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説教「あの墓を塞いでいた大石は今もわきに転がされたままか」神学博士 吉村博明 宣教師、マルコによる福音書16章1-8節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.キリスト信仰の復活

  「復活」という言葉は、死んだ人が生き返るというのが基本的な意味ですが、普通は「生き返り」に直接関係しなくて、もっと広い意味で使われます。例えば、もう回復の見込みがないとか、もう見つからないと観念していたものが回復したり見つかったりするような時に使われます。「敗者復活戦」という言葉は、一度チャンスや希望がなくなっても、それが新たに与えられることを意味しています。そのように、「復活」という言葉は、絶望や失望を超える大きな希望があることを教えてくれる言葉になっています。とても素晴らしい言葉だと思います。ところで、キリスト信仰でいう「復活」とは、これは文字通り本当に死んでしまった人が生き返ることを意味します。しかももっと大事なことは、「生き返る」とは言っても、それは、仮死状態から蘇生することとは全く違う現象を意味します。

 それでは、キリスト信仰の復活とはどんな現象かと言うと、まず私たちが存在する今のこの世がいずれ終わる時が来て、今ある天と地が新しい天と地に取ってかわる時が来る(イザヤ書65章17節、66章22節、黙示録21章1節、第二ペトロ3章13節)。その時、存在する被造物は全て揺り動かされて取り除かれ、唯一揺り動かされず取り除かれない神の国が現れる(ヘブライ12章27-28節)。まさにそのような天地大変動の時に死者の復活が起きて、神の目に適う者(本日の使徒書の日課の言葉では「キリストに属している者」第一コリント15章23節)、これがこの世の時と異なる体と命、つまり復活の体と命を与えられて神の国に迎え入れられる、というものであります。神の国とは天の国、天国とも呼ばれますが、そこで復活した者はどうなるかと言うと、黙示録19章や21章それに本日の旧約の日課イザヤ書25章6-9節にも記されているように、盛大な結婚式の祝宴にたとえられるお祝いの席に招かれて、全ての涙を拭われるのであります。それは、まさに、この世で背負った労苦が最終的に完全に労われ、またこの世で被った害悪も最終的に完全に償われるということです。こうして復活を遂げた者たちは、自分のもともとの造り主である神のもとで、神の義と正義と愛と恵みに包まれて永遠に過ごすことになるのであります。

そういうわけでキリスト信仰の復活とは、それがいつ起こるかは天の父なるみ神しか知らないという(マルコ13章32節)、この世の終わりの時、次の新しい世が始まる時に起こるものであります。先ほど、復活は、仮死状態からの蘇生とは違うと申しました。蘇生の場合は、死んだ体がちゃんと残っていなければなりません。復活の場合は、体は土葬されて骨も肉も腐敗して干からびた状態、火葬ならば灰になった状態で跡形もありません。それにもかかわらず、使徒パウロが詳しく教えているように、復活の体と命が与えられて、もう朽ちない体、もう死なない存在に変えられるのです(第一コリント15章35-53節)。仮死状態から蘇生した人は、いずれ本当に死ぬ時が来ます。しかし、復活の場合は、本日の旧約と使徒書の日課や他の聖書の箇所で「死が滅ぼされる」と言われているように(イザヤ25章8節、第一コリント15章26、54-55節、黙示録20章14節、21章4節、ホセア13章14節)、もう死ぬことのない永遠の命を持って生きることになるのです。キリスト教の葬儀では、亡くなった方と復活の日に再会できるという希望を集まった会衆同士が確認しあいます。復活の日の再会がどのような場所でどのような形で起きるかは、以上みたように聖書を繙けばかなり明らかになるのであります。

 

2.イエス様の復活

 キリスト信仰で、復活というものが、今のこの世の終わりの時に起こるものとすれば、2000年近く前に起きたイエス様の復活は大きな例外となります。まだこの世の終わりが来ていないのに復活させられたからです。本日の使徒書の日課の中で、復活には順序があり、最初はキリスト、次はキリストが再臨する時にキリストに属する者が復活させられる、と言われています(第一コリント15章23節)。この日課の一つ手前の節を見ると、「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」(同20節)と述べられています。使徒パウロの言葉です。「初穂」は、ギリシャ語のアパルケー(απαρχη)の訳ですが、とても詩的で素晴らしい訳だと思います(注 23節の「最初はキリスト」の「最初」も同じギリシャ語の言葉ですが、訳しわけをしています)。イエス様の復活が起きてからもう2000年近く経っているので、初穂の次に穂が出てくるのは時間がかかっていますが、それは、一日は千年のごとく千年は一日のごとくという(第二ペトロ3章8節)父なるみ神の時間表ですから、神がよかれと思う、機が熟する時を忍耐して待つしかありません。いずれにしても、イエス様は、私たちの復活の先駆けになったのであります。ここで、なぜイエス様が一足先に死からの復活を成し遂げなければならなかったのかを見てみましょう。

このことがわかるためには、復活の前に起きた十字架の出来事をふり返ってみなければなりません。十字架の出来事がなければ復活の出来事もなかったわけですから、両者はあわせてみなければなりません。別々にしてはいけません。

この間の聖金曜日礼拝の説教でも申しましたように、イエス様の十字架上での死というのは、神の人間救済計画が実現したことを示しています。神の人間救済計画とは、かつて失われてしまった神と人間の結びつきを今一度回復させようとする神の計画です。人間は、もともとは天地創造の神に似せて造られた良いものでした。それが堕罪の出来事のゆえに罪と死に支配される存在になってしまいました。その経緯は創世記の3章に記されている通りです。最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順となり罪を犯したことが原因で、人間は死ぬ存在になってしまいました。使徒パウロが「ローマの信徒への手紙」の中で教えているように、死とは罪の報酬であります(6章23節)。人間は代々死んできたように、代々罪を受け継いできました。キリスト教ではいつも罪が強調されるので、外部からは訝しがられることがあります。人間には悪い人もいるが良い人もいるではないか、悪い人だっていつも悪いとは限らないではないか、と。しかし、死ぬということが、人間が最初の人間から罪を受け継いできたことの現れなのであります。

さて、罪が人間に入り込んでしまったために、人間は死ぬ存在になってしまいました。神聖な神の御前に立てば焼き尽くされかねない位に汚れた存在になってしまいました。こうして造り主である神と造られた人間の結びつきが失われてしまったのです。しかし、神は、身から出た錆だ、もう勝手にするがいい、と見捨てることはしませんでした。なんとか結びつきを回復して、人間が再び神の御許に戻れるようにしてあげようと考えました。どうすれば、それが出来るか?そのためには、人間から罪の汚れを取り除かなければならない。しかし、それは人間の力ではできない。そこで、神は、自分のひとり子をこの世に送り、彼に人間の全ての罪を請け負わせて、彼を人間の身代わりとして罪の罰を受けさせて十字架の上で死なせ、その犠牲に免じて人間を赦すことにしたのであります。人間は、イエス様の十字架上の死がまさに自分のために行われたのだと分かって、彼こそ自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、この神が整えた「罪の赦しの救い」をそのまま受け取ることが出来るのです。この時、神が与える罪の赦しがその人に対して効力を持ち始めます。こうしてイエス様の犠牲の死に免じて罪を赦された人は、神との結びつきが回復して、この世の人生を歩み始めることになるのです。

以上から明らかなように、一足早いイエス様の復活は、彼自身のために起こったのではありません。私たちが救われるために起こったのです。イエス様が復活させられたことで、死を超える永遠の命、そしてこの世的でない復活の体が実在することが示され、そこに通じる扉が開かれたのです。イエス様を救い主と信じる者は、この永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩み始めたのです。父なるみ神にこれだけのことを取り計らってもらった以上は、これからは本当に神の御心に沿う生き方をしよう、神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するが如く愛そう、そうするのが当然という心になります。しかし、実際の生活の中で神の御心から遠い自分の姿に気づかされます。そのような時はいつも、十字架上のイエス様の肩に全ての人間の罪が重くのしかかっていることに心の目を向けましょう。その中にあなたも罪も混じっているのです。このことが確認できれば、あなたは神から大いなる赦しを与えられていることを確かなものとすることができます。そして、再び神の御心を心に留めて歩み続けることができるのです。

キリスト信仰者が歩んでいる道、永遠の命、復活の体に至る道というのは、このようなことを繰り返しながら進む道です。この道を歩む者にとって、自分の中に残存している罪は、もはやその人を神の裁きや永遠の死に追いやるものではありません。逆にイエス様の十字架の下に立ち返えらせて神の赦しを再確認させるきっかけにしかすぎなくなります。しかしやがて、そうしたことが繰り返されなくなる時、ルターの言葉を借りれば、キリスト信仰者が完全なキリスト信仰者になる時が来ます。この世に別れを告げ、肉は朽ち果てるにまかせて、神のみぞ知る場所にて復活の日まで安らかな眠りにつく時です。そして、本日の使徒書の箇所でパウロが述べるように、次はキリストに属する者たちが復活させられるのであります(第一コリント15章23節)。この言葉を記したのは一使徒ではありますが、聖書の御言葉の一つとしてある以上は、これも神の言葉として神の約束を伝えるものです。

 

3.復活を信じるということ

 キリスト信仰の復活から私たちは、とてつもない希望を得ています。それは、今の私たちの命が、私たちの造り主である神のもとにある、死を超えた永遠の命に繋がれているという希望です。

ところが、キリスト信仰の復活は、キリスト信仰者でない人のみならず、実は信仰者の間でも最初は受け入れ難いものがあったようです。「コリントの信徒への第一の手紙」の15章のはじめで使徒パウロが、イエス様は本当に復活された、そして死者の復活は本当に起こるということをコリントの信徒たちに一生懸命に弁明していますが、彼がそうしなければならないくらいに、復活を信じられない信徒がコリントにいたということであります。復活を信じられないキリスト信仰者は、それでは何を信じるのでしょうか?パウロは次のように述べています(15章17-19節)。「キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。」つまり、希望というものは全て、この世の生活に関係するものに限られてしまいます。また、この世と次の新しい世を合わせた広大な視野をもって、そこからこの世で遭遇するいろんな事柄や出来事を眺めたり意味づけたりすることができなくなってしまいます。本当に、視野も意味づけも全てこの世の範囲内にとどまってしまいます。

どうして、このようなことが起きるかと言うと、いろんな理由がありますが、一つには、人間はどうしても、自分の目で見て耳で聞いて手で触れて直接確かめられないと、また計算したり測定したりして明確に示せないと、信じることができない、ということがあります。復活にしろ、その他の奇跡にしろ、いくら他人が見たと言い張るのを聞いても、現場に居合わせて自分の目で見ないと信じられないというのが大方の考え方でしょう。当時はビデオもデジカメもスマートフォーンもなかったので撮影して記録することもできません。仮に撮影できたとしても、今はコンピューターの技術で合成できたりするので、信ぴょう性はますます疑われるでしょう。そうなるともう、見たと言う人たちの証言を信じるか、信じないかのどちらかしかなくなります。果たして、見たと言う人たちの証言は信用に値するのでしょうか?

ここで一つ考慮に入れてよいのは、ペトロをはじめとする弟子たちが、イエス様の復活後にとても変わったということです。イエス様が逮捕された時、弟子たちは皆、逃げてしまいました。イエス様が裁判にかけられた時、ペトロは群衆に混じって様子を窺っていましたが、周りの人から、お前もあの男の仲間ではなかったか、と気づかれてしまい、違う、あんな男は知らない、と嘘をついてしまいます。それくらい自分の身を守ることに精一杯だったのです。ところが、復活したイエス様に出会った後、ペトロはもう何も恐れるものがなくなりました。権力者側から、イエスの名を広めたら命はないと思え、と脅されても、ひるむことなく伝え続け、最後は迫害に遭って命を落としました。

もしイエス様の復活が起こらず、弟子たちが創り上げたデマだったとすると、果たして、嘘のためにここまで生涯をかけ命をかけることができるでしょうか?ここはやはり、復活したイエス様に出会った以上は、そうとしか言いようがないのであり、復活の主を通して死を超えた永遠の命があることを見せつけられた以上は、もう何をもおそれずに自分が見聞きしたことを正直に伝える他はなくなった、と理解する方が自然なのではないでしょうか?キリスト信仰がエルサレムを出発点として急速に広まったというのは、実は弟子たちの命を顧みない証言を聞いて、イエス様を見たことのない人たちが信じたということがあります。そのような信仰を土台として、新約聖書の中に収められている書物が生まれたのです。旧約聖書の方も、使徒たちの目から見て、イエス様を用いて実現されることになる神の人間救済計画を明らかにする書物となりました。そういうわけで、今私たちが手にしている聖書は、こうした使徒たちの証言と信仰を当時と全く同じように現代の私たちにも伝える媒体になっているのです。

 

4.あの墓を塞いでいた大石は今もわきへ転がされたままか?

 最後に、本日の福音書の箇所で一つ注意を引かれる部分があるので、それについてお話ししたく思います。それは、マルコ16章4節で、「ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった」というところです。どこが注意を引くかと言うと、原文のギリシャ語の動詞「わきへ転がす」の使い方が少し奇妙なのです。日本語訳を見ると、「石は既にわきへ転がしてあった」とあります。つまり、女性たちがイエス様の墓に到着した時、墓を塞いでいた大石は彼女たちの到着前にわきに転がされて、到着の時までずっと転がされた状態であったということです。描写の仕方としては、この訳は何の問題もありません。しかし、奇妙なのは、ギリシャ語の表現では、大石がわきに転がされた状態は、女性が到着した時を超えて、福音書記者マルコがこれを書いている時、出来事から大体30年位経った後としておきますと、その時点でも転がされた状態が続いているという表現なのです(現在完了αποκεκυλισται)。もし、転がされた状態が続いていたのは女性たちが到着した時、というふうに、30年前の出来事として書けば、この「転がされた」という動詞はテキストにあるのとは違う形を取るべきではないか、と思うのです(過去完了απεκεκυλιστο?ないしην αποκεκυλισμενος?)。マルコの書き方は、「わきに転がされた」状態が30年前の出来事としてではなく、現在もそのままであるという書き方なのです。

マルコがどういう意図でこのような動詞の形をとったのかは確実なことは言えませんが、読めば読むほど、直接の目撃者でなかった彼自身にとっても、墓の大石がわきに転がされた状態は彼の執筆の時にもそのままだった、ということが伝わってきます。つまり、墓は空のままということであり、あの時復活したイエス様は今も復活された状態でおられるという認識だったのです。(第一コリント15章20節でパウロはイエス様の復活を現在完了形で書いていますが、同じ認識だったのでしょう。)

マルコがそのような動詞の形を使って書いた文ですが、読む側としても、読めば読むほど、墓の大石がわきに転がされた状態は、マルコの記述から1950年程経った今も同じで、つまり、墓は空のままで、イエス様は今も復活された状態でおられることが伝わってきます。キリスト信仰者にとって、あの墓を塞いでいた大石がわきに転がされたというのは、ただ単に過去に起きた事実ということだけにとどまらず、信仰者自身にとっても、転がされた状態が続いているのです。

主はまことに死から復活されました。ハレルヤΑλληλοια הללו-יה!

