けられた言葉を用いたいと思う。
2 旧約の日課は、「イサク誕生の予告」である。
神はアブラハムに約束された。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」
アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(創世記15章)
再び、主は約束の子が与えられると言われたが、アブラハムは「この百歳の男に、そして90才の妻サラに子が産めるだろうか?」と言って、笑った。
創世記17章35節~17節参照。
こうした経過があって約束が実現する出来事が起こった。
アブラハムが、3人の天使を迎え、心からの“もてなし”(接待)をした。
3人の天使は、アブラハムの妻サラに「男の子が生まれる」と語った。
アブラハムと共に高齢になっていたサラも、「ひそかに笑った」。
<その数か月後、サラは身ごもり、やがて男の子を産んだ>21章参照。
「サラは言った『サラは言った。「神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を共にしてくれるでしょう。」と。
「そんなことがある筈はない」と3人の天使によって語られた神の祝福の
言葉を嘲笑したサラは、今や約束のイサクが与えられ神よって人生の真実の笑い(イサク)を得たのである。
神の救いの約束は、不可能を可能にするのである!(創世記18:14)。
結果的に信仰者の父、アブラハムは自らの思いを超えて、神との約束を信じざるを得なかったのである。つまり恵みの信仰である!
同様に、そのように信じる信仰こそ、私たちの生き方、恵みの生活である。
有名な画家マルク・シャガールはロシア生れ、東欧系ユダヤ人である。
アメリカに亡命し制作活動を続け、最後にはフランスに定住した。
絵画の制作にも、神との触れ合い、そこに喜びを見出すことを大切にした。
聖書に精通し、聖書をテーマにした様々な絵画やステンドグラスがある。
フランスのニースには有名な「聖書のメッセージ美術館」がある。
その一つに、シャガールの「アブラハムと3人の天使」という絵がある。
ある解説者は、「シャガールは、この3人の天使に羽を描いているが、それは主の復活を連想させるものである。」と言っている。
旧約聖書の“信仰の父と呼ばれたアブラハム”の物語が、単に旧約聖書、つまり律法の世界の物語で終わるのではなく、イエス・キリストの福音(復活)へと繋がる、神による救済史の物語としてシャガールは理解していた。
マルク・シャガール(人物、また絵画やステンドグラス等の作品)についてご存知のかたがあれば、どんなことでもご教示いただければ幸いである。
3 福音書の日課は、美しい物語である。
先ず、主イエスと弟子たちの一行はある村にお入りになった。それは
ベタニア村であり、マルタ、マリアそしてラザロの三兄弟の家庭がある。
四福音書は、主イエスと弟子達がベタニアをしばしば訪ねたと記している。
エルサレム近郊のオリーブ山添いにある美しい村である。
ラザロの蘇えらされた場所(ヨハネ⒒章)であり、主イエスのエルサレムへの最後の入城の日の夕べお泊りになった村(マタイ21章)であり、ライ病の
人シモンの家で、ある女が主イエスの足に高価な油を塗った村(マタイ26章)
であり、最後に主イエスの昇天の場所でもある。主イエスの愛された人々や家庭のある、主の愛された村である。
姉のマルタは接待のことで心せわしく働いていた。しかしマリアは主の足もとに座って、主イエスのみ言葉に心を傾けていた。
マルタは思い余って言った「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」と。
私がその場にいたら、どうしたであろうか?多分マルタの手伝いであろう!
皆様は、どうでしょうか?あなただったら、どうしたでしょうか?
主イエスとその弟子たちの一行をもてなすことは重要な務めである。しかし
主イエス・キリストの教えは、180度異なるのである!
人間的な行動ではなく、御言葉を聴く黙想である!動ではなく静である!
聖書の語る判断基準も、そのことを繰り返し語っている!
例 マタイ4章4節 「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」と主は言われた。
またマタイ6章33節 「なによりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」
すべてに勝って神の言葉に聴くことが重要視されなければならない。
ヨハネ1章は、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」
今日の福音書を理解するために、このヨハネの言葉は重視されねばならない。
4 ホスピスで、クリスチャンのご婦人、Sさん(86才)とお会いした:
出会った時にSさんは私に「前の病院で後3か月の命だと、言われました。でも私は“普通に生活したい”と思っています」と静かに語りました。
私が「普通とはどういうことですか?」と聞きますと、Sさんは「普通です。
朝起きて、普段着に着替えます。寝間着やパジャマでなくて普段着です。
そして身支度をして、病室ではなく、食堂でご飯をいただきます。
食事が終わると、いつものように聖書を読んでお祈りします。そして身体の調子が良ければ、やりたいことをやります。読書でも、散歩でも、何でも!
Sさんは、ホスピスのアートプログラムには殆ど、毎日淡々と参加しました。
押し花、絵や書、生け花、指網、皆で歌おう、折り紙等。
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私が宿直の時はSさんの希望で夕食後、聖書の学びと祈りの会を続けました。
これがSさんにとっての“普通の生活”でした。最初、3か月の余命と宣告されたSさんは2年以上もホスピスで過ごしました。
亡くなった後から聞いたところでは、彼女は「愚痴や悩みを数人のNsから聞いていた」のです。神の言葉に聴く者は、隣人の言葉にも耳を傾けることができるのだ、ということを、Sさんから学びました。
<教会讃美歌240(聖書Ⅰコリント1:18=「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」
主なる神さまのお恵みが皆様の上に豊かにありますように。アーメン!
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