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

 

 

主日礼拝説教 2015年4月5日 復活祭

5月5日の聖書日課  マルコ16章1-8節、イザヤ25章6-9節、第一コリント15章21-28節

4月3日聖金曜日礼拝 説教「十字架が象徴するもの」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書19章17-30節、ヘブライ4章14節-5章10節、イザヤ書52章13節-53章12節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

イエス様が十字架刑に処せられました。十字架刑は、当時最も残酷な処刑法の一つでした。処刑される者の両手の手首のところと両足の甲を大釘で木に打ちつけて、あとは苦しみもだえながら死にゆく姿を長時間公衆の面前に高々と晒すというものでした。イエス様は、十字架に打ち付けられる前に既に、ローマ帝国軍の兵隊たちに容赦ない暴行を受けていました。加えて、自分が打ち付けられることになる十字架の材木を処刑場まで自ら担いで歩かされました。これは途中で通りがかりの人が手伝わされることになりましたが、イエス様の体力は本当に限界だったのでしょう。そして、やっとたどり着いたところで痛ましい釘打ちが始まりました。数多くの宗教画に描かれた十字架のイエス様というのは、釘を打ちつけられた手足から血を流し、血の気を失った体は全体的に色白な感じのものが多かったような印象があります。しかし、兵隊たちから暴行を受けた後ですので、本当は全身血まみれだったのでしょう。ちょうど10年程前にアメリカの映画で「キリストの受難The Passion of Christ」という映画が上映され、残酷なシーンが多くて世界中で話題になりました。実際はあれくらいのことが起こっていたのではないかと思います。いずれにしても、一連の出来事は、一般に言う「受難」という短い言葉では言い尽くせない多くの苦痛や激痛で満ちています。

イエス様の両脇には二人の本当の犯罪人が十字架に掛けられていました。何も罪を犯していないイエス様は、極悪人の扱いを受けたのです。十字架の近くでは、人間の痛みや苦しみに全く無関心な兵隊たちが、処刑者たちが息を引き取るのを待っています。こともあろうに、彼らはイエス様の着ていた衣服を戦利品のように分捕り始めました。十字架の周りを大勢の群衆が見守っています。近くの街道を通る人たちも立ち止って様子を窺います。そのほとんどの者は、イエス様に嘲笑を浴びせかけました。ユダヤ民族の解放者のように振る舞いながら、なんだ、あのざまは、なんという期待外れな男だったか、と。群衆の中には、イエス様に付き従った人たちもいて彼らは嘆き悲しんでいました。これらが、苦痛と激痛の中でイエス様がかすれていく意識の中で目にした光景でした。

このイエス様の悲惨な十字架の死は、一体何だったのでしょうか?言うまでもなく、十字架はキリスト信仰のシンボルになっています。キリスト教会に掲げられた十字架、礼拝堂の正面に飾られた十字架、そういうシンボルとしての十字架はただ単に、イエス様が十字架にかけられて死んだという見かけの事実を伝えるだけのものではありません。シンボルとしての十字架は、見かけの事実の背後にそびえる大いなる真実を象徴しています。それは何かと言うと、イエス様が十字架の上で死なれたことで逆に人間が救われる道が開かれたということです。このことを十字架は象徴しているのです。「人間が救われる」と言う時の「人間」とは、欧米人だろうがアジア人だろうがアフリカ人だろうが、とにかく人間なら誰でも救われる道が開かれたということです。

それでは、なぜイエス様が十字架で死なれたことが、人間が救われる道を開くことになったのでしょうか?そもそも、「救い」とは何から救われることを意味するのでしょうか?そうした疑問を明らかにする最初の手掛かりとして、本日の旧約聖書の日課であるイザヤ書の箇所がちょうどよいでしょう。

イザヤ書52章13節から53章12節までの箇所は、明らかにイエス様の受難と死の出来事を指しているとわかります。そこでは、彼の受難と死の目的について詳しく述べられています。話が少しそれますが、この預言の言葉が紀元前700年代に由来すると見てよいのか、それとも紀元前500年代に由来するかについては、キリスト信仰者の間でも議論されるところではありますが、いずれにしてもイエス様が歴史の舞台に登場する数百年前に由来することは否定できないのであります。以下、この箇所から、イエス様の受難と死の目的がなんであったかを見てみましょう。

イエス様が「担ったのはわたしたちの病」であり、「彼が負ったのはわたしたちの痛み」でした(53章4節)。「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のため」でした(同5節)。なぜこのようなことが起きたかと言うと、それは、イエス様の「受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされ」るためでした(同5節)。神は、私たち人間の罪をすべて彼に負わせたのであり(同6節)、人間の神に対する背きのゆえに、イエス様は神の手にかかり、命ある者の地から断たれたのです(同8節)。イエス様は不法を働かず、その口に偽りもなかった。それなのに、その墓は神に逆らう者と共にされた(同9節)。苦しむイエス様を打ち砕こうと主である神は望まれ、彼は自らを償いの捧げ物とした(同10節)。神の僕であるイエス様は、「多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った」(同11節)。イエス様は、自らをなげうち、死んで罪人のひとりに数えられたが、実は、多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのであった(同12節)。

以上から、イエス様が罪ある私たち人間のかわりに神から罪の罰を受けて、苦しみ死んだことが明らかになります。それではなぜイエス様はそのような身代わりの死を遂げなければならなかったのか?私たち人間に、一体何が神に対して落ち度があったというのでしょうか?多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った、と言うが、私たちのどこが正しくないというのか?余計なお世話ではないか?また、イエス様の受けた傷によって、私たちが癒されるというのは、私たちが何か特別な病気を持っているということなのか?それは一体どんな病気なのか?いろんな疑問が生じてきます。結論から申しますと、聖書は、私たち人間が天と地と人間を造られた神の前に正しい者ではありえず、落ち度だらけの者であると明らかにしています。しかも、イエス様の犠牲がなければ癒されない病気があるということも明らかにしています。どういうことか、さらに見ていきましょう。

人間はもともとは神聖な神の意思に沿う良いものとして神の手で造られました。しかし、創世記3章にあるように、「これを食べたら神のようになれるぞ」という悪魔の誘惑の言葉が決め手となって、禁じられていたことをしてしまう。このように、造り主である神と張り合いたいという傲慢さをもったことが、人間が神に対して不従順となり、人間内部に罪が入り込む原因となったのであります。この結果、人間は死ぬ存在となってしまいました。こうして、人間と造り主である神との結びつきが壊れてしまいました。神との平和な関係が失われてしまったのです。しかし、神は、人間に対して、身から出た錆だ、勝手にしろ、と冷たく見捨てることはせず、正反対に、なんとか人間との結びつきを回復させようと考えたのであります。

ところが、人間と神の結びつきを回復出来るためには、人間を縛りつけて死ぬ存在にしている罪の力を無力にして、人間を罪の奴隷状態から解放しなければならない。しかし、罪を内在化させている人間は、自分の力で罪を除去することはできず、罪の支配力を無力化する力もない。そこで、神が編み出した解決策は次の如くでした。誰かに人間の罪を全部請け負ってもらい、その者を諸悪の根源にして、人間の全ての罪の罰を全部受けさせる。それこそ、償いは全部済んだと言える位に罰をその者に下し尽くす。そして人間は、この身代わりの犠牲を本当だと信じる時に、文字通りこの犠牲に免じて罪を赦される。このように罪を赦された者として、人間は神との結びつきを回復させることができる。このような解決策を神は立てたのです。

それでは、一体誰がこの身代わりの犠牲を引き受けるのか?一人の人間に内在している罪はその人を死なせるに十分な力がある。それゆえ、人間の誰かに全ての人間の罪を請け負わせること自体は不可能である。自分の分さえ背負いきれないのだから。そうなれば、罪の重荷も汚れも持たない、神聖な神のひとり子しか適役はいない。それで、この重い役目を引き受ける者としてひとり子イエス様に白羽の矢が当たったのでした。

ところで、この身代わりの犠牲の役目は、人間の具体的な歴史状況の中で実行されなければなりません。なぜなら、そうしないと、目撃者も証言者も生まれず、彼らが残すことになる記録も生まれません。証言や記録がなければ、同時代の人たちも後世の人たちも神の人間救済計画が実現したことを信じる手がかりがなくなってしまいます。そういうわけで、神のひとり子の身代わりの犠牲は、人間の具体的な歴史の中で出来事として起こらなければならなかったのです。

さて、神のひとり子は歴史を超えた無限のところにおられます。その方が有限な人間の歴史状況に入って行くというのは、彼が神の形を捨てて、人間の形を取るということになります。いくら、罪を持たない者とはいえ、人間の体と心を持てば、痛みも苦しみもそれこそ人並みに感じられるようになります。まことに本日の使徒書の日課で述べられている通りです(ヘブライ4章15節)。しかも、自分のあずかりしらない、自分以外の全ての人間の罪を請け負い、その罰がもたらす痛みと苦しみを受けなければならないのです。それをしなければ、人間は神との結びつきを回復するチャンスを持てないのです。

そうして、神のひとり子であるイエス様は、おとめマリアから肉体を受けて人となって、天の父なるみ神のもとから人間の歴史状況のなかに飛び込んできました。時は約2千年前、場所は現在パレスチナと呼ばれる地域、そして同地域に住むユダヤ民族がローマ帝国の支配に服しているという歴史状況の中でした。ところで、他でもないこのユダヤ民族が、天地創造の神の意思を記した神聖な書物、旧約聖書を託されていました。この神聖な書物の趣旨は全人類の救いということでしたが、ユダヤ民族は長い歴史の経験から、書物の趣旨を自民族の解放という利害関心に結びつけて考えていました。まさにそのような時、イエス様が歴史の舞台に登場し、神の意思について正しく教え始めました。また、無数の奇跡の業を行って、今の世の終わりに出現する神の国がどのような世界であるか、その一端を人々に垣間見せました。こうしたイエス様の活動は、ユダヤ教社会の宗教エリートたちの反発と憎悪を生み出し、それがやがて彼の十字架刑をもたらしてしまうこととなりました。しかし、まさにそれが起こったおかげで、神のひとり子が全ての人間の罪を請け負ってその罰を全部身代わりに引き受けることが具体的な形を取ることができたのでした。

このようなわけで、イエス様の十字架上の死というのは、神が人間との結びつきを回復しようとした救いの計画が成就したことを示しているのです。私たちに向けられるべき神の怒りや罰は全てイエス様に投げつけられました。また、人間を死ぬ存在に陥れていた罪は、これも神がイエス様ともども刺し貫いてしまったので、人間を牛耳る力が粉砕されてしまいました。このようにして、神の人間救済計画はひとり子イエス様を用いて実現されました。神はこの実現済みの救いを全ての人間に向けて、どうぞ受け取りなさい、と提供してくれているのです。そこで、人間の方が、イエス様の十字架の死は2000年後の今を生きる自分のためにもなされたのだとわかり、それでイエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、この「罪の赦しの救い」を自分のものとして受け取ることができるのです。こうして神から罪の赦しを受けた人は、神との結びつきが回復し、そのような者としてこの世の人生を歩み始め、順境の時も逆境の時も絶えず神から良い導きと助けを得られるようになり、万が一この世から死んでも、その時は御許に引き上げられて、永遠に造り主のもとに戻ることができるのです。

このように「罪の赦しの救い」を受け取った人は、神に対する感謝の気持ちに満たされ、神の意思に沿うような生き方をしようと志向し始めます。つまり、神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するが如く愛する、という生き方です。ところが、それはそう簡単なことではないと気づかされることになります。この生き方をできなくなるようにしてやろうという力に絶えず直面することになるからです。とにかく現実の世界で生きていると、いろんなことがあります。ですから、神の意思に沿う生き方に反対する力に遭遇したら、兎にも角にも神に助けを祈り求めることから始めなければなりません。

加えてイエス様は、神の意思に沿う生き方というものは、外面的な行為だけでなく内面的な心の有り様まで問われるのだと教えました。例えば、自分や他人の結婚生活をしっかり尊重し守っていても、もし淫らな目で女性を見たら姦淫を犯したのも同然(マタイ5章27-28節)とか、殺人を犯していなくとも、もし隣人を憎んだり悪く言ったりしたら同罪(同5章21-22節)という具合です。ここまで見抜かれたら、誰も神の意思に沿う生き方などできません。しかし、神は人間がそこまで完全になれないことを知っておられるので、私たちがイエス様の身代わりの死に免じて罪を赦して下さいと祈ると、神は、私たちがイエス様を自分の救い主として信じていることを確認できて、「このことはもう取沙汰しないから、心配しないで前に向かって進みなさい」と言って、この世に送り出して下さるのです。

キリスト信仰者は、もし神の前にへりくだって包み隠さずに罪を告白すれば、神はイエス様の身代わりの死に免じて必ず赦して下さると知っています。しかしながら、それでも、赦しが得られるかどうか、確信が得られないこともあります。特に死が間近に迫った時、信仰者でも、果たして神は自分を御許に引き上げてくれるだろうか、それとも自分はまだ罪の汚れが多く残っているのでだめなのだろうか、と心配することがあります。そのような時は、ルターにならって、ゴルゴタの丘の十字架を心に思い浮かべるとよいでしょう。あそこに、首を垂れたイエス様がかかっている。あの方の肩には全世界の人々の罪が重くのしかかっている。私の罪もああして全部、あの方の肩に貼りつけられている。このことを心の目で目撃できれば、罪の赦しを確信できるはずです。

十字架上のイエス様というのは、イエス様を自分の救い主と信じて既に救いを受け取った者にとっては、絶えず立ち返るべき原点なのであります。その者にとって内在する罪は、もはや死と罰に追いやる力はなく、逆に絶えず十字架のもとに引き戻す契機に変わったのです。まだ救いを受け取っていない人たちにとって、十字架は言うまでもなく目指すべき目的地であります。目的地に到達するや否や、それは今度は立ち返るべき原点にかわる、それが十字架上のイエス様であります。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

主日礼拝説教 2015年4月3日 聖金曜日

説教「エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ」木村長政 名誉牧師、マルコによる福音書15章33~41節

今日の礼拝は受難週の礼拝であります。主イエス様の十字架の上で叫ばれた言葉を中心に見ていきたいと思います。この福音書を書いていますマルコはイエス様の受難物語を、他のどんな記事よりも多くのページを割いて書いています。それは14章から始まって15章までマルコは約7ページに渡って書いています。この受難物語は、ちょうど十字架を背負われたイエス様の後を悲しみ、嘆きながらついて行った婦人たちのように、私たちも又み言葉を聞き、心を痛め叫び声を上げるほど心を暗くします。

ルカ福音書には23章27~28節にイエスは婦人たちに言われた。「エレサレムの娘たち、私のために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。」イエス様が十字架を担いで行かれる、痛み、重み、苦しみのすべてに自分の罪を見なければならない。このイエス様の受難のすべてが、私たちのためであることを知らされるのです。この十字架の受難の苦しみ、そして暗さの中にこそ主イエス様の次のステージ復活の光と喜びを見出すことができるのです。

マルコは受難記事の中で最も重要な箇所であります33節~41節までにイエス様が十字架につけられ、息を引き取られる様子を記しています。マルコはまことに簡潔な描き方で十字架の死の重さをぐっと押さえて神様の側から見た十字架上のイエス様を書こうとしたのです。まず、十字架の下にいる人間が二つに分かれていると言うことです。一方はイエス様を軽蔑している人です、もう一方は信じている人です。主を軽蔑している人が圧倒的に多く、信じている人は婦人たちを含むごくわずかの人です。

十字架の上で、イエス様が息を引き取られる前に叫ばれた声を聞いて、36節を見ますとそばにいた人々のうちこれを聞いて「そら、エリヤを呼んでいるぞ」と言っている。十字架の極刑の苦しみ、極みでの声に何と愚かな人間が、こうした連中が大部分を占めていたのです。そういう二種類の人々の中でイエス様は息を引き取られたのです。マルコはここに不必要なことは何一つ記されていないのです。15章25節には「イエスを十字架につけたのは午前9時であった。罪状書きには『ユダヤ人王』と書いてあった。又イエスと一緒に二人の強盗を一人は右に、もう一人は左に十字架につけた」そうして、ローマの兵隊やユダヤ人たちは罵り侮辱したのです。

さて、33節から見ますと「昼の12時になると全地は暗くなり、それが3時まで続いた。」

明るかった昼のまっただ中に突然、雷雨と地響きと共に全地は真っ暗の暗黒の世界に変わったのです。何が起こったのかわかりません。キリストであるイエス様の十字架が全地に闇をもたらした、と言うことです。十字架の上でイエス様が殺された時、大部分の人は死んだと思ったに違いない。誰一人として十字架が救いだなどと思わなかった筈です。十字架が死だけであったとすれば、イエスは取り去られただけで全てが終わり、この世は闇として残ります。この世は、まさに暗黒の世界です。

僅かの者が主イエス様に望みをかけたとしても、そのイエスが死んだと、なれば世は闇しか残っていない。つまり神がなくなったら世界はどうなるか、神がおられなければ闇だと言う事を私共は知っています。神はいない等と私共はとても言えません。主イエス様の死は神がいなくなったと言うことです。そう言う世界、神のない世界が全地に襲い掛かってきた、と言っているのです。そこには死しかない、死がすべてを支配している。暗黒の支配が覆い被さっている。私たちが、キリストに望みを置くのはキリストが死に勝ちたもうたからであります。キリストが死なれた、ということの重みを十分に知っておかねばならないのです。

死の支配が確かに全部を覆ったのです。十字架のイエス様は本当の意味で人間として耐え難い痛み、苦しみ、敗北を味われた、と言うことです。そうして3時になると、主イエス様は十字架の苦しみの中で大声で叫ばれた。「エロイ・エロイ・レマ・サバクタニ」と、これは「わが神・わが神・なぜ・私を・お見捨てになったのですか」という意味であるとマルコがしっかりと記しています。この言葉は詩篇22編2節の言葉をと言うことです。ここに重要なことが隠されております。「神よ、なぜ、お見捨てになったのですか」という叫びは、もっとイエス様ご自身の言葉で訴えてもよかったはずです。しかし人の心に訴えるような言葉で記さずに、あくまでも詩篇にある聖書の言葉で表そうとする。それに驚くのです、何故でしょうか。

エロイ・エロイ・レマ・サバクタニと叫んだ、と言うと敗北の言葉と感じる。しかし、それを詩篇の言葉で言われたとするならば、つまり神の言葉で言おうとされた、とするならば、それは敗北ではない。詩篇22編の終わりの方まで読むとわかります。この詩は神への絶望ではなく、神こそ救いだ、と歌っているのであります。「わが神・わが神」と絶望の中で神を呼ぶことができた、絶望の言葉を神の言で語る、そこに神に対する信頼が示されているのであります。この言葉でイエス様の十字架の上での最後の叫びは聖書に基づいて言われている。そして、聖書の神への信仰によって貫かれている。そう信じてほしいと言っているのではないでしょうか。

 当時のユダヤ教では詩篇を聖書日課のようにして暗唱していたとも言われています。そして、イエス様は十字架の苦しみの中で、この聖書の日課の言葉を暗唱していたとも言われます。そして、イエス様は十字架の苦しみの中で、この聖書の日課の言葉を暗唱しておられたのだと言う。いずれにしてもイエスキリストの十字架上の悲惨な叫び声が聖書の言葉によって叫ばれている。そうだとすると、これは悲しい十字架の話ではない。いや、確かに悲しい苦しみの極みの十字架の話しではありますが、それはいつでも神の守りを信じている。そして、いつも神に導かれている話しではないでしょうか。そうして見るとこの叫びは絶望のように聞こえますけれども本当はそうではなくて義人の祈りであると言ってもよい。父なる神への祈りの叫びでもありましょう。

しかし又、ただそれだだったのか。やがて十字架の上で死ぬ、その直前の叫びであります。確かに救いの御業のために死なれたのであります。神の言で語られたのではありますが同時にこれは神の前に立たされた罪人の言葉だと言わなければなりません。私たちはイエス様が私たちの身代わりとして十字架に死なれたと信じていますが、ここでイエス様は罪人が神の御前で言うべき言葉を口にされたのであります。「わが神・わが神・なぜ・私をお見捨てになったのですか」。私共が自分の罪ゆえに苦しみ、悩み、その罪のドン底で叫ぶのは究極のところ「どうして自分は神から見放されているのか」と言うことなのです。悪事をしておいて,神に訴える、何と言う身勝手な言い方でありましょう。しかし、真にそう叫ぶのであれば私たちは決して見捨てられていない、と言うことをこの言葉に見出すのです。

だからこそ、わたしたちも神の御子イエス様の十字架の死と言う暗黒の中に真の光が輝くのです。死から復活への希望の中に生きることが出来るのであります。

アーメン・ハレルヤ!

説教「イエス・キリストという光に照らされて生きる」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書12章36b-50節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.イエス様は永遠の命に至る道を照らす光

 ヨハネ福音書では、イエス様が「光」であるということがよく言われます。本日の箇所や先週の箇所のようにイエス様が「自分はこの世に来た光である」(3章19節、12章46節)とか「この世の光である」(8章12節、9章5節、12章35-36節)と自分で言う場合もあるし、この福音書を記述したヨハネが、イエス様は光であったと総括する場合もあります(1章4-5、9節)。イエス様が光であるとは、どんな意味でしょうか?

 ひとつには、闇の中を照らして、私たちが道を誤らず正しい道を歩めるようにするという意味があります。ヨハネ8章12節で、イエス様は「私は世の光である。私に従って来る者は闇の中を歩むことがなく、命の光を持つに至る」と言います。また、12章35節では、「もう少しの間、光はあなたがたと共にいる。あなたがたが光を持っている間に歩みなさい。闇に捕らわれてしまわないように。闇の中を歩む者は、自分がどこへ向かっているかわからないのだ」と言います。

 それでは、イエス様という光を持った時、人はどこへ向かって歩むのでしょうか?何か目的地があって、そこへ道を誤らないで行けるようにとイエス様が光となって道を照らして下さっている。イエス様という光が照らなければ、周りは全くの暗闇で誰も道が見えず目的地に到達できない。その目的地とはどこなのでしょうか?

 それは、神の国です。天の御国とか、短くして天国とも呼ばれます。日本語で普通、天国と言うと、死んだ人が行くところで、亡くなった人たちがそこからこの世にいる私たちを見守ってくれている場所という意味で使われます。興味深いことに一般の仏教関係の人たちも、亡くなった人が極楽浄土から私たちを見守ってくれているとはあまり言わないのではないか、天国から見守ってくれているというのが一般的ではないかと思います。恐らく、極楽浄土も天国も同じものという理解がされていると考えられます。(あるいは、極楽浄土に到達するまでは33年くらいかかると考えられているので、それまでは極楽浄土から見守ってくれている、とは言えません。それで、亡くなった方が見守りをしてくれる場所として天国が引き合いに出されるのかもしれません。)

ところが、キリスト教でいう天国とか神の国というものは、今どこか上の方にあってそこから亡くなった人たちが見下ろすようにして見守ってくれているところではありません。確かに神の国は今、私たち人間のあずかり知らないところ、天地・人間を造られた神がおられるところにあります。しかし、その神の国に人間が迎え入れられるのは、まだ先のことです。いつのことになるかというと、「ヘブライ人への手紙」12章26-28節に答えがあります。「(神は)今は次のように約束しておられます。『わたしはもう一度、地だけではなく天をも揺り動かそう。』この『もう一度』は、揺り動かされないものが存続するために、揺り動かされるものが、造られたものとして取り除かれることを示しています。このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。」

つまり、今私たちの周りにある森羅万象が揺り動かされ取り除かれる時、唯一揺り動かされず取り除かれないものが現れてくる。それが神の国であります。このような森羅万象の大変動について、イザヤ書を見ると、神が今ある天と地にかわる新しい天と地を造るという預言があります(65章17節、66章22節)。このような新しい天と地のもとで神の国が現れるということが、黙示録21章のはじめに預言されています。このようにキリスト信仰では、神の国とか天国というものが人間にとって具体的なものになるのはいつかと言うと、それは、今のこの世が終わりを告げる終末の日のことなのです。ここで一つ付け加えますと、キリスト信仰では、この世の終わりの日に死者の復活ということが起こり、イエス様を救い主と信じる者が神の御心に適う者として神の国に迎え入れられるということです。(こういう教えは近年では、他の宗教に失礼と言わんばかり、あまり言わなくなってきたように見受けられますが、でもこれはキリスト教の主眼なのであります。)

さきほど、一般の仏教関係者の天国観がはっきりしないというようなことを申し上げましたが、はっきりしない点ではキリスト教会も同じではないかと思います。いつだか、某教会の総会に顔を出したら、教会がこの世に神の国を建設する、などと言っていて、ルターが聞いたらびっくりするのではないかと思いました。小教理問答を見てもわかるように、ルターに言わせれば、神の国は、つくるも何も、既に神のもとにあり、いつか私たちのもとに来るものだからです。そう言っても、今現在の私たちが神の国と無関係ということではありません。神の国とは、ルターの言葉を借りるまでもなく、完全な罪の赦しがある世界です。もし、私たちが、神に罪の告白をし、洗礼、聖餐そしてイエス様を救い主と信じる信仰を手掛かりとして神から赦しをいただければ、それはもう、神の国と見えない形でつながっていることになるのです。それが、この世が終わりを告げる終末の日、復活の日につながりが見える形になるということです。

以上のように、キリスト教では神の国とか天国というものは将来に関係するものということになります。そうすると、それでは既に亡くなった方たちはその日まではどこでどうしているのか、という疑問が起きてきます。これについては、当教会の説教や聖書の学びでも度々触れたところでありますが、ルターによれば、亡くなった人は復活の日までは神のみぞ知る場所にいて安らかに眠っているということであります。復活の日に目覚めさせられて復活の新しい命と体を与えられて、もともと自分を造られた神のもとに永遠に迎え入れられるということであります。たとえ眠っていた時間がこの世の時間単位では100年であっても1000年であっても、眠っていた本人にすれば目を閉じて再び開けるまではほんの一瞬にしか感じられないとルターは教えています。

復活の日まで亡くなった方がただ安らかに眠っているだけというのは、この世に残された側にしてみれば寂しいものがあると思います。そうしたら、今起きていて目を覚まして自分たちのことを見守ってくれる者がいなくなってしまうではないか、と。それが、キリスト信仰ではちゃんと今起きていて目を覚まして見守ってくれる方がいるのです。誰かと言うと、天と地と人間を造られた神がそれです。神は、今この世を生きている者だけでなく、この世から離れて今安らかに眠っている方も同様に造られた方で、その神が私たちを見守って下さるのです。誰でも最愛の人に先立たれたら悲しみのどん底に突き落とされます。そういう時、日本では一般に、亡くなった方が天国から見守ってくれるという思いが励ましになっています。キリスト信仰では、見守りは自分の造り主である神がしてくれて、亡くなった方に関しては復活の日に再会できるという希望が励ましになっています。

それでは、復活の新しい命と体を与えられた者が迎え入れられるという神の国、天国とはどういうところかについて、聖書に沿って少し具体的にみてみましょう。黙示録21章3-4節に次のように記されています。「神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目から涙をことごとく拭い取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」つまり天国とは、この世で私たちの身に降りかかっていた苦難や害悪を、もうこれで涙は流さなくてもいいんだよ、というくらいにまで神が全てを清算してくれるところです。天国はまた、黙示録19章7、9節で盛大な結婚式の祝宴にたとえられます。それは、新しい天と地のもとでは、以前生きていた世の労苦を全て労われるということです。そして、神のもとに永遠にいることになるので、死というものがありません。

 それでは、このような天国に行けるために、なぜイエス様という光がなければならないのでしょうか?それは、私たち人間の状態が、神と永遠に一緒にいられる状態にはないからです。創世記3章に堕罪の出来事が記されています。最初の人間が神に対して不従順に陥って罪を犯したために、人間は死ぬ存在となってしまいました。神聖な神と神に造られた人間の間に深い断絶が生じてしまいました。人間は自分の力でこの断絶を埋めることはできません。なぜなら、そうするためには人間は神と同じくらい神聖な存在にならなければならないからです。この神との断絶をそのままにしておくと、人間はこの世から死んだ後、永遠に造り主から離れ離れになります。そうなると、天国での完全な清算からも完全な労いからも永遠に遠ざけられてしまいます。そればかりか、黙示録20章やマタイ25章に出てくる永遠の火に投げ込まれてしまうかどうかという問題も迫ってきます。

しかしながら神は、人間が永遠に自分のもとに戻ることができるようにと、つまり人間がそれくらい神の目に相応しいものになれるようにと、そのための手筈を全て整えて下さいました。どのようにしてかと言うと、ひとり子イエス様をこの世に送り、全人類分の罪と不従順の罰を全て彼に負わせて、私たちの身代わりとして十字架の上で死なせたのです。人間に向けられていた罰は全部イエス様が吸収・消化してしまったので、人間からすれば誰か他人の犠牲で罰を帳消しにしてもらえる状況が生まれました。それだけでなく神は、一度死んだイエス様を復活させて、今度は死を超えた永遠の命に至る扉をも人間のために開いて下さいました。

このように神は、イエス様を用いて人間のために「罪の赦しの救い」を用意して下さいました。この知らせ ― この良い知らせを福音と呼びますが、これを聞いた人が、これらのことは全て自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様は自分の救い主と信じて洗礼を受けると、人間はこの「罪の赦しの救い」を自分のものとして受け取ることができるのです。そして、その人は永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩み始めることとなり、神との結びつきを回復した者として、順境の時にも逆境の時にも絶えず神から良い導きと助けを得られるようになり、万が一この世から死ぬことになっても、その時は永遠に自分の造り主のもとにもどることができるようになったのであります。

もし、イエス様という光を持たなければ、誰も目的地がどこにあるか見えません。また、そこに到達する道も見えません。全てが闇の中です。ヨハネ14章6節で、イエス様は自分のことを、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と言われますが、まさにその通りなのです。

 

2.イエス様は人間を照らし出す光

以上、イエス様が光であると言う時、それは神の国、天国という目的地とそこに至る道を私たちに照らしてくれる光という意味があることをお教えしました。もう一つの意味があることを忘れてはなりません。それは、ヨハネ1章9節で言われるように、人間を照らし出す光という意味です。人間を照らし出してどうするのかと言うと、人間に宿る罪や神への不従順を白日の下に晒すということであります。

人間に宿る罪や不従順というものは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けたキリスト信仰者といえども免れていません。キリスト信仰者とは、イエス様が持っている神の義という純白な衣を頭から被せられただけの者なので、実はまだ内側に罪と不従順を宿したままなのです。神を全身全霊で愛すること、隣人を自分を愛するが如く愛することが神の神聖な御心であると知っていながら、この内在する罪と不従順のためにそうしないことがよく起こります。けれども、そのたびに悔い改めの心を持って罪の告白をすれば、神は私たちに被せられているイエス様の純白の衣を見て、「この者は私が整えた救いをしっかり受け取っている」と確認して、私たちを赦して下さいます。まさにこのために、毎週行われる礼拝のはじめに罪の告白と罪の赦しの宣言があるのです。

このように罪の告白と赦しの宣言を繰り返しながら、私たちは永遠の命に至る道を歩みますが、ここには実に内面の戦いが不断に続きます。かたや、肉に結びつく古い人が悪魔と組んで、「神を全身全霊で愛さなくてもいい。隣人を自分を愛するが如く愛さなくてもいい」とそそのかし、そのようになってしまった時には、「それをわざわざ神に打ち明ける必要はない」とたぶらかし、私たちと造り主との関係をどんどん引き裂いていきます。この引き裂きを通して、私たちが造り主である神から独立した存在のように見せかけ、やがてはさも造り主など存在しないかのように、人間が自分こそ自分の主人であると錯覚させていきます。

これに対して、洗礼の時に植えつけられた聖霊に結びつく新しい人は、「神を全身全霊で愛すること、隣人を自分を愛するが如く愛することは、神が望んでおられることである」と知っており、もしそれに反してしまった場合には、すぐ神の方に向き直って赦しを乞わなければならないとわかっています。このように新しい人は、造り主である神に従属して、神との結びつきの中で生きていくことを志向します。この内面の戦いは苦しい戦いですが、私たちには、十字架の上で罪と死の力を無にし全てに勝利した主イエス様が常についていて下さることを忘れないようにしましょう。

このように、イエス様の光が私たちを照らし出すというのは、人間の真の姿を晒しだしながら、私たちが神との結びつきの中で生きられるようにするためであることが明らかになりました。先週の主日の福音書の箇所にあったヨハネ3章21節で、イエス様は「真理を行う者は光のもとに来る。それは、その人の行いが明るみに出て、それが神に導かれてなされたことが明らかになるためである」と言われていました。先週の説教でも申し上げましたが、「真理を行う」というのは、まさに、自分の罪と不従順を神の前に晒しだし、悔い改めの心を持って光のもとに行き、そこで罪の告白をし、罪の赦しを得ること、これが「真理を行うこと」です。「ヘブライ人への手紙」4章15節には、罪の赦しという恵みの王座の前に勇気を持って進み出ること、これが、神から憐れみと恵みを受けて、時宜にかなった助けを頂けるために必要なことである、と言われています。キリスト信仰者の生きる力の源は、こうした「罪の赦しの救い」を土台とする神との結びつきにあると言えましょう。

 

3.どうしたら人々をイエス・キリストという光のもとに導けるか

 以上みてきたように、私たちは、イエス・キリストという光に照らされて、神の国、天国への道を誤らずに進むことができ、かつ自分の真実の姿を神に晒しだすことで神との絆、罪の赦しの絆を日々強めることができます。ヨハネ12章47節で、イエス様は、自分の教えの言葉を聞いてそれを守れない人がいても、そのような人を裁くのではなく救うのだと言われます。私たちが、神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するが如く愛するようになるというのは、そうしないと罰せられるからという恐怖心からそうするのではありません。そうではなくて、「罪の赦しの救い」を頂いたことによる感謝から、そうするのです。これが、本日の旧約の日課の中で言われていた「神の律法が心に記された」(エレミア31章33節)ということです。心に記されていなければ、律法は単に私たちの外部にある規則でいやいや守るものにとどまります。ところが心に記されると、律法は私たちの心身の一部になり、守ることが当たり前のようになります。しかし、しょっちゅう守れない自分に気づかされて、それで罪の告白と赦しの宣言が必要となるのです。このようにキリスト信仰者は、イエス様の教えの言葉を受け取って、また神からも赦しを受け取って、日々イエス・キリストという光に照らされながら、この世を生きていくのであります。

ところが、こうした生き方と反対の生き方もあります。ヨハネ12章48節で言われるように、イエス様という光自体を拒否し、彼の教えの言葉を受け取ろうとしない者がいます。その場合は、天国に行く道が照らされないので、そのような人にとって人生はただこの世だけで終わるか、または続きがあるとしてもそれは闇の世界です。また、自分の真実の姿を晒し出すこともしないので、自分の行い、思い、考え、発する言葉が造り主の意思とどれくらい離れているか知る由もないし、知りたくもない。そうなると、自分の主人は自分自身という自分中心の生き方になります。

 神が人間の救いを整えられ、そのためにイエス様を救い主としてお送りになったのに、なぜ人間は信じないで闇にとどまることを選ぶのでしょうか?本日の箇所の初めの方にある40節で、ヨハネ福音書の記者ヨハネは、ユダヤ人がイエス様を信じなかったのは、神がそうさせなかったからだと言います。「神は彼らの目を見えなくし、その心をかたくなにされた。こうして、彼らは目で見ることなく、心で悟らず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。」ギリシャ語の原文はもっと強い調子で、「彼らが目で見ることがないように、心で悟らないように、立ち返らず、わたしが彼らを癒すことがないように、そのために神は彼らの目を見えなくした云々」です。

これは、イザヤ書6章10節にある神の言葉の引用です。引用元をみると、裁きの調子はもっと強く、「この民の心をかたくなにし、耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく、その心で理解することなく、悔い改めていやされることのないために」となっています。イザヤ書では、神は預言者イザヤに、これから出て行ってイスラエルの民の心をかたくなにせよ、目が見えないようにせよ、と命じます。ヨハネ福音書の引用では、心のかたくなさや目の見えなさは、もう実現されたことになっています。いずれにしても、人が神を信じないのは神がそうさせないようにするからだ、と言っているように見えます。もしそれが本当なら、イエス様を救い主と信じない人が出るのは神がそうさせないからということで、不信仰はその人のせいではなくて神のせいということになります。そうなれば、神が人を信じないようにさせておきながら、そういうふうになった人を裁いて、天国に行けないようにするというのはなんという理不尽なことかということになります。

しかしながら、イザヤ書6章10節はそれだけ取り出してみるべきではなく、同書のもっと広い文脈と神のその言葉が出た歴史的状況とをあわせて理解する必要があります。預言者イザヤが神のこの厳しい裁きの託宣を受けたのは、紀元前700年代の後半ユダ王国の王ウジヤが死んだ年です(イザヤ6章1節)。ウジヤ王の次にヨタム王が即位します。列王記下によると、ウジヤ王とヨタム王の二人の王自身は神の目に正しいことを行ったとのことですが(列王記下15章34節)、国民の方はどうかというと、200年程前にさかのぼるレハブアム王の時代に異教の神崇拝をまねて国内各地に高台が築かれてアシェラ像なる像に生け贄を捧げることが始められ、天地創造の神の怒りを招くこととなりました(列王記上14章22-24節)。この高台での生け贄の捧げはユダ王国の伝統となってしまったのです。イザヤの時代にもこれは続けられ、ウジヤ王もヨタム王も生け贄の高台は廃止できませんでした(列王記下15章35節)。歴代誌下には、ヨタム王の時代の国民は「依然として堕落していた」と記されています(27章2節)。ヨタム王の次に即位したアハズ王はついに王自らこの高台の生け贄を推進する者となってしまいます(列王記下16章3-4節)。

 このようにユダ王国の王と国民は、若干の王を除いて神の意思に背き続けていました。イザヤ書1章をみると、イザヤが活動し始めた頃のユダ王国の社会の混乱ぶり、道徳の退廃ぶり、そのくせ宗教的な行事や礼拝は外面的には守り続けている欺瞞性を糾弾する神の言葉が記されています。預言者イザヤが6章10節にある神の裁きの託宣を受けた時、彼はその目で神の姿を目撃してしまいます。彼はその時、汚れた唇を持つ民の中に住み自ら汚れた唇を持つ自分は神聖な神を見てしまった以上、自分は消滅してしまう、と恐れおののきます(イザヤ6章5節)。

つまり、神が民の心をかたくなにせよ、目が見えないようにせよ、と命じたのは、心が清い無垢な民の心をかたくなにすることでも、目が見える民の目を見えなくすることでもなかったのです。既に心がかたくなになっていて目が見えなくなっていた民に対して、もう何度言っても無駄だ、救いようがない、そんなに心をかたくなにしていたいのなら勝手にするがよい、そんなに目が見えないのが好きなら勝手にそうするがよい、と突き放したのであります。

神は、人間が再び造り主である御自分のもとに永遠に戻ることができるようにと、イエス様を用いて人間のために救いを整えられました。人間に対して、さあ、この救いを受け取りなさい、と提供して下さっているのです。救われるために人間がすることと言えば、それを受け取るだけです。イエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ受け取りは完了です。しかし、どうぞと提供されて、いりません、と背を向けて受け取りを拒否した場合は、神はそのままにされます。拒否した人が自分の道をそのまま行くのにまかせます。しかし、神は、拒否した人に対して、それならもう提供なんかしてやるもんか、というスケールの小さいことは言いません。その人が考え直して受け取りに来る日を待っているのです。本当に受け取りに戻ってきたら、あの時拒否したくせに、などと嫌味になることもありません。戻ってきてくれたことを本心から喜んで下さるのです。その時の神の本心からの喜びがどのようなものであるかは、イエス様の有名な「放蕩息子」(ルカ15章11-32節)のたとえに出てくる父親が息子の帰宅をどれほど喜んだかを思い出していただければ十分でしょう。

 先週の説教でも教えたところですが、私たちも、できるだけ多くの人が、神の整えられた救いを受け取ることができるように祈り、かつその受け取りを助けてあげることができるような知恵と力を、神に祈り求めていきましょう。もし、愛する肉親や隣人がまだ救いを受け取っていないのであれば、キリスト信仰者としては受け取ってほしいと願うのが本当でしょう。もし相手の方が、結構です、とか、他でやって下さい、という態度なら、まず、父なるみ神にお祈りして今の状況を説明して助けをお願いすることから始めます。先週申し上げたお祈りの一例をまた繰り返します。「天の父なるみ神よ、どうか、私にとって大事なあの人も、あなたとの結びつきを回復できて、その結びつきを持ってこの世を生きられ、永遠にあなたのもとに戻ることができるように、イエス様を救い主と信じることができるようにして下さい。そのために、もし私が福音を伝える適任者とお思いでしたら、伝える機会をお与えください。私でなければ別の適任者を送ってください。もし、私に機会をお与えになる場合は、しっかり伝えられるようにあなたからの知恵と聖霊の導きをお与えください。」

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

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<p>主日礼拝説教 四旬節第五主日
4月22日の聖書日課  ヨハネ12章36b-50節、エレミア31章31-34節、エフェソ3章14-21節</p>
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説教「不信仰から信仰への軌道修正」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書3章13-21節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1. はじめに 

  東日本大震災から4年の年月が経ちました。先週は東京にいる私たちも、本当に新たに立ち止まって被災した方々や犠牲者の遺族の方々そして今なお避難生活を送っている方々の悲しみや苦労を心に留める1週間になりました。私たちを立ち止まらせた出来事と言えば、このところ残酷な殺人事件が相次いだこともあります。どれだけ多くの人の心を痛め立ち止まらせたかは、例えば多摩川の河川敷に置かれた花束の数からも明らかでしょう。あわせて東京大空襲から70年たったということで、その関連のニュースもあり、生存者の方たちの語りや出来事の惨さを伝える記録写真に、やはり心の立ち止まりを覚えた人が多かったのではないと思います。

 このような時勢では、キリスト教会の礼拝の説教に対して、自分は何を考えたらいいのか、何をしたらいいのか、という問いに対する答えが期待されるのではないかと思います。聖書の御言葉から何か指針になるような答えが得られるのではないか、説教者が聖句から答えを導き出してくれるのではないか、と。しかしながら、聖書の御言葉というものは、今それを聞いている人たちが直面する問題や課題に直接的な答えや解決を出してくれるような、打ち出の小槌やアラジンの魔法のランプではありません。むしろ、御言葉というものは、イエス様にしろ預言者にしろ、最初に口にした時から始まって、それが聖書の形に文書化された時を経て、その後100年たった後でも1000年たった後でも2000年たった今もずっと変わることのない神の意思が貫かれているものです。そうした普遍的なものを説教者は明らかにしなければなりません。そして、その普遍的なものを聞いて確認した会衆は、今度はそれをもとにして自分の問題や課題、または自分が生きる同時代の問題や課題に向き合っていく、そういうものだと私は考えます。

そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、今日の世界にいて日本にいて東京の中野にいて、自分は何を考え何をすべきか、という問いは、一先ずこの礼拝の間は脇に置いて、まず人間に対する神の意思はそもそも何であったか、それを本日の御言葉を通して確認しましょう。それを終えてから私たちの日常に戻って、自分自身の課題または同時代的な問いに取り組んでいっても遅くはありません。

 本日の福音書の箇所は、イエス様の時代のユダヤ教社会でファリサイ派と呼ばれるグループに属するニコデモという人とイエス様の間で交わされた問答の一部です。ニコデモについて、新共同訳聖書では「ユダヤ人たちの議員」と訳されていますが、彼は間違いなく当時のユダヤ民族の最高意思決定機関である最高法院の議員だったのでしょう。ファリサイ派というのは、神に選ばれた民であるユダヤ民族が神聖さを保てるということに非常にこだわったグループでした。神殿祭司を中心とするサドカイ派と呼ばれるグループが別にありますが、いろいろな意味でこの二つは対称的なグループでした。ファリサイ派の人たちは、モーセ律法だけでなく、それから派生して出来た清めに関する規則も厳格に遵守することを唱え、自らそれを実践していました。

イエス様が歴史の舞台に登場して、数多くの奇跡の業と権威ある教えをもって人々を集め始めると、ファリサイ派の人たちも付きまとうようになります。一体、この男は群衆に何を吹き込もうとしているのか?あの男が律法や預言に依拠しているのは明らかだが、何かが違う。一体あいつの教えは何なんだ、という具合でした。イエス様に言わせれば、神の前での清さ、神聖さというのは表面的なものではない。内面を含めた全人格的な清さ、神聖さでなければならなかったのです。例えば、「殺すな」というモーセ十戒の第五の掟は、実際に殺人を犯さなくても、心の中で他人を憎んだり見下したりしたら、もう破ったことになる(マタイ5章22節)というのです。「姦淫するな」という第六の掟は、実際に婚姻外の性関係を持たなくても、心の中でそれを描いただけで破ったことになるとイエス様は教えたのであります(同5章28節)。こうした教えは、イエス様が私たちに無理難題を押し付けて追い詰めているというのではありません。十戒を人間に与えた神の本来の意図はまさにそういう深い所にあるのだと、神の子として父の意図を人々に知らせていたのであります。

全人格的に神の掟を守っているかどうかということが基準になると、人間はもはや本質上、神の前で清い存在になることは不可能です。それなのに、人間が自分で規則を作って、それを守ったり、また修行をすれば清くなれると信じて、自分にも他人にも課すのは滑稽なことです。イエス様は、ファリサイ派が情熱を注いでいた清めの規則を次々と無視していきます。当然のことながら、ファリサイ派のイエス様に対する反感・憎悪はどんどん高まっていきます。

ところで、ファリサイ派のもともとの動機は純粋なものでしたから、中には、今のようなやり方で本当に神の前の清さ神聖さは保証されるだろうか、と疑問に思った人もいたでしょう。本日の福音書の箇所に登場するニコデモは、まさにそのような自省する心を持ったファリサイ派だったと言えます。3章2節にあるように、彼は「夜に」イエス様のところに出かけます。ファリサイ派の人たちが日中にイエス様に向き合うと、たいてい批判や非難を浴びせかえけるだけでしたので、夜にこっそり一人で出かけるというのは意味深です。ニコデモはイエス様から、人間の霊的な生まれ変わりについて、また神の愛や人間の救いについて教えを受けます。その後、ニコデモはファリサイ派がイエス様に対して抱く敵意に距離を置き始めます(7章51節)。イエス様が十字架刑で処刑された後、亡骸を引き取って手厚く埋葬することに奔走しました(19章39節)。

本日の箇所は、イエス様とニコデモの間に交わされた人間の救いについての問答の一部ですが、その中にある3章16節は特に大事な聖句です。なぜかというと、この聖句には、旧約聖書と新約聖書の双方にまたがって聖書全体を貫く神の人間救済計画の趣旨が要約されているからです。ルター派教会が国教会的な地位にあるフィンランドでは、教会に属する中学2年生の子供たちの9割近くが10日から2週間に及ぶ堅信礼教育を受けます。そこでの課題の一つに多くの聖句を暗記することがあります。ヨハネ3章16節はその筆頭です。次にこのヨハネ福音書3章16節について見ていきたいと思います。

 

2. ヨハネ3章16節

  それでは、聖書全体を貫く神の人間救済計画の趣旨が詰まっているというヨハネ3章16節をみてみましょう。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

 この聖句が理解できるためには、「滅び」とは何か、「永遠の命」とは何かがわからなければなりません。創世記3章に有名な堕罪の出来事があります。悪魔の誘惑の言葉が決め手となって、最初の人間が神に対して不従順となって、その命に罪が入り込んでしまい、それ以後人間は死ぬ存在となってしまいました。人間を造られた神聖な神とその神に造られた人間との結びつきが切れてしまったのです。この結びつきが切れた状態をそのままほうっておけば、人間はただ滅びるだけです。この世でどんなに栄えて栄華を誇っても、この世から死んだ後で、自分を造られた神と永遠に離れ離れの状態に陥ります。これが「滅び」です。神と永遠に離れ離れになる状態がどんなものかを理解するには、これと正反対である永遠に神のもとにいることができる状態、つまり「永遠の命」がどんなものかをみてみるのが良いと思います。それがわかれば、神と永遠に離れ離れの状態、つまり「滅び」とはその逆のことだとわかるからです。

 黙示録21章3-4節に次のように記されています。「神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとく拭い取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」これは、今ある天と地が新しい天と地にとってかわるという、まさに今のこの世が終わる日に、神が死んだ者のうちで御心に適う者を復活させて復活の命と体を与えて御許に迎え入れる時のことを言っています。そこに迎え入れられた者たちは、以前生きていた世で身に降りかかっていた全てのことが清算されて、もう涙は流さなくていい、重荷は負わなくてもいい、そういう完璧な安心安堵の状態に置かれるということです。そこに招き入れられる者たちは、黙示録19章で婚礼の祝宴に招かれた者と呼ばれます(7、9節)。それは、新しい天と地のもとで彼らが以前生きていた世の労苦を全て完全にねぎらわれるということです。彼らは、神のもとに永遠にいることになるので、彼らにはもう死は及びません。

そこで今度は、永遠に神から離れ離れになる滅びの状態をみていきますと、それは今言ったことと全く逆のことになります。まず、永遠の命に与れないので、死んだ後も以前生きていた世の悲しみ、嘆き、労苦やそれらの原因が解消されず引きずられ、涙を拭われることも労苦をねぎらわれることもありません。加えて、第二の死の危険が彼らを待ち受けています。マタイ福音書25章でイエス様は、悪魔とその手下たちを焼き尽くすために永遠の火が準備されていると述べていますが、人間のうちある者たちが最後の審判の日にその火に投げ込まれてしまう危険があると警鐘を鳴らしています。この同じ火は、黙示録20章でも出てきます。まず殉教したキリスト信仰者を中心とするグループが死から復活させられてキリストのもとに迎え入れられます(20章4-6節)。それ以外の者たちについては、「命の書」という神の記録があって、以前生きていた全ての人間の生き様が記録されています。神はこれに基づいて一人ひとりの行先を決めます(12節)。そのうちの誰が永遠の火に投げ込まれ誰が投げ込まれないかについては述べられていません。ひとつ明確に言われていることは、この「命の書」に名前が載られていない者がいて、彼らは即、火に投げ込まれるということです(15節)。この永遠の火があるところは第二の死と呼ばれて(14節)、そこに投げ込まれたらが最後、昼も夜もなく永遠に焼かれることになり(10節)、この第二の死というのは永遠に続く死であります。

以上みたように、人間はこの世から死んだ後、もし自分の造り主である神のもとに戻れなければ、このような悲惨が待っているということを聖書は教えているのです。最近のキリスト教会ではこういうことを言うのは控えて、明るく楽しいことだけを言わなければいけないという雰囲気があるようですが、「こういうこと」を見ないと神がどうして愛と恵みに満ちた方なのかがわからなくなります。つまり、神は、堕罪で生じてしまった人間との断絶を悲しみ、自分の方からそれを解消してあげよう、人間が自分との結びつきを持ってこの世を生きられるようにしてあげよう、万が一この世から死んでも、その時は永遠に自分のもとに戻れることが出来るようにしてあげようと決めたのです。「自分の方からしてあげよう」と言うのは、先ほども見ましたように、罪を内に持っている人間は神の意思を全人格的に100パーセント満たすことが出来ない、救いに関しては全く無力な存在だからです。人間の側のこの行き詰まりを打開するために、神はひとり子のイエス様をこの世に送られました。人間の罪から来る罰を全て身代わりにイエス様に負わせて、十字架の上で死なせ、人間の罪の償いをさせたのです。イエス様が人間の罪を全て十字架の上に運んで行って一緒に断罪されたことで、罪が持っていた力、人間が神との結びつきを持てなくしようとする力は無力にさせられました。そして、神がイエス様を三日目に復活させられたことで、死を超えた永遠の命に至る扉が人間に開かれました。人間が罪の支配から解放される可能性が打ち立てられたのです。

このように神は、人間が永遠の滅びから永遠に神のもとに戻れるようにするという救いを、イエス様を用いて全部自分で整えてしまいました。救われるために私たち人間がすることと言えば、この神が整えた救い、「罪の赦しの救い」をそのまま受け取ることだけです。これらのこと全てはまさにこの私のためになされたのだとわかって、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けることで、この受け取りは完了します。先ほど読んでいただいた使徒書の日課「エフェソの信徒への手紙」の2章8節に、救いは人間の力によるのでなく神からの贈り物であると言われていましたが、まさにその通りなのであります。

ヨハネ3章16節にもどりましょう。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」天地創造の後で起きた堕罪が原因で、人間を造られた神と造られた人間の間に断絶が生じてしまい、人間は永遠に神のもとに戻れず滅びに向かう存在になってしまいました。神と人間の結びつきを回復して人間が永遠に神のもとに戻れるようにしようと、神はひとり子のイエス様を用いて人間の救いを実現されたのです。ここに神が私たち人間をいかに愛しておられるかが明らかになります。このように、ヨハネ3章16節には、旧約新約全聖書を貫く神の人間救済の意思、言い換えれば神の愛が要約されているのであります。

 

3. 不信仰から信仰への軌道修正

  以上みてきたように神は、人間にかわって人間のために人間の救いを整えられました。あとは人間の方でそれを受け取ればよいだけとなりました。救いを受け取るとはどういうことかと言うと、神はこれらのことをこの私のためにイエス様を用いてなさって下さったのだとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることです。しかし、人間はみんながみんなこの救いを受け取るとは限りません。なぜこの救いを受け取らない人がいるかと言うと、ひとつには、この神の整えられた救いについてまだ知らされていないということがありましょう。それだからこそ、福音の伝道が必要なのであります。しかしながら、救いを知らされても、それを受け取らない場合もあります。なぜ受け取らないかというと、ひとつの理由として、死んだ後の命など考えるのは馬鹿馬鹿しいと言って現世中心の考えで生きることがあります。もう一つの理由は、死んだ後の命を考えることはしても、聖書で教えるのと異なる考えをするという場合があります。異なる宗教を持つことがそれです。現世中心主義の考え方や異なる宗教があるために神の救いを受け取らないというのは、かたや非宗教的かたや宗教的と全く対称的でありますが、イエス・キリストを救い主と信じないという点では共通しています。そこで、本日の箇所の後半部分(18-21節)で、イエス様はこのキリスト不信仰について教えますので、次にそれを見てみましょう。

ヨハネ3章18節でイエス様は、彼を信じる者は裁かれないが、信じない者は「既に裁かれている」と言われます。これは一見、イエス・キリストを信じない者は地獄行きに定められていると言っているように聞こえ、キリスト不信仰者はきっと、これこそキリスト教の独りよがりだと憤慨するでしょう。ここで注意しなければならないことがあります。もちろん、人間には善人もいれば悪人もいます。しかし、先ほども申し上げたように、人間は堕罪以来、自分を造られた神との間に深い断絶ができてしまっている。これは善人も悪人も同じです。みんながみんな代々死んできたように、人間は代々罪と不従順を受け継いでいるのです。みんながみんな、この世から死んだ後は永遠に神から離れ離れになってしまう危険に置かれている。しかし、イエス様を救い主と信じることで、人間はこの滅びの道の進行にストップがかけられ、永遠の命に向かう道へ軌道修正されるのです。イエス様を救い主と信じなければ何も変わらず、堕罪以来の滅びの道を進み続けるだけです。これが、「既に裁かれている」という意味です。従って、それまで信じていなかった人が信じるようになれば、それで軌道修正がなされて、「既に裁かれている」というのは過去のことになります。

3章19節では、「イエス・キリストという光がこの世に来たのに人々は光よりも闇を愛した。これが裁きである」と言っています。神はイエス様をこの世に送り、彼を用いて、「こっちの道を行きなさい」と救いの道を整えて下さいました。それにもかかわらず、敢えてその道に行かないのは、「既に裁かれている」状態を自ら継続してしまうことになってしまうのです。

3章20節では、人々がイエス・キリストという光のもとに来ないのは、悪いことをする人が自分の悪行を白日のもとに晒さないようにするのと同じだ、と言います。これなども、キリスト不信仰者からみれば、イエス様を信じない者は悪行を覆い隠そうとする悪人で、信じる者は善行しかしないので晴れ晴れとした顔で光のもとに行く人、そう言っているように見えて、キリスト教はなんと独善的かと憤慨するところだと思います。しかし、それは早合点です。まず、キリスト信仰者と不信仰者の違いとして、不信仰者の場合は、人間の造り主を中心にした死生観がありません。だから、自分の行いや生き方、考えや口に出した言葉が、自分の造り主に全てお見通しという考えがありません。そもそも、そういうことを見通している造り主を持っていません。

キリスト信仰者の場合は逆で、自分の行い、生き方、考え方、口に出した言葉は常に、造り主の意図からどれだけ離れているかが問題になります。結果はいつも離れているので、そのために罪の告白をして、イエス様の身代わりの犠牲に免じて神から赦しをいただくというプロセスに入ります。毎週礼拝で行っている通りです。これからも明らかなように、イエス様は「信じる者は善行しかしないので晴れ晴れとした顔で光のもとに来る」などとは言っていません。3章21節を見ればわかるように、イエス様のもとに来る者は、善行を行うのではなく、「真理を行う」のであります。「真理を行う」というのは、自分自身について真の姿を造り主に知らせる、ということです。善行もしたかもしれないけれど、罪と不従順の結果もあわせて一緒に白日に晒すということです。私は全身全霊をもって神を愛しませんでした、また自分を愛するが如く隣人を愛しませんでした、と認めることです。それで、以前であれば滅びの道を進む者でしかなかったのが、今はイエス様を救い主と信じる信仰のおかげで救いの道を歩むことが許されるのであります。つまり、キリスト信仰者は自分の罪と不従順を神の目の前にさらけ出すことを辞さないのです。そのために悔い改めの心を持って光のもとに行き、そこで罪の告白をし、罪の赦しを得ます。これが「真理を行う」ということです。キリスト信仰者が光のもとに行くのは、こういう真理を行うためであって、なにも善行が人目に付くように明るみに出すためなんかではありません。そういう「罪の赦しの救い」の中で生きるキリスト信仰者が行うことは、3章21節に言われているように「神に導かれてなされる」ものとなります。善行も自分の力と能力の産物でなくなり、神の影響力があってなせるものとなり、人間は神の前で自分を誇ることができなくなるのです。

翻ってキリスト不信仰者は、そういう自分をさらけ出す造り主を持たないので、イエス・キリストという光が来ても、光のもとに行く理由がありません。(イエス様を信じなかったユダヤ人は、もちろん天地創造の神を崇拝してはいますが、イエス様を光とみなさないので、光のもとへは行きません。)しかし、これは、造り主の側からみれば、滅びの道を進むということであり、そこから人間を救い出したいがためにイエス様をこの世に送られたのでした。しかしながら、キリスト不信仰者は世界にまだ大勢います。さらに、一度イエス様を救い主と信じたにもかかわらず、それがはっきりしなくなってしまった人たちも大勢います。人間を救いたい神からみれば、これはゆゆしき大問題であります。本日の箇所のはじめの方で(14節)イエス様は、民数記21章のモーセが青銅の蛇を旗竿に掲げた出来事について述べます。毒蛇にかまれて死に瀕したイスラエルの民がこの旗竿の蛇を見ると皆、助かったという出来事です。イエス様は自分にも同じことが起きると預言されます。つまり、十字架に掲げられた自分を信じる者は、滅びから救われて永遠の命を得ると言うのであります。モーセの時は、かまれた人は皆、必死になって掲げられた旗竿の蛇をみました。しかし、掲げられたイエス様をそのように必死に仰ぐ人はまだ少数です。毒が体に回るという緊急事態に比べたら、滅びの道から永遠の命の道に軌道修正するというのは、緊急なものに感じられないかもしれません。しかし、造り主から永遠に離れ離れになるか、造り主のもとで永遠にいることになるか、これは重大な岐路であります。どうしたら、このことを多くの人に気づいてもらえるでしょうか?私たち一人一人は天地創造の神に造られた者でありながら、神との間には断絶が生じてしまっている、しかし、イエス様を救い主と信じることで断絶は解消し、永遠に造り主のもとに戻ることができるようになる、ということを。このために、私たちキリスト信仰者は何ができるでしょうか?何をしなければならないのでしょうか?

しなければならないことは、はっきりしています。イエス・キリストの福音をとにかく宣べ伝えることです。これは、2000年近くたった今も、これからも変わりません。ただ具体的に何をすればよいのか、という段になるといろいろ考えなければならないことがあります。宗教一般、特にキリスト教に疑いや反感を持っている人たちは、宣べ伝えに貸す耳など持っていないでしょう。しかし、もしそのような人が愛する肉親や隣人なら、キリスト信仰者としては、同じ救いを受け取ってほしいと願うのが本当でしょう。もし相手の方が、結構です、とか、他でやって下さい、という態度なら、まず、父なるみ神にお祈りして状況を説明し助けをお願いすることから始めます。「天の父なるみ神よ、私にとって大事なあの人も私同様、あなたに造られた者です。どうかあの人も、あなたとの結びつきを回復できて、その結びつきを持ってこの世を生きられ、永遠にあなたのもとに戻ることができるように、イエス様を救い主と信じることができるようにして下さい。そのために、もし私が話をするのが良いとお思いでしたら、その機会をお与えください。その時は、しっかり話ができるようにあなたの知恵と聖霊の導きをお願いします。」このような祈りを日々のお祈りに加えることから始めていくのが良いでしょう。そうすると、祈るあなたも、相手の方との関係において新しい段階に移動させられます。本当にお祈りは、祈る人に予想を超える展開をもたらす手段です。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン


主日礼拝説教 四旬節第四主日
3月15日の聖書日課  ヨハネ3章13-21節、民数記21章4-9節、エフェソ2章4-10節


3/14の家庭料理クラブの報告

今回の家庭料理クラブは「ジャガイモのリエスカ」と「キャベツのスープ」を作りました、
春の花がまっ盛りなのに、北風が吹く寒い日でしたので、
暖かいスープは、丁度よいメニューになりました。

ジャガイモのリエスカとキャベツのスープ家庭料理クラブは最初にお祈りをしてスタートします。
リエスカ用のジャガイモを茹で、スープに使う大量のキャベツや野菜類は、
大鍋でグツグツ煮えています。
今回のリエスカは、ジャガイモのムースに、ライ麦粉や小麦粉を加えた家庭の味、
ドロドロの生地を薄く伸ばす作業に、皆さん悪戦苦闘しましたが、
焼き上がりは、とてもきれいで、美味しいリエスカが出来上がりました。ジャガイモのリエスカパン、フィンランド

パイヴィ先生からは、フィンランドの野菜事情やリエスカの成り立ちなどや、
イースター復活祭の前の受難節の季節は「断食の季節」とも言われ、
スープとパンのシンプルな食事は、丁度合うメニューと教えていただきました。

次回4月11日の家庭料理クラブは、「レモンクリームのプッラ」を予定しています。~

ジャガイモのリエスカとキャベツのスープ

 

 

説教「キリスト信仰者の心意気」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書2章13-21節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1.      はじめに 

 本日は、「キリスト信仰者の心意気」という題で説教を行っていきたいと思います。「キリスト信仰者の心得」ではなくて「心意気」です。本日の旧約聖書の日課には十戒がありましたので、「心得」の方が説教すべき事柄ではないかと思われるかもしれません。しかし、本日の福音書の日課に目を向けると、少し事情が違います。福音書の方は、キリスト信仰者たる者、これこれのことをせよ、かくかくのことはしてはならない、という神の掟に縛りつけることはしません。むしろ、人間がイエス様を自分の救い主と信じると、その人の心の有り様が変わっていき、神の掟は縛らなくとも守って当然という雰囲気になっていきます。本日は、そのようなキリスト信仰者の心の有り様、それを「心意気」と言って、見ていきたいと思います。

キリスト信仰者の心意気とは何かと言うとき、イエス様が本日の福音書の箇所で自分のことを神殿であると言っていることが鍵になります。ヨハネ福音書の記者ヨハネが21節で注釈していますが、イエス様は「神殿」という言葉に建物としての神殿と、自分の体の二つの意味を持たせています。壊された後の三日目に起こされる神殿とは、十字架の死から復活したイエス様を指す、ということです。どうして復活したイエス様が新しく建てられる神殿なのか、このことがわかると、キリスト信仰者の心意気もわってきます。以下、このことを見ていきましょう。

 

2.新しい神殿としての復活したイエス様

まず、復活したイエス様が新しい神殿であるというのはどういうことなのかを見ていきましょう。

 本日の福音書の箇所の出来事の背景として過越祭があります。それは、イスラエルの民がモーセを指導者として奴隷の国エジプトから脱出したことを記念する祝祭です。この祝祭の主な行事として、酵母の入っていないパンを食べるとか、羊や牛を神に捧げる生け贄として屠ってその肉を食することがありました。紀元前600年代のユダ王国のヨシア王の時代に生け贄を屠る場所はエルサレムの神殿のみと定められました(申命16章1-8節、列王下23章21-23節、歴代誌下35章1-9節)。それで、それ以後、特にバビロン捕囚以後の第二神殿期には、過越祭になると世界各地のユダヤ人の巡礼者がエルサレムに集まるようになります。もちろん、過越祭の時以外でも神殿では、「焼き尽くす献げ物」、「和解の献げ物」、「贖罪の献げ物」等々(レビ1-4章)、日常的に捧げる生け贄もありましたから、神殿には羊や牛がほとんど常に売買用に用意されていたでしょう。鳩が売られていたと言うのは、出産した母親が清めの儀式の捧げ物に鳩が必要だったからです(レビ12章)。イエス様を出産したマリアもこの儀式を行ったことがルカ福音書に記されています(2章24節)。両替商がいたと言うのは、世界各地から巡礼者が集まりますので、献げ物を購入したり神殿税を納めるために通貨を両替する必要がありました。

 このようにイエス様の時代のエルサレムの神殿は、礼拝者や巡礼者が礼拝や儀式をスムーズに行えるよういろいろ便宜がはかられてマニュアル化が進んでいたと言えます。ただし、その便宜を購入する元手がなければできないのは言うまでもありません。このような金銭と引き換えの便宜化、マニュアル化した礼拝・儀式は、表面的なものに堕していく危険があります。つまり、型どおりに儀式をこなしていれば自分は罪の汚れから清められたとか、神様に目をかけられたとか、そういう気分がして自己満足になってしまいます。自分の生き方そのものが神の御心に適っているかどうかという自己吟味がないがしろにされます。あわせて、罪のゆえに損なわれた神と人間の関係を修復したり、また罪そのものを赦したりすることができるのは神しかいないのに、形式的に儀式をこなせば神は修復してくれたり赦してくれたりして当然だというような、傲慢な態度も生まれてきます。実際、イスラエルの預言者たちは、イエス様の時代の遥か以前から、生け贄を捧げ続ける礼拝・儀式の問題性を見抜いて警鐘を鳴らしていたのです(イザヤ書1章11-17節、エレミア書6章20節、7章21-23節、アモス書4章4節、5章21-27節など及びイザヤ29章13節も)。

イエス様自身も、神殿での礼拝・儀式が表面的なものであること、偽善に満ちていたことを見抜いていました。イエス様は、本日の箇所に記されているように神殿の境内で大騒ぎを引き起こしました。どうして彼が激怒したかと言うと、本来ならばユダヤ民族をはじめ全世界の人々が礼拝に来るべき神聖な神殿(イザヤ56章7節、マルコ11章17節)が、金もうけを追求する場所になり下がってしまったことが原因でした。イエス様は、神殿を「わたしの父の家」と呼び、自分が神の子であることを人々の前で公言しました。すると当然のことながら、現行の礼拝・儀式で満足していた人たちから、「このようなことをしでかす以上は、神の子である証拠を見せろ」と迫られるのであります。その時のイエス様の答えは、「神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」(ヨハネ2章19節)でした。「建て直す」という言葉は、原文のギリシャ語では「死から復活させる」という意味の動詞(エゲイローεγειρω)が使われています。本当ならば神殿というのは、人間が神への不従順と罪を赦していただき罪の汚れから清めてもらう場所、そうして神との関係を修復する場所として存在しなければならない。なのに、それが現行のものでは見かけだおしで機能しなくなってしまった。それゆえ、それにとってかわる新しい神殿が建てられなければならない。そこで、十字架の死から復活するイエス様が、まさにその新しい神殿になる、というのであります。それでは、その新しい神殿とは、どんな神殿でしょうか?

復活したイエス様が神殿になるというのは、次のようなことです。創世記3章に記されているように、最初の人間が神に対して不従順に陥って罪を犯したために、人間は死ぬ存在となって神との結びつきを失ってしまいました。しかし、神の方では、自分が造って命と人生を与えてあげた人間なのだから、なんとかして自分との結びつきを回復してあげよう、自分との結びつきを持ってこの世を生きられるようにしてあげよう、そしてこの世から死んでも、その時は永遠の命を持つ者にして永遠に自分のもとに戻って来られるようにしてあげよう、と決めました。ところが、人間は不従順と罪の汚れを代々受け継いでしまっており、それが神聖な神と人間の結びつきの回復を妨げている。そこで神は、不従順と罪から生じる罰を全て一括して自分のひとり子イエス様に負わせて、ゴルゴタの十字架の上で死なせたのであります。つまり、罪や不従順と何の関係もない神のひとり子に全人類分の罰を身代わりに受けさせて、全人類分の罪を償わせたのです。イエス様は文字通り、犠牲の生け贄になったのです(第一コリント5章7節、ヘブライ9-10章)。

イエス様の犠牲は、それまでの牛や羊などの動物を用いた生け贄のように毎年捧げてはその都度その都度、神に対する罪の償いをするものではありませんでした。イエス様の犠牲は、一回限りの生け贄で全人類が神に対して負っている全ての罪の償いを果たすものだったのです。洗礼者ヨハネがイエス様を見て、世の罪を取り除く神の小羊だと言いますが(ヨハネ1章29節)、まさにその通り、イエス様は犠牲の生け贄の小羊、しかも一度の犠牲で以前の犠牲をすべてご破算にし、以後の犠牲も一切不要にする(ヘブライ9章24-28節)、完璧な生け贄だったのです。

イエス様の十字架の死は、犠牲の生け贄ということだけにとどまりません。イエス様が全人類の罪を十字架の上まで背負って運ばれ、罪とともに断罪された時、罪が持っていた力も一緒に滅ぼされたのです。罪の力とは、人間が神と結びつきを持てないようにしようとする力、人間が自分の造り主のもとに戻れないようにしようとする力、そういう人間を自分の支配下に置こうとする力です。その力が無力にされたのです。あとは、人間の方がイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、人間は罪の支配下から脱して神との結びつきをもって生きることが出来るようになります。その時、その人は罪の支配下から神のもとへ買い戻された、贖われたと言うことが出来ます。その人を買い戻すために支払われた代償が、神のひとり子イエス様が流した血だったのです。

このようにキリスト信仰者とは、神に対する罪の償いを全部してもらい、罪の支配力から贖われた者ですが、そうは言っても、罪や神への不従順に陥る危険にはいつも遭遇します。それでは、もしキリスト信仰者が罪や不従順に陥ってしまったらどうなるのか?イエス様の身代わりの罪の償いは台無しになってしまうのか?その人は罪の支配下に戻ってしまったことになるのか?いいえ、そうではありません。もしその人がすぐ我に返って父なるみ神に、「私の身代わりとなって死んだイエス様に免じて赦して下さい」と願い祈れば、神は、本当にイエス様の身代わりの犠牲に免じて赦して下さるのです。それくらいイエス様の犠牲は完全なものなのです。こうして、その人はまた永遠の命に向かう道に戻ることができ、歩み続けることができます。このように罪と不従順に陥っても、イエス様がしてくれた罪の償いと罪からの贖いにしっかり踏みとどまれば、神のもとに買い戻された状態はそのままです。神との結びつきは決して失われません。こういうわけで、十字架の死を遂げて復活したイエス様というのは真に、人間の罪の赦しを完全に実現し、神との結びつきを永遠に回復してくれる神殿中の神殿、まさに究極の神殿なのです。

 

3. キリスト信仰者の心意気 - 「罪よ、お前は私に相応しくない」

それでは、このような神殿を持つキリスト信仰者、その神殿の中で生きるキリスト信仰者の心意気とはどのようなものかを見ていきましょう。

本日の旧約の日課は十戒でした。最初の掟から三番目を見ると、聖書の神以外を神として崇拝してはならない、とか、偽りと不正に結びつけて神の名を唱えてはならない、とか、安息日を安息日として守らなければならない、という内容でした。それらは、神と人間の関係を律する神の掟です。四番目から最後までは、両親を敬え、殺してはならない、性関係を無秩序にしてはならない、盗んではならない、他人を貶めることを言ってはならない、他人に属するものを妬んだり狙ったりしてはならない、という内容で、それらは人間と人間の間を律する神の掟です。人間と人間の間を律すると言っても、神の掟ですので、破った場合は、人間に対して害を与えただけでなく、神に対しても罪を犯したことになるのです。

話はここで終わりません。イエス様は、有名な山上の説教の中で、たとえ人殺しをしていなくても心の中で相手を罵ったり憎んだりしたら同罪である(マタイ5章21-22節)、また淫らな目で女性を見ただけで姦淫を犯したのも同然である(マタイ5章27-30節)と教えられるのです。つまり、外面的な行為に出なくとも、心の中で思ったたけで、掟を破った、罪を犯したということになるのです。全ての掟がそのようなものであるならば、一体人間の誰が十戒を完全に守ることが出来るでしょうか?誰も守れる者はありません。このように十戒とは、人間に守るようにと仕向けながら、人間は守れない自分に気づかされるという、人間の真実を神の御前で照らし出す鏡のようなものなのです。

神聖な神の意思がこのような完全さを要求するものであれば、それに対して人間はどうするでしょうか?掟をちゃんと守れないので天罰を下されてしまうと恐れて神から逃げようとするか、またはこんな人間の本性を理解できない神の方がどうかしていると反感を抱いたり憎んだりするか、のいずれかでしょう。しかし、いずれをとっても、神に背を向けて生きることには変わりありません。

ところが、イエス様という神殿を持つキリスト信仰者は、神から逃げることもなく、神に反感を抱くこともなく、神に向き合って生きています。それは、信仰者が神の掟を内面的にもしっかり100パーセント守る汚れなき存在だからではありません。そうではなくて、イエス様という別のお方が自分を犠牲にしてまで私たちに代わって罪の償いをしてくれたこと、そして自分を身代金のようにして私たちを罪の支配下から神のもとへ買い戻して下さったこと、これらのおかげです。信仰者自身はまだ罪あり汚れありの状態ですが、罪なき汚れなきイエス様が覆いかぶさっていて下さるので、神の御前に立つことができます。イエス様がしっかり手を繋いでくれて、または腕を組んでくれているので、それで神の方も信仰者をイエス様の友だちか兄弟のように受け入れて下さるのです。

ただ、そのように受け入れられている信仰者にとって、自分の内側に残っている罪はバツが悪いものです。というのは、神聖な神は罪の汚れを憎み、それを目にしたら焼き尽くさずにはおられない方なのに、イエス様のおかげで自分は大丈夫でいられるからです。ここで、以前は罪があるから自分は神に相応しくないという自覚だったのが、今度は、イエス様のおかげで神に相応しいものにかえてもらった以上は、罪の方こそ自分に相応しくないという自覚に変わります。その時、神の掟や神の意思というものは自分の分身のようになり、それらは守って当然という心意気になっているのです。

しかしながら、先ほども申し上げたように、人間は神の掟を100%守ることはできない。そのため信仰者と言えども自分の罪に気づかされるのであります。しかし、罪の告白をして罪の赦しの宣言を受けると、その人は再び神の方に向き直って永遠の命に至る道を歩み始めます。自分は罪を残しているのに神に受け入れられている者なので、罪の方こそ自分に相応しくないという自覚が戻り、神の掟が自分の分身のようになって守るのが当然という心意気になります。しかしまた100%守れないで、自分の内に宿る罪に気づかされ、罪の告白をし赦しの宣言を受ける。そこでまた、自分は神に受け入れられていることを確認する。こうしたことが、この世から死ぬ時まで何度も何度も繰り返されます。まさにルターが教えているように、キリスト信仰者が完全なものになるのは、私たちがこの世から死んで、罪を宿した肉が朽ち果てる時なのであります。キリスト信仰者が自分は罪を赦された者だと言いながら、なぜ毎週のように礼拝で罪に告白をし赦しの宣言を受けるのを絶えず繰り返すのかというのは、まさにこうしたことのためなのです。

 

4. キリスト信仰者の心意気 - 雲の上の太陽を知っている

イエス様という神殿を持ち、その中に生きるキリスト信仰者は、全ての罪を償われ、罪の支配下から贖われて、自分の造り主である神との結びつきを回復した者であります。そして、永遠の命に至る道を今歩んでおり、この世から死んだ後は、自分の造り主である神のもとに永遠に引き戻されて生きる者であります。

 神と結びついて永遠の命に至る道を歩んでいるとは言っても、この世の人生の歩みがバラ色になったということではありません。もちろん、いばらの部分も出てきます。無病息災、家内安全、商売繁盛は誰しもが願い求めるものです。しかし、キリスト信仰者になったからといって、病気にならないとか、愛する人に先立たれないとか、貧乏にならないとか、そういう保証は全くありません。人生の道のりでいばらの部分の割合は、キリスト信仰者であってもそうでなくてもそう変わらないのではないかと思います。否、キリスト信仰者の方がいばらの部分の割合が高いのではないかと思わせる事例も多くあります。そうなると、「なんでまた好き好んでキリスト教なんかやっているんだ」と呆れ返られるかもしれません。しかし、キリスト信仰者には、人生の歩みについて、他の人とは目の付け所が違うところがあって、そのためにキリスト教でいいのだという心意気があるのだと思います。

それでは、キリスト信仰者は人生の歩みについて目の付け所が違うと言う場合、何が違うのかというと、次のことが考えられます。健康にしろ、愛する人にしろ、財産にしろ、これを失ったら人生お終いと思ってしまうような大事なもの、そうしたものを失っても、それでも絶対に失われないものが一つ自分にはある、ということをわかっていることです。その失われないものとは、神がイエス様を用いて実現された「罪の赦しの救い」です。その救いは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで、私たちは自分のものとすることができました。神はひとり子をこの世に送り、彼を身代金として私を罪の支配下から贖い出して下さって、私との結びつきを回復して下さった。その結びつきに生きる私は、詩篇23篇の終わりのように、永遠に神のもとに住む場所を目指してこの世の旅路を歩んでいる。こうした救いは、この世で何が起きようとも、修正も変更もなく全くそのままです。

キリスト信仰者の心意気の一つの特徴は、自分には神から受け取った救いがあるため、どんな時にもどんな状況に置かれても神に感謝する理由があるということです。こう言うと、キリスト信仰者は、不治の病になった時も、愛する人を失った時も、財産を失った時も、悲しまないで、神に感謝しているのかと訝しがられるかもしれません。そうは言っておりません。悲しみは悲しみとして悲しまなければなりません。悲しみのプロセスを通り抜けないと新しい出発ラインには進めないからです。この通り抜けには、信頼できる人の支えを受けられることが大事というのは言うまでもありません。こうしたことは、宗教に関係なく心理学的にも一般に言われていることです。

ここでキリスト信仰の観点を付け加えるならば、悲しみという暗闇が全てを覆いつくすような時でも、どこかに闇が及ばない片隅がしっかり残っているということです。それが先ほどから申し上げている、神がイエス様を用いて実現された救いということであります。片隅とは申しましたが、本当は重く垂れこめた雲の上に燦然と輝いている太陽と言ったほうが正確だと思います。キリスト信仰者は雲の下の暗い大地を見て悲しんでいますが、雲の上の太陽に思いを馳せる部分が心の中にしっかり打ち立てられている者であると言ってよいと思います。そのため、全てを失って悲しみに暮れようとも、神に感謝するものは残っているというのであります。

以上、キリスト信仰者とは、イエス・キリストという究極の神殿を持ち、その中で生きているということ、そしてその心意気というのは、罪に対して、お前は私に相応しくない、と冷たくあしらうことができるということ、また、暗雲の下にいてもその上で燦然と輝く太陽を忘れない人のように、どんな状況に置かれても神に感謝する大切なものを忘れないということを申し上げました。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

主日礼拝説教 2015年3月8日 四旬節第三主日の聖書日課 ヨハネ2章13-21節、出エジプト20章1-17節、ローマ10章14-21節 

説教「仕える者になりなさい」木村長政 名誉牧師、マルコによる福音書10章32~45節

今日の礼拝は受難節第二主日であります。イエス様は、弟子たちをつれて、いよいよエルサレムへと向かって進んで行かれます。それは、十字架の死に向かっての道です。

32節を見ますと、「一行がエレサレムへと上がって行く途中イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き従う者たちは恐れた」。この時イエスは12人の弟子を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。つまりご自分の十字架の死と復活の予告をされたのです。その予告はこれで三度目であります。

第一回目は、マルコ福音書では8章31節にあります。31節「それからイエスは人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥され殺され三日の後に復活することになっている。と、弟子たちに教え始められた。」

 この時の弟子たちの反応は、ペトロが代表して「イエス様をわきにお連れして、いさめられた。」とあります、するとイエス様はペテロをしかって言われた。「サタン。引き下がれ、あなたは神のことを思わず人間のことを思っている」この場面でのイエス様と弟子たちとのやりとりが一番正直でリアルなところです。イエス様が突然死ぬと言うことを言い出されていますから、もうびっくりでしょう。また、イエス様の本心が一番あらわにストレートに表されています。「サタンよ、引き下がれ!」と大声でしかっておられる。つまり、これはペテロではなく、もうサタンとの戦いである、と言うことです。

イエス様の十字架の死によって、サタンは勝利を得たようですが、イエス様は三日目によみがえられると言う復活の出来事でサタンを滅ぼしイエス様は勝利されました。

さて、2回目の告知はマルコ福音書9章30節にあります。この時弟子たちの反応はどうか、と言いますと32節にあります「弟子たちは、この言葉がわからなかった。怖くて尋ねることすら出来なかった。」と簡単に記されています。そして、今日の聖書では、イエス様も真剣になって弟子たちに三度目に告げられました。その時イエス様の思いは、第一はサタンとの戦いです。そして、ご自分の十字架に向かわれる戦い。更にどうしても十字架の死を受けねばならない事を充分に知らせることでした。この、どうしようもない弟子たちに、これから後、全世界へ向かって福音宣教を任せていかねばならない。

この、重大な課題を受け継がせていくこと。もう、時間がないのです。神様から与えられた責任が重くのしかかっています。

弟子たちへの福音宣教の命令です、ご自分は十字架の死で終わるのだ。しかし、よみがえる。この復活の意味も、また弟子たちにとうてい理解できない事であqったでしょう。

これらの全部の思いが32節以下で言われていることです。「一行がエレサレムへ上がって行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。」とあります。エレサレムに向かって行かれる、その先にはすぐに自分も生涯の終わり死が迫っている。その、凄まじいまでの覚悟の姿に弟子たちは驚き恐れています。そして、イエス様は自分の身に起ころうとしていることを、打ち明けられます。これは重大な宣告です。33節「今、わたしたちはエレサレムへ上がって行く。人の子は祭司長や律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告し異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打った上で殺す。そして、人の子は三日の後にふっかつする。」十字架による処刑の死に至る凄まじいリアルな出来事が起こることが告げられています。このことを聞いても弟子たちが即座に理解できるような内容ではない。なぜ、あの奇跡を起こされる主が十字架の処刑にされるのか、とても、とても理解できることではありませんでした。イザヤ書53章に次のように予言されています。「私たちの聞いたことを、誰が信じえようか・・・・彼は軽蔑され人々に見捨てられ多くの苦しみを負い病を知っている。・・・彼が刺し貫かれたのは、私たちの咎のためであった。」

イエス様は、これからエレサレムで起こることをご自分で知っておられ、かくぜんと、しかも孤独のうちに、その茨の道を進んで行かねばならない。この道は、父なる神の遠大なるご計画であります。逃げようと思えば、いくらでも逃げられる道であろうに、なぜ敢えてエレサレムの苦難の道を行かれるのか。イエス様の、この世に来られた十字架の苦難が神から与えられた使命であったからでしょう。ガリラヤでの数々の奇跡の業、権威ある教え、これらも、すべてが十字架に至る伏線であったのです。イエス様のご生涯はベツレヘムの馬小屋からエジプトへの逃亡に始まって、すべて十字架に向けられて歩まれて行ったのです。マタイ福音書16章34節の、み言葉です。「わたしについて来た者は、自分を捨てて、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。自分を捨て!

自分の十字架を背負って従いなさい!と言われます。わたしたちは、なんと自分を捨てきれない、自分にしがみついていることでしょうか。なんとか自分だけは楽な、得をする、ところで過ごせたらいい・・・・。そうした人間の罪にまみれたものを象徴する姿を35節以下であらわしています。

イエス様の悲壮な十字架の苦難お予告された後、弟子のヤコブとヨハネがイエス様に頼むのです。「主よ栄光をお受けになる時、私共の一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」と願った、というのです。イエス様の十字架の死をもって、人間のすべての罪を購って、神の救いがなされようとする、この局面にヤコブとヨハネの人間的な欲望の次元の低い願いがだされた、ということです。あの世における出世欲の願い出あります。聖書は人間の罪深さをありのままにあらわします。私共の人間の救いがたい、惨めさがここにあらわれているのです。9章33節でも、イエス様の受難の話しをされた後、弟子たちの間で「誰がいちばん偉いか」という議論をし合っています。わたしたちは自分の生活をすなおに顧みてみると、自分の思いや、自分の欲望、プライドで満ちています。表面上はりっぱな「信仰」という言葉を言いながら、結局は自分の立場や自分の安全を考えています。これはヤコブやヨハネだけでなく、他の弟子たちも同じでしょう。

イエス様は愚かなヤコブとヨハネの願いに対しても答えられています。38節から40節にあります。そうした後で大切な教えを、弟子たち一同に話されました。43節「あなた方の中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になりなさい。一番上になりたいものはすべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく、仕えるために、また多くの人の身代金として、自分の命を献げるために来たのである。」神の御子は多くの人の身代金として命を献げられたのです。これが、どんなに重い意味を含んでいることでしょうか。誰でも大なり小なり、いろんな自分の十字架を負っています。人には言えない、心の重荷というものを持っているでしょう。その重荷となっているものを、自分を捨て、自分の欲もプライドも捨てて、十字架のイエス様に預けてしまいなさい。そうすると、イエス様の十字架の死と復活が本当の力となり新しい命につながって、神のみ国の命に生かされて行くのであります。

最後にペテロはローマ人への手紙6章3~4節で次のように記しています、それを見ましょう。「それとも、あなた方は知らないのか。キリスト・イエスに結ばれるために、洗礼を受けた私共が皆、またその死に預かるために洗礼を受けたことを。私たちは洗礼によって、キリストと共に葬られ、その死に預かる者となりました。それは、キリストが御父の栄光によって、死者の中から復活させられたように私たちも新しい命に生きるためなのです。」

どうか、望みの神が信仰から来る、あらゆる喜びと平安とを、あなた方に満たし聖霊の力によって、あなた方を望みにあふれさせて下さるように。 アーメン 

 

 

四旬節第二主日

子供料理教室の報告。2月28日、フィンランドの丸パンを作りました。

2月最後の土曜日、天候にも恵まれて子供料理教室を開くことが出来ました。今回の参加者は子供4人、子どもの料理クラブ、東京、中野区大人4人。小さなクループでしたが、アットホームな雰囲気で楽しい一時を持つことができました。最初にお祈りをして料理教室はスタート。この日の献立はフィンランドの丸パンです。

みんなで一緒にパン生地を作りました。子供たちも頑張って生地を捏ねました。「おもちみたい!」生地が手にくっつきますが、一生懸命捏ね続けると、次第に手から離れ、こうして生地ができました。生地を少し置いて膨らませた後、みんなで生地をちぎって小さく丸めました。みんな丸め方がすぐ上手になりました。丸めた生地をもう一度置いて膨らませてから、オーブンに入れて焼きました。

パンを焼いている間、みんなで子供讃美歌を歌ったり、「イエス様が5つのパンと2匹の魚で5千人の人たちのお腹をいっぱいにした」という聖書のお話をフランネル劇で観ました。神様は私たちが思っている以上のものを与えて下さいます。皆さん、神様に感謝することを忘れないようにしましょう。 

子どもの料理クラブ、東京、中野区が終わる頃、焼きたてのパンの香りが拡がってきました。テーブルのセッティングをして、いただきます。ある人は野菜を挟んで、別の人はマーガリンを塗るだけで召し上がります。みんな、焼きたてのパンは美味しい、美味しいと言っていました。

子どもの料理クラブ、東京、中野区イーストで発酵させたパンを作るのは、子供たちにとって良い経験になったでしょう。

次回の子供料理教室は4月の初めに予定しています。詳しい案内は追ってお知らせします。どうぞHPをご覧下さい。

 

説教「悪魔の攻撃、イエス様の勝利、天使の見守り」神学博士 吉村博明 宣教師、マルコによる福音書1章12-13節

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1. キリスト教会の暦は、この間の水曜日から四旬節に入りました。本日はその最初の主日礼拝です。いつも申し上げているところですが、教会の暦というものは、月日や季節の移り変わりを通しても私たちに父なるみ神の愛と恵みを思い起こさせてくれるものです。ですから、教会の暦を覚えながら日々を生き過ごすことは、私たちの信仰生活や教会生活にとってとても大事です。

 本日の福音書の箇所は、イエス様の荒野での試練についてです。この出来事は、マタイ福音書とルカ福音書では詳細に記述されていますが、マルコ福音書ではたったの二節しかありません。荒野の試練の時、イエス様にはまだ弟子がおらず一人でしたので、目撃者がおらず、この出来事はイエス様が後に弟子たちに語られたものと考えられます。マタイ福音書とルカ福音書には詳細に語られたものが伝承されて記載されましたが、マルコ福音書には要約された形のものが伝承されて記載されたと言えます。たった2節だけから説教をしなければならないというのは、少し酷な感じもしますが、しかしよく考えてみると、ルターだったら、仮に1節しかなくても1時間位は説教できたでしょう。しかも、その内容ときたら聖書のことばかりです。これは驚くべきことです。というのは、説教者の中には、自分の思い出話を語ったり、また自分が読んで感銘を受けた本の紹介をして会衆と感動を分かち合うことを通して、上手く時間を埋める方もいらっしゃいます。もちろん、思い出話や読書感想がその日の聖句をしっかり解き明かすものであれば問題はないのですが、私としてはルターを見習って行きたいと思います。

さて、話をもとに戻します。本日のマルコ福音書の記述は要約された形ですが、それでも、マタイ福音書やルカ福音書にはないことが含まれていますので、それを見てみましょう。

 「イエスは40日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。」この新共同訳の訳ですと、イエス様は40日の間、サタンから誘惑を受けたと同時に、野獣とも一緒におられ、さらに同時に天使たちに仕えられた、という具合に、いろんな出来事が同時に入り混じっています。原文のギリシャ語の文がわかりそうでわかりにくい形なので、そんな訳になってしまったのでしょう。そこで、マタイ福音書の記述を見ると、天使が来てイエス様に仕えるのは、イエス様がサタンの誘惑を受けてそれを撃退した後に起きるという順番です(マタイ4章11節)。

そこで、これを踏まえてマルコの記述をわかりやすくすると、次のようになります。「イエスは荒野で40日間、悪魔から誘惑を受けられた。その後、野獣のただ中にいたが、天使たちに仕えられていた。」新共同訳にある「野獣と一緒におられた」というのは、野獣と仲よく暮らしたみたいですが、ここではそうではなく、荒野で野獣のただ中という危険な状態に置かれたということです。日本語で「~と一緒に」と訳されているギリシャ語の言葉(μετα)は「~の間に、~の中に」とも訳すことができるからです。ちなみに、フィンランド語とスウェーデン語の聖書では「野獣のただ中に」です。ルター版のドイツ語訳は「野獣のところに」、英語のNIVは日本語と同じ「野獣と一緒に」でした。

さてイエス様は、荒野で野獣のただ中という危険な状態に置かれたが、天使たちに仕えられ守られたので何も危害は及ばなかったのであります。荒野の野獣というのは、目に見える具体的な危険です。天使というのは、人間同様、神に造られたものですが、普通は人間の目には見えない霊的な存在です。つまり、イエス様は悪魔からの誘惑の後も、見に目える危険な状態に置かれたが、目には見えない霊的な守りのなかにあり、危害は何も及ばなかったということです。このように理解すると、この13節の野獣の危険と天使の見守りというのは、ただ単に荒野の出来事だけでなく、その後イエス様が置かれていった状況全般を指しているとも考えられます。つまり、野獣のような危険な敵対者に何度も遭遇するが、目には見えない天使という霊的な守りの中にあったということです。

マタイ福音書とルカ福音書の記述では、イエス様が悪魔からどんな試練を受け、どうそれに打ち勝ったかということが詳しく記されていますが、その後の野獣の危険と天使の見守りについては何も触れられていません。このことについては、本説教の終わりの方で明らかにしていこうと思います。まずは、イエス様が悪魔からどんな試練を受けて、それにどう打ち勝ったのかということについて、マタイとルカの記述に基づいてみることとします。

 

2.マタイとルカの記述によると、イエス様は、40日間飲まず食わずの状態で悪魔から誘惑を受け続け(特にルカ4章2節)、最後に三つの誘惑を受けます。そのうちの二つは、「お前が神の子なら、石をパンにかえて、空腹を満たしてみろ」というのと、「お前が神の子なら、エルサレム神殿の屋根の上から神殿の背後にまっさかさまに切り落ちている谷に向かって身を投げて、天使に助けさせてみろ」というものでした。イエス様は多くの人の不治の病を治したり、自然の猛威を静めたりする奇跡を行える神の子です。だから、パンを石に変えたり、谷に身を投げて天使に飛んできてもらうことなど容易に出来たはずです。それなのになぜ、これらのことをせず、あえて凄まじい空腹を選ばれ、また目のくらむような高い所にとどまることを選んだのでしょうか?

それは、もしそうしていれば確かに神の子としての力を見せつけることができたでしょうが、しかしその瞬間、イエス様は悪魔が命令したからこれらのことをした、ということになってしまい、これらの奇跡を行った瞬間に悪魔の意思に従うことになってしまうからです。悪魔がやれと言ったからやったことになってしまうのです。凄まじい空腹や危険の恐怖という弱みにつけこんで、どうだ、そこから逃れたいだろ、お前が神の子ならわけないだろ、それとも逃れられないのか、だったらお前は神の子でもなんでもないんだ、というように、苦しみからの逃れと神の子であることの証明を結びつけて自分の意思に従わせようとしたのです。ここまで追い詰められ言われたら普通はやるしかありません。しかし、イエス様は悪魔の言う通りにはならないということを貫きました。たとえそれが空腹と恐怖の中に留まることを意味しようとも。

 三つ目の誘惑は、イエス様に世界の国々とそれらの豪華絢爛を全て見せた上で、もし俺にひれ伏せば、これらを全部お前にやろう、というものでした。しかし、イエス様はこれにも応じませんでした。この誘惑をはねつけたことは、先の二つに増して、私たち人間の救いにとってとても重要な意味を持ちました。というのは、イエス様は、この荒野の試練の直前にヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を授かったばかりで、その時、神から聖霊を受け、また神の子であるとの認証を神から受けていたのです(マルコ1章10-11節)。もし、その神の子が悪魔にひれ伏してしまったならば、神の子が受けた神の霊もひれ伏したことになります。こうして神と同質である神の子と神の霊が悪魔よりも下であれば、もはや神そのものも悪魔にひれ伏したのも同然で、そうなれば天上でも地上でも地下でも悪魔より強い者は存在しなくなってしまいます。しかし、そうはなりませんでした。イエス様は、豪華絢爛などいらない、だからお前にひれ伏すこともしない、ときっぱり拒否したのです。こうして天上でも地上でも地下でも神の権威は揺るぐことなく保たれました。実に際どかったと言えます。

 

3.それでは次に、イエス様はどのようにして悪魔の誘惑に打ち勝ったかをみていきましょう。結論から申しますと、三つの誘惑をはねつけて悪魔を退散させるのに、イエス様は聖書(旧約)の神の御言葉を武器に用います。

 まず、「神の子なら、石をパンに変えて空腹を満たしてみろ」という誘惑に対しては、イエス様は申命記8章3節の言葉をもって誘惑を無力にします。その箇所の全文はこうです。「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」出エジプト記のイスラエルの民は、シナイ半島の荒野の40年間、まさに飢えない程度の食べ物マナを天から与えられて、神のみ言葉こそが生きる本当の糧であることを身に染みて体験するのであります。従って、この申命記の言葉は空虚な言葉ではなく実体のある真実の言葉であります。もし、悪魔が空腹の満たしのような人間の最も基本的な必要に訴えて私たちを自分の言いなりにしようとしたら、私たちはこの申命記の言葉を突き出すことで悪魔に対して次のように反論することができます。「悪魔よ、私の空腹が満たされることも満たされないことも全てはみ神次第である。満たされる時も満たされない時も私の命は神の御言葉を拠りどころとして立つ。だから、悪魔よ、お前は私の空腹の問題解決には何の関係もないのだ。」

次に、悪魔がイエス様に神殿の上から飛び降りて天使に助けさせてみろと誘惑した時、今度は巧妙にも聖書の御言葉を使います。それは詩篇91篇11-12節「主はあなたのために、御使いに命じてあなたの道のどこにおいても守らせてくださる。彼らはあなたをその手にのせて運び、足が石に当たらないように守る」という箇所です。神の御言葉にそう言われているのだから、その通りになるだろ、だから飛び降りてみろ、と言うのであります。それに対してイエス様は、申命記6章16節をもって誘惑を無力にします。それは、こういう箇所です。「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない。」この「マサにいたときにしたように」というのは、出エジプト17章にある出来事で、イスラエルの民が荒野で飲み水がなくなって、指導者モーセに不平不満を言い始め、神に水を出すよう要求した事件です。実にシナイ半島の荒野の40年間、イスラエルの民は困難に遭遇するたびに、すぐ神に不平不満をぶつけ早急に解決を求めました。彼らは、神の奇跡の業を何度も目にしてきているのに、新たな困難が生じる度に右往左往し、すぐ要求が叶えられないと神の権威と力を疑い、言うことを聞いてくれないなら、もう知らない、エジプトに帰ってやるからと、それこそ神の堪忍袋と言うか忍耐力を試すようなことばかりを繰り返してきました。申命記の6章で、イスラエルの民がやっとシナイ半島からカナンの地に移動するという時に、神は40年の出来事を振り返って、あの時のように「神を試してはならない」と命じるのです。

それでは、私たちは困難に直面したらどうすればよいのでしょうか?期待した解決がすぐ得られない時、どうすればよいのでしょうか?その時は、ただただ神に信頼して、神は必ず解決を与えて下さると信じ、また祈りを通して得られた解決が自分の意にそぐわないものでも、それを最上の解決として受け取る、それくらいに神を信頼する、ということです。この申命記6章16節の御言葉を用いたイエス様の生き方こそ、こうした神への深い信頼を示すものです。実は、このイエス様の神への深い信頼というものは、悪魔が誘惑用に使った詩篇91篇全体の趣旨だったのです。この篇の最初をみると次のように記されています。「主に申し上げよ、『わたしの避けどころ、砦。わたしの神、依り頼む方』と。神はあなたを救い出してくださる。仕掛けられた罠から、陥れる言葉から」(2-3節)。このような神に対する深い信頼がある限り、神の守りや導きを疑って神を試す必要は全くなくなります。悪魔は、詩篇91篇全体に神への深い信頼が貫かれていることを無視して、真ん中辺にある天使の守りの部分だけをちょこっと文脈から取り外してイエス様に投げつけたわけです。これなどは、“コピペ”(コピー・アンド・ペースト)の先駆けではないでしょうか?しかし、そんなやり方で真理と張り合えるなどと思うのは、愚の骨頂です。そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、私たちが本当の真理の上にしっかり踏みとどまれるように、日々の聖書の繙きと学びを怠らないようにしましょう。

さて、三つ目の誘惑「世界の支配権と豪華絢爛と引き換えに悪魔の手下になれ」に対して、イエス様は申命記6章13節の御言葉を突きつけて誘惑を無力にします。その御言葉は「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい」というものです。「神を畏れる」というのは、聖書の中で最も大切な教えの一つです。それは、神をまさに天と地と人間を造り、人間に命と人生を与えた創造主として仰ぐことです。そして、天においても地においても神より力ある者は存在しない、と敬うことです。たとえ、神の力が働いていないように見える時であっても、神の力が目に見えて働く時と同じくらいに、神は変わることなく全てに優る力を持つ方である、と恐れることです。神より力ある者は存在しないということは、神に敵対する者からすれば恐怖以外の何ものでもなく、そのような者は神から逃避しなければなりません。しかし、神との結びつきを持って生きる者からみれば、神以外には何も恐れるものはなく、神は全ての恐れから私たちを守って下さるので、私たちは神のもとにいて大きな安心を得ることができます。つまり、神に結ばれた者にとって神は、恐怖の的とか、逃避する相手ではなく、安心の源、とどまる場所なのであります。

悪魔の下に服して神に敵対するようになってしまったら、たとえこの世の支配権と豪華絢爛を手にしていても、それが何の安心になるでしょうか?たとえ、この世で権力と富を維持拡大できたとしても、神に敵対していれば、死んだ後は造り主から永遠に引き裂かれてしまい、永遠に止むことのない滅びの世界に投げ込まれます。そこには権力も富も持ち運ぶことはできません。しかし神との結びつきをもって生きる者は、死んだ後はそれこそ手ぶらで永遠に造り主のもとに戻ることができるのです。この世にいる時は安心の源から安心を得、次の世ではその源に戻ることができるのであります。このように神を畏れるということは、神との結びつきをもって今の世と次の世をあわせた一つの大きな人生を歩むということであります。それに比べたら、悪魔がやると言った権力や富はなんと小さなものでしょうか?そんなもののために神との結びつきを捨ててみろなどとは、なんと情けないことを聞くのでしょうか?

 

4.以上のように、イエス様は聖書にある神の御言葉を用いて、悪魔の誘惑を無力にしました。これからもわかるように、神の御言葉をしっかり携えていくことは、悪魔の攻撃を無力化するのにとても大事です。私たちも聖書の御言葉を日々の栄養にして摂取していきましょう。

さて、悪魔はイエス様のもとから退散しましたが、イエス様は今度は野獣のただ中にいて、天使に仕えられて守られた状態に入られました。これは、ユダヤの荒野にいた時の状況を指しているのか、それともその時から十字架の受難の道に入るまでの全ての状況を指しているのか、どっちを指すかということについては、ここでは決着をつけることはしません。どちらをとっても、この「野獣の危険と天使の見守り」というのは、よく見るとこれは、先ほども触れました詩篇91篇で言われていることの実現です。悪魔が愚かなコピペをした11-12節に天使の見守りについて言われており、それに続く13節に野獣の危険から守られることが言われています。11節から13節までを引用します。

「主はあなたのために、御使いに命じてあなたの道をどこにおいても守らせてくださる。彼らはあなたをその手にのせて運び、足が石に当たらないように守る。あなたは獅子と毒蛇を踏みにじり、獅子の子と大蛇を踏んでいく。」

悪魔から誘惑を受けている時のイエス様は、悪魔の魂胆を見抜いたので、天使を呼び寄せて自分を助けさせることはしませんでした。あたかも天使たちに次のように命じた如くです。「天使たちよ、お前たちは今は来なくて良い。私は神の御言葉で悪魔に打ち勝つから心配はいらない。もしお前たちが来たら、私が助かった瞬間に私は悪魔に従ったことになってしまう。」そして、イエス様は、見事に一人で悪魔に打ち勝ちました。悪魔が退散した後で、野獣の危険の中に入りましたが、今度は天使たちに来るのを許して仕えさせたのであります。ユダヤの荒野でも、またその後でガリラヤ地方にいた時も、いろいろな危険が身に迫りましたが、イエス様は天使に仕えられ守られていました。

ところが、十字架の受難が始まると、イエス様は守りが全くない状態に陥ってしまいました。イエス様が逮捕される時、弟子のある者が剣を抜いて官憲に抵抗しようとしました。これに対してイエス様は、剣をさやに納めろと命じて言いました。「わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は12軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう」(マタイ26章53-54節)。つまり、イエス様は天使の軍勢の助けを得られる可能性を持ちながら、あえてそれを用いず、逮捕されるにまかせたのです。なぜでしょうか?それは彼自身が言った通り、聖書の言葉が実現するためでした。それでは、聖書の言葉が実現するとはどういうことかと言うと、それは、父なるみ神が計画した人間救済計画を実現することです。神が計画した人間救済計画とは何か?それは、罪と神への不従順がもたらす永遠の死の滅びから人間を救い出すことです。この救いを実現するために、神のひとり子が私たちの身代わりとなって罪と不従順の罰を請け負い、十字架の上で死なれたのです。もしイエス様が天使の軍勢を呼び寄せて十字架の死を回避してしまったら、人間の救いは起こらなかったのです。それでイエス様は、あえて十字架の道を選ばれたのであります。ちょうど本日の福音書の出来事のように、本当は回避出来るけれども、悪魔の言いなりにならないために、あえて空腹と恐怖を選んだのと同じなのであります。

 

5.それでは、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けたキリスト信仰者の場合はどうでしょうか?神との結びつきがありますから、詩篇91篇に言われているように神に守られていると言えるでしょうか?例えば、ライオンと毒蛇を踏みつけて何事もなくて済むでしょうか?ここで一つ注意しなければならないことがあります。それは、自分がどれだけ神に守られているかを周囲にみせて驚かせてやろう、とか、「神様、あなたは私を助けてくれて当然でしょ」という気持ちでライオンと毒蛇を踏みつけたら、まずは助からないということです。なぜなら、それは文字通り神を試すことになるからです。

反対に、神を試すことをせず、周囲に見せつける意図も持たず、またどんな状況にあっても神は信頼するに値する方と信じて疑わない時、神は私たちの心からの助けの叫びを聞いて下さいます。ここでもう一つ注意しなければならないことがあります。それは、ライオンや毒蛇を誤って踏んでしまい、心から助けを求める時、奇跡が起こって助かる場合もありますが、奇跡が起きず助からない場合もあるということです。助からない場合があるとは、神は助ける力がなかったということでしょうか?

いいえ、そうではありません。そのことがわかるために、ここで、ダニエルと二人の友人が火の燃え盛る炉に投げ込まれる直前にバビロン帝国のネブカドネツァル王に対して言った言葉をみてみると良いでしょう。王は三人に対して自分の神々を拝むよう強要し、それを拒否されたために三人を炉に投げ込むことを決定しました。

「わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救って下さいます。そうでなくとも、御承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません」(ダニエル3章17-18節)。

ここで明らかなことは、ダニエルたちは、神は基本的には彼らを救う力を持っていると固く信じていることです。その時、「そうでなくとも」というのは、ひょっとしたら救ってくれない場合もあるかもしれない。しかし、それは神に力がないからでなく、神はなんらかの意図があって救わないということである。反対に神が救う場合も同じで、神はなんらかの目的をもって救う。それなので、救われた者は、これからは神について周囲の人々に証ししていかなければならなくなるでしょう。翻って救われなかった者については、神は、よくそこまで頑張った、もう十分だ、お前の労苦は必ず報いて労ってやろう、またお前が被った損害は百倍以上にして回復してやろう、今はただ、それが起きる復活の日まではゆっくり休んでいなさい、ということで、神はその人を一足早くこの世から導き出した、ということです。いずれにしても、イエス様を救い主と信じて神との結びつきを持って生きる者は、どっちに転んでも、神に見守られ天使の護衛をつけてもらっていることに何の変更もないのです。それで何があっても、神から見捨てられたなどと不安になったり心配になったりする理由も必要もないのです。

最後に、私たちを見守る父なるみ神は、私たちに天使の護衛をつけてくれているということを、ルターが教えていますので、それを引用して本説教の締めにしたいと思います。あるフィンランド人の宣教師が私に言っていたのですが、彼女が日本のあるルター派教会で天使について話しをしたところ、クスクス笑われてしまったそうです。へぇー、フィンランドのクリスチャンって、天使なんか信じているんですか、と。以下は私の言葉ではないので、私に笑わないで下さい。

「ヘブライ人への手紙1章14節」の御言葉「天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされたのではなかったですか」についてのルターの解き明し

「もちろん、神は、天使の仕えなしでも、我々を悪魔やその他のあらゆる苦難から直接守ることができる。しかし、神はそうせずに、被造物である天使をもって別の被造物である人間に仕えさせることに決められたのである。それゆえ我々としては、神は天使を通して我々を守り助けて下さるということを知るようにしよう。そして、そのような仕方で助けて下さる神に感謝しよう。神という方は、私たちが助けを必要としている時、どのような仕方であれ、助ける決意でいらっしゃるまさに命の神なのだから。

 しかしながら、もし我々が神の御言葉を心に留めず、神の父親的な見守りに感謝をしなければ、神は天使を自分のもとに留めてしまい、かわりに悪魔を送って悪に染まった我々が神の言うことを聞くようにと再教育するであろう。その時の惨めな状態といったらないであろう。我々が覚えていなければならないことは、神は悪魔の怒り狂う攻撃から我々を守り、我々に仕えるために愛すべき天使を造られたということである。この神の御心は、我々を勇気づけてくれる。天使は、親切で寛大で善意溢れる霊であり、悪魔の攻撃を撃退する時には、いつも我々のために身を投げ出してくれる。もう一つ忘れてはならないのは、神は一人のキリスト信仰者を守るために一人の天使を送るのではなく、大勢の天使を送って下さるということである。そういうわけで我々は、無信仰者のように何か守りがあった時はすぐ全ては偶然の産物だったなどと納得する生き方をしてはならない。例えば、誰かがあやうく溺れかかったところを助かったとか、大きな石が当たってもけがをしないですんだとか、そういうことが起こった時、運がよかったなどと言ってはならない。それは、愛すべき天使の仕業なのである。」

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン


主日礼拝説教 2015年2月22日 四旬節第一主日
2月22日の聖書日課  マルコによる福音書1章12-13節、創世記9章8節-17節、第一ペテロ3章18-22